概要
大改革(レフォルマシオン・グロー)は、18期後半にサンテネリ王国で発生した抜本的な政治・社会制度の変革の総体である。この変革により、サンテネリは「王と貴族の私領」という旧態から「国民の大地」へと移行し、軍制改革と並んでサンテネリが近代国家となる上で不可欠な両輪であったとされる。
王党史観では、この出来事は神聖なルロワの王権を破壊し、後の混乱(祖国戦争など)を引き起こす原因となった忌まわしい「大騒乱」(コンフェルシオン・グロー)と呼ばれる(101)。一方、国民史観においては、大改革以前の時代は「古史」として不正と無知が支配する邪悪な時代と位置づけられ、大改革は不正と隷属から人々が徐々に自由を手に入れていく営みと解釈される。この史観において、大改革の主役はジュール・レスパンやメリア・ルロワといった「英雄」とされる。
経緯
大改革は、グロワス13世の治世末期に顕著となった王権の失墜を一つの原因としている(101)。グロワス13世の治世下では、枢密院の設置、平民階級の政治参加容認、全国統一税制の確立、貴族課税など、後にサンテネリが現代国家となるために必須の諸要素が生み出された。
大改革の直接的な契機は、の治世下の正教新暦1742年6月にサンテネリ北部を襲った記録的な大雨である(108)。
- 流通の途絶と飢餓:一週間にわたり降り続いた猛雨は、首都シュトロワへ向かう道を寸断し、シュトロワの膨大な人口(50万人)に食糧供給の途絶による壮絶な死の危機をもたらした。
- 政府の麻痺:グロワス14世の政府は、食糧配給のために地方の犠牲を厭わないような大胆な決断を下すことができなかった。これは、国民会議がサンテネリ全土の利害関係を代表する議員で構成されており、王も枢密院も多種多様な人々の利害関係を無視できなかったためである。
- 暴動の発生:1742年7月、シュトロワの旧市で暴動が発生した。暴徒は新市に乱入し、食料品を扱う商店を標的とした略奪が始まった。
改革派の行動と王室の逃走
当時、改革派集団の中心人物であったジュール・レスパンとブルノー・ボスカルは、この暴動を扇動したわけではない。しかし、彼らはこの機会を利用し、暴動を政治的な変革へと転化させた。
- レスパンの演説:レスパンは旧市会堂を取り囲む民衆に対して即興で演説を行い(「会堂広場の演説」)、群衆の略奪という「獣欲」に対し、「不正を糺すこと!」という「大義」を与えた。
- ボスカルの組織化:ボスカルは、これまでに築いた伝手を駆使して暴徒の組織化を行った。
群衆に包囲されつつあった光の宮殿から、王グロワス14世は逃走を最後まで嫌がったが、王弟ロベル(後のロベル3世)に諫められ、王の一家は宮殿を脱出した。グロワス14世は母アナリゼの実家である帝国(エストビルグ)へ逃れ、ロベルとフローリアはデルロワズ公領へ逃れた。
歴史的意義
大改革は、サンテネリが長期にわたり中央大陸の強国の座に留まるための制度的基礎を確立した。
- 国民意識の萌芽: 二重戦争の敗北(1733年終結)と大改革を経て、戦争はもはや王たちの「遊戯」ではなく市民自身の敗北であるという意識が浸透した(107)。
- 中央集権の確立: 本来であれば難渋を極める国内の意識統一、特に身分の壁による統一が比較的穏便に達成された。外敵(祖国戦争)の存在により、これまでしぶとく残った地方分権構造が一新され、強力な中央集権が達成された(108)。
大改革期に起こった対外戦争は「祖国戦争」(1743年開戦)と呼ばれ、これはグロワス14世の復位を口実とするアングラン、プロザン、エストビルグの三国によるサンテネリ共和国への宣戦布告であった。この外敵の存在が、サンテネリ国内の統合を促す決定的な要因となった。
大改革は、1748年の祖国戦争の終結と、その直後のジュール・レスパンの死をもって一つの区切りを迎えた。
レスパンの死後、彼の盟友ブルノー・ボスカルは改革派の首魁となり、王兄であるジェント大公ロベル(後のロベル3世)と協力体制を築いた。ロベルはグロワス13世の政治的手法を最も色濃く受け継いだ人物である。
ロベルは国民会との連携を通じて行政体制を再構築し、1752年にはサンテネリ国王ロベル3世として登極、国名を再びサンテネリ王国と改めた。これは世にいう復古王制時代の始まりである。
レスパン遺稿を始めとする資料の再検討により、グロワス13世の治下になされた軍制改革や枢密院制度の整備が、大改革(国民史観)と祖国戦争(王党史観)のいずれにおいてもサンテネリを救う土台となったことが明らかになっている。
大改革は、1748年の祖国戦争の終結と、その直後のジュール・レスパンの死をもって一つの区切りを迎えた。
レスパンの死後、彼の盟友ブルノー・ボスカルは改革派の首魁となり、王兄であるジェント大公ロベル(後のロベル3世)と協力体制を築いた。ロベルはグロワス13世の政治的手法を最も色濃く受け継いだ人物である。
ロベルは国民会との連携を通じて行政体制を再構築し、1752年にはサンテネリ国王ロベル3世として登極、国名を再びサンテネリ王国と改めた。これは世にいう復古王制時代の始まりである。
レスパン遺稿を始めとする資料の再検討により、グロワス13世の治下になされた軍制改革や枢密院制度の整備が、大改革(国民史観)と祖国戦争(王党史観)のいずれにおいてもサンテネリを救う土台となったことが明らかになっている。