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ダンゲロスSS上海
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ダンゲロスSS上海

【掌の月】(下)

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幕間:【餡餅】


 焼けた小麦の匂いが、湿った路地の奥まで伸びていた。
 鉄板の上で油がはぜる音がして、薄い湯気が屋台の骨組みのあいだから漏れている。

 少女が屋台の柱の陰で、膝を抱えるようにしゃがんでいた。
 指先がうまく曲がらない。

 ポケットから、がま口の小さな財布を出そうとして、落とした。
 金具が石に当たって、乾いた音がした。

 拾い上げるのに時間がかかる。手がかじかんで、つまめない。
 口を開けると、小銭が転げた。指先で追う。

 薄い銀色の硬貨が、いくつか。
 どう数えても、餡餅一枚にも足りない。

 通りを横切る足音が、何度か近づいて、遠ざかった。
 見ない。見ても、通りすぎる。

 少女は財布を閉じて、そのまま膝の上で両手で包んだ。

「……おい」

 すぐ近くで声がした。

 視界の端に、男の靴。
 少女は目だけ動かす。

 長い髪の男が、屋台の柱にもたれていた。痩せている。顔色が白い。
 肩のあたりで束ねた髪が、一房だけ、勝手に揺れたように見えた。

「さっき受け取るときに落とした。袋のままだったから、泥はついてないはずだ」

 男は小さな紙袋を差し出した。
 胡椒と葱の匂い。餡餅。

 少女はすぐに手を伸ばさなかった。
 紙袋を見たまま、唇をいちど結ぶ。
 それから、ゆっくりと指を伸ばした。

「……それ、いただいてもいいですか」

 男の口元が、かすかに緩んだ。

「どうせ、捨てるもんだ」

「ありがとうございます。お金は、あとでちゃんと払います」

 少女はそう言って、紙袋を受け取った。
 紙が、指先にしっとり貼りついた。

 餡餅の端を割って、口に運ぶ。歯が触れる前に、少しだけ息を吐いた。
 焼けた皮が指に油を残す。

「親はどうした」

「……海の向こう」

「仕事は」

「ないです」

 男は頷いただけで、屋台の裏に視線を投げた。

「餡餅一枚分くらい、皿洗いはできそうか」

「……?」

「タダで食って終わりか、うちの店で少しは働くか。どっちだって聞いてる」

 少女はもう一度、餡餅を噛んだ。
 胡椒と脂が舌に残る。

「……働かせてください」

 言い終わる前から、もう立ち上がろうとしていた。
 膝が少し震えて、屋台の柱に手をつく。

 男は屋台の布をめくって、声を張った。

「オヤジ。そういや、人が足りないって言ってたよな?」

 鉄板の音が止まって、店主が顔を出した。
 年配の男で、眉が濃い。

「あ? 急になんだ」

「ガキが凍えてた」

 店主は、少女の顔と、震えている指先を順に目でなぞる。

「こりゃあ、また……」

 短く息を吐いてから、小さく頷いた。

 少女の方をじっと見る。

小姑娘(嬢ちゃん)、名前は?」

 少女は少し迷ってから言った。

「……華、です」

「華。今日から。飯は食わせる。仕事は見て覚えろ。いいな?」

「……はい。さっきの餡餅代も、働いて返します」

 店主は、長髪の男の方を見る。
 男が肩をすくめるのを見て、店主はふっと息をついて笑った。

「真面目だな。それでいい。まずは手を洗え」

 華は水桶のほうへ歩いた。足取りは遅いが、迷いはない。

 長髪の男――灰蛇絡は、屋台の柱に背中をつけたまま、それを見送った。


 *


 その夜、提灯に火が入った。

 赤い灯りが、濡れた石畳の上に細い筋を引く。
 スープ鍋から上がる湯気と、油を焼く匂いが、通路のほうまで押し出されてくる。

 華は、洗い場の桶の水を替えていた。
 昼から使い続けた器と皿が、膝のあたりまで積まれている。
 縁にこびりついたソースと米粒を指でこそげて、湯で脂を落とし、伏せて並べる。

「華、その器は高く積みすぎんなよ」

 屋台の奥から、店主の声が飛んだ。

「はい」

 華は言われた通り、いくつか崩して低く積み直した。

 屋台の奥には、ガスコンロが三つ並んでいる。
 一つにはスープ鍋。もう一つでは、中華鍋で麺を炒めている。
 残った一口で、店主が卵と飯を一緒に煽るたび、油と醤油の匂いが強くなる。

湯麺(タンメン)一つ、炒飯(チャーハン)大盛り!」

「はいよー!」

 店主が中華鍋を振りながら、手前の器にスープを張る。
 鉄のおたまと鍋がぶつかる音が、提灯の下に響いた。
 湯気の向こうで、客の笑い声と、杯が軽くぶつかる音がする。

 出来上がった器をカウンターに載せると、灰蛇絡がすぐに前掛けで縁を拭き、客席のほうへ運ぶ。
 戻る途中で空いた皿を二、三枚回収して、洗い場のそばの棚に重ねて置く。

「炒飯一つ追加!」

 店主の声に合わせて、灰蛇絡が冷蔵箱から刻んだ葱と焼き豚の入ったボウルを取り出し、
 コンロ脇の台にそっと置いた。

 客が近づくたびに、結んだ髪が肩のあたりで揺れた。
 灰蛇絡は指でぐっと押さえる。

 押さえた拍子に、輪ゴムがぷつんと切れた。

 小さく舌打ちして、切れた輪ゴムをつまみ上げる。

 華は桶から手を上げ、ポケットを探った。
 輪ゴムがいくつか入っている。

 そのうちの一本を、灰蛇絡の手元の板の上に置いた。

「これ、よかったら」

 声は小さい。

 灰蛇絡が目だけ動かして、それを見る。

「……悪い。助かる」

 輪ゴムを拾い上げて、髪を束ね直す。
 結び直した髪を一度だけ指先で確かめ、それきり客の方へ顔を向けた。

「気が利く子じゃねえか」

 店主がぽつりと言う。
 天幕の隙間から抜けていく湯気を一度見上げてから、また鍋の火に向き直る。

 灰蛇絡は、洗い場の方を振り返った。
 華は桶に向き直り、さっきまでと同じように皿をこすっていた。


 *


 客がひと波引いた。閉店前のひとときだった。

 コンロの火を一段弱めて、店主が中華鍋の底を木べらでなでる。
 焦げかけた米粒が、鍋肌からはがれる音がした。

「華、そのへんで一回止めとけ」

「はい」

 華は洗い場の水を抜き、器と皿を棚に移した。

「よし。まかないにしようかね」

 店主がスープ鍋の蓋を少しずらす。
 白い湯気が、天幕の隙間から外へ抜けていった。

「嬢ちゃん、こっち来な」

 店主が器をカウンターに並べる。

「いいんですか」

「働いてもらったぶんだよ」

「……ありがとうございます」

 華は前掛けを外して、屋台の端に腰を下ろした。
 湯気の立つ器を両手で支え、慎重に口をつける。

「熱いからな、気ぃつけろよ」

「はい」

 細い麺を一本だけすくって、息をかけてから食べる。
 舌に塩気と油の味が染みた。

 通路の向こうで、誰かが話していた。

「红虎がさ」

「またやったらしいな」

「どっかの悪徳宗教、ひとりで潰したってよ」

 笑い混じりの声が、通りすぎていく。

 店主がスープ鍋の蓋を押さえた手が、一瞬止まった。
 灰蛇絡も、布を握った手を止めていた。

 華は器のふちを見つめた。
 湯気が、ゆっくりと顔にかかる。

「红虎さんって、最近、よく名前を聞きます」

 華は器のふちから目を上げないまま言った。
 声は小さい。

「ここに来る前にも、聞きました」

 店主が、ちらりと灰蛇絡の方を見る。

「この街で红虎を知らねえ奴は、そうそういねえからな」

 店主はそう言いながら、鍋の縁を布でさっと拭った。

 灰蛇絡は、天幕の隙間から覗く夜空を、しばらく黙って見ている。
 いちど息を吐いた。

「……あいつがいなきゃ、今ここにいねえよ」

 灰蛇絡がぽつりと漏らした。

「少しでも正しく生きろってな」

 言ってから、灰蛇絡は口の端だけで小さく笑った。

 華は、器の中の炒飯を少しだけレンゲですくった。
 冷めかけた米粒が、ひと固まりで持ち上がる。

 灰蛇絡はカウンターの端に肘をついた。

「前に、この店を襲ったことがある」

 灰蛇絡は自分の指先を見下ろしたまま言った。

「ここだけじゃねえ。仲間と一緒に、金目当てに店や人を襲った」

「おい」

 店主が遮った。
 声は少しだけ強い。

 灰蛇絡は拳をぎゅっと握る。

「……そんな俺を、红虎はぶん殴ってくれた」

 灰蛇絡は視線を上げないまま続けた。

「俺は……」

 そこで一度、唇を結ぶ。
 少し遅れて、息をついてから言った。

「……元マフィアなんだ」

 店主は大きく息を吐く。

「昔話はそのへんでいい。こいつは、もうそいつらとは縁を切ったんだ」

 灰蛇絡は口を閉じる。
 店主が、わざとらしく華の方を向いた。

「華。うちはな、飯屋だ」

「……はい」

「腹減ってる奴に、出す。それだけだ」

 店主はカウンターの上を布で一拭きした。

「今日はここまでだ。片付けたら上がっていい」

「わかりました」

 華は器の底のスープを飲み干し、拭き終えた皿を棚に入れた。
 灰蛇絡は、天幕の端を結び直す。

 天幕の外には、まだ祭りの灯りが残っていた。
 賑やかな音が、少し遠くから聞こえる。


 *


 華がこの店で器を洗うようになって、何日か経った晩。
 油の染みた石畳を、硬い靴の踵が三つ、同じ調子で叩いていく。

 華は器を拭きながら、その音が店の前の角を曲がってくるのを耳で追った。

 店の中では、店主が炒飯を中華鍋から器に移したところだった。
 灰蛇絡はカウンターの内側で、使い終わった皿を積み替えている。

「はいよ、一丁っと」

 店主が常連客に器を差し出す。
 客も笑って、杯の残りを飲み干した。

 その笑い声に紛れて、天幕の布が乱暴にめくられた。

 革靴の音が、油のしみた床板を踏んだ。

 華が振り向く前に、店の空気が変わった。

 黒いコートに革靴の男が三人、店の中にどかどかと上がり込んでくる。
 油と酒の匂いに、冷たい外気がひと口ぶん混ざった。

「よお、蛇」

 いちばん前の男が、灰蛇絡の胸元を顎でしゃくった。

 灰蛇絡は、空いた器を拭いていた手を止めた。
 結んだ髪が、肩のあたりでわずかに揺れる。

「真面目にやってるみてえじゃねえか」

 灰蛇絡は、手に持っていた器をそっと棚に戻した。

「……飯か? 座るなら、そこに」

 空いた席を指さす。

「冗談きついな。俺たちが、客に見えるってか?」

 乾いた笑いが、店の中の空気をざらつかせた。

 男はゆっくりと店の中を見回す。
 店主と、華と、客たちの顔を一通りなぞる。

 店主が一歩前に出る。

「うちは飯屋だ。用がねえなら帰りな」

 男は店主を一瞥すると鼻で笑い、すぐに灰蛇絡へ視線を戻した。

「よぉ、覚えてるか」

 男は自分のこめかみを指さす。

「このツラに残った焼き印。
 红虎の野郎からの俺への贈り物だよ」

 そこには、くっきりとした火傷の跡が残っていた。

 灰蛇絡の肩が、わずかに強張った。

「……俺には関係ない」

「おいおい、寂しいこと言ってくれるじゃねえか兄弟。
 あいつに恨み持ってる奴らが、ちょうど集まってんだよ。
 蛇、お前も、手伝え」

「……お前たちとは縁を切――」

 パァン、と乾いた音が言葉を遮った。
 男が手のひらでカウンターを叩いていた。

「なに舐めたこと言ってんだ」

 男は灰蛇絡を睨みつける。

「红虎の野郎に殴られて改心しただぁ?
 これからカチコミって時に、そんなのが身内にいたら、士気が下がるだろうが」

 男の視線が、灰蛇絡の腕と、その先の指先に落ちる。

「それにな。お前くらいの魔人が、こんなチンケな店で下働き? もったいねえにもほどがある」

 華は、自分の手の中の器を見た。
 染みのついた縁に、スープの跡が細く残っている。

「戻る気はねえ。あんたらとも、もう関係ねえ」

 灰蛇絡の声は、抑えたように低かった。

「そうかよ」

 客が数人、立ち上がりかけていた。
 椅子の脚が軋む。

「座ってろ」

 別の男が、懐から覗いた銃口を客の方へ向けた。

 灰蛇絡は、後ろで束ねていた髪をほどいた。
 黒い髪が、肩からするりと落ちていく。
 床に届く前に、そのいくつかが細い蛇になり、石畳を這い出した。

 華の足元を、蛇が通り抜けていく。

「おお、ここでやりあおうってのかい」

 先頭の男が肩をすくめ、懐に手を入れる。
 コートの裾から、銃口がちらりとのぞいた。

 蛇たちは油で光る石畳の上を、音もなく男たちの足元へと進んでいく。

「やめろ、客がいる」

 店主の声が、中華鍋を打つ音よりも鋭く響いた。
 男と灰蛇絡のあいだに、店主が割って入る。

「ここは飯屋だ。喧嘩はよそでやれ」

 蛇がぴたりと止まった。
 灰蛇絡の指先だけが、ぎりぎりと震える。

「チッ……」

 男のひとりが舌打ちし、店主の襟を乱暴につかんだ。

「じゃあ、お前も来い。抵抗すんなよ。わかるな?」

 店主の額に、銃口が押し当てられる。

「華。客を頼む」

 店主が、視線だけこちらに寄こした。

 喉の奥が固くなる。それでも華は頷いた。

「客は帰してくれ。それが条件だ」

 先頭の男が顎をくいっと動かす。
 男たちは客に向けていた銃口を下げた。

「急がなくていい。走るな。皿はそのままで」

 店主が、銃を突きつけられたまま言う。

「こっちです」

 華は客を裏手へと促した。
 客はゆっくり立ち上がり、華の方へ歩いてくる。

 細い通路の入口まで進むあいだに、背中のほうで椅子の倒れる音がした。
 「歩け」という低い声が、油の匂いに混じって届く。

 華は客と一緒に通路を抜け、外へ出た。
 客たちは何度も振り返りながら、灯りのあるほうへ消えていく。

 列の最後の背中が角を曲がるのとほとんど同時に、「行くぞ」という声が店のほうから飛んだ。
 何かを引きずる音が、石畳を長くこすっていく。

 華は裏手の壁に背をつけ、その音が遠ざかるのを聞いていた。
 足音と低い声がふっと途切れたところで、裏からそっと店を覗いた。

 椅子が倒れ、カウンターの端で竹の筷筒(はしづつ)が横倒しになっていた。
 筷子(はし)が床に散らばり、白いレンゲも一つ、ひっくり返っている。

 華は一歩、踏み込んだ。

 店の中は、時間が止まったみたいに静まり返っていた。
 スープ鍋の火は消えている。鍋の縁だけが、かすかに温もりを残していた。

 店主の姿はどこにもなかった。
 灰蛇絡も、さっきの男たちもいない。

 華は、がらんとした店の真ん中で立ち止まった。

 倒れた椅子の脚に、伸びきった麺が一本絡みついている。
 麺の先を目でたどってから、ようやく手を伸ばした。

 椅子を起こす。
 散らばった筷子(はし)を拾う。
 ひっくり返ったレンゲを戻す。
 食べ残しを流しに移す。

 どこまで片づけたのか、自分でもはっきりしないまま、
 筷筒(はしづつ)に指先が触れたところで、ふっと力が抜けた。

 こつ。

 カウンターの端で、筷筒(はしづつ)が、小さく揺れて、止まる。

 華の手は、それきり動かなかった。


 *


 翌朝になっても、指先からは油とスープの匂いが抜けなかった。

 前の夜、片づけを途中で放って、華は二人を探しに出た。

 あてもなく角をいくつも曲がった。
 気がついたときには、屋台街の明かりが遠くに見えていた。
 どの角を曲がっても、見知らぬ通りが伸びているだけだった。

 陽が高くなるころには、どこを歩いたのかもはっきりしない。
 車の音と、人の話し声だけが増えていった。

 その手のまま、昼前に屋台街に戻った。
 あの店のあった一角だけが、人だかりになっている。

 華は少し離れたところで足を止めた。

 天幕は端から引きはがされていた。
 ちぎれた布だけが骨組みに絡みついたまま残り、その何本かが曲がって、屋台全体が片側に傾いている。

 木の柱が折れ、看板が斜めにぶら下がっていた。
 店主の字で書かれたメニュー札が、泥の上に裏返って落ちている。

「昨夜、揉め事があったらしいな」

「店主は、もう駄目だろうな」

 野次馬たちの声が、耳に入った。
 誰の視線も、華のほうには向いていない。

 華は人垣の隙間から、屋台の跡地を見た。

 骨組みの内側は、がらんとしていた。
 カウンターだった木の板だけが、ばらばらに積まれている。

 足元近くに、見覚えのある輪ゴムが一本落ちていた。
 拾えばいいのかどうか、少し考えて、そのままにした。

 風が通路を抜けた。
 昨日まで湯気と油でむせていた通りを、冷たい空気がただ通り過ぎていく。

 華はしばらくそこに立っていた。

 やがて、人波から一歩だけ離れた。

 餡餅の胡椒と油の匂いは、もうどこにもなかった。


第三幕:【偽りの虎】

 冬の夕方だった。空はまだ青さを少しだけ残していた。
 石畳のすき間から上がる冷えが、屋台の火のぬくもりを足元から奪っていく。

 薄い藍色に沈みかけた空が──ふっと明るくなり、夕暮れの色が白く洗い流された。

 屋台で筷子(はし)を止めた客たちが、いっせいに振り返る。何事かと。

 花火の音はしなかった。白い光が、屋台の屋根の少し上で弾けた。


 視線の集まった先、屋台街の真ん中にある小さな広場――中央広場の片隅で、
 ビールケースを三つ重ねた台の上に、赤いシャツの男がひとり立っていた。

 細い火柱が、男の口から空へと伸び、屋台街を照らしている。

 屋台の列から、短い悲鳴と歓声がいっぺんに上がる。

「な、なに今の――」

「火ぃ噴いたぞ、アイツ!?」

 炎はすぐに細くなり、夜気にほどけて消えた。
 燃え残りの熱だけが、広場の空気に薄く残る。

 赤いシャツの男は、口の端をぬぐった。
 喉に、さっきかき込んだカレーの辛さがまだじりじり残っている。

「あの炎……」

 誰かが、ぽつりとこぼした。

「红虎、じゃねえのか?」

 たちまち、あちこちから声が上がる。

「テレビで見たことあるぞ、あのシャツ」

「拳の中にダイヤが宿るって……」

 ざわめきが、屋台街の端から端まで走っていく。

 男の背丈は高い。
 百八十センチをゆうに超え──いや、ちょっとした角度で見ると、そこまででもない気もする。

 短く逆立った金髪。
 赤銅色に焼けた肌。
 節くれだった拳。

 遠目には、ニュースで散々流れた「红虎」のシルエットそのものだった。

 ただ、近くで見ると、耳の上の生え際がわずかに不自然で、首すじと顔の色にも薄く境目があった。
 赤いシャツも、肩まわりが少しだぼついて見えた。

 それでも、真っ先に飛び出したのは「红虎だ」という声ばかりだった。

 声が声を呼び、屋台街じゅうの視線が赤いシャツに集まった。

 男──ギャラハッド・ソネットは、心の中で「よし」と小さく頷いた。

(第一印象で勝負。これ大事)

 靴の中でつま先を曲げる。
 超・底厚のインソールが、ぎしりと鳴った。

 背伸びをしなくても、視線が自然と上から落ちる高さになっている。
 膝の曲げ方を少し大げさにすれば、足の長さの違和感もごまかせる。

 髪は金色のウィッグを深くかぶり、目元はテープでそれっぽく寄せた。
 顎や鼻回りも、ささやかながら貼り物でいじってある。
 もとの褐色の肌にさらに色を重ねて、ぱっと見にはニュース映像の红虎と見分けがつかないレベルだ。

(ありがとう、コスプレイヤーの諸君。
 メイキング大変参考になりました)

 心の中でだけ手を合わせる。

「──まさにさぁ! これが“清王朝のダイヤモンド”ってやつよ!」

 喉を焼くような低音を、意識して作る。
 红虎本人の動画を何度も見返して作った声色だ。

 周囲の空気が、ぴんと張った。

「清王朝のダイヤモンドだぞ。百年節の主役さ。
 魔幇の連中も、上海の連中も、みんなこれを巡って血眼になってる」

 そう言って、拳をゆっくりと開いた。

 手のひらの上に、ひとつの石が載っていた。

 親指の先ほどの大きさ。
 色は、やたら素直な透明。

 屋台の灯りを受けるたび、派手すぎるくらいに七色の光をばら撒いた。

 あまりにも分かりやすいカット。
 あまりにも安っぽい煌めき。

 屋台街の客の何人かは、見た瞬間に眉をひそめた。

「あれってガラスよね?」

「子どものおもちゃみたいだな」

 ぽつぽつと声が漏れる。

(よしよしよし)

 口の端が、勝手に上を向きかけるのを、慌てて押さえた。

 中途半端に本物っぽいと、かえって信じる奴が出る。
 やるなら、あからさまなガラス玉だ。

 “红虎のダイヤ”がこの程度のガラスなら──そもそも“清王朝のダイヤ”なんてもの自体が怪しい。
 そう思って帰ってくれれば、それでいい。

 ホンモノの红虎は、今頃は九龍城砦で魔幇のおじいちゃんとデート中──って珍朕萬が言ってたし。
 ここで背後から「やあ」って出てこられる心配はない。

 百年前、清王朝の宦官だった先祖が流したデマ。
 「願いを叶える宝玉」なんて吹聴したせいで、今も上海は沸き返っている。
 その火消しだと思えば、これくらいの茶番、安いもんだ。

「……ねえ」

 近くのテーブルで、酔っぱらい気味の中年女性が手を挙げた。

「それ、本当にダイヤなの?」

「ふう……これだから素人は困るぜ」

 ギャラハッドは、肩をすくめて見せた。

「红虎の拳に宿った“清王朝のダイヤモンド”だぞ。
 ……もっとも、“プロの目”で見たら、なんて言うかは知らねえがな」

 わざと「プロの目」を強調する。

「オレ、宝石なんかろくに見たことねえからよ。
 本物かどうかなんて、小難しくて分かんねえんだ」

 観客の何人かが、くすりと笑った。

 女は口角をにやりと上げて、立ち上がる。

「だったら、ちょっと貸してみてよ。
 あたし、宝飾関係なのよ。見慣れてるわ」

(来た)

 ギャラハッドは、わざとらしく「どうしようかな」と視線を宙に泳がせてから、石をつまんで女の掌に落とした。

「落とすなよ」

「大丈夫、大丈夫」

 女は、指先でそれを挟んで光に透かした。
 瞬間、微妙な顔になった。

「……うん」

「どうだ、“プロの目”からみてよ」

「いやあ……」

 言いよどむ。

「言いにくそうだな?」

 周囲から笑いが漏れた。
 炒米粉(炒めビーフン)の皿を持ったままの女の子も、興味津々で覗き込んでいる。

 女は、喉を鳴らしてから小さくため息をついた。

「ダイヤっていうより、そうね……」
 指先で石を軽く転がしながら続ける。
「街の雑貨屋でよく見るガラス、って言った方が近いかな」

「まさか!」

 ギャラハッドが、ここぞとばかりに声を張った。

「あんた本職(プロ)だろ?
 百戦無敗! 極神空手の王! あの“鉄山彦斎”から勝ち取った、この“伝説の清王朝のダイヤモンド”が、ただのガラス玉だってえことかい!」

 ギャラハッドは、大げさにのけぞって見せる。
 女は気まずそうな顔のまま黙って石を返す。

「お前ら、聞いたかよ!
 “清王朝のダイヤ”ってやつは、宝飾屋から見りゃその程度のシロモノだってさ」

 ざわ、と空気が揺れる。

「じゃあ、“あの伝説”って……」

「俺は初めから嘘だって気づいてたけどね」

 屋台街のあちこちで、ささやきが生まれた。

 ギャラハッドは、その反応をちらりと観察する。

 ぽかんとした顔や、呆れた顔が、そこらじゅうに見えた。

 ──红虎の拳にダイヤが宿っている。
 ──清王朝に王権を授けた伝説の石。

 そんな噂は、百年節に入ってから、いやというほど耳にしてきた。

 それに少しでも疑いが混じれば、それでいい。

(……よし。
 とりあえず、種くらいは撒けたか)

 あとは、この話が勝手に歩き出すのを待つだけだ。

「じゃ、せっかくだから」

 ギャラハッドは、ガラス玉を指先でひょいとつまんだ。

「今夜だけ、この屋台街にいるあいだくらいは、“清王朝のダイヤ様”ってことで。
 見たい奴は好きなだけ眺めてけよ。ただし──」

 わざとらしく口元をゆがめる。

「触るなら、一人十元だ」

 屋台街に、どっと笑いが広がった。

「十元なら安いもんだろ」

「写真撮ってもいいっすか、红虎さん!」

「ほらほら、お前も並べって」

 すぐに何人かが列を作りはじめた。
 酔いの回った仕事終わりの男、スマホを構えた若い女の子、ひやかし半分の学生グループ。

 手のひらの石は、順番に指先で弾かれたり、まじまじと覗き込まれたりする。
 誰かがスマホを寄せてきたので、ギャラハッドは拳と石を同時にフレームに収めてやった。

「はいポーズ!」

 画面の中で、「红虎」と「清王朝のダイヤ」が並んで笑う。
 どこかのグループチャットに、すぐさま放り込まれるだろう。

(よしよし。証拠付きで流れていけ)

 ギャラハッドは、列の動きを眺めながら、喉の奥で小さく息を吐いた。
 集まっているのは、見た感じごく普通の上海の人間たちばかりだ。
 観光客も少し混じっている。

(“ただのガラス玉だった”って話が、せめて面白おかしく広がってくれりゃ御の字だが……)

 そこまで都合よくはいかないことも分かっている。

(ま、こっちで操作できるのは、ここまでだな)

 最後尾までさばき終えたところで、ギャラハッドは大きく両手を振った。

「はい、サービス終了。あとは想い出にしまっといてくれ」

 名残惜しそうな声と、からかうようなブーイングが混ざり合う。
 そのざわめきを背中で受けながら、ギャラハッドはビールケースから軽く飛び降りた。

 足裏に伝わる石畳の硬さに、ようやく人心地がついた気がする。

(さて、と)

 人混みの影に紛れながら、ギャラハッドはもう一度だけ振り返る。
 さっきまでこちらを仰ぎ見ていた連中は、ばらばら散っていくところだった。

(先祖の撒いた嘘を、別の嘘で上書き、か)

 あまり褒められた手じゃない。
 だが、盤面だけ見りゃ、ほとんど詰みだ。

 解決屋として、考えられる手は一通り並べてみた。
 残ったのが、デマにデマをぶつけるっていう、この一手だけ。

(あとは――跪地求饶(土下座)のタイミングでも考えておくか)

 ポケットの中でガラス玉がころりと転がる。
 それを指でもてあそびながら、中央広場を抜けて大通りへ出る。

 ギャラハッドは、大通りを入口ゲートの方へ少し戻り、
 道の縁に並ぶ屋台の一つを選んで、その裏へと滑り込んだ。


 *


 それから一時間もしないうちに、屋台街の外側のあちこちで、言葉が火種みたいに飛び始めた。

「屋台街に、红虎がいるってよ」
「拳の石、見せたらしい」
「写真、回ってきた」

 酒場の勘定場で、男がスマホを示しながら笑う。
 晩飯のあと、子どもが「見たい」と親の袖を引く。
 暇つぶし半分の若い連中が、外周道路をだらだら歩き出す。

 言葉は整った文にはならない。
 “红虎”と“ダイヤ”だけが、短く、何度も、口から零れた。


 *


 屋台街の入口ゲートのあたりで、男がひとり、柱の影ごとに立ち止まっていた。

 灰蛇絡は、ゲートから中央広場へ伸びる大通りを、ぼんやり見ている。
 灯りは増え、音も増えた。
 仕事帰りのスーツの群れ、観光客のリュック、制服の肩が、同じ方向へ流れていく。

 誰も彼を見ない。
 見たとしても、視線はすぐに“向こう”へ行く。

 灰蛇絡は手首の内側を、爪で浅く引いた。
 痛みが遅れて追いつく前に、赤い雫が落ちる。

 石畳に触れたところから、赤い蛇が一匹、ずるりと形を取った。
 蛇は音も立てず、人の足首の隙間へ滑り込む。

 少し離れた場所で、黒い影も一本、すり抜ける。
 髪の一房が、柱の陰から落ちていた。
 落ちた瞬間、黒蛇になっていた。

「……」

 灰蛇絡は何も言わない。
 ただ、群衆が“蛇のいない側”へ寄るのを見ている。

 足元を避けようとした身体が、壁際へ集まる。
 壁際が詰まると、人は反対側へ寄る。
 反対側にも蛇が走る。
 寄った分だけ、流れがひとつの方向へ押し込まれていく。

 大通りは、人でじわじわ膨れていく。
 入口から広場へ向けて、人の流れが滞りはじめた。

 灰蛇絡は、柱から背中を離した。
 長い髪が、肩から腰へ垂れている。
 その先端が、じわりと揺れた。


 *


 ちょうどその頃、雑居ビルの一室の廊下で、ひとりの少女が保温バッグを肩にかけ直していた。

「红虎、来てたんだって」
「ダイヤ見せたってさ」

 住人の話は、すれ違いざまの断片だった。
 少女は足を止めずに聞き流したまま、階段へ向かう。

 外へ出ると、屋台街の方向が騒がしい。
 提灯の赤が、遠くで揺れている。
 その少し上の空に、丸い月が出ていた。

 少女は外周道路沿いのビルの非常階段を上がり、踊り場の手すりを越えた。
 細い体が、音も立てずに屋上へ抜ける。

 屋上の縁から覗くと、真下に屋台街が広がっていた。
 大通りも、小路も、肩と肩で埋まっている。
 その隙間を、赤と黒の細いものが何本も走っていくのが見えた。

(……蛇)

 視線を入口ゲート側へ送る。
 ゲートをくぐってすぐの柱の影に、長い髪の影が立っていた。

 その足元で、黒い塊と赤い塊が、落ちている。
 落ちた塊は、ほどけるように蛇になって散る。

 少女は、保温バッグの紐を握り直した。
 屋上の縁から数歩下がる。
 勢いをつけて、手前の屋台の屋根へ飛び移った。

 トタンが、低くきしむ。
 少女は足裏で吸い付くみたいに体重を乗せ、屋根から屋根へ走った。

 人波の上を、一直線には行けない。
 屋根の高さが揃っていない。
 提灯の綱が横切る。
 少女は一度だけ速度を落とし、綱を跨いで、次の屋根へ移った。

 入口ゲート側の、屋台の裏の暗がりへ向けて、最後の一跳びをする。

 着地の瞬間、保温バッグの金具が石畳に当たって、小さく鳴った。
 少女は膝をつき、片手でバッグを押さえて衝撃を殺す。

 薄暗い屋台裏で、誰かが動く気配がした。


 *


 入口ゲートの少し内側、大通り沿いに並ぶ屋台の裏――
 客席の裏には、屋台ごとの仕込み場が帯のように連なっている。

 段ボールや発泡スチロールの箱、空皿のラックが積まれている。
 壁際には、紐で固定されたプロパンボンベが二本。床には水のバケツと、油で黒ずんだ雑巾。

 排気と油のにおいがこもるその一角で、ギャラハッドはようやくウィッグを外した。
 さっきまで耳の奥を占めていた「红虎コール」は、もうどこにもない。

(ふう……お疲れさまでした、っと)

 そう一息ついて、荷物をまとめかけたとき、大通りの方から足音とどよめきが絶え間なく響いてきた。

「押すなって!」
「前、詰まってるんだってば!」

 笑い声じゃない。
 喧嘩腰というより、行き場をなくして荒れている声だ。

(……ん?)

 ギャラハッドは、汗で張りついた首筋を指で掻いた。

 屋台の背板とタープの継ぎ目に、顔を差し込めるくらいの細い隙間がある。
 そこへ顔を寄せて、大通りをのぞき込む。

 人が、あふれていた。
 人波というより、塊だ。
 肩と肩がくっついたまま、誰も前にも後ろにも、うまく動けていない。

(いやいや、いくらなんでも集まりすぎじゃない?)

 さっき自分が見下ろしていた“红虎ショー”の群衆とは、密度が違う。

(……红虎ショー、そんなにバズったか?)

 掌がびっしょり濡れていることに気づいたころ、通りからのやり取りが耳に引っかかった。

「だから足元見るなって! ぶつかるだろ!」
「蛇がいるんだってば!」

 ざわめきの中に、「蛇」という言葉が何度もまぎれ込む。

(蛇?)

 ギャラハッドは眉をひそめる。

 目を凝らすと、群衆の足元を、赤い蛇と黒い蛇が何匹も横切っていた。
 通りの奥で、女の悲鳴が鋭く上がる。

(……もしかして、魔人絡みか、これ)

 人波の端では、屋台の店主たちが「ゆっくり歩け」「押すな」と声を張り上げている。
 けれど押し合いは、むしろ強くなっていた。

(マズいな。あの密度でパニックになったら、洒落にならん)

 ギャラハッドは、丸めたウィッグを見下ろす。
 指先で金色の毛束を握り直しながら、胸の奥に小さなざわつきが残る。

(……先祖と同じ失敗、繰り返してない?)

 ──そのときだった。

 すぐ背後で、発泡スチロール箱の角に何かが当たって、かしゃん、と乾いた音が跳ねた。

「……ん?」

 振り返ろうとした瞬間、

 どさっ、と。
 今度は、人が落ちたとしか思えない鈍い衝撃が続いた。

「……うわっ」

 思わず肩が跳ねる。
 なんだなんだと顔を向けると、そこには栗色の髪の少女がいた。

 排気で薄暗い仕込み場。
 少女が四つん這いになっている。
 片手で空っぽの保温バッグを胸の下に押さえつけて、落下の勢いをぎりぎりで殺したところらしい。

 少女もまた、そこに人がいるとは思っていなかったのか、ぱちくりと目を瞬かせて、ギャラハッドを見上げた。

 目が合う。

「……」
「……」

 お互い、一瞬だけ固まった。

 先に動いたのは少女の方だった。
 赤いシャツと体格を見て、眉をわずかに寄せる。

「あの……红虎、さん、ですか──」

 今日一日、耳にたこができるほど聞いた名に、背筋がびくっとした。

 ギャラハッドは反射で、ウィッグを背中側に隠しかけて──間に合わないと悟って止めた。
 少女の視線も、そのウィッグへと落ちた。

 赤いシャツ。
 褐色の地肌。
 本来の茶色い髪。

 順に見比べて、口だけが小さく動く。

「……違うんですね」

「……はい。すみません」

 ギャラハッドは観念して頭をかいた。
「红虎……のコスプレ、って言うと怒られそうだけどね。
 まあ、察しの通り、モノホンじゃないんだ」

 少女は、しばらく口を閉じたままギャラハッドを見ていた。
 責めもしないし、笑いもしない。
 困惑したように、視線だけがゆっくり上下する。

「なんで、そんなことを」

「なんで、って言われると……」

 ギャラハッドは少し考えてから、肩をすくめた。

「ちょっと、先祖のケツ拭き、みたいなもんで」

「……?」

「まあ、いろいろあってさ。
 あのダイヤ絡みの争いを終わらせたいんだ。
 ……こっちの事情だから、今は無理に分かってもらわなくていいけど」

 少女は首をかしげかけて──それきり口をつぐんだ。

 代わりに、ギャラハッドの方がさっきの隙間へと視線を向ける。

「……まあ、それどころじゃないな。表、見える?」

 少女は頷き、すぐに通りの方へ目を向けた。

「入口ゲートの柱のところで、長い髪の男が……蛇を出してます」

「長い髪……」

 ギャラハッドの声がわずかに低くなった。
 少女は、言い方を選ぶみたいに一拍おいてから続けた。

灰蛇絡(フゥイ・シェルォ)って……前にお世話になった人です」

 知り合い、ではなく「お世話になった人」。
 言葉の選び方だけで、距離が分かる。

 ギャラハッドは、その名に覚えがあった。噂として。蛇の能力。元マフィア。
 红虎に殴られて改心したとかなんとか。

 少女は、小さく息を吸った。

「あの……」

 言いかけて、いったん口を閉じる。

「あなたは、ここから離れていたほうがいいと思います」

「どういう意味?」

 ギャラハッドは首をかしげる。

「……红虎さんのこと、知ってますか」

「……顔と名前くらいは、そりゃあ」

(フゥイ)さんを止めに、きっと红虎さんが来ます。
 もし、今のあなたの姿を見たら──きっと、ややこしいことになるから」

「今夜は来ないよ。悪いけど」

 ギャラハッドは、一拍置いてから首を振った。

「本物の红虎は、別の場所でデカい用事中だよ。
 さっきまで一緒にいたわけじゃないけどね。
 伝手の一つくらいは、まあ、ないこともないけど……今から呼んで間に合う感じじゃないよ」

「そんな……」

 少女の声が小さくなる。
 唇の色が、さっきより薄く見えた。

 視線が足元に落ちて、口の中で何かを噛むみたいに黙り込んだ。

(ここで泣かれたり叫ばれたりするのが、一番困るんだけどな……)

 ギャラハッドは、丸めたウィッグを握り直した。

「私だって今すぐ何とかしたいのは山々なんだけど」

 通りからのざわめきは、さっきよりも一段高くなっている。

「さっきまでここで“红虎”やってたやつが、こんな半端な姿で出てきたらさ、パニックを煽るだけだよ」

 最低限、シャツくらいは着替えたい。
 ウィッグも鞄に突っ込んで、顔も軽く拭いて──と段取りを頭の中で並べる。

「だから、ちょっとだけ時間くれない?」

 少女の視線がふと、ギャラハッドの全身をなぞった。

 底の分厚い靴。
 赤いシャツ。
 剥き出しの茶色い髪。
 そして、手の中のウィッグを。

 ひとつひとつ、確かめるみたいに。

「……?」

「さっき、ダイヤの争いを終わらせたいって言ってましたよね」

「ああ、そのつもりだよ」

「红虎さんとも、戦うつもりですか?」

「うーん、勝てるかはわからないけどね」

「もしかして、すごく強かったり……?」

「ダイヤの案件に首を突っ込む以上、腕に覚えはあるよ」

 ギャラハッドは、口から小さな炎をひゅーっと吐き出す。

 少女が落ち着くのを期待して、分かりやすい“証拠”を見せた。
 少女は、さっき火が出たあたりをじっと見つめてから、何かを考えるように顔を伏せた。

 沈黙が流れる。

 少女の次の言葉を、ギャラハッドは息を詰めて待った。

 少女がようやく顔を上げる。

「红虎さんは来ないってことは、分かりました」

 少女の肩から、少しだけ力が抜けた。

 ギャラハッドも、それにつられるように、胸の奥の息をひとつ吐き出した。

「でも──」

 少女は、ぽつりと言った。

「ん?」

 ギャラハッドの顔がこわばる。

「今は、それより……」

 少女は、それから言葉をひとつ挟むみたいに、小さく息を吐く。

「あなたに、お願いがあります」

 少女は、スカートの布をぎゅっと握り込んだ。

「屋台街で暴れている魔人を──红虎として、止めてほしいんです」

「……いまの話聞いてた?」

 ギャラハッドは、半歩よろめく。
 思わず体の力が抜けそうになるのをこらえた。

 けれど、少女に茶化すそぶりはない。

(フゥイ)さんとは──この前まで、同じ店で働いてて」

 少女は、隙間の向こうの音を聞くみたいに、少しだけ顔をそらした。

「店が、潰されて、店主さんも、いなくなって。
 あの晩──」

 説明は、そこで途切れた。
 少女は、言いかけた言葉を噛み殺して、黙り込んだ。

「でも──」

 少女は、スカートを握る指先をほどきかけて、また握り直した。

「でも、それで……関係ない人を巻き込んでいい理由には、ならないと思って」

 屋台の表から、人の叫び声と、何かが倒れる音が届く。

「それでも、(フゥイ)さんが本当に欲しいのは、なぐさめの言葉じゃなくて……」

 そこでいったん言葉が途切れた。

「红虎さんに、ばかやろうって殴られて、ちゃんと叱ってもらうことなのかなって。
 勝手に、そう思ってて……」

 ギャラハッドの喉が、ぴくりと動いた。

「红虎は──」

 口をつぐむ。
 少女の視線が、ギャラハッドのこめかみのあたりをかすめた。
 テープの境目。肌色の違い。声の揺れ。

「……あなたは、红虎さんじゃないかもしれないですけど」

 少女は、そう言ってから、ほんの少しだけ目を伏せた。

「でも、今、屋台街には“红虎”は一人しかいません」

 ギャラハッドは、すぐに言葉が出なかった。

「本物かどうか分からなくても。
 その姿で一度立ったなら──」

「……偽物だって、バレるかもな」

 ギャラハッドは、丸めたウィッグを握ったまま、短く息を吐いた。

 少女は、スカートを握っていた指をほどき、ギャラハッドをまっすぐ見た。

「それでも……今はそれに賭けたいです」

 ギャラハッドは、思わず瞬きをした。

「お願いです」

 少女は、深くは頭を下げなかった。
 ほんの少し、首を垂れるだけ。

「今夜だけ、屋台街にもう一人“红虎”がいたってことにして……
 最後まで演じ切って(信じさせて)くれませんか」

 屋台の裏の仕込み場に、油のにおいと、遠くの悲鳴だけが溜まっていく。

(……ホント、何やってんだろうね、私)

 先祖の後始末に来て、红虎のコスプレまでして、そのうえ“红虎”の責任まで背負う羽目になっている。

 ここで「知らん、勝手にしてろ」と飛んでいけば――
 多分、一生、自分で自分を笑えなくなる。

「分かった」

 ギャラハッドは、ようやく一言だけ吐き出した。

 赤いシャツの胸元を、軽く握り直す。

「……“オレ”が行く」

 少女の目が、わずかに見開かれる。

「“红虎”として、あの蛇を止める。
 あとで本物にも胸張って会えるようにな!」

「……ありがとうございます」

「その“長髪のやつ”、どの辺だ」

「入口ゲートのそばの大通り沿いにいました。
 柱のところに立ってて……今は、人の流れを追って中央広場のほうに進んでいるかもしれないですけど」

 ギャラハッドは、手の中のウィッグを見下ろした。

 丸めていたそれを広げ、乱れた毛束を指でざっと整える。
 排気ダクトの金属板に、ぼんやりと自分の輪郭が映った。

 赤いシャツの襟を引き上げて、首元を隠す。
 ウィッグをかぶり直し、こめかみのテープを指先で押さえた。

 さっきまで、ただの茶番の小道具だったはずの一式だ。

「じゃ、案内、頼めるか?」

 ギャラハッドが問うと、少女は胸の前の保温バッグを抱え直した。

「……はい」

 少女は、スカートの裾についた埃をぱんぱんと払った。

 仕込み場から出る前に、ギャラハッドは一度だけ振り返る。

「その長髪の男な。オレが殴るのは殴るけどさ。
 できれば、死なせたくはない相手か?」

 少女は、少しだけ迷ってから、短く答えた。

「……そうなってくれたら、いいなとは、思ってて」

「了解」

 それ以上、余計なことは言わなかった。

 ギャラハッドは、肺の奥まで空気を入れる。
 喉の奥が、じわりと熱を帯びる。火を飲み込むように、それを押さえ込んだ。

(よし。“红虎”再開)

 心の中でだけそう区切りをつけて、ギャラハッドは屋台の裏――仕込み場から一歩踏み出した。

 瞬間、熱と声がまとめてぶつかってくる。

 人、人、人。
 屋台街の入口ゲートから広場入口にかけて、大通りは人でぎっしり詰まっている。
 あふれた人波が、その両側に伸びる小路にも押し込まれている。

 さっきの少女も裏から出てきて、ギャラハッドの横に並んだ。
 ひと呼吸ぶんだけ、同じ光景を見つめる。

「掴まってろ」

「……え?」

「上から行ったほうが早い」

 ギャラハッドはそう言って、少女の腰を片腕で引き寄せた。
 もう片方の手で、屋台の縁をつかむ。

 短く息を吸い込む。
 次の瞬間、足元で火がボン、と弾け、石畳が一瞬だけ明るくなった。

 逆噴射された炎に押し上げられて、二人の体がふわりと浮いた。
 近くの屋台の屋根に、どん、と重さが乗る。

「……っ、わ……」

 少女が、遅れて息を吐いた。

「大丈夫か」

「だ、だいじょうぶです……ありがとうございます」

 ギャラハッドは手を放し、屋根の端まで歩み出た。少女も、その横に並ぶ。

 入口ゲートから広場の手前まで、細長い通りが数十メートルほど続いている。
 その一帯が、人でぎっしり埋まっていた。
 ただ、ちょうど真ん中あたりだけが、ぽっかりと丸く抜けている。

 屋台が五、六軒は丸ごと入るくらいの輪だ。
 その中の石畳は、赤と黒でびっしり埋まっていた。
 細いものが何十本も重なり合い、じりじりと動いている。

 蛇だ、と一目で分かった。

 輪のぎりぎり外側まで、人の列が三重にも四重にも折り重なって止まっている。
 先頭の何人かが足元を見て固まり、その背中に、後ろから押し寄せた波がぶつかっては止まる。
 一度あの足元を見てしまった者は、もう前には踏み出せない。
 誰も前に出ないまま、蛇の輪だけが、通りをまっすぐ横切っていた。

 その蛇の輪のど真ん中に、一本だけ棒が刺さったみたいに、人影が立っていた。

 長い髪の男だった。
 肩から腰まで垂れた髪が、風もないのにゆらりと揺れる。

 頬はこけ、目の下に滲んだ影。
 口元だけが、引きつった笑いの形をしていた。

 男の足元からは、黒い塊と赤い塊が、ときどきぼとりと落ちる。
 石畳に触れた瞬間、それぞれが細い蛇になってほどけ、蛇の輪と人の列のあいだをすり抜けて、外側の石畳の上へ散っていった。

「……やっぱり」

 隣で、少女が小さく息を吸った。

灰蛇絡(フゥイ・シェルォ)さん、です」

「だろうな」

 ギャラハッドは、屋根から屋根へ、角度を変えながら近づいていく。
 少女も、そのあとを黙ってついてきた。

 そのたび、下から「红虎だ」「上にいる」という声が上がる。

 やがて、蛇の輪の中心を真上から見下ろせる屋根に出た。

 ギャラハッドの影が蛇の輪に落ちると、男がゆっくりと顔を上げた。

 青白い顔。
 目の奥に光は見えない。

 肩から垂れた髪が、また一房、はらりと落ちた。

 ギャラハッドは、屋根の上から灰蛇絡を見下ろしながら言った。

「ここまで派手に暴れりゃさ。
 红虎が黙って飯食ってるわけないって、分かっててやってんだろ?」

 ギャラハッドの横で、少女が一歩だけ前に出る。
 屋根の縁から身を乗り出すようにして、灰蛇絡を見下ろした。

「……(フゥイ)さん」

 呼びかけに、灰蛇絡の視線がふっと動く。

 少女と、目が合う。
 ほんの一瞬だけ。

 けれど、そのまま何も言わず、視線はすっと外れていった。
 まるで、そこに誰もいないみたいに。

 少女の指先が、屋根の縁をぎゅっとつかんだ。

 灰蛇絡は、改めてギャラハッドの方を見上げる。

「……待ってたぞ、红虎」

 灰蛇絡は、喉の奥で笑った。

 ギャラハッドは、その横顔をちらりと見てから、前を向き直る。

「その蛇を操ってるのは、アンタで間違いないな」

「俺以外にいるか?」

「オレに会うために、この騒ぎに便乗したのか?」

「さあな。ただ──」

 灰蛇絡は、首を少しだけ傾けた。

「てっきり、お前が俺を呼んでんのかと思ったぜ。
 俺にも“清王朝のダイヤ”ってやつを見せてくれよ、红虎」

(あいにく、ダイヤの一般公開は終わってんだよ……!)

 下から、押し合う音が一段高くなる。
 蛇の輪の外側で、人の流れが完全に詰まりかけていた。

 少女が、そちらへ目を向けた。

「……このままだと、本当に危ないです」

 少女は、小さく息を吐いてから続けた。

「わたし、屋台の上から人が抜けられそうな小路を探してきます。
 そこから裏通りに人を逃がしてもらったほうがいい」

 ギャラハッドは、視線を灰蛇絡から離さないまま答えた。

「頼む。無理はするなよ。あの中に落ちたら、マジで終わりだから」

「はい」

 少女は一度だけうなずく。

 灰蛇絡は、ちらりと屋根の上の動きを見上げた。
 けれど、やはり何も言わない。

 少女は、もう一度だけ灰蛇絡の背中を遠くから見下ろして、それきり目をそらした。

 少女は屋台から屋台へ、反対側へ走っていく。
 すぐに、人と提灯のあいだに紛れて、その姿が見えなくなった。

 ギャラハッドは、しばらく屋根の縁に立ったまま、真下の蛇の輪を見下ろしていた。

 赤と黒の筋が、石畳の上でうごめいている。
 あの中へ、何も考えずに飛び込めるほど、命知らずでもない。

(……しょうがないな)

 ギャラハッドは、ひとつ息を吐いた。

 屋根の端に片足をかける。
 腰を落として、足の裏に力を溜める。

 短く、「ファイアー」と喉の奥でだけ呟いた。

 足元で炎がはじける。
 噴き出した火が、真下の蛇をまとめてなぎ払った。
 赤と黒の線が、焼けた匂いといっしょに縮んでいく。

 蛇の輪のど真ん中に、ぽっかりと丸い空白ができた。

 その中心めがけて、ギャラハッドは屋根から身を躍らせた。

 石畳に着地した瞬間、膝をばねみたいに使って衝撃を受け止める。
 すぐ目の前に、灰蛇絡の足がある。

 周囲の蛇の絨毯が、ざわりと揺れた。
 焼けた匂いが、油と混ざる。

「よお」

 ギャラハッドは歯を見せて笑った。

「歩きやすいように掃除しといてやったぞ」

 灰蛇絡は、しばらく何も言わなかった。
 口元だけが、かすかに吊り上がる。

「……红虎なら、蛇なんぞ気にせず突っ込んでくると思ったが」

 声は、どこか笑っているようで、投げやりにも聞こえた。

 焼かれずに残った蛇が、一斉にギャラハッドの足元へ向きを変えた。
 黒いのが足首に噛みつこうとし、赤いのがふくらはぎに絡みつこうとする。

 ギャラハッドは、足をぱん、と石畳に打ちつけた。
 口から短く炎を吐く。
 低い炎が輪を描くみたいに地面をなぞった。

 炎に触れた蛇から、順に灰になって崩れ落ちていく。
 焼け焦げた匂いが、さらに濃くなった。

「……“拳のダイヤ”が泣くぞ」

 灰蛇絡が、ぽつりとこぼした。

「前は、殴られただけで、骨の芯まで焼けるかと思った」

 蛇の絨毯の真ん中で、男がゆっくり首をかしげる。

「今日は口からかよ。派手だな、红虎」

「アップグレード版ってことで」

 ギャラハッドは肩をすくめた。

「……そんな红虎、聞いたことねえけどな」

 灰蛇絡の声が、ほんの少しだけ低くなる。

 足元の蛇が、また増えていた。
 焼け焦げた死骸の隙間から、新しい蛇が次々と這い出してくる。
 黒いのが靴の縁を噛み、赤いのが脛に巻きつく。

 ギャラハッドは、そのたびに炎を短く吐いて払い落とした。
 だが、焼けば焼くほど、灰蛇絡の足元から新しい蛇がこぼれ落ちる。

「そんなちまちました戦い方もしなかったな、あのときは」

 灰蛇絡が、じっとギャラハッドの顔を睨みつける。

「目つきは、尾を踏まれた虎みたいに獰猛だった」

 視線が、ギャラハッドの目の奥を探る。

「……あんた、本当に红虎か?」

 ざわめきが一瞬だけ引いた。

 ギャラハッドは、返事を急がなかった。
 炎の残り香の中で、ひとつ息を吐く。

「……まさかアンタが、红虎の厄介ファンだったとはな」

 口元だけで笑ってみせる。

「顔は、まあ、それなりに寄せてきたつもりなんだけど」

「顔だけならな」

 灰蛇絡の指先から、赤い滴が一筋落ちた。
 地面に着いた途端、蛇になる。

「背負ってるものが、違う」

 灰蛇絡は、片足を踏み出した。
 足元の蛇の輪が、その脚に合わせてじり、と動く。

「あのとき食らった一発、まだ骨がきしむ。
 もしお前が本物の红虎なら──今ごろ俺は、地面に伏せてる」

 ギャラハッドは、喉の奥をかすかに鳴らした。

(……まあ、バレるよね)

 紅虎と拳を交えた相手に、これ以上嘘をつきとおすのは無理だ。

 灰蛇絡は、足を止めた。足元で蛇が、かすかにざわついた。

「お前、红虎じゃねえだろ」

「——半分正解」

 ギャラハッドは、口から炎を吐くみたいに、短く言葉を吐いた。

「本物じゃないよ」

 輪の外側で、誰かが「え?」と小さく声を漏らした。
 だが、その声はすぐに蛇のざわめきと人の息に飲まれていく。

「名前はギャラハッド。解決屋だよ」

「…………」

「红虎にろくに会ったこともないコスプレ野郎がさ」

 自分で言って、自分で苦笑する。

「こうして红虎やってんのに。
 直接あいつの拳もらったお前が、なんでまたこんなバカやってんだよ」

 灰蛇絡の口元から、笑いなのかどうなのか分からない息が漏れた。

「ふざけてんのか」

「ふざけてたら、よりにもよって红虎の姿で飛び込んでこないよ」

 ギャラハッドは、足元でうごめく蛇を見下ろした。

「オレは、あんたを止めに来た。
 あんたのためっていうより——」

 あの少女の顔が、頭に浮かぶ。

「あの子が、オレにアンタを止めてくれって言ったからだよ」

 灰蛇絡の視線が、かすかに揺れた。

「誰だ、そいつは」

「一緒に働いてたってよ。“お世話になった”って言ってた」

 その言葉に、灰蛇絡の指先がわずかに止まった。
 足元の蛇の動きも、一拍だけ遅れる。

 すぐに、それを打ち消すみたいに、赤い雫がまた床に落ちた。
 新しい蛇になる。

「……ガキが言うことなんざ、当てにならねえよ」

「そうか?」

 ギャラハッドは、肩を回した。
 背中にうっすら汗がにじんでいる。

「少なくとも、あの子からは、アンタの“望み”はこう見えてる。
 『红虎さんに、ばかやろうって殴られて、ちゃんと叱ってもらうこと』ってな」

 灰蛇絡の喉が、ぴくりと動いた。

「そして、オレには“本物かどうか分からないけど、それでも今は賭けたい”ってさ」

 ギャラハッドは、自分の胸元を指先で軽く叩く。

「だからオレは、ここにいる」

 蛇が、一斉にざわめいた。

 灰蛇絡は、顔を伏せた。
 長い髪が、頬の影を隠す。

「……もう遅えんだよ」

 かすれた声が漏れた。

「何が“賭けたい”だ」

 短く息を吸い込み、言葉を継いだ。

「さっきのガキを騙くらかしたみてえに、俺のことも騙せると思うなよ」

 灰蛇絡は、うつむいたまま舌打ちをひとつ打った。
 肩が、わずかに揺れる。

「あの店、守れなかった。
 親父も、守れなかった」

 髪先から、黒い蛇が三匹、まとめて滑り落ちる。
 赤い雫も、ぽとぽと落ちる。

「今さら“ばかやろう”って殴られたって、戻るもんなんか、なにもねえ」

 灰蛇絡の視線が、ゆっくりとギャラハッドを捉える。

「お前が“红虎”を気取るってんなら——」

 蛇の上で、片足を踏み出した。
 足元の輪が、その脚に合わせてじり、と動く。

「红虎みてぇに、ここに突っ込んで、俺をぶっ飛ばしてみせろ!」

 ギャラハッドは、一拍だけ黙った。

 視線の端で、大通りの列がまだ押し合っているのが見える。
 反対側の屋台の上で、さっきの少女が必死に腕を振っている気配も、かすかに伝わってきた。

(ヒーロー役がここで腰抜かしてたら、話にならないだろ)

(それに──)

 灰蛇絡の“红虎なら俺を止めてくれるはずだ”という勝手な期待と、少女の「賭けたい」が、頭の中で重なる。

(“红虎”に賭けてんのは、あの子も、こいつも同じか)

 肩から、余計な力がひとつ抜けた。

「戻るとは言ってない」

 ギャラハッドは、蛇の輪の縁に片足をかけた。

 黒いのがすぐに飛びつき、足首に噛みついた。針金をねじ込まれたみたいな痛みが走る。
 赤い蛇が跳ね上がり、右ひじに巻きつく。骨ごと締め上げられているみたいに、じわじわ力が抜けていく。

(……きついな、これ)

 痺れが足首から膝へせり上がる。膝が、かすかに笑った。

 群衆相手に、今みたいに本気で噛ませたり絡ませたりしていたら、とっくに地獄絵図になっていたはずだ。
 それでも屋台の外側では、蛇は人の足元をなぞるだけで済んでいる。毒も締め付けも、この輪の内側でギャラハッドひとりに向けられている。

(……アンタん中じゃ、まだ“ショー”のうちってことでいいよな、灰蛇絡)

 苦笑が喉まで上がるが、声にはしない。

 それでも、ギャラハッドはさらに一歩踏み出した。
 足元の蛇が潰れて、焦げた感触が靴底越しに伝わる。

「いまさら全部をなかったことにできるなんて、誰も言ってないよ」

 視線は灰蛇絡から外さない。

「アンタが“マフィアくずれ”のまんま悪役(ヴィラン)気取ってるのも、別にそれだけで止める気はない」

 ギャラハッドの足がよろけ、一瞬、動きが止まる。

 足がしびれる。力がうまく入らない。

「たださ——」

 ひと呼吸置く。

「あの子の前くらいは、“かっこいい大人だった”っていう嘘をさ」

 口の端をわずかに上げる。

「本当らしく見せてやってもいいんじゃないか?」

 灰蛇絡は、じっとギャラハッドを見ていた。

 目の下の影は濃いままだった。
 その奥で、何かがぐしゃぐしゃに押しつぶされているのが、かろうじて分かる。

「……そんな簡単にやり直せるかよ」

「簡単じゃないよ」

 ギャラハッドは、あっさりと認めた。

「オレだって、先祖がやらかしたデマの後始末、いまだに終わってない。
 百年前、“願いの叶う宝玉”なんて吹いたバカがいてさ」

「…………」

「そいつの子孫が、こうして上海まで飛んできて、火消ししてる。
 何度失敗しても、やめるわけにいかないから」

 ギャラハッドは、軽く笑ってみせる。

「だから、間違えたぶんだけ、その都度やり直すしかないんだよ。面倒だけどね」

 灰蛇絡の口元が、ひきつったように動いた。
 笑っているのか、歯を食いしばっているのか、自分でも分かっていないみたいな顔だった。

「……やり直し、ねぇ」

 しばらくその言葉を舌の上で転がしてから、灰蛇絡は懐に手を入れた。
 服の内側から、細いナイフをするりと抜き取る。

「そんな芸当、俺は一度だってできちゃいねえよ」

 肩まで垂れた髪を、片手でつかむ。
 その束を持ち上げ、ナイフの刃を押し当てた。

 ざくり、と音がした。

 黒い束が、肩のあたりからばっさり落ちた。
 石畳に散らばったそれが、ぞわりと持ち上がる。
 髪の一筋一筋が頭をもたげ、何本もの黒蛇になって地面の上をうねった。

 返す手でナイフを持ち替え、左の掌に迷いなく刃を突き立てた。

 赤い血が、ぼたぼたと石畳に落ちる。
 足元に広がった血だまりは、一瞬にして無数の赤蛇に変わった。

 さっきまで肩にかかっていた髪は、首のあたりで乱暴に途切れている。
 顔色も、さっきより一段白く見えた。

「……バカな奴だな。考えなしで突っ込んできやがって」

 灰蛇絡が、吐き捨てるように言った。
 それはギャラハッドに向けた罵りというより、自分に向けた悪態にも聞こえた。

「だったら、こっちも賭けてやるよ。——“红虎(・・)”に」

 足元の蛇が、その言葉に呼応するみたいに一斉に頭をもたげた。

 黒いのも赤いのも、すべての蛇が、中心へ、中心へと集まっていく。
 床を這っていた細い筋が、渦を巻きながら束になり、ひとつの塊にまとまっていった。

 塊が、地面から持ち上がる。
 石油が噴き出すみたいに、蛇でできた柱が空に向かって伸びていく。

 肩、肘、拳──雑だが、その形が分かる。
 黒と赤の蛇が幾重にも絡み合い、人の背丈なんて簡単に呑み込む太さになっていく。

 柱はまだ伸び続けた。
 通りの両側の屋台の屋根を見下ろし、いちばん近くのビルの看板をさらに三、四倍は越えたあたりで、ようやく動きを止める。

 巨大な腕が、通りの上に影を落とした。
 屋台の天幕なんて、まとめて飲み込める高さだ。

「……お喋りはここまでだ」

 灰蛇絡が、短く息を吐いた。

「悪人は悪人なりに、幕を引く」

 蛇でできた腕が、ゆっくりと後ろに振りかぶられる。
 筋肉の代わりに蛇の身体がうねり、肘のあたりでぎしりと軋んだ。

「群衆ごと押し潰すつもり?」

 ギャラハッドが、眉をひそめる。

 灰蛇絡の口元に、乾いた笑みが戻った。

「心配すんな。紅虎なら、そんな真似させねえよ」

 ほんの少しだけ間を置いて、言葉を足す。

「──見せてみろよ。“本物”かどうか」

 蛇の腕が、ギシギシと音を立てて前に倒れはじめる。
 石畳の上の空気が押しつぶされ、ギャラハッドの耳の奥で低い唸りが鳴った。

 輪の外では、悲鳴と押し合う音が一段高くなる。
通りの両側の屋台の天幕が、風でもないのにばたばたと揺れた。

(……ここで躊躇したら、マジで笑えないよ、私)

 ギャラハッドは、足の裏で石畳を踏みしめた。
 膝が笑うのを、力で黙らせる。

 今朝かき込んだカレーの重さが、腹の底でじわじわ熱に変わっていく。
 喉の奥に、炎をかき集める。

 蛇の拳が、頭上に迫る。
 黒と赤の塊が視界を埋め、通り全体に、押し潰される前の一瞬の静けさみたいな間ができた。

「──ファイアァァアアアッ!」

 轟くような叫びと一緒に、火が噴き上がった。

 炎が、真正面に伸びていく。
 地面から生えた柱みたいに、太い火柱が蛇の拳めがけて突き上がる。

 炎と蛇の腕が、正面からぶつかった。
 衝突したところで、黒と赤の鱗の塊が一度ぐっと押し込んできて、ギャラハッドの足が半歩だけ石畳を滑る。

(……押されるかよ)

 歯を食いしばり、さらに腹に力を込めた。
 火柱の根元が、もう一段熱を増す。

 炎が太くなる。
 蛇の拳の表面から、鱗が一枚ずつめくれるみたいに、黒い塊が剥がれ落ちていった。

 火柱は、そのまま腕を駆け上がる。
 肘、肩と、蛇でできた関節をなぞりながら、通りの上で一本の巨大な炎の塔になっていく。

 黒と赤の塊が、炎に飲まれていく。
 何百匹もの蛇の輪郭が光の中でほどけ、焼ける音だけが重なった。

 熱が頂上まで抜けきった瞬間、蛇の腕の中身が空っぽになったみたいに見えた。

 次の瞬間、鈍い破裂音がした。

 炎の塔のいちばん上が、内側から弾け飛ぶ。
 黒く焼けた殻が砕け、細かい破片になって四方に散った。

 破片は、空中で一度ふわりとほどける。
 炭よりも軽い、黒い灰になって、屋台街の上に雪みたいに降りはじめた。

 焼けた肉と血の匂いが、一気に押し寄せる。
 熱風が外側の人垣まで抜け、屋台の天幕がばさりとあおられた。

 灰は、提灯の上や、逃げ遅れた客の肩、石畳の上に、薄く積もる。
 指先で触れれば崩れてしまいそうな、軽い膜みたいに。

 蛇の腕は、もうどこにもなかった。
 通りの真ん中には、黒い灰の帯と、焦げた縄の山だけが残っている。

 灰蛇絡が、ぐらりと膝を折った。

 さっき切り落としたばかりの短い髪が、汗と灰で頬に貼りついている。
 左の掌からは、血が細く一筋垂れているだけだ。
 足元にも、もう動くものはない。

 黒い灰が、まだゆっくりと降っていた。
 細かな雪みたいな粒が、提灯の紐や屋台の天幕の縁にうっすら積もっていく。

 ギャラハッドは、まだ熱の残る空気を肺に入れながら、真正面からその男を見据えた。

 息を吸い込もうとして、むせる。
 喉がひりつき、肺の奥まで熱が残っている。

(……食べた分、きれいに燃やしたな)

 立っているだけで膝が笑う。
 それでも、まだ足は動いた。

 通りを横切っていた蛇の輪は、跡形もなく崩れている。
 赤と黒の残骸が、焦げた帯になって石畳の上に伸びていた。

 さっきまで蛇にせき止められていた数十メートル分の人の列が、舞い落ちる黒い粒子の中で、少しずつ前へ動きはじめる。

「前、空いたぞ!」
「ゆっくり歩け、走るな!」

 屋台の店主たちが、喉が枯れそうな声で叫んでいた。
 天幕の上から誘導していた何人かが、別の通りのほうへ腕を振る。

 さっき屋根の上を走っていた少女の姿が、視界の端にひっかかった。
 離れた屋台の屋根から屋根へと渡り歩きながら、反対側の小路を指さして、店の人間に何かを叫んでいる。

 蛇のあった場所を起点に、大通りの真ん中にぽっかりと通り道ができた。
 そこに向かって、人の列がゆっくりと吸い寄せられていく。

 押し合いは、さっきよりもずっとましになっていた。
 それでも、ときどき誰かがよろめき、そのたびに周りが支えて持ち直す。

(……とりあえず、一番ひどい山は越えたか)

 ギャラハッドは、焦げた蛇をまたぎながら、灰蛇絡の方へ歩いた。

 男は、蛇の残骸の真ん中で、片膝をついている。
 肩で息をしていた。

「な?」

 ギャラハッドは、目の前で立ち止まった。

「やり直しってさ。こういうときに使うんだよ」

 灰蛇絡は、しばらく黙っていた。
 顔を上げるまでに、少し時間がかかる。

 視線だけが、ギャラハッドに向く。
 目の奥には、まだ底なしの何かが沈んでいた。

「……今さら、何信じろってんだよ」

「全部じゃなくていい」

 ギャラハッドは、指を一本だけ立てた。

「少なくとも、一人はお前を信じてるってことだけ、覚えときな」

「…………」

「あの子がさ。まだ“灰さん”って呼んでる」

 灰蛇絡の喉が、また小さく動いた。
 笑いとも嗚咽ともつかない息が、一瞬だけ漏れる。

 その短い音が、飲み込まれる前に──大通りの方で大きなざわめきが起きた。

 出口側に、少し広い空間ができたのだろう。先頭が急に動き、後ろからも押し出される。

「押すな押すな!」
「待てって——!」

 止めようとする怒鳴り声ごと、波に飲まれていく。

 ギャラハッドは、そちらを振り向いた。

 人波の向こう、さっきまで屋根の上にいた少女が、今度は地面に降りていた。

 灰蛇絡も、その小さな背中を一瞬だけ目で追う。

 屋台と屋台のあいだ、少しだけ道幅が狭くなっている場所だ。
 人の流れがそこで詰まりかけていて、少女は両手を広げ、横から割り込もうとする客を必死に制している。

 そこに、後ろから別の列がぶつかった。

 誰かの肘が、少女の側頭部を打つ。
 体が斜めに傾き、そのまま足をすくわれるみたいに石畳の上へ倒れた。

 次の瞬間には、人の足が次々とその上を通り過ぎはじめていた。

「——っ」

 ギャラハッドの足に力が入るより早く、蛇の残骸が跳ねた。

 灰蛇絡の体が、勝手に走っていた。

 焼けた蛇を踏みつけて、足がもつれそうになる。
 炭みたいに砕けた鱗が、靴の裏でざりざり鳴った。それでも止まらない。

 押し合う群衆のあいだに、肩から突っ込む。
 怒鳴り声と灰の匂いと汗のにおいが、一度に鼻へ押し寄せた。

「押すなって——どけ!」

 前の人間の背中を、ほとんど突き飛ばすみたいにしてかき分ける。

 目の前で、少女の肩のあたりを誰かの靴が踏んだ。
 頭が石畳に当たる鈍い音がした。

 灰蛇絡は、その上に飛び込んだ。

 少女の頭と胸を覆うように、自分の体をかぶせる。
 背中に、次々と重さが乗った。尖った踵、ラバーソール、荷物の角。

 肺から、勝手に空気が押し出される。
 呼吸のたびに、肋骨がきしんだ。

 耳元で、少女の声が何かを叫んでいた。
 泣きながら首を振っている気配だけが伝わる。
 言葉は、周りの悲鳴と足音に完全にかき消されていた。

(……ああ)

 灰蛇絡は、石畳の冷たさと、背中の重さだけを覚えていた。

(こういうときに、殴りに来るんだよ、红虎は)

 そんな考えが、どこからか浮かんで。
 そこまでで、意識がふっと切れた。

 大通りの真ん中で、蛇の死骸と人の波の中へ、男の体が沈んだ。


 *


 人のざわめきが、少しずつ普通の音に戻っていった。

 大通りの真ん中には、蛇の死骸と、焼け焦げた跡と、ひとり倒れた男だけが残された。
 灰蛇絡は仰向けに転がされている。胸が浅く上下しているのが、近くまで行けば分かる程度だった。

「救急車呼んだぞー!」
「こっちだ、こっち!」

 誰かが叫び、誰かが腕を振る。

 少女は、その少し外側にいた。
 膝に力が入らず、その場に座り込むような恰好になっている。
 さっきまで頭上を通り過ぎていった靴の底の感触が、まだ背中に残っていた。

 赤いシャツの男が、灰蛇絡のそばでしゃがみ込んでいた。
 蛇の残骸を踏まないようにしながら、腕と足の角度を直し、頭の下に自分の上着を丸めて敷く。

「……よくやるね、アンタも」

 聞こえたか聞こえないか分からないくらいの声で、男が呟いた。

 やがて、入口ゲートの方から救急車のサイレンが近づいてくる。
 数人の隊員が担架を抱えて走って来た。

「こっち! 蛇はもう動いてねえ!」

 赤いシャツが腕を上げる。
 短い指示のやり取りと一緒に、灰蛇絡の身体が担架に移されていく。
 髪が、担架の端を一度撫でてから、そこに収まった。

 少女は、少し離れた場所から、その様子をぼんやりと見ていた。

 担架が人波を割り、入口ゲートの方へ運ばれていく。
 赤い光が、提灯の列を赤く塗り直していた。

 担架の赤い影が見えなくなったところで、少女はようやく息を吐いた。

 肩から力が抜けて、その場にへたり込んだ。

 人の波は、さっきまでよりずっと薄くなっていた。
 まだざわざわとした声は残っているけれど、さっきのような押し合いはない。

 蛇の死骸は、ビニール袋とトングで黙々と片付けられていく。
 水を撒くホースの音が、油と血の匂いを少しずつ薄めていった。

 その上を、冷たい風が通り過ぎる。

 見上げると、提灯の列の切れ間から、丸いものが覗いていた。
 雲の切れ間に、白い月が出ていた。今夜が満月だということを、さっきまで忘れていた。

 少女は、額にかかった前髪を指で押さえた。
 指先がぬるりとして、遅れて血だと分かった。

「おい、小姑娘()

 少し離れたところから声がした。

 振り向くと、赤いシャツの男が立っていた。
 さっきまで大通りの真ん中で怒鳴っていた男だ。

 ウィッグはずれていて、こめかみから茶色い本来の髪がのぞいている。
 喉もとから肩にかけて、さっきの蛇に噛まれた傷がいくつか見えた。

「さっきは、無茶させたな」

 男は、頭を一度だけ掻いた。

「入口側、助かった。あそこで詰まってたら、もっとひどいことになってた」

 少女は、小さく首を振る。

「……わたしのほうこそ、すみません」

 答えてみて、自分の声がかすれているのに気づく。

「ん?」

「红虎さんじゃないのに、红虎さんってことにしてしまって」

 男は、ほんの一瞬だけ顔をしかめた。
 すぐに、肩を落として笑う。

「まあ、今夜限定の“红虎”ってことで勘弁してくれよ」

 そう言って、拳を軽く握って見せる。

「あいつのほうは、とりあえず生きてはいる」

 そう付け足してから、自分でちょっと苦笑した。

 少女は、何と返せばいいか分からず、小さく頭を下げた。

「ありがとうございました」

 それだけ言うのがやっとだった。

 男は、片手をひらひらと振って背を向けた。それ以上何も言わない。

 ころ、と、小さな音がした。

 男のポケットのあたりから何かがこぼれ、石畳の上を転がってくる。
 少女の足元まで転がったそれが、屋台の灯りを受けて、一瞬だけ七色に光った。

 少女は、身をかがめてそれを拾い上げた。

 指先ほどの大きさの、丸くカットされた石だった。
 表面には、細かいひびが何本も走っている。
 ひびのひとつひとつが光を折り返して、どこか玩具みたいなきらめき方をしていた。

「あの」

 少女は、去っていく背中に声をかけた。

「……落としましたよ」

 赤いシャツの男が、そこで立ち止まる。
 振り返った視線が、少女の掌の上の石に落ちた。

「……ああ」

 男は、ほんの少しだけ眉を動かした。

「やるよ」

「え?」

 少女は、思わず聞き返す。

 男は、それ以上近づいてくるでもなく、手も伸ばさなかった。

 少女は、掌の石をもう一度見下ろす。

「これは?」

 短く、それだけ尋ねた。

 男は、少しだけ間を置いてから答える。

「清王朝のダイヤだよ」

 それきりだった。

 説明も、冗談も足さない。

 男は、軽く顎を引いただけで、くるりと背を向ける。
 大通りの端のほうへ向かって歩き出す。

 途中で誰かに呼び止められ、二、三言だけ指示を飛ばし、それから今度こそ出口の方へと歩みを向けた。

 少女のほうは、もう呼び止めなかった。
 赤いシャツの背中が、提灯と人波の向こうへ小さくなっていく。

 残されたのは、小さな石と、冷えかけた屋台街の空気だけだ。

 少女は、そっと掌を握った。
 ひんやりと丸い。

 腕をゆっくり伸ばす。
 石を、空にかざした。

 提灯の列の向こう、切れ間に丸い月が浮かんでいた。
 その手前にガラス玉がひとつ挟まる。

 少女は、石を目の高さまで持ち上げた。
 ひびの入ったガラス越しに、満月をのぞき込む。

 月の輪郭が、透き通った縁で細く削られる。
 石の中で、白い丸がいくつもの欠片に割れた。
 切り分けられた月のかけらの間を、遅れて小さな光点がいくつか滑っていく。
 雲の隙間の星が、石の中で増えたみたいに見えた。

 動かす角度をほんの少し変えるたびに、光がばらばらにほどけては、また集まる。

 少女が息をするのを一度忘れたときだった。

「いい月だね」

 背中のほうから声が落ちてきた。

 少女は、肩をすくめて振り向いた。

 大通りの端の影に、背の高い女がひとり立っていた。

「アンタ──」

 白と黒が半分ずつに分かれたスーツ。
 同じように、左右できっぱり色の違う長い髪。

「劉炎嵐って、知ってるか?」

 女は、そう言った。

「……炎嵐、くん?」

 少女の手の中で、ガラス玉の月が転がる。




 ──第二回戦【掌の月】 Fin.

 ──To be continued... 第三回戦へ


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