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08/28 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 中華上陸!北京へ向け進軍 シェラルド中華派遣軍は中華本土への上陸に成功し、ベルシカラー元帥指揮の下、青島、大連などの沿岸要塞を次々と陥落せしめ、北京へ向け進軍しているという。 なお、増派の第二軍は指揮官オリオール元帥が船酔いで倒れたため、レイユ将軍補佐のもと、大西洋艦隊のプリオール提督自らが指揮を執っているらしい。 |
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08/25 -ル・マン・ド・パリ新聞社- いざゆけ上陸作戦 連合軍は25日、中華本土への上陸作戦を開始した。シェラルド軍は大西洋艦隊や北連艦隊の支援のもと、続々と上陸を果たしているという。 |
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08/24 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 舞鶴連合会談 中華本土上陸作戦のため、シェラルド王国主導の連合軍が結成された。各国代表はシェラルド王国の太平洋拠点舞鶴に集い、作戦を練った。 シェラルド代表は外務大臣ラ・プラティエ卿と舞鶴駐屯軍司令官フォンシニョン将軍(コーカサスで戦死したフォンシニョン将軍の兄)。連合軍最高司令官にはベルシカラー元帥が任命され、シェラルド大西洋艦隊と共に舞鶴へ向かっている。 |
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08/23 -ル・マン・ド・パリ新聞社- パレルモ講和条約 シチリア晩祷戦争は、お互いがシチリア=ナポリ間の海峡を越えることができず膠着していた。両者は経戦を断念し、講和へ向かった。 以前より、北部の都市トレントにて和平交渉は続けられており、両帝の意思をうけ、23日、パレルモで講和会議が開かれた。トレントで起草された条約は、開戦前の状態への回復、すなわちシチリアはトラキアへ、ナポリはシェラルドへ、という形で合意された。 |
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08/23 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ワルシャワ停戦条約 中華軍を撃破した大陸軍はワルシャワへ向かったが、当地には長大な塹壕線が築かれており、突破は困難だった。また、ロシア遠征と聞いた皇帝が頭痛を発祥したため、主力を欠いたシルカ軍と思惑が一致し、停戦の運びとなった。 神聖ローマ帝国はシルカ軍のうちドイツ遠征に参加したユークバニア、月ノ谷両国と停戦となった。残る中華連邦とは既に太平洋諸国と連携し、本土上陸作戦が計画されている。 |
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08/22 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ヴィスワ川の悲劇 ヴィスワ川を越えワルシャワへ撤退せんとする残存中華軍は、しかしこれを強行軍で追い抜き対岸で待ち構えたブランクール軍団と追撃するマルシアル軍団とによって文字通り全滅した。強行突破せんと橋へ殺到した中華軍は大砲によって挽き肉と化し、恐慌と化し冬のヴィスワ川へ落ちた者はもれなく凍死か溺死だった。のちのワルシャワ停戦会議によると、生きてワルシャワへたどり着いた中華軍は、侵攻時の200万のうち、1万人にも満たなかったという。 このヴィスワの戦いは、後に「ヴィスワ川の悲劇」として語り継がれた。 |
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08/20 -ル・マン・ド・パリ新聞社- アウステルリッツ この日、歴史に残る会戦が行われた。 北方の中華第1軍を撃破した皇帝陛下は一挙に東ドイツへ進軍、ドレスデンへ入られた。偵察により中華第2軍が先の北方戦線の趨勢を知らず、南ドイツを迂回し、ボヘミア経由でイタリアへ向かうべくプラハを発ったことを知られると、第1軍と親衛隊を率いこれを猛追した。 20日、第1軍が中華第軍に追いついた。場所はスラフコフ・ウ・ブルナ。ドイツ語でアウステルリッツと呼ばれる街である。背後を衝かれた中華第2軍だが、辛うじて高地の確保には成功した。午前6時45分、アウステルリッツの日は昇る。大砲の砲声が鳴り響き、中華軍が一斉に高地を下り攻撃を開始した。 中央に構える皇帝陛下直卒の戦列を支えるのは、両翼を任された歴戦の元帥たちだ。右翼のリュッシュモン元帥は右腕オト・ジデンローヴ将軍と共に村を死守。左翼のマルシアル元帥は倍近い正面戦力を猛攻で凌いだ。正午、充分に伸び切った中華軍へ、中央第2列で温存されていた、歴戦の近衛軍団が動き出した。 近衛軍団は皇帝陛下の号令の下、高地へ急襲をかけた。数的、地理的優位に慢心した中華軍は左右への攻撃に腐心するあまり、この急襲に対する中央の備えを失しており、30分後には第1古参兵師団を指揮するトリニ=ドゥモン将軍が、高地に軍旗を掲げた。この瞬間、中華の両翼は包囲下に置かれたのである。大混乱に陥った中華軍に待っていたのは、容赦のない殲滅戦だった。皇帝陛下は近衛騎兵とメーレンカンプ元帥の騎兵軍団を投入した。 この日、会戦と潰走時の追撃による被害とを合わせて、東欧へ派遣された中華軍の3割にあたる第2軍は、文字通り地上から消滅した。先のドイツ戦線とあわせて戦力の半数を喪失した中華軍はシルカ軍とともにポーランドへ総退却を開始した。 |
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08/20 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ティレニア海戦敗北 カラブリア追撃失敗 カラブリアへ撤退したトラキア軍の、シチリアへの撤退を防ぐべく行われた陸海での戦闘は失敗し、トラキア軍の殲滅は叶わなかった。 半島を南下するトラキア軍を強行軍で猛追したウールップ元帥だが、ナポリ残存兵のゲリラ戦により足止めをくらい、応援に出撃した地中海艦隊も、先のアドリア海海戦のダメージを回復しきっておらず、満足に戦えず二度目の敗北を喫した。それでもカラブリアでトラキア軍に追いついたウールップ元帥だが、トラキア軍が築いた即席の堡塁に苦戦した。ようやく殿軍を撃破し堡塁を乗り越えたとき、その上から主力を乗せた輸送艦がちょうど港を出るのが見え、元帥は帽子を叩きつけ悔しがったという。 |
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|&image(https://gyazo.com/0502d830dcacf0057fafbf0072b61dcf.png,width=400)|08/19 -ル・マン・ド・パリ新聞社-&br()&br()&bold(){逆襲のグランダルメ}&br()&br()12月の作戦は、大陸軍創設以来でも最大のものであった。南ドイツを迂回し、低地を通過しパリを目指す北方のシルカ軍は、ヴァルキア軍に加勢した第Ⅸ、第Ⅹ軍団が受け止めることに成功し、伸び切ったシルカ軍の戦線に、ラインの皇帝陛下直卒の第1軍、復帰したブルゴーニュ公麾下の第Ⅸ、第Ⅹ軍団にヴァルキア軍を加えた第2軍、マルシアル元帥麾下の第Ⅱ、第Ⅵ軍団にノルマンディー辺境伯軍、バイエルン軍にバーデン=ヴュルテンブルク軍を加えた第3軍は一斉に反抗作戦を開始した。大陸軍はオスナブリュック、カッセル、ザンガーハウゼン等で大勝を収め、長大な側面に総攻撃を受けたシルカ軍は総退却を開始した。重騎兵のシェイフスキ元帥や新任のブランクール元帥などは追撃戦で大戦果をあげている。|
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08/19 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ナポリ追撃戦 モレラの離脱やアフリカの動乱を受けローマ戦線に敗北し、旗色を悪くしたトラキア軍はナポリの一時放棄を決定、シチリアへの退却を開始した。ドイツへ転戦した皇帝陛下は、第Ⅶ軍団指揮官のウールップ元帥にイタリアに残る軍を預け、追撃を命じた。 元帥はトラキア軍を撃滅すべく強行軍で南下したが、剣俊な半島部で現地人のゲリラが牙を剥き、充分な戦果が得られなかった。現在トラキア軍はカラブリアで艦隊の輸送を待っているとの情報が入り、これを阻止すべく地中海艦隊が再び出撃した。 |
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08/18 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 皇帝パリへ帰還 holynationを決闘で下し、ローマ市を奪還した皇帝陛下は、東欧のシルカ軍への対処のため、一時パリへ帰還した。ヴィットリオとの決闘の始終は既に大陸軍戦報によってパリ中が知るところであり、民衆は大歓声で陛下を出迎えた。 陛下はチュルイリーでドイツ戦線の戦況を知らされた。先日、ライン同盟諸侯連合軍がシルカ軍に敗れ壊滅し、シルカ軍はフランス国境まで迫らんとしている。陛下は一時間の休息の後、皇后陛下とローマ王へ顔を見せ、ただちに新編された第Ⅺ軍団、第Ⅻ軍団と親衛隊を率いてラインへ向かわれ、第Ⅸ軍団と第Ⅹ軍団は北方ヴァルキアへ向かった。また、イタリアで余剰戦力となった第Ⅱ軍団、第Ⅶ軍団はアルプスを越えバイエルンへ向かい、三方向からの逆襲の手筈が整えられた。 |
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08/18 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ローマの戦い 大陸軍は二度目の総攻撃でローマを奪回した。 大陸軍第Ⅰ軍団、第Ⅵ軍団及び騎兵軍団は、モレラの離脱で足並みを乱した隙を逃さず、トラキア軍に占領されていたローマを取り戻すべく、総攻撃をしかけた。長期にわたる戦闘と砲撃により、大陸軍は遂にローマ市壁を突破し市街戦に持ち込んだ。トラキア軍は疲弊しつつも頑強に抵抗したが、18日、遂にサンピエトロ聖堂にフランス国旗が掲げられた。 トラキア軍はローマ防衛線を放棄し、ナポリへ撤退したという。 |
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08/17 -ル・マン・ド・パリ新聞社- モンカリオリの両王決闘 数か月に渡り継続されたトリノ包囲が劇的な幕切れを迎えた。 この日、トリノ市とはポー川を挟んで対岸のモンカリオリにあるシェラルド軍野営陣地に敵将ヴィットリオ・ディ・サヴォイアが単身で現れた。曰くholynationの独立をかけた一騎打ちの勝負を"シェラルド王"エリックに申し入れたいと。包囲下にあるトリノの窮状を受けての行動だろう。皇帝陛下は彼の勇気を湛え、これを受けた。 場所はモンカリオリ城の中庭。ローマを追われた後陛下に招かれ従軍していた枢機卿フランソワ・ド・フルーリを公証人に立て、エリックは愛用のサーベル、ヴィットリオは家宝の剣を手に、馬上にて決闘が行われた。 両者の愛馬が交錯した刹那、勝敗は決した。宙を舞うふたつの影。観衆は一瞬遅れて、それがエリックの帽子とヴィットリオの頭部であることを理解した。ド・フルーリは神と教会の名においてエリックを正当な勝者と定めた。 陛下はヴィットリオの遺体の前で十字を切ると、"彼は最期のとき、まさしく王であった"とされ、遺体は丁重に彼の家臣へ引き渡すよう命じられた。サヴォイア王国は後継者断絶によりフランスへ併合となったが、抵抗の意思のある者はトラキア陣営へ下るため出国することを許された。 |
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08/17 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ドイツ戦線 イェナの戦い ライン方面軍を破り障害を排除したシルカ軍は、今や破竹の勢いでドイツに侵攻している。政府は帝国臣民に対し、皇帝陛下と大陸軍が戻るまで徹底抗戦し、パンのひとかけら水の一滴も与えるなとの布告を出した。 東ドイツと南ドイツとを繋ぐ要衝イェナでは、ノルマンディー辺境伯軍とバイエルン軍の連合軍がリーグニッツでライン方面軍を撃破した中華第1軍と交戦し防衛に成功したとの速報も入っており、皇帝に代わり指揮を執る陸軍大臣ド・ラ・ヴァリエール公爵はイェナの活躍にならい。ライン同盟諸侯連合軍を編成し北部の防衛に出撃させた。 |
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08/16 -ル・マン・ド・パリ新聞社- コンスタンティノープルの和約 ついに帝都コンスタンティノープルに肉薄したシェラルド=アナトリア連合軍は、16日に総攻撃をかけた。大砲の音は三日三晩止まず、遂に防壁は陥落。連合軍は帝都を占領した。同時にレスボス島への強襲上陸作戦も結構され、こちらも成功するとともにモレラ艦艇数隻を拿捕したという。 しかし、本来シェラルド=アナトリアとモレラは防共、防レで共闘し得る関係であり、お互いがこれ以上の戦争を望まないのは明らかであった。モレラは首都の陥落を受けて交渉のテーブルに着いた。 シェラルド=アナトリア全権フィッツカラルド元帥とモレラ首相閣下との和平交渉は実を結び、これは両国の戦後友好を願ってコンスタンティノープルの和約と呼ばれた。モレラ共和国は直ちにシチリア戦争から離脱し、レスボス諸島及び拿捕した艦艇を引き渡し、シェラルド=アナトリア連合軍はコンスタンティノープル含む全ての占領地から撤退した。 |
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08/16 -ル・マン・ド・パリ新聞社- レグルスへの警告 レグルス帝国のアフリカでの拡張主義について、ローマ教皇クレメンス聖下はレグルス帝国を非難し、速やかなアフリカからの退去を要求した。 現在ローマ市はビザンツ軍の占領下にあり、避難先のアヴィニョンから声明を出した。聖下は北アフリカのC教徒の保護を名目に(いるんだか)、レグルス軍が直ちに占領下のアフリカから退去しない場合、HRE諸侯を糾合し聖戦を発すると圧力をかけた。 |
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08/15 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ガリポリ制圧!帝都はすぐそこに シェラルド=アナトリア連合軍は犠牲を厭わぬ波状攻撃の末、遂にガリポリ半島のモレラ軍陣地を制圧。上陸作戦の勝利を果たした。皇帝陛下は連合軍兵士と指揮官フィッツカラルド元帥の攻撃精神を高く評価したという。 特に偉大な貢献を果たしたのはアナトリア兵だ。彼らは何度見方が倒されようとも士気高く、皇帝万歳を叫びながらの突撃にさしものモレラ軍も怖気づいたという。彼らの活躍もあり連合軍は敵陣地をひとつひとつ制圧し前進。遂にモレラ軍をガリポリ半島から撤退せしめた。 現在、連合軍は続々と対岸に上陸し、コンスタンティノープルの包囲へ向け進軍している。ビュザンティウム連合軍の片翼を担うモレラを屈服せしめれば、この戦争にも光明がみえるだろう。 |
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08/15 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 対露開戦!迫りくる連合赤軍 シルカグラードの連合軍は我国へ宣戦布告を行った。ヨーデリンゲ宰相閣下は直ちにドイツのライン方面軍に出撃を要請。方面軍はブルゴーニュ公爵指揮の下、オーデル川を越えた。 突然の宣戦布告に帝国中が騒然となった。ポーランドを進撃してくる中華軍は200万に上るとみられ、皇帝陛下も軍主力もイタリアに出払う中、命運はライン方面軍司令官ブルゴーニュ公シャルル"無衣公"殿下に託された。 公は戦場で常に全裸であることで知られ、それ以外でも決して上着を着ない強い意志を持つ人物である。ライン方面軍はトゥルケスタンへの派兵で引き抜きのあった直後だが、信仰を否定する野蛮なスラブ人など公の敵ではないだろう |
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08/14 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ガリポリ上陸戦 シェラルド=アナトリア連合軍はコンスタンティノープルを陥落せしめるべく、ガリポリ半島への上陸戦を決行した。指揮官はフィッツカラルド元帥だ。 連合軍は日の出と共にボスポラス海峡を渡り上陸を開始した。天候は小雨、足元の悪い中連合軍兵士はモレラの土を踏んだ。戦闘は熾烈を極めた。容赦なく降り注ぐモレラ陣地からの掃射や沿岸砲の砲撃で連合軍兵士は多数の死傷者を出したが、猛将フィッツカラルド元帥の鼓舞の元、銃剣を構え波状攻撃を行った。 戦闘は日暮れまで続いたが、更なる天候の悪化のため、元帥はこの日の攻勢停止を指示した。わずかに築かれた橋頭保の、上陸初期に掘られた塹壕には、膨大な死体が詰め込まれていたという。 |
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08/13 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 両都攻撃 この日、大陸軍はローマ、コンスタンティノープルの両都へ攻撃を行った。突破はならなかったが、多大な消耗を与えたと大陸軍戦報は伝えた。 皇帝陛下は停滞した戦線を突破すべく、奪われたローマ市の奪還のため、またビュザンティウム連合軍の片翼を担うモレラ共和国本土を攻撃すべく、彼の首都コンスタンティノープル市へ同時刻に攻勢をかけた。モレラ戦線の総司令官にはフィッツカラルド元帥を指名。彼は配下の第Ⅷ軍団とアナトリア選抜兵、またアナトリア諸侯連合軍を率い東の帝都を攻撃した。 都市攻撃の主力は大陸軍の誇る砲兵隊だが、やはりローマ市への砲撃は憚られた。その鬱憤を晴らすようにコンスタンティノープへ猛攻が加えられたが、流石千年の都の防御は固く、フィッツカラルド元帥はガリポリ半島へ上陸し包囲する作戦を上奏した。 |
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08/13 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 対ヴァルキア経済制裁 ヴァルキア王国よりの経済制裁の報をうけ、親征中の皇帝陛下にかわり、外務大臣ラ=プラティエ卿は「皇帝陛下の命により、ボナパルトの身柄は決して引き渡すことはしない」と声明を出し、対抗経済制裁を指示した。 シェラルド経済は統一歴117年の北海協商以来、ヴァルキア王国のアムステルダム港を最大の貿易港としており、同市には多くのシェラルド資本が出資していた。今回の経済制裁をうけ、これらを失ったシェラルド経済は大打撃を受けたのは確かである。しかし、冷静に考えてみれば、欧州大戦で西ドイツを獲得したシェラルドにより陸地を囲まれ、国家規模にも大きな差のあるヴァルキアは、むしろ我国以上の損失を出しており、盛大に自らの首を絞めているのである。金儲けが大好きなプラティエは「ヴァルキアの奸臣どもの考えることは理解できない。アーリン陛下が気の毒だ」と辛辣なコメントを残した。 現在、大西洋交易のあらたな中心地として、ル・アーブル港が急ピッチで開発されている。 |
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08/12 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ペスカーラ上陸作戦 アドリア海海戦に敗北し、上陸作戦の阻止に失敗したため、皇帝陛下はやむを得ず第Ⅴ軍団をアドリア海沿岸の防衛に向かわせた。これでさらにローマ正面の戦力が減少し、突破が厳しくなってしまった。 ペスカーラ防衛戦は困難なものとなった。アドリア海の制海権をもつビュザンティウム連合海軍の支援により続々と上陸してくる軍団兵相手に、海岸線を広く薄く守る第Ⅴ軍団は即席の堡塁を築き防戦した。正午の攻勢で目標上陸地点がペスカーラと判明すると、両軍は戦力を集中させ激戦に発展した。 大陸軍は新型の沿岸砲などの配備が間に合わない中でよく防戦したが、アドリア海で拿捕されたシェラルド戦列艦の砲撃を受けると士気も低下した。第Ⅴ軍団のデレッセル元帥は、沿岸での防衛を不利と判断し、第55師団に命じペスカーラ川沿いのローマ防衛線を延長させ、あえて橋頭保を築かせ出血を強いる作戦に変更した。ビュザンティウム連合軍はペスカーラ近郊に橋頭保を築き、これ以降も散発的に防衛線へ攻撃をかけたが、デレッセル線の第Ⅴ軍団を突破できなかった。 |
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08/12 -ル・マン・ド・パリ新聞社- アドリア海海戦 ティレニア海海戦を制したシェラルド地中海艦隊は、ビュザンティウム連合軍の上陸作戦を阻止すべく、アドリア海へ向かった。艦隊は狭い内海を自由に漕ぎまわる三段櫂船に翻弄され、アッと今に壊滅してしまった。 |
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08/11 -ル・マン・ド・パリ新聞社- イストリア戦線 トリエステの戦い ローマ戦線は膠着した。現段階での突破は困難と判断した皇帝陛下は、イリュリアを経由してのトラキア本土強襲作戦を立案。第Ⅳ、第Ⅵ軍団にこれを命じられた。彼らはイストリア半島でトラキア二個軍団と接敵した。現地は木々の生い茂る剣俊な丘陵地帯であり、両軍は現代的な兵器の投入を断念し、伝統的な歩兵と砲兵と騎兵とで戦った。シェラルド軍にとってはいつもどおりであるが。 大陸軍はかつてアラビアでフソウ=サムライと相対したことはあれど、ローマ=カタクラフトとはこれは初対決であった。大陸軍は散発的な射撃を交えながらじりじりと詰め寄るも、鉄壁の亀甲隊形を崩すことはできなかった。それでも距離100歩を切ったあたりからシールドの貫通弾が増え始め、ようやく一斉射撃を開始したが、その頃には敵隊列は撤退していた。 結局、これ以上の接近により白兵戦に移行しては不利と追撃は断念し、こちらの戦線も進展を得られなくなった。さらに部隊内ではこちらも銃でなく鎧と剣で戦うべきとの意見も出ており、ニースの鎧技師に発注した分が届くまで前進できなくなってしまった。 |
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08/11 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ティレニア海海戦 ローマ戦線の膠着をうけて、ビュザンティウム連合軍が防衛線後方への強襲上陸作戦を計画しているとう情報が、間謀より齎された。皇帝陛下はこれを阻止すべく、地中海艦隊をアドリア海へ向け出撃させた。 地中海艦隊はコルーメディ提督麾下の戦列艦21隻及び補助のフリゲート艦からなる艦隊である。彼らはマルセイユ港より出航し、地中海を東進した。BU連合艦隊もまたこれを知り、艦隊を出撃させた。両者はティレニア海で激突した。 シェラルド艦隊はその歴史上、大陸軍とは対照的に目ぼしい活躍がなく、皇帝陛下の軍拡計画をうけ拡充されてなお、その能力は不安視されていた。しかしこの日は絶好調。トラキア海軍の誇るローマ式の三段櫂船をことごとく大砲の火力で蹂躙した。ただしラムアタックの被害が弾薬庫に引火しての大爆発で4隻が大破する等、無傷の勝利とはいかなかった。 皇帝陛下は提督と艦隊を称賛し、このままアドリア海を制圧するよう要請したが、コルーメディ提督はアドリア海のような内海でのガレー船の脅威は計り知れないと難色を示していたという。 |
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08/10 -ル・マン・ド・パリ新聞社- バルニエ・ボナパルト保護 シェラルド政府はバルニエ・ボナパルトの身柄を保護し、現在モブージュ市庁舎に留めていると発表した。翌日にはパリへ護送される見通しだ。 氏は先日アントワープで挙兵し、ベルギーの分離独立を求めていたが、ヴァルキア軍によって鎮圧されていた。しかし本人は行方不明となっており、秘密警察が捜索にあたっていたが、10日、シェラルド王国の政府発表により、その身柄が親衛隊によって保護され、シェラルド王国領内へ移されていたことが判明した。皇帝陛下はこの案件をその権限で以て皇帝預かりとし、ヴァルキアへはこれ以上の干渉をやめるよう追及した。 保護のいきさつについては、親衛隊が無断でヴァルキア領内に侵入してのものとみられ、この内政干渉による両国間の関係悪化は確実である。しかし、皇帝陛下は一貫してこのフランス人の肩をもつおつもりのようだ。 |
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08/10 -ル・マン・ド・パリ新聞社- hn蜂起軍撃破 ローマは近郊で防衛 皇帝陛下率いる大陸軍は、蜂起したトリノのholynarion軍をアスティで撃破した。しかし、この奇襲によりローマは陥落し、つづくトリノ包囲に人手を取られてしまっている。 ヴィットリオはサヴォイア軍を糾合しholynation軍へ編入すると、ポー川沿いのアレッサンドリア街道を行軍する大陸軍本隊の背後を急襲。最後尾の第Ⅱ軍団とアスティ近郊で戦闘になった。側面を取られた第Ⅱ軍団だが、マルシアル元帥指揮の下、タナロ川を背に戦列を構築し、巧みに防衛戦を行った。この報せをアレッサンドリア手前で受けた皇帝陛下は、ローマの救援を断念せざるを得ず、踵を返しアスティへ向かわれた。本隊が到着するとholynation軍は撤退したが、メーレンカンプ元帥の軽騎兵軍団が追撃で戦果をあげた。 トリノは山と川に囲まれた天然の要塞都市である。ここに大軍で逃げ込まれては厄介と陛下は強行軍による追撃を命令されたが、トリノへ続く山道でのゲリラ戦に苦んだ。なんとかトロファレッロで追いつき市街戦を制したが、殿軍の妨害により、本隊にはトリノ市内へ逃げられてしまった。 大陸軍はトリノの包囲軍を残し、再びイタリア戦線へと進軍した。現在、ローマ市占領で一時停止したトラキア軍のさらなる侵攻を食い止めるべく、ローマ市北部に長大な防衛戦が築かれている。この戦争は長引くかもしれない。 |
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08/09 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ローマ陥落 BU軍の攻撃により、ローマが陥落した。イタリア方面軍決死の抵抗により、教皇庁は脱出に成功している。 信仰の砦が異教徒に侵されてしまった。ロシェシュタール元帥麾下イタリア方面軍はBU軍の猛攻をローマで耐え忍んでいたが、戦力は充分でなく迅速な支援が必要であった。皇帝陛下は大陸軍を率いて半島を南下、ローマへ向かっていた。 救援は充分に間に合う筈であったが、神は恐るべき試練を下された。サヴォイア王国が突如としてholynation残党に侵され、帝国へ反旗を翻したのだ。 どうやら追放した筈の元王太子ヴィットリオが密入国し、クーデターによりトリノ宮を占領していたようだ。彼らはholynationの独立を宣言し、大陸軍へ襲い掛かった。折しもサヴォイア領内の通行中のことである。皇帝陛下と大陸軍はこれの対処に手を取られ、ローマ救援を断念せざるを得なかった。 ローマへ送られた伝令は、元帥に皇帝陛下の指示を伝えた。これに従い、イタリア方面軍はローマから教皇庁が脱出するまでの死守命令に従い、決死の防衛戦を遂行。見事にこれを果たしたが、トラキア軍の精鋭第6軍団との戦闘で多くの将兵が討ち死にした。 |
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08/08 -ル・マン・ド・パリ新聞社- サレルノ・ベネヴェントの戦い ナポリで劣勢に立たされたロシェシュタール元帥は、内線作戦による機動戦での勝利を目指しナポリを出立、トラキア軍へサレルノで会戦をしかけた。元帥は陣頭で指揮にあたり、配下の銃兵で敵右翼を一時崩したものの、後詰めの尾鷲義勇兵がこの穴を埋め、ふたたび膠着した。 その間にトラキア軍の別部隊が北方からナポリ市に迫ったため、ジュノー将軍の師団に二個連隊を付け阻止に送り出した。しかしこれが撃破され、後背が脅かされたため、元帥は攻勢を断念し戦場から撤退した。 その後、疲弊した方面軍ではナポリの防衛も困難と判断し、教皇領のローマ市まで後退したようだ。皇帝陛下はドイツから回収した大陸軍を連れて、ニースを越えイタリア入りした。逆襲の日は近い。 |
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08/06 -ル・マン・ド・パリ新聞社- イタリア方面軍ナポリへ 5日、シチリアとナポリの反乱軍はパレルモの守備隊を攻撃した。彼らは勇敢に戦ったが、敵軍は既にただの暴徒ではなく、ナポリ独立軍団の支援を受け組織的な攻勢を行っており、奮戦及ばずにパレルモは放棄した。残存兵は辛うじて脱出に成功したようだ。 翌6日、ローマにいたイタリア方面軍はナポリ独立軍団本隊を叩くべく、強行軍で南下。コゼンツァで補足しこれを撃破した。しかし、半数をナポリの包囲に残し、さらに強行軍で疲弊したイタリア方面軍に追撃の余裕はなく、後退を許してしまった。 その後、偵察によるとナポリ独立軍団はバーリ市でトラキア軍を迎え入れていたらしい。もし両者の協力体制が事実なら、突出したイタリア方面軍はとても危険な状態にある。 |
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08/06 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 南パナマ進駐 シェラルド大陸軍は南パナマへ進駐した。 同地で発生したラズベリー連邦におけるクーデター事件の影響を受け、地域の平和と安全の回復のため、パナマ遠征軍が編成され派遣された。指揮官はルクレール将軍である。 |
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08/05 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ヴァルキアの内紛 皇帝はバルニエを消極的支持か? ヴァルキア王国において、アントワープで蜂起したバルニエ・ボナパルトがボナパルト=フランスとして独立宣言した事件を受けて、マルセイユ港へ到着した皇帝陛下は、早馬により一日遅れでこれを知られた。 現在、ヴァルキア王国軍は先の大戦で壊滅しており、もし両者が戦闘となれば、苦戦が予想される。大戦を共に戦った友邦を助けるのか、それともバルニエに肩入れしベルギーの併合を望むのか。皇帝陛下は「これはヴァルキアとボナパルト=フランス間の問題であり、神がそれをお決めになられるだろう」とした。事実上の不干渉宣言であるが、暗にボナパルト=フランスを承認しているようでもあり、消極的支持の立場を匂わせた。 いずれにせよ、友邦ヴァルキアとの間に大きな亀裂を生むこととなるだろう。 |
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08/05 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ナポリで反乱 皇帝陛下はフランスへ帰還 シチリアの反乱はナポリにまで飛び火し、シェラルド軍独立ナポリ軍団までが反乱に加わった。独立軍団は新たに併合された外地などに設置され、地元の兵士を供出させる引き換えに自治を与える制度であるが、今回は裏目に出た形だ。 ナポリが不安定化したことで、シチリア遠征軍は孤立してしまった。急遽ロシェシュタール元帥のイタリア方面軍が鎮圧に乗り出したが、皇帝陛下はこれを止め北イタリアへのさらなる反乱の拡大を先ず抑えることを指示した。シチリア遠征軍のうち第12、第57師団を占領地の守備に残し、皇帝陛下は一度マルセイユ港へ帰還されたとのこと。 |
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08/04 -ル・マン・ド・パリ新聞社- パレルモ占領 シチリアの回復を宣言 遠征軍はコルレオーネでトラキア軍を破り、首都パレルモを占領した。皇帝陛下はノルマンニ宮殿で改めてシチリア王位保有の確認を行い、シチリア島の神聖ローマ帝国への回復を宣言した。 コルレオーネの戦いはシチリア戦線で最大の戦闘となった。トラキア軍はパレルモに籠城し本国の応援を待つ作戦をとったが、パレルモ市民の反乱を抑えきれずに追い出されてしまった。結局郊外のコルレオーネまで進出しシェラルド軍と対峙したようだ。シェラルド軍のシチリア遠征軍は親衛騎兵の突撃でトラキア戦列を破りこれを撃破した。 パレルモは占領したものの、やはり抵抗が激しく、市民の銃撃で皇帝陛下の帽子が吹き飛ばされる一幕もあったという。 |
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08/04 -ル・マン・ド・パリ新聞社- シチリア遠征軍 遠征軍はメッシーナ上陸以降、各地でトラキア軍を撃破し、都市を真の信仰の下に回復している。第2軍団は首都パレルモへ向け進軍。トロイーナでトラキア軍と大規模な会戦となった。 トラキア軍は各地の反乱鎮圧の為に散会していたものを急遽かき集めた集団であり、組織だって侵攻した第2軍団の相手ではなかった。 その後第2軍団はエンナを占領し、島の要衝を抑えた。現地からの報告によると、暴徒はやはりシェラルド軍へも抵抗を行っているという。 |
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08/01 -ル・マン・ド・パリ新聞社- こんにちは、新たな友人よ! 神聖ローマ帝国とセントラル自由主義条約機構は機構間同盟を締結した。HRE皇帝エリックⅠ世陛下とCeltoの盟主たるスティーブ・クラフタリア同盟連邦のスティーブ大統領閣下は、シェラルド王国のブレスト市にて会談し、ブレスト条約を締結した。 大西洋を股に掛け、偉大な外交革命が結実した。両国はかねてより共通の敵に悩まされていたが、主に皇帝陛下の若気の至りにより、外交態度は曖昧なままであった。状況が動いたのは、怪我の功名というべきか、サルデーニャ島の租借問題からである。これを契機に両国の外交チャンネルが繋がると、シェラルド外務大臣ラ=プラティエの発案により、外交革命へと歩みだしたのだ。 8月1日、HREとCeltoは、OFC及びShVVsを仮想敵とした機構間同盟を締結した。また、HRE皇帝はS・C大統領を儀礼上のサルデーニャ王に叙し、同地をCeltoへ解放。同じくS・C大統領は南アメリカ・シェラルド領ギニアを保証した。両国は同地を玄関口とし、両機構間の貿易優先権を承認した。 場所はブレストの古城シャトー・ド・ブレストだ。大西洋を望むシェラルド有数の港湾都市で、両機構の末永い連帯をアピールした。直前までS・C大使として同盟締結に尽力し、欧州大戦で緊急召喚され不眠不休で戦中、戦後処理にあたったラ=プラティエは過労で倒れた。 |
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08/01 -ル・マン・ド・パリ新聞社- トゥルケスタン遠征軍 第三次欧州大戦の戦勝によってドイツの脅威が取り除かれたため、シェラルド王国は余剰兵力を友邦トゥルケスタンへ派遣し、共産主義勢力との対決へ備える方針を打ち出した。宮廷ホットラインを通じての交渉に、寛大で知られるティムール帝は快諾。大陸軍は新たにライン方面軍から戦力を抽出し、「トゥルケスタン遠征軍」を編成した。遠征軍は新型航空母艦マリー率いる艦隊の練習航海と共にペルシャ湾へと向かった。 なお、スエズ運河を通行できないため、悲しみの喜望峰大周りである。 |
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07/31 -ル・マン・ド・パリ新聞社- シェラルド=ローゼノワール同盟締結 シェラルド王国は31日、ロシアのフランス人王朝であるローゼノワール王国との同盟条約(パリ条約)を締結した。また、同国より王妹アルベルティーヌ=デボルド・ド・ローゼノワール殿下(10)を迎え、シェラルド王国王太子クリスチャン殿下(10)とご婚約を結ばれた。 両国は有事の際の相互軍事協力を約束し、シェラルド王国はローゼノワール王国をロシアにおける唯一の正統な王朝であると承認した。 シェラルド王国はルーシ王冠の地を不当に占拠している共産主義政権との対決へ向けて、心強い同盟国を得た形となった。また、異国の姫君はたいへん見目麗しく、デーン系フランス人よりもさらに一回り明るいプラチナブロンドに、パリ市民は熱狂した。 クリスチャン殿下との仲も良好であり、殿下は調印式の後、アルベルティーヌ殿下をヴェルサイユの庭園へエスコートされた。 |
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07/31 -ル・マン・ド・パリ新聞社- カラブリア返還条約 トンガ帝国とカラブリア租借地の返還に関する条約を締結した。トンガの紳士的な対応を世界は称賛するだろう。 半島の統一がまた一歩進んだ。欧州大戦が終結して間もなく、ヨーデリンゲ宰相閣下はオセアニアへ飛んだ。戦前より交渉が続けられていた、半島のトンガ租借地カラブリアの返還条約を締結するためだ。皇帝陛下は返還に合意したトンガ政府の英断を称賛し、カラブリアにおけるトンガ資本の安堵を求められると、喜んでこれに応えたという。 美食家で知られるヨーデリンゲ卿だが、トンガ料理で歓待を受けると「フランス料理と並べて語ることができるのはトンガ料理くらいのものだろう」と絶賛した。 |
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07/30 -ル・マン・ド・パリ新聞社- パリースイィ凱旋パレード ドイツとの戦争を勝利に導いた英雄たちが祖国へ帰還した。首都パリースイィで行われた凱旋パレードでは、通り沿いに民衆が押し寄せ、兵士達が通ると一斉に花束を投げた。 陛下は語る。「諸君はヨーロッパで最も勇敢な、最強の男達だ。ラインで、ザクセンで、アンティオキアで戦ったと言えば、誰もが諸君を英雄だと称えるだろう。」と。 同時に、ベルリン・シュメックヴィッツの戦いで戦功をあげたマルシアル将軍に、元帥杖が授与された。 大陸軍は地上最強!!! |
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07/30 -ル・マン・ド・パリ新聞社- アンティオキア奪還 アナトリア方面軍及び第3、第8軍団の協力作戦によるレグルス両への逆侵攻作戦において、フィッツカラルド元帥麾下第8軍団がアンティオキア要塞を攻略し、同地を再びアナトリア王冠のもとへ奪還した。 東地中海戦争以後異教徒の手に落ちていた聖地はふたたび真の信仰のもとへ帰属し、レグルス帝国相手に久しぶりの勝利を収めた。 同地では休戦協定が結ばれ、第三次欧州大戦に伴うレグルス帝国との戦争は終結した。 |
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07/29 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ポツダム講和会議 ドイツ同盟に大勝した皇帝陛下は、講和会議を開催した。ベルリン宮殿や市庁舎は砲撃によって損傷していたため、ポツダムのサンスーシ宮殿で行われた。 皇帝陛下はスミトラントに先のオラニエンブルク条約を突き付けた。以下の条文である。 ・国王ハインリヒの退位と王太子フリードリヒ=アウグストへの譲位 ・多額の賠償金と完済までの大陸軍のスミトラント進駐 また、戦前から国家機能が停止しているアイゼルネ王国は解体し、ライン同盟へ再編してシェラルド王国の統治下に置いた。 |
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07/29 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ノイベルリンの戦い 大陸軍は敵首都ベルリンを包囲した。皇帝陛下はオラニエンブルクで対スミトラント講和条約を起草しハインリヒへ突き付けたが、降伏を拒否したためベルリンへの攻撃を開始した。 ベルリン市は外周の市街を改造した防壁とベルリン要塞とからなる要塞都市へと変貌していた。防壁は突破したものの、ベルリン要塞は難攻不落であり皇帝は突破を諦め絶えず砲撃を加えた。 途中、スミトラント軍は包囲を突破しドレスデンへの逃走を試みたが、マルシアル師団の大活躍で辛うじて阻止し、ベルリンへ押し戻した。皇帝陛下はマルシアル将軍に元帥杖を与えた。これにより遂にベルリンは降伏し、戦闘は終わった。 |
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07/26 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ライプツィヒの戦い リュッツェンに向かった皇帝に変わり、リュッシュモン元帥の第1軍団がライプツィヒの攻略を命じられた。支援にはメーレンカンプ元帥の騎兵軍団を与えられた。 リュッシュモン元帥はマルクアンシュテットを占領し、ここから大量の砲兵により砲撃を加え、その後に突撃した。しかし、ライプツィヒのスミトラント軍は市民軍と一体となり抵抗。26日中にリンデナウは占領したものの、運河で撃退された。さらに南方の湖から遊覧船を用いた奇襲上陸攻撃を受け、第1軍団はマルクアンシュテットまで後退した。 翌日、メーレンカンプ元帥がグロースベズナへ迂回し同地を占領、これによりライプツィヒ市は包囲され、湖も使えなくなった。正午に第二次総攻撃が行われ、日暮れにはライプツィヒ市は陥落した。ライプツィヒの軍は、初日で物資の大半を使い果たしていたようだ。 |
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07/26 -ル・マン・ド・パリ新聞社- リュッツェンの戦い スミトラント領内へと侵攻した大陸軍はマルクアンシュテットに到達、敵司令部のあるライプツィヒを目指しなお進軍していた。 26日、後方を行く第7軍団のウールップ元帥から、リュッツェンに大規模な市民軍が終結しているとの報告を受けた皇帝は、ライプツィヒのスミトラント軍と挟撃されることを防ぐべく、ウダンクール元帥の第6軍団を連れリュッツェンに向かった。 市民軍は南方のスミトラント軍と合流し交戦を開始していた第6軍団を圧迫していたが、到着した増援により戦線を持ち直し、そのまま日暮れとなり翌日に持ち越した。 翌朝は深い霧に包まれ土地勘のない大陸軍には不利であったが、皇帝は攻撃を決行した。敵軍はゲリラ戦で大陸軍を苦しめたものの、統率カに勝る大陸軍がしぶとく攻め勝利した。 途中、皇帝が迷子になり負傷してしまったが、翌日には元気に先頭を駆けていた。 |
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07/25 -ル・マン・ド・パリ新聞社- アイゼルネ降伏 既にアイゼルネ全土は大陸軍の占領下となった。最後に残った首都ゲファースドルフの守備隊も投降し、アイゼルネ王国は降伏した。エリック陛下はゲファースドルフに到着されると、終戦までの休戦文書にサインさせ、スミトラントへ後退した残存アイゼルネ軍の武装解除を通達させた。 結局、残存アイゼルネ軍はこれに応えず、独自にスミトラント軍のもとでの経戦を選択したようだが、最早スミトラントの劣勢は明らかであり、戦争の趨勢は決したとみられる。 |
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07/24 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 大陸軍エルベ川に到達 アイゼルネ軍を追撃すべく大陸軍の最前を猛進していたメーレンカンプ元帥の騎兵軍団がエルベ川に到達した。 ライン会戦でアイゼルネ軍を撃破した後、敗走したアイゼルネ軍を殲滅すべく、迂回に従事していた部隊は北海~エルベ川を目指しローラーのごとく侵攻。大部分を補足し撃破した。しかし、最北の敵部隊までは間に合わず、「エルベの守り」作戦にも阻まれ、わずかにスミトラント領への後退を許したようだ。 皇帝陛下は温存したヴァルキア軍とシュレースヴィヒ公の軍で以て挟撃するつもりであったが、前者はエムズ川戦線で崩壊し、後者はダンマルクの侵攻をおそれ動かなかった。大きな誤算も生まれたが、それを補うようにメーレンカンプ元帥と騎兵軍団は持ち前の機動力を充分に活かし西ドイツを縦横無尽。多大な戦果をあげ失点を補った。 この活躍により、当初の作戦どおりアイゼルネ軍の大半は地上から姿を消し、アイゼルネ王国は事実上のリタイアとなった。首都ゲファースドルフへの道を阻むものはもはや無く、翌日には皇帝陛下も首都に入られるとのこと。 |
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07/23 -ル・マン・ド・パリ新聞社- レグルス軍を撃退 大陸軍アナトリア方面軍と第8軍団は、トランスコーカサス方面から侵攻してきたレグルス軍と国境線で衝突。これを撃退した。療養から復帰したハシュタウゼン元帥は方面軍の半数を率い、熟練の技で鉄壁の防衛陣を構築。ライン川戦線とは対照的に、レグルス軍の侵入を許さなかった。 |
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07/22 -ル・マン・ド・パリ新聞社- アイゼルネ軍粉砕 大陸軍は地上最強 シェラルド大陸軍はアイゼルネ軍のライン防衛線を易々と粉砕。中央、右翼から浸透し多数を包囲、撃滅した。現在は追撃戦に移行し、アイゼルネ軍を地上から一人残らず掃討すべく、エルベ川へ向け進軍している。 歴史的な勝利がふたたび生まれた。皇帝陛下はまたも親征、親衛隊を率いアイゼルネ軍陣地と対峙した。がら空きの南ドイツから迂回させた分隊を敵側面に叩きつけ混乱を誘うと、すかさず自ら先頭に立っての敵中央への突撃を敢行。瞬く間に防衛線を崩壊させた。 続く追撃戦は浸透した右翼をそのまま北へ押し上げてのローラー作戦。途中、左翼のヴァルキア軍が独断で突撃を敢行し返り討ちにあうアクシデントが発生するも、むしろ北方のアイゼルネ軍が反転攻勢に転じたことで撤退の機会を失い、哀れにもそのままローラーに飲み込まれることとなった。実力と幸運とで大勝利を得た皇帝陛下は、アイゼルネ軍の一掃を厳命しつつ、今後の作戦を練るべく占領下のハノーファーに入られた。市民には暖かく迎えられたという(大本営) |
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07/21 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 開戦!欧州大戦 対独宣戦布告 シェラルド王国は逆賊スミトラント王国及びアイゼルネ王国、ザーティエラ王国に対し宣戦を布告した。これより第三次欧州大戦が開戦した。 21日、スミトラント王ハインリヒは皇帝罷免を掲げ挙兵。先日の帝国会議で罷免票を投じたアイゼルネ、ザーティエラ両国と共同でシェラルド王国に対し宣戦布告を行った。これに対し、シェラルド王国は速やかに3国に対し宣戦布告。帝国会議をうけ戦争は時間の問題と考えた皇帝陛下は既にラインに大陸軍を展開。完全に訓練され統率された大陸軍は、開戦後一斉にラインを越えアイゼルネ領へと侵攻を開始した。 これに乗じて、腐れ豚野郎のレグルスが便乗参戦。中東方面でも戦端が開かれた。まさしく様相は第三次欧州大戦へと発展し、欧州は再び戦禍に包まれた。 |
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07/20 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 暗雲立ち込め帝国会議 十字軍の戦費や中華から始まった世界恐慌、先日の窓外投擲事件など、帝国内は課題が山積みだ。18日、神聖ローマ帝国復興以後初となる帝国会議が、皇帝エリック陛下のお膝元、パリースイィで開かれた。 帝国のかじ取りを決める筈だったこの会議は、しかしスミトラント王ハインリヒ投じた一石により、大いに荒れることとなった。 恥知らずにもハインリヒは戦争責任などを問い、皇帝エリックの退位を要求。ドイツ同盟に属する故か、愚かしくもアイゼルネもこれに同調した。当然のことながら、退位など考えてもいない陛下とドイツ陣営は激論を交わし、遂にハインリヒの求めで選帝侯による皇帝罷免選挙が始まった。 投票結果は4対3。罷免に賛成表を投じたのはドイツ陣営に加え、説き伏せられたとみられるザーティエラ。皇帝陛下はシェラルドに加えアナトリア、サヴォイアの投票権を持ち、友好的なヴァルキアと合わせ4票を獲得したが、人数の面ではまさかの劣勢であった。帝国の大分裂状態が明るみに出た形となり、支持を取り戻すべく、皇帝は対応に迫られている。 |
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07/19 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ああ恐ろしい!プラハ窓外投擲事件 スミトラント王国領ボヘミアの首都プラハにて、暴徒による殺傷事件が発生した。真の信仰に従わない異端者どもは悪魔に唆され、集団で市庁舎へ押し寄せて罪なき議員9名を窓外へ突き落したのだ。 現在、未だ犯人は逮捕されていないという。皇帝陛下は捜査を強化し、一日も早い犯罪者の一掃を要請した。故郷の痛ましい事件を耳にしたマリア皇后陛下はたいそう悲しまれ、宮廷司祭モンモランシー卿は犠牲となったプラハ市議9名を殉教者として認定するようローマ・カトリック教会に要請した。 |
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07/16 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 老兵は去れない かつて欧州大戦の英雄、シャルル・ド・リュッシュモン元帥が復帰した。 ジデンローヴ元帥亡きあと、第1軍団の軍団長の座は空席のままだった。いかに大陸軍といえど、歴戦の勇士の後任がそう易々と務まるものではく、皇帝陛下もその人事に頭を悩ませていた。元帥には息子オト・ジデンローヴがおり、先日将軍に昇格するなど頭角を現していたものの、未だ経験浅く後見役が必要だった。 皇帝陛下は逡巡の末、伝説の英雄、欧州大戦でイベリアを圧倒した希代の戦術家であったリュッシュモン元帥に復帰を要請した。アフリカ戦線で左目を失い戦後に退役していたが、小学生になった孫から祖父の格好いい姿が見たいとせがまれ、渋々復帰を承諾したそうだ。孫を唆したのはフーリアン警察大臣らしい。 |
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07/15 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ノルマンディーの辺境伯 エリック陛下はアンナ・フィリップ・ド・ヴァローニュにノルマンディーを下賜し、辺境伯に叙した。 ヴァローニュ伯家はかつてブリテンを支配したフィーネ朝の分家であり、主家断絶以後はイェリング朝のもとに身を寄せていた。かねてより領地の希望を受けており、将来的なブリテン島の再征服を見据えた皇帝は要衝たる対岸ノルマンディー領を与え、現地の軍事力強化を女辺境伯となった家長アンナに厳命した。 15日、ヴェルサイユにて改めて臣従の儀が交わされ、ノルマンディー女辺境伯アンナはシェラルド王にして神聖ローマ皇帝エリック・ア・イェリングより剣を受けた。 ←緑がシェラルド領、ピンクが新たに辺境伯領となったノルマンディー領 |
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07/12 -ル・マン・ド・パリ新聞社- コーカサス遠征軍壊滅 遠征軍は中華軍を撃退した後、指揮官ハシュタウゼン元帥が熱病に倒れ、指揮権を右腕ボーボワール将軍に引き継ぎ、現地の占領に従事していた。 12日、目の前に現れたレグルス軍に対し、第33師団フォンシシニョン将軍が独断で攻撃を開始。なし崩し的に戦端が開かれた。遠征軍は優位に戦闘を進め、みるみる戦果を拡大した。しかし、三時間が経過した頃、伸び切った戦線の背後にレグルス軍が空挺降下を敢行。備えの無かった遠征軍は一転して混乱が広がり、敗走した。 この戦闘で先頭にいた第33師団はほぼ消滅、フォンシシニョン将軍も戦死した。また、殿を務めたボーボワール直卒の大27師団も半数近くを喪失し、遠征軍は壊滅した。これをうけて皇帝はコーカサスからの全面撤退を命じた。 |
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07/12 -ル・マン・ド・パリ新聞社- プラティエ外務大臣 クラフタリア大使へ栄転 新たな外務大臣は任命せず、ヨーデリンゲ宰相が兼任する。 |
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07/01 -ル・マン・ド・パリ新聞社- イスキア合意 租借地回復の第一歩 シェラルドの半島領の一部がサヴォイアにより不当に売却された問題を受け、ようやく回収活動が開始され、中華及び月ノ谷からナポリ、タラントを回復した。 皇帝陛下は武力脅迫によるレコンキスタを所望されたが、外務大臣プラティエはこれをなだめ、平和的外交による回復の方針を定めた。手始めに交渉が開かれたのは中華連邦だ。シェラルドもまた上海に租借地をもつ同国とは、お互いの租借地を手放すことで速やかに合意。同時に共産同盟下の月ノ谷連邦との同調を依頼し、無事両国からナポリ、タレント両市を取り戻した。 会談はイスキア島のアラゴン城で行われた。シェラルドに租借地問題の外交による平和的解決の意思があることをアピールするねらいだ。主席国務大臣ヨーデリンゲが書面にサインし、失地回復の第一歩が成った。 |
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06/29 -ル・マン・ド・パリ新聞社- トランスコーカサス 中華軍撃退 イランへ進出した大陸軍第8軍団は、同地で遭遇した中華軍の攻勢を防ぎ、これを撃退した。 |
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06/22 -ル・マン・ド・パリ新聞社- イラン遠征 トランスコーカサス紛争へ介入 大陸軍第8軍団はハシュタウゼン元帥指揮の下、アナトリアより越境を開始。トランスコーカサスへ攻め入り中華=レグルス間の戦争へ介入した。 アナトリア領に隣接する当地域に社会主義政権国家が誕生することは安全保障上看過できず、また、レグルスの影響力の拡大も望まないシェラルドは、第三勢力としての介入の必要アリと判断。アナトリア方面軍のハシュタウゼン元帥を動かした。 アナトリアの防衛力低下を防ぐため、穴埋め、アナトリア方面軍には新たに本国で編成された第12軍団が編成され、軍団長には先の十字軍で功績のあったフィッツカラルド将軍が元帥に昇進し、配属される。 |
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06/20 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 新軍服 現陸軍大臣ベリー公爵フレゼリク殿下が高齢と持病の痛風の悪化を理由に職務を降りられ、皇帝陛下は後任にヴァリエール公爵ルイ=フランソワ殿下を指名された。喫緊の任務は拡大した帝国の防衛、その為の軍政改革だ。 はじめに手を付けたのは軍服の改定だった。卿は皇帝陛下、シシグノン参謀長と共に会議室に籠ると、警察大臣フーリアンがアイゼルネ領内に不審な動きアリとの情報を伝えに来たのも追い返し、そのまま徹夜で新衣装の設計を協議されたという。 薄っぺらだった帽子は羽根つきの壮麗なものに変わり、兵士板での評判も上々だという。士気向上は確実だ。 |
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06/02 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ローマ王 10歳の誕生日を迎えられたフレゼリク=クリスチャン殿下は、皇帝陛下に連れられローマを訪れた。 ローマ皇帝の後継者たるローマ王の称号をお持ちになる殿下だが、最後にローマを訪れたのは物心のつく前。父君の後をついて各所を回られ、その所作には既に一流の気品が感じられた。ヨーデリンゲ宰相閣下は、父エリック陛下の幼少期のヤンチャぶりと共に、皇后陛下の血と教育の賜物だと語られた。 今回の訪ローマには、あらためてイェリング家の半島支配の正統性を示すねらいもある。現在、半島南部をはじめ、各所が異教徒により不当に占領されている。というのも、先の十字軍遠征の最中、サヴォイアが見境なく所領を売り飛ばしたからだ。それも殆どはシェラルド領からであり、一刻も早いレコンキスタが求められている。 |
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05/16 -ル・マン・ド・パリ新聞社- アルメニア辺境伯戦死 東部戦線の危機 遂に十字軍遠征が開始され、アナトリア及びイスラエル全域にて戦闘が始まった。敵戦力は地中海沿いの西部に集中しており、これに対峙すべく、シェラルド軍及びモレラ、ヴァルキア、スミトラントらの援軍を加えた主軍が突撃。東部はイズミル大公国軍及びアナトリア諸侯連合軍。そして新設されたアルメニア辺境伯領軍の連合軍が、アルメニア伯自ら率い防御に回った。 全域で激戦が繰り広げられる中、アナトリア軍がマルディンで大規模な敗北を喫し後退。その最中、アルメニア辺境伯が渡河中に落馬。中世十字軍の情熱にかられ、全身鎧を着こんでいた伯はそのまま溺死してしまった。これにより撤退行は大混乱に陥り、レグルス軍の追撃の前にあっさりと蹴散らされてしまう。 これを聞いた皇帝は怒りのあまり指揮も精彩を欠き、敵戦列を攻略できず損害を出し撤退。苦い開戦となった。 |
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05/14 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 十字軍! 教皇と神聖ローマ皇帝の連名で宣言された、対レグルス聖地防衛十字軍において、シェラルド軍はようやく前線であるアナトリアに到着した。 既に一月前には招集されていたにも関わらず、教皇庁から締め上げた財産を中華の開発事業につぎ込むのに夢中な皇帝陛下は腰が重く、元帥たちに尻を叩かれようやく出立。スミトラント王国軍、ヴァルキア王国軍を伴いアナトリアの前線に配置した。 |
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04/19 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 北米での勝利 イットリカン内戦へ参戦したシェラルド派遣軍が大活躍!敵軍を太平洋へたたき出し魚のエサにしてやったぞ! 皇帝陛下は奮闘した派遣軍とフィッツカラルド、ボーボワール両将軍を称賛したぞ! |
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04/15 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 王党派を支援 イットリカン内戦における王党派勢力を支援すべく、シェラルド軍派遣部隊が北米に上陸した。 |
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03/30 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 新ローマ条約締結 半島戦争終結 シェラルド王国は再び偉大な勝利を手にした。廃位された前聖国王ヴィットリオと結んだローマ条約は破棄され、新たに元首となった聖国女王マティルデ陛下との間に、新ローマ条約が締結された。 条約では聖国全域がシェラルドの属国下に入る。また、聖国王の宗教上の権威は否定され、その所領はサヴォイアをはじめとした数領に限定される。ローマはじめ半島中部は、教皇領として、アヴィニョン教皇クレメンス聖下の下に還るのだ。その他大部分の半島領は、対OFCの前線足りえるため、シェラルドの直接統治下に入る。 こうして西欧一帯はシェラルド及び偉大な神聖ローマ皇帝エリック陛下の名のもとに統一された。陛下は先帝以来となるローマ入城行進を行い、喝采の中で、改めてローマでの神聖ローマ皇帝戴冠式を行った。 |
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03/29 -ル・マン・ド・パリ新聞社- シェラルド勝利 ローマ条約締結 一時はローマを追われたものの、精鋭フサリア部隊の活躍で騎兵大隊を下し、再びのローマ入りとなった。 ヴィットリオは遂に抵抗を諦め降伏。スイスの継承権の放棄やサヴォイアの割譲等を飲ませることに成功した。 調印式はカピトリーノ美術館。ヴィットリオはシェラルド軍に護送されやってきたが、ここで、水面下で行われていたヴィットリオの娘マティルデの国王即位の同意をヨーデリンゲ宰相がようやく取り付けた。エリック陛下は美術館の包囲を支持。ヴィットリオを再び捕らえると新女王マティルデへの譲位を強制した。用済みのヴィットリオは戦犯として、マルタ島騎士団の下に幽閉とした。陛下は温情として、異端審問を経ての火刑は免れさせたのである。 ←ナポリ、シチリア、マルタ島までシェラルドの支配下にはいった。ヴィットリオの身柄はマルタ島騎士団に預けられた。 |
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03/28 -ル・マン・ド・パリ新聞社- サマルカンド条約 ティムール朝と同盟 イェリング朝シェラルド王国並びに神聖ローマ帝国は、ティムール朝トゥルケスタン帝国と同盟条約を締結した。 外交努力が実を結んだ。神聖ローマ帝国とトゥルケスタン帝国は、共にOFCを仮想的とし、その地政上協力は不可欠である。かねてより協議を重ね、此度、ついにティムール2世陛下のご英断に繋がった。 青い宝石と謳われるサマルカンドには、イタリア遠征中の皇帝陛下に代わり、皇后陛下が訪れた。さまるかんど帝宮、次いでマラカンダ離宮で語らった両国は、その義をサマルカンド条約にしたため、永遠の友情を誓い合った。 |
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03/25 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ローマ入り 脱ローマ 皇帝陛下と大陸軍は遂にローマ入城を果たした。ヴィットリオは手勢を連れコロッセウムに籠城していたが、大軍で包囲すると、遂に抵抗を諦め投降した。 陛下はホクホクで捕らえたヴィットリオを連れ和平条約の想起に取り掛かり、ロシェシュタール元帥にナポリへ逃れた聖国軍の残党の掃討を命じた 元帥が大陸軍を連れローマを発ち手薄になったころ、なんと何処かに潜んでいた聖国騎兵隊が突如ローマに突撃。虚を突かれた守備隊は突破されてしまった。陛下はサーベルを振り回し戦闘の意思を示したが、親衛フサリア隊が無理やり連れだしローマを脱出。事なきを得た。 |
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03/25 -ル・マン・ド・パリ新聞社- いざローマへ 越えろ大要塞 北部を平定し、遂に首都ローマへの道が開けた。大陸軍は皇帝陛下とふたりの元帥で三手に分かれ進軍。最大の難所となるローマ大要塞の攻略へ向け進軍した。 過去幾度となく聖国の敵を跳ね返してきた大要塞は、さしもの頑健ぶりだ。大陸軍はあらゆる手を尽くして攻撃を加えた。中でも第32連隊は最も大きな損害を出しながら要塞の一角を打ち崩し、陛下は連隊長のブリッシェ大佐に勲章を与えた。 事態は突然に動き出した。坑道爆破を行ったうちの一本が要塞地下に眠っていた古代ローマの遺構を破壊。経年劣化していた当該箇所から始まった大崩落は、地上の大要塞を巻き込んだ。奇跡的に生まれた隙を見逃さず、大陸軍は要塞内部になだれ込み、激戦を制し制圧を果たした。 |
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03/24 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ピアチェンツァ勝利 ミラノ入り 皇帝陛下と大陸軍は、激戦の末、北部を平定した。 薄氷を渡るような勝利だった。第一次ピアチェンツァ会戦を制しミラノ入り。軍隊を整えているところに、突如として背後トリノ陥落の報が届く。一度はロシェシュタール元帥が占領したトリノだが、残してきた守備隊が、スイスから南下した反乱軍に敗北したというのだ。さらに、聖国軍が再起しピアチェンツァに接近。敵中で孤立した陛下は窮地に陥った。 反乱軍のトリノ方面に再びロシェシュタールを向けると、陛下と近衛軍団は聖国軍に対峙。第二次ピアチェンツァ会戦が始まった。じわじわと劣勢に追い込まれ、ついに一部が敗走を開始。しかしその時、本国からベルシカラー元帥が援軍を連れて到着。奇跡の逆転劇に繋がった。無事トリノも平定されたが、陛下は疲労のあまり、ミラノの宮殿で暫くへたり込んでいたという。 |
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03/23 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 半島戦争 緒戦制す 大陸軍は聖国に宣戦布告し、半島へ攻め入った。サンレモでアヴィニョンから撤退した第一軍と接敵。互いに国王指揮官の軍団同士、戦闘は熾烈を極めた。 エリック陛下はここで再びロシェシュタール元帥の機動戦に託した。軍隊を二分し、自身のライン戦線で磨き上げた巧みな指揮で聖国軍の猛攻を捌くと、北方から迂回したロシェシュタール軍の到着まで耐え、反包囲の反撃で聖国軍を破った。 その後、大陸軍はジェノヴァ入り。陛下は本国からベルシカラー元帥と増援を呼び寄せ、ロシェシュタール元帥をトリノの奪取へ向かわせた。現在、スイスでは反乱騒ぎが起きており、ピエモンテの平定は急務だ。 |
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03/23 -ル・マン・ド・パリ新聞社- アヴィニョン解放 対聖開戦 破門宣告も今やといった暁、突如として聖国軍が国境を越え侵入。アヴィニョン教皇庁を包囲した。いかに追い詰められての行動と予想されるが、衝撃を受けた陛下は吹き出し、せっかく着替えた皇帝服を再びダメにしてしまった。 前線では聖国方面軍のロシェシュタール元帥が対応、聖国軍第1軍と戦闘を開始した。聖国軍はアヴィニョン前方に展開。武人で知られるヴィットリオ王自ら率いる軍団は強固な防衛陣を敷いていたが、地の利をもつロシェシュタールが手勢のルクレール騎兵大隊を迂回させ、側面攻撃を加えることでようやく撤退に追い込んだ。 河川を越えての追撃は行わず、アヴィニョンの虜囚の保護を優先。陛下は方面軍の活躍を湛えると共に、再び着替え前線へ向かった。 |
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03/23 -ル・マン・ド・パリ新聞社- アヴィニョン公会議 ヴィットリオ・ディ・サヴォイアへの破門宣告とアヴィニョン教皇庁の正統性を確認するアヴィニョン公会議が開催された。正統教皇クレメンス聖下の号令の下に集った枢機卿たちは揃ってヴィットリオの横暴を非難。議決は滞りなく行われそうである。トマトジュースに染まった服を取り換える為、一時パリへ帰還された陛下にかわり、ヨーデリング卿がアヴィニョンを訪れ、クレメンス聖下のご厚意と友情に感謝を伝えられた。これで、かねてより皇帝陛下を煩わせていたヴィットリオの権威は地に落ち、神の裁きが下り、欧州に平和が齎されるであろう。 |
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03/22 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ベルン会談決裂 ベルリン条約でハプスブルク家から取り戻したスイス公国の継承問題に恥知らずな自称教皇が介入してきたことは記憶に新しいが、寛大な皇帝陛下は、先ずは話し合いであると、ヴィットリオをベルンに招き、会談の場を設けていた。 陛下は彼の継承権に一定の理解を示し、非常に謙虚な数条件を元に認めてもよいと示したものの、粗暴な老王は突如憤慨し、ひとしきりトマトを投げつけた後退室していった。あまつさえ何の権限か陛下を破門せしめたため、陛下は遂に怒り心頭で、正統教皇クレメンス聖下に公会議の開催を要求。かの僭称者に正しい破門の仕方をわからせてやるおつもりだ。 |
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03/20 -ル・マン・ド・パリ新聞社- アーヘン会議 HRE復活 第二次欧州大戦の講和会議たるベルリン会議は幕を閉じ、引き続き、神聖ローマ帝国復活へ向けた協議がアーヘンで行われた。欧州六か国が加盟し、帝国憲章並びに選帝侯が定められ、エリック陛下は初代皇帝に選出された。 戴冠式にはアヴィニョン教皇庁よりクレメンス聖下を招き、ローマ帝冠を授かった。これにてエリック陛下は神聖ローマ帝国皇帝並びにシェラルド王となる。戦乱の時代は終わり、西欧帝国は産声を上げた。 帝国の第一歩として、中華=プルシアの欧州進出声明への制裁措置として、大陸封鎖令を発令。以後、HRE諸国は対英貿易の禁止及び、在欧英国人の財産の没収が定められる。 |
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imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 | 03/19 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ベルリン会議 欧州大戦終結 欧州大戦の総決算となる講和会議がベルリンで開催。戦勝国の盟主たるシェラルド代表、我らが皇帝陛下は、始終堂々たる風采で会議を取り仕切り、帝国の威信を示した。 条項を取りまとめ、ベルリン条約が発効された。シェラルドはこの条約で、アイゼルネよりライン左岸地域を獲得。また、ドイツ同盟から南部シュレスヴィヒを回復し、ハプスブルク帝国にスイスを返還させた。完全勝利により欧州に覇を唱えたシェラルド、そして皇帝陛下は、かねてより計画されていた神聖ローマ帝国の復活を提言。スミトラントをはじめ好感触を得ており、具体的な内容については、場所をアーヘンに移しての次回とした。 |
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03/15 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ゲファースドルフ入城 ブレーメン決戦を制した皇帝陛下と大陸軍は、アイゼルネ首都ゲファースドルフへ進軍した。アイゼルネは一縷の望みを賭けたヴァルキア強襲上陸も失敗し、抵抗を諦め無血開城を選択した。 |
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03/13 -ル・マン・ド・パリ新聞社- スミトラント和平 ブレーメン決着 前日に続き、早朝からブレーメン会戦は再開。この日もなかなか戦局動かずに正午を迎えた。両軍が疲弊していく中、作戦会議に集った皇帝陛下と元帥たち。そのもとに連絡将校が息を切らし現れる。携えるはスミトラント王国との和平成立の書類。陛下は顔を綻ばせながら外に出ると、確かに撤退していくスミトラント軍の姿を認めた。別動隊としてドイツ中部方面に進軍していたメーレンカンプ軍が、怒涛の速さでスミトラント国境に達し、かの政府の戦意を挫いてのけたのだ。突然の自体に同様するドイツ連合軍に対し、優位に立った大陸軍は猛攻をかけ、遂にドイツ連合軍は敗走。決戦の勝者となった。敵首都ゲファースドルフへの道は開け、大戦の趨勢は最早明らかとなっている。 |
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03/12 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ブレーメン決戦 大陸軍はラインを越えた。首都への道に立ち塞がるは、背水のドイツ連合軍。この日、両軍はブレーメン近郊テディングハウゼンで激突した。 皇帝自ら指揮を執る大陸軍、後のない決死のドイツ連合軍。両者譲らず、ヴェーザー川を越えては戻す一一進一退の攻防が続く。結局、この日は決着がつかず日が暮れ、決戦は翌日に持ち越しとなった。 |
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03/10 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 対ザーティエラ戦勝 バスク戦争から事実上の継続戦争として第二次欧州大戦を戦ったザーティエラ王国に対し、シェラルドは遂に戦勝を収めた。経戦を放棄したザーティエラ政府は降伏し、オゼーシアの宮殿には十字旗が掲げられた。 ザーティエラ王国はバスク戦争の後遺症、そして諸要素が招いた民主反乱を抱えながらの戦争であり、時世が我が方に味方した。 |
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03/09 -ル・マン・ド・パリ新聞社- オゼーシア制圧 交渉権を委任されていた大陸軍イベリア方面軍司令官ベルシカラー元帥は、サラゴサでザーティエラ使節と停戦交渉を行っていたが、最中にザーティエラ首都オゼーシアで反政府クーデターが勃発。元帥は無条件降伏を条件に鎮圧協力を約束。オゼーシアへ進軍した。 オゼーシアでは、反乱軍に市民まで合流し、国王親衛隊を撃破。市内の殆どを占拠していたが、大陸軍は大砲を大量投入し、各地のバリケードを破壊しながら武力鎮圧した。残存反乱軍はサンタ・マリア大聖堂に逃げ込んだため、これを封鎖。助命を確約し武装解除させ、総員逮捕となり終結した。 |
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03/08 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 太平洋クリーパートン島 不審船の通報 太平洋に浮かぶシェラルドの海外領土であるクリーパートン島。海上拠点として重要であり、要塞化も施してあるこの島の守備隊より、同島沖に不審な船団を確認したとの通報が届いた。 船団はまるで偵察するかのように周遊した後、引いていったという。本国が絶賛戦争中な中、太平洋は怪しい雲行きに包まれている。 |
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03/06 -ル・マン・ド・パリ新聞社- サラゴサ会戦 シェラルド軍勝利 カルカソンヌを制し、イベリアへふた月振りとなる逆侵攻をかけた大陸軍イベリア方面軍とトラキア軍は、サラゴサで敵主力を補足。会戦となった。 先のバスク戦争にて、バスクを奪回せしめた精兵揃いと思われる敵軍は強敵であったが、最終的に数的有利を結実に活かした我軍の押し切り勝ちとなった。 二度の戦争を戦う両軍は疲弊し、和平の機運が高まっている。両国間では、既に使節が数度に渡り行き来しており、結論が出る日は近いだろう。 |
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03/05 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 逆転!ザーティエラ戦線 決死のカルカソンヌ防衛戦が、シェラルドに貴重な時間を齎し、逆転に繋がった。ようやくインフルエンザから恢復したベルシカラー元帥がイベリア方面軍の編成を終え、カルカソンヌに到着。度重なる無理な攻撃で疲弊した敵軍陣地に急襲を仕掛け、これを敗走せしめた。現在は、先行させていたロシェシュタール元帥率いる別動隊の追撃戦にて、多数の敵軍戦死者、捕虜を得ているという。これにて大陸軍はシェラルド本土からすべての敵軍をたたき出し、戦局は我が方優位に傾いた。大陸軍は地上最強!! |
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03/04 -ル・マン・ド・パリ新聞社- カルカソンヌの空 ザーティエラ戦線、カルカソンヌ要塞防衛戦は、長引くこと二週間、未だに続いている。業を煮やしたザーティエラ軍は大量の航空機で要塞の破壊に出、これを阻止すべく、シェラルド=トラキア空軍との大激戦が繰り広げられていた。 欧州随一の軍質を誇るザーティエラ空軍の前に、連合空軍は劣勢に立たされており既に被害も多くでているものの、敵方に決定打を許すことはなく、要塞線は未だ持ちこたえている |
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03/01 -ル・マン・ド・パリ新聞社- アーヘン会談 開戦より一月、戦局好転しようやく落ち着きをみせた第二次欧州大戦。シェラルド側同盟軍の三首脳は、シェラルド占領下の都市、かつての神聖ローマ皇帝が代々戴冠式を執り行った歴史をもつ、アーヘンにて会談を行った。 三首脳は今後の戦争指導について協議をかさね、、そして戦後処理についても触れたという。内容は機密とされ公表されなかった。 |
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03/01 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ケルン占領!ラインは我が手に 大陸軍ドイツ遠征軍は、ヴァルキア軍との共闘の下、西ドイツ最大の都市ケルンを攻略、占領した。これによりアイゼルネ領ライン左岸地域は完全に和賀郡の占領下となった。 |
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02/27 -ル・マン・ド・パリ新聞社- コブレンツ攻撃 メーレンカンプ、シェイフスキ両軍はコブレンツを攻囲した |
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02/25 -ル・マン・ド・パリ新聞社- トリーア攻囲占領!ルクセンブルクとの友好示す 大陸軍ドイツ遠征軍は、25日、トリーアを占領。大聖堂に十字旗を掲げた。 今作戦の舞台は、先日のヴァルキア王政復古の折に独立を果たしたルクセンブルクにほど近いトリーアということで、エリック陛下よりルクセンブルク女公ツェツィーリェ殿下に、共同作戦の提案がなされており、殿下はこれを快諾し、両国の友好を示すべく、両兵士が奮戦した。 作戦指揮はエリック陛下並びにツェツィーリェ殿下の婿君にして共同統治者、オルレアン=イェリング家のフレゼリク殿下がなされ、両名は占領を成したトリーア市庁舎にて固い握手を交わされた。市の歴史と伝統を象徴する大聖堂には、シェラルド旗とルクセンブルク旗が並んで掲げられた。 |
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02/24 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 進撃!大陸軍 マインツ占領 大陸軍ドイツ遠征軍は、浸透したメーレンカンプ軍、主力先頭のシェイフスキ元帥麾下の有翼重装騎兵軍団がライン川まで競うように侵攻。本日、ほぼ同時刻に到達した。シェイフスキ元帥は左岸の要衝都市のひとつ、マインツを占領。メーレンカンプ元帥はさらに北上し、コブレンツの攻囲を開始した。 |
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02/23 -ル・マン・ド・パリ新聞社- メルツィヒ・メトラッハの戦い ザール川突破 大陸軍ドイツ遠征軍は、敵ザール川防衛線を突破。緒戦を制し本格侵攻を開始した。 エリック陛下の作戦が勝利に繋がった。機動力に優れた軽装甲師団を騎兵将軍メーレンカンプ元帥に預けると、元帥はメルツィヒの防衛線脆弱部を的確に衝き渡河に成功。そのまま後背部へ浸透強襲すると、メトラッハ対岸の突出部の背後を断った。エリック陛下はこれを確実に仕留めた。麾下の親衛隊を突撃させ橋頭保を得ると、一気に主力をなだれ込ませた。これにより敵軍の防衛線は崩壊、メーレンカンプ軍の迅速な追撃戦で多数を刈り取り、生存した残軍は後退した。その後、大陸軍ドイツ遠征軍は全軍が渡河。ライン左岸南部の占領を目指し、進軍を開始した。 |
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02/22 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 敗北!シェラルド艦隊 シェラルド=アナトリア連合艦隊はスミトラント=ダンマルク艦隊に完全敗北。碌な被害も与えられないまま、旗艦ヴァルデマ含む戦艦4隻、補助艦多数を喪失し、北海の制海権を完全に喪失した。 このことは前線のエリック陛下にも伝えられ、陛下は「そんな気はしてた」と述べられた。 ヴィルヌーヴ提督は提督位を剥奪の後、漁船玉無し号の船長に左遷された。 |
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02/21 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 出撃!!シェラルド艦隊 大陸軍の華々しい戦果に続け。シェラルド海軍は旗艦ヴァルデマー率いる大西洋第一艦隊の出撃を決定。目標はユトランド半島。ダンマルク軍により包囲下にある在シュレスヴィヒのシェラルド軍を支援すべく、ヴィルヌーヴ提督にこの任を与えた。 シェラルド海軍は地中海戦争でもバスク戦争でもスシ戦争でもボロ負けした悲惨な経歴をもつが、この戦で汚名挽回名誉返上なるか。不安視した参謀長シシグノン元帥は、援軍としてアナトリア艦隊を呼んだが、一応メンツがあるので指揮権はシェラルド海軍提督のものとしたが、辞退したがったヴィルヌーヴを説得するのに三時間を要したという。 |
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02/20 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 進軍!ドイツ遠征 シェラルド大陸軍は遂に越境を開始。シェイフスキ軍団を先頭に、総勢34万の遠征軍を率いるのは、我らが皇帝陛下だ。 陛下は当座の目標としてライン左岸の占領を挙げられ、ロレーヌ公国軍と共同し、トリーア=マインツラインまで進出。後にコブレンツまで前線を押し上げ、ヴァルキア王国軍と挟撃し、ライン左岸からドイツ軍をたたき出す方針を定められた。 シェラルド大陸軍は、緒戦をなんなくこなし、ザールブリュッケン、メルツィヒ等の国境都市を攻略。ドイツ軍はシェラルドの巧みな戦術の前に成すすべもなく後退していったという。大陸軍は地上最強!! |
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02/19 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 南仏ザーティエラ戦線 南仏の被害状況が届いた。ザーティエラ軍は現在南仏を北上中。しかし、要塞線に阻まれ、その足が鈍っているようだ。特にカルカソンヌ南に新造された新要塞線は強固で、指揮官も熟練のアンリ伯だ。 参謀部はザーティエラ戦線では防御に徹し、友邦トラキアからの援軍を待つ方針で戦争を進めている。逆襲の日は近い。 |
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02/18 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 聖地守備隊 神の加護は我らにあり シェラルド領イスラエルに駐留し、聖地エルサレムを守護する第六軍団は、アーベルトフト元帥指揮の下、レグルス軍の攻勢を跳ね返した。 この戦闘は歴史書に大きく載るだろう。アーベルトフト元帥は、周囲を包囲され、また援軍も絶望的な状況下で、第六軍団と共にレグルス軍の猛攻を跳ね返し続けているという。聖地の守護者、信仰の擁護者を自認する第六軍団は士気高く、度重なる砲撃、爆撃も恐れず着々とヨルダン川にレグルス人の死体を積み上げている。 シェラルド=アナトリア連合軍は、現在、アナトリア国境を越えてレグルス本土に侵攻する準備を整えている。正義は我らにあり!大陸軍は地上最強!! |
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02/17 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 逆襲のシェラルド シェラルド軍は逆襲の用意を終えた。既に準備砲撃は開始され、明日にもドイツ遠征軍はエリック陛下に率いられ国境を超える。 昨日、スミトラント連邦王国が同盟を理由に、シェラルド軍越境の際にはアイゼルネ側に立ち宣戦すとの通達があった。先に我々が侵略を受けたのであり、さらにその際に同盟参戦せず静観した上での妄言に憤りを隠せないが、エリック陛下はスミトラント王ハインリヒとホットラインを通じての会談の末、一定の理解を得たとのことだ。また、マリア陛下の身の保証はなされた。 同日、ルクセンブルク公爵領が正統な統治者たるツェツィーリエ・ルクセンブルク殿下の元に返還された。殿下は幼少よりソフィア陛下、またエリック陛下を後見人とされており、独立後も忠誠の意思は違わず、シェラルド勢力圏として存続する。 |
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02/16 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 悲報 英雄ラインに散る 先日、ロンストロフ決戦で帝国に偉大な勝利を齎した英雄ジデンローヴ元帥が、後送先の野戦病院で死去した。右足に負傷を追った元帥は、運び込まれた時点では命に別状はない状態だったものの、70を超える老体は急速に状態を悪化させてしまった。止む無く足は切断したものの回復せず、壊疽から発熱、また持病が再発し瞬く間に衰弱してしまった。 パリから駆け付けた皇帝陛下は、辛うじて最期の時に間に合った。元帥自身の希望で、人払いし二人きりで話し込まれた後、英雄は天に召された。陛下が手をとられると、奇跡的に小康状態となり、遺言を聞き届けることができたという。その内容については陛下は語る音はなかったが、元帥の秘書官であるミケルセン中佐は、陛下の目に元帥の魂が宿るのを見たと語っている。 陛下はドイツ遠征を決意。自らを遠征軍司令官とし、ヴァルキアと共に逆襲の用意を整えた。 |
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02/14 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 勝利!大勝利!ロンストロフ決戦 まさに神の御業、帝国元帥ジデンローヴとライン方面軍は、神の加護はシェラルドにありと示した。 ライン方面軍主力はロンストロフに殺到するアイゼルネ軍主力と激突。数に劣るもこれを撃破し、四面楚歌のシェラルドに奇跡を齎した。一時劣勢に追い込まれ、窮地に立たされたライン方面軍とシェラルドを救ったのは、歴戦の英雄、元帥の中の元帥と称された男、スキョル・ジデンローヴであった。彼の直卒する突撃部隊は針の孔とも言える隙を貫き、大逆転劇に導いたのである。その後、名誉の負傷により後送されたが、齢70を越え尚最前線で伝説であり続ける姿に、ライン方面軍は一念発起。エラン200%の突撃でアイゼルネ軍を粉砕した。 ジデンローヴ元帥の姿は誰よりも輝いていたという。人々は彼を湛え、「光り輝くジデンローヴ」と呼んだ。 |
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02/11 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 大戦勃発か 11日、我国はヴァルキア王国に続き、友邦トラキア帝国の協力を得たものの、ダンマルク国が宣戦布告しシェラルド領北シュレスヴィヒに侵攻してきたことにより、カレンテルニア帝国とも戦端を開くこととなった。さらに、遂にモレラ国=レグルス国間が開戦したことで、アナトリア及びエルサレムとの国境で緊張が高まっている。 この日、ライン戦線では敵主力20個師団と大陸軍ライン方面軍が本格的に衝突。最前線のウールップ将軍麾下四個師団は敵の猛攻下甚大な被害を被りながら辛うじて主軍と合流。ライン方面軍はジデンローヴ元帥直卒の下、ロレーヌ公国軍4個師団と共に国家の存亡をかけた戦闘に突入する。 |
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02/10 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ヴァルキア緊急会談 対愛共同戦線 ヴァルキア王アーリン陛下との会談中にアイゼルネ軍侵攻の報せを受けたエリック陛下は、そのまま現地で緊急会議を開いた。ヴァルキアは我国側にたち対アイゼルネ宣戦を決定。両国は共同戦線を張ることとなった。 陛下は会談後、いそぎパリへ戻る手配をされたとのことで、到着は11日昼の見通し。なお、ザーティエラが停戦期間を破り宣戦布告をしてきたことで、パリは恐慌に陥っている。ザーティエラ国境は停戦条約により配備が制限されており、急ぎイタリア方面軍からロシェシュタール元帥麾下第2軍団が向かっている。ヨーデリング卿は胃痛で倒れた。 |
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02/10 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ロンストロフ防衛戦 09日、アイゼルネ軍が国境を侵犯し侵攻してきたことが確認された。攻撃地点は北部国境ロンストロフ近郊。ライン方面軍第三軍団4個師団が即応に当たったが、敵総数は偵察によると20個師団超を数え、後退しながら遅滞戦闘を行っている。 ライン方面軍司令官ジデンローヴ元帥は方面軍各軍団から10万をティオンビル要塞に終結させ、防衛線の構築を試みる。 シェラルド政府は非常事態宣言を発令。皇帝不在時の臨時措置としてヨーデリンゲ主席国務卿に全権委任がなされ、軍事最高司令官にパリ軍事総督メーレンカンプ元帥が任ぜられた。ヨーデリング卿はアイゼルネ国に宣戦を布告。また同盟国トラキア、ヴァルキア及びスミトラントに対し、参戦要請を行った。 |
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02/08 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 緊急速報!アイゼルネ軍国境終結か シェラルド東部国境警備兵より、恐るべき事実が参謀部へ届けられた。アイゼルネ軍の主力部隊が国境沿いに展開しているというのである。 発見の致命的な遅れもさることながら、シェラルドは先の戦争の疲弊が重く、エリック陛下は外遊の真っ最中。現在、ライン方面軍がジデンローヴ元帥指揮の下緊急対処に当たっているが、、、 ヨーデリング卿は再三アイゼルネ政府に問い合わせたものの、返答はないという。読者の皆様も万が一に備えてほしい。 |
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1/16 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 祝王政復古 ヴァルキア親善訪問 シェラルド=ローマ帝国は旧ベルタティス連邦ことヴァルキア王国の王政復古を歓迎し、皇帝陛下自らがアムステルダムへ親善訪問に向かわれた。 16日、陛下はアムステルダムへと入られ、パリースイィに負けず劣らずの文化都市の観光を楽しまれた。ヴァルキア王国は現在、政変に伴う事務処理等に忙しく、国王アーリン1世陛下は当分時間が取れないとの事で、面会まで手隙となった陛下は、マリア皇后陛下とクリスチャン殿下への土産物を見繕われているという。 王政復古により、両国の関係は一層強化されるものと予測される。シェラルド国内では、パリースイィの旅行会社が早速団体観光ツアーを売り出せば、瞬く間に満席となるほどの賑わいを見せている。 |
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1/12 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 祝!第一子御誕生 暗く垂れこめた空気を吹き飛ばすような、待望の産声がアマリエンに響いた。 12日午後2時14分、両陛下の間に、玉のようなお子様がお生まれになった。性別は男の子で、シェラルド王位継承順位第1位、またスミトラント王位継承順位第5位保有者となる。父親であるエリック陛下によく似ておられたという。 両陛下はお名前を「クリスチャン・フレゼリク・アンドレ・ヘンリック」と名付けられ、シェラルド王太子(Kronprins til Sjellald)、殿下(Hans Kongelige HøJhed)の称号を与えられた。全名は「クリスチャン・フレゼリク・アンドレ・ヘンリック・ア・イェリング=フィーネスベルク」。 エリック陛下はバスク帰り以降、ご出産が近づくにつれ、人が変わったかのように悪癖が鳴りを潜めたという。 |
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1/10 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 休戦 本日、バスク戦争における一切の戦闘行為の停止に合意する条約に、両国が署名。停戦となった シェラルドは緒戦こそ快進撃を繰り広げたものの、剣俊な地形、ゲリラ戦、なによりスペインかぜことインフルエンザに苦しめられ、バスクやジブラルタルといったイベリア利権の一切を喪失してしまった。完全な敗北である。 結局バスク事件の落としどころは見失ったまま、先帝の敵討ちは果たせず仕舞いと、スシ戦争に続き帝国は辛酸を舐めさせられる結果となった。国内では、栄光のソフィア時代と対比し、帝国と皇帝の権威は地に落ちたと息巻く者も出る始末。落日の帝国で、若き新皇帝の手腕が真に問われている。 |
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1/06 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 落日の帝国 ログローニョの敗戦から2日、ピレネー国境はシェラルド本土側の小村ビリアトゥに、親衛隊に護られ這う這うの体の皇帝陛下が現れた。第11軍団はその後、無数にゲリラの襲撃を受けながらも、なんとか撤退に成功したのだ。 しかし皇帝陛下は憔悴しきっており、迎えにやってきたヨーデリンゲ宰相閣下に経戦の意思の放棄を伝え、事後を託された。既にバスク全域及びサラコザは陥落。未だバルセロナはじめ北アラゴン地域は堅持していたものの、発端となるバスクを喪失してしまっては威信もクソもない。皇帝陛下は失意の中でワインを2本煽り、眠りについた。 両軍内では既にスペインかぜことインフルエンザが蔓延しており、近く講和が結ばれるとみられている。 |
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1/04 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 仕事始め お正月休みの間にブルゴスではインフルエンザが大流行。哀れ第8軍団は壊滅してしまい、その間にザーティエラ軍はバスクを制圧してしまった。 皇帝陛下はこの報せに大慌て。きっちり三が日を休み、今日4日、バスクはブルゴス、ビルバオの再奪還を目指しサラコザを発った。 午前10時、インフルに倒れたベルシカラー元帥に代わり皇帝陛下が率いる第11軍団がログローニョ近郊を行軍中にザーティエラ軍ゲリラ部隊の奇襲を受ける。バスク奪還に逸り強行軍で向かっていた第11軍団は隊列が伸び切っており、この奇襲で隊列が乱れてしまう。なんとか撃退したものの、泣きっ面に蜂とはこのこととばかりにザーティエラ軍主力部隊に補足され止む無く交戦。奮戦するも敗退し退却した。 その後、皇帝陛下はブルゴスの二の舞を恐れ、既にインフルが流行しだしているサラコザへの撤退でなく、敵地バスクを突っ切り本国を目指したとされている。 |
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12/30 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 仕事納め 年の瀬も迫り、ホワイトなシェラルド軍は本日の行軍を以て仕事納めとなった。我らが皇帝陛下は年末年始を休養日と定められ、憎きザーティエラのせいで年越しがイベリアの地となってしまったせめてもの慰安として、秘蔵のワインを盛大に振る舞われたのだ。 皇帝陛下は2019年のシェラルドを総括された。「今年はシェラルドが多くのものを得、また多くのものを喪った年であった」。同君連合や植民地により大帝国の道を開いたシェラルドであったが、それらが零れ落ちるのもまた早かった。なにより、それらをシェラルドに齎した偉大な女帝、国民的大英雄たるソフィア陛下を喪ったのである。 しかし、強きシェラルド帝国の臣民は、苦境を耐え忍び、乗り越える力を持っている。皇帝はバスク戦争に続き、帝国の顔に泥を塗った不届き者、外交の通じない未開の蛮族たるレグルス国への懲罰戦争を予定されている。シェラルドの明るい2020年に向けて突撃だ! |
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12/27 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 転進 クリスマス休戦も明け、戦闘が再開されたアラゴン戦線では、ベルシカラー元帥の指揮も冴え優勢に進んでいた。しかし正午、前線に現れた皇帝陛下は援軍ではなく退却命令を携えていた。 同日、バスク戦線では負傷したデレッセル元帥に代わりヨルゲン元帥が指揮に就いた。第8軍団はブルゴスを落とすべくアルランソン川沿いを進軍。エチャノにてザーティエラ軍と遭遇した。日の出とともに戦闘が始まったが、攻防が二時間経過した頃、エチャノ一帯は深い霧に包まれ、シェラルド軍は連携を喪失。却って土地勘をもつザーティエラ軍に劣勢に立たされてしまう。シェラルド軍右翼は霧の中で完全に孤立し、猛攻に曝され潰走。味方陣地に退却しようとしたヨルゲン元帥は、敵軍と間違われ誤射により戦死した。指揮権は中央を指揮していたホルン将軍が継ぎ、混乱を辛うじて収め体制を立て直すことに成功。同時にシシグノン将軍の分隊が到着しザーティエラ軍の側面を衝くと。霧が晴れだしたこともあり敵軍は退却した。第8軍団はブルゴス入りしたものの、バスクでの多くの戦力を喪失した。 皇帝陛下はバスクの喪失だけは断固避けたい意向で、アラゴン戦線の攻勢を断念し、サラコザ、タラゴナの守備隊を残し転身させた。 |
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12/25 -ル・マン・ド・パリ新聞社- クリスマス休戦 親善フットサル 本日12/25日はクリスマスである。両国兵士にとっても祝うべきこの日に、前線では一時的な休戦状態が訪れた。 アラゴン戦線の前線で指揮を執っていたベルシカラー元帥はこの日、単身丸腰で敵陣を訪れた。ザーティエラ軍司令官と持参したワインを飲みかわすと、独断で両軍は休戦。急遽設えられた小さな小さな陣地では、砲弾の代わりにサッカーボールが飛び交った。 シェラルド人はエラン精神に溢れ、よく食らいついたものの、やはりサッカーではザーティエラ人が強く負け越してしまった。優勝チームにはベルシカラー元帥秘蔵のヴィンテージワインが贈呈され、両兵士は互いの健闘を称え合った。 皇帝陛下はこれを良しとお目こぼしを与えられた。全てのC教徒にメリークリスマス! |
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12/24 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 親衛艦隊敗北 ジブラルタル失陥 ジブラルタルに孤立したシェラルド陸軍を支援すべく親衛艦隊が派遣されたが、カディス沖でのザーティエラ海軍との戦闘に敗北した。 24日、孤立していたジブラルタル守備隊を支援すべく、皇帝陛下はブレストの親衛艦隊の出撃を決定。戦艦ヴァルデマー4世を旗艦に大西洋へ繰り出した。 道中、ザーティエラ艦隊と遭遇し戦闘が発生。親衛艦隊はシェラルド最強の戦力を誇るが、あまりに目立つため早期に発見されてしまい、ミサイルの雨を受け窮地に立たされる。艦隊は力任せに接近し敵艦に損傷を与えたと伝えられたが、結局は緒戦のダメージが深く撤退を余儀なくされた。 海軍はこの敗戦の原因を目立ちすぎることに求めたが、皇帝陛下は否定され、無能な艦隊司令官を解任した。 |
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12/23 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 大陸軍強し!!アラゴン戦線快勝 東部戦線を担うベルシカラー元帥麾下第10、第12軍団はザーティエラ軍を圧倒し、次々と敗走せしめ敵首都オゼーシアへの道を切り開いた。現在はプラナ、テルエルに駐留し、機をうかがう。 皇帝陛下は陣頭指揮を執る為、前線に向かわれている。現在はバルセロナに到着されたとのことだ。一方で、バスク戦線は敵軍のゲリラ戦術により混迷を極め、既にデレッセル元帥が負傷し指揮権をシグノン将軍に移譲し経戦している状態らしい。 |
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12/18 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ポルトガル失陥 18日、ザーティエラ軍の攻撃を受けたシェラルド領ポルトガルから、皇帝陛下の元へ伝令が届けられた。ポルトガルのシェラルド軍が降伏したという報せである。 現地の守備を命じられていたイェルセン将軍は充分な部隊を与えられていたにもかかわらず、ろくな抵抗もせずに屈したというのだ。皇帝は彼とザーティエラとの密通を疑い、即座に将軍職を解いた。ポルトガルとの挟撃という目論見は潰えてしまった。 シェラルド軍は即座にポルトガル方面を放棄。現在、バスク及びピレネー東部国境に集中配備された空軍は激戦を繰り広げながら、着実に戦果を挙げている。 ◀Fm606Cレイキャヴィク戦闘機はザーティエラ戦闘機を圧倒している |
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12/15 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ザーティエラへ宣戦布告 侵攻開始 シェラルドはザーティエラに対し宣戦布告をした。帝国の威信にかけて、バスク事件の落とし前を付けさせなければならない。 シェラルド軍にとっては、前大戦以来のイベリア侵攻だ。剣俊なイベリアの大地は進撃を阻むが、エランの精神を以てすれば、攻略は難しくない。 イベリア遠征軍は、エリック陛下が皇帝となられて以来、初の親征となる。陛下はバスクの防衛をデレッセル元帥麾下の第11軍団に任せ、自ら率いる親衛第2軍団とウジョア元帥の第15軍団とでピレネー東部国境から進撃を開始した。 |
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12/15 -ル・マン・ド・パリ新聞社- レグルスの軍政府を承認 レグルスにて軍事クーデターが発生した。 既に皇帝がレグルス地域への一切の関心を失い、シェラルド本国に帰属する一切を引き上げさせていたことは周知の事実であり、一連の騒ぎは全て既定路線であるとの見方が有力だ。 皇帝はレグルスに対し、「かの国の人間には生まれつき理性が備わっておらず、欲望のみを以て全てに手を伸ばす野蛮人は、契約相手のみならず、臣民としておくことすら困難であり、狂気の沙汰である。」と述べた。 ◀完璧な騎兵突撃を決め、勝利を掴んだ |
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12/15 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ナイジェリア進出 皇帝陛下はシェラルド植民地帝国のさらなる拡大を求め、ナイジェリア地域の征服を支持された。 ナイジェリア地域はアフリカ内でも屈指の人口や石油産出量を誇る。征服が成れば、それらの資源はシェラルドに多くの繁栄を齎すだろう。 陛下はこの征服事業を確固たるもとのすべく、最も信頼を置く元帥のひとりであるベルシカラー元帥を指揮官に命じた。 |
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imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 | 11/21 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 和平を請う 18日、シェラルドは北連に対し降伏を受け入れ、和平の申し入れを行った。翌19日には北連元首ポトリツィンがパリを訪れ、講和会議が開かれた。 和平条約では多額の賠償金支払い等に同意させられた皇帝は流石に懲りた様子であったという。また、拿捕されていたヘルシンゲル級駆逐艦五番艦チベルプは、条約によりパリ・コミューンと名を変えシェラルド海軍へと返還されるという地味な嫌がらせを受け、海軍の威信は地に落ちた。 ポトリツィンは帰国前に、一通り破壊されたパリの街を視察し、大変満足したという。 |
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11/10 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 【悲報】パリ、燃える 14日、パリの街は北連艦の砲撃により火災に見舞われた。 北海油田を焼き払った北連艦隊は、続いてイギリス海峡に出現。なんと我らが首都パリースイィを直接砲撃したのだ。北連艦隊は航空機の緊急発進により追い払われたが、砲撃の1部はパリ市街を直撃し、火災を引き起こした。 パニックに陥ったパリ市民は皇居たるアマリエンに押しかけ、皇帝の多方面戦争を批判し、北連との講話を求めている。現実を鑑みれば、受け入れざるを得ないだろう。 |
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11/08 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 33-4 目を覆いたくなるような惨状だ 北連の攻撃目標が北海の石油掘削施設と判明し、シェラルド海軍は防衛戦力の派遣を要請したものの、与えられた戦力は僅か三隻。艦隊(笑)はヤケクソで北連40隻に突撃したものの、当然のように敗北した。 開始三分で駆逐艦一隻が炎上。旗艦たる巡洋艦は、もう一隻の駆逐艦をオトリに逃亡した。北海油田は無事破壊され、今や彼らのパリ進撃を阻むものはなにもない。 |
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imageプラグインエラー : ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (.png) | 11/10 -政府発表- 大日本国と同盟 シェラルド=ローマ帝国は大日本国と日史同盟を締結した。 両国は相互駐留権をみとめ、有事の際には相互参戦義務を負う。 |
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11/08 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 最後通牒棄却 北連より突き付けられた最後通牒を受け取った皇帝陛下は、封も切らずに暖炉に投げ込んだ。 「神を信じる知性もない極圏の蛮族に、字が書けたとは驚きだ」と言い切ると、海軍卿アデラーに開戦の指示を出した。 会議室を出たアデラー卿は、「現在陸海軍は全て対ザーティエラに回している。北連は決して侮っていい国力ではない。まったくどうしたものか」と頭を抱えていた。 |
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11/08 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 放送事故 北連で起きた海賊事件及び捕らえられたというシェラルド製駆逐艦について、海軍は会見を開いた。 スポークスマンは第一声に軍の関与を否定したが、会見中に駆逐艦艦長がアッサリと海賊事件の関与と軍の指示を認めたとの北連報道が伝えられると、突然急な腹痛に見舞われ、慌てて席を外し、そのまま帰ってこなかった。 この件に対し、本誌は日の目を見ない海軍の独断専行の線を睨んでいるが、昨日、皇帝陛下がサロンで酔っ払い、新大陸進出の夢について語っていたとの噂も伝えられている。 |
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11/07 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 植民地主義!ヴィンランドへの夢 冒険心溢るる誇り高きデーンの末裔たるわが国は、過去幾度となく海外植民を成功に導いてきた。アフリカに広がる広大な植民地は、官民問わない積極的な植民地主義の賜物といえる。 しかしながら、我が国の果て無き「冒険心」は、未だに大西洋という厚い壁を越えられずにいる。かつてアイスランドから新大陸へと渡った祖先のような勇気が、今こそ求められているのかもしれない。 文章:グスタフ・エリクソン記者 |
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11/06 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 更なる圧力へ 動員開始 再三の要求に応じず、最後通牒にノーを突き付けたザーティエラ政府を、シェラルドはバスク事件の共犯に指定。開戦止む無しとし、動員を開始した。 |
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10/27 -ル・マン・ド・パリ新聞社- Ultimatum シェラルド=ローマ帝国はザーティエラ政府に対し、 ・帝国の指定するバスク事件指名手配犯を直ちに逮捕すること ・ザーティエラ領内で逮捕されたバスク事件共犯者を共同で法廷尋問すること ・武器と爆発物の流通を取り締まること ・反帝国プロパガンダを禁止すること 等を記した10項からなる最後通牒を通告した。 |
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10/24 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 暗殺事件調査報告 ザーティエラ軍関与疑い 暗殺事件の調査を開始して二週間、遂に実行犯グループの生存者が尋問に屈し、自供した内容と裏付け捜査から、凶器の入手ルートが解明した。 事件の裏にはやはりザーティエラ軍の関与があったようだ。実行犯はザーティエラ軍将校に訓練をうけ、兵器を供与され、実行を支持されていた。現時点の調査ではこれ以上の事実の解明は困難だが、もし軍の独断専行でなくザーティエラ政府の支持であれば、最早報復戦争さえ不可避となる。 現在、ザーティエラ政府に対し調査への強力を要請し続けているが、一行に返答は得られていない。 |
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10/09 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 宰相 レグルス首都に訪れ会談 ヨーデリンゲ卿は陛下の勅命を受け、ダマスカスへ飛んだ。 ここ暫くの内に急激に関係改善が成されているレグルス国より首脳級会談の申し入れを受けた陛下は、多忙な為直接赴けない自身の代理として主席国務大臣たるヨーデリンゲ卿を全権大使として派遣された。 聖地問題の解決は、真の信仰の守護者たるシェラルドにとって、両国間の垣根を完全に消失させ得るだけの好判断と受け止められ、その信頼の高さはヨーデリンゲ卿が与えられた権限の大きさに現れている。 |
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10/07 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ロイヤル・ウェディング エリック陛下はスミトラント王室より王女マリア・ヨーゼファ・フォン・スミトラント=ザクセン殿下を妻として迎えられ、皇后とした。 華やかなロイヤル・ウェディングは王宮アマリエンで行われ、国内外からの参列者は5000を数えたという。長年陛下の教育係を務めてきたメーレンカンプ元帥は、まるで父親のように感涙されていた。 お相手のマリア様はスミトラント王ハインリヒ9世の第四子にして唯一の女子である。才色兼備で気立てもよく、陛下とも直ぐに打ち解けられた。家格も申し分なく、王室間の繋がりは、両国に強固な絆を齎すだろう。 この縁談は、亡き先帝ソフィア陛下の肝いりであり、最期の置き土産となった。 |
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10/06 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 国葬 5日、ピレネーより移送されたソフィア陛下の国葬が執り行われた。重く垂れ込める曇天は国民の心模様を写したようであった。 シェラルドを空前の繁栄へと導いた偉大な皇帝の死から、多くの国民は未だ立ち直れずにいる。サン=ドニ大聖堂へ向かう道中では、多くの国民が街路沿いに詰めかけ、親愛なる主君へ最後の別れを告げた。 先頭を行くはイタリアより急遽凱旋されたエリック陛下。陛下は戴冠式も控えているが、迷わず葬儀を選択されたという。 また、同日、遥か極東ではイサベラ殿下の嫁がれた源輝彦殿下が、晴れて太政大臣位を授かったという。始終鎮痛な面持ちであった陛下は、この報せを受けようやく微笑まれ、直ちに祝電を送るよう支持された。 |
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imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 | 10/05 -ル・マン・ド・パリ新聞社- トラキアローマ両陛下ローマ入り トラキアローマ両陛下が無事ローマ市内に入られた。シェラルド軍は総出で歓迎し、兵の慰労を待った後、各種取り決めの為会談へと入られた。 両国にとって最も重要な問題は、占領したイタリア半島をどう扱うか、ということである。両国合意の元、概ね現在の占領地どおりとなる、北イタリアをシェラルドに、南イタリアをトラキアに、という形で話がついたようだ。また、王室間の婚姻という中世法的な同盟状態を改め、明文化された安全保障条約が締結された。ユリウス陛下は、ありがたいことに、バスク問題におけるシェラルドへの全面的な支援を約束された。両国の未来は明るい。 また、トラキア皇后たるシルビア様との再会も喜ばれた。シルビア様は、以前あったときは未だ自分より背が低かったことを思い返され、弟の成長を大変喜ばれたという。 |
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10/03 -ル・マン・ド・パリ新聞社- ローマにて戴冠 ローマに入られたエリック殿下が、教皇猊下より西ローマ皇帝位を授かり、晴れてエリック9世として即位された・ ローマ市の主門下を、イタリア征服を成した精兵を引き連れて行進された雄型は、帝国を継ぐ者としての威容と尊厳に満ち溢れていたという。戴冠は、先代より引き続き、現教皇クレメンス16世猊下より行われ、式を終え報道陣の前に現れた両名は固い握手を交わされた。 これにより、新皇帝エリック陛下は征服した北イタリア諸領の世俗の統治権を承認され、帝国の領域は早くも拡大した。継承の第一歩は素晴らしい形で終えたと言えるだろう。 この後、陛下はシチリアより本土に上陸し、既にローマを目前としている友邦トラキアの到着を待つようだ。 |
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10/1 -大陸軍戦報- トスカナ軍撃滅 殿下一路ローマへ 先の凶報の入った数時間後、エリック殿下は急遽イタリア攻略中の第4,第6軍の指揮に入られ、御自らの突撃もあってトスカーナ=ヴェネツィア連合軍を見事撃破された。 両軍の激突は午前6時。場所は川向こうのアウラだ。世闇に紛れての渡河に成功した第四軍が正面を担い、持ちこたえている間に迂回渡河した第10軍が側面攻撃。敵軍はこれをよく耐えたものの、中央に生まれた一瞬の隙間に陛下自ら先頭指揮された騎兵群が突撃を成功させ、瞬く間に潰走させた。 トスカーナ大公国はこの敗戦をもって投了し、和平交渉は殿下自らが行う見込み。殿下はこのまま軍を引き連れ、ローマに入り戴冠式を執り行うおつもりだ。 |
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9/30 -ル・マン・ド・パリ新聞社ピレネー県支局- 速報 陛下、凶弾に斃れる ピレネー支局より信じがたいニュースが伝えられた。 バスク地方視察中であったソフィア陛下が、バスク人青年に狙撃されたというのだ。犯人は近衛兵により直ちに取り押さえられたという。 凶弾は陛下の心臓を貫いており、安否は不明なものの、ヨーデリンゲ宰相は「今夜には臣民に最も残酷な結果を伝えねばならないだろう」と会見で述べ、肩を落とした。また、当面統治は王室顧問会議が代行することも決定した。 現在、バスク地方はじめ全旧ザーティエラ地域で厳戒令が敷かれており、真実の究明は速やかに行われるだろう。この最も愚かしい挑戦に対し、我々は必ず裁きを下さねばならない。それが人であれ、国家であれ。 |
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9/29 -ル・マン・ド・パリ新聞社- 陛下 バスク地方を視察 ソフィア陛下はバスク地方を視察され、名物のバスクチーズタルトをご堪能された。 バスク地方は長年帰属問題に揺れている土地だが、先のザーティエラ継承の際にバスク・ナヴァラ両州をシェラルド領ピレネー県へと併合していた。ザーティエラ独立後、このような複数のシェラルド併合地域は帝国領にとどまり、現地では反乱騒ぎも起きているが、今回の視察でシェラルドへの帰属をアピールする。 ヨーデリンゲ宰相はじめ顧問会議は、今回の視察を危険であると思いとどまれるよう説得したが、例によってお転婆な陛下は、数名の近衛を引き連れ元気に出かけていかれた。 なおイタリアでは、ピエモンテのベルシカラー軍とロンバルドのロシェシュタール軍を結集させ、残るトスカナ=ヴェネツィア連合軍との決戦に備えている。 |
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9/28 -ル・マン・ド・パリ新聞社- レグルス国と貿易協定 関係改善を成した国家社会主義レグルス第二帝国と、続いては貿易協定が締結された。 レグルス国は豊富な石油資源を保有しており、シェラルドが優先交易件を獲得したことにより、これらを反独占的に輸入することが可能となった。 他にも、東方の香辛料が安価に手に入るようになる。陛下はこのことを大変喜ばれており、早速宮廷料理人に最高級品を用意させた。 シェラルドからはレアメタル他、特産品のワイン等と輸出する。ヨーデリンゲ宰相閣下の「鉄と人の燃料のトレードだ」は流行語となった。 |
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9/23 -大陸軍戦報告- ベルシカラー軍ピエモンテ攻略 敵対するイタリア都市同盟の一角ピエモンテを撃破し、降伏させた。 大陸軍の至宝とも称されるベルシカラー元帥がイタリア方面軍の指揮官に就くと、巧みな戦術でたちまちピエモンテ軍を攻略し、首都トリノを抑えた。 敵増援と思われるトスカナ軍は合流に間に合わず、本国へ撤退していった。 |
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9/23 -帝国海軍広報- 新型空母就役へ シェラルド海軍に新たな航空母艦が配備されることとなった。 既に船体は殆ど完成しており、就役は間近である。 全長300m級の大型飛行甲板に加え、各種武装も豊富であり、海上戦力の要として活躍が期待される。 なお名称未定 |
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9/13 -ル・マン・ド・パリ新聞社- レグルス国と融和へ 長らく戦争状態にあったレグルス国との和平が成り、両国は雪解けへ向け大いなる一歩を踏み出した。 大和国主導の戦争を引き継いではいたが、戦闘のないファニー・ウォーが続いていた。おそらく両国民の多くは戦争状態にあったことすら忘れていたのではないか。此度、彼国より会談の打診をうけ、陛下の勅命でヨーデリンゲ宰相閣下がベイルートへ飛んだ。卿は大変厚い歓迎を受けたようで、文書片手に上機嫌で取材に答えた。 ベイルート.レグルス・シェラルド共同宣言では、両国の戦争状態の終結及び国交回復をはじめ、両国が抱えていたさまざまな政治、外交上の問題の解決へ向けた、きわめて前向きな条項が盛り込まれた。特に、わが国がC教の守護者として長年取り組んできた聖地解放への交渉が開始されたことは大きな収穫といえる。 近年政治的動乱の続くレグルス国は、わが国を対共産主義における後ろ盾とて引き込みたい思惑がある模様。いずれにせよ、中東情勢の大きな前進を本誌は今後も徹底追跡していく。 |
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9/4 -大陸軍戦報- 戦勝報告! イタリア戦争に従事しているロシェシュタール元帥の第四軍団が3日、ピエモンテ・ロンバルド連合軍を撃破し、ミラノに入ったとの報せが届いた。 元帥は直ぐにでもさらに南下し攻勢に出る考えを示しており、現在ニースに侵入しているピエモンテ軍主力は慌てて踵を返し撤退した。 南方では東方帝国の軍がナポリ王国へ上陸を初めており、戦争は我が方優勢へと傾き始めている。 |
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8/18 -帝国海軍広報- ドーヴェルニュ級戦艦就役 シェラルド海軍は8月18日、新式戦艦の就役を発表した。 帝国海軍にとっては暫くぶりの戦艦となる。本級は主力駆逐艦ホルステブロー級や巡洋艦イルネントルート級等とデザインが統一されており、帝国の誇る壮麗な白金の太平洋艦隊へ主力艦として配備される。早くも31日にはブレスト港にて開催される4周年記念式典にて、御召艦として初仕事を務める。欧州における帝国の覇権をより確かなものとすべく、シーパワーの象徴として、大いに期待できる潤沢な火力も魅力だ。 |
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8/14 -シェラルド日報- 帝国艦隊アドリア海へ 帝国海軍地中海艦隊は14日、アドリア海にて友邦トラキア艦隊と合流し、黒海を突破したダキア人の船団を撃滅すべく、ツーロンの軍港を発った。司令官は地中海の至宝と謳われるコルーメディ提督。帝国の戦列艦艦隊は20隻を数え、必勝の構えが伺える。 |
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8/15 -ル・マン・ド・パリ新聞社- シュレスヴィヒ戦争戦勝 エリーク殿下の率いる屈強な第2軍団が、遂にハプスブルクを屈服せしめ、シェラルド王冠領の元へシュレスヴィヒの回収を果たした。 シュレスヴィヒ戦争は始終シェラルド軍の優位に進むも、敵海軍戦力に阻まれ首都フレンスブルクの攻囲は長期化していた。しかし八月に入ると、酷暑により市内に熱中症が蔓延し遂に力尽きたようだ。 |
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