「わたしがオイリュトミーをしている理由 その2」 大坂さゆり
前回、書ききれなかった理由の続きです。
実は、この続きはどんな風に書いたらいいのか、あまり明確ではありませんで
した。整理しながら書いてみたいと思います。
オイリュトミーを始めて最初のうち、とにかくはまっていましたし、自分自身
の学びのために絶対必要!という気持でした。だから、富山に穴田眞さんが来て
くださるようになり、初めのうちは有志で企画して会費を設定して、会場を借り
てということを、大変でしたが、協力しながら行ってきました。その頃はたくさ
んの出会いをしながら、その時その時、とても楽しい時間を過ごさせて頂きました。
今思うと、小さかった子どもたちに素敵な時間を提供してあげられる、ほんと
うに貴重な時間でした。我が子のためということも大きなモチベーションになっ
ていたようです。そうした、子どものため、自分の成長のため、という関心から
少し拡がってきたのは、数年前、ささやかな発表会をするようになってからだと思います。
それは私自身の内面の変化とも深く関わっているようです。
実は、この続きはどんな風に書いたらいいのか、あまり明確ではありませんで
した。整理しながら書いてみたいと思います。
オイリュトミーを始めて最初のうち、とにかくはまっていましたし、自分自身
の学びのために絶対必要!という気持でした。だから、富山に穴田眞さんが来て
くださるようになり、初めのうちは有志で企画して会費を設定して、会場を借り
てということを、大変でしたが、協力しながら行ってきました。その頃はたくさ
んの出会いをしながら、その時その時、とても楽しい時間を過ごさせて頂きました。
今思うと、小さかった子どもたちに素敵な時間を提供してあげられる、ほんと
うに貴重な時間でした。我が子のためということも大きなモチベーションになっ
ていたようです。そうした、子どものため、自分の成長のため、という関心から
少し拡がってきたのは、数年前、ささやかな発表会をするようになってからだと思います。
それは私自身の内面の変化とも深く関わっているようです。
はじまりは、みなさんで発表会について話し合っていたときのことでした。オ
イリュトミーはそもそも、自分で動いてみて初めて、感じたり発見することがあ
るものだから、わたしたちのような未熟な練習生が人に見せる(魅せる)には
まだまだだ、という話が練習生からでている中、穴田裕子さんが、おっしゃった
言葉。「人前でオイリュトミーを発表することは、愛を表現するとてもいい練習になる
のよ」(ここで絵文字のきらきら星を入れたいところです)
その時は、「そ、そうですか(目ぱちくり)」と、流していたんですが、実は、
その時のわたしにはあまりしっくりとこない言葉でした。「愛を表現すること」・・・?
イリュトミーはそもそも、自分で動いてみて初めて、感じたり発見することがあ
るものだから、わたしたちのような未熟な練習生が人に見せる(魅せる)には
まだまだだ、という話が練習生からでている中、穴田裕子さんが、おっしゃった
言葉。「人前でオイリュトミーを発表することは、愛を表現するとてもいい練習になる
のよ」(ここで絵文字のきらきら星を入れたいところです)
その時は、「そ、そうですか(目ぱちくり)」と、流していたんですが、実は、
その時のわたしにはあまりしっくりとこない言葉でした。「愛を表現すること」・・・?
考えてみると、7年前にシュタイナー教育の教員養成講座の開講講演の時、
「目に見えない世界とのつながり」の重要性について聞いたのですが、その時も、
あまりにもしっくりと来なくて、ただ驚いたことを思い出します。その後、「あ
まり批判せずに、何事にもまず新しく出会って、馴染むということを試してみた
らどうですか」という工藤茂樹さんの言葉で肩の力が抜けました。今では「見え
ない世界と繋がっているわたしたち」という考えにすっかり馴染んでしまいまし
た。
「目に見えない世界とのつながり」の重要性について聞いたのですが、その時も、
あまりにもしっくりと来なくて、ただ驚いたことを思い出します。その後、「あ
まり批判せずに、何事にもまず新しく出会って、馴染むということを試してみた
らどうですか」という工藤茂樹さんの言葉で肩の力が抜けました。今では「見え
ない世界と繋がっているわたしたち」という考えにすっかり馴染んでしまいまし
た。
シュタイナー教育において、「愛を表現する」ということは、しばしば出てく
る言葉なんですが、特別な人にしかできないことではなくて、みんながしている
ことなのですよね。人の中には必ず光の部分があり、それを表現すること、とで
も言ったらいいでしょうか。あまりはっきりとしないですが、分からないままに、
すっかりその言葉とも馴染んでしまいました。それには、「エンジェルヒーリン
グ」という本に感化されたこともあるかもしれません。越智啓子さんの「あたた
かい愛にあふれて生きる本」というのも読みました。また、アドラー心理学の
瞑想会では、「瞑想をして、最後にエネルギー(愛)が余っていたら、それは
地球に返す」という話も聞きました。
る言葉なんですが、特別な人にしかできないことではなくて、みんながしている
ことなのですよね。人の中には必ず光の部分があり、それを表現すること、とで
も言ったらいいでしょうか。あまりはっきりとしないですが、分からないままに、
すっかりその言葉とも馴染んでしまいました。それには、「エンジェルヒーリン
グ」という本に感化されたこともあるかもしれません。越智啓子さんの「あたた
かい愛にあふれて生きる本」というのも読みました。また、アドラー心理学の
瞑想会では、「瞑想をして、最後にエネルギー(愛)が余っていたら、それは
地球に返す」という話も聞きました。
子どものオイリュトミーでわたしの大好きな、「わたしは小さな火、光りましょ
う」という詩を歌い動くものがあります。ほんとうに、みんな1人1人が、光の
存在で、わたしたちは、共に輝けるんです。もちろん、日々、きれいなことばっ
かりではありません。でもそれもわたしたちの成長にとってまた周りの人たちに
とって、意味のあること、必要なことが起こっているんだなと感じます。
う」という詩を歌い動くものがあります。ほんとうに、みんな1人1人が、光の
存在で、わたしたちは、共に輝けるんです。もちろん、日々、きれいなことばっ
かりではありません。でもそれもわたしたちの成長にとってまた周りの人たちに
とって、意味のあること、必要なことが起こっているんだなと感じます。
分からないままに書いて恐縮ですけれども、「愛を表現する」ことは、言って
みれば、畏敬の念をもって子どもたちの前に立つ、あるいは畏敬の念をもって人
と接するということと同義のことでもあるかな、と思います。畏敬の念というの
がまた、分からない言葉です。頭では分かる気がします。でもそれを実践すると
いうことは、例えば、この目の前の子どものあるがままを受け入れる器でいるこ
と、空っぽの状態でいること。その子の持つ可能性を心から尊敬するというような
ことで、なかなか難しいことです。
みれば、畏敬の念をもって子どもたちの前に立つ、あるいは畏敬の念をもって人
と接するということと同義のことでもあるかな、と思います。畏敬の念というの
がまた、分からない言葉です。頭では分かる気がします。でもそれを実践すると
いうことは、例えば、この目の前の子どものあるがままを受け入れる器でいるこ
と、空っぽの状態でいること。その子の持つ可能性を心から尊敬するというような
ことで、なかなか難しいことです。
オイリュトミーをしていると、そうしたことの練習になる、というのは感じま
す。「私」が動くのではなく、押されるものを感じて動かされる。光が通るよう
に真っ直ぐに動く・・・。もちろん、いつ到達できるのか分からないゴール、と
感じることもあります。でも、ほんとうは、ゴールはいつもここにあるのだとい
うことを、最近感じているのです。話が飛ぶようですが、今の私の理解では、愛
とは、いまここにくつろぐことから始まると思うのです。
あるがままにオッケーをいい、批判しないで受け入れること。我慢するわけで
はなくて、ただくつろいで、自分自身の中心から起こる声に耳を傾ける。それが
できたら、ほんとうに、すべてのことが自然に回っていく、流れていく、そんな
感じがしています。(サイキックマッサージのトレーニングの影響です)
もちろんこのことは「わたし」の身の回りのところでのみ通用する小さなこと
ですが、そんなくつろぎの達人になりたいと思っています。
それにはやっぱり瞑想の必要があります。
す。「私」が動くのではなく、押されるものを感じて動かされる。光が通るよう
に真っ直ぐに動く・・・。もちろん、いつ到達できるのか分からないゴール、と
感じることもあります。でも、ほんとうは、ゴールはいつもここにあるのだとい
うことを、最近感じているのです。話が飛ぶようですが、今の私の理解では、愛
とは、いまここにくつろぐことから始まると思うのです。
あるがままにオッケーをいい、批判しないで受け入れること。我慢するわけで
はなくて、ただくつろいで、自分自身の中心から起こる声に耳を傾ける。それが
できたら、ほんとうに、すべてのことが自然に回っていく、流れていく、そんな
感じがしています。(サイキックマッサージのトレーニングの影響です)
もちろんこのことは「わたし」の身の回りのところでのみ通用する小さなこと
ですが、そんなくつろぎの達人になりたいと思っています。
それにはやっぱり瞑想の必要があります。
オイリュトミーはその瞑想の1つでもあります。オイリュトミーの動きを自由
にできるようになった時にはそこには至上のくつろぎがあるというか。形にとら
われて不自由を感じることは自由への途上でどうしても仕方のないことですが、
そこを乗り越えた時にそこには自由がある。それが感じられるとき、それはそれ
はもう言葉にできないほど心地よいものなのです。もちろんめったにこんな体験
ができるわけではありませんが、オイリュトミーを企画して、人と集って出会い
を楽しみ、いっしょに動くことができるということだけでも、わたしにとっては
奇跡的に嬉しい、無上の喜びなわけです。
だからやっています。
こんな楽しいこと、独り占めにしていてはほんとうに申し訳ないですよね。ご
一緒したい方の参加を心よりお待ちしております。
にできるようになった時にはそこには至上のくつろぎがあるというか。形にとら
われて不自由を感じることは自由への途上でどうしても仕方のないことですが、
そこを乗り越えた時にそこには自由がある。それが感じられるとき、それはそれ
はもう言葉にできないほど心地よいものなのです。もちろんめったにこんな体験
ができるわけではありませんが、オイリュトミーを企画して、人と集って出会い
を楽しみ、いっしょに動くことができるということだけでも、わたしにとっては
奇跡的に嬉しい、無上の喜びなわけです。
だからやっています。
こんな楽しいこと、独り占めにしていてはほんとうに申し訳ないですよね。ご
一緒したい方の参加を心よりお待ちしております。