シェラルド王国 The Kingdom of Sjellald | |
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国旗 | |
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国の標語 | 十字旗に集え、白薔薇の騎士達よ |
国家 | 永遠に讃えよ我が光 |
公用語 | シェル系フランス語 |
首都 | ニューコペンハーゲン |
最大の都市 | パリ |
国王 | シルビア・オルテンブルク女王 |
宰相 | ラース・シュマイケル |
人口 | 60,890,016人 |
建国 | 1204年(15/8/19) |
シェラルド王国(正式名称:オルテンブルク朝シェラルド王国、英:The Kingdom of Sjellald)とは、欧州に位置する国家である。政体は絶対君主制であり、全権限は現国王のシルビア・オルテンブルク女王が有する。
人口はおよそ6100万人。主要都市のパリには多くの企業が集まり、経済、文化の中心地となっている。 首都はパリ郊外に新設されたニューコペンハーゲンであり、ローゼンバーク城が政治の拠点である。 決定権は全て国王にあるが、未だ年若く宰相のシュマイケルが事実上の指導者となっている。議会は存在するがあくまで補佐機関に過ぎず、日夜ワインの肴について紛糾している。
BTO加盟国であり、欧州ソヴィエト連邦と国境線を接しているため西欧の防波堤としての重要な役割を担う。陸海は充分な戦力を有するが、空軍はやや後進的。兵器の質は高いが練度や戦術は稚拙で、BTOを始めとした同盟国との合同演習等で技術を高めている。
主産業は農産物や化学製品、工芸品。また観光業でも毎年多くの客を集めている。度々国際交流の開催地となり、多くの注目を集める。
有史以前からユトランド半島で生活していたシェル人が由来。ライン歴0世紀、すなわちプロイセン地方の集権体制が成立した頃のシェル人はヴァイキングと呼ばれる植民、交易活動により周辺国を侵略していた。事実上は北海一帯を支配する大国となったが、中心となる権力が存在せず、各地のシェル人たちは現地民と結びつき独自の勢力を形成していたため、国家としての実態は無かった。
2世紀ごろになると周辺国はシェル人の侵略に対抗すべく中央集権化を推し進め、飛躍的な成長を遂げた。未だ曖昧であったシェル人国家は国力の成長で置いて行かれ、結果軍事、経済共に深刻な危機に陥った。3世紀になると逆に侵入され始め、遂にユトランド、シェラン島周辺のみとなったシェル人は隣国で人種も近いプロイセンに助けを求め、連邦の一部として併合されることとなった。このとき首都をシェラン島コペンハウンに設置したことからシェラルド王国の名が付けられた。
シェラン人は沿岸防衛の任を命ぜられることが多く、プロイセンの戦争には殆ど参加することは無かった。民主化革命時においても、犯行する者は殆どいなかったために血が流れることは無かった。そのまま社会主義革命期まで極めて平和な国家であった。
1178年にプロイセンが宗主権を一斉放棄すると、独立に迫られたシェラルドだが、同盟関係に変わっただけなので特に影響は無かった。しかし1182年の社会主義革命において国内の過激派が急速に台頭し、国風が大きく変化することとなる。
一方、ユトランド地方の統一から取り残されたノルマンディー、フランス地方のシェル人は現地人と混ざりながら、統一国家の誕生は無くとも小勢力が成立し、東のプロイセンや西の大和に影響を受けながら、独自の勢力を形成していった。
転機となったのは欧州ソヴィエトと大比那共和国の間で発生した欧比戦争で、東部フランスが戦場となったことで始めて統一意識が生まれ、大和に亡命中だったシェラン第一王女シルビア・オルテンブルクが首魁として大和と共に西部フランスを統一、戦争で消耗した欧ソを交渉で開戦前国境に押し戻し、フランス全土を掌握した。この時がオルテンブルク朝シェラルド王国の成立となり、第二のシェル人王朝の成立となった。
赤化依然のフランスとシェランの間には歴史や民族のよしみで密接な交流があり、文化の大半を共有していたため、実質的にはシェラルド王国とシェラルド共和国の間に政体以外の差異は無い。しかし、南部フランスはシェランの影響が届いておらず、純粋なフランス人が多い。その為、南北での民族対立が存在してしまっている。
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