疲れた老馬を宿の裏の厩に引き入れる。
森を抜けるころまではなんとか走っていたが、獣よけの柵を越えるころにはもう、歩くのが精一杯だった。それでもなんとかアシュッツブルグの都城までたどりつき、今はシャーリィの宿にある。
「ロロ、後始末をたのむ」
老いた馬とはいえ、今のルルスには欠いてはならぬものだ。老いているからこそ、よく世話をしてやらなければならない。鞍を下ろし、水を飲ませ、脚を確かめてやらねばならぬ。
「ロロ!聞いているのか!」
返事が無いことにいらだって、ルルスは振り返った。
ロロは、厩の前でくつわをとって、ぼんやりと立っているだけだ。
「聞いているのか」
「はい!」
あわてたようにロロは顔を上げ、ルルスを見て応じる。
「ロロ」
歩み寄るルルスに、ロロはうしろめたげに身じろぎする。ルルスはそっと手を伸ばし、彼の頬についた汚れをぬぐった。乾いた血の跡は指先でこすっても落ちはしないのだけれど。
「どこか痛むのか」
「大丈夫です、どこも痛くありません、兄様」
ロロはそっとその手を上げて、ルルスの手をつかむ。
「そうか」
ルルスはうなずいた。
「頼りになるのはお前だけだ。私の力になってくれ」
「はい」
「頼むぞ」
「はい」
ルルスはロロに背を向けた。考えねばならぬことが多すぎる。
森の中の出来事だ。封じを作り、見張りを置き、ふさぐだけでなく見たものを許さぬあのやり方は、ただの野盗ではない。傭兵崩れでもない。崩れることなく軍律を保つものらだ。
ルルスは唇を引き結ぶ。これまでとは違うことがおき始めている。
「・・・ルル?」
不意の声に、ルルスは顔を向けた。その姿を見て、頬を緩めるよう心がける。
宿の裏口脇に背を預けて立っていたのは、シャーリィだった。宿の娘だ。
「シャーリィ、どうしたの」
ううん、とシャーリィは首を振る。少しうつむいて、再び顔を上げたとき、彼女の顔に笑みが戻っていた。
「お帰りなさい。案内屋さんのお仕事だったの?」
「そうさ」
ルルスは両手を広げてみせる。
「今日は王都行きを途中まで送ってきた」
「王都から?」
シャーリィは少し不思議そうに問う。
「シャルルさんとは会わなかったの?」
「シャルル?」
ええ、とシャーリィはうなずいて見せる。
「だって、たった今、お店に来たところなのよ?」
ああ、とルルスは髪を掻く。
「ぼくは案内屋だよ?シャーリィ。秘密の逃げ道も作ってある。もちろん、人には教えない」
「すごいな、ルルは。賢くて、何でもできて」
シャーリィはうつむき、つま先で地面をつつく。
「うらやましい」
「そんなこと、ないよ」
シャルルが来ている。あの男が用もなくただやってくることなどありえない。ルルスは裏口の取っ手を握る。
「まだ、やめておいたほうがいいよ」
シャーリィは肩より流れる栗色の髪の影にうつむいて言う。
「シャルルさん、父さんと話してる」
「大丈夫さ、シャーリィ。シャルルと君の父さんのことは、あの二人のことなんだ」
扉を開き、それからルルスはもう一度シャーリィを見た。
「君が気にすることなんて、何も無いんだから」
「うん」
シャーリィの顔に浮かぶ笑顔にうなずき返して、ルルスは裏口をくぐる。
裏口からの廊下には、厨房への入り口があり、厠の扉があり、物置がある。客の入るところではない。だがルルスは客であって客でないようなものだ。二階の一番奥の部屋を借りきりにして、二月ほどにもなる。宿賃はシャルルが出していることを知っていた。シャーリィがひどく気に病んでいたのだ。
宿賃としてはかなりの額を出しているらしい。ルルスは逆に安堵したのだ。シャルルは押えるべきところをきちんと押える男だと確かめられて。
廊下の奥の食堂に出ると、その端の小卓にシャルルと主の姿があった。端に席を占めるのがシャルルらしいと思う。
「やあ、シャルルさん、こんにちわ」
「やあ、ルルス君ひさしぶり」
シャルルは席に着いたまま手を上げてみせる。それから主のほうを見上げ、それじゃ後のことはよろしくお願いします、などと言い含めるのだ。
入れ替わりに、ルルスはシャルルの卓につく。
「お久しぶり。こちらには何の御用で?」
「いつもの使い走りさ」
「あなたの雇い主もいろんなところに目を配られている」
シャルルはいつものとおりだった。長めの黒髪は後ろで束ねて、相変わらず無精ひげで、相変わらず商売向けの笑みを浮かべて、けれどその黒い瞳はそれほど笑っていない。
「君の、お迎えはどうも遅れそうなんだ」
シャルルは言葉の頭の、君の、というところに少しだけ節をつけて言う。
嫌味が過ぎたか、とルルスは思った。
シャルルは、ルルスの嘘の要だ。ルルスは廃嫡された王太子などではなく、西方の大店の子であり、シャルルはそのルルスにつなぎをつけにきている渡り働きの男のはずなのだ。彼の雇い主はルルスの親しい人であるという最初の嘘を自らぬぐってはならない。
シャルルはつづける。
「君はもうしばらく、自力でがんばってもらうしかない」
ルルスは思わず息を呑んだ。
本当に、迎えに当たる何かの動きを考えていたのか、それとも話のつながりに過ぎないのか、この刹那にははかりかねる。どうかんぐるにしろ、シャルルの言葉の示すことは一つだ。
自分の力しか、いまは頼れることは無い。
シャルルがそんな当たり前のことのみを言いに来たとは思えない。そしてシャルルは静かな笑みとともにルルスを見ている。自ら語るつもりは無いのだ。
その笑みは正しい問いをせよと言っている。
「カシウス様はお元気ですか?」
シャルルは両方の眉を上げて見せる。はずした、とは思ったが、同時に確信も得ていた。シャルルはカシウスの手のものではないのだ。もし質問が的を得ていれば、ルルスの聞きように驚く前になんらかを顔に浮かべる。今のシャルルの応じ方は、シャルルにとっての予想外を示していた。
シャルルは笑っていた。こらえきれぬというように口元に組んでいた手の上に額をつけ、笑いをもらし、それから手を解いて額を支え、低い声で笑い続ける。それから顔を上げるのだ。
その顔を見返し、ルルスは笑みを浮かべて小首を傾げてみせる。
「いや、さすがだよ、ルルス君」
笑いの吐息の合間に、シャルルはようやく言う。
「かの方は、ご子息らを失われてお気落しだと聞いていた。だがご息女が帰られて、少しは気が紛れられたのだそうだ」
西方辺境候セルウィトス・セルトリウス候カシウスは「帝國」の西方辺境を統べる辺境候だ。西方辺境と辺境候は何代も前から隣接する西側諸国に働きかけを続けていた。言葉で、態度で、時には本当に軍勢を送り込んで。
ルルスはうなずいた。このやり方が、シャルルがシャルルに定めた決め事であるらしい。
「帰られただけじゃないでしょう」
「もちろん」
ルルスは一拍だけ答えをまった。けれどシャルルの答えは笑みでしかない。それ以上のことに、今は意味が無いのだ。目の前のシャルルは静かな笑みをルルスに向けている。ルルスがどう応じるかを見ているのだ。
思いが巡る。次の答えをもらすに足る、正しい問いを見せなければ、シャルルは答えない。それが彼の決め事だ。
シャルルは、迎えは来ないといい、自力でがんばれといい、なのにシャルル自身はここにある。ここにあってルルスを見ている。
刹那のあいだにめぐらせた思いは、ある答えを導き出していた。
ルルスはもこらえきれず安堵の息を吐いていた。
シャルルが見ていたのはわかっていた。シャルルはそれをどのように、彼の主に伝えるだろう。シャルルの主は、シャルルをここへ送り込んでいる。ルルスから目を離すつもりが無いからだ。それは、そのものにとってはまだルルスに価値があるということだ。
廃嫡され、王都より追放され、そして辺鄙な土地ゆえ気づかれずにいるにすぎないルルスだ。
何の価値がある?
シャルルの主には、ルルスがそうしてあり、生きているということに価値を見出しているのだ。
すでに父王はなく、後ろ盾も無く、王座は妹王妃であったナナリィが占めている。
なのに、なぜか。
なぜ、ルルスを生かし続けるのか。
シャルルの主は、ルルスをこうして置き続けることに、意味を感じているのだ。今すぐルルスを使う必要は無く、始末する必要も無い。
そして、ルルスを控えにおき続ける。
控えがいるということは、今の備えを使い続けるということだ。
それはつまり、今の備えが使える限り、シャルルの主はその備えを使い続けるということだ。
今の備えとは、ルルスの妹ナナリィが、傀儡に等しい国王として王座を占めることだ。
「どうした?ルルスくん」
ルルスはシャルルに笑みを見せる。
今の備えがあるかぎり、ナナリィは害されることはない。
ナナリィは、外からのものが守る。身柄を握る手を、いつ締め付けるかという自由とともに。
「いいえ、別に」
ルルスは応じた。
だがルルスには見えていた。お前の主の手のうちから、ナナリィを取り戻せばいいのだと。
今は無理かもしれない。だが、見えたのならば、かならずそこにたどり着いてみせる。
「でもね」
シャルルは不意に言う。
「悪い知らせもあるんだ」