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ダンゲロスSS上海
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ダンゲロスSS上海

『破幇』と『破幣』

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1.『嘴快咖喱(はやくちカレー)


 扉を開けたその瞬間、枯茗(クミン)香菜(コリアンダー)の香りが鼻をつく。
 『魔幇』カレー部門幹部応接室。
 その奥で、一人の女が咖喱飯(カレーライス)を貪っていた。

 この国で、日式のカレーライスは一般的ではない。

 濃い茶色の色彩が食欲をそそる色として認識されない文化性や、飯と主菜を一つの皿に盛るワンプレートは「簡易的な軽食」と断じられる感覚が、長くカレーライスの普及を妨げていたのだ。

 それを、たとえば、ルーを黄色く着色する、スパイスにこの国でポピュラーな八角を多く加える、ワンプレートの食事にハイソなイメージを植え付けるといった、日本企業の地道な広報戦略でようやく、ここ10年に至りいわゆる咖喱飯(カレーライス)が少しずつ浸透してきている、という経緯がある。

 いわばこの国において、カレーライスとは「伝統的な固定観念の革新」である。

 色の濃いものは古くてまずい。
 一皿にまとめた食事は安っぽくて手抜き。
 食べなれないスパイスまみれの味はよくわからない。

 そんな、古臭い概念を覆すことこそ、この一皿。
 女は、そんな料理を、黙って無心で頬張り続けていた。

 豪奢な椅子に似つかわしくない、年齢不詳の女だった。

 ある『魔幇』の構成員が言った。
 この女は、スラムのガキからの成り上がりで学もないし理性もないし知性もないし人間性もないし乳もないし尻もないし色気もないのだ、と。

 しかし、それはこの女を指す上でまだ言葉足らずだ。

 美しくはない。しかし、醜くもない。
 可愛げもない。おぞましくもない。華やかでもない。地味でもない。
 印象を残す要素がない。正にも負にも見るものに感情を喚起する刺激がない。

 なにもない。
 それが、『魔幇』最強の一角、カリー・魔幣(マルシェ)という女の特性であった。

 そんな「何もない」女の前に立った来訪者は、対照的に「全てがある」男だった。
 男は早口言葉もかくやという風情で、立て板に水で女に話しかけた。

「ファッファッファッ。今日は星期五(きんようび)ではありませんが。
 相変わらず咖喱飯ですか、魔幣(マルシェ)
 いや、そもそもが、ここ20年ほど極東の島国で生まれただけの星期五咖喱(きんようカレー)なんて習慣に、100年以上『魔幇』の魔人幹部として君臨している貴女が縛られていること自体、私には理解できないところではありますがねえ」
「……财迷(ゼニゲバ)ガ」

 财迷、金の亡者と吐き捨てられた男は、それでも余裕の笑みを崩さない。

 ある『魔幇』の構成員が言った。
 この男は、恵まれた名門の家に生まれ、そのおかげで学があり、理性があり、知性があり、人間性があり、筋肉があり、カリスマがあり、色気があるのだ、と。

 しかし、それはこの男を指す上でまだ言葉足らずだ。

 美しくある。しかし、醜くもある。
 可愛げもある。おぞましさもある。
 華があり、毒があり、魅力があり、殺意があり、善意があり、好意があり、隙があり、才気があり、笑い方と一人称に癖があり、そして何より――金がある。それら全てを、容姿だけで感じさせる。

 それが、臆面もなく『魔幇』のビジネスパートナーを名乗る男、(ファ)()()魔都(マトー)という男の性質であった。

「ミーはあらゆる価値を標準化するだけです。金の亡者とは心外ですね。価格という物差しの前に全ては平等ですから」
「そんな早口言葉みたいな無駄口を聞かせるために、ここまで来たのカイ?」
「まあまあ、焦らないでくださいよ」

 そう言って、魔都は二枚の写真をカリーの前に突きつけた。

「殺害指令です」
「ナゼ、オマエがこれを持ってキタ?」
「旧知の相手に手を抜かないようにということでしょうか。
 ボスの計らいですよ。
 ――あなたと搭档(コンビ)に、とね」

 カリーはスプーンから手を放し、二枚の写真に視線を落とす。

 一枚は、遥か昔の自分とどこか似た、澱んだ瞳の若い女。
 一枚は、遥か昔、自分の隣にいた愚かな男と似た面影の、年齢不詳の大男。

「ファッファッ。昔を思い出しましたか、魔幣の末裔。
 それでもなお、『魔幇(そしき)』に義を尽くすと?
 清王朝のダイヤが盗まれるというのがどういうことか、魔幣の後継(あなたたち)が知らないはずはないでしょうに」

 脳髄で『蟲』が疼く。
 苦虫を嚙み潰すように、カリーは首を振った。

「……知らないヨ。心当たりもなイ。言うこともなイ。
 アタシには、もうなにもないんだからネ」



2.难得的睡得好星期四(めずらしくねざめのいいもくようび)



 2025年11月27日、木曜日。
 中国語だと、星期四というのだけど、昔のクセで、日本風の曜日感覚で考えてしまう。

 その日は、朝からすっきりとした寝覚めの最高のスタートだった。
 それが、朝から顔を合わせた張三の「明日『魔幇』の刺客の襲撃がある」という一言によって最悪のテンションになったのだが。

 張三は、襲撃に対する備えとして、迎撃場所を変えると私に言った。
 そこは、刺客を迎え撃つのに適した場所で、かつ援軍も見込めるらしい。

 その判断に意見ができるほど、私は土地勘があるわけではない。
 そうして私は、彼に連れられるまま、街の裏路地に歩を進めることになった。

 華やかなりし魔都、上海。
 眩いほどの栄華を誇るこの街にも、いや、光が濃いからこそ陰の強い場所がある。
 旧共同租界跡。『魔幇』とのしがらみから単に人々が「贫民窟(スラム)」とだけ呼ぶ一帯。

 かつて、日系資本の工場があったという区画。

 元『魔幇』の殺手で、今は逃兵である私、『飢鬼(きき)林 希美(はやし・のぞみ)は、こうしてまたもや、張三(チャン・サン)に連れられて屋台脇の椅子に座っていた。

 最初、店の周りを漂う、ぼろ雑巾のようなすさまじく臭い匂いにびっくりしたが、すぐに換気がされて耐えられるレベルになった。
 どうやらこの屋台の名物の「蒸三臭」という発酵系の鍋料理を食べたツワモノがいたらしい。
 張三も好物だとか。
 食に特別こだわりはない……というか、大抵のものはおいしく食べられるつもりだったけれど、世の中には私には伺いしれないレベルの高い世界があるということのようだ。

大張(張兄ィ)、久しぶりじゃねえか。
 こっちに顔出したってことは、头目(ボス)とは仲直りできたのかよ?」
「そう思うかい?」
「怖い怖い。兄弟喧嘩は他所でやっとくれや。
 大張も头目も、この場所を滅茶苦茶にはしたくないだろう?」
「わかってるよ。迷惑はかけないさあ」
「で、今日は? 蒸三臭(いつもの)も出せるよ。
 今朝いいのが入ってね、いつもの三倍は強烈だぜ」
「今日は若い娘らがいるんでね。適当に串を頼むよ。
 蒸三の方は、後で詰めといてくれや」
「へっへっ。大張が姉さんと別の女を連れ歩くなんざ、槍でも降りそうだ」
「何十年前の話をしてるんだか」

 張三と談笑しながら、串焼肉屋台の主人が、肉の刺さった金属串を無造作に数十本まとめて掴んで炭で炙る。

 屋台の主人は軽く齢八十は行っていそうな老人だ。
 それと昔馴染みだというのだから、張三は一体何歳なのだろう。

 魔人の中には、容貌と年齢が一致しない者も多いが、それにしたところで、限度というものがある。
 『魔幇』の創設メンバーの一人という話だが、そもそも、『魔幇』は百年前に生まれた組織という話だ。その時点で少年だったとしても、110歳は下らないということになる。
 まあ、魔人に普通の加齢を期待しても仕方がないところはあるのだけれど。

 脂が焦げる香ばしい煙が漂ってくる。
 残っていた激臭料理の残滓はすっかり炭と肉が炙られる匂いに塗りつぶされた。
 数滴の脂が炭で爆ぜたところで、主人は串肉を引き上げると、手元の壺に満たされたタレに肉をくぐらせる。

 じゅっ、という音と共にタレが一気に熱され、脂の匂いに醤のかぐわしさが加わった。
 タレには大量の刻んだ野菜が浮かんでいる。香味野菜の類だろうか。

 目の前で湯気を立てる串焼肉は、日本の焼き鳥のように一本ごと丁寧に刺されてはおらず、刺された肉の量もまちまちで、いかにも日常の食べ物という感じだった。

「おう、腹減ったろ。朝から動いたしな」
「……ありがと」

 ごつごつと節くれだった張三の手から、串を受け取る。
 私の細い指に移った瞬間、串肉のサイズが一回り大きくなったような気がした。
 まったく、遠近感とかそういうものを守ってもらいたい。

「にしても、アンタにしたって多くない?」

 私はテーブルに置かれた皿の数を見て、思わず張三に質問した。
 確かに張三は健啖家だし、私もそれなりに食べる方だ。
 けれど、それにしたって、この量はいつもの倍近くはある。

「そりゃあそうだ。こいつは四人前だからなあ」
「ありがとうございます。ただ、申し訳ございません。
 私の依頼人は、少々別件がありまして、一人前はお持ち帰りでお願いします」

 知らない女の声。
 それは、私のすぐ隣から聞こえてきた。

 全身が硬直する。
 いくら『飢鬼』が発動していないとはいえ、私も殺手の端くれだ。
 簡単に他者を間合いに入らせることなど、基本的にはありえない。

 だが、事実として、その女は、私に全く反応すらさせることなく私の隣に腰かけていた。

 肩より上で短く切られた髪。
 丈が長い灰緑色のマウンテンパーカー。
 革の黒手袋。
 白のハーフパンツ。
 燻んだ色のジャンプブーツ。

 年のころは私よりも幾つか下だろうか。
 声や口調からは、隠しきれない品性を感じる。
 私と違って、きっと、幼い頃は真っ当な教育を受けてきたのだろう。

 けれど、同時に、身のこなしと、私が反射的に向けた殺気に欠片も揺らがない様子から理解できる。
 この女は、私よりも格上の殺手。闇の住人だ。

「落ち着け。この小姐(おじょうさん)は、今回の同盟相手だよ。
 初めまして、張三(チャン・サン)だ。こっちは、相棒の林希美(リン・シーメイ)

 張三は、同盟を締結してから私のことを中国語風に、林希美(リン・シーメイ)と呼んでいた。
 本名だと、悪目立ちするからだそうだ。

倒萩(サカハギ)と申します。『ネイルアーティスト』をしています」

 少女が、にこやかに自己紹介を返す。
 それだけで、私は背筋が寒くなるのを感じた。

 知っている。
 闇世界の若き『ネイルアーティスト』。

 卓越した戦闘能力と、人の爪を素材とした拷問芸術で知られる、エージェント。
 金のみでは動かず、依頼人に生爪とそれを剥がす苦痛に耐えることを要求するという、異常者。

 この、かわいらしい少女が、そうなのか。

「張三。この娘を雇うの?
 彼女はお金だけで動くエージェントじゃない」
「御心配なさらず。私の依頼人は張三様ではありません。
 張三様と協力することが依頼人の目的に合致するので、代理として私が御挨拶に参った次第です」
「まあ、そのあたりは飯でも喰いながら話そうや」
「では、お言葉に甘えて、いただきます」

 両の手を合わせて、倒萩は小さく一礼した。

 私もそれに倣い、そして串焼肉と謎の炒め物を手元の皿に取り分けて口に運ぶ。
 肉の脂と濃い味付けの中に、渋みと苦みがさわやかに混ざった風味。

 この前の炒飯と比べるとクセは強いが、間違いなく美味だった。

「……初めて食べる味ですね」
鱼腥草(ドクダミ)の根だよ。
 おまえさんらの国じゃ、あまり食べないか」

 張三の言葉になるほど、と頷きかけて、私は思わず倒萩(サカハギ)を見た。
 おまえさんらの国、と、張三は、私と彼女の出身地をひとくくりにした。
 ということは、この娘は、私と同郷――日本人なのだろうか?

「サカハギっていやあ、日本神話で素戔嗚尊(スサノオノミコト)が犯した天つ罪の一つだろう。
 その響きに萩を倒すという字を当てたのは、芭蕉の弟子、河合曾良(かわいそら)の名句を意識してかね。
 どちらにしたところで、かの国の教養がベースだ。それが何より、小姐(おじょうさん)の出自を示している。違うかい?」
「驚きました。張三様は他国の文学にも造詣が深いのですね」
「知彼知己百戰不殆。昔日本の魔人とドンパチやったことがあってなあ。
 その時に色々と頭に叩き込んだのさあ。ただ戦馬鹿の鍛錬のうちだ」
「五・三〇事件ですね」
「まいったな。過去を知るのはお互い様ってか」

 張三と倒萩、二人が何を言っているのか、私にはよくわからなかった。
 文学やら歴史やらに詳しければ、二人の応酬に隠された背景がわかったのだろうか。

「……と、失礼。まずは、私と依頼人の立ち位置をはっきりさせておきましょうか」

 そんな私の不満気な表情を察したのか、倒萩は話題を変え、どうして私たちと手を組むことにしたのかを説明してくれた。

 驚くべきことに、倒萩とその依頼人には『魔幇』との因縁も、そして『魔幇』から盗まれたという清王朝のダイヤに執着する理由も、あまりないのだという。

 彼女たちはある目的のために、様々なものを扱っている商人とのコネクションを求めていて、『貧民街』を拠点とする闇商人「(ファ)()()魔都(マトー)」にあたりをつけた。
 しかし、魔都は顧客として、その力を認めた相手としか取引をしないのだという。

 そんな中で、倒萩の依頼人は、とある情報筋から、魔都が『魔幇』の幹部と組んで、張三と私を襲撃するらしいという情報を入手した。

「お二人と共闘し、『魔幇』幹部を撃退すれば、お二人は『魔幇』の一角を撃退できる。
 そして、私達は、闇商人、魔都に力を示して顧客の権利を得られる。
 ウィンウィンの関係性ということになると考え、こうして連携を申し出た次第なのです」

 その説明に、私は妙な引っ掛かりを覚えた。
 とてもありがたい話ではある。
 ……あるのだが、それは、私達にとって都合がよすぎないだろうか?

「闇商人の魔都は『魔幇』と協力してるんでしょ?
 なら、魔都と『魔幇』幹部と協力して、私達に襲い掛かるってことは考えなかったの?」
「それはありえません」

 リスのように口いっぱいに頬張った米を飲み込んでから、倒萩はきっぱりと否定した。

「林希美様。貴方は、強制的に『魔幇』に所属させられていたと聞きました。
 そして貴方は自らの意志で脱出を選んだのでしょう。
 私個人の信条からしても、依頼人の思想に照らしても、貴方を見せしめに処分しようとする組織、『魔幇』への協力は、選択肢にならないのです」

 意外だった。
 噂を聞く限り、『ネイルアーティスト』は、爪に固執し、残虐に対象と依頼人を痛めつける狂人だと思っていた。
 けれど、こうして話を聞く限り、彼女には彼女なりの信念と、寄って立つ義が確かにあるように感じられた。

「……爪、いらないの?」
「張三様の強く鍛えられた爪も、林 希美様の細く形のよい爪も魅力的です。
 けれど、お二人が個人として私に『アート』を求めない限り、対価はいただきません。
 今回は、依頼人からすでに対価を約束された範囲の仕事なのです。
 ああ、さらに言えば、林希美様、もう少しビタミンDとたんぱく質をきちんと摂取された方が、より美しい爪になると思いますよ。飾るにしろ元の美しさは重要ですので」
「あ、うん。気をつける……よ?」

 ともあれ、状況は理解した。

 組織からの刺客が遅かれ早かれ来ることは覚悟していた。
 そこに、強力な助っ人が加わってくれるのは嬉しい誤算だ。

「それで、倒萩さん。その魔都って商人と一緒に襲撃してくるっていう、『魔幇』の幹部については、何か情報があるの?」

 その質問に答えたのは、倒萩ではなく、張三の方だった。

「カリー・魔幣(マルシェ)。俺の義姉だった女だよ」



3.真麻烦(だいめいわく)



 2025年11月28日、星期五(きんようび)、0時00分。

 深夜、日付が変わった、その瞬間、街並みが変容した。

 古びた建物や勝手に作られたバラックが白色の灯りに照らし出され、建築物のそこかしこに商品陳列用の棚が出現し、様々なものに値札が貼られている。

 どこからともなく響き渡る牧歌的な音楽。
 稲田徹「メロディーチャイムNO.1 ニ長調 作品17「大盛況」」。

 元は、松下電器からの嘱託で作られた、ドアホンチャイム用のメロディである。
 しかしそれは今や、とあるコンビニエンスストアチェーンの代名詞ともなっており、そして、それにちなんだ魔人能力『ファミリー・魔都』の効果範囲内であることを意味する、シグナルにもなっていた。

 旧共同租界跡。人々が「贫民窟(スラム)」と呼ぶ一帯。
 その一区画は、今まさに、街並み全てが一つのコンビニエンスストアと化していた。

「始まったね」
「ええ。思ったより大規模なのです」

 数時間前から、某国諜報機関上海支部の黒服たちから逃げ続けていた『ネイルアーティスト』倒萩と、彼女の依頼主である路覇(ロハ)タッカー、通称ロハは、身を隠しながらその空間侵食の瞬間を見届けた。

「どう思う? このタイミング」
「魔都という商人さんの手引きでしょうね」

 ここ数日、倒萩のアート実演によって動きがなかった追手が今日になって動き出した。
 しかも、正確にロハの潜伏場所をこのスラムだと看破している。
 さらに、手にしているのはこれまでと比べ物にならない質のよい武器だった。
 それが意味することは、追手たちに情報と戦力を渡したパトロンがいるということ。

 ロハがこの星期五(きんようび)、『魔幇』幹部、カリーと魔都が林希美を襲撃する情報を得たように、魔都もまた、ロハが張三と接触し、同盟を結んだ情報を買ったのだろう。
 そして、張三とロハが連携できないよう、抑止力として上海支部の追手に情報をリークし、彼らをこの戦場に呼び寄せたのだ。
 ただでさえ綱渡りの作戦を要求されている中で、まったく迷惑な話だと、ロハは愚痴をこぼした。

 コンビニエンスストア化によって、夜闇に紛れるアドバンテージはなくなった。

 諜報員時代にコネクションを作った情報屋から、ロハはこの現象を引き起こしている魔人能力『ファミリー・魔都』の概要を聞いている。

 一つ。この能力は、効果範囲内の空間を、24時間営業の店舗にする。
 一つ。店内の無生物及び店内で行われる各種サービスは、店舗の『商品』とみなされる。
 一つ。店舗内の『商品』は、さまざまな価値を数値化した独自通貨で売買される。
 一つ。店舗内のレイアウトは、能力使用者である店主が変更できる。

 ある種の、特定領域におけるルール強制能力。
 権力意識の強い魔人が覚醒しがちな、空間支配型の異能である。

「左は行き止まり。その曲がり角は大通りに繋がってるから、まず斥候が何人か様子を見に来る。通信される前にお願い」
「わかりました」

 呟きとともに、倒萩が駆けた。
 尾を振り上げ、低い姿勢で疾駆する姿は、まるで蠍だ。

 そしてそのまま、倒萩は曲がり角にさしかかる直前に、脇に立つ建物の壁を90度の高さで駆けあがった。

 魔人能力『掻撫(かいなで)』。
 触れた無生物の硬さを操作する異能である。

 自在に操れる『尾』で壁に『掻撫』を行使。
 柔らかくした場所に足を差し込み、そこを足場にしてまた上に『尾』で壁に『掻撫』を行使……を繰り返し、まるで重力を無視したかのような速度で倒萩は建物の三階あたりの壁に貼りついた。

 黒服の男たち――ロハが元々所属していた諜報機関の追手である――が曲がり角から駆けだしてきたのはそれと同時だった。

 彼らは道の奥にいるロハを見つけ、通信機を手にしようとして――

 べちょり。

 頭上から降ってきたゲル状の物体にすっぽりと閉じ込められた。

 男たちはもがいてそこから出ようと試みる。
 しかし、続いて降ってきた少女の『尾』によって触れられた瞬間、ゲル状だった物体――建築物の壁だったものが元の硬度を取り戻し、完全に閉じ込められた。

 窒息することはないだろうが、少なくとも通信ができる状態にはなるまい。

 追手の練度は高くない。
 ロハの地形把握能力と、倒萩の戦闘能力があれば負けることはないだろう。
 しかし、それによって、ロハたちが魔都を見つけるまでの時間は確実に引き延ばされる。

 ロハは、手元の地図で、五芒星マークの位置がほぼ動いていないことを確認した。
 そのマーキングが意味するのは、張三と林希美の居場所。

 そこでは、今頃、魔都の支援を受けた、『魔幇』最強の一角、カリー・魔幣が、張三たちと戦っているはずだ。

 昨日の打ち合わせの中で、張三は、倒萩たちに逆転のための支援を求めた。

『闇商人・魔都の支援がある状態のカリー・魔幣には勝ち目がない。
 だから、倒萩とロハには、張三たちとは別に行動し、魔都を叩いてほしい。
 それこそが、ロハたちの目的にも通じるだろう』と。

 だから、張三たちが持ちこたえているうちに、一刻も早く、ロハと倒萩は魔都を見つけなければならない。

 おそらくは、魔都の側も、そうしたロハと張三の思惑を理解している。
 だから、身を隠し、時間を稼いでいるのだ。 

「近くに他の追手はいないようですよ」
「ありがと」

 ロハの目的は、闇商人、(ファ)()()魔都(マトー)との接触。

 張三と林希美は、『魔幇』と敵対している。
 そして闇商人・魔都は、『魔幇』の幹部と組んで張三たちを襲撃している。
 そこで、ロハと倒萩は張三と組んで魔都の喉元にナイフを突きつけ、「商談」をする。

 我ながら、捩じれたロジックだ。
 だが、その方針を話した時、倒萩は全く疑問を押しはさまなかった。


『言わないの?』
『なにをですか?』
『張三を……林希美を襲う方が確実だろうって。
 わざわざ『魔幇』に敵対することはないって』

 倒萩を張三の元へ向かわせる直前のやりとりを思い出す。

 そのとき、倒萩はわずかに小首を傾げた。
 心底何を言われているのかわからない、といった様子だ。
 きょとん、という擬音語が響きそうな、あどけない表情。
 これが、自分と母、そしてタッカー一族の敵の心身に消えない傷跡を残した張本人だとは信じられなかった。

『だって、しないでしょう?』
『そうだけどさ』
『それでいいのですよ。
 それに、お支払いにダイヤを充てるのですよね?
 だったら、結局『魔幇』は敵になるのですよ。無問題です!』

 心の内を見透かされたようで、ロハは恥ずかしくなった。
 意に添わぬ形でそうなったとはいえ、ロハは某国諜報機関のエージェント、即ちエスピオナージを生業とする者だ。
 人を欺き、弱みにつけこみ、利益と生存と情報とを奪い取ることこそ本義。

 けれど、倒萩は「ロハにはそんなことができない」ということを前提にしている。
 見透かされているのだ。自分が冷酷なプロになりきれていないことを。

 実際、情報屋から林希美のことを聞いて、ロハは使い捨ての鉄砲玉にされた彼女の境遇に己を重ねてしまった。
 そして、彼女に敵対し、彼女を売って魔都に取り入る選択肢を、真っ先に捨てた。

 それは只の甘さ。
 一銭にもならない、不合理だ。

 まったく、どこまでも迷惑な性分だ。

 見過ごしてしまえばいい。見なかったことにすればいい。
 けれど、そんなことができるならば、ロハは最初から、こんな境遇に陥ってなどいない。


「……とりあえず、マーカーが動いていない以上、シラミ潰しで探すしかない。
 コンビニ領域の中で、張三たちから一番遠いところから当たるよ」
「わかりました。道はお願いします」

 ロハと倒萩は魔人領域『ファミリー・魔都』の最奥を目指して駆けだした。

 追手との接触はあったが、待ち伏せの地点をロハが看破し、倒萩が不意打ちを返すことで次々と無力化していく。

 闇商人、魔都を見つけ出すのは時間の問題。
 そのはずだったが――

 ――おかしい。

 違和感。
 正しい地図に基づき、移動しているはずなのに、同じ場所を走り回らされている。

「倒萩。任せた。集中させて」
「はい」

 倒萩が、近づいてくる足音の迎撃に向かう。
 ロハはそれを見ることなく、完全に手元の地図に集中した。

 魔人能力『堪輿万国全覧御宇基図(かんよばんこくぜんらんぎょうきず)

 自由範囲、自由倍率の地図を創り出すという、ロハの異能。
 何事も無視ができないという、絶望と諦観と覚悟が生んだ魔人能力。

「――堪輿(てんち)

 座標確定。

「――万国(あまねく)

 範囲変更。

「――全覧(すべてをみとおす)

 縮尺率確定。

「――御宇基図(みちびきをここに)

 時間軸固定解除(・・・・・・・)

 地図がその体裁を変え――まるで、生き物のように、道が動いた(・・・・・)

 ちょうど、倒萩が追手を迎撃しようとした瞬間に。
 ロハの能力は、任意の範囲内の地図を、リアルタイムで生成する。
 地図の書き換えが起きた理由は一つ。
 他の誰かの魔人能力によって、地形――街の通路が操作されたのだ。

 やられた。
 ロハはため息をついた。

 情報屋から聞いた『ファミリー・魔都』の能力を思い出す。

 ―― 一つ。店舗内のレイアウトは、能力使用者である店主が変更できる。

 レイアウトの変更、と聞いて、ロハは最初、商品の配置や棚の形状などの小規模なものを連想していた。だが、そうではなかった。

 闇商人・魔都は、領域内の地形、通路すら、店舗レイアウトの一環として操作可能だったのだ。

 そうした地形コントロールを、捨て石である追手をぶつけるタイミングに合わせることで、ロハたちに気付かせないようにしていたのだ。

 巧妙なのは、これらの通路操作は全て、ロハから一定距離離れたところでだけ行われているということ。
 即ち、ロハが元々所属していた組織に申告していた、『堪輿万国全覧御宇基図(かんよばんこくぜんらんぎょうきず)』による地図の作成範囲の外。

 魔都はロハの居場所を正確に知り、さらにその魔人能力の情報も把握しているということだ。

 もしもロハの能力の効果範囲が自在に変更可能でなければ、二人は変わり続ける迷路を延々とさ迷っていたことだろう。

 だが、相手の手札を一枚知ったところで、事態が打開できたわけではない。

 どうする?

 ロハは自問自答する。
 倒萩は強力だが、目の前にいる敵を倒す戦闘ユニットだ。
 倒すべき敵を見出し、そして戦況全体を目的の形にするのは、ロハの役目である。

 動く通路のトリックを見破った以上、目的地を定めれば、そこに辿り着くことは可能だ。
 倒萩の魔人能力『掻撫(かいなで)』を使えば、通路を無視して直進することが可能だからだ。
 だが、行くべきゴール、闇商人・魔都の居場所が、わからない。

 やみくもに探すのは下策だ。
 魔都にはぎりきりまで「通路操作によるかく乱」が効いていると思わせなければならない。
 『堪輿万国全覧御宇基図(かんよばんこくぜんらんぎょうきず)』の範囲は狭く、こちらは通路どおりに進むことしかできない、そう侮らせなければ、魔都が離脱する可能性が生まれてしまう。

 だが、どうやって居場所を看破する?
 通路操作のパターンから、一番行きにくい場所を探る?
 いや、それでは時間がかかり過ぎるし確実性がない。

 もっと決定的な証拠が必要だ。
 魔都の居場所の確たる証拠。

 それを得るための方法はある。

 けれど、そのために、ロハと倒萩にできることはない。

 ロハは、地図上のマーキングを注視した。

 『魔幇』幹部カリー・魔幣と、張三、林希美とが戦っているはずの場所。

「うまくやりなさいよ、『魔幇』の創設者」



4.只有那个(それだけのこと)


 贫民窟(スラム)の一角、かつて日系資本の工場の敷地だったという広場で、私は『魔幇』の刺客と向き合っていた。

 幹部の一人として、名前は聞いたことがある。
 カリー・魔幣(マルシェ)
 『魔幇』の古参幹部。常にカレーを食べているということと、最強の一人ということだけがまことしやかに囁かれる謎の存在。

 実際に見たのは今日が初めてだ。
 初見の印象は「なにもない」だった。

 計画も。殺意も。使命感も。焦りも罪悪感も興奮も喜びも恐れも。
 ただ何もなく、当然のように、私たちの前に現れた。

 黒い無地の寿衣(しにしょうぞく)
 手には何も持っていない。

 元々、張三に対する刺客であったからこそ、私には理解できる。
 それは、異常だ。

 アイツの体格と身のこなしを見て、なお何の策も練らず、何も持たずに堂々と真正面から身を晒すことができる。
 そこには、どれほどの自信――蛮勇が必要なのか。

「――カリー・魔幣」
「――『钢铁构架』張三」

 簡潔に名乗りあう。
 ぶつかりあう覇気に押され、私はただ唾を飲むことしかできなかった。

「号を得たんだネ、小張(張坊や)
「そっちは、号を捨てたか」
「号だけじゃなイ。アタシにはもうなにもないのサ」

 彼我の距離は10mほど。
 簡単な名乗りあいをきっかけとして、二人は動いた。

 なにもない女、カリーが腕を振るう。瞬間、

 ♪マーペイ♪

 場に不似合いな合成音声と共に、女の手に鎖鎌が「発生」した。
 隠し持っていた、ということではない。

 私は確かに油断せずにカリーの手元を見ていた。
 仕込み武器を取り出す素振りはなかった。
 本当に完全に、武器が虚空から生えてきたのだ。

 完璧な不意打ち。
 反応できない。

 受ける? できる? 首、変則的な起動。斬撃。避けられない。死――

 視界が闇に染まる。
 それは、首を斬られたことによる失血性ショックによる失明ではなかった。

 張三の手元の鉄棍が伸びて広がり、盾となって私を守ったのだ。

「おいおい、久しぶりに会った義弟を無視かい」
「なにもないと言ったヨ。語ることもネ」

 カリーが踏み込んだ。
 そう。踏み込んだ。それだけだ。
 それだけで、大地が揺れた。
 震脚とかいうレベルではない。
 その動きに、張三のような功夫はない。
 ただ、シンプルに、バカみたいな脚力で地面を踏みぬいたのだ。

 そしてその揺れより速く、カリーは張三に肉薄していた。

 ♪マーペイ♪

 カリーの両手に双剣が生み出され、無造作に薙ぎ払われる。
 張三の手にした棍が三又の釵に変形し、その刃を絡めとる。

 ♪マーペイ♪
 ♪マーペイ♪

 カリーはためらいなく双剣から手を離すと、今度は両の手に拳銃が現れた。
 狙いすらしない至近距離からの連射。
 銃撃を後ろに倒れこむような低姿勢で避けると、張三は3m近く離れた位置から鉄棍を振るった。
 空振りと見せかけ、インパクトの瞬間に鉄棍がその長さを伸ばす。西遊記に登場する如意棒めいた不意打ちを、

 ♪マーペイ♪

 虚空に現れた盾が受け止めた。

 守りを捨て、攻撃に特化した獣めいた姿勢でカリーが駆けた。

 ♪マーペイ♪
 ♪マーペイ♪

 張三の牽制は全て、空間に突如生まれる武装によって阻まれていく。

 張三の胸に、カリーの拳が突き刺さった。
 水平に吹き飛ばされる巨体。

 間違いない。
 カリー・魔幣。
 この女は、私と同系統の上位互換。
 『飢鬼』以上の、身体強化系魔人(フィジカルエンチャント)だ。

 星期五(きんようび)に限定された、爆発的な自己強化。
 それこそが、彼女の魔人能力だと張三は説明した。

 なんて単純。なんて強力。
 私の『飢鬼』の最大出力でも、この力の何割か程度に過ぎないだろう。

 私に「カリーに闇商人・魔都のサポートが加わったら、勝てない」と張三は言った。
 けれど、その言葉はある程度の謙遜を含んだものだと思っていた。
 それほどに、私から見た張三は底の知れない武人だったからだ。

 だが、今ならばわかる。
 勝てない、という評価は、どこまでも冷徹な分析結果だ。

小妹妹(嬢ちゃん)。『魔幇(そしき)』に戻りナ。
 それで、全てが丸く収まるヨ」

 どんな感情も読み取れない声で、カリーが呼びかけてくる。
 張三が身を起こす。カリーの拳を受けたはずの手首がぶらぶらと力なく揺れている。
 張三は服の袖を引き千切り、外れた手首を固定した。

 受けただけでこれだけ。
 私との闘いで見せた、力のいなし……化勁は使っていたはずだ。
 直撃を避け、防いだだけでこの威力。

 声が震える。

 勝てない。
 格が違う。

 魔人同士の戦いに絶対はない、というのが定説ではある。
 認識が現実を改変する者同士の闘争では、心が折れない限り、結果はたゆたうものだ。
 そんな精神論を持ち出さずとも、無数の能力応用の応酬の中では、相性によって格下が格上を覆すことは日常茶飯事である。

 けれど、私とこのカリーとの間で、そんな常識が通用するのか。

 24時間、無条件で超人的な身体能力を発揮する、カリーと。
 空腹の度合いに応じて、自己強化ができるだけの、私。

 その出力は、カリーを100とするなら、私はおそらく30~60程度。

 私は、手にした鉄棍を強く握りしめた。
 張三からここ数日、扱いを教わった武器に、縋るように力を込める。

 勝てない。
 格が違う。

 だが、それで、私はまた、あの場所へ戻るのか。


 ――喰うな。ごく潰しが。
 ――食事は最低限にしろ。常に『飢鬼』を発動しろ。
 ――飢えていないお前に、価値はない。


 腹いっぱい、屋台の飯を味わうことも許されない、あそこへ戻るのか。
 それは、

「……イヤだッ!」
「よく言った!」
「そうかイ。惨いことをするネ」

 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪
 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪

 立ち上がった張三に、カリーは無造作にナイフを投げ続ける。
 どこからか暗器を取り出しているのではない。
 投げ終えるたびに、カリーの手には無から武器が生まれ続けているのだ。

 武器という商品の供給。
 店舗と規定した空間内における商品の自由な配置。
 闇商人、魔都の支援能力が、カリーの圧倒的なフィジカルをサポートする。

 張三はそれを避け、弾き、一歩ずつ間合いを詰める。
 流れ弾が建築物の壁を穿つ威力で、それが一撃必殺の魔弾であることがわかる。

 全てを防ぐことはできていない。
 雨あられと降り注ぐ投げナイフの一部が服を切り裂き、皮膚を掠め、全身のそこかしこに赤いシミが滲んでいく。

「林希美!」 

 張三に呼ばれて、我に返る。
 私は何を見ているのか。

 私はなんだ?
 元魔幇の殺手。
 そして、今は、魔幇に抗うと決めた、張三の同盟相手だろう。

 力が足りないからどうした。
 下位互換であることがどうした。
 そんなことは「それだけのこと」だ。
 私が立ち尽くす理由になんてならない。
 同盟相手が苦しむのをただ見ている言い訳になどなりはしない。

 私は張三から渡されてた鉄棍を構えた。
 張三にとって、私は護衛対象であり、魔幇の刺客を釣るためのエサだ。
 だが、同時に『破幇同盟』の同志でもある。

 ならば、圧倒されるだけでは意味がない。
 どれほどの強敵でも、抗わなければ。

 張三の手にした棍が弾けた。
 相手の攻撃に耐えきれずに破壊されたのではない。

 張三の魔人能力『鉄杵』。
 それは、触れた鉄の棒の形質を変更・操作する能力。

 その権能によって鉄棍だったものは液体めいて拡散し、カリーの視界を奪った。

 ♪マーペイ♪ 

 薄く引き延ばされたその鉄はカリーの剣閃によって引き裂かれる。
 しかし、その間を縫って、張三と私は一気にカリーへと距離を詰めていた。

 体の動きや軸の揺らぎから次の行動を読むことはできない。
 ほんのわずかな重心移動ですら、超高速の移動を生むに相応しい踏み込みとなるのが、この女の身体強化だ。

 だから予測する。
 これまで積み重ねてきた、『飢鬼』による自己強化の経験を想起する。
 圧倒的に身体能力に差がある相手に対して、林希美はどのように戦ってきた?
 飢餓の中での衝動的な戦いを分析し、己に向けられる脅威として分析し解体する。

 こちらの1の動きに対して、相手が10を為す速さがあるならば。
 こちらは1の動きの要素に、相手を制する100の戦術を込める。

 この数日間で張三から教わった戦い方。
 付け焼刃だ。そんなことは理解している。
 だが、それでも思考を回す。
 100の戦術? 不可能だ。
 私にできるのは、所詮は付け焼刃の戦術。
 けれど、それでも、5でも、10でも、思考し、予測し、体に刻んだ動きに意志を乗せろ。

 カリーの姿が霞んで消えた。
 目では追えない。音よりも速い。皮膚感覚ですら鈍い。
 だから私はただ、仮想的である『飢鬼(むかしのじぶん)』の行動を予測し、その出現位置に鉄棍を振るった。

 ♪マーペイ♪

 硬い感触。
 虚空に生まれた西洋鎧がカリーに対する私の攻撃を防いでいた。
 だが同時にそれは、私に対するカリーの拳をも阻む。

 一瞬の拮抗。
 それを縫うように、張三の丸太のような腕がカリーの細い腰に回された。

小妹妹(嬢ちゃん)。お前さン、そいつの弟子かイ?」

 問いかけられる。
 先ほどの名乗りあいでは、私は何も言えなかった。
 あの瞬間の自分は、張三の相棒でも、カリーの敵でもなかったからだ。
 けれど、今は違う。私は私の名を、戦士として、ちゃんと名乗ることができる。

小妹妹(嬢ちゃん)じゃない。
 私は林希美(リン・シーメイ)。『飢鬼』林希美。
 ――張三の、同盟相手だ」

 一瞬、カリーの表情が変わった。
 私はそこに初めて、「なにか」を見た。
 今まで何も感じさせなかった女に、人間らしい残滓を見た。

 それは、追憶。あるいは悔悟。

「無駄話たあ余裕だな、大姐(あねき)!」

 だが、カリーのその僅かな情動の揺れは、張三の猛攻によって覆い隠された。

 張三が組みついてから、カリーの動きが私が見えるレベルにまで減速する。
 いつか私が張三に襲い掛かったときと同じ。
 水の中にいるような動きでありながら、相手を御する特異な彼我の身体運用――化勁と蓄勁、と張三は言っていた――太極の動き。

 ああ、きっと、張三はこの女と戦うために、この戦い方を磨いたのだ。
 圧倒的なフィジカルに、必ずしも戦闘向きではない魔人能力で立ち向かうための身体運用技術と基礎筋力の向上。
 それが、この男の肉体に刻まれた功夫なのだろう。

 カリーが初めて見せた隙に、私は棍を一閃した。

 ♪マーペイ♪ 

 それは虚空から出現した仏像に阻まれる。
 カリーに蹴り飛ばされたその仏像はそのまま、私への反撃となってガードの上からしたたかに全身を打ち付けた。

 衝撃。苦し紛れの間接的な反撃だけで、これほどの威力。
 カリーという女は、ただ速く、ただ力強いのではない。
 視覚、聴覚、嗅覚、皮膚感覚、そしておそらく味覚までも、人の脳が処理可能な限界まで研ぎ澄まされている。その反応速度もまた、絶対的なのだ。

 そんなカリーの速度と反応をかいくぐっても闇商人、魔都による武装供給による緊急回避がある。
 そのどちらかを無効化しなければ、私達の勝利はない。

 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪ 
 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪ 
 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪ 
 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪ 

 振り払われ、超高速の動きを取り戻したカリーが、圧倒的な物量を降り注がせる。
 投擲、射撃、遠隔攻撃、一撃必殺、一打決着の必死を変幻自在の鉄棍で張三はしのぎ続ける。

 勝利に向けた策はある。
 倒萩と、張三とが考えた、詰将棋のような策が。

 そのためには、格下の私が、決定的な一打を叩き込む必要がある。
 心臓が跳ねる。できるか? 否。やるのだ。
 やれると、信じてもらったのだから。

 自分への自信のなさなど「それだけのこと」だ。

 腹が小さく鳴る。
 緊張と今の攻防で、ようやく『飢鬼』が目を覚ましたらしい。

 私は張三を一瞥した。視線が合い、小さく頷き合う。

 魔人能力――『鉄杵』。

 カリーの足元に転がっていた地面に刺さったナイフが、一つ、二つ、三つと突如鉄棍に変形し、カリーの喉元に迫った。

 張三の魔人能力は「触れた鉄の棒の形質を自在に変える能力」である。
 だが、能力の解除条件に、張三が接触していること、という制約はない。

 つまり、元の鉄の棒に戻すという「変形」は、遠隔でも自在に行える。
 以前、私がアイツを襲撃したときに囚われた鉄の檻はそうした「能力解除」の応用で作られたものだった。

 投げナイフを弾く攻防の最中、張三はスペアの鉄棍をナイフの形にして戦場に仕込み、その場所にカレーに誘導していたのだ。

 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪

 魔都による商品配架の緊急防御と、カリー自身の受けによってそれらはノーダメージに終わる。しかし、それは張三が仕込みを行うに十分な隙だった。

 鉄棍が変形し、中が空洞な球体となって、私と張三、カリーを覆う。

 これまでの攻防の中で、私達はカリー自身が防いだ攻撃と、魔都が商品によって防いだ攻撃の違いを観察していた。

 カリーが自ら防ぐ攻撃……即ち、魔都の支援で防げない攻撃は、次のいずれかだった。

 一、敵とカリーとの間に、商品を出現させられる十分なスペースがない攻撃。
 二、俯瞰視点から攻撃の軌道を読み取りにくい攻撃。

 一は、魔都の魔人能力の制約。商品はあくまで空いた空間に「配架」するだけのものであり、すでにあるものを押しのけて転移させることはできないから。
 二は、おそらく、闇商人・魔都は、街に配置したカメラによって戦況を把握して緊急防御を展開しているから。

 つまり、カメラに対する目くらましをかけてしまえば、一時的に『商品』による防御は無効化できる。

「はッ! それで勝ったつもリカ――」

 そう。カリーの言葉は正しい。
 魔都の支援を一時的に目くらましでやりすごす、それだけでは、勝てない。
 常人の十数倍に及ぶ鋭敏な感覚と身体能力を持つカリーという女を凌駕するのに必要な、もう一つの伏せ札――

 張三が、どこからか取り出した保温容器を開けた。
 これが仮に、張三が取り出したのがスタングレネードであれば、カリーは即座に弾き飛ばしたことだろう。
 しかし、一見戦場に似つかわしくないその食器に対し、わずかにカリーの反応が遅れた。

 瞬間、中に閉じ込められていた湯気が拡散する。

 カリーの蹴りが張三の腕を捉える。
 受けた左腕があらぬ方向に折れ果て、保温容器が床に転がって中身をぶちまけた。

「っっっっ!?」

 苦悶の声を上げたのは、だが、張三ではなく、カリーの方だった。

 ――臭。

 その一字を具象化したような刺激、痛みじみた感覚が密閉された空間に充満した。
 発酵? 腐敗? 生理的な危機感を煽る衝撃。

 三蒸臭。

 単体でも強烈な臭気を誇る臭豆腐、霉千張、霉苋菜梗を、蒸すことでさらに刺激を強調する、上海に存在する料理の中でも有数の劇物料理。

 覚悟して息を止めている私ですら、涙が溢れ、喉に突き刺さる刺激にむせかける。
 それが、常人の十数倍に感覚が強化された、カリーにおいてはどのように作用するか――

「ォォォォエエエエエ!?」

 およそ人間があげていいとは思えない獣めいた咆哮。
 虚ろな瞳はもはや私たちを見ていない。

 張三が腕一本と引き換えに生み出した、千載一遇の好機。

 魔人能力『飢鬼』発動。

 張三の『鉄杵』による鉄幕で、魔都の緊急防御は断ち切った。
 蒸三臭の刺激でカリーの超反応は無効化した。
 これまでの攻防で印象付けた私の動きは、『飢鬼』での本命の攻撃に対するフェイントとして作用する。

 これらの布石は全て、この一撃のため――

 カリーがめちゃくちゃに腕を振り回し、張三の展開した鉄の球幕を破壊した。
 魔都は再びカメラにより、戦況を把握できるようになっただろう。

 だが、遅い。
 もはや、鉄棍とカリーの間には、防御に使えるような何かが展開できるような間隙は存在しない。

 私の鉄棍による三度目の攻勢はカリーの喉元に叩き込まれ――

 ♪マーペイ♪

 ――私の手元から武器が「消え去った」。

 まるで、所有権そのものを「買い取られた」かのように。



5.我被打败了(I'm A Loser)


 弄堂。
 上海特有の集合住宅区画の一つ、四方を古い多層住宅に囲まれた中庭に、闇商人然とした男が悠々と立っていた。

 黒丸型のサングラス。
 狐を思わせる切れ長の瞳と怜悧な顔立ち。
 時代がかった黒の唐装が風になびく。

 サングラス越しに、(ファ)()()魔都(マトー)は、己の魔人能力で買い取った、まさに今、カリーに致命の一打を与えるはずだった鉄棍を見分した。

 魔人能力『ファミリー・魔都』。
 その能力で「店舗」として定義された空間の無生物は全て「商品」として扱われ、売買の対象となる。
 そして、店の主である魔都は、商品を店舗のどこにでも自在に配架できる。

 その力を使い、彼は林希美の手にした武器を奪い取ったのだ。

 鉄棍の端には、蛍光色で描かれた五芒星が鈍く輝いている。

「ファッファッファッ。なるほど。
 ……考えましたね、路覇タッカー様」

 どぷっ。

 魔人能力『掻撫(かいなで)』。
 無生物の硬さを変形させるその能力によって、壁を水のようにかきわけて現れた二人の少女に、魔都は接客スマイルで呼びかけた。

「ミーに会うために、ここまで策を重ねてくださるとは」

 負け惜しみかそれとも全てが予想の範囲内なのか。
 まったく余裕を崩さない魔都に、ロハは苦笑した。

 ロハと張三は、魔都が「領域内の武装の買い取り」という切り札を持っていることを予測していた。
 買い取った物品が、魔都自身の手元に転移するであろうことも。
 それを予測して、魔都の居場所を看破するため、『堪輿万国全覧御宇基図(かんよばんこくぜんらんぎょうきず)』の能力の一部、地図内で追跡可能な目印(マーキング)を、林希美の鉄棍に施していたのだ。

 そして、予想通り鉄棍が「買い取り」された場所まで、『掻撫(かいなで)』で最短距離を進んできたのである。

 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪
 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪
 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪
 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪
 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪

 四方八方に身を潜めていた男たちが、侵入者――倒萩とロハに銃口を向ける。

「アンタと商談しにきた。アタシには、その資格があるよね?」
「まあ、ここまで貴方が来られたという事実が、『堪輿万国全覧御宇基図(かんよばんこくぜんらんぎょうきず)』の価値を意味してはいます。
 単に、解像度の低い狭い範囲の地図を作るだけの能力では、ここまで来られない。

 能力範囲は小さく見積もっても10km×10km以上。
 拡大縮小は自在。
 さらに、マーキングしたものの位置を地図に反映させることも可能……というところですか。
 諜報能力としては破格。ビジネスパートナーとできれば非常に価値がある。
 ですが――あいにく、よりプライオリティの高い仕事中でしてね」
「魔都。あなたは、何を目指しているの?」
「ファッファッ。面白いことを仰る。その心は?」
「林希美を張三に刺客として差し向けるようにしたのはあなたでしょう?」

 魔都は、接客スマイルを張り付けたまま、ロハに続きを促した。

「林希美は、張三に勝てない。
 張三は林希美から『魔幇』の現状を聞き、その解体に立ち上がる。
 それくらいのことは、あなたなら織り込み済みだったはず。
 問題は、その事態を引き起こすことが、あなたにどんな価値があるかということ」

 魔人能力『掻撫(かいなで)

 倒萩が地面に尾を突き立て地面を粘状化し、即席のバリケードを作り上げた。
 サプレッサーで抑え込まれた乾いた銃声。
 ゲル状の壁が銃弾を受け止める。

 依頼主であるロハを能力で守った直後の、倒萩の反応は迅速だった。
 『掻撫(かいなで)』による壁走りで、多層住宅の壁を垂直に駆け登る。

「張三は、『魔幇』の創立メンバーの一角で、头目(ボス)と反りが合わずに組織を抜けた、元No.3にして、『魔幇』発起人の弟。
 敢えてそいつを焚きつけることに、『魔幇』にとっての利はない。
 そして、『魔幇』と対等の同盟者としてのあなたにも、メリットがない」
「ミーが何を目指していると思うのですか?
 諜報員見習い(エスピオナージ)の路覇タッカー様」

 螺旋のような軌跡で四方を囲む壁を疾駆し、銃弾の雨をかいくぐって倒萩は魔都の雇った護衛たちを次々となぎ倒していく。

「上海の闇社会の主導権を、『魔幇』から奪うこと」

 ロハの言葉に、魔都の口の端が三日月のように吊り上がった。

 ぱちん、と指を弾くと、「メロディーチャイムNO.1 ニ長調 作品17「大盛況」」が、メロディーはそのままに、荘厳なアレンジへと変容する。
 礼拝堂で神に捧げる讃美歌めいた曲調へ。

 魔人能力『ファミリー・魔都』。
 弄堂を構成する建築物が変容し、組み合わさる。

 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪ ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪
 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪ ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪

「ぎゃああああ!?」
「ぐわああああああ!」

 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪ ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪
 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪ ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪
 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪ ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪

 みしみしと音を立てる建築物同士の融合。
 建物の中に潜んでいた護衛達が巻き込まれることを、魔都は一切意に介さない。

 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪ ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪
 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪ ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪
 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪ ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪
 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪ ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪

 ある建物は脚に。ある建物は腕に。ある建物は胴体に。
 組み合わさり、重ね合わさり、一つの形を生み出していく。

 それは、歪で巨大な人型。
 いわば、弄堂超级机器人(スーパーロボット・ロンタン)
 魔都はその肩に乗ると、高らかに笑った。

「ファーッファッファッ!
 そう、そのとおり! 『魔幇』がある限り私はNo.2、ただの敗者だ!
 百年生まれるのが遅かった? 笑止!
 ならばミーは今から『No1を入れ替えよう』。
 面白いですよ、ロハ様! アナタとならいい商売ができそうです!
 貴女の価値をもっと私に見せていただきたい !」

 振り下ろされる弄堂超级机器人(スーパーロボット・ロンタン)の拳。
 転生暴走トラックめいたその質量が叩きつけられる直前、人の形をした風がロハの体をさらった。

 倒萩が地面の表面を液状化し、その上を滑るようにして加速したのだ。

「ありがと」
「お代がまだですからね」
「うん。わかってる」

 二人は距離を取ると、弄堂超级机器人(スーパーロボット・ロンタン)を見上げた。
 動きは決して早くないが、

 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪ ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪
 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪ ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪
 ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪ ♪マーペイ♪  ♪マーペイ♪

 時間をかけるにつれ、どんどん巨大弄堂人形の体には武装が増設され、射撃攻撃による牽制が勢いを増していく。

「ね、倒萩」
「なんですか」
「どうして、私と戦ってくれるの?」
「契約ですから」
「……今度の報酬(つめ)、最高に綺麗なアートにしてね」
「もちろんですよ。私は『ネイルアーティスト』ですから」

 倒萩の満面の笑みに、ロハは小さく頷いた。
 これでいい。ロハに、倒萩のことは、わからないだろう。
 おそらく、これからも、その事実は、かわらないだろう。
 ならば、それを前提に、命を賭ける。

 魔人能力『堪輿万国全覧御宇基図(かんよばんこくぜんらんぎょうきず)

「――堪輿(てんち)

 座標確定。

「――万国(あまねく)

 範囲変更。

「――全覧(すべてをみとおす)

 縮尺率確定。

「――御宇基図(みちびきをここに)

 深度指定(・・・・)

 ロハの地図が描き変わる。
 魔都を見つけ出すために地表を描いた地図ではなく。
 地下に走る、様々なインフラの管路を描いた図面へと変容する。

「座標NNE12、深度115」
「わかりました!」

 魔人能力『掻撫(・・)』範囲最大拡大。

 硬かった地面が揺らぎ、溶け、歪み、泥濘の如く撹拌されていく。
 その目論見を阻止するため、魔都の弄堂超级机器人(スーパーロボット・ロンタン)は増設した射撃並走の狙いを倒萩の足元へと集中させた。

 瞬間、

「上!」

 ロハの合図に合わせ、倒萩は彼女を背負って巨大弄堂人形の体を駆け上がった。

 同時に、弄堂超级机器人(スーパーロボット・ロンタン)の足元が爆発する。
 都市の地下を走るガス管が破壊され、そこに引火したのだ。

 当然、ロハが地下の「地図」を確認して企てた意図的な策である。

 弄堂超级机器人(スーパーロボット・ロンタン)が体勢を崩す。
 揺らぐその巨大な肩の上で、魔都と倒萩、ロハは、真正面から対峙した。

「このまま戦えば、あなたは死ぬ」
「まあ、そうでしょうね」
「商談をしたいからトドメは刺さない、と言っても、あなたは信じない」
「ファッファッファッ。それは当然に」
「あなたの『ファミリー・魔都』は、無尽蔵に売買を可能にするものではない。
 代償として、様々な価値を支払うことが必要。これまでは、普通に現金で換算したのでしょうけど。それ以上の価値を差し出せば、あなたはきっと、ただの商品でなく、この空間における概念的なサービスすら、売買が可能。違う?」
「ミーの能力をそこまで看破した方はそうはいません。すばらしい。
 いつぞの『七鴉翁』との商談以来ですよ」
「『魔幇』の大幹部と比べてもらえるなんて、光栄ね」
「まあまあ、謙遜なさらず。貴方にはエスピオナージの才がある。
 その価値を、この私が値付けしましょう。
 そしてその価値に敬意を表し、予測通りに動いてさしあげます」

 魔都がぱちん、と指を弾く。
 すると、巨大弄堂人形が逆再生のように、元の建築物へと形を戻していった。

(ファ)()()魔都(マトー)が、己の魔人能力の一か月間の使用権を『魔ペイ』へと変換する。
 その同額の『魔ペイ』でもって、一か月間の『安全』を購入する。
 この契約は(ファ)()()魔都(マトー)の名を以て世界律との間に公正に履行されるものとする」

 呪文めいた宣誓。
 淡い輝きが魔都を包み込んだ。

「攻撃が効くか、試します?」
「やめて。魔都の規定する安全保障が、加害者の消滅を含むことも考えられるから」
「賢明ですね。
 ともあれ、降伏です。私は敗北し、貴女は勝利したのだ。ロハ様、倒萩様。
 さあ、どのような商談をご希望ですか?」

 これで、魔都は、これ以上カリーを支援することはできない。
 そして、ロハは、必要なものに関する商談を、この男と始めることができる。

 こうして、ロハは、自由への綱渡りの第一歩を、踏み出したのだ。



6.极好的每一天(すばらしきひび)



 深夜のコンビニエンスストア空間は、元の姿である貧民街へと回帰した。
 流れていたメロディと、商品棚もまた消滅し、まぶしかった灯りも消え去る。

 魔人能力『ファミリー・魔都』の効果消滅。
 それは、(ファ)()()魔都(マトー)の敗北を意味していた。

 カリー・魔幣(マルシェ)は、夜闇の中、自分へと向けて駆ける二つの影を見た。

 岩のような体躯の男と、細身の女。
 圧倒的な力を前に、それでもなお、己を鼓舞して立ち向かう姿。

小妹妹(嬢ちゃん)じゃない。
 私は林希美(リン・シーメイ)。『飢鬼』林希美。
 ――張三の、同盟相手だ」

 林希美という女の言葉が、エコーのようにカリーの脳裏に響く。


 ――魔人を、おまえを(くもつ)にするような組織なら、壊しちまおう。

 ――オレとおまえは、今日から『破幣連盟』だ。

 ――オレたちは、この場所を、魔人が、誰かの供物(くいもの)にされない街にする。

 ――王の脇で黙っているのは終わりだ。
   必要なら――魔幣の裔(オレたち)が、王になる。


 いつか、自分に対して、そんなことを言った、愚かな男がいた。
 そんな過去を、カリーは思い出した。

 魔幣。王の介添え人でしかなかった一族に、愚かな男と、女は生まれた。
 しかし、いつしか王の不在に耐えかね、自らが王になると決めた。
 それは破戒。そして破幣。
 全ては、魔人たちにとって少しでもマシな都市を作るため。
 そのための、『魔幇』のはずだった。

 だが、その在り方を最初に目指した愚かな男は、『魔幇』の誕生を見届けぬまま命を落とした。


 肩口から伝わる圧が、カリーの意識を追憶から現実へと引き戻した。

 常人のおよそ13倍の速度で繰り出した拳の弾幕をいなし、かいくぐり、張三が板のような掌を女の肩に触れさせたのだ。

 触れられたその面から生まれた、無形の圧が女を縛る。

 単なる物理的な拘束であれば、カリーの異能に裏打ちされた常人の13倍の身体能力は、たやすくそれを振り払っていただろう。
 相手は片腕が折れ、満身創痍だ。そんな相手に触れられているだけ。
 ただそれだけのはずなのに、張三の掌を通じた圧は、それを許さない。

 まるで不安定な球の上に立たされたかのような、軸の定まらなさ。
 この動きを、カリーは知っている。

 あの愚かな男が磨いた体術。
 放鬆を起点とした身体運用術。
 固体で構成される肉体を限りなく流体に近く作動させる体系。

 太極勁。

 この80年のうちに「新民主主義的国民体育」のスローガンの下、武としての牙を抜かれたとある流派の、武術(ウーシュー)としての原液。

 知っている。
 だって、隣で戦ったから。
 100年前、まだ、カリー・魔幣になにもかもがあった、すばらしき日々の中で。

 脳髄で『蟲』が疼く。

 カリーは吠えた。
 すばらしき日々が終わりを告げた、1925年5月30日。

 あの日、大切な時に間に合わなかった、愚かな男の弟に。
 あの日に至る前の自分とよく似た瞳で挑んでくる女に。

 おまえたちもいつか気付く。
 いずれ掠め取られる。
 いずれ取りこぼす。
 すばらしき日々はいずれ終わる。

 だから希望など抱くな。
 自分が何かを変えられるなどと思うな。

 張三との応酬の最中、棍打を囮にした女の蹴打が、カリーの腹を穿った。
 確実に受けたはずだった。少なくとも、数刻前の攻防で見切った速度ならば、止められるはずだった。

 速度が違う。膂力が違う。そして何より、戦術の背景にある思考が違う。
 組織から知らされていた情報では、女――林希美は常に身体強化系魔人能力(フィジカルエンチャント)を発揮して戦っているのではなかったか。

 ブラフ? シンプルな身体強化系能力を、使いどころを絞ることによって、破調のフェイントにして戦術に組みこんだ? 


 ――お前の能力、馬鹿正直に説明しない方がいいかもな。

 ――目端の利く奴なら、その力から魔幣の裔、五行大家、金行門に行きつく。

 ――何か、別の理屈で金行日に能力を発揮する理由を説明してやった方がいい。


 吠える。吠える。
 うるさい。もう失ったものだ。手放したものだ。

 すばらしき日々は失った。
 懐かしい歌は忘れた。愛おしい笑顔は擦り切れた。

 もう、カリー・魔幣にはなにもない。
 世界を変えたいと思った。そのために戦った。
 魔幣を破り、生み出した『魔幇』も、理想からは遠く離れてしまった。

「――『鉄杵』」

 獣を捕える檻のように、鉄棍が通路に林立する。
 張三の仕込みか。
 本来なら、薙ぎ払って動くことは容易。

 だが、張三の太極勁による妨害と、林希美の一撃離脱による傷の蓄積が、それを許さない。不意打ちだった臭気の悪影響も、まだカリーの動きから鋭さを奪っている。

 全力の一撃で、この一角を破壊するか。
 張三の身体運用術も、不安定な足場では十全にいかないはずだ。
 何より、ガスの噴出で爆発の可能性をちらつかせれば、林希美を守ろうとする張三は退かざるを得ないだろう。

 脳髄で『蟲』が疼く。

 それが、最も戦術的に正しい判断だ。
 たとえこの街が、あの愚かな男が死んだ場所であったとしても。
 あの愚かな男が愛した郷愁の地であったとしても。
 その面影を残していたとしても。カリーが『魔幇』に働きかけて、その風景を守り続けてきた場所であったとしても。

 脳髄で『蟲』が疼く。

 カリー・魔幣が勝利するためには、

 脳髄で『蟲』が疼く。
 脳髄で『蟲』が疼く。
 脳髄で『蟲』が疼く。

 けれど。なぜ、カリー・魔幣は、勝利しなければならないのか?

 『蟲』が、脳髄を蝕む。

 それ以上思考するなと。
 そこから先は、思考すべきでないと。

 女の名は、カリー・魔幣。
 能力は『狩りの時間だ(十三倍の金曜日)』。

 チャイナマフィア『魔幇(まほう)』の前身と言われている宗教団体『魔幣(まへい)』の頃からの幹部、カレー部門所属。カレー部門というが構成員は彼女だけである。とあるカレー屋の裏のゴミ捨て場を縄張りにしてたスラムのガキからの成り上がりで学もないし理性もないし知性もないし人間性もないし乳もないし尻もないし色気もない。金曜日はカレーの日と言って金曜日にしか働かないが別に年がら年中カレーを食べている。

 それだけの、ただ、『魔幇』に敵対するものに対する無慈悲な処刑人。
 それでいい。それ以上の背景は不要。
 なにもない、無機質な装置であるべきだ。

「はははははははははは!」

 カリーは笑った。嗤った。哂った。
 なんて滑稽。これが『魔幇』。
 あの日の、あの愚かな男の夢の果て。
 すばらしき日々の、生み出した世界。

 カリー・魔幣は、最適解であるはずの街の破壊を行わなかった。行えなかった。
 代わりに、百年ぶりに武術(ウーシュー)を使った。
 それこそが、張三と林希美を殺すためのより冴えたやり方であると『蟲』に騙った。

 13倍の身体能力には不要だとして忘れていた、最高効率の身体動作。
 錆びついた功夫。掠れ切って摩耗した套路。

 林希美の動きが、『飢鬼』のオンオフで破調を生んでカリーを翻弄したように。
 カリーの武術の行使は、確実に張三の意表をついた。

 円弧を描くように張三の周囲を駆け、カリーは打突といなしを連環させる。
 高速で敵味方が入り乱れる中で、林の支援は望めない。
 一対一の力量はカリーが上。こうして一人ずつ仕留めれば――

「おおおおおおおおおおおお!!!」

 だが、林希美は止まらなかった。
 獣のように吠え、太極図のように入り乱れるカリーと張三に棍棒を振り下ろす。

 今や『飢鬼』はその真価を発揮し、カリーをして無視しえない膂力で渾身の一撃を体現していた。

 だが、だからこそ、単純。
 だからこそ、読み通せる。

 カリーは身を翻し、張三の体を盾にして鉄棍を受け止めた。
 これで決着。なんて愚かな結末。

 そうカリーが確信した刹那、張三は小さく呟いた。

「――『鉄杵磨成針』」
「ッ!?」

 カリーは理解する。
 林希美は、同士討ちの危険を無視してやぶれかぶれの攻撃をしたのではない。

 張三の魔人能力は、触れた鉄の棒の形質を操作する。
 それは、手に限ったものではない。

 つまり、林希美にとっては、鉄棍の一撃が、どちらに命中してもよかったのだ。

 林希美の必殺の一撃が命中したのは、張三の体。
 そう。

 投げナイフによって作業着が切り裂かれ、剥き出しになった皮膚そのもの(・・・・・・)だ。

 魔人能力『鉄杵(ティエチュウ)』発動。

 張三の皮膚に触れた刹那に、鉄棍は『鉄杵』の異能によって単純な打撃ではなく、変幻自在の流体金属と化した。

 それはうねり、ねじれ、一つの生物の形を模倣した。
 即ち、鈍色にぬめる八頭の蛇。

 蛇の牙が円弧を描き包み込むようにカリーを襲う。
 一つ一つの軌道は獣のそれではない。
 形こそ蛇でありながら、その理は武錬に裏打ちされた套路の精華。
 おそらくは、『钢铁构架』張三の、魔人能力と武術を融合した絶招(きりふだ)

「――『鉄杵磨成八卦蛇』」

 本来、戦いの場において技の名を語るなど下の下策。
 技を技として知られずして事を為すことが、武の本懐であるためだ。
 しかしそれが、魔人能力を融合させたものとなれば話は別だ。
 魔人能力とは、己が認識で世界を歪める異能。

 己が、これぞ絶招(きりふだ)、必殺の型であると自己暗示をかけるための技名開示、行使の宣言こそ、不意打ちの利点と引き換えに、その出力を跳ね上げる。

 並の武人であれば、一の蛇にて必殺。
 しかし、此処に立つは『魔幣』五大家の一、金行門の守り手たる超人の裔。
 金行の加護の下にある星期五の刻、カリーはその必殺をも防ぎきる。

 だが、二ならば。三ならば。
 それすら防ぐとて、八ならば如何。

 そんな限界の攻防に、対峙する二人の意識が交錯する。

 ――兄貴は、こんなことを望んじゃいなかったよ。

 八の坤蛇。
 地を這うような軌跡で、猛牛めいた勢いの蛇が腹を狙う。
 それを、真正面からの掌打でカリーは八の蛇を打ち砕いた。
 拳が砕ける音がしたが黙殺する。

 ――そんなこと、わかってるサ。

 七の艮蛇。
 山の稜線のような軌跡で、猟犬めいた執拗さの蛇が掌打で伸びた手首を狙う。
 それを、捩じりの挙動で腕に巻き込み、カリーは七の蛇を引き千切った。
 筋肉が裂ける音がしたが無視する。

 ――それでも、止まれないじゃないカ。私とアイツが作ったんだかラ。

 六の坎蛇。
 水のような変幻自在な軌跡で、猪めいた圧の蛇が耳を狙う。
 それを、一歩踏み込み、あろうことかカリーは六の蛇を嚙み砕いた。
 顎が捩じれる痛みを忘却する。

 ――今の組織(・・・・)を作ったのは、头目(ボス)と七鴉翁だ。

 五の巽蛇。
 風のような純然たる速度で、闘鶏めいた鋭さの蛇が下腹を狙う。
 それを、カリーは振り上げた膝で蹴り穿いた。
 噛み裂かれた腿を棄却する。

 ――『麒麟の涙』を头目(ボス)に渡したのは私達だヨ。

 四の震蛇。
 雷のように不意の隙を縫い、龍めいた威の蛇が足を狙う。
 それを、カリーは踏みつぶす。
 腱が噛み裂かれた事実に反証する。

 ――後悔してるのか。なら、今からでも、

 三の離蛇。
 火が延焼するように他の蛇の骸を喰い、雉が哭くような奇音を立てて蛇が目を狙う。
 それを、カリーは頭突きで叩き落とす。
 額を抉られた損傷を反転する。

 ――今更だヨ。『破幣』と『魔幇』の始まりは、やっぱり、私達ダ。

 二の兌蛇。
 沢の流れのような穏やかさで、羊のような殺意のなさで蛇が口を狙う。
 口を大きく開こうとして、カリーは己の顎が外れ歯が折れていたことに気づいた。
 蛇はカリーの唇をふさぎ、呼吸を阻んだ。

 ――だから、头目(ボス)に『麒麟の涙』を返すと?

 一の乾蛇。 
 天馬のように頭上から降り注ぐ最後の一蛇が、カリーの背後から首元――延髄の『蟲』に食らいついた。

 ――さあね。もう、どうでもよかっただけかもしれない。


 それが、決着の一撃。

 仮に魔都の支援が生きていれば、カリーは八岐の牙を防ぎきることができただろう。
 しかし、カリーが名すら意識していない、倒萩とロハという二人の行動により、ここに『破幇同盟』の牙は、『魔幇』幹部、カリー・魔幣を縛る『蟲』へと辿り着いた。

 カリーは、改めて100年前、共に戦った、恋人の弟の性質を思い出した。
 張三という男の危険性は、その功夫や魔人能力の応用力にあるわけではない。

 鉄杵磨成針。

 鉄の杵を磨いて針を創り出そうという、非常識なほど気の遠い研鑽。
 そんな故事の喩えを心から信じて世界律を改変するほどの心性こそがこの男の異常性。
 妄執じみた執念。
 高らかな希望を謳いあげて世界を変えた彼の兄と似て、真逆のあり方。

 おそらくは、この局面に至るまでに、幾つもの仕込みがあったのだろう。
 それを看破しきれなかったことが、カリー・魔幣の敗因。

 八の蛇が、カリーの首元から離れた。
 そして、彼女を『魔幇』へと縛り付けている『蟲』を喰い破る。

「悪いな、大姐。今更だが、兄貴の不始末は、俺がつけるよ」
「遅いヨ、小張」

 カリー・魔幣は、そんな一言を残して、意識を手放した。
 彼女が愛した愚かな男が100年前に倒れたのと、奇しくも同じ場所でのことだった。




7.百年布鲁斯(ひゃくねんブルース)


「さて、ロハ様。商談に入る前に、色々ミーに聞きたいことがあるのでは?
 私は敗者で、これからの同盟者候補だ。ある程度のことはサービスしますよ」

 (ファ)()()魔都(マトー)は、セーフハウスに招き入れた路覇タッカーに微笑みかけた。
 戦闘中の接客スマイルとは異なる、対等な相手に見せる挑戦的な表情だった。

「……清王朝のダイヤって、なんなの。
 しばらく色々情報集めたけど、やれ大きな宝石だとか、傾国の美女だとか、亀の甲羅だとか、人を魔人に変える魔具だとか、目撃証言もばらばらで何個もあるみたいで、それか絡みの事件がこの街のあちこちで同時並行で起きてるし、わけがわかんないんだけど」

 ロハの質問に、魔都は意外にもすんなりと答えを返した。

王権証器(レガリア)と言って、おわかりになりますか?」
「それを所持していることが、王の証であるというシンボルですよね」

 倒萩の補足は正しい。

 たとえば、日本における三種の神器。
 古ブリテンであれば王のみが抜ける選定の剣(カリバーン)
 ペルシャ帝国であればジャムジードの杯。
 その持ち主に、正当な王権を保証する宝物を指して、王権証器(レガリア)と言う。

 ここでその単語が出てきたということは、清王朝のダイヤとは――

「この国の王権を意味する、ruby(レガリア){王権証器}」
「そのとおり。清王朝のダイヤ――『麒麟の涙』こそ、この国の王権の証です」

 秘密結社『魔幇』の至宝。
 そして、組織結成100年の式典を前にして何者かに奪われた、今現在上海を騒がせている元凶。
 それが、この国の王権証器(レガリア)であったということは、

「『魔幇』は、清王朝の正当性を担保するruby(レガリア){王権証器}を所持することで、魔都上海を支配してきたということ?」
「まあ、そういうことになります。ただ、そこにはちょっとしたイカサマがありましてね」

 そして魔都は、『魔幇』結成の経緯を語った。 

 清王朝が滅びるまで皇帝の手元にあり続けたという王の証、『麒麟の涙』。
 それには、特異な性質があった。
 持ち主が王の資質を失うと、砕け散り、その欠片が王の器を持つ候補者の元へ引き寄せられるのだ。

 候補者たちの持つ欠片は、民意を得て成長し、あるいは候補者同士の争いで統合され、最終的に完全な『麒麟の涙』となる。
 それが、この国における次代の王を選出する儀式でもある。

 政治体制の転換期に動乱が起きる背景には『麒麟の涙』の影響もあったのだ。

 『麒麟の涙』による王の選別が正しく行えるよう、介添えを行う守り手たちもまた、存在した。
 魔幣と呼ばれる組織である。

 魔なる供物の名を冠する彼らは、候補者と欠片の居場所を把握し、正しくない者が五徳に悖る悪辣な手段で『麒麟の涙』を完成させて王の証を得るような「不適切な王の誕生」を阻止する役目を帯びていた。

 魔幣の構成員たちは、清王朝時代まで正当にその役目を遂行していた。
 しかし、清王朝の滅亡後、『麒麟の涙』に相応しい王が現れないまま10年あまりが過ぎ、上海が租界という形で他国に食い荒らされる中、魔幣の後継者の一部が戒律を破って、王を待つのではなく、自らが王になることを目指した。

 候補者と欠片の居場所を把握できる特権を使って様々な権謀術数を駆使して欠片を統合し、『麒麟の涙』を完成させたのだ。

「それが、『魔幇』が結成された経緯。『魔幇』に『麒麟の涙』があった理由。
 そしておそらく――今、『魔幇』にダイヤがない理由です」

 魔都の説明に、ロハは思考を巡らせた。

 レガリア『麒麟の涙』。この国における王の象徴。
 それを、イレギュラーな手段で手に入れて魔都を支配した『魔幇』。
 100年が過ぎて、『麒麟の涙』は、『魔幇』から消えた。

「つまり、『魔幇』に王の資格なしとして、『麒麟の涙』は砕け散って、この街中の、王の器の候補者のところへ飛び散ったってこと?」
「おそらくは。あちこちでダイヤの話が錯綜しているのは、そういうことでしょう。
 欠片がどういう形で候補者の元に顕現しているかは、一様ではありませんので」
「『魔幇』がダイヤを失ったってことは、しばらく待っていれば勝手に『魔幇』は瓦解する?」
「いや、そうはならないでしょう。
 おそらくは、『魔幇』の头目(ボス)の手元にも、欠片はあるでしょうからね。
 だから、候補者に刺客を差し向けているのです。
 それで相手を打倒すれば格付けが済んで、欠片が統合できる。
 もう一度、王の証を取り戻すのが、『魔幇』の目論見だと私は推測しています。
 ぼんやりと待っていることはできないということですね」

 しばらく黙っていた倒萩が、突然ロハに問いかけた。

「ロハさんは、王になりたいですか?」
「まさか!」
「魔都さんは?」
「闇の人間にとって、表世界の王権なぞ遊休資産でしかありませんよ。
 ただ、『魔幇』がそれを集めなおすことは邪魔したいところですね」

 二人の答えに、倒萩は安心したように頷いた。

 倒萩の意図はさておき、ロハはこれまで聞いたことを脳内で整理する。
 上海の、この国の王権を賭けたダイヤの奪い合い。
 ロハの目的とは直接重なってこないが、この街でしばらく活動する以上、無縁でもいられないだろう。

「……まあ、いいや。それで、ここからが本題。
 これから言うものを、用意してもらいたいの。できるかしら」

 ロハの提案に、魔都は腹を抱えるようにして笑った。
 自らのキャラクター性を演出する笑い声ではなく、ただ自然に溢れだした笑い声が、セーフハウスに響き渡る。

「ははははははははははははは!
 ダイヤを争奪する者たちより、貴女の方がよほど、この街の台風の目だ!
 いいでしょう。『No.1を入れ替えよう』が私の座右の銘。
 『魔幇』の七鴉翁(セブン・レイブン)に逆らうのに、この程度できず何が商人か!」

 ここに、一つ。
 ダイヤ争奪戦とは別軸の物語が芽生えた。

 その伸びる果てに待つ因果。
 倒萩と路覇タッカー。二人の少女の行き果てる萩の原(ゴール)がどこにあるのか。
 それが、『麒麟の涙』を巡る騒動とどのように絡むのか。
 この時点では誰も知る由がなかった。




8.给予的人(あたえるおとこ)


 旧共同租界跡。
 『魔幇』とのしがらみから単に人々が「贫民窟(スラム)」とだけ呼ぶ一帯。
 その一角にある屋台で、私は張三とテーブルを囲んでいた。

 卓上では、この前食べた串焼肉や炒飯に加えて、スパイスの利いた咖喱土豆(じゃがいものカレー風味炒め)が湯気を立てている。

「『破幇同盟』の初陣と勝利に、干杯!」

 白酒(パイチュウ)のグラスを片手に、いつもどおりに陽気な張三。
 しかしそれがどこか無理をしているように、私には感じられた。

 カリーは、あの日の襲撃の後、まだ目を覚ましていない。
 私と違って、『蟲』が脳に仕込まれているせいで、摘出によって後遺症が出たのだろうということだった。

 張三はカリーを、義姉だと言っていた。
 具体的な二人の関係がどんなものだったかはわからないけれど、身内同然の相手と戦って、意識不明の重体になったのだ。思うところはあるに違いない。

 百年節(パーティー)を迎える『魔幇』。
 『魔幇』の創設メンバーであった張三。
 張三の義姉だった、カリー・魔幣。

 『魔幇』を解体するための、私達『破幇同盟』。

 聞きたいことは色々あった。
 けれど、頭のよくない私には、詳しい事情を聞いても理解できない自信があった。
 だから、私は、一番聞きたかったことだけを質問した。 

 私を苛んだ場所を、目の前が男が創り出した動機。

「張三たちは、なんで『魔幇』を作ったの?」

 なんだ突然、とばかりに、張三は口いっぱいに炒め物を頬張ったまま首を傾げた。

「言ったでしょ。「そうなっちまったのか」って。
 ということは、前は違ったってことでしょ?」

 少し眉根を寄せて、張三は白酒で口の中のものを流し込む。
 冗談めかした表情を一瞬だけ浮かべて、私の真剣な顔に気付いたのだろう、一つ咳払いをすると、私の同盟相手は言葉を選んで話し始めた。

「旗振ったのは兄貴で、俺じゃあないんだがなあ。
 ただ、ちいとばかし運と間が悪かっただけで、割を喰っちまう奴が減ればいい。
 少しでも居心地のいい街にしたいって、それだけだったよ」
「そっか」
「まあ、俺も兄貴も、具体的にどうすればいいかってことに無知だった。
 表の政治も裏の権謀術数も素人だった。
 だから、こうなった。それだけの話さ」

 納得のできる答えに、少しだけ安心する。
 言葉だけの言い訳かもしれないけれど、少なくとも私は納得した。

 結果こそ捩じ曲がってしまったのだろうけれど。
 その動機は、私を助けたときのことと同じだ。
 別に何の義理もない相手に、なんとなく手を伸ばす。
 相手を認める。それでよし、と笑ってみせる。

 なんというか、数日間の付き合いではあるけれど、張三は、基本、色んなものを肯定する男なのだ、と私は感じていた。
 何も考えていないだけかもしれないし、ただバカなだけかもしれないけれど。

「……ん、鱼腥草(ドクダミ)苦手か?
 悪い。俺ァ食べなれてるが、クセはあるもんなあ。あー、なんか他の……」

 ぼんやりと見ていた私の何を勘違いしたのか、張三は申し訳なさそうに別の食べ物を注文しようとしはじめた。
 慌てて私はそれを止める。

 豪快そうに見えてこの大男は変にこっちに気を使いがちなところがある。
 組織の捨て駒扱いだった境遇からの温度差が激しすぎて落ち着かないから、そういう扱いは、やめてもらいたい。

「違うって! 早合点しないでよ。
 ちゃんとおいしそうだから安心してってば!」
「なんだ! だったら遠慮せず喰え喰え!」

 大きな掌に無遠慮に肩を叩かれた。
 乱暴で、けれど、それがどこか安心する。

 勧められるまま、苦みと渋みのある根っこを噛みしめながら、私は思い出した。
 この前、倒萩との食事の後で気になって調べた、鱼腥草(ドクダミ)の花言葉。

 「追憶」「野生」。
 そして――「自己犠牲」。

 どこか、目の前の男にぴったりだと思って、妙な不安に駆られた。

「ねえ、張三」
「なんだ?」

 だが、そこに踏み込むには、私は張三を知らなさすぎた。
 だから、代わりに、私は空いたグラスに白酒を注ぎ、張三のグラスにぶつけた。

「生きて、勝つよ」

 張三は、口元を歪めて、グラスを掲げた。
 それが肯定を意味する返事だと勝手に解釈して、私は白酒を飲み干した。




 その夜。
 私は、夢を見た。

 夢の中で、私はカリー・魔幣から、何か、小さな輝きの欠片を受け取った。
 私の胸に吸い込まれたそれは、きらきらと輝いて、どこか涙の雫のように見えた。

 胸に欠片が宿った瞬間、私は、意識が空に吸い込まれた。
 視点が俯瞰になる。

 見下ろすのは、この魔都、上海。

 そこには星座のように、私の胸のあるのと同じような欠片が点在している。

 その数は、私の胸の欠片を足して21。

 なぜか私は直感的に理解した。 
 この欠片のうち、どれか一つの輝きが満ち満ちたとき、全ての決着がつく。
 そしてその日は、決して遠くない。

 その時、林希美は、張三は、『破幇同盟』はどうなっているのだろうか。
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