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ダンゲロスSS上海
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ダンゲロスSS上海

覆巣、復路

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dangerousss_shanghai

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李長庚(イー・チャングン)は砂埃が舞う夏の日の閘北、窮屈な小屋に住まう家族の四男坊として生を享けた。
都市に近い工場へ出稼ぎに行く父母、内職をする姉、荷車を転がして隣区まで出向く兄達。
同じ屋根の下で暮らす血の繋がる人々は、いつだって忙しなく動き回っていた。

部屋では座っているだけでも邪魔になるというので、近所の子供や老人が彼の世話をしていた。
腰の曲がった老爺が砂の上に字を書く様子を眺め、年上の少女の鼻歌を聞き、兄貴分達と木に登った。
彼は健やかに成長した。
よく食べ、よく寝、よく遊ぶ彼は、ある日兄に市場へ連れられて、そこに一人置いて行かれた。

閘北の家は小さく、彼の寝床は広すぎた。
初めて買ってもらった棒飴を舐めて迎えを待ちながら、コソコソと人目を逃れるようにして生きる子供の姿を目にして、彼はようやく自分が置かれた境遇に気がつく。
糖分が溶け終えるまで地べたに座り込み、楊枝に染みついた味が抜け切るまで道端に寝転んだ。

それまで長庚の知る人といえば急かされるように働く家族と、引き延ばすように時間を使う近所の老幼に限られていた。
市場には全く異なるリズムを持った人々が喧騒を産み、視界の端までひしめいている。

少年は見た。
屋台で売り物の民芸品を見せつけながら、大声で客寄せする店主を。
不気味な人形を操り、通る人を不気味な気持ちにさせる芸人を。
冷やかしついでに手に取ったものを無造作に買って回る租界住まいの外国人を。
露店のや人にぶつかり、ぶち撒けながら逃げ去っていく盗人を。
ぶつかった盗人を殴り倒し、頭を下げさせる暴力と脅しに長けた者達を。
その傍らを通り過ぎる工部局巡捕を。

彼はこの時初めて目にした。

血を流しながら殴り合う魔人を。

そしてその数秒後、複数の銃口から発せられる銃声を、彼は初めて耳にすることになる。


ーーーー
ーーーー


白く弾力のある膚は切歯を当てるとエナメル質に吸い付くように身を沿わせ、表面を凹ませていく。
食欲に導かれるまま表面を突き破り、どろりと溢れ出す肉漿を舌で掬い取る。
零れ落ちぬよう唇で傷口を塞ぎ啜る。
火傷するほどに熱い液体が喉を通り、胃の奥にまで到達していくのがよく分かった。

太好吃了(タイハオチールァ)‼︎」

林希美は上海に流れついて初めてその言葉を口にした。
『破班同盟』を組んでこの方、朝昼夜と張三の勧めに従って未知の世界を口にしてきた。
茶の味を知り、牛と羊と豚の違いを知り、麺の材料や形の違いを知った。
ただ空腹を満たすのみならず、咀嚼した食事の感動を表現する術も身につけていたのだが、初めに口から出たのは驚きと感動の言葉だった。

「確かに、こいつは美味え。
 上海の美食ならば知ったつもりでいたが、この味に出会うのは初めてだ」

白酒を呷っていた張三も、湯匙の上の小籠湯包を啜り唸っている。

香辣羊髓湯包(シャンラーヤンスイタンパオ)
 仔羊の脛肉を柔らかくなるまで煮込み、煮汁と各種香菜、佐料で調味した咖喱と冷やし固める。
 これを麩質(グルテン)豊富な小麦粉から作られた皮に包み、酒で香り付けをした水で蒸している」

『破幇同盟』と卓を囲む男は訥々と語る。
魔都観光局局長、上海咖喱乐园(シャンハイカレーランド)総帥、魔幇特別顧問。
様々な肩書きを持つ彼は、他の観光客がするのと同様に卓上の菜単(メニュー)を眺め、矢継ぎ早に注文の声を張り上げた。

「毎日のように新たな創作料理が増えるものだからな。
 何を食べられるのかは、この俺も実の所ほとんど把握していない」
「上海咖喱乐园、天帝の御手も及ばない美味の庭か。
 俺は中々気に入ったぞ」
「あんたに言われると面映いものがあるね、大哥」

張三と総帥は杯を酌み交わし、一気に飲み干す。
両人とも酒精には滅法強く、頬を赤くする様子もない。
秋深い外気につい先程まで晒されていた希美の方が顔に赤みが差している。

「総帥さんは、私達が魔幇と抗争すると聞いたのに、対処しなくていいの?」

上海蟹の身と白子が椰奶(ココナッツミルク)で甘辛く煮込まれた椀を匙でかき混ぜ、希美は疑問に思い続けていたことを口にした。
和気藹々と食事をしているとはいえ、相手が敵なのか味方なのか確信を持てずにいたのだ。
張三は気にかける様子もなく提供される酒を全て空にしていくが、毒が入っていないという保証だって本当は無いのだ。

「小姉妹は魔幇で下っ端の殺手をしていたんだったか。
 魔幇は魔人の集い、抱える仕事とは別に各部門で武力を抱え込んでいるものだが、自分がどこに所属していたのかは分かるか?」

総帥の質問の意図が希美には掴めない。

「蟹部門だったけど、それが何か?」

頭に問號()を浮かべる希美を見て彼は無表情な口元を僅かに緩めた。

「それならばだ、小姉妹。君は上海蟹ランドという施設を知っているか」

言葉の意図も説明せず質問に次ぐ質問。
とはいえ幼少から生活してきた上海の常識問題には即答する他なく、希美は軽く顎を引いた。

「俺はあれの設立者なんだ。元は魔都観光局の管轄だったんだぜ、あの施設は。
 蟹総帥って肩書きも中々気に入っていたんだが、後からできた蟹部門に担当を移管するよう上から指示があったんだ。
 こちらは大人しく譲ってやったのに、引継ぎ中にいざこざもあって摩擦が残ってるのさ」
「指示にあった標的の一人が総帥さんだったのは、ダイヤ盗難の容疑者だからではなく、単に邪魔だったから。
 つまり、そう言いたいの?」
「そもそもだ、組織の名誉に関わる問題を下っ端一人に任せる訳がない。
 容疑者が本当に秘宝を盗難していたとして、どこか秘密の場所に隠していたらどうする。
 殺手以外にもせめて尋問や捜査に長けた人員を駆り出すべきだろう。
 騒動に関して邪魔者を消し去る良い機会だとしか捉えていない馬鹿もいるんだよ」

相手の言わんとすることが徐々に分かってきた。
つまり張三も総帥も、ダイヤとは無関係に命を狙われた、ということだ。

「俺を目の敵にするのが何も蟹部門だけだとは思ってはいないがな。
 大哥と小姉妹を狙う相手と重なる部分も大きいだろう。
 昨今の魔幇にガタが来ているのは事実だ。
 掃滅が目的ならば肯定できないが、組織を新生させるというのならば共闘できる。
 ダイヤを探すにしても互いに手数が足りないのは同じだろうしな。
 ここでの持て成しにはそういった動機があると考えてくれ」

店員が卓に並べたのはラッシーベースの奶酪。
食後の甘味ということらしい。
さっぱりとした酸味が、満腹の快感を爽やかで魅力的なものに変わる。

「会う人全員を敵に回すのは無茶だと思ってたし、味方ができるのは心強い。
 ただ、今の私は美味しいものをご馳走してもらった直後で判断力が落ちているかもしれない。
 どう思う、張三?
 私はアンタの判断に従う」

巨漢は人形遊びでもするかのように不釣り合いな大きさの匙で奶酪を口に流し込んでいる。

「俺は構わん。おまえさんもここの料理を気に入ったようだしな」

辺りを見回し、彼は呟いた。

「何よりここいらは俺の古巣だ。大昔のことだから馴染みのある顔触れは多くない。
 それでもあの頃と比べれば誰もがずっと良い暮らし向きをしているようだ。
 この男がそれを守っているのであれば、魔幇か破幇か、俺がそういったことに拘る理由はない」

ーーーー

「魔幇の全てと距離を取るように努めて生活していたが、黄粱夢の中にいたようだな」

総帥は今夜の宿の手配まで約束してくれた。
観光局で抱えている戦力は少なく、新たに同盟を結ぶにしても、まずは休息を約束することしかできないのだと言う。
食事だけでも十分だと固辞しようにも、財布事情は厳しいことも事実。
張三、希美は甘んじて受け入れることにした。

カレーポットを模した巨大な建築物が彼方に大きな影を作っている。
遠くからでも子供が燥ぐ声と何か機械の作動音がが谺のように響いてくる。

「何だか楽しそうだね」
过山车(ジェットコースター)でもあるのかもしれんな。
 どうした、気になるか?」
「別に、そんなことはないけど」

希美はそこで言葉を切る。

「誰にも追われてない機会にまた来たいと思うでしょ、どうせならさ。
 飲食はまだしも、今アトラクション施設まで楽しめる気はしないし」
「確かにな。とはいえ今日これから園外でダイヤ探しという訳には行かんし溜达(ブラブラ)するのもいいだろう」
「じゃ、日が落ちるまで軽く観光して行こっか。腹ごなしってやつ」

カレーポットのように巨大な施設もあれば、食事を摂った屋台街からは広い街路が続き、低層の軒が連なっている。
路面は白い石で舗装され、道の両脇、屋台露店の屋根には赤、茶、黄、緑、カレーをイメージしたような布が垂れ下がっている。「爬」
店頭には上海やカレーにちなむ品物も多いが、中には全く関係ない店もある。
「小姐、小姐! 写真を撮ってあげよう。
 うちの上海蟹フォトフレームは蟹ランドにも見つからない限定品だぞ!」「巳」
「えーっ……それは要らないかな。かさばりそうだし」
「残念! SNSに載せれば大人気間違い無いのに。
 大哥はどうだい! 微信(ウェイシン)やってる?」
「いや、俺はそういうのはさっぱりで」
「そう、じゃあいいよ! 再見!」

何を売っているのか、そもそもよく分からない店もある。
「狸」
屋号もないカラフルな小屋は地平の果てまで続いて行く。
二人の他にも百年節を楽しみにして訪れた観光客が大勢いる。
ガイドブックを眺めて目的の屋台を探すカップル、スマートフォンを構えて動画を撮影する若者、「魔」食べ歩きをする国内からの観光者。

賑やかな通りの隅で言い争う声が聞こえた。
遠巻きに見守る人々を掻き分け、眺めれば二人の少女が店主と思しき男性と険悪な空気を醸し出している。

「都」

「ファミリー・魔都千号店」ガラス戸に紙で手書きの文字が貼られている。
既に戦闘があったのだろう、店主の隣には倒れ込むスーツ姿が複数。

「金も持たずにダイヤ払いだなんてアホな事抜かしやがって、貴様らなんざ客じゃねえ」
頭に湯気でも立てそうな勢いで、血気を見せる店主。
「挙げ句の果てにウチの商売にケチをつけて店員に暴力まで振るったんだ。
 もう冷やかしで済む問題じゃないぜ」

剣呑な雰囲気だ。
遠くからでは店主の怒鳴る声を聞き取ることができても、女性客二人の言葉を捉えることは難しい。
ことの推移を見守る人垣を押し退けながら、武人然とした男達が騒ぎの元へ駆けつけた。
通報を受けた施設の警備係だ。

「オイオイあれって『催眠拳』の(リウ)だろ」
「『赤蛇先生』の(グァン)もいるぜ」

有名な魔人であるらしい警備の男達は、特異な構えで二人の女性へ接近する。
背後に闘気が湯気となって立ち上り、ゆらりと腕を動かす様は獲物を狩る肉食獣のそれである。
一歩の大きさを無造作に変化させながらあわや接触、と思われた時、彼らは無様にも足を滑らせ転んだ。

女性客の一人、少女然とした雰囲気の方が間合いをとりながら舗装された地面を蹴り飛ばすと、砕けた石が這い蹲る男達を襲った。

「ひぃ……だ、ダメだ! このままでは俺も理不尽に殺されてしまう!
 鬼畜の所業だよ、誰か助けてくれーーっ!」

怯えたように叫ぶ店主へと少女が近づいていく。
その腰には銀の縄の如きものが吊るされており、それが蛇のように店主へと伸びて行く。

「見せしめが必要です」

日本語の言葉が希美の耳にまで届いた。
観光客達のカメラが向いているような場所で目立つようなことは避けたいとは思うものの、取り返しのつかない暴力の気配が横たわっている。
見逃して良いものかと確認するべく張三の方を見れば、彼は隣から輪の中へ無言で近づいて行く所だった。

小姐们(お嬢さん方)、そこらで止めにしないか。
 ここには観光に来たんだろう」

彼の分厚く大きい身体と仕上げられた佇まいに警戒したのだろう。
少女は張三へと向き直り、警戒を強めた。
張三はゆっくりと歩み寄り、両者の間に割って入る。

「日本から来たのか? 言葉や文化の行き違いもあるかもしれねえが喧嘩はよそうじゃねえか」

張三は園内の人間に手を出したことについては謝罪して手打ちにするよう声をかける。
騒動が大きくなれば、施設にも観光客にも互いに良いことなどあるはずがない。
彼は純粋に仲裁のためだけに足を運んだようだ。

「無駄だね、そいつら自分が悪いだなんて少したりとも思っちゃいない!」

腰を抜かした店主が背後で騒ぐ。
宥めようと振り返った張三、その腕に石の塊が衝突した。

「うおっ、何だこりゃあ…………!!」

少女の腰から伸びる縄、というよりも尻尾にはボーリング球ほどの大きさ、歪な凹凸を持った球体が繋がれていた。
それを流星錘のように扱い、張三へとぶつけたのだ。
不意打ちとは言え彼も上澄みの戦闘魔人、大怪我をした様子はない。
しかし、その球がペタリと身体に吸着している。

「サカハギ、人が集まり過ぎてこれ以上は不味そう。
 そろそろ逃げよう!」

積極的には戦闘に参加していなかった方の女性客が連れに声をかけたようだった。
彼女も張三の鍛え上げられた肉体が今までの魔人とは比べ物にならないことは理解している。
サカハギと呼ばれた少女も、張三の強さについてはよく分かっていることだろう。

「そうですね。でも、この大きい人を相手に逃げ回るのは難しそうですから」

張三に吸着した石球は彼の腕を内部に捉えたばかりか、糊のように彼の胴にも貼り付き、右腕を完全に封じていた。

「もう一度!」

新たな球体が少女の尾に掴まれている。
地面に穴が空いている。
球をくり抜いた跡だ。
重い武器に遠心力をつけるサカハギ。
それに先じて動こうとした張三は、足を深い泥濘に取られた。
両足が深く沈み込み、歩みが強制的に止められる。
流星錘が迫る。

「フンッ!」

張三が左手に鉄棍を握る。
先程までは影も形もなかった棒が突きつけられ、互いの射程に変化は起きるが球の勢いは変わらない。

「ハーッ!」

張三は棍を用いて球を打ち返すことはない。
尾を強かに打ち、軌道を変えた攻撃を身を反らし躱す。
痛覚があるのか、怯んだのか。
球が鉄縄の先から落ち、少女は後退る。
しかし既に、鉤と成った鉄棍は伸ばされて衣服を噛んでいる。

マジックハンドと化した鉄棍が瞬時に縮み、巨漢へと引き戻される。
サカハギと呼ばれる少女も、彼の足元へと引き倒された。

「よし、ここまでにしよう」

張三が触れると、尻尾の形をしていた鉄縄は少女自身を戒めた。
彼女は踠き抵抗するが、彼の手にある物を見て動きを止めた。
枝分かれした鉄線の房が、縄から切り離され握られていた。


ーーーー
ーーーー


「汗ばんできましたね、手のひら」
手袋越しに分かるものか。
それも布や化繊ですらなく、格好つけた革の手袋越しに。
反論を口に出さず、路覇タッカーは睨みつけるに止めた。
当の相手は表情など気にかける様子もない。
「ほら、見てください。表面が貼り付いてくるんです。
 ね、ほら。手袋越しでも分かりますよ」

ロハは床に寝かされている。
頭を相手の膝に乗せ、左手を相手に委ねている。
両手でロハの手をゆっくりと賞玩し、彼女の無防備な小指をそっと握ると、倒萩はその先端に自らの尾を近づけた。

「身体の中のほんの一部。
 こんなにちっぽけな領域を乱暴に扱うだけで、人は嵩を減らしてしまう。
 芯を失って、揺らいでしまう。また生えてくるはずなのに、不思議ですよね」

無数の繊維からなる尾は指をぐるり締め付け、枝分かれした鋼線の一本が爪の周囲を探るようになぞる。

「美味しいものを口にすれば舌が、喉が、胃が。満たされていきます。
 誰かと愛し合うことで唇が、脳が、心が。暖かさと重さに沈んでいきます。
 それと似ているのかもしれません。毒でも浴びたように、身体中が痺れて、震えて、裏返りそうでしょう?」

突き刺すような痛みが、ロハの体を貫いた。
傷をつけられたのは指先、まだ一ミリメートルにも満たない深さだというのに、背骨に電気を流し込まれているかのように全身が緊張している。

「あっ、叫んではダメですよ。
 大きな声を出すと、ここにいる事がバレてしまいますから。
 はい、我慢できて偉いです。それでは呼吸を整えましょう、ガチガチに凝り固まって、攣りそうになった筋肉もほぐすお手伝いをします。
 そう、柔らかく、伸ばして、曲げて。まだ一枚目の途中ですからね」

倒萩の声は不思議だ。
すぐ近くで聞いていても、隣の部屋から響くように遠い。
くぐもっている訳でも、声量が小さい訳でも、掠れている訳でも無い。
それが余計に周囲の闇を濃く深め、皮膚感覚を鋭敏に、時間感覚を鈍感にしてしまう。

浅い呼吸、深呼吸。ゆっくりと整える。
手巾で額が拭われると余計に髪から垂れ落ちる雫が気になり始める。
肩から腕を撫で擦り、伸ばされる。
無意識に床に着けていた足の裏を離して、脚を少しでも楽な姿勢に伸ばす。

「大切なのは、その人の人生に深く刻まれる事。
 食事や愛ならば、選択肢があります。
 今後さらに素晴らしい料理を口にする事があるかもしれませんし、今とは違う、素敵な誰かと出会うかもしれません。
 もちろん、今現在お付き合いしている人と、より分かり合えるかもしれない、と考えるにしても同じです。
 ですが、爪の剥離とはアクシデントや不運に紐付けられるものです。
 期待や具体的なイメージとは切り離されています、本来であれば、の話ですが」

白葉が一枚、剥がれ落ちた。
分離した角質層と一緒に指の先から伸びる皮膚が切り取られる。
清潔な水で血を洗い落とし、消毒、ガーゼ、テープで処置が行われる。
二本の鋼線が器用に一片を摘み取ると、小皿にちょんと飾りつける。

「伸ばしたまま何かに引っ掛けてしまった時。
 大きさの合わない靴を履いた時。
 重い物を落としてぶつけた時。
 ふとした時に爪が剥がれることもあるでしょう。しかし、そうした事故で受ける痛みなんて膝を擦りむく痛みと大きく変わりません。
 自分ではない誰かのペースで、時間をかけて身体の一部を失っていく、その空白は日常に訪れる物ではありません」

ロハの手の甲を、手袋の滑らかな生地が優しく撫でる。
力の抜けた手のひらが、硬い指の腹で支えられている。

「相手の状態を見ながら調整しているので、死ぬようなことはありませんよ。
 後遺症も、不可逆な形では残しません。
 それでも確実に、制作直後の気力や体力は消耗しますし、他のことなんて何も考えられないようになります。
 自分がとても惨めな存在に感じられてきて、手も足も満足に使えないことを実感すれば、絶望します」

ロハの左手薬指が持ち上げられ、芸術家の両手が、それを柔らかく、固く、包み込んでいった。

「初めてなんです、リピーターなんてものは。
 だから、絶対に逃がしてあげますよ。こ上海という、この広い水槽から」

用意された猿轡を強く噛み締め、凶悪な虫のようにのたくる針金に、ロハは身を任せた。
再開した手遊びは返す波のように、彼女の身体を震わせる。

ーーーー

「痒いところはございませんか?」
「指が痛い」
「そうですよね、優しくしますからね」

手当を受けながら、ロハは改めて倒萩と語り合った。
魔都に至った境遇、これから為すべきこと、当面の方針。
倒萩の趣味に耽らせるのが先になったのはロハにとって想定外だったが、そこは気にしても仕方がない。

『堪輿万国全覧御宇基図』は便利なもので、住宅地図を作成すれば現在利用されている家と利用されていない家を判別することができる。
『搔撫』があれば鍵を用意することなく、室内に侵入することは容易だ。
一度撒くことができれば、追手に発見されることがない安全地帯を作り出すことが二人にはできる。

「今のアタシは路覇と名乗ってる。ロハって読み方は変えてない。だけどアイツらに変名を考えとけって言いつけられたから、仕方なく」
「私達は、あなたが亡くなったものだと考えていました」

鞄を漁り、倒萩は一枚のスクラップ帳を取り出した。
ページを開くと、切り抜かれた新聞にはロハの地元の地名がある。

『山奥に焼死体 行方不明の女子大学生か』
「被害者は全身を焼かれており、DNA照合は困難とみられる。指掌紋や歯科所見も困難な状況だった。」
「県警は遺体が身につけていた身分証から、遺体は捜索届が提出されている露波タッカーさん(20)として捜査を行う方針を発表した。」

続報はどんどんと紙面に割く割合を小さくしていき、今年に入ってからの記事は一つもない。

「ご丁寧に遺体まで偽装したってわけか。大袈裟よね、アタシ一人のために」
「お葬式は二年前に済んでいます。お母様も最近は事態を受け入れ始めていました。
ですが最近、上海の取引先から百年節準備の様子を写した写真が届き、背景に見覚えのある顔が写っていたそうです」
「アナタは母のお使いにきたの?」
「ロハさんを探すようには言われていません。
 自分の代わりに観光してきて欲しい、とだけ。
 写真は私も見せてもらいましたが、実際あれをロハさんと断定できる程のものではなかったですし……」
「受けていたのが軟禁程度の扱いで助かったわね」

写真、百年節。
従順ではないものの特別問題も起こさないロハは、いつからか貴重な能力を持つ魔人としての扱いから便利な下働きと見られることも増えていた。
監視付きとは言え街に出る機会が無かった訳ではない。
今回の逃走に関しても、やはりその機会を活かしたものだった。

「その、先刻まで制作活動に付き合わせていた私が言うのもなんですが、酷い目には遭わされていませんか……?」
「日常から切り離されたという意味では、酷い目に遭ったのは間違いないかな。
 だけど普段から拷問受けたり奴隷扱いされてた訳ではないから、アナタが想像するより酷いってことはないと思う。
本気の暴力を振るわれたのは誘拐された最初と、逃走を画策した時、それから今日殴られた時だけだし」
「結局、あの人達は何が目的でロハさんを誘拐したのでしょう」
「私の能力を『宝の地図』と勘違いしてたらしいよ。経緯は知らないけどね。
 祖国の歴史的遺物を発見するとか資金難を解決するとか色々息巻いてたけど、手を貸すのは御免だよ」

ロハは倒萩に命じて新興国家直属組織、上海支部の支部長と側近の二人を彼女の作品に変えた。
昼間には人が増えるビル街壁面を『搔撫』で凹ませて埋め込んだので、展示は最終的に多くの人の目に留まることだろう。
秘宝盗難の混乱で警察の捜査も真面目に行われることはない。
それでもしつこく追い回してくる組織の人間に対して送られた、「次はお前だ」というメッセージにはどれだけの意味があったのだろう。
「可能な限り無惨な方法」というオーダーには募る恨みもあったのだろうと、倒萩には想像することしかできない。

「『宝の地図』……、そのような情報が出回っているのですね。
 追手が増えている気がするのも、その噂が原因でしょうか」
「かもね。私達を普通に追ったところで捕られないって分かっただろうし、嫌がらせのつもりでしょ。
 諦めたのか、追い込むつもりかは知らないけども」

『解決屋』と呼ばれる魔都市井の魔人達も個人で二人を追跡するものがあった。
彼らには組織的繋がりが薄く、最初の「見せしめ」にすら動じない鈍感な者達は石の裏から這い出るように不定期に現れ、埋め直されている。
安全地帯を渡りながら倒萩が存分に能力を発揮して戦う限り、大きな危険はない。
『解決屋』の多くは個人か個人が多少集まった程度のもので、厄介な魔人能力同士の連携も現時点で特別警戒するほどではなかった。

「とにかく目下の課題はまず、上海からの脱出ということでいいですか?」
「関門を抜けられる抜けられない以前の話だけど、アタシにはパスポートや必要な書類が足りていない。
 正規の手段以外も普段ならばあるだろうけど、秘宝持ち出しを警戒して今は門戸が閉ざされている」
「無事帰還したとして、公式には死亡してる人間の身分を証明するのは難しいし、どうせなら戸籍が欲しいよね」
「欲しいと言っても、普通は用意できるものでは無いですよ」
「アタシが下働きをしていた時に、聞いたことがある。
 偽造戸籍を用意してくれる親切な店があるんだって」
「怪しい噂にしか聞こえませんが、今のロハさんが上海ではお尋ね者、日本では幽霊なのは事実です。
 真偽を確認してみる分には意味があるでしょう。その店の所在地は分かりますか?」

ロハがスクラップ帳の白紙ページにサインを入れると、地図が浮かび上がる。

「上海咖喱乐园」

太字で表された文字の側に、店の名前も青く浮かんでいる。

「ファミリー・魔都千号店」

「ロハさんの小指と薬指が落ち着いたら、ここを出ましょう」
「あまり柔な扱いしなくていいから。いつでも出られる」
「頼もしいですが、無理はしないでくださいね」

路線図、配管図、埋蔵遺跡図。
『堪輿万国全覧御宇基図』は人通りのない道を無限に描き出す。
屋根への階段、部屋への鍵、地下へのスロープ。
『搔撫』は封じられた通路を何度でも切り開く。

進み続ける限り行き止まりなど存在しない、その筈だった。

ーーーー

「ごめんなさい。ロハさんの言うとおり、もっと早く逃げていれば良かったのに」
「うん、まあ。今まで同様戦ったところで何とかなるとアタシだって軽く考えてたし」
「店主の爪を剥ごうなんて、私が強硬してしまったばかりに……」
「アタシも頭に来てたから、アレはいいよ」
「自分から剥ぎ取ると宣言しておいて一枚も剥げなくて、本当にごめんなさい」
「それは別に気にしてない」

ロハと倒萩は上海咖喱乐园地下、特殊監獄に繋がれている。
鉄格子は硬く閉ざされ、照明となるのは吊るされた切れかけの電球一つ。
見窄らしさが目立つものの、私的な監獄は魔幇の支配する魔都では珍しくもない設備である。
看守という常務の職掌はなく、牢に誰かが入った時にだけ手の空いた人間が監視の役目を押し付けられる。

「『搔撫』の使えない無能な私で本当にごめんなさい。
 お金が無くて不甲斐ない私で本当にごめんなさい」

尻尾を失った倒萩は鉄格子に閉じ込められて以来、気がつくと謝罪を繰り返すようになった。
最初はこの場所に行こうと言い出した自分も申し訳なく思っていたロハだが、小一時間もこれが続けば流石に壊れたものを感じ取ってしまう。

「もういいから、布団もあるみたいだしそこで寝てなよ」
「でも、私のせいでこのままだとロハさんが……」
「これはアナタのせいだけじゃないから。謝罪を聞いてる方も疲れるって言ってるの。寝てて。」

もぞもぞと薄い布に横たわり、背中を向ける少女からは嗚咽の音が時折聞こえてくる。
倒萩もパスポートや財布、スマートフォンなど持物の多くを没収されている。
ワイヤーロープの尾を失ったとはいえ、それ以外の身体能力を特別失われた訳では無い。
それでも肉体強化能力を持った魔人を想定して作った檻は堅牢で、今の二人の力で破ることはできない。

魔人になって以来、閉じ込められることなど想定もしていなかったのだろう。
倒萩が急に弱ってしまったこともロハには想像がついた。

「連れの子大丈夫? 泣いてたけど」
「ご親切にどうも。今は一旦落ち着くまで待つしかないかな。
 日本語が流暢だけど、アナタは日本人?」
「林希美。暮らしはずっと上海だけど、ルーツは日本」

希美は看守の役割を買って出た。
上海咖喱乐园職員の多くは本来の持ち場があり、臨時の看守を引き受けたがる者はほとんどいない。
数少ない希望職員は過去虜囚に乱暴を働き嬲り殺したことで注意を受けており、任務に就けることを多くが反対していた。

生きていることを楽しみに変える必要はあるが、今は何もかもを楽しむ時ではない。
希美は張三が降伏させた二人に興味を持った。
捕まった内の片方が「盗まれた秘宝に関する秘密を握っている」というデマが流されているが、犯罪者が口にする言葉は気にかけるなと、顔を出した総帥にはをきつく言いつけられている。

その噂にも興味がないと言えば嘘になるが、同年代の日本人が何を思って騒ぎを起こしたのか。
希美の興味はそこにあった。

「アタシはロハ・タッカー。漢字は路の覇王だったり、露の波だったり。後ろで寝てる子は倒萩」
「名字が日本人では珍しいね。名前も不思議だけど」
「まあ、色々あるからね」

鉄格子越しに会話する。
希美には椅子が用意されていたが、ロハが地面に座り込んでいたので目線を合わせ、それに倣うことにした。

「それで、なんで店の前で暴れてたの。魔幇が怖くない?」
「逃げられると思ってたの。あのデカい人が想定より強すぎただけで」

張三をデカい人呼ばわりするロハに、希美は少し笑ってしまった。

「何? アタシ今何かおかしい事言った?」
「ごめん。デカい人、私の相棒だったから」
「えっ、じゃあ敵? 敵と仲良くお喋りする所だった?」
「敵じゃない敵じゃない。デカい人、張三って言うんだけど元々仲裁のために割って入ったんだから。
 私達もここには観光に来ただけで、職員ではないし」

数秒考え込み、部外者に制圧された事を理解して無鉄砲に戦った事を後悔するロハ。
先制して攻撃を仕掛けたことを謝る彼女に、希美は気にしないよう伝える。

「怪我した様子もなかったし、張三は気にしてないと思う。
気になるなら改めて謝れば許してくれると思うよ。」

希美は自分も張三を一度は襲撃した事を語った。
そこに至る来歴も、今はダイヤを探している事も。
『宝の地図』の怪しい噂についても口にすると、ロハは自らの能力を悩んだ上で明かした。

「秘宝についてよく知らないから、今それがどこにあるのかを直接知る地図は作れないよ。
 だから噂されてるほど確信的な情報は無い、けど」

剥き出しの土になっている地面に人差し指で「路覇」と書き込むと、虚無から光が生じ眩い地図を作り出す。
映し出されたのは交通情報地図だった。
上海広域の渋滞や信号の状況を一目で見渡すことができる。

「これ、盗難当時の港周辺の様子」

内容が少しづつ変化していく。
時間と共に交通規制による渋滞が各地で引き起こされていく。
警察車両の位置をカーロケから反映した図も上に重ねられ、水路図、空路図もが一枚の地図上に表現される。

「漏れがあるかもしれないけど、警察が捜査してそうな場所、してない場所ぐらいは分かるよ」
「へえ、これって正直言うと『宝の地図』よりも便利だと思うけど」
「そうでしょ。だから内緒ね」

想像以上に貴重な情報を得られたことに、希美は驚きを禁じ得ない。
耳を貸すなと警告されてはいたが、囚人に調略対象と見做されてしまったのか。
警戒心を引き上げるべきか迷い始めた希美の様子にはロハも気が付いている。

「別に、ここから逃してなんて持ちかけるつもりはないからそんなに距離を取らないでよ。
 元々は仲裁してくれるつもりだったんでしょ。
 もう一度便宜を取り計らってくれないか、アナタ達にお願いしたいだけだから」
「吝かでは無い。しかし改めて聞かせてもらおう、何故衆人環視の中で戦っていたのかを」

デカい人はいつからか会話を聞いていたようだ。
希美の隣で窮屈そうに身体を曲げ、地図を覗き込んでいる。

「先程はどうもすみませんでした、張三さん。 で合ってるよね?」
「いかにも、張家の三男坊とはこの俺だ。ってのは冗談だが気にすんな。
 戦える方の小姉妹は大丈夫か。捕まえた後、やけに気が塞いでいる様子だったが」
「大丈夫では無いけど、まずは安全を確保しないことには立ち直らせるのが難しいかも」
「それは悪い事をしたかな、もう少し優しく扱ってやるべだったか。
 つまめる物を貰ってきたから、あの子にも食べさせてやってくれ」

冷めて外側が乾燥した油条(揚げパン)を人数分、張三は取り出した。
ロハは半分眠ったままの倒萩の身体を起こし、千切った食事を口に詰め込んだ。
希美も手渡されたものに口をつける。
内部にカレーが練り込まれていた。

「それでは改めて説明すると、ここには戸籍を買いに来ました」

路覇は外の二人組に向き合い、これまでの事情を説明した。

「爪剥ぎを芸術扱い……」
「倒萩は変なやつたけど、一定の信頼は置けるので」
「しかし妙じゃないか。あの子は一度に五十万元も取って活動しているんだろう。
 店主は一文無し呼ばわりだったように思うが」
「ええ、元は倒萩に代金分を借りるつもりで、了承も取っていたんだけど。
 口座が特殊なもので今の上海からは引き出せなかったの。
 他の口座に移し替える操作も利かなくて、秘宝騒動の余波ということみたい」
「それで、ダイヤ払いと口走ったのか」
「打診しただけだし、後払いすると言った訳じゃないからね。
 別にそれで怒らせた訳でもないし」
「それなら何であんな険悪になってたのさ」
「そりゃアタシが怒ったからね」

路覇の言によれば、店主は倒萩を代金の代わりにすることができる、と宣ったのだそうだ。

「それじゃ意味ないでしょ。一人丸裸で放り出されたところでアタシの安全は保障されない。それに」

店主は言った。
この店は、観光客の持つ身分を普段ならば無料で奪い取っており、欲しがっている客にそれを売っているのだと。
身寄りのない客を呼び寄せ、身分、資産、顔、内臓、家族、あらゆる物を剥ぎ取り品物にしているとまで、店主は言った。

「つまりどういうことだ。身分偽造どころか、人を殺して盗みや解体もしているのか、この施設では」
「そ。アタシは他人の都合で好き勝手死んだ事にされたの。
 そればかりか人を殺して身分を奪うのに加担しろって、馬鹿じゃない。
 あんな店潰してやりたいと思うのも分かるでしょ」

張三はロハの言い分を聞き、思う所があった。
この国では、戸籍制度が様々な自由と権利に結び付いている。
以前と比べれば緩和された部分もあるが、農民は農民以外になることはできず市民としての戸籍を持つ者のみが都市に住まう事を許される。
魔幇のルーツにも戸籍を持たない流民が多かった。
今だって他人の戸籍を求める者は少なくないのだろう。

ロハの過去を知らず、例え知っていたとしても日本人という自然と生まれたままに享受できる戸籍を持っていた者が商売に口を出したならば、店主が激怒することは想像に難くない。
ロハ自身は例の店を帰りのパスポートを申請する一手段程度のものと認識し、最終的に金を出せば解決できると考えた、それもまた火に油を注いだのだろう。

しかし、そういった事情を勘案したうえでもその商売は不健全極まりない。
あくまでもロハの言葉に信を置くならば、という前提ありきだが、嘘をついている気配は無かった。
かつての魔幇にはここまで人を食い物にする商売は無かった。
観光局もまた、粛正の対象と考えた方がいい。

「タッカー女士、話をしてくれてありがとう。
 俺はおまえさん達に協力しよう」
「えっ、ありがとう」

鉄格子が折れるように曲がり、人一人が出るのに十分な隙間が広がった。

「ありがと……えっ!?」
「便宜を取り計らって欲しいと言ったのは自分だろう。
 俺もついて行って直談判だ。さあ、急げ。
 奇貨可居!」

張三は希美を見る。
彼女も彼の行いを止める様子はない。

「林同志、おまえさんは芸術家先生が立ち直ったら、連れ立って騒ぎを起こしてくれ。
 俺とタッカー女士の道中を塞ぐ邪魔が減るようにな」
「それならばこの施設の地図を作っておく。互いの位置も見られるから」

ロハは持ち込みを許されていたペンで倒萩、自身、張三、希美それぞれの頭文字を本人の身体に記入する。
その上で各々の油条を包んでいた紙に能力を発動。

上海咖喱乐园全域を表す地図上に、「張」「林」「タ」「倒」の字が色つきで示される。

巨人と女は廊下に飛び出し地上へと繋がる階段を駆け抜けた。
希美は壁にもたれて座る倒萩を見、曲がった鉄格子から身を乗り入れる。
少女はうつらうつらと眠りこけながら、油の染みた包装紙を握っている。
少女の肩を揺らし、担ぎ起こす。

「えっと、あの。何でしょう。もしかして、連れて行かれるところでしたか。ついに私、殺されるんですか……」

ぐったりと体重を乗せながら怯える倒萩を自分の足で立たせ、希美は服の裾を引っ張る。

「早く起きて、行くよ」
「え、ロ、ロハさんは。ロハさん、姿がないけどもしかして既に連れて行かれて、あっ、ああ。
 どうましょう。ごめんなさいでは済まないですね」
「あの人は無事だから、ほら。尻尾」
「ウワーッ、治ってる!! あなた良い人ですね!」
「良かったね、それじゃあ急ごうか。指示をもらってるから」

倒萩の身体には力が戻り、ようやく自分の力で歩き出した。
地上出口に出ると、早速その出入り口を『搔撫』で崩す。
轟音が響き渡る。

「今は深夜で屋台は閉店、外門も閉鎖されている。
 通常の観光客は出歩いてない。
 俺の勝手な希望ではあるが、襲いかかってくる職員がいたとしても殺す事は避けてくれ。
 ここにいる全員が狂った商売で富を享受しているのかもしれない。
 それでも、自分の行くべき道が分からない奴らもいるんだ」

張三から聞いた指示を希美が伝えると、倒萩は笑い飛ばした。
曰く、殺しになど絶対に手を染めないと。
生きるためであっても殺しに手を染めてきた希美はその言動が少し気に障る。
特に、馬鹿みたいに高額で依頼を受けている道楽者にそんな事を言われたならば。

「爪を剥ぐ方が酷いんじゃない?」
「考え方次第ではそうなるかもしれませんね。
 殺さないというのは私なりのポリシーに過ぎませんし、今回は特に依頼された訳でも無いので爪だって剥ぎませんよ」
「ああそう。優しいんだね」

轟音に反応した職員が倒萩の姿に気が付き、中枢へと通報している。
わらわらと、屋台という屋台から人の姿が現れた。

希美は油条を食べたばかりの胃袋を思う。
毎日の栄養バランスが取れた食事、空腹に悩まされることがなく途中で覚めることのない睡眠、張三から直接に授かっている修行。

軽食の一つや二つで力が失われるような、かつての殺手としての自分はもういない。
無力化した相手に止めを刺す必要もない。
相手が誰であろうと、倒せる。
今までにない自信が湧き出した。


ーーーー
ーーーー


徐為(シュー・ウェイ)は生まれついて自分だけの秤を持っていた。
見ただけで僅かな銀の重さの違いがわかる。
米の良し悪しも、出来も不出来も、真も疑も。
不思議がる周囲の人間のことが、彼には逆に分からなかった。

彼は幼少の頃から神童とされ、他人によく判断を任された。
家業はこの方法で上手くいくのか、自分とあの娘が結ばれる事はあるのか、絶対に負けない強い蟋蟀の育成法はないか。
あらゆる相談に乗り、まずまずの結果を残した。

彼には親兄弟がおらず、成人するまで特定の誰かに育てられた訳ではない。
孝も忠も知らない彼に初めて道を教えたのは、魔幇の首領だ。

好物の油条を購入するために街に出た彼は、支払いの際に金銭を溜め込んでいる様子を暴漢に盗み見られた。
路地裏に引き摺り込まれて殴り、蹴られる彼を助けたのは李長庚という男だった。
栄養状態の悪い近辺ではあまり見られない長躯の彼は、背の低い暴漢をこともなげに打ち倒した。

「酷い事をする奴もいたもんだ。痣が酷いな、平気か」

徐為は助け起こされ、新しい油条を長庚に奢ってもらうという幸運に恵まれた。
長庚に連れられて歩きながら、徐為は話を聞かされた。
今この街、上海に新たな『魔幇』と呼ばれる組織が誕生し、成長しているのだという物語を長庚は語った。

子供だった長庚は家族に捨てられ、上海の隅で一人暮らす他なかった。
棄児に限られた問題ではない。
この頃、流民や農民など様々な苦境に立たされた者達は貧困に喘いで上海に集い、糊口を凌いでいたという。
任される仕事は間口が少ない。

まずは海の外から訪れる租界の住民の下働き。
しかし割りのいい仕事は国内でも有数の教養ある人々がすぐに就いてしまうし、まともな家も持たない者達にお呼ばれのチャンスはなかった。

当時勃興した建築や機械、製造など様々な産業への従事。
労働時間も守られず、設備も新しいものから古いものまでバラバラで、危険手当もない。
足下を見られて安く雇われているにも関わらず、時には平気で給料の未払いが発生する。
文句を言えば馘首。
それでも職を狙う者は多く、密告すら行われる。

暴力、略奪、酒、薬、女などを売り捌く仕事。
これが実のところ一番割が良いと評判だった。
力さえあれば一日を疲労困憊で過ごす事なく、収入は安定し、時には租界と繋がったコミュニティに所属できる。

結果として上海の治安は荒れに荒れた。
国家当局や共同租界工部局も目をつけ、警察(巡補)を派遣した。
しかし彼らに暴力や薬の売人とそれ以外を区別する術などない。
通報があれば疑わしい流民や孤児を無差別に逮捕、時には撲殺、銃殺するというのがいつやら日常となっていた。

ある日、流民が富裕者の大事にしていた首飾りを盗んだと訴えられた。
他の労働者や流民の中にはカラスの仕業であると目撃証言を挙げる者もいたが、その声は届かず普段のように流民は警察に引き渡された。
流民はその日の夕刻に帰ってきた。
怪我だらけで死にかけの状態だった。

それでも、皆警察や訴えた富裕層の人々が恐ろしい。
反逆の可能性など、誰の頭にも浮かぶはずはなかった。
そのような中で、一人声を上げる者がいた。
その者は礫を一つ高く掲げ、手のひらに包んで砕き壊した。
紛れもなく、魔人の業である。

「私は魔人だ」

その者は続けた。

「だが闘ったならば一人では死ぬだろう。他に、いるか」

やがて一人、見守っていた中の男が手を上げた。

「俺も、魔人だ」

彼は目から光線を放ち、雲を一つ消滅させた。
頷き、発案者はさらに周囲を見回す

「彼も魔人だ。だが我々二人では、やはり死ぬだろう」

ぽつりぽつりと手を上げる者が現れ始めた。
影が伸び、蟲が湧き、触手が蠢く。

長庚も、手近にあった鍋の勺子(おたま)を手に取り、剣のように翳した。

「俺だって魔人だ!」

気が付けば多くの者が自分の力を示していた。
長庚は最後の一人だった。

「我々は魔人だ。これだけいるならば、簡単には死なない!
 いいか、これから我々は『魔幇』を名乗る!」

魔人は危険で粛正対象。
つるんだと分かれば非魔人でも殺されることがある。
誰も庇い立てはしてくれない、孤独な存在。
かつて、そのような常識があり、それはこの時壊された。

「各々の力を存分に使えるよう、それが生き方に繋がるよう。
 私はそのような未来を諸君に約束しよう、ついて来てくれるだろうか!」

歓声が上がった。
彼らはまず、義のために立ち上がりその日流民に対して行われた暴虐が妥当な内容であったかどうか、警察を問い詰めた。
暴動として扱われ、銃や戦車による攻撃もあったが魔幇は負けなかった。

上海の組織が権力の支配に勝利したという噂は遠くまで流れ、より多くの魔人が集まるようになった。
より強い力が集い、怪力や異能が産業や興行に用いられることで、上海は急速に発展した。
『解決屋』とは本来、この時期に魔人能力で様々な問題を解決する者達のことをそう呼んだのだ。

長庚が語り聞かせる話を耳に入れながら、徐為はそれまでに見たこともない大きく堅固な建物へとたどり着く。

「おまえをボスに紹介しよう」

なんのことはない。
徐為が金を持っていることには長庚も気が付いていた。
身なりに不釣り合いな金額、犯罪とは無縁そうな出立ち、彼はピンと来たのだという。
徐為が魔人なのだろうと。

徐為自身にはその自覚が無かった。
しかし首領もまた、彼のことを魔人として認めた。

「君も、我々の一員になる気はないか」

徐為はしかし首を横に振る。
彼には魔人、非魔人以前の問題として人間のことが全く分からないのだと答えた。
だから、魔人の集いにあえて所属する意味も分からない、と。
魔幇は魔人能力を社会のために仲間のために使うことを奨励している。
しかし能力の使用をそもそも自覚していなかった徐為にとって特定のコミュニティに所属することの利不利を判断することは、難しい。

「魔幇にとっても面白い課題じゃないか。君は自分が何者か分からない、つまり道を求める人だと言うのだね」

首領は組織の一員になることを拒んだ徐為のことを気に入った。
そこで組織の一員とはならずとも関わりを持つことのできる特別な役職として、特別顧問という立場を設立する。

「生まれて間もない我ら魔幇もまた、道を求める者。
 共に識り、共に歩もう。徐為同志」

徐為がまた不埒な犯罪被害に遭わぬよう、長庚が彼を護衛した。
徐為は市外へぶらりと出かけては、見たこともない珍品を持ち帰り市場で売り捌いた。
特別顧問とその護衛何度も酒を酌み交わし、共に食事をした。
徐為は長庚のことを嫌いではなかった。
しかし古株でありながら実の所特別な役職を持たず、多くの場合護衛とは名ばかりでブラブラと暇そうにしている彼のことを人としては少し見下してもいた。

「最近上海もキナ臭くなってきやがったな。国外との戦争とか何とか、事情は分からねえけどよ」
「複雑なことを無理に理解する必要はない。しかし、危険であることに変わりないのは事実だ」

戦火を予感した徐為は海外への留学を希望した。
長庚も初めはついて行こうとしていたが、言葉の通じない海外で彼にできることは少ない。
護衛は現地で雇うことにするということで、話が決まる。

船に乗って周遊し、故国が戦火に包まれる中でも広い世界を頭に詰め込み続けた徐為は、やがて人間に関してぼんやりと理解できるようになったことを自覚する。
しかし帰ってきた上海には以前の首領が居らず、長庚も居らず、特別顧問という席だけが残されていた。


ーーーー
ーーーー


「小姐勘弁な!」
请原谅我(チンヤンリャンウォー)!」

中華包丁、タンドール、凍った肉を抱えた職員達が殺気立って駆け込んできた。
一人は泥濘に足を滑らせ、一人は希美のハイキックで背中から倒れ込み、一人は即興のツープラトンでダウンする。
一人一人が強力な魔人でなおかつ数は多いが、手応えはない。
見れば、武器を振る際に目を瞑ったり脚が震えたりしているではないか。
『搔撫』で身動きが取れないように一人一人固めつつ、倒萩は疑問を口にする。

「なんか、嫌々やらされてるって感じですね」
「さっき、固めた奴が言ってたことを少し聞いた。
 戦いながらだったし正確に聞き取れたかは分からないけど」

彼ら職員は上から割り振られたタスクを熟さなければ、ペナルティが下される。
ペナルティは借金であったり、直接的な罰であったりする。
特に辛いのは売れ残った激辛カレーを最低でも一kgは胃袋に流し込まれる強制摂食なのだと言う。

「うわあ、なんかイジメみたいで嫌ですね」
「フードロス削減と、勤務態度改善のためという名目らしいけど、最悪だよね」

次々と沈めた職員を固めていくが、皆しずしずと涙を流している。
彼らの家族もまた、強制摂食の対象になるかもしれないのだ。

「私はさ。少し前まで人を殺さないと食事を抜かれて、殺しても少ししか食べさせてもらえない生活してたんだ」

希美は敵襲のペースが穏やかになったタイミングで、倒萩に打ち明けた。
その眼差しには嫉妬や、一種の恥のようなものが混ざり込んでいる。

「そうでした。先ほどは、無神経なことを口走ってしまいました。気に障ってしまったようで申し訳ないです」
「謝るよりも、なんで爪剥ぎなんかしてるか教えてよ。
 それも大金ふっかけるとか、どうして」

希美の感覚は鋭敏で、目に見えていない敵は耳が捉え、耳が捉えない敵は皮膚が捉える。
透明化してゆっくりと近づいてきた敵の喉を二指が捉えた。

「えーと、まず言っておきますが高額設定はビジネスのためではありません。あまり軽々しく力を使いたくないという、私なりの自制です」
「そもそも、殺しの方が単価だって安そうなのにやっていけるの?」
「依頼してくるのは大抵、私によく似た偽善者ですから」

倒萩は希美を見ない。
空から飛び降りてくる職員を躱して沼に落とす。

「大金と、爪一枚。殺すことなく最悪の目に遭わせる。
 小心者の小金持ちは私に躊躇うことなく依頼を出し、対価を支払った後には被害者面をして私を詰る。
 あるいは対価以上のものを私に求めてこき使おうとする、大抵はそういう流れになります」
「楽しくなさそうな商売」
「でしょう。だからこれは、芸術行為である以前に一種の自傷行為なんですよ」
「そんなあっけらかんと言うもの?」
「ロハさんや希美さんのような強い方と一緒にいると惨めになって、多少は自分を美化してないとやってられないんですよ」

異様に長い鎖を振り回す職員が現れる。
倒萩が希美の腕表面を固め、彼女の後ろに回り込む。
放たれた鎖が希美の纏う石の鎧に弾かれ、生まれた隙を突いて希美は手元の石を投げつける。

「そっか。そんな真似して芸術家気取るのはやっぱり好きになれないけど、人間性は飲み込めるようになったかな」
「あの、念の為に言っておきますが芸術については全く解説していませんからね、私の創作論は更に深淵ですよ」
「それは聞かなくていいかもね」
「もう少し興味を持って欲しかったですね!」

屋台が崩れ落ち、地肌を拡大撮影した時の毛穴のように人が地面に埋まっている。
上海咖喱乐园で最も賑わう市場や街の景観は失われ、奇妙なオブジェの立ち並ぶ広場に変わってしまった。

たった二人、『餓鬼』と『芸術家』の手によって。

「私の楽園を壊したのは、てめえらかあ〜〜〜〜!!」

狼の遠吠えのように、人間離れした大きな声が鳴り響く。

「「「ナ、那摩温(ナモワン)……!!」」」

職員達が緊張する気配が二人にも伝わってくる。
今までの刺客とは全く雰囲気が異なる、何かが来る。

「情けない部下達だねえ〜〜〜〜っ!! もっとたっぷり食事を摂らないと、強くなれねえってそう訴えてるのかい!!? あアン???」

油条はすでに消化、吸収され希美の腹はちょっとした空腹を訴え始めている。『餓鬼』は目覚め、獲物を探しているがしかし、それがどこにいるのか捉えることができない。
声を出している人物は遠く、大きすぎ、速い。

「てめえもてめえだよ『餓鬼』ぃぃい〜〜〜!!
 汚い野良犬が、魔幇に飼われた恩も忘れて浮浪者に懐いてやがるのかい!!
 犬は死ぬまで千切り取れるまで、尻尾を振り続けて媚びて媚びて媚びなくちゃあいけないんだよぉおおお!!!!」

瞬間、地平の果てに現れた影が希美の正面に接近する。
ミサイルのように速い。
残った石の鎧で攻撃を弾き受け流すと、影は瞬時に背後、反対側の地平へと消える。

「かわいいかわいい私のワンちゃん子豚ちゃん達を埋め腐った余所者のてめえも気に入らねえ〜〜〜〜!!!」

倒萩には希美のような感知能力はない。
轢き飛ばされ、希美と離れた瓦礫の陰に吹き飛ばされる。

「あああああ〜〜〜!!いねえ〜〜!!どこ行ったカスがああああ!!!!」

希美の足元で溶けた地面が飛沫をあげ、息絶え絶えの倒萩が打ち上げられる。

「何か、不味いですね。強すぎますね、敵」
「でも、凌ぐしかない」

瓦礫の陰から、大声の主が現れる。
その正体は女!魔幇幹部、カリー・魔幣!
胸はないが、色気はムンムン!
殺意にギラついた目が二人を捉える。

「二人合わせてもセクシーさで負けてますね」
「不自然なほどセクシーだ」

絶体絶命の希美と倒萩である。

ーーーー

一方、張三とロハは地図の導きに従い、人通りのない裏路地と屋根上などを使い分け、直線距離で総帥の居住地へと向かっていた。
『鉄杵』を全開にして移動する張三に、ロハはなんとかしがみついている。
張三が手を伸ばせばそこに棍が現れた、棍は伸縮するフックロープや跳ねるバネ、転がる車輪となって移動を助ける。

「張三さんの能力は、無から鉄を生み出してるの? だとしたらだいぶ便利なんでしょうね」
「いや、倒萩の嬢ちゃんの尻尾にやったのと同じで、俺の能力は形を変えるだけのものだ。
 合間合間に棒の形状を挟まないといけない制約もあるが、一度変化させたものは好きな時に元の形に戻せる。
 だから鉄粉にして一部を持ち歩いていれば全体を復元することも可能なのさ」
「便利というより、コンパクトなのね」
「ああ、言い表すならそんな感じだな」

希美と倒萩は上手くやっているらしい。
一度も会敵することなく、目的地には辿り着けそうだ。

「なあ、倒萩の嬢ちゃんは色々と大丈夫なのかな。
 爪剥ぎを商売にしてるっていうのもあの歳で心配だし、さっきもかなり落ち込んでたし……」
「そんな心配してる場合? まずは任務の達成のことを考えて欲しいんだけど。
 でもまあ、大丈夫だと思う」
「何か根拠でもあるのか?」
「いや、無い。アイツ私が依頼するごとに対価とか言って痛いやり方で爪を剥がしてくるから、そもそも人間として好きではない。
 置いていけるなら上海に置いていきたい」
「仕方ねえことだけど聞いていて少し可哀想だな!」
「とはいえ変な所で善良で、やけに献身的で挺身的な奴ではあるし、信頼は置いてる。
 帰ろうと思えば、私と違って国に帰れる。
 だから、アイツは多分大丈夫」

側で聞いても分からないほど、二人は特殊な関係であるらしい。
張三は理解を諦め、到着した総帥居住地のドアを押し破る。
警報と赤いランプの中、悠々と総帥は姿を現した。

「どうした、李長庚。こんな夜遅くに俺に何か用か」
「徐為、お前の性根を叩き直しに来た」

二人は魔幇首領の元で字を習い、道を修め、拳法を学んだ。
神代から伝わる奥義『返老還童』というものも彼らが学んだことの一つだ。
その技は武術というよりも健康法に近く、使用者に変若と長寿を約束する。
規則正しい生活と特殊な修行、薬効によってのみ至ることができる道の境地だった。

二人はこれを活用し、長く生きた。
一人は様々な人と生きることを選び、一人は商の道を邁進することを選んだ。

日々の酒が術の効用を乱してはいるが長庚、否。
張三は尚魔人、武人としては最強に近い。
魔人としての身体能力補正は小さいが、生真面目に積み続けた功は徐為、否。総帥、否。爬・巳・狸・魔都、魔都を呑み、這い、化かすこの人物を一介の文武両有の人物に変えた。

二人の間に漲る殺気が激突する。
遠く見守るロハの視界で、二人は激突した。
張三は棍を短く縮め、丸め、捏ねるようにして相手に予測不可能な攻撃を仕掛ける。

対する魔都。手元に包丁、鍋、熱々のカレーが召喚され、攻撃を受け流す。
一瞬の隙をつき、魔都は張三から飛び離れた。

追う張三、しかしその身体に激烈な痛みと熱が走る。

「電気、だと?」
「この屋敷は近々改築予定でね。団体旅行やイベントにも対応できる巨大施設を建築予定なんだ。
 俺の魔人能力は本来物の価値を測り、交換する程度の力しかないが最近は一つ、新しい効果を発見したんだ。」

虚空から炎が噴き上げ、張三の身体を襲う。

「それは価値のコンバート。私が安値で買い取った物に、余剰価値が生まれればその分の価値を他の在庫商品の価値に変換できる。
 この貧民街もそうやってカレーランドに変わったわけだ。
 住民も立派なシェフとなり、殺手となり、シェフ長は色気ムンムンのセクシーベイビーへと進化した!!」

虚空の刃物が張三を襲う!

「この屋敷も、即座に価値をコンバートし、改築予定を部分的に前倒しすればお前を追い詰めることが可能なんだ。
電気回路、焼却炉、全身整形用手術台! この全てがお前を追い詰める!」

絶体絶命の張三、しかし彼の目には何故か次に魔都が打つ手が見えていた。
無意識に身体が動き、投げた鉄片が襲いかかる鉄の柱となり、魔都を背後から襲った。

「張三さん! 求積図や改築予定図を地図として可視化したよ!」

ロハの掛け声で張三も朦朧とした意識を取り戻す。

「助けられちまったみてえだな」


ーーーー
ーーーー

「全従業員分の金曜日のシフトを買い取って月から木、土日の労働予定をコンバートした私がこんな奴らにぃいいいいいい!!!!」

魔都が張三に倒され力を失った結果、セクシーを失ったカリー・魔幣もまた希美と倒萩に捕まっていた。

「ねえ、芸術家さんに私も依頼していい?」

希美が今までになく優しく、倒萩を見つめた。

「仰ってみてください」
「こいつがまた、従業員をこき使ったら、すべての爪を剥がして欲しいんだ」
「大役ですね、かしこまりました」

張三、ロハも合流する。
魔都が張三に抱えられている。

「こいつがまた外道に落ちた時、俺も依頼しよう」

貧民街で、皆が微笑む。

「頑張ってね、芸術家さん」

ロハが、倒萩に駆け寄った。
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