その言葉と共に―――
角鹿の自我は、七年前の市民ホールでの最後の記憶、血だまりに沈む顔の無い少女の無残な姿を見つめていた。
あらゆる補正を取り払った、剥き出しの事実が眼前に再現される。
すべての心の芯が潰え、絶望に圧し潰された己の魂までもが蘇る中で、
眼球のない少女の眼窩が彼を見上げ――裂けて血にまみれた唇が動いた。
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それは。
角鹿彰護の心魂に刻まれた呪いであった、その言葉は―――
「ありがとう───」
確かに、そう彼に告げていたのだった。
……絶望の怨嗟などではなく、誰にも聞き違えようのない心からの感謝を。
誰からも傷つけられ、誰からも奪われていく。
生きながらの地獄の中、たった独り、助けを求める自分の祈りに応えてくれた誰かがいた。
命が終わる最後の瞬間、自分が信じたかった世界の、人間の、理想の輪郭を信じさせてくれた誰かが。
それは、一人の少女が、顔も名も知らぬその救い主へ捧げた感謝の言葉だったのだ。
「そんな、ことが……」
露となった真実に、呆然とする角鹿。
自分は確かに、憎悪と呪詛の言葉としてそれを受け取ったはず。
助けられなかった己の無力と、苦痛を引き延ばした偽善を責める……断末魔の呻きを。
そんな、あり得ない聞き違いをしてしまったのは何故――?
男に、記憶の中の少女はただ穏やかな眼差しを向けて……
「この世にある、綺麗なこと、美しいこと……」
「それを嘘にしてしまうのは、いつだって私たちの方だから」
あの地獄の中で、絶望に染まった角鹿自身が己に聞かせてしまった心の声だと、告げた。
美しく正しい人間の在り様――善意、勇気、情愛、相互理解、
そうした綺麗事は、それを信じられる心の豊かさを持てる人間の中にしか存在できない。
だからこそ暗闇に沈んだ人間には、善意であれ刃や毒として届いてしまう。
そんな世に数多とある齟齬が、ただ彼の身にも起こったというだけの話。
だとすれば。
この自分は。
「俺は……救えていた、のか……?」
「あの地獄で、誰かを……誰かの、心を……」
名も知らぬ少女は、微笑みと共に頷いていた。
「やっと、この言葉を伝えられた」
「やっと、あなたに会えた」
「ああ────」
彰護の頬を滂沱と流れる滝のような奔流があった。
去来する圧倒的な情感が、彼の魂を浄化していく。
「俺の闘いは、終わった……終わりに、できた……」
あれは――あの途轍もない地獄に挑んだ、自分達の戦いは無意味などではなかった。
少なくとも、たった一人の少女が抱きしめる小さくも美しい世界。
それを守り抜くことだけは、できていたのだと……
二人の男女の魂はここに解放される。
祝福の歓喜に、互いの旅を終えた二人は身を委ねるのであった───