本編
クラシック編
+ | 第31話 |
春のティアラ路線の頂上決戦、ヴィクトリアマイルが終わり、いよいよ樫の女王決定戦、オークスがやってくる。
「桜花賞組にトライアル組、忘れな草賞組……今年もメンバーが揃ったな」
担当の2人の授業中、トレーナールームでオークスの出走予定者を見ながら独りごちる。暦の上では春真っ盛りのはずだが、最近はもうこの時期から汗ばむほどの暑さになってきている。
「外でのトレーニングも考えないとな」
水分補給を中心とした一般的な熱中症対策に加え、ウマ娘たちの場合は日焼け対策も大切になってくる。一種のアイドルとして表舞台に立つ彼女たちのためにも、紫外線対策だったり室内トレーニングを上手に組み込んであげたいところだ。
と、そんなことを考えていると扉をコンコンと叩く音が聞こえる。どうぞと中へ促すと、入ってきたのは元チーフトレーナーだった。
「元気にやっているか?」
「もちろんです。大変なのは大変ですけどね、あはは」
ソファへ座るよう促し、それに合わせてお茶を入れる。といっても市販のペットボトルのお茶をコップに入れただけだが。
「ありがとう。気を遣わなくてもいいのに」
「流石に何も出さないわけにはいかないですよ。それで何か話でも? この前のインタビュー記事の話ですか?」 「話が早いな。オレも流石に娘の記事が載っているとなると読まざるを得なくてね」
そう言って取り出したのはつい先日発売されたばかりのトゥインクル・シリーズの専門誌。半月ほど前にオレたち3人が取材を受けた記事が掲載されているものだ。
「『ダービーは絶対に勝ちます』か、威勢がいいな。しかも写真も可愛く写っているじゃないか」
「……もしかして娘自慢をしに来たんですか?」
いくら自身の担当のライバルといっても娘は娘。そんな可愛い愛娘が大きく取り上げられているなら親バカになるのも当然といえば当然ではあるのだが、本題はそれではないらしい。
「違う違う! 娘が可愛いのは自明の理だし、君もよく分かっているだろ?」
「ま、まあそれはそうですが……それでなんですか?」
一応“まだ”付き合っていることは隠しているはずなのに、なんだかもうバレている気がするのは気のせいだろうか。
「いくら娘でも堂々と勝利宣言をされるのは“ライバル”のトレーナーとして看過できなくてね」
「つまり……」
ソファから立ち上がってオレを見下ろし、告げる。
「宣戦布告だよ、宣戦布告。娘には悪いが今度は2人の後塵を拝してもらう」
あくまでも娘は娘、仕事は仕事。普段は親しみやすく優しい人だけど、いざというときには勝負師へと豹変する。これまで多くの名ウマ娘を育ててきた先輩との真っ向勝負。オレは彼と同じように立ち上がり……
「今度はエスキモーが勝ちます。ウイニングライブのセンターは譲りません」
互いの視線と視線がぶつかり火花を散らす。絶対に勝つ、その想いだけが今この場を支配している。
「本番、楽しみにしているよ。その前にオークス頑張ってくれ」
と思ったその矢先、彼の表情に笑顔が戻りさっと右手を差し出される。おっかなびっくりその手を握ると、今週末のザイアの一戦へのエールをもらった。
「あ、ありがとうございます。彼女も勝ちますよ」
「オレのところからは誰も出ないからね。純粋に応援しているよ」
なるほど、トゥインクル・シリーズの祭典日本ダービーだけでなく、女王たちの饗宴オークスへも担当ウマ娘を送り出すオレを励ましにきてくれたのか。流石は歴戦のトレーナー、そう素直に感心していると──
「それはそうと娘の写真持ってない? 最近送ってくれなくてさ」
ただ娘のことが可愛くて仕方がない父親ムーブがまた始まった。
「やっぱり親バカしにきたんじゃないですか……一応あるにはありますが、彼女にはバレないようにしてくださいね?」
「大丈夫。妻と楽しむだけだから……って何このツーショット!?」 「あっ、送るの間違えた。消してください」 「お前まさか……」 「違いますって! 2人で少し出かけたときに撮っただけですって!」
ワイワイガヤガヤ。しまいにたづなさんからうるさいと注意を受けるまで、オレたち2人はエスキモーの写真で盛り上がっていた。
─────
ところ変わって午後の授業が始まる前の教室。昼ごはんを食べ終わったお姉さまの席で私とルージュさんとレインさんを入れた4人で今度の大一番について話していた。
「そういやエスキモー、インタビューの記事読んだぜ」
「ほんと? 可愛く撮ってもらったんだー。いいでしょー」 「いやルージュが言いたいのはそうじゃないと思うよ?」
綺麗にインタビューの写真を撮ってもらったのを自慢するお姉さま可愛い。私は実家にて保存する用で1冊、自身で鑑賞する用に1冊、どなたかお姉さまに興味を持たれた方に布教するように10冊少々購入しているけれど、もう少し買い増した方がいいだろうか。悩む。
「あっ、そう? じゃあどこ気になったの?」
「そりゃ『ダービーは絶対勝ちます』っていうオレたちに対する宣戦布告のところしかねえだろ。オレがいるのによく言えたなあって思ってな……覚悟しろよ」 「ボクもいるよ。あのときは負けちゃったけど今度こそは……!」
交差する視線はまるで相手を射抜く弓矢のよう。ルージュさんとレインさんの2人から放たれたそれはお姉さまへ向かってまっすぐ飛んでいくが、お姉さまはそれを軽くいなし、窘め──
「ちょっと2人とも。まだ早いよ? 落ち着いて落ち着いて。本番までに疲れちゃう」
いや違う。これは──
「ダービーで私との着差もっと広がっちゃうよ?」
勝利宣言。己が勝つことを前提とした語り口調は2人をさらにヒートアップさせる。かたや燃え盛る真っ赤な炎、かたや静かに熱を上げる蒼い炎。
「言ったなてめえ……!」
「その台詞を言ったこと、レースのあとに後悔させてあげるよ」
爆発寸前。走りにいこうとどこかで聞き覚えがある台詞が放たれようとした刹那。
「そろそろチャイム鳴るから席に戻れよー」
先生が教室に入ってきて自身の席に帰るよう促したことで3人が周囲に放っていたプレッシャーがフッと消え去り一件落着と相成った。しかし──
(熱は消えない。レースが終わるまではきっと)
一度踏んでしまったアクセルからもう足は離せない。エンジンが焦げつくまで、ガソリンが空になるまでただ前へ前へと走るのみ。それが私たちウマ娘の使命。
(私もオークスは絶対……)
─────
天気は晴れ。芝もダートもともに良バ場。まさに絶好のレース日和だ。
「ザイア、いけるか?」
「はい、いつでも」
負けない。負けられない。絶対に、勝つ。
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+ | 第32話 |
オークス当日。緊張しているのか、それとも楽しみなのか、いつもより早めにセットした携帯のアラームが鳴る5分前に目が覚めた。
「それでもお姉さまは先に出られているのですね」
1人残された部屋を見渡し零した声は誰にも届くことはない。少しボーっとしながらベッドに座っていると、枕元に置いていた携帯のアラームが鳴る。私は携帯へ手を伸ばして音を止め、再び部屋に静寂をもたらした。
「お姉さまの『ザイア、起きて。朝だよ』という美しいお声を耳元で囁かれながら目覚める朝は素晴らしいのですが、その前に起きてしまっては意味がありませんね……」
桜花賞に勝ったご褒美として頂いた目覚ましボイス。学園にあるダミーヘッドマイクを少しお借りして録音したその声で目覚める朝は何物にも代えがたい。他にもいくつか録音して携帯やその他媒体、クラウドに保存しているけれど、それはまた別の機会に。
「それにしてもどうして学園にダミーヘッドマイクがあるのでしょうか。不思議ですが、あまり気にしない方がよさそうですね」
“Autonomous Sensory Meridian Response”の頭文字を取ったASMR、日本語に訳すと“自律感覚絶頂反応”と呼ばれるそれを利用した音声や動画は、私が生まれる少し前より世間に普及し始めた。もちろんダミーヘッドマイクはあくまでもバイノーラル録音を行うためのもので、必ずしもASMRに繋がるものではないのだけれど。
「レース当日の朝に考えることではありません。早く出発の準備をしなければ」
カーテンを開け、窓を開け、先ほどまで考えていたことを全て部屋の外へと放り投げる。代わりに日光を浴び、朝の涼しい風を全身で受け止め、頭のスイッチをオンへと切り替える。
「先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人の制する所と為る。支度は早いに越したことはありません」
決戦は約9時間後。しかし既に朝からレースは始まっている。万全の態勢で臨むためにまずは顔を洗いにいかなければ。
─────
「最後のブリーフィング始めるぞ。まずエスキモーはザイアを膝の上から下ろして」 「えー」 「えーじゃない。ザイアも残念そうな顔をしない」
レースの1時間ほど前、控え室でレース直前のブリーフィングが行われる。芝の状態から始まり、昨日と今日のレース傾向に注意すべき相手、そして最後に展開予想と作戦を伝えられた。
「桜花賞のときとは状況が違う。前回はほぼ無警戒だったが今回は必ず君をマークしてくる」
「承知しております。ただそれでも4番人気なのですね」
トレーナーのタブレット端末で現在の人気順を確認すると、1番人気には前回桜花賞で2着だったスカイピーチさんが推されていた。2番人気には忘れな草賞の勝者、3番人気にはトライアルレースのフローラSの勝者が名を連ねている。
「十中八九今までの走りじゃ距離が保たないと思われているんだろうな」
「確かにあれだけ飛ばした走りを続けたらそうかもしれないけどさ。本当は違うのに」
お姉さまが悔しがってくれているのを見て気合いを入れる。自分のために勝ちたいのは当然だけれど、お姉さまにこのような顔をさせたくないという思いの方がそれを上回った。
「お姉さま、安心してください。私、勝ってまいりますので」
「約束だよ?」 「ええ、指切りげんまんです」
互いの右手の小指を絡め、誓う。先頭でゴールを駆け抜けることを、樫の栄誉をこの手に掴んでみせることを。
─────
パドックの時刻が迫ったザイアを見送り、エスキモーと2人きりになった控え室。彼女は約束を交わした右手の小指を見つめながら、優しい声で言の葉を紡ぐ。
「私は信じてる。あの子が1番強いんだって。絶対勝つんだって」
「もちろんオレもだ。夢を現実にするためにザイアは努力を重ねてきたんだから」
隣の彼女の肩にそっと腕を回す。コツンと軽く当たった頭を一度、二度と撫でると彼女は笑顔を取り戻した。
「うん……絶対大丈夫! 行こっ、トレーナー!」
「ああ! ザイアが勝つところ、ちゃんと見ないとな」
2人とも椅子から立ち上がる。そのまま控え室を出て向かうは観客席。ザイアへ目いっぱいのエールを送るために。彼女が2冠の栄誉にあずかる瞬間をこの目に焼きつけるために。
─────
『さあいよいよ本バ場入場です! まず入場してまいりましたのは1枠1番──』
パドックからコースへ向かう地下バ道。その出口でかすかに実況の声が耳に入る。各出走者を前口上とともに1人ずつ紹介していくGⅠ限定のアナウンスに、観客席は盛り上がっているようだ。
(集中、集中……気持ちを切らさないように。思いを込めすぎないように、平常心で)
光り輝くコースを前にして、ゆっくりと息を吸い込み、そしてゆっくりと吐く。頭は冷静に、されど心は熱く。
(いざ!)
光の中に飛び込んだ私を包んだのは、これまた観客席からの大歓声だった。一つ一つを聞き分けることは難しいけれど、私を応援してくれていることははっきりと分かる。夢、願い、期待、希望。その全てを背中に受け止め今、芝生の上に一歩を踏み出す。
『桜の栄誉に続いて、母の忘れ物をここでも掴む。3枠5番、ダノンディザイアの登場です!』
─────
生演奏のファンファーレが高らかに鳴り響く。そしてゴール前約300m前に設けられたゲートへ1人、また1人と収まっていく様子がターフビジョンへと映し出される。一昔前まではゲート入りからスタートまで騒いでいる観客も多かったが、ある著名なトレーナーがGⅠの前に行われる記者会見で、
『全員がゲート入りしてからスタートするまでは声援を我慢してほしい』
という発言をして以降、ファンファーレが終わってからは軽いざわめき程度に収まっている。
「ザイアの様子は……うん、大丈夫。落ち着いてる」
「ああ、あの調子ならきっと」
枠入りは順調に進み、最後に大外18番の子がゲートに収まると、より場内が静寂に包まれる。そして──
『──回オークス、スタートしました!』
絢爛豪華たる樫の舞台が幕を開ける。
─────
ゲートが開き、私を含めた18人が一斉に前へと駆け出していく。まずは最初のコーナーまでの約350mもの直線で繰り広げられる位置取り争いだが、私は無理に先頭には立たなかった。なぜなら──
「私が先頭だからあああああ!!!!!」
と、なぜか叫びながらハナを取りにいくウマ娘が視界の右端に映っていたからだ。
(あれはフローラSを逃げ切ったフェアハフトゥングさん。やはり楽に逃がしてはくれませんね)
といってもこれは想定通り。明確な逃げウマ娘が私ぐらいだった桜花賞とは異なり、戦前から逃げ宣言をしていた陣営が2つあったため特に動揺することはない。ゴール板前を通過し1コーナーへ入る頃には隊列がおおよそ固まる。その中で私は前から3番手の位置を確保できていた。3番手といっても、先頭まではかなりの距離が開いているのだけれど。
(目算で既に1秒弱ほどの差があります。これは最初の1000mのタイムは相当速くなるのでは)
そう考えると彼女に離されないように追うのは得策ではない。下手についていくと最後の直線で後続にまとめて差されるのは火を見るよりも明らか。プラン通り行かせるだけ行かせて、最後の脚を温存する方向で結論が固まる。
(体力を消費しないために前のこの方を風除けに使わせていただきましょう)
1コーナーの途中から続く長い下り坂を駆け下りながら、残り1400mの標識を通過する。先頭は59秒を切る程度で飛ばして逃げていて、私と前の彼女で60秒と少し。後ろをちらっと見てみると、私から1秒少し差があった。おそらく観客席から見ると、ぽつんと1人だけ先頭にいて、そこから間に私たち2人、そこからさらに離れて15人がひしめき合うといったとても長い隊列になっているに違いない。
(おそらくスカイピーチさんも後方でじっくり構えているのでしょう)
前回の桜花賞のレースを改めて映像として見てみると、彼女は少し苦しいポジションでレースを進めていたのが見て取れた。もちろん自分の走りやすい位置取りを取るのも実力のうちだから、前走において総合的に私が彼女を上回っていたことは事実なのだけれど、残念ながら世間はそうは見なかったらしい。私の前走の逃げ切り方を差し引いても、彼女が1番人気で私が4番人気なのがその証左だ。
(彼女は5枠10番……もし私が彼女ならば3コーナー手前まではインで脚を溜め、そこから徐々に外に持ち出し、最後の直線でスパートをかける方策を選ぶでしょう。前走の反省を生かすなら)
上り坂を上がって再び下る。まだ無理には追わない。注意すべきは前方よりも後方。失礼だけれど前の彼女は放っておいても垂れてくるはずだから。3コーナーに差し掛かって後続の足音が迫ってきてもぐっとこらえる。7バ身、6バ身、5バ身。差される恐怖から逃れるためにもうスパートしてしまいたい、そんな思いに蓋をしたまま、4コーナーを回る。
(500m以上ある最後の長い長い直線。わずか数m後ろに迫る15人の黒い影)
お母様が駆けた東京2400mの動画を私は何度も見た。最後抜け出しを図るお母様に一歩、また一歩と迫るライバル。残り200mを切った辺りで先頭に立つお母様。残り100mを切っても、残り50mを切ってもまだ先頭。残り10m、5mでも先頭“だった”。
(最後はハナ差屈して2着。レースのことを聞くと、吹っ切れたと言いつつもどこか表情が暗くなっていました。それを娘の私が今……!)
風除けはもういらない。背中に迫る恐怖を振り払い、アクセルを底が抜けるほど力強く踏み込む。観客のどよめき、後続がわずかに息を呑む音、その全てを置き去りにして私はひたむきに夢へと手を伸ばす。空を縦横無尽に飛翔する龍の如く、女王の座を手に入れるために、己の道を往け、走れ。
『Nihil difficile amanti』 Lv.1
1人交わし、そしてまた1人交わす。私の前には誰もいない。ゴールまで続く栄光への道、優雅に華麗にそして大胆にその真ん中を走る私。多くの観客の視線は釘づけになっていることだろう。しかし坂を上りきった残り200m、迫る足音がそこには1つ。
(肺が破れそうなほど息が苦しい……だけど今は、今だけは!)
一生に一度だけの夢舞台。逃せば二度と掴むことができない栄冠を掴むためならば、たとえ肺が破れてしまっても構わない。ここまで来たのだから絶対……絶対……
(絶対負けません!!!!!)
迫る、逃げる、迫る、逃げる。残り100m、50m、ゴール板を視界に捉えてもなお気は抜かず、懸命に腕を振り、前へ前へと芝を蹴る。迫る影、それでも私は臆さない。勝ちたい想いは私の方が上だと信じているから。私の勝利を願ってくれている人がたくさんいるのを知っているから。
「ああああああああああっ!!!!!」
残り10m。観客のボルテージが最高潮に達し、そして──
『ダノンディザイア2冠達成! 樫の栄誉をその脚で掴んだのは桜の女王、ダノンディザイアです!』
─────
速度を徐々に落としながら1コーナーから2コーナーまで駆けていく。着差だけなら大接戦だった前走よりは開いていたけれど、やはり800mの距離延長が響いたのか、今にもターフに体を投げ出すように横になりたかったけれど、我が一族の一員たる者の矜持がそれを許さなかった。ただ先んじて軽いストレッチだけは行っておく。それこそウイニングランの途中に足が攣ったら意味がないから。
(何万人もの観客の方が私の勝利を祝福してくれている……)
私以外の17人が帰路につき、私だけがターフの上に残った。ゆっくりと、ゆっくりとスタンドへと近づくにつれて大きくなる歓声に私は何度も何度も手を振る。大半の方が私以外のウマ娘を応援していたはずなのに、それでもなお私に声援を送ってくれる。手を振っても振っても返しきれない。声を張り上げても、この大歓声の中では全員には届かない。ならば。
「声援ありがとうございます」
スタンド近くで立ち止まり、深々と頭を下げる。声が届かない、ならば動きで示してしまえばいい。1秒、2秒、3秒。感謝の念はまだまだ伝えきれないけれど、1人でも多くの方に届いていたら嬉しい。
「ふう……ただいま戻りました」
ウィナーズサークルから地下バ道を通り、自身の控え室へ戻る。息をもう一度整え扉を開けた先には、トレーナーさんとお姉さまが私を待ってくれていた。
「おめでとう!!!!!!!!!!」
「わふっ……」
桜花賞のときと変わらず抱きついてくるお姉さまを正面から受け止める。柔らかいものが2つ当たっているけれど、おそらく気にしたら倒れてしまうだろうから考えないことに決めた。
「おめでとう、ザイア。完璧だったな」
「しかし私はトレーナーさんに立てていただいたプランを実行したまでです。貴方の指導の賜物です。ありがとうございます」
お姉さま越しに祝福の言葉を贈ってくれるトレーナーさんへ私は彼のおかげだと謝意を伝える。
「そんなことは……あるけど、それを成功させたのは君自身だから。礼は素直に受け取っておくよ」
「実況の人も他の観客の人も控えるんだってびっくりしてたよ。ハナを取りにいかないんだって」 「まあそのための仕込みだったからな。デビュー戦から桜花賞まで思いっきり逃げさせたのは」 「ザイアがそんなに飛ばしてなかったのに後ろの子たちが追いかけなかったのって、たぶん、というか絶対そうだよね。2400mなのにあのペースについていったら駄目だって勘違いしちゃってた」
頬をスリスリ、頭をナデナデ。至れり尽くせりの祝福を受ける中、私は2人の話を少しぼーっとしながら聞いていた。それにしてもお姉さまは相変わらずいい香り……
「確かに先頭の子は飛ばしていたけど、ザイアは平均ペースだったからな。でもいくら作戦勝ちっていっても、例年なら中団から何人に差されてもおかしくない流れだったからな。単純にザイアの能力が高かったからできた芸当だよ」
「やっぱりザイアは凄いなー これは盛大に祝勝会を……って来週私のダービーあるからそのあとだね」 「ああ。今度は2人まとめてぱーっとやろう!」
そうだ、来週はお姉さまの日本ダービーがある。私も早く回復してサポートに努めなければ。
「私も頑張りますね!」
「ザイア? 来週頑張るのは私だよ?」 「応援を頑張るってことじゃないかな」 「なるほど。ザイアのためにも頑張るね」
私たちは足を止めない。たとえ躓いてしまっても転んでしまっても、また前を向いて歩みを進める。夢に向かって一歩、また一歩と止まることなく着実に。
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+ | 第33話 |
オークスがザイアの勝利で幕を下ろした翌日、朝からボクたちの教室はそれはもう大盛り上がり。今からここでライブでも始まるんじゃないかというぐらいの熱気がこの一室を包んでいた。
「副委員長おめでとー!」
「ありがとうございます」 「秋にはトリプルティアラだね……頑張ってね!」 「はい、これまで以上に努力いたします」 「ねえみんな、せっかくだし胴上げしない?」 「……はい?」
ザイアが一人一人丁寧に接していたところ、誰かが彼女を胴上げしようだなんてこのボルテージの中で言ってしまったから、もうみんなその気になって机を動かし始めてしまった。
「ちょっとみんな、これ何の騒ぎ?」
「外まで声めちゃくちゃ漏れてんぞ」 「お姉さま!!!」
机が端に寄せられ、教室の真ん中にぽっかりとスペースができたタイミングでエスキモーとルージュが登校してきた。状況が飲み込めずあたふたしていたザイアは、一目散にエスキモーの元へと走っていく。
「どうしたの、ザイア? 何か怖いことでもあった? よしよし」
「もうこれ親が自分の子どもにするあやし方じゃね?」 「クラスの皆さんが私を祝ってくれるのは嬉しいのですが、なぜか急に私を胴上げしようと話が進み……」 「2人ともごめんね。ちょっとボクにはこの勢い止められなかったんだ」
かくかくしかじかとボクとザイアの2人で説明をすると、エスキモーはうんうんと相槌を打ちながら話を理解してくれた。そしてその彼女が教室のクラスメイトにこう言い放った。
「みんな、いくらザイアのことお祝いしたくても教室で胴上げは駄目。スカートだし、なにより落ちたら危ないの」
「流石ですお姉さま……」 「締めるところはちゃんと締めるだもんね、君は」 「ちゃんとあいつも委員長してんじゃねえか」
三者三様、このクラスの委員長たる彼女を褒め称える。他のクラスメイトも頭が冷えたのか、そうだったと机と椅子を元の場所に戻しかけたそのとき。
「だったら落ちても大丈夫なように下に柔らかいマット敷いて、みんなでジャージに着替えてやろうよ! 私もやりたい!」
1秒、2秒……教室内の時間が止まる。エスキモーもみんなの反応が予想外だったのか、笑顔のままフリーズしていた。
「あ、あれ? みんなやりたいんじゃなかった?」
最初に口を開いたのは場を凍らせた彼女だった。すると彼女の言葉を皮切りにみんなのボルテージが一気にマックスになる。今からでも体育館にみんなで乗り込もうかと誰かが言い出しかねないタイミングで、キンコンと教室にチャイムが鳴り響き、担任の先生が教室に入ってきた。
「はい、朝礼を……ってみんなどうしたんだ? 祭りでも始めるつもりか?」
怪訝な表情を浮かべて教室を見渡す先生に何があったか説明しようか迷ったけど、今すると余計なことになりそうなのでやめた。エスキモーが怒られるかもしれないし。
「……まあいい。委員長、号令」
「起立、礼。おはようございます」 「「「「「おはようございます!」」」」」 「着席」
朝の挨拶を済ませると、ご覧の通りいつものクラスの雰囲気に戻る……外面だけ。
(やるなら昼休みかな。でも昼ごはん食べないとだし、放課後すぐに体育館に行ってやるのかな)
みたいなことを考えながら、先生の話をぼーっと右から左へ聞き流す。夏合宿の話もあった気がするけど、また配られたプリントに目を通しておけば済みそうな話ばかりだったと思う。もし困ったらエスキモーかザイアにでも聞けばいい。
「──という話があったので、トレーニングに遅れてしまいました。トレーナーさんごめんなさい」
「原因の半分エスキモーじゃないか……ごめんな、レイン」
結局胴上げは無事(?)に放課後に行われた。ザイアは朝と違って覚悟ができていたからあまりあたふたしていなかったけど、それでも本当にやるのかと何度も確認をエスキモーにしていたのが妙に記憶に残っている。
「ボクも参加しましたし、トレーナーさんは謝らないでください。とにかく早くトレーニング始めましょう」
「ダービーに向けて追い込まねえといけねえからな」 「ああ。2人ともダービーは絶対勝つぞ!」 「「はい!(おう!)」」
─────
「──ってトレーナー言ってたけど、勝つのはオレだからな」 「ははっ、ルージュって面白い冗談言うんだね」 「冗談じゃねえからな?」 「はいはい。今日遅れちゃったんだし、早くコース行こ?」
ミーティングが終わりレインとトレーニングコースへ向かう最中、軽く喧嘩を吹っかけてみたら軽くいなされてしまう。皐月賞に出られずダービー1本に絞ったせいで焦ってるのかと思ったら、全くそんなことはなかった。
(余裕あるってことかよ。皐月勝ったオレとエスキモー相手に)
もう1年以上の付き合いになるから、こいつのことはなんとなく理解ができてきた。なんか無理してんなと思うときはやっぱり無理をしているし、元気にしてんなと感じるときはやっぱり調子がいい。今日は明らかに後者だ。
(つってもオレも体調は悪くねえし、むしろようやくエンジンが暖まってきたとこだ。やすやすと勝ちを譲ってたまるかよ)
蒼い髪が駆けて揺れる。陽光が差し込む双眸の輝きはまるで海のように深く青く。一回り大きい君に置いていかれないよう、一歩一歩をいつもより大きく広げ走る。
「どうしたの、ルージュ。ボクの顔に何かついてる?」
「ああ。自信っつー、オレからしたらめんどくせーもんがな」
なーんてポエムってても仕方ない。勝つために1秒でも長くトレーニングしないとな。
─────
その日の夜。寮の一室にて。
「ザイア〜、機嫌直してよ〜」
「つーん。結局胴上げを止めてくれなかった人は知りません。私が知っているのはどんなときも華麗で優雅に、それでいてどこをとっても隙がない、立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花を体現した、締めるところは締めるお姉さまだけです」
あのあとお姉さまは体育館の使用許可をもらいに行き、本日最後の授業後に本当に私の胴上げを取り仕切った。私を祝おうという気持ちはとても嬉しかったけれど、できれば最後まで守りきってほしかったのが本音だ。
「むぅ。どうしたら機嫌直してくれるの?」
「……私の言うことを1つ聞いてもらえれば直るかもしれません」 「変なお願いじゃなかったらなんでもいいよ。えっちなこととかは勘弁してほしいな」
ということを考えている間にちゃっかりなんでも1つお願いを聞いてもらえることが決まった。流石にえっちなことは最初から頼むつもりはなかったのだけれど。
「では……明日は1日中ずっと私の側にいてくれませんか? 朝はお姉さまの『おはよう』で目が覚めて、夜はお姉さまの『おやすみ』で寝させていただけるなら、今日のことは不問にします」
本当は1週間ほど要求してもよかったのだけれど、週末にはダービーも控えている手前、私のことでレースに悪影響を与えたくない。ならば1日だけでも私とずっと一緒にいてほしいと願うのも強欲だろうか?
「ザイアのお願いだもん。ちゃんと守るよ」
お姉さまはそう言って携帯を取り出すと、誰かへメッセージを送るのか、文字を素早く打ち込んでいるようだった。送信ボタンを押したのか一息つく、携帯がピコンと音を鳴らしたのに反応してまた打ち込む、その繰り返し。
「うん、これで大丈夫。とりあえず確認するけど、授業中とお手洗い以外は全部って認識でいい?」
「はい。本当であれば授業も席を入れ替えてほしいところですが、流石にそれは無理ですから。あとご飯もあーんしてほしいですし、お風呂でも髪や尻尾、背中も洗ってほしいです」 「なんか違う気がするんだけど……まあいいか」
そう言うとお姉さまは手をぱんと叩き、私の隣へと腰を下ろす。ここまでは普段寝る前もしていることで特に驚きもしなかったのだけれど……
「それでは1日お供しますね、ザイアお嬢様」
「!?!?!?」 「なーんてね。ふぅ〜……かわいっ!」 「んっ♡ ちょっとお姉さま!」
耳元でお嬢様と囁かれ、私の防御が緩んだ隙を突いて耳に息を吹き込まれてしまった。思わず矯声を発してしまった私を見て、お姉さまはくすくすと笑う。
「明日、楽しみだね?」
「て、手加減していただけますか……?」 「それは明日の私次第かな?」
私のお願いを聞いてもらったはずなのになぜだか鳥肌が立つ。もしかして私はとんでもない頼みごとをしてしまったのではないだろうか。スイッチが入ったお姉さまを止める術を今から考えて……
「ほら、いつもみたいに一緒に寝よ?」
諦めるしかなさそうだ。
─────
日本ダービーが4日後に迫った朝、オレはキッチン越しに昨日の顛末をエスキモーに教えてもらっていた。
「一昨日の夜聞いたときはどういうことかと思ったけど、そんなことになっていたんだな」
「私としては誠心誠意やったつもりなんだよ? からかう気持ちがなかったといえば嘘になっちゃうんだけど」
朝は耳元で『おはよう』と囁かれ、ご飯も全部『あーん』と食べさせてもらい、どこかへ移動するときは腕を組み、お風呂では髪と尻尾と背中を丁寧に洗ってもらう。これら全て自分が慕っている相手にしてもらうとなれば、それはもう感情が大変なことになるだろう。トレーニングに身が入っていなかったのも当然か。
「それ周りには何か言われなかったのか?」
「最初はクラスの子にびっくりされたけど、事情説明したら理解してくれたよ。むしろ『自分たちも悪いから自分も』っていう子もいたぐらいだし」 「いいクラスだなあ。ザイア本人は大変だっただろうけど」
いくら名門の一族出身とはいえ、クラスメイトにある意味ちやほやされるのは慣れていないはず。今日もまだ気持ちは休まっていないだろうから、彼女のメニューは軽めにしよう。ただそれはそうと。
「エスキモー」
「どうしたの? ご飯とお弁当はもうちょっと待ってね」 「それはありがたいんだけどそうじゃなくてだな……」 「じゃあなに?」
畏まったオレの顔を見て、彼女はお弁当におかずを詰め込む手を止める。時計の針がカチカチと鳴る中、オレは彼女に伝える。
「ここは“夢”じゃないからな」
彼女が驕らないことは分かっている。『“夢”で見たからこの世界でも』なんて考えるなんてしない聡明な子なのは分かっている。それでも伝えておきたかった。
「分かってる、分かってるよ」
「だったらいいんだが……」 「相変わらず心配性だね、トレーナーは」
微笑む彼女の本心は分からない。その瞳の先に何を見ているのか、真意を見抜くことはできない。
「ちょっとこっち来て?」
「ん? 分かった」
ダイニングチェアから立ってエプロン姿の彼女の隣に立つ。どうしたのかと聞こうと口を開いた刹那。
「はい、あーん」
「むぐっ……」
開いた口に玉子焼きを1つ押し込まれた。
「どう? 玉子焼き、おいしい?」
「……うん、おいしいよ」 「よかった。それじゃお弁当はこれで完成。それと朝ごはんも準備できたから、運ぶの手伝ってくれる?」
彼女の笑顔を見る限り、きっと杞憂だったのだろう。逆にオレの心配を彼女に押しつけてしまったのかもしれない。
「ごめん。それといつもありがとな」
「どうしたのいきなり?」 「ううん、なんでもない」
彼女の頭を撫で、頬に軽く触れる。優しく微笑む彼女を曇らせたくないな。なぜかそう強く思った不思議な朝だった。
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+ | 第34話 |
時は進み木曜の午後、いよいよダービーの出走者と枠順がURAより発表された。有力視されている3人の枠を見てみると、最内1枠1番にレインが入り、真ん中の4枠8番にはエスキモー、そして外の7枠14番にはルージュが入る格好になった。
「枠だけ見ればレインが一番か。エスキモーも悪くは……いやちょっと待てよ……」
後入れの偶数枠かつ若干ではあるが内枠を引くことができたのは好材料のはずなのに、どうしても何かが引っかかる。
「そういえば4枠からダービー勝った子って最近いたっけ?」
目の前のパソコンの検索画面にカタカタと『日本ダービー 枠順別成績』と打ち込みエンターキーを叩く。ずらりと出てきた何万件もの検索結果の中からサイトを開いては閉じ、開いては閉じを繰り返す。そして4、5回同じ動作を行ったのち、ようやく求めていた情報を見つけることができたのだが……
「日本ダービーがフルゲート18人で行われるようになってから4枠から勝利したウマ娘は一人たりとも存在しない……」
そこに記されていたのは衝撃の事実だった。かの皇帝シンボリルドルフを最後に勝利したウマ娘がいないまさに鬼門の枠。
「有馬記念の大外枠や新潟レース場の直線1000mの1枠みたいに多少説明がつくものだったら分かるんだよ……」
前者はスタートしてすぐにコーナーがあるため、後者はまっすぐに走っても荒れたバ場を進まねばならないし、芝の状態のいい外に寄ればコースロスが生まれるから。ただダービーの4枠の成績の悪さだけはオレの頭では説明できない。
「あの子は聡いから、オレが言わなくても気づくはず。かといってオレの口から言ってプレッシャーをかけてしまうのは論外……うーん……」
椅子から立ち上がってトレーナールームをぐるぐると回ってみても答えは見つからない。誰かに相談しようと思い携帯を手にするが、ライバル2人のトレーナーの名前が先頭に出てきて肩を落とす。
「いくら元チーフとはいえ今じゃあの子のライバルのトレーナーだもんな……あっ、そうか」
ピンと閃く。そうだ、そうすればいいじゃないか。慌てて席に戻り、キーボードをまたカタカタと叩く。そして出てきた対戦相手の情報は、今のオレの考えがぴったり当てはまるものだった。
「よし……それじゃ当日の作戦は……」
別画面で開いている対戦相手17人のデータを横目で見つつ、ブツブツと念仏のように唱えながらダービーの戦術をまとめ始める。もし誰かが今この部屋に入ってきたらドン引きされるかもしれないけど、そんなことに気を遣っていられない。エスキモーの勝利のため、オレはパソコンとにらめっこしながらただひたすらに手を動かしていた。
─────
その日の放課後、軽く流す程度のメニューを済ませた彼女とダービーに向けての詰めの作戦会議を行った。ちなみにザイアは昨日エスキモーたちにべったべたに甘やかされたのが若干トラウマになっているらしく、エスキモーと1人分のスペースを空けて話を聞いていた。
「……うん、分かった。やってみるね」
「皐月賞はマージンを取りすぎた。今回は攻めていくぞ」 「はーい」
彼女の返事を最後にミーティングを終わらせる。トレーニングが軽くコースから直行で来てもらったこともあり、風邪をひかないようシャワーを浴びてから寮に戻るようオレは2人を促した。当然そのまま2人で一緒に行くものだと思っていたら……
「ザイア、一緒にシャワー行こ?」
「申し訳ありませんがお姉さまは先に向かっていただけますか。私はトレーナーさんと少し話がありますので」
と、なぜかザイアの方から断りを入れた。しかもオレに用? 何かあったっけ?
「ふーん……? トレーナー、ザイアに変なことしちゃ駄目だからね」
「するわけないだろ……ほら、早く汗流してきな」 「はーい……あとでザイアに聞くからね」
なぜだか恨めしそうにこっちを見ながら部屋を去る彼女に苦笑しつつも手を振り続けた。そして廊下の先で見えなくなるまで彼女を見送ってから、部屋に残ったザイアに向き合う。
「どうしたザイア? エスキモーに聞かれたくない話でもあったのか?」
オレの問いかけに目線が泳ぐ彼女。沈黙が部屋を覆いかけた瞬間、意を決したように彼女はオレの胸元近くにまで身を寄せてきた。
「トレーナーさん、お願いがあります。聞いて、いただけますか?」
揺れるツインテール。軽いトレーニングのあとなのに頬が赤く染まっているのは、窓から差し込む西日の仕業か、それとも。
「で、できる範囲なら」
そう返すしかない。だって上目遣いでオレを見つめる彼女はエスキモーとはまた違った気品と可愛さが備わった可憐な少女で。もし先に彼女と出逢っていたらと思わせるほどの愛らしさがすぐ手の届くところにあったのだから。
「ありがとうございます。でしたら……」
唾を飲み込む。はたしてこの状況でどのようなお願いを申しつけられるのか。どうかエスキモーが許してくれる範囲でと天に祈りを捧げる。
「少々頭を撫でていただけませんか?」
「……は?」
思わず声が出る。逃げると思っていたウマ娘がまさかの最後方待機を選択したときのような、そしてなぜか直線で全員撫で切ってしまったときのような少し間の抜けた音が口から漏れた。
「昨日の出来事はお姉さまが全て話したと伺っております。間違っておりませんか?」
「ああ、うん、聞いているよ。大変だったみたいで」 「お気遣いありがとうございます。おそらくお気づきだと思いますが、本日若干お姉さまと距離を置いていたのもそのことが原因でして……」
目を逸らし、頬が若干朱色に染まる彼女。たぶん昨日のことを思い出しているのだろう。おそらくトラウマより恥ずかしさの方が勝っている気がする。
「うん、そこまでは理解できた。けどそれがどうしてオレに頭を撫でてほしいことに繋がるんだ?」
「中和できるかと思いまして。昨日は頭だけでなくいろいろな部分を……んんっ! いえ、なんでもありません。忘れてください」 「お、おう……とりあえず頭を撫でればいいんだな?」 「はい、よろしくお願いします」
こうお願いされて女の子の頭を撫でるというのはなんだか不思議な感覚に陥ってしまう。彼女の改まった姿勢から来るものなのか、それとも別の何かが原因なのか。分からないままそっと彼女の頭に手を置き、まるでシルクのような美しい髪に数度手を滑らせる。
「んっ……」
「これでいいのか?」 「……はい、ありがとうございます。これで幾分か中和されたかと」 「よかった。それじゃ、冷えて体調崩さないうちに汗流して寮に戻ること」
オレの忠告にこくりと頷いた彼女はたったったと跳ねるように扉の方に向かい──
「このことはお姉さまに内緒、ですよ」
人差し指を唇に当て、いたずらっ子のように微笑んでから部屋を去っていった。
「やっぱり年頃の女の子ってよく分からないな……」
お嬢さまといってもまだ中等部の少女。まだまだ接し方を勉強しないといけない。そんなことを考えながら席に戻る。そのタイミングで携帯がピコンと音を立てた。
『な に も な か っ た よ ね ?』
相手は見なくても分かる。メッセージ越しに浮かぶ彼女の表情と、さっき部屋を去った彼女の表情。2人の少女の顔を思い浮かべながら、オレは指を震わせながら彼女への返事を打ち込んだ。
……結果としては丸く収まった。結果としては。
─────
ダービー前日の朝、いつもより早い時間に目が覚めると、まだ腰に腕が回されていることに気がついた。珍しいこともあるものだと思いながら、もう少しだけこの時間を堪能したくて再び目を閉じた。世間で言う二度寝である。
(いいよね……いいよね……いいよね……このまま……)
脳内で静かに流れ始める『彩 Phantasia』。最初は速かったBPMも微睡みとともに徐々にペースダウンしていく。間延びして、間延びして、頭の中から音が消えかけたそのとき……
「あっ……こんな時間まで寝ちゃってた……あれ? ザイアもまだおねむ?」
眠そうなお姉さまの声がすっと耳元に届き、頭が瞬時に目を覚ます。お姉さまに情けない姿を見せまいと脳に血液を送り込み素早く意識を覚醒させた私の心臓を褒めてあげたい。
「いえ、完全に起きています。おはようございます、お姉さま」
「さっきまで寝てた気がするんだけど、まあいっか。おはよ、ザイア」
横たわっていた体に力を込め、見ている世界を90度回転させた。そうして視界に入ってきたのはかすかに照らされた私たちの部屋。カーテンから漏れた太陽の光はすっかり太陽が昇ったことを私たちに示してくれる。まあそれはそれとして。
「起きられてすぐに恐縮なのですが、1つ聞いてもいいですか?」
「いいよー」
今お姉さまに聞きたいこと。それは──
「今日は朝早く出かけられなくていいのですか?」
いつものルーティンと異なったムーブメントをしているのであれば聞かざるを得ない。念のため答えにくかったら大丈夫だと申し添えたけれど、お姉さまは私を膝の上に乗せたまま正直に答えてくれた。
「ダービー前日だからって朝の用事がなくなったの。だから今朝はこうやってザイアとふたりっきり。もしかして嫌だった?」
「そんなことはありません!!! ……すいません、つい声が大きくなってしまって」
嫌なはずがない。むしろ私のわがままが許すのであれば、毎日こうして朝を迎えたいほどなのだから。
「そっか、よかった。ねえ、ザイア」
「どうされましたか、お姉さま?」
いたずらっぽい、いや幼気と言った方が適切だろうか、ニヤリと浮かべた笑みに私は頭に疑問符を一瞬浮かべる。ただその疑問符は……
「まだ時間あるし……ちょっとだけ二度寝しちゃおっか」
「おねえしゃまぁ……♡」
お姉さまのその一言でハートマークに変わる。そして再びベッドに体を沈めた私たちはわずかな幸福の時間を目いっぱい堪能するのだった。
─────
「ごめんね、前日のアップにまで付き合ってもらって」 「いえ、皐月賞のときもご一緒させてもらいましたから」
わずかな時間の二度寝のあと、顔を洗い寝間着から着替え、軽く朝食を摂ってから私たちは学園のコースへ足を運んだ。もちろん目的はお姉さまのダービー前最後のトレーニング。ただトレーニングといっても体を慣らす程度のもので、体が暖まった程度でお開きとなった。
「今日はトレーナーさんは来られていないのですね」
「うん、今日はレース場に行って直前のレース傾向を見に行くんだって。もちろんこのトレーニングのことは承諾もらってるよ」
火照った体に浮いた汗をシャワーで洗い流しながら、先ほどまでのお姉さまとの会話を思い出す。耳の先から尻尾と足の先まで丁寧に洗ってから、持参したタオルで髪と体を拭き、再び制服に身を通す。
「お姉さまは……まだみたいですね」
シャワーを浴びる前、『私より先にシャワー上がったら、先に寮に戻っていていいからね』とお姉さまから言われはしたけれど、2人で来た道を1人で帰るのはなぜだか寂しく感じてしまった。だから私は今こうして校門の側でお姉さまが来るのを待っている。
「ごめんね、ザイア。待ってくれてたんだ」
「いえ、私がお姉さまと帰りたかっただけですから」
つまりわがままですと私が言うと、そっかと貴女は柔らかく微笑む。
「せっかくだし手繋いで帰ろっか。それとも腕組みたい?」
「それはまだ心の整理が……」
明日がダービーなんて思えない朗らかな帰り道。ふと見上げた空に浮かんでいたのは太陽、ただそれだけだった。
─────
ダービー前夜。といっても決して遅い時間などではなく、まだゴールデンタイムにもなっていない時間帯、気分転換にとレースに関係ない動画を携帯で見ていると、メッセージの通知が画面を覆った。
その相手はエスキモーだった。すぐに動画の再生を止めて、メッセージアプリを立ち上げる。そして先頭に出てきた彼女の名前をタップすると、連なった会話の下に一文こう書いてあった。
『今、話せる?』
その言葉を見ていろんな可能性が脳内を巡る。何かあったのか、それとも。とにかくオレは急いで返事をした。
『いいよ。かけてきて』
送信ボタンを押した直後に独特の着信音が鳴る。オレもすぐに通話ボタンを押し、そのまま携帯を耳に当てた。
『トレーナー、ありがと』
「気にしなくていいよ。それで何かあったのか?」
もしかしてトレーニング中に何かあったのか。いやでも彼女のことだから、些細なことでもすぐに連絡してくれるはず。だとしたら一体。
『ううん。トレーナーの声、聞きたかっただけ。今日会えなかったから』
しかし返ってきたのは少し拍子抜けする答え。でも恐れていたことは全くなくホッと
胸を撫で下ろす。
「思ったんだよ。レース前日に早起きしてオレの家まで来てもらって、それで3食作ってもらうってなんて無理させてるんだって」
少し考えてみれば当たり前のこと。朝早く起きて自分のトレーナーのために時間を割いて。夜もそうだし、休日もそう。他のウマ娘より体に負荷がかかっているのは当然の道理。本当はオレ自身でやらないといけないことなのになんて情けないことか。恥ずかしくなってくる。
『全然そんなことない。私が好きでやってるだけだもん。ほんとだったら今日も行きたかったんだよ?』
それでも優しい彼女は寄り添ってくれる。ならオレが言えることは。
「ありがとう。でもオレもいろいろ頑張ってみるよ。この競走生活が終わっても君を支えられるように。少しずつだけど」
いつまでも君の隣にいるという決意。ただそれだけ。
『ふふっ。それじゃ楽しみにしてるね、将来の旦那さま?』
なんてオチをつけようと思ったら彼女がとんでもないことを言い出し、慌てて彼女の状況を確認する。
「おい!? 今どこからかけて……誰も周りにいないだろうな!?」
『もう、慌てすぎ。誰も近くにいないから安心して?』 「本当か……? はあ、1年ぐらい寿命縮まるかと思ったよ」 『それはやだから今度から気をつけるね』 「本当にな……」 『それじゃあおやすみ。また明日ね』 「ああ、おやすみ」
彼女の方から切られたのを確認してソファにぐでーっと横たわる。数分だけなのに冷や汗が二度背中を伝った彼女との通話。
「シャワーだけもう1回浴びてくるか……」
ぼやきながら立ち上がり、とぼとぼと風呂場へと歩いていく。レースは明日なのになぜか既に疲労が体を包んでいる。何はともあれ、シャワーを浴びて髪を乾かしたら寝室に行こうと心に誓いながら風呂場へ続くドアのノブを捻った。
─────
「おかえりなさい、お姉さま。なんだか幸せそうな顔をされてますね」 「そうかな? えへへ」
夜、寂しそうな顔をしながら電話してくると部屋から出ていったお姉さまが笑顔で戻ってきた。
「何があったのか聞いても?」
「うーん……内緒!」 「内緒なら仕方ないですね」
きっとトレーナーさんと話してきたのだろう。でもお姉さまから話されない限り深く突っ込まないようにする。なにせお姉さまが幸せなのが私の幸せなのだから、無理に問い詰める必要なんて一つもない。
(この調子なら明日はきっと……)
明日は勝てますように。それだけを誓いながら、私は今日この一日の幕を下ろした。
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+ | 第35話 |
迎えたダービー当日の朝。カーテンから漏れる太陽の光で自然と目を覚ます。枕元に置いている携帯の画面をつけると、そこには午前6時を示す数字4桁が表示されていた。
「顔洗って朝飯食べるか……」
ベッドから起き上がってうんと背伸びをすると、カーテンを開けて全身で日光を浴びる。気持ちいいほどの晴天は今日の祭典を祝うかのよう。降水確率は午前、午後ともに0%。絶好のレース日和になりそうだ。
「できる限りのことはした。あとは天命を待つしかない」
冷凍のおにぎりをレンジで温め、ポットでお湯を沸かす間も作戦のチェックは怠らない。ただ今までと違うのはレースの朝なのに家に1人だということ。
「これから慣れていかないとな」
ポツリと零したところでレンジがチンと鳴る。オレは温まったご飯をお茶碗に移し替えると、お箸とともにダイニングテーブルへと運んだ。
─────
朝、ダービーの朝。それは普段と変わらないように思えるけれど、寮の中にはどことなく緊張感が走っている。当然出走者はみんな寮暮らしだから、お互いに鉢合わせることもある。
「あっ、おはよレイン。よく眠れた?」
「おはようエスキモー。ぐっすり眠れたよ。そっちは?」 「もちろん! 私には快眠グッズがあるからね」 「ちょっとお姉さま……!」
ただこの2人は特に不穏な空気を漂わせることはなく、私には普段通りに見える。しかもお姉さまに至っては軽口を叩けるほどにリラックスした雰囲気を纏っている。
「ザイアもおはよう」
「おはようございます、レインさん」
レインさんもいつもと変わらない。朗らかに笑う姿を見ると、今日がダービーだということを忘れそうになるほどに。
「よかったら朝ごはん一緒に食べない? ザイアもいいよね?」
「ボクはいいよ。3人で食べるのなんてなかなかないから」 「私も問題ありません」
周囲の緊張をよそに3人の時は進んでいく。壁に掛かっている時計の針を見ると、運命の刻まであと9時間を切っていた。
─────
携帯のアラームが鳴ったのを左手の親指ですぐに止める。目覚ましをかけた5分前には既に目が覚めていた。ただどうしてかそのまま体を起こすという選択肢を取らなかったオレは、ご覧のようにアラームが鳴るまで静かにベッドで横たわっていた。
「今日がダービーか……」
勝つ自信は当然ある。あの2人が相手だとしても負けるつもりはない。そうでなければ出る資格なんてない。他にダービーに出たい奴なんてゴロゴロいるんだから、そいつらに権利を譲ってやればいいだけの話。
「世界のてっぺんに立つんだったらここで負けてる場合じゃねえ」
同室の先輩は既に朝練に行っているのか、もう部屋にはいない。オレの決意は誰にも聞かれることがなく、壁に床にと吸い込まれていく。
「あの人みたいになるんだからよ……!」
そのためにも今日は、絶対。
─────
朝食を摂って朝の支度を済ませると、トレーナーさんから携帯にメッセージが届いた。
『おはよう、レイン。よく眠れたか?』
親子揃って同じことを聞いてくるのかと笑いながら返事を打ち込む。
『おはようございます、トレーナーさん。昨日はよく眠れました』
送った一文に既読がつくのをベッドに腰掛けながら待つ。おそらくルージュや他のチームの子、もしかしたらエスキモーにもメッセージを送っているのかもしれない。なんてことを画面を見ながら1分、2分と考えていると、ようやくボクのメッセージに既読の2文字がついた。
『それはよかった。なら予定通りの時間に校門前に集合な』
すぐさま了承の旨のスタンプを送り、携帯をポケットに滑り込ませる。集合時間まではまだ余裕があるし、念のため忘れ物がないか確認するために鞄のチャックを開く。
「そういえばずっと前に父さんに送ったメッセージ、まだ既読がつかないな……」
ボクの父さんは商社勤めで毎日のように世界中を飛び回っている。日本に帰ってきても数日でまた出ていくから、2人で話すことなんて全然したことがない。ましてやレースを観に来てもらうなんてことが叶うはずもない。
「1回でいいから……いや今はそんなこと考えてる場合じゃない。とにかく今日勝つためにできることをしないと」
部屋を照らす太陽は眩しく輝く。ボクは光が差し込む窓に背を向ける。頭から鬱屈な想いを追い出したくて上げる声は、最後まで誰にも聞かれることはなかった。
─────
昼過ぎ、昼食を済ませた私たち3人は控え室で待機していた。もちろんお姉さまは数時間後にレースが控えているので、既に勝負服に着替えている。
「さっき観客席覗いてきたんだけど、やっぱりお客さんすっごい入ってるね」
「なんといってもダービーだからな。今の時点で10万人以上入場しているらしい」 「オークスの際でも多いと感じましたがそれの2倍弱……恐ろしいですね」
皐月賞と比較しても倍以上の観客数に恐怖すら感じてしまう。ただお姉さまはその数字を聞いても全く物怖じする様子を見せなかった。むしろそれほどのお客さんに自身の走りを披露できることに喜びを感じているのではないかと思うほどワクワクしているように見える。
「お姉さまは緊張されないのですか?」
笑顔を崩さないお姉さまについ尋ねてしまう。現地で10万人以上の方に視線を注がれ、そこにテレビやネット中継が加わる。常人であれば平常心を保つことが難しい状況下でなぜ胸を弾ませることができるのか、心躍らせることができるのか。
私の問いかけにうーんと唸ってから紡ぎ出したお姉さまの答えは少し意外なものだった。
「慣れたから、かな」
「慣れた……?」 「1人に見られるのと100人に見られるのはもちろん違うし、100人に見られるのと1万人に見られるのでもやっぱり違うなって思う。そこは間違いないんだけどさ」
指折りながら語るお姉さまの話を静かに聞く。トレーナーさんも邪魔することなく、お姉さまの隣で手元のタブレット端末を触りながら耳を傾けていた。
「それが5万人とかになると、そこでもう『いっぱい!』って思うの。また100万人に見られてるってなると話は違うかもしれないんだけど、5万人に見られても10万人に見られても私としては同じかなって」
「今年の皐月賞の観客も5万人ぐらいだな」 「うん、だから慣れてるって言い方が1番正しいと思う。これで答えになってるかな?」
話を聞いていて思う。もしかするとこれがお姉さまの強さなのかもしれないと。どのような舞台でも平常心を保つことができるその芯の強さこそがお姉さまの最大の武器なのではないかと私は理解する。
「はい、ありがとうございます。私もお姉さまみたいになれるよう精進いたします」
「まあそれはそうと……」 「それはそうと?」
お姉さまは首を傾げた私に向かって歩いてきて私の左手を握る。そのまま元の席に私を引っ張っていくと……
「レース前はやっぱりこれだよねー」
「ですからお姉さま、匂いを嗅がれるのは恥ずかしいです……んっ……♡」
膝の上で私を抱く。レース前にルーティーンになっているのは分かっていても、やはりどうしてもドキドキしてしまう。
「リラックスは大事なことだけどな……ザイアも嫌なら言っていいんだぞ……」
「お気遣いいただきありがとうございます……どうしてもとなった際はお願いします……」 「落ち着くなー」
リラックスするお姉さま、そんなお姉さまの為すがままな私、そんな私を心配してくれるトレーナーさん。ダービー前とは思えない解れた空気がこの部屋を満たしていた。
─────
『さあ、いよいよ決戦の時が近づいてまいりました。本日のメインレース、東京優駿、日本ダービー!』
足の踏み場もないほどの観客の数。エスキモーがパドックに向かう直前まで控え室にいたとあれば、いつものようにゴール前の最前列で観ることが叶わないのは当然の理。ゴール板を正面に見ることができるスタンド最後方をオレとザイアは確保することができた。当然周囲の観客の盛り上がりは他のGⅠとは比べものにならない。
「ザイア、見えるか?」
「背伸びすればなんとか……テレビではもちろん録画済みですけれど、やはりお姉さまの勇姿は生で……うーん……」
ぴょんぴょんと懸命に跳ねる彼女にどうにかしてレースをはっきりと見せてあげたい。
「最後方から見る方法……最後方……後ろには誰もいない……あっ」
閃いた。彼女が許してさえくれればこれが最適解かもしれない。ただ……
「あのさ、ザイア」
「見えませんね……トレーナーさん、どうされました?」 「おんぶ、しよっか……?」
周囲の喧騒が嘘のようにオレたち2人の間には無音の空間が形成された。と思ったのもつかの間、彼女はこくりと頷きオレの提案を受け入れた。
「背に腹は代えられません。ただし変なところを触るなどの行為を行った場合お姉さまに報告しますのであしからず」
「お、おう……」
おんぶの体勢的に触りたくなくても触れてしまう可能性がある。ただエスキモーに報告されても困る上にコンプライアンスとしての問題を避けるため、どうにかバランスを崩さず、かつ触れてはいけない位置を頭の中で考え一発で決めることに成功した。
「もう少し上なら報告ものでしたね。とにかくありがとうございます。これで見やすくなりました」
「それはよかった……ってもう入場始まっているじゃないか!?」
オレたちがバタバタしている間にいつの間にか本バ場入場が始まっていた。まず最初に姿を現したのは──
『ジュニア級マイルチャンピオンがここで真価を発揮する! 1枠1番グレイニーレイン!』
最内枠を確保した少女の紺色混じりの黒髪が風に揺れる。ターフビジョンに映し出される彼女の表情から極度の緊張は見て取れず、反対に自信が全身から満ち溢れていた。
「冷静ですね、レインさんは」
「ああ。やはりこのレースにおける1番の強敵は彼女かもしれない」
練習の様子を見ていても皐月賞をパスしたおかげなのか、疲労が蓄積している素振りは全く見せていなかった。指導するトレーナーの育成方針が的確である証拠だろう。ただそのローテーションが嫌われたのか、それとも距離不安からなのか、無敗の朝日杯王者にも関わらず5番人気に甘んじていた。
『皐月の雪辱はこのダービーで果たす! 4枠8番にはメジロエスキモーが入ります!』
さっきより一段とボルテージが上がる。前走の負けて強しの内容とこれまでの実績が評価されたのか、ここでも1番人気に支持されていた。
「流石です、お姉さま。やはりダービーを勝つのにふさわしいウマ娘はお姉さましかいらっしゃいません。近年同枠番から勝利したウマ娘は皆無ですが、そのようなジンクスなどお姉さまを阻む壁にすらなりません。相手がルージュさんであろうとレインさんであろうと関係ありません。ええ、お姉さまが勝ちます。何があろうと先頭でゴールを駆け抜けるのはお姉さまです」
「いきなり耳元で長々と話し始めるのはびっくりするから……」
エスキモーの姿を認めるなり、背負う彼女からの賛美の声が止まらない。驚くから気をつけてと注意しても特に悪びれる様子もなく、ただただエスキモーを称え続けていた。
「調子はさっき控え室で見た通り。観客席へも笑って手を振っているほどだから、ガチガチに緊張しているとは見受けられない。本領発揮間違いなしだな」
「当たり前です。よほど下手な位置取りをしたりペースを読み誤れば付け入る好きは生まれるかもしれませんが、今のお姉さまには片方すら起こり得ない。さすれば結果はおのずと1つに収束します」
もはや祈ることしかできない。どうかベストパフォーマンスを叩き出せるようにとひたすら願う。
『そして登場しました皐月賞王者。ここも制して2冠奪取なるか!? 7枠14番メニュルージュ!』
拍手、歓声。2冠から3冠へ挑戦する権利を有するたった1人のウマ娘が堂々とコースへ姿を現した。身に纏うオーラは周囲を怯えさせるほどにメラメラと燃え盛っている。気合いは十二分にあるように見える。
「ルージュさんは分かりやすいですね。ターフビジョン越しでも見えるほどやる気に満ちているのが分かります」
「ああいったウマ娘はレースで掛かりやすいんだが……はたしてどう抑えるか見物だな」
最後に18人目のウマ娘が入場し、いよいよ発走の時刻がすぐそこまで近づいてきた。爆発寸前の観客席、緊張と興奮と闘志が静かに渦巻くゲート裏の18人。スターターが台に上がり、赤い旗を振る。それを合図に場内に甲高いファンファーレが鳴り響き、観客の拍手と歓声がスタンドを包んだ。
『まずは奇数番号のウマ娘からゲートに入ります。絶好枠の1枠1番を引き当てたグレイニーレインはどのようなレース運びを見せるのか』
少し嫌がる素振りを見せる子もいたが、比較的スムーズにゲート入りが行われる。観客たちはさっきの盛り上がりとはうってかわって口を閉ざし、最後のウマ娘がゲートに収まるのを静かに待っていた。そして──
『駆け抜けろ夢の舞台を! 東京優駿、日本ダービー……今スタートが切られました!』
ゲートが開き、祭典が幕を開けた。
─────
ボクを含めた18人が一斉にゲートから飛び出す。最内枠から外のみんなの出方を伺いつつ、最初のコーナーまでにインの好位につくことができた。
(よし、作戦通り。ルージュはいつもみたいに後ろに下げてる。エスキモーも前走から大きくポジションを変えることはないはず)
激しかった先行争いも1コーナーから2コーナーへ向かう辺りで落ち着きを見せて隊列が固まる。ボクの前には3人ほど縦に並んでいて、首を右に捻ると外に2人ほど雁行状態でコーナーを回っているのが視界に入った。
(背中にそんなに圧は感じない。この辺りでバ群が切れてるのかな)
ただ圧は感じなくても彼女たちは確実に“いる”。虎視眈々と前を伺いながら脚を溜めているのだろう。レースは“14”と記されたハロン棒を通過したばかりなのに、このバックストレッチが最終直線と錯覚してしまうほどにみんなの“勝ちたい”という想いがひしひしと伝わってくる。
(それでもボクは負けない。2人に勝って、世代の頂点に立って『ボクはここにいる』と世界に向かって叫ぶんだから!)
遠くに見える大ケヤキが勝負の分かれ道。脚に今一度力を込め、ボクは長く険しい栄光への道を駆けていく。
─────
残り1200m。ちょうどレースも半分を過ぎた辺り。オレは後方4番手付近で前に構えるエスキモーの姿を正面に捉えていた。奴は最初の1000mまでは内ラチ沿いをキープしていたのに、今はバ群の外へと位置を変えていた。
(あいつの作戦は分かりきってる。序盤はインで脚を溜め、適当なところで外に持ち出してのロングスパート)
普段は聡明な学級委員長様もレースになればゴリ押しがお好きらしい。奴の意外な側面にふっと思わず笑みが零れかけ……
(いや、ちょっと待てよ……)
頭の隅に浮かんだ違和感に真顔に戻る。遠くに見える先頭は3コーナーへと入り、追うようにバ群が後ろに続く。そして残り1000mの標識を通過したところで……
(仕掛けた!? ここで!?)
まだ大ケヤキも過ぎていない。4コーナーにも入っていない。それなのに。
(もしかしてこれまでのレースはフェイクだったってことかよ!)
オレとトレーナーはこう考えていた。
『前走より400m延長されるなら、いくら鍛えても今回も残り800mで仕掛けるだろう』
と。
『離されすぎずに最後の直線で追い込めば勝機はある』
と、そう考えていた。なのにあいつは……!
(タイミングを間違えた? いやあいつに限ってそれは考えにくい。なんでも知ってるみたいなツラしてんのに、ここで焦ってミスるか?)
考えが上手くまとまらないまま迎えた最終コーナー。大ケヤキを越え迎えた最後の直線、奴の背中は遠く届かないところにまで離れていた。
(ごちゃごちゃ考えても仕方ねえ! オレはオレのやり方で勝ってやる!!!)
世界をオレの色に塗り替えるために。世界をこの手にするために。これはその序章に過ぎない。仰ぎ見るがいいオレの姿を。そしてひれ伏せ、偉大な覇者が今ここに君臨する様を御覧じろ。
“The World Is Mine” Lv.1
525mの長い直線。1人、また1人と敗者たちを交わしていく。一瞬映る彼女たちの顔は既に敗北感に塗れていた。オレは優越感に浸りそうになるも、前との差が縮まらないことに焦りを感じ始めた。
(脚はまだ残ってる! 皐月賞の時より突き抜けられる! そのはずなのにどうしてだよ!)
残り約300m。平坦な直線の先に見える栄冠が無限の彼方へ遠ざかっていく。最後の最後まで諦めはしない。しかし脳内に浮かぶ2文字は少しずつ大きくなっていく。
(届か…ない……)
─────
残り200mの標識を過ぎる。残り1000mぐらいから感じていた後方からの圧は息をするたびに大きくなる。ボクはそれを必死に引き剥がそうと歯を食いしばってただ走る。
(ここで負けてたまるか! 栄光を掴むのはボクなんだ! 絶対誰にも譲らない! 譲るもんか!)
「ああああああああああ!!!!!」
最後の力を振り絞り前へ前へと駆けていく。クールな表情がなんだ、勝つためならそんなもの喜んで投げ捨ててやる。見ていろ、これが本当のボクなんだ。
(勝つのはボクだあああああ!!!!!)
それでも神様は非情だった。想いの強さだけで勝とうなど百万年早いんだと、そもそもその想いの強さも勝っているとは限らないんだと、諭すように現実へ目を向けさせる。
残り100m。ボクのすぐ横を一陣の風が吹き抜ける。まるで原っぱを駆けるように、夢をその瞳に映した少女が一気にボクを交わし先頭に立った。それでもボクは食らいついて食らいついて食らいついて──
『ジンクスも屈辱もまとめて吹き飛ばした! メジロエスキモー、今ゴールイン! 驚異のロングスパートで見事世代の頂点の座を射抜いてみせました!』
届くことは、なかった。
─────
場内の拍手の歓声が鳴り止まない。2着につけた差は圧巻の3バ身。完勝だった。
「やっぱり君が1番強い……ザイア、どうしたんだ?」
ゴール直前から叫び声が来ると構えていたのにいっこうに訪れることがない。どうしたのかと後ろを振り返ろうとすると、彼女の耳とオレの耳が衝突した。
「……痛いです」
「ご、ごめん……何があったのかと思って」 「気にしないでください、少し泣いただけですので。ひとまず下ろしてもらえると助かります」
彼女に催促されゆっくりとしゃがみ、彼女を地面に下ろす。ハンカチで顔を押さえる彼女を見て微笑ましく感じかけ……
「あれ、なんか肩が濡れてるような……あっ」
羽織っていたジャケットを慌てて脱いで確かめる。すると彼女がさっきまで顔を伏せていた辺りがぐっしょりと濡れていた。
「ザイア? ちょっといいか?」
「……クリーニング代はお支払いします」 「それはいいけど……会見のときは脱ぐしかないかあ……」
担当のウマ娘を背負っていたらジャケットが濡れたなどという言い訳はしたくない。オレだけが被害を受けるだけならいいけど、隣の彼女にまで変な噂が立つのは可哀想だから。それとあと……
(エスキモーも怖いし……)
とりあえずザイアが泣き止むのを待ってから控え室へと向かう。ウイニングランは録画で見返せばいいと後ろ髪を引かれる思いでオレたちはその場をあとにした。
─────
負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた負けた──
皐月では出し抜いてやった。ダービーは出し抜けなくても実力で叩き潰せるんだとある種高を括っていたところがあった。この末脚があれば長い直線でまとめて交わせる。そう、思っていた。
「くっそおおおおおおおおおお!!!!!」
悔し涙は流さない。だって1番むかつくのはあいつじゃない、自分自身だから。驕り、慢心、自惚れ。1回本番で勝ったからといって次も必ず勝つなんて保証はどこにもないのに、どうしてオレは勘違いをしてしまったのだろう。
「次こそは絶対に負けねえ」
つけられた4バ身半は必ず次の機会に倍にして返してやる。そう拳を強く握りしめ、オレは地下バ道へと向かった。
─────
「負け、たんだ……」
2着、つけられた差は3バ身。惜しくはない。完敗だった。
笑いそうな膝になんとか力を入れてスタンドの方へと走っていく。敗者はとっとと帰らないといけない。なぜなら勝者のためのウイニングランが始まるのだから。
「いいな……その笑顔……眩しくて……」
世代の頂点に立った彼女の表情はとても誇らしく、とても輝いていた。しかしこれ以上羨望の眼差しを向けていては敗北感が募るばかり。次に彼女に勝つためにすぐにでもトレーナーさんと策を練らないといけない。
「勝つんだ……絶対!」
こうしてレースは終わり、また次の戦いが始まる。秋の大一番に向けて飛躍を遂げるために強く一歩を踏みしめ、ボクは控え室へと帰っていった。
─────
扉が開く。勝者が、世代の覇者が帰ってきた。
「ただいま。勝ったよ」
「よく頑張ったな。おめでとう」
笑う彼女の髪に手を伸ばす。不思議そうな顔をしてオレの動きを見ている彼女をよそに、レース中についた芝を一つ一つ丁寧に取ってあげる。ある程度取れたところでゴミ箱に捨てにいくと、彼女がまた優しく微笑んだ。
「ありがとね、トレーナー」
「全部は取れてないから、ウイニングライブまでに髪を洗って乾かしておくこと」 「はーい」
レース後なのに軽くスキップをする彼女。2400mを全力で走ったあとなのに疲労困憊しているようにはまるで思えず、改めて彼女のスタミナや持久力の高さに感服する。
(これなら菊花賞も……)
前走より距離が400m長くなったのにも関わらず、スパートをかける位置を200m手前にする作戦はばっちりはまった。普通のウマ娘であれば最後は若干バテてもおかしくないところだったのだが、この子の驚異のスタミナでゴールまで伸び続けることができたのだ。この持久力とトップスピードを一夏でさらに鍛え上げれば、レインやルージュたちとの差をさらに広げることができるかもしれない。
「それでさ、ザイアはなんでソファの隅っこで小さくなってるの?」
「泣きすぎて腫れた顔を君に見られたくないんだとさ」 「そっか。応援してくれてありがとね、ザイア」
ソファに体育座りをして自身の膝に顔を伏せるザイアは、その言葉を聞いて小さく頷いていた。それを見たエスキモーはまた満足そうにふふんと鼻を鳴らした。
「でもやっぱり最後は疲れちゃった。明日のトレーニングは休みでもいい?」
「いいよ。しばらくレースもないから2日ぐらいゆっくり休んでほしい」 「やった! あっ、それじゃあ……」
何かを閃いたかのように彼女の耳と尻尾がピンと立つ。一体何を思いついたのか、ニヤニヤした顔が近づいてくるのを身構えて待っていると、彼女はオレの耳にそっと口を近づけ囁いた。
「明日からまたご飯作りにいくから、楽しみにしててね。大好きなトレーナー!」
今ここで言わなくてもいいだろとか、聞かれたらどうするんだといった言葉が口をつきそうになるのを手で押さえる。反論できないままウィンクして離れていく彼女をじっと睨みつける。すると彼女はオレの視線に気づいたのか、振り返って小悪魔のようにニヤニヤとした笑みを浮かべていた。
「はぁ……とにかく反省会はあとでちゃんとやるからな!」
「はーい。ふふっ」
ダービーを勝ったあととはまるで思えないやりとり。ただこれも彼女とオレの関係性から来るものなのかなと思う。
(とにかく今日中に反省点まとめて、明日からは夏合宿用のメニューを組み始めるか)
今は彼女のウイニングライブを楽しみにしよう。エスキモーの笑顔を苦笑しながらそう考えていた。
─────
そんなダービー翌日の朝、急報が入った。
『ダービー2着のグレイニーレイン、秋は天皇賞へ』
『ダービー3着のメニュルージュ、夏から欧州遠征へ』 |
+ | 第36話 |
迎えた2度目の夏合宿。燦々と輝く太陽、そして遠く見えるのは入道雲だろうか。まさに夏本番といったムードの中、お姉さまは寂しそうな顔を浮かべながら私の隣で車窓を眺めていた。
「お姉さま、具合が悪いならおっしゃってくださいね。バスの前方に空席がありますので」
「ありがとね、ザイア。でも私乗り物酔いしたことないから大丈夫だよ」 「そう、ですか……」
ぎこちなく微笑むと、お姉さまは再び窓の方へと向き直り一面に広がる海を見つめ始めた。
(一体どうすれば……)
ダービー翌日に発表されたレインさんの菊花賞回避とルージュさんの海外遠征の報。息をつく間もなくルージュさんが海外渡航の手続きを済ませてヨーロッパへ旅立った。そこからお姉さまはため息をついたり、こうして外をぼーっと見つめることが多くなった。
「これは……トレーナーさんですか」
ポケットに入れていた携帯がぶるっと震えた。お姉さまに見られないようにそーっと取り出し画面を見ると、トレーナーさんからメッセージが届いていた。既に合宿所に到着しているらしい。
『エスキモーの調子はどうだ?』
隣をちらっと見やると携帯へ文字を打ち込む。
『昨日までと特に変化はありません。やはり合宿にて何かしらの策を講じる必要があるかと思います』
笑顔がなくなった、というわけではない。私やトレーナーさん、他のクラスメイトの方と話す際にはいつもと変わらない笑みを浮かべている。問題は話の前後。机に片肘をつけアンニュイな雰囲気を醸し出すお姉さまも素敵ではあるのだけれど、いつものお姉さまに、常に明るく笑顔なお姉さまに戻ってほしい。その一心でこの1ヶ月を過ごしてきた。
『分かった。オレの方でも考えてみるけど、もし何か妙案を思いついたら教えてくれ』
もちろんトレーナーさんもそんな担当ウマ娘の不調を見抜けないことはない。お姉さまがいない隙を狙って私に相談を持ちかけてきたり、今みたいにお姉さまには内緒でメッセージのやりとりを都度繰り返している。
『承知しました。それではまた合宿所の入口にて』
返事を打ち込み送信ボタンを押すと、携帯をポケットに入れ直す。お姉さまは私のそのような動作に全く気を向けることなく、遠くに見えてきた合宿所とビーチを静かに見つめていた。
─────
「委員長、ここ教えてくれない?」 「ヒントは出すけど自分で解いてね……去年も勉強会しなかったっけ?」 「副委員長ー、ここどう訳せばいいんだっけ?」 「その部分の文法は──」
合宿1日目の夜、お姉さまと私が合宿中過ごす部屋ではお姉さまと私による勉強会が開かれていた。まだ初日ということもあり私もお姉さまも夏の宿題は終わっていないのだけれど、片付けるスピードは他のクラスメイトの追随を許さないため、一段落つくたびにこうして周囲の方へのサポートに回っていた。
「ねえ、エスキモー。ボクも教えてもらってもいいかな?」
「いいよ……ってレインは自分で解けるでしょ? 成績いいんだから」 「君と比べたらまだまだだよ。どの教科も君とザイアには負けてるんだから」
腰に手を当てため息をつきながらもお姉さまはレインさんにも丁寧に教えてあげている。
(お二人とも互いに避けている様子はない……そもそもレインさんにはお姉さまを避ける理由はないのですが、お姉さまもレインさんを遠ざけてはいない……)
一見すると違和感は全くない光景。誰かの冗談には笑ってツッコミを入れ、周囲はお姉さまのツッコミでまた笑う。クラスの中心は変わらずお姉さまのまま。だけれど今はそんな太陽に雲が一筋かかっている。私は雲が太陽を完全に覆ってしまう前に何か打つ手はないか、クラスメイトの宿題をサポートしながらずっと考えていた。
─────
「それではダノンディザイアさんよろしくお願いします!」 「はい、よろしくお願いいたします」
合宿中にも新聞や雑誌の記者は有力なウマ娘の情報を手に入れようと合宿所を訪れる。その有力ウマ娘には春のティアラ2冠を制した私も含まれていて、オークス前とはがらっと様相が変わっていた。
「ふぅ……」
「取材お疲れさま、ザイア」 「お姉さまこそお疲れさまでした」
お姉さまもちょうど取材が終わったところらしい。まあ皐月賞2着でダービー1着、そして秋は菊花賞へと向かう予定のお姉さまは今のクラシック路線の主役中の主役だから、注目を集めるのは当然のことではあるのだけれど。
「質問すっごく多くて喉乾いちゃった」
「記者の方からスポーツドリンクをいただいたので、よければ飲まれますか?」
取材後によければと手渡されたペットボトルをお姉さまへと差し出す。念のため確認したら問題なく未開封だったので、変なものは入っていないと思う。というよりもし変なものが入っていてそれを飲んだ者が体調を崩せば、学園の上層部が動くレベルの大問題なのだけれど。
「ザイアはいいの?」
「ええ。私の方はそれほど長くありませんでしたから」 「そっか。じゃあ遠慮なく飲ませてもらうね」
パキッと封を開け、ごくごくと喉を鳴らすお姉さまを見つめる。本当に喉が乾いていたのか、あっという間に500mlのペットボトルの残量が半分になっていた。
「ふぅ、すっきりしたー なんだか満たされたって感じ」
「それではトレーニングに向かいましょうか。トレーナーさんも既に待たれていると思いますので」 「そだね。これ以上待たせるのも悪いし急ごっか」 「はい」
小走りで合宿所から砂浜へと駆けていくお姉さまの背中を追いかける。後ろ姿だけでは分からないお姉さまの内心は如何に。私もトレーナーさんも解決法を掴みかねているまま、合宿は中盤戦へと突入していく。
─────
『トレーナーさん、少しご相談が』
8月に入り一層と暑さが増す。夜になっても背中に汗が滲む暑さの中、トレーニングの強度や休憩、給水のタイミングを細心の注意を払って練習メニューを自室で組んでいると、ザイアから合宿所の裏に来るよう携帯にメッセージが届いた。
「お待たせ。早速で悪いけど、相談ってエスキモーのことか?」
「はい、お姉さまのことです」
話が長くなりそうだと思い、すぐ側の自動販売機でジュースを2本買って1本を彼女に差し出す。頭を下げて受け取る彼女に話の続きを促した。
「やはり一見すると以前と何も変化はありません。クラスメイトの皆さんに尋ねても違和感をお持ちの方はいらっしゃいませんでした」
「エスキモーは感情が顔に出やすいと思っていたんだが、案外隠すのも上手かったんだな……」 「ええ。私も同室だからこそ、そして同じトレーナーさんの下でトレーニングを行っているからこそ分かったのだと思います。そうでなければ私も見抜くことはできませんでした」
彼女に向けた視線の奥に誰も座っていないベンチを見つけた。生徒たちのいる部屋から見えない都合の良すぎる配置に監視の目を疑ったが全くそういうことはなかった。ほっと胸を撫で下ろすと、立ったままだと疲れると彼女を誘う。こくりと頷いた彼女はオレからちょうど1人分の間隔を空けてベンチへ腰掛けた。
「もちろんオレもただ手をこまねいていたわけじゃない。君のいないところでも探りは入れていたんだけど吐いてくれなくてさ」
ほぼ毎日のように家に来ていることは伏せる。それはそれで厄介な話になりかねないというのと、話の本筋とは関係ないから。
「レインさんの前でも変わった様子はありません。だとすると……」
「無理に吐かせたくはない。ただ後々のことを考えるとここで解決しておきたい……」
彼女たちはアスリートの前に1人の思春期の少女だ。いくらエスキモーが周囲の子より精神が大人びているとはいえ、抱えているものが風船のように少しずつ少しずつ膨らんでいき、パンパンに膨れ上がった状態で破裂してしまえば、もうそれは取り返しがつかない。彼女の心に大きな傷が刻まれてしまう前に懸念材料を取り除いてあげたい。
「何かきっかけとなればいいのですが……」
「そうだな……」
街灯、自動販売機の光、そして合宿所から漏れる照明が2人を照らす。生徒たちの笑い声、ザーザーと浜に打ちつける波の音、ジージーと鳴くセミの声。門限というタイムリミットが迫っても突破口を見つけられないオレたちを追いつめるかのように響き渡る。ああ、今日も無理だった。そう諦めかけた瞬間──
強烈な海風がオレたちを襲う。思わず目を閉じてしまうほどの突風、ザイアに大丈夫かと声をかけようと視線を向けると、ぷるぷると彼女の体が震えていた。震えている理由、それは……
「お祭り……花火……夜……そうです、その方法がありました!」
「えーっと……ザイア? 何か思いついた?」 「きっとこれで解決です!」
ザイアは興奮した様子でオレの間に空けていた1人分の距離を一気に縮める。体が密着しているのもお構いなしに彼女が見せてきたのは近くで開かれるお祭りのチラシだった。
「先ほどの強風で飛ばされてきたのでしょう。目を開けると足元に落ちているのを見つけました」
「なるほど……でもエスキモーの心を開くには不十分じゃないか?」
むしろお祭りの楽しさでさらに内心を覆い隠してしまうかもしれない。逆効果になりかねないのではないか。そんな疑問をぶつけると、ツインテールの彼女は尻尾を揺らしながら得意げに話し始めた。
「これまでの情報を整理しましょう。まずレインさん、ルージュさんの夏以降の情報を知ったのがダービー翌日。そしてルージュさんが出国の手続きを済ませてヨーロッパへと旅立ったのがその翌週です。あれは安田記念の翌日でしたでしょうか。これほどまでの迅速な動き、ルージュさんのトレーナーさんはあらかじめ準備していたのでしょう」
普通1週間で海外遠征の段取りは組めない。滞在先やトレーニング場所の確保、学園への申請、遠征費用の調達などなど、1戦のためだけに海外に行くのにもやるべきことが山のようにある。しかも聞くところによると、今回は長期の遠征になるらしい。それならなおさら大変なはず。
「そうか……最初からルージュは海外志向だった。その上ポテンシャルの片鱗はエスキモーとの模擬レースで垣間見ることができていた。とすればあの人のことだから、ルージュをチームに勧誘できた頃から動いていたのか……流石だな」
元チーフの頭の回転の速さや手際の良さに心底感心する。彼の下を去ってもやはり勉強することは多い。
「ただその動きの素早さは混乱していたお姉さまにとってはマイナスでしかありませんでした。気持ちが落ち着かない間にライバルであり友人であるルージュさんが去ってしまう。すると……」
「余計に心の整理がつかなくなる……」 「その上でレインさんのこともあります。菊花賞で再戦をと考えていたのにも関わらず、自身ではなくシニア級とのレースを選んだ。距離適性が理由だと分かっていても、やはり一緒に競いたかった、これが全てだと思います」
一気に話しすぎて喉が乾いたのか、ザイアはさっき渡したジュースをこくこくと飲む。両手でペットボトルを握りながら喉へ流し込む様子を見ながら、オレも喉を湿らせるために一口だけ口に含んだ。
「でもさ、そこから祭りにどう繋がるんだ?」
エスキモーが抱える問題とその経緯は理解できた。ただなぜお祭りが解決の糸口になり得るのか、そこが分からなかった。
「集まることができるんです、全員が」
しかしその疑問も彼女に全て解かれてしまう。
「お姉さまとしてはレインさんとルージュさん、それに2人のトレーナー、お父さまと話がしたい。理由を説明してほしいという思いが強いのかもしれません。レインさんに怒っている様子はありませんから、ルージュさんにもそれは同じでしょう」
「だけど今はルージュはパリに行っていて……あっ、そういうことか」
携帯を取り出しメッセージアプリを開く。それはただのメッセージアプリではなく通話もできる。もちろんスピーカーに切り替えて話をすることも当たり前のようにできる。
「お祭りの時間は夕方から20時頃までと書かれています。門限は21時ですから、最後まで遊んでも集まる時間はありますし、ちょうどパリもお昼どき。電話をかけても支障ありません」
「当然元チーフ、いや2人のトレーナーはここに来ているから……」
無理なく必要なメンバーを揃えられる。もちろんオレたちも含めて。
「これで綺麗に解決するかは分かりません。ただ大きな前進になることは間違いないと思います」
「ああ、そうだな……ありがとう、ザイア」
1人だけでは見つけることができなかった解。それを見つけてくれた彼女に感謝を伝える。ただ……
「褒めていただけるのは嬉しいですが、整えた髪を乱すのはご遠慮いただけますか」
「す、すまん……」
つい普段エスキモーにするみたいに強く頭を撫でてしまいザイアに怒られる。慌てて頭から手を離すと、彼女はクスッと笑う。
「冗談です。先ほどの突風で乱されましたから気にしておりません」
「おい……さっきの謝罪を返してくれ……」
そう言いつつも少しずつオレに心を開いてくれている彼女の笑顔を見ると、まあいいかと許してしまう。お互いに残ったジュースを飲み干しベンチから立ち上がると、図ったかのように互いの右手を差し出した。
「私はレインさんとルージュさん2人のスケジュール調整を」
「オレは元チーフの方に声をかけてくるよ」 「それでは1週間後」 「よろしく頼む」
2人して自動販売機横のゴミ箱に空いたペットボトルを捨てると、門限ギリギリに慌てて合宿所の中に戻る。エスキモーもいる部屋へと繫がる階段を上る彼女の小さな背中を見つめていたのだが、なぜか途中で止まってしまった。
「どうした、ザイア?」
「いえ、なんでもありません。おやすみなさい、トレーナーさん」 「ああ、おやすみ」
ザイアは軽く会釈をして就寝の挨拶を済ませると、何事もなかったかのように再び階段を上がっていく。オレは彼女の姿が見えなくなるまで待ってから、ゆっくりと自分の部屋へと戻った。
|
+ | 第37話 |
お祭り当日の朝、新聞の取材を受けているエスキモーがいない間にザイアと夜の打ち合わせを進める。
「レインさんには快く承諾いただきました。ルージュさんは敵に塩を送ることになるため最初は渋られましたが、最終的には納得いただけました」
「こっちも大丈夫。元チーフにしたらライバルの前に実の娘だからさ」
というより声をかけに行ったら、逆に『エスキモーが最近話してくれなくて……』なんて話をくどくどとされた。そんな理由もあって、彼女のためならとお祭りのあとに時間を作ってもらうことができたところはある。
「ひとまずこれで下準備は完了しました……確認ですが肝心のお姉さまは来られますよね?」
「あれ? てっきりザイアが誘ってくれるものだと思って何も伝えてないけど……」
互いに冷や汗が一筋背中を伝う。お互い誘っておいてくれるだろうという思い込みが惨事を生みかけたが……
「取材終わったよ。あれ、2人ともどうしたの?」
「お姉さま、お疲れさまです。今夜のお祭りは参加されますか?」 「もう夜の話? もちろんいいよ。今年は浴衣持ってきてないけど、よかったら2人と一緒に回らせてもらえないかなって」
エスキモーに背を向けて胸を撫で下ろす。これで『別の友人と約束している』なんて言われたら大ポカもいいところだった。危ない危ない。
「オレも君たちと今年も行けて嬉しいよ。誘うのが遅れたのは悪かった」
「ほんとだよ。誘われないんじゃないかってドキドキしてたんだから」 「ごめんって。許してくれ」 「だったら今日は奢ってもらうからね。私とザイアの2人分!」
頬を膨らませ、腰に手を当て怒ってますよのポーズ。でもそれは格好だけで。
「……よし、分かった。今日はオレに任せろ!」
「やった! ザイアも今日はいっぱい遊ぼうね!」
ほら、すぐに元通り。だけど内心はきっと暗いままで、今はそれをどうにか覆い隠そうとしている。
「ええ。覚悟してくださいね、トレーナーさん」
このお祭りが終われば、ザイアは1ヶ月後に迫った紫苑Sへ向けた調整へと入る。たらふく食べることはないだろうけど、レースのことを気にせずに食べられるのは合宿中こののお祭りが最後になる。ただそれでも。
「手加減はしてくれよ……」
情けないが懐にも限度がある。というかこの子たちの方がお金持っていたりしない?
「トレーナーの努力次第かなー、って冗談だよ。ほら、早くトレーニング始めよ?」
「そ、そうだな。それじゃエスキモーはストレッチから始めてくれ。ザイアはもう済ませているから、先に1本軽く長めのを走ろう」 「うん(はい)!」
威勢のいい返事をした彼女たちはビーチパラソルから飛び出していく。遠くの方に見える入道雲、そして容赦なく照りつける太陽の下、合宿もいよいよ終わりが見えてきた。これでエスキモーの心のつっかえが取れれば言うことはない。
(ここが踏ん張りどころだぞ……)
財布の中身は気にしないでおく。まあいざとなったら元チーフに払ってもらったらいいか!
─────
太陽が海の向こうへと沈んでいく。夕焼けの代わりに月と無数の星たちが砂浜を照らす頃、オレたち3人は着替えを済ませ、近くのお祭り会場へと到着した。
「うーん、やっぱり浴衣持ってきたらよかったね」
周囲を見渡すと浴衣姿のウマ娘たちが通りを彩っていた。結われた髪型も十人十色。浴衣に咲く花も紫陽花、牡丹、向日葵、菊と多種多様。見ているだけで心が華やかになっていく。
「ちょっとトレーナー?」
「おっと。どうした、エスキモー?」
下駄で走るのもトレーニングになるかもしれないなんてことを考えていると、ふくれっ面したエスキモーにジャージの袖をぐっと引っ張られた。危うくバランスを崩しかけるがなんとか片方の足で堪えられた。
「ジロジロ見すぎ。怒るよ」
「分かった分かった。悪かったって」 「だったらこの夜は徹底的に付き合ってもらうから」 「はいはい。仰せのままに」
歩いていく彼女の後ろを見ながらヤキモチ焼きは変わらないななんてことを考えていると、今度はジャージの裾を後ろからクイッと摘まれる。
「私もいますが……あの、今日の本題忘れていませんよね?」
「だ、大丈夫。段取りは問題ない」
今夏においては教え子というより相棒と呼ぶべきザイアが自らの存在をアピールせんと立っていた。オレはそんな彼女の問い詰めに首を縦に激しく振ると、先に行ったエスキモーに追いつこうと、ザイアの右手を掴んで小走りで駆けていった。
─────
「思ったよりいっぱい遊んじゃったね……トレーナー、お金大丈夫?」 「大丈夫大丈夫。今日はオレが出すって話だったし」
お祭りもいよいよ終わりが近づいてきた頃、オレたち3人は賑やかな通りを離れ、人影がまばらな浜辺を歩いていた。無数の星の海に浮かぶ上弦の月が凪いだ太平洋を照らしている。
「それでこんなところまで来て何かするの? ここから花火見るとか?」
「まあそれもあるんだけど……おっ、来た来た」
オレたちが歩いてきた方向とは反対側から見えてきたのは2人の姿。1人は中背の男で、もう1人はスラッとしたウマ娘。
「あれ? パパにレイン? なんでここに……もしかしてトレーナーの仕業?」
相変わらずエスキモーは頭がよく回る。怪訝な表情でこっちの顔を睨む彼女の視線を躱しながら、オレは2人に挨拶がてら礼を伝える。
「チーフ、来てくれてありがとうございます。レインもありがとうな」
「元部下の頼みだからな。手も空いていたところだし」 「いえ、ボクも暇してたので。むしろ声をかけてもらって嬉しいです」
チーム全体のマネジメントのこと、自身の担当ウマ娘のこと、それに家のこと。タスクは山のように積み上がっているはずなのに、それを微塵も感じさせない笑みをチーフは浮かべている。レインもいきなりシニア級との対戦となりトレーニングも過酷となっているはずなのにその表情は柔らかい。
「私の方からもありがとうございます」
ザイアはそう言ってオレの隣で2人に頭を下げる。彼女はこの作戦の立案者だから礼を言うのは当然といえば当然なのだが、その作戦を知らないエスキモーはというと……
「……絶対何か企んでるでしょ」
さっき以上にオレたちをじとーっとした目で警戒していた。彼女からしてみれば人気の少ない場所に連れてこられたかと思ったら、なぜか自分の父親と友人が図ったように現れたのだから、心情は重々理解できる。
「ザイア、準備はできているか?」
「ええ。いつでも始められます」
首を縦に振るザイアを見てオレもコクリと頷く。彼女が“彼女”へメッセージを送ったのを確認すると、オレから話の本題を切り出す。
「なあエスキモー。オレたちに隠していることはないか?」
─────
海風で髪がなびく。伏せられた瞳は前髪に隠れて見えないが、口角が少しだけ上がっているように見えた。
「隠してること? 私がトレーナーに?」
締めつけられるのが嫌だからと履いたサンダルのつま先で足元の砂を軽く蹴っ飛ばす。俯きながらとぼけたような答えを返す彼女は、やはりどこか寂しそうに見えた。
「トレーナーさんだけではありません。私たちにもお姉さまは隠されていることがあります」
「ないない。私が隠し事なんてできないって。すぐ顔に出ちゃうし」 「そうですね。お姉さまは分かりやすいですから、私も、そしてトレーナーさんもすぐに異変に気がつきました」 「異変? 私のどこに?」
あくまでもしらを切る彼女へザイアが二の句を継ごうとするのをオレは手で遮る。この台詞は自分から言わせてほしいと視線で訴えると、ザイアは素直に引き下がってくれた。
「その顔だよ。寂しかったんだろ、2人と走れなくなって」
「……っ!」
彼女が目を見開く。もうそれだけで正解なんだと分かった。
「ち、違うよ。寂しいなんてことない。だってトレーナーもザイアもいるし、レインだってクラスは一緒なんだし」
「でしたらダービーの翌日、お二人のニュースを知った際の落胆した表情はどう説明されるおつもりですか?」 「あ、あれは別にそういうのじゃなくて……そう! ちょっと疲れてただけだから」 「起きられてすぐにすっきりしたとおっしゃってましたが」
レースのときでも普段の生活でもあまり見ることのない焦りが少しずつ、少しずつ滲み出てくる。この場で思いついたような苦しい言い訳もすぐに論破されてしまうほどに。
「ママも言っていたぞ。最近あんまりメッセージ送ってくれなくなったって。元気なのかって」
「もしかして遊びに誘っても断ってたのって、疲れてたとかじゃなくてそれが原因だったの?」
チーフとレインから上がる心配の声にエスキモーはいよいよ何も言い出せなくなってしまう。オレはザイアに視線で合図を送ると、ザイアは小さく頷いて携帯で電話をかけた。電話が繋がるとすぐにスピーカーモードに切り替え、黙ってしまっているエスキモーに携帯を手渡した。
『おいおい、なにしけた面してんだよ』
「る、ルージュ……?」
通話の相手は今ヨーロッパにいるルージュだった。まさか相手が彼女とは考えていなかったのか、名前を読んでからそのあとの言葉が続かない様子だ。
『ザイアの奴から聞いたんだけどよ、なーんか菊でオレらと戦えないからって落ち込んでるんだって?』
「お、落ち込んでなんか……!」 『だったらなんでそんな焦った顔してんだよ。いつもみたいに平然としてりゃいいじゃねえか。図星なんだろ?』
よく言うと裏表がない、悪く言うと気遣いがない彼女のものの言い方は鋭利なナイフのようにザクリと心に突き刺さる。
『今のお前にはいろいろ言いたいことがあるけどよ。とりあえず1つだけ言っとくぞ』
こんなこと言うのガラじゃないんだがと前置きして、画面越しの彼女が放つ。
『また3人で走ろうぜ。せっかくならダービーみたいなどデカい舞台でよ』
今のエスキモーに一番刺さる言葉を。夜闇を切り裂く一筋の光のような一閃を。
「は、走れるの……?」
『当たり前だろ。なあ、レイン』 「もちろん。いつか必ず」
ルージュの問いかけにレインはエスキモーに微笑む。未来に絶対はない。それでもなお必ずと言い切れるのは3本の線がこの先交わることを確信しているから。
「そっか……そうだよね。そんな単純なことまで見えなくなっちゃってた」
指で頬をかく彼女へチーフが歩み寄り、頭に優しく手を置く。
「もっと頼ってくれ。レースではライバルでも君の親なんだから」
ザイアもレインも一歩、二歩と彼女へ歩み寄る。
「私も同室なのですから」
「ボクだって同じクラスだし、同じ寮にいるんだから」
電話越しの彼女も。
『愚痴なら聞いてやるよ。その分オレのも聞いてもらうけどな』
そしてオレも。
「もっと支えさせてほしい。レースのことも、それ以外のことも全部」
エスキモーはみんなを見渡し、こくりと頷く。それに合わせて花火の音がドンと鳴り響いた。
『せっかくだしオレにも見せてくれよ』
「はいはい、これで見える?」 『さんきゅ。おっ、やっぱり日本の花火ってすげえな』
夜空を彩る多種多様の打ち上げ花火。赤、青、緑、黄色。大きいものだけではなく、小さなものを重ねるように打ち上げたり、まるで滝のような仕掛け花火で魅せてくれる。ドン、ドンと爆発する音が響くたびに心のモヤモヤも破裂していくようなそんな感覚さえ覚える。
「ねえ、トレーナー」
「どうした、エスキモー?」
花火を見上げている隙にいつの間にかエスキモーが隣に来ていたことに気づく。
「合宿最終日の前の日の夜さ、みんなで花火しない?」
「……うん、いいよ」 「やった!」
エスキモーはオレの返事を聞くと、小さなガッツポーズを決める。そして早速ザイアやレインを誘いに行った。たぶんあとでクラスの子にも声をかけるのだろう。
海風が止んでいる。花火が少しだけ煙で隠れているのもまた趣深いと自然と口角が上がる。
「よし、これで一件落着かな」
そうポツリと零した独り言は花火の音にかき消され、誰にも聞かれることはなかった。
─────
「1つ聞いてもいい?」 「答えられることならいいぞ」
もう少し浜辺で休むというチーフやレインの2人とはその場で別れ、オレたち3人は合宿所への帰り道を横に並んで歩いていた。その道中、右手の人差し指に髪をクルクルと巻きつけながら、エスキモーは今回のことについて聞いてきた。
「今日のこれって誰の発案? トレーナー?」
「いいえ、私が発案しました。人集めはトレーナーさんと協力しましたが、提案は私からです」 「ずっと連絡取り合ったりして……いやなんでもない」
口を滑らせてしまったことに気づき慌てて自分の口を塞ぐ。ただ最近嫉妬深いところを出してきた彼女は失言を聞き流すほど愚かではなかった。
「ふーん……トレーナーはザイアとずーっと話してたんだ……私に隠れてこっそり会ってたりしてたとか?」
「違うんですお姉さま。私とトレーナーさんはお姉さまのことが心配で心配で……」 「そうそう。別にやましいことも君に疑われるようなこともしていない。なあザイア?」 「え、ええ、トレーナーさんのおっしゃるとおりです。トレーナーさんとはただの指導者と教え子の関係であって、それ以外の関係を持つなどありえません!」
青天白日もしくは清廉潔白。2人だけで会っていたことは否定はしないが、あくまでもこの問題を解決するための必要最小限の回数のみ。疑われるようなことは何もしていない。
「2人とも嘘をついてるようには見えないし信じる。私のために動いてくれたのはほんとのことだし」
張っていた緊張の糸が緩みオレとザイアはふぅと息を吐く。しかし一瞬気が緩んだせいか、ザイアがわずかな段差に躓き転びかける。
「きゃ……お姉さま?」
ただエスキモーが瞬時に察知してザイアの手を掴むことでどうにか転倒は回避することができた。
「もしかしたら疲れてるんじゃない? おんぶするよ」
「そんな……お姉さまに苦労をかけるなど……」 「いいの。ほら。もうこんな機会二度とないかもしれないよ?」 「分かりました。それでは失礼します……」
その場で屈んだエスキモーの背にザイアは身を預け、エスキモーの首に腕を回す。そういえばダービーのときにオレもザイアをおんぶしたなと感慨に耽っていると、なぜかエスキモーから脇腹に肘打ちを受けた。
「痛っ! どうしたんだ急に」
「なーんでも。なんか変なこと考えてるんじゃないかって思っただけ」 「そんなわけないだろ!? それでザイアは足大丈夫か? もし痛いなら明日の午前中は休みにするぞ」
エスキモーの肩に幸せそうに顔を埋めていた彼女に話を振ると、トリップしていたのか寝ていたのか、ワンテンポ遅れて返事が返ってきた。
「どこも痛くはありませんが少し休ませていただいてもよろしいですか?」
「分かった。疲れてはないんだよな?」 「ええ。同じクラスの方より課題の手伝いを請われておりまして。それができれば明日の昼までに大方終わらせたいと話を受けておりますので、この際にと」 「いいよ。クラスの子を助けてやってくれ」
ここまで十分負荷をかけたメニューを行っていることもあり、3冠目を見据えた体力作りは十分成果が出ている。この辺りで紫苑Sに向けたメニューに切り替えてもよさそうだと考えを改めていると、今度は軽くツンツンと脇腹をエスキモーに突かれた。
「トレーナー、だったら私もいいかな? ザイアだけに任せるのも学級委員長的に嫌だし」
「うん、いいよ。みんなを手伝ってきてあげて」
ザイアの理由を聞いた時点で薄々こうなることは予想していた。責任感が強い子がクラスメイトのピンチを見過ごすなんてことはないんだから。
「ありがと。それじゃ明日は午後からよろしくね。おやすみ」
「おやすみなさい、トレーナーさん」 「ああ、2人ともおやすみ」
話をしているとちょうど合宿所まで辿り着いていた。靴を脱ぎ替え階段を上がる彼女たちを見送り、自身の部屋へと歩いていく。
(このメニューは明後日のものに組み入れ、あのメニューはまた合宿終盤にやればいいか)
パソコンでまたメニューを組んでいこう。エスキモーのもザイアのも。
──ただその一部が無駄になってしまうことをこのときのオレはまだ知らなかった。
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+ | 第38話 |
その知らせを伝えられたのはエスキモーの悩みが解決されてから2日後の朝のことだった。
「はぁ……はぁ……ザイアは、ザイアは大丈夫ですか!?」
医務室へ駆け込み部屋を見渡すと、ベッドに横になっているザイアとその横に腰かけるエスキモーの姿を見つけた。見たところ医務室の先生は席を外しているらしく、部屋の中には2人だけしかいなかった。
「大げさですよ、トレーナーさん」
「気持ちは分かるけどさ。そうそう、先生は近くの病院に連絡するから今はいないよ」
足先に巻かれた包帯とエスキモーが患部に当てている氷嚢を見て応急処置は済ませているのだとホッとする。怪我に対する初期治療は時間との勝負。オレが連絡を受けてからここに向かうまでに終わらせているということは、受傷後すぐにRICEと呼ばれる4つの処置が行われたことの証だ。
「そうか。部屋でトレーニングメニューを組んでいるときに電話がかかってきてさ。骨折って聞いたから慌てて飛んできたんだ」
「ご心配いただき感謝いたします。それとせっかくトレーニングを組んでいただいたところ申し訳ございません」 「ザイア、無理しちゃ駄目。いくら小指でも骨折は骨折なんだから」
体を起こしてオレに頭を下げようとするザイアをエスキモーは押さえて再び寝かせる。
「謝らなくていいよ。誰だって怪我はするんだから。それにレース直前じゃなくてよかった」
「ただトレーニングはできなくなりますし、1ヶ月後のレースどころかトリプルティアラが懸かった秋華賞も……」
部屋の隅に並べてあったパイプ椅子を一脚拝借して、ザイアの顔のすぐ側に腰かける。自責の念に駆られているだろう彼女をオレは大丈夫だよと諭す。
「オレも医者じゃないからはっきりとしたことは言えない。だけど君のこの左足の小指の骨折は重度なものじゃない。たぶん秋華賞には間に合うとオレは考えている。紫苑Sは使えなくなったけど、今じゃGⅠへ直行するための調整方法も十二分に確立されているし、必要以上に落ち込まなくていいよ」
「そう、ですか……誤って机の脚で強打した際は血の気が引いてしまいましたが、先ほどのトレーナーさんみたく少し大げさだったのかもしれませんね」 「でもどっちみちアクシデントはアクシデントなんだから……あっ、先生帰ってきた」
扉がガラガラと音を立てて開く。白衣を身に纏う先生がゆっくりと自席へ座ったかと思うと、話をするためにオレを自分の方へと手招く。
「怪我の具合は既に本人から聞いていると思いますので省きます。近くの病院の整形外科へすぐ診てもらえるよう連絡しましたので、急いで向かっていただけますか」
「分かりました。ただ車がないのでタクシーで向かいます。それと早急に処置いただきありがとうございました」 「いえ、この部屋を預かる者として当然のことをしたまでです」
先生へ一礼をするとすぐに携帯でタクシーを呼び出す。偶然にも近くに1台がフリーで走っていたおかげですぐに病院へと向かうことができた。
「タクシー代はあとでお支払いいたします」
「大した金額じゃないしオレが払うよ」 「それでも……」
自身の不注意のせいなのに、これ以上オレに負担をかけさせたくない彼女の気持ちも分かる。ただ正面から断っても渋るのは目に見えている。こういうときは悪いけど彼女を利用させてもらうことにする。
「だったらさ、治ったらそのお金でエスキモーとご飯でも食べに行ったら?」
「お姉さまと? お姉さまがよろしいのであれば……」 「私? いいよ! ねえザイア、どこか行きたいところある?」 「そ、そうですね……でしたらこの前見つけた雰囲気の良い喫茶店へ……」
早速2人でお出かけ先を検討し始めた。とにかくこれでお金のことは一件落着。
(オレの財布の中身は変わらず厳しいけどな……)
経費で落とせるならなんてやましい考えを頭から追い出す。確かに認められるだろうけどウン万円という金額ではないから、手持ちから出すことにする。
(はぁ……給料上げてほしいな……)
なんてことをタクシーのメーターを見ながらぼんやりと考えていた。
─────
「全治1ヶ月弱。そしてそこからリハビリを行い、2週間ほどでレース本番ですね」 「ぎりぎりだなあ……」
病院で治療を受けたあとオレたち3人は待合室でタクシーを待っていた。当初の見立て通り、元のように歩けるようになるまでに1ヶ月かかるとの診察を受けたことで、復帰プランの本格的な検討が始まる。
「やっぱり治るまでトレーニングできないのが痛いよね。負荷をかけられない分筋力も心肺機能も落ちちゃうし」
「上半身に限れば基礎トレはこなせるから全くできないことはないんだよ。治るまでは足に負荷がかからないようなメニューを組む。完治すれば筋力の回復に合わせてレースへ向けたトレーニングを積んでいくことになる」
タクシーが到着したとのことで、ザイアがエスキモーの扶助の下で立ち上がるのを待ってから病院の玄関を出る。立ってからも松葉杖に慣れていないザイアの歩くペースと合わせて歩を進める。
「オレは助手席に座るから、悪いけどエスキモー頼めるか」
「当たり前でしょ。ほらザイア、無理はしないでゆっくりでいいからね」 「ありがとうございます、お姉さまにトレーナーさん。この恩はいつか必ずお返しいたします」 「返すとか気にしなくていいって。トレーナーとして当たり前のことをしているだけだよ」 「私もザイアの親友としてしたいことをしてるだけだから」
もし怪我をしたのがエスキモーの方だったとしてもザイアは手伝っているだろう。それが親友としてなのか慕う相手としてなのかは分からないけど、それでもやはり『当たり前のことをしているだけ。お返しはいい』と言うと思う。
「……分かりました。でしたら早期復帰でご恩を返してみせます」
3人全員がタクシーに乗り込んだのを確認するとオレは運転手に行き先を伝えた。運転手がこくりと頷くと、タクシーはゆっくりと速度を上げていく。
「うん、それで……早期復帰?」
手拍子で打つかのように彼女の言葉に返事をしかけるも、 すんでのところで踏みとどまった。彼女の発言の意図、それは。
「はい。家にある酸素カプセルを利用いたします。疲労を取り除くだけでなく、骨折を含めた怪我からの回復も促進すると先ほどお医者様へ伺いました」
「オレたちが出てから残っていたのもそれを聞くためだったのか……」
流石名門ダノン家。家に自前の酸素カプセルがあるとは。
「そういえばメジロのお屋敷にもあったと思うよ。私は使ったことないけど」
「やっぱり名家は違うなあ……」
改めてとんでもない2人を預かっているのだと実感する。片や近年成績を伸ばしている新興の一族の有望株で、片や古くから脈々とその血を繋ぐ名門の末裔。この期に及んでようやく自身の両肩にのしかかる責任の重さに気づく。
「ですので申し訳ございませんが、合宿は早期に切り上げ、実家にて酸素カプセルを使用しながらの回復に努めさせていただけないでしょうか?」
「分かった。たださっきも言ったみたいに上半身の基礎トレは完治前でもやってほしい。あとでメニューを作って送るから、オレたちが帰るまでの2週間は自主トレでお願いするよ」 「承知いたしました」
立っているものは親でも使え。1日でも早く復帰できるならそれを使わない手は存在しない。早期回復からのトリプルティアラへ、茨の道ながらも少しずつ前へ進めている実感がした。
─────
ザイアが学園へ戻る手続きを済ませたところ、ちょうど彼女が帰り支度を終わらせたとのメッセージが携帯に入った。オレも最初は学園まで付き添うことも考えたが、家の車を出してもらえるとの話になり、せっかくならとお願いすることにした。
「もうそろそろ迎えが来るんだよね」
「ええ。先んじて連絡していましたからそれほど待つことはないかと……トレーナーさん」 「ザイアお疲れさま。それとエスキモーは手伝ってくれてありがとうな」
合宿所の外で待っていると、松葉杖をつきながら歩くザイアと代わりに荷物を運んでいるエスキモーが中から出てくるのが見えた。彼女たちへ軽く手を振っているとザイアが先にオレの存在に気づき声をかけてくれた。
「むしろご迷惑をおかけして申し訳……あうっ」
「もう、謝らなくていいって言ってるでしょ。次謝ったらザイアの携帯から目覚まし音消すからね」 「分かりました。もう言いませんからそれだけは……」
ザイアがまた謝ろうとしたところをエスキモーがデコピンで制止する。目覚まし音の件はよく分からないけど、ザイアがやめてほしいと懇願するのだからよっぽど貴重なものなのだろう。
「とにかくオレたちが戻るまで昨日送ったメニューをこなしておくこと。ただ少しでも脚に負担がかかりそうだったら無理しなくていいから」
「承知いたしました。お気遣いいただきありがとうございます」
松葉杖をつきながら器用に頭を下げる彼女に感心していると、オレたちのすぐ近くに黒色の高級車が近づき、ゆっくりと止まった。そして後部座席から執事らしき人が現れザイアの車内に案内する。一分の隙もない流麗な動きに感心していると、その間に今度は運転手がエスキモーからザイアの荷物を受け取り、トランクへと丁寧に収納した。
「流石ダノン家。執事も運転手も一流だな」
「メジロも立派だよ?」 「別に張り合わなくてもいいからな?」
灼熱の太陽の下テキパキと出発準備を整えた彼らは、車内に戻るやいなやオレたちに一礼して車を発進させた。後部座席に座るザイアは窓を少し開けると、彼らと同様に一礼するとオレたちの姿が見えなくなるまで手を振り続けていた。
「行っちゃったね」
朝なのに数分外に出ていただけで額に浮かぶ汗をタオルで拭いながら、オレたち2人は涼しい合宿所の中に戻る。隣を歩くエスキモーは玄関の方をしきりに振り返りながら、ちょっぴり寂しそうな笑顔を浮かべていた。
「2週間もしたらまた会えるから。むしろザイアの方が寂しがっている気がするし、毎晩電話かけてあげたら喜ぶと思うぞ」
「そっか……そうだね。長電話して夜ふかししないようにだけ気をつけよっと」
ただもう彼女は寂しさを紛らわせる方法を、吹き飛ばす方法を知っている。ルージュとレイン、そして彼女の父であるチーフと話をして2人の走る路線のことも聞いたみたいだから、もう心配することはないはずだ。
「それじゃ10分後にビーチ集合な」
「はーい。ちょっと部屋に戻ったらすぐ行くね」
エスキモーは変わらずトレーニングを進める。前哨戦のセントライト記念に向けて着実に一歩ずつ。
─────
「なんだかあっという間だったね」 「練習練習、休憩挟んでまた練習の日々だったからな」
夏合宿の朝、部屋の片付けを済ませ手持ち無沙汰となっていたエスキモーに付き合い、合宿所裏のベンチで2人夏の思い出に浸っていた。
「君が2人と走れないからって凹んでいたのが遠い過去みたいだな」
「ちょっとやめてよもう……心配かけちゃってたの謝るから」 「ごめんごめん。ほらジュース奢るから機嫌直して」
すぐ横でウンウン唸っている自販機で冷え冷えの缶ジュースを2本買い、1本を彼女に渡す。ありがとと言いながら受け取った彼女は、暑さを凌ぐために冷えたそれを首元に当てた。
「8月も終わるけど、まだまだ暑いんだよね……嫌になっちゃいそう」
「来月いっぱいは残暑が続く予報が出ているからな。セントライト記念当日も暑くなるから気をつけないとな」
暑さに負けて夏バテしてしまうウマ娘は毎年一定数存在する。特に近年は毎日猛暑が続くせいで調子が上がらず、使うはずだったレースを使えなかったという話をよく聞く。幸いにもエスキモーにはそのような兆候は見られず、今のところは順調に調整を進められている。
「んっんっ……ぷは。せめてゲートが開くまでは曇ってくれないかな。走ったらそんなに気にならないし」
「神社にでも行って祈祷でもするか」 「それで神様が聞いてくれたらいいんだけどね……」
合宿所の建物が作り出す日陰に入って夏の暑さに愚痴をこぼす2人。傍から見ると決してダービーを勝ったペアだとは思われないだろう。ただ幸か不幸か、はたまたみんながバタバタしているだけなのか誰も近くを通ることはなかった。
「そろそろ集合時間なんじゃないか?」
ふと腕時計を見ると、短針が10を、長針が12を示すところだった。簡単に言うともうすぐ10時になる。
「もうそんな時間。クラスのみんな帰る準備できたかな」
「急ぐなら空き缶捨てておくぞ」 「ありがと。じゃあまた学園でね」
スカートをはためかせ、尻尾を揺らしながら駆けていく彼女の後ろ姿を手を振って見送る。クラスメイトらしきウマ娘と合流した光景を確認したところで、オレはベンチに並べて置いていた空き缶を2本持ってゴミ箱の方へと歩いていく。
「えーっと確かこっちがエスキモーが飲んだ方で……」
捨てる前にふと両手に持った空き缶を見やる。右手に持っているのが自分が飲んだ方で左手に持っているのが彼女が飲んだもの。同じジュースだから見た目は当然違いはないが、彼女が飲んだ方の飲み口を見るとうっすらと赤い色が付着していた。
「口紅か? いや、彼女はまだ中等部だしそんな物を使うはずは……ただこの色は……」
何も塗っていないなら、いくら綺麗なピンク色をしている唇でも色はつかない。何も塗っていなければ。
「口紅じゃない……だとしたら……あっ」
口紅ではないとすれば答えはほぼ1つ。
「カラーリップか」
なるほど、これなら校則違反をせずとも少し背伸びした自分になることができる。最近は男も化粧をする時代になったし、自分も少しは勉強した方がいいのかもしれない。
「女の子ってそういうところを気づいて言ってあげると絶対喜んでくれるしな」
これまで歩んできた人生の中で得た知識を活かして彼女の隣を歩んでいこう。そう決心しながら両手に持った空き缶をゴミ箱へそっと入れた。
──夏が終わり、秋の淀が迫る。長い夜を抜けた先で笑うのは一体誰か。
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+ | 第39話 |
ここはフランス、パリロンシャンレース場。ブローニュの森のセーヌ河畔に位置するこのレース場にオレは今立っている。
「日本じゃ9月は暑いんだがな……」
北海道の北端に位置する稚内より更に高緯度に位置するパリは東京より平均で5℃ほど低いらしい。ただ北海道よりは暖かい。理由は海流が関係しているんだとトレーナーから説明を受けたがあまり覚えていない。正直理屈はいいから暑いか寒いかだけ分かればいいのだから。
「バ場状態はbon souple……日本じゃ稍重だったか」
トレーナーからこれだけは覚えておけと日常会話とレース関係の言葉をまとめた参考書を出発前に渡された。しかしフランスでの生活に慣れるのに必死だったから、まだそれほど中身は読めていない。バ場状態はレースの戦法に関わるからなんとか覚えたが。
「ゲート番は3番。ただ枠番は6番……慣れねえな……」
視線を上げた先に書かれた自身のゲート番と日本と同じように身につけたゼッケン番号を見比べてため息をつく。ヨーロッパにおいては諸事情で先に枠番を割り振られ、その後ゲート番がレース前に再度決定される。だから今のオレと同じようにゼッケンの番号とゲートの番号が違うことは多々ある。あとは……
「GⅡなのに少ねえんだよな……7人立てって今日びメイクデビューでも少ない方だぞ」
重賞なのに日本より出走者が少ない傾向にあること。GⅠでもさっき行われていたヴェルメイユ賞なんか8人立てだった。日本では考えられない。
「けど裏を返せば純粋な実力勝負。これを活かさない手はねえ」
本バ場入場でもそれほどバ場を重く感じなかった。まだこっちに来て3ヶ月ほどしかトレーニングしていないが、この脚はもうこの芝に慣れたようだ。
「ただ今日はあくまでもトライアル。このレース場で本気で走ったらどうなるかを知るために、オレは走りにきた」
本番は1ヶ月後。同じレース場の同じ距離で行われる世界最高峰の一戦。
「Prix de l'Arc de Triomphe……凱旋門賞を勝って世界の頂点に立つ。そしてあの人に会う」
海外を狙うのは来年からだと思っていた。もう少し日本で走るものだと考えていたけど、挑戦は早いに越したことはない。
「やってやる」
頬を両手でパンパンと叩き気合いを入れる。まずは目の前の一戦に集中、集中。
「待ってろよ、凱旋門賞」
ゲート入りの合図がかかる。1人、また1人と枠に収まり、そして自分の番がやってくる。日本とはまた異なるゲートの形に早く慣れないとと考えていると、大外のウマ娘がゲートに入っていくのが横目で視認できた。
1秒、2秒、3秒。そして──
ガコンッ!
8人が一斉に2400m先のゴールへと走り出した。
─────
『今年の皐月賞ウマ娘、メニュルージュは勝利を掴むことができるのか!? ニエル賞、今スタートしました!』
東京から直線距離で9700km、パリロンシャンの地で開催される凱旋門賞。その前哨戦として行われている一戦、GⅡニエル賞に今年は友であり同じチームメイトであるルージュが参戦している。その雄姿を見届けようと、ボクやエスキモーたち美浦寮のみんなは眠たさを我慢しながら広間のテレビの前で応援している。ちなみにザイアは実家で療養中だからここにはいない。
「少し後ろの方だけど大丈夫かな?」
「いつものルージュのレーススタイルだし問題ないんじゃない? ラストスパートで間に合う位置にさえいれば……ねむ……」
ボクの右隣、テレビ画面から見るとボクの奥に座るエスキモーも眠そうに小さなあくびをしている。仮眠はしたそうだけど、明日が近い時間なら眠気が襲ってきて当然だろう。
『10mもの坂を登りきり第3コーナーへと差し掛かります! 依然日本のメニュルージュは最後方から2、3番手の位置でレースを運んでおります』
10mの高低差を登って下る。自然の地形が生かされたヨーロッパのバ場は「作られた」コースである日本とはまるで異なる、とトレーナーさんが言っていた。日本のコースをサーキットとするなら、ヨーロッパはオフロードなのだとそう語っていたトレーナーさんの声には、まるで自身が経験したかのような熱が入っていた。
『さあカーブを抜けた先で襲いかかるは偽りの直線、フォルスストレート! ここは耐えねばなりません!』
600mほどのカーブで坂を一気に下りきった先にあるのは250mほどのフォルスストレート。ここで仕掛けると最後にガス欠を起こしてしまうけど、肝心のルージュといえば……
「行きたさそうだけどなんとか耐えてるね」
「そうだね。前との距離も少しだけ詰めてるし悪くないかも」
ひとまずひと安心。周囲のウマ娘からもホッとする声と勝てるかもと力が入った声援が聞こえる。
『フォルスストレートを抜けて最後の直線に入りました! 残り500m! 日本のメニュルージュはバ群の外に持ち出したあ!』
一斉にラストスパートをかける8人。ルージュもじりじりと伸びてはいるけど……
「前がなかなか止まらない……」
「1人、2人は交わせたけどもうゴールまで100mぐらい……」
決してルージュの脚色が衰えたわけではない。着実に前との距離は縮まっている。ただそれでも先頭に立つまでには至らなかった。
『──が今ゴールイン! 日本のメニュルージュは惜しくも先頭と1バ身の3着でゴールに入線しました!』
ため息と惜しかったねという声が方方から上がる。テレビでは膝に手をつき悔しがるルージュの様子が映し出されていた。届かなかった1バ身。コメンテーターは彼女の健闘を称えていたけど、たぶん、いや絶対にルージュは満足していない。世界を制することが彼女の至上命題なのだから。
「ふわぁ……寝る前にルージュにメッセージ送っとかなきゃ」
「そうだね。ボクも送らないと」
立ち上がってうんと背伸びをするエスキモーに釣られてボクも手を組んでぐっと丸まった体を引き伸ばす。広間にはまだ数人が残っていたから、テレビは消さずに自室へと戻った。
「なんてメッセージ送ろうかな」
ベッドに横たわりながらシャットダウン寸前の頭でぼんやりと考える。惜しかったねなんて言葉が欲しいとは思わないし、次は勝てるよなんて励ましの言葉もいらないと思う。
「だったら……」
ポチポチと文字を打ち込む。一度変換してから送信ボタンを押して携帯の画面を消す。同室のウマ娘からの照明を消すよとの声に頷くと、ボクはのそのそと布団を被り目を閉じた。
─────
レースが終わり面倒くさい取材対応も適当に片付けてから携帯を見ると、画面が埋まるほどのメッセージの通知が届いていた。
「うっわ、こんなに届くのかよ。皐月賞のときより多いじゃねえか」
クラスメイトやチームメイト、それに家族から。画面をスクロールしながら一つ一つゆっくりと読んでいく。数の多さに若干辟易としつつも時間をかけて一番下まで辿り着いた。
「トレーナーとルージュ、それにエスキモーとザイアのやつか……って全員文章同じじゃねえか」
オレが考えていることは全てお見通しだったようだ。オレが欲しいのは励ましの言葉でも慰めの言葉でもなく、ただいつもの言葉。
『お疲れさま』
その言葉で気合いが入る。大一番まであと1ヶ月、次こそは頂点を掴んでやる。
─────
“Félicitations pour votre victoire, madame.” “Merci. Mais la prochaine course, c'est la vraie. Vous ne pouvez pas vous permettre de perdre votre sang-froid.” “C'est un exploit.” “Oui, c'est ça. Ma mission est de suivre les traces de ta mère et de la surpasser.” |
+ | 第40話 |
ルージュさんが走ったニエル賞の翌週の月曜日、ようやく私はトレーニングへの復帰を認められた。
「ということで本日よりまたよろしくお願いたします」
「ああ。秋華賞まであと1ヶ月、勝ちにいくぞ!」
一昨日行われた紫苑S─本来であれば私が出ていたレース─はオークスで5着だったフェアハフトゥングさんが勝利した。内枠の利を活かしてハナを切り、そのまま逃げ粘りきるという勝ち方は強いものだった。本番でも注意を払わないといけない。
「それにしても治るの早かったよね。やっぱり酸素カプセルのおかげなの?」
「ええ。お医者様もそうおっしゃっていました」 「酸素カプセルってすごいんだね。私もお屋敷に置いてあるの使わせてもらおうかな」
トレーニング前の柔軟体操をお姉さまに背中を押して手伝ってもらっていると、治りの早さをお姉さまに驚かれた。確かに私自身もこれほど効果が出るのかとびっくりした。効用は事前に知らされてはいたけれど、やや疑念を抱いていた部分はあったから。
「是非使われるのがよろしいかと……お姉さまさえよければ私の実家のものもお貸しできますが」
「いいの? だったら遊びにいくついでに使わせてもらおうかな。借りるためだけに行くのも申し訳ないし」 「……いつでもおっしゃってくださいね」
心の中で小さくガッツポーズを決める。酸素カプセルはあくまで口実。お姉さまを家に招いて……ふへへ……
「ザイア? よだれ垂れてない?」
「……はっ!? 気のせいです、気のせい」
十分に体が温まったところで体を起こし、トレーナーさんの元へ向かう。足元の違和感は全くない。
「よし、それじゃ今日のトレーニングを始めるぞ!」
「「はい!」」
─────
「はぁ……はぁ……」 「ウッドチップコースで6ハロン83秒、最後の1ハロンが12.5秒か……」
療養中もトレーナーさんの指示通り、できる限りの基礎トレは行っていた。ただ日々の積み重ねが重要な心肺機能についてはこの1ヶ月で想像より衰えていたようだ。
「ザイア大丈夫? 1本目だから無理しちゃ駄目だよ。はい、タオルとドリンク」
「はぁ……はぁ……ありがとうございます、お姉さま。無理をしているつもりはなかったのですが、久しぶりに長い距離を走ったせいでしょうか……」
夏の暑さがしぶとく粘る中、額から垂れてくる汗を柔らかいタオルで拭う。柔軟剤のフローラルな香りが鼻腔をくすぐり、1ヶ月ぶりのトレーニングで強張っていた体から力が抜けていく。ほっと落ち着いたところで汗で抜けた水分をドリンクで補給していると、少し険しい顔をしたトレーナーさんに声をかけられた。
「ザイア、休憩しているところで悪いけどちょっといいか?」
「はい、どうされましたか?」 「復帰後のメニューは事前に組んでいたんだが、少し変えようと思うんだ。心肺機能の回復により重きを置きたい」
そうトレーナーさんに言われながら渡されたタブレット端末の画面を見る。そこに書かれていたのは、意外にも坂路やロードワークだけではなくプールでのトレーニングも積極的に含まれたメニューだった。
「珍しくプールトレーニングもあるのですね」
「あ、ああ。今回ばかりは流石にな……」
頭を掻きながら何やら言い淀むトレーナーさんに首を傾げる。何か痛いところでも突いたのだろうかと思いながら彼が逸らした視線の先を辿ると……
「お姉さまがどうか……あっ」
「そういうことだ」
そういえばと思い出す。夏合宿の休日でもそれ以外でもお姉さまが泳ぐところを見た記憶がない。もちろんトレーニングでもプールを利用した覚えは当然ない。すなわち。
「ふふふーふふんふふふふふふー。あれ、2人とも私の方見てどうしたの?」
鼻唄を歌いながらストレッチをお姉さまが私たちの視線に気づき頭の上にはてなマークを浮かべる。私は何もないですと首を横に振った。
「トレーナーさんも大変ですね」
「本当にな……」
もう1本軽く走ってくると笑顔で言うお姉さまへ親指を空に突き立てるトレーナーさん。そんな気苦労が絶えない彼を隣で見つめながら、定期的に話を聞いてあげようかなと思う私だった。
─────
そこから週末まであっという間に過ぎていった。火曜日はプール、水曜日は坂路、木曜日はプールといった流れで衰えた心肺機能を取り戻していく。10月に入れば否が応でもレースへの調整を始めないといけない。前哨戦を使わない分疲労が蓄積しないのかもしれないけれど、レース勘を取り戻したりライバルたちとの力関係の確認をしたりすることができないのは痛い。
「エスキモー、準備はいいか?」
「もちろん!」
3連休の最終日、中山レース場にて行われる菊花賞トライアル、GⅡセントライト記念。3着までに入れば菊花賞への優先出走権が与えられるけれど、お姉さまとトレーナーさんは当然勝つつもりで臨んでいる。
「14人立ての5枠8番。向こう正面まではインで脚を溜めて、そこからは捲っていく形で進めよう」
「はーい。頑張ってくるね」
そう言って私をぎゅっと抱きしめてから、お姉さまは控え室を飛び出しパドックへと駆けていく。私を抱きしめる強さからして調子は相変わらず良さそうだ。
「ルージュさんは海外に行っていて、レインさんはシニア級との戦いへ。今日のレースで春2冠で3着以内に入ったのはお姉さまだけ。負けられませんね」
「逆にこういう試合の方が緊張するんだよな。レースに絶対はないのに多くの観客は勝つものだと思ってレースを観る。もちろん新聞も」
机上に並べられた新聞各紙を見比べる。中には夏に調子を上げてきたウマ娘を推す記者もいるものの、ほとんどの記者はお姉さまに本命の印を打っていた。
「お姉さまはプレッシャーを感じられているのでしょうか」
「感じてはいるはずだ。だけどそれ以上に走りたい、勝ちたいという気持ちが勝っているからそう見えないだけだと思うよ」 「お姉さま……流石です!」 「ザイアは変わらないなあ……」
トレーナーさんが苦笑しているのを横目に一番上に置いてある新聞を1枚めくる。するとそこには昨日行われたローズSの結果が載っていた。
「1着はスカイピーチさん……オークスで最後に差しにこられた方ですね」
「ああ。今回は最後の直線で撫で切ったみたいだな」
レース映像は寮で見ていた。外枠に配されるも無理をすることなく後方で追走し、4コーナーから見事差し切ってみせた。京都の内回りコースは阪神の外回りより最後の直線が150mほど直線が短くなるけれど、秋華賞は道中のペースが速くなりがちな差し有利の傾向があるから、春の2冠同様彼女の末脚は脅威となる。もちろん私としては彼女が楽に差してこれるようなレースメイクをするつもりは全くないのだけれど。
「先週の紫苑Sはオークス5着のフェアハフトゥングが内枠の利を生かして逃げ切り勝ちをしている。調子は悪くなさそうだな」
「トレーナーさん、もしかして私に発破をかけるために新聞を持ってこられたのですか?」 「違う違う。君が一生懸命頑張っているのをずっと見ているのにそんなことはしないよ」 「冗談です。トレーナーさんが私を見てくださっているのは重々承知しております」
そう言って笑ってみせるとなぜかトレーナーさんにため息をつかれた。冗談というものは難しい。お姉さまに笑っていただけるようもっと精進しなければ。
「秋華賞トライアルの2レースの分析は今度にして、とりあえず今はエスキモーの応援に向かうぞ」
「ええ。観客席へ参りましょうか」
前を行く彼の三歩後ろを歩いていると、隣に来るように手招きされた。確かにここは辻斬りされるかもしれない一触即発の道でもなければ、そういう時代でもない。というより彼は人生の伴侶などではなく、私のトゥインクル・シリーズを支えてくれるパートナーなのだから隣で歩む方が自然だろうと思い直す。
(今後彼を恋愛対象として見ることはないでしょうし、どのように彼と歩こうと支障はないのですけれど)
リノリウムの床に2人分の足音が鳴り響く。大きな音と少し小さな音、不揃いに聞こえても不協和音ではない。心地よいメロディーが廊下の先まで奏でられていく。もう一音加わってもきっと綺麗に響くような素敵な旋律が静かな道を彩っていった。
─────
『さあ5枠8番に1番人気メジロエスキモーが静かに入ります。ダービーウマ娘の煌めき、このトライアルでも光り輝くのか』
パドック周回が終わり、あっという間に本バ場入場から枠入りまで進んでいく。若干嫌がるウマ娘もいたけれど、それ以外は極めてスムーズに進み、残すは大外8枠14番のウマ娘を残すのみとなった。
『──が収まり態勢完了……スタートしました!』
ガコンという音に合わせて14個のゲートが開きレースが始まる。大きな出遅れもなく、まずはホームストレッチでの位置取り争いが目の前で繰り広げられていた。
「流石お姉さま。前方で激しい先行争いが行われていても一切動じておりません」
「自身の実力を最大限に発揮できる術をエスキモーは知っているからな。体内時計も正確だから焦りようがない」
そうだそうだと福島県の伝統工芸品である赤ベコの如く首を激しく縦に振っていると、先行争いは落ち着きを見せ、レースは1コーナーから2コーナーへと進んでいく。1コーナー辺りで終わりを迎えた上り坂とうってかわって、2コーナーからは下り坂が500mほど続くコース形態となっている。
「ただ本来ペースが落ち着きやすいレース中盤に下り坂が設けられているせいで仕掛けどころが難しい」
「最後の短い直線まで待つのは流石に遅すぎますし、かといって3コーナー手前から一気呵成にスパートをかけてしまえば最後の急坂で脚が止まってしまいます」
スタミナとトップスピードの持続力が求められる舞台。なるほど、2200mといえど菊花賞の前哨戦としては申し分ない舞台だなと思わず感心する。
「すなわち頭脳と脚力が同程度に求められる舞台設定……彼女にはお誂え向きだな」
「ええ、間違いなく」
私とトレーナーさん2人が向ける視線の先にあるターフビジョンには、まさに今お姉さまが仕掛け始めた場面が映し出されていた。
『残り1000m地点を1分13秒を切るぐらいで先頭が通過していきました……おっと!? ここで後方に控えていたメジロエスキモーが少しポジションを上げ始めたぞ!?』
エスキモーが1人、2人と交わしたところで場内がワッと沸き立つ。なおも彼女は加速していき、3コーナーと4コーナーの中間地点ではもう先頭を伺う位置につけていた。
「捲っていかれているのに大きく外に膨れていない……流石のコーナリングです、お姉さま」
「テンよし中よし終いよし。優等生だよ、本当に」
ゲートは上手く、道中は掛かることがない。そして最後まで伸びる末脚を持ち合わせている。ファン目線でもトレーナー目線でもこれほど理想的なウマ娘はほとんどいない。きっとあの“夢”がなければ自分のような新人に回ってくることはなかっただろう。
『さあ短い直線310m! ただもう坂の下でメジロエスキモーが先頭に並んで……交わしたあ! 1バ身、2バ身とリードを広げていく!』
ゴール前200mを切ったところで勝負はついた。これがGⅠであればゴールを通過するまで全力を出し切れと指示を出すところなのだが、あくまでもこのレースはGⅡでありトライアルレース。後ろを振り返って余裕がありそうなら緩めてもいいと事前に指示は出していた。
「あっ、今お姉さまが後ろを振り返りましたね」
「後続の脚色を確認して……緩めたな。うん、それでいい」
無理はしない。淀の3000mにピークを持っていくために今は過度な負担をかけるのはNGだ。
『もはや大勢は決した! メジロエスキモー、最後は流してゴールイン! ダービーウマ娘が菊花賞の前哨戦を見事に制しました!』
2着は3番人気、3着には人気薄のウマ娘が突っ込んできて若干波乱の決着となった。ただそのはるか前に息をほとんど切らさないままゴールを駆け抜けたウマ娘がいる事実は、もう1つの前哨戦である神戸新聞杯の結果が出ていないにも関わらず、この春から勢力図が変わっていないことを示していた。
「もう菊花賞決まっただろ」
「メニュルージュは海外行ってるし、グレイニーレインは秋天だしな」 「2着や3着が誰になるかのレースになりそうだな」
そして周りからちらほら聞こえる落胆にも近い声。ここまで連対を外していないダービーウマ娘が前哨戦を楽勝した上にライバルと目されていた2人が本番を走らないとあれば、仕方のないことかもしれないけれど。
「勝つ可能性が高いレースは存在する。でも絶対に勝てると断言できるレースは存在しない」
「はい。レースに絶対はありませんから」
トレーナーさんにも近くの観客の会話が聞こえていたのだろう。若干苦虫を噛み潰したような顔を浮かべながら発せられた声は担当が重賞を勝利したあとのものとは思えなかった。
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それはレース後の控え室でも続いていて。
「お疲れさま、エスキモー。強い勝ち方だったな」
「ありがとう、トレーナー……どうしたの? 気分でも悪い?」 「いや大丈夫だ……菊花賞、絶対勝とうな」 「う、うん……もちろんそのつもりで頑張るけど……」
お姉さまが怪訝な顔をしながらもトレーナーさんと話している様子が私の目の前で繰り広げられていたのだった。
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