『母への想い』
菜々子がうまれたのは、ごく普通の病院で、ごく普通の出産でした。主人や、母、父、主人の両親が見守ってくれ、とても幸せな出産でした。長い長い陣痛でしたが、菜々子は元気よく泣いてくれて、その顔を見て、涙が止まりませんでした。そしてこの先、どんなことがあってもこの子を育てるのだ、守るのだ、と心に誓ったのをよく覚えています。
その年の暮れ、母が病気で倒れ、私達の生活はがらりと変わりました。その時住んでいた金沢から富山までたった6ヶ月の菜々子をおぶって病院へ通いました。日に日に細くなる母の手を握って自分の無力さに泣いていた私に母はにっこり笑って言いました。「菜々ちゃんが笑っているわよ。菜々ちゃんの笑顔はいいわね。万紀子、人生ケセラセラよ。」と。
つらい闘病に苦しいはずなのに、最後まで弱音は言いませんでした。ただ、亡くなる2日前に、「菜々ちゃんの歩いているところ、この目で見たかった」と言いました。菜々子が10ヶ月の時でした。華やかで、優しくて、妻として、母として愛された母らしい最期でした。
今年の5月が母の7回目の命日でした。菜々子は1歳1ヶ月の時に歩きはじめ、その後2人目の響一が授かり、子育てに忙しかった日々、本当にあっという間でした。菜々子は今年1年生、響一は年少になりました。
亡くなった当初は、もっと長く生きて、見てほしかったと思ったものですが、目にも見えず、手にも触れられないけれど、確かに母が見てくれている、守られている、と確信する瞬間があります。母は何と強くて偉大なのか、と涙がでます。
よく、妊娠期に魂が宿るといいますが、私の場合、子どもが誕生した瞬間に神様から魂を授かったことを全身で感じ、"母性" が生まれたのだと思います。無知だった私が母となり、子どもと出会い、子どもを通して素敵な方々にお会いし、助けてもらい、学んだように思います。子どもがいてくれたからこそ成長できたのだと思います。
「子どもが子どもをうんだわね」と笑った母と、泣いてばかりいた私は、「どう?少しは強く(たくましく?)なったでしょ?」etc... 日々心で会話しています。遺影の中の母はいつも微笑んでいます。
今年の夏。子どもと共に真っ黒に日焼けし、主人に、「子どもみたいだね」と笑われながら遠い昔を思い出しました。主人に支えてもらい、子どもたちとゆっくり向き合い、見守っていける今が、本当に幸せに感じています。1日1日を大切にして、自分らしく生き、やがて巣立っていくわが子たちの前で堂々と立っていられる自分でありたいと思っています。
高桜万紀子
その年の暮れ、母が病気で倒れ、私達の生活はがらりと変わりました。その時住んでいた金沢から富山までたった6ヶ月の菜々子をおぶって病院へ通いました。日に日に細くなる母の手を握って自分の無力さに泣いていた私に母はにっこり笑って言いました。「菜々ちゃんが笑っているわよ。菜々ちゃんの笑顔はいいわね。万紀子、人生ケセラセラよ。」と。
つらい闘病に苦しいはずなのに、最後まで弱音は言いませんでした。ただ、亡くなる2日前に、「菜々ちゃんの歩いているところ、この目で見たかった」と言いました。菜々子が10ヶ月の時でした。華やかで、優しくて、妻として、母として愛された母らしい最期でした。
今年の5月が母の7回目の命日でした。菜々子は1歳1ヶ月の時に歩きはじめ、その後2人目の響一が授かり、子育てに忙しかった日々、本当にあっという間でした。菜々子は今年1年生、響一は年少になりました。
亡くなった当初は、もっと長く生きて、見てほしかったと思ったものですが、目にも見えず、手にも触れられないけれど、確かに母が見てくれている、守られている、と確信する瞬間があります。母は何と強くて偉大なのか、と涙がでます。
よく、妊娠期に魂が宿るといいますが、私の場合、子どもが誕生した瞬間に神様から魂を授かったことを全身で感じ、"母性" が生まれたのだと思います。無知だった私が母となり、子どもと出会い、子どもを通して素敵な方々にお会いし、助けてもらい、学んだように思います。子どもがいてくれたからこそ成長できたのだと思います。
「子どもが子どもをうんだわね」と笑った母と、泣いてばかりいた私は、「どう?少しは強く(たくましく?)なったでしょ?」etc... 日々心で会話しています。遺影の中の母はいつも微笑んでいます。
今年の夏。子どもと共に真っ黒に日焼けし、主人に、「子どもみたいだね」と笑われながら遠い昔を思い出しました。主人に支えてもらい、子どもたちとゆっくり向き合い、見守っていける今が、本当に幸せに感じています。1日1日を大切にして、自分らしく生き、やがて巣立っていくわが子たちの前で堂々と立っていられる自分でありたいと思っています。
高桜万紀子