ダンゲロスSS上海
二十の鍵と脱出経路
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dangerousss_shanghai
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重い体を這わせ、土を掻く。
指の感覚はもはや無い。
痛みが痺れに変わり、いつしか全く失われたことは、幸か不幸か。
指の感覚はもはや無い。
痛みが痺れに変わり、いつしか全く失われたことは、幸か不幸か。
暦の上では春が来ているはずだが、夜には霜が下り、昼は木陰を除けば烈日に苛まれる。
首を持ち上げることができない。
背中と腹を潰されているような気がする。
首を持ち上げることができない。
背中と腹を潰されているような気がする。
啓蟄を糧にし、土に染みた朝露を舐め、腕の力だけで五体を引き摺る。
疲労と衰弱の区分も付きはしない。
原因の分からない震えと度々訪れる身体中の痛みを恐れながら、進み続けた。
疲労と衰弱の区分も付きはしない。
原因の分からない震えと度々訪れる身体中の痛みを恐れながら、進み続けた。
太陽も月も方方を動き回っているため、方角などというものは知れない。
強い意志が、生きようと希求しているのではない。
生きることも死ぬこともできない今、身体が勝手に動いている。
強い意志が、生きようと希求しているのではない。
生きることも死ぬこともできない今、身体が勝手に動いている。
手のひらが何か柔らかい泥濘に触れた。
温かい。
そして、ひどく臭う。
思考を伴わずとも、身体がゆっくりと小さな幅で腕を前に出すものだから、手のひらが、腕が、肘が、それに触れた。
温かい。
そして、ひどく臭う。
思考を伴わずとも、身体がゆっくりと小さな幅で腕を前に出すものだから、手のひらが、腕が、肘が、それに触れた。
胸の辺りまで汚れたことで、その正体に気が付いた。
気が付けば、太陽を隠し射す影が見下ろしている。
力を振り絞って顔を上げ、霞んだ眼が斑の尻を写す。
両の腕はやがて吸い付けられたように地面に落ち、意識は完全に失われた。
気が付けば、太陽を隠し射す影が見下ろしている。
力を振り絞って顔を上げ、霞んだ眼が斑の尻を写す。
両の腕はやがて吸い付けられたように地面に落ち、意識は完全に失われた。
足元に転がる人間に関心を持つ様子も無い。
牛は草を喰み、屎を撒く。
牛は草を喰み、屎を撒く。
ーーー
「君は全く不幸な奴だね、お嬢さん」
紳士は蹲る少女を見下ろす。
少女の体には段ボールの梱包に使用するような粘着テープが何周も巻きつけられ、手足の動きは完全に封じられていた。
少女の体には段ボールの梱包に使用するような粘着テープが何周も巻きつけられ、手足の動きは完全に封じられていた。
「恨むならば君の親と、私に依頼を寄越したクソ野郎どもを恨むといい。私は優しさを十分に見せている、そうだろう」
少女の頬は赤く腫れている。泣き腫らした血色ではない。
誰が見ようとそれは明らかな打撲痕であり、まさに目の前の紳士がこの少女に与えた「優しさ」である。
誰が見ようとそれは明らかな打撲痕であり、まさに目の前の紳士がこの少女に与えた「優しさ」である。
「仮に君が同じ空間にいることに一片の喜びも湧かない豚だったならば、拘束するためにテープなど使わないよ。手足を切り落とし、焼いて止血する。舌や歯を傷つけてしまえば助けも呼べないだろうね。それをしないのは、君に少なからず可愛げがあるからだ。分かるね」
下衆な言葉に対して、少女は嫌悪を表さないよう努力しなくてはいけなかった。
先程は紳士の言動に憎まれ口を聞いたことで頬を打たれ、口をテープで塞がれる羽目になった。
先程は紳士の言動に憎まれ口を聞いたことで頬を打たれ、口をテープで塞がれる羽目になった。
少女の母親と誘拐の依頼者は間も無く交渉の連絡を取る。
母親が心良い返事をすれば、少女は解放される。
しかし、躊躇を見せるようなことがあれば。
母親が心良い返事をすれば、少女は解放される。
しかし、躊躇を見せるようなことがあれば。
祈る他なく、少女は目を閉じた。
紳士はそれからも何度か彼女に声をかけていたが、反応が薄いと分かるとやがて沈黙を選んだ。
交渉までにそれ以上人質を傷付ける必要はないと考えたのだろう。
紳士はそれからも何度か彼女に声をかけていたが、反応が薄いと分かるとやがて沈黙を選んだ。
交渉までにそれ以上人質を傷付ける必要はないと考えたのだろう。
何と引き換えにするため拐かされたのか、少女は多くを知らない。
彼女の母親は海外の顧客との取引を行っている個人の貿易商だ。
周囲の友達に比べると家庭が豊かだという自覚はあった。
しかし、具体的にどのような取引が彼女の家に富をもたらしているのか、踏み込んで知ろうとしたことは無かったのだ。
彼女の母親は海外の顧客との取引を行っている個人の貿易商だ。
周囲の友達に比べると家庭が豊かだという自覚はあった。
しかし、具体的にどのような取引が彼女の家に富をもたらしているのか、踏み込んで知ろうとしたことは無かったのだ。
誘拐犯と母親の間でどのような交渉が行われているのか、少女には知る由がない。
しかし唯一の家族である一人娘を人質にするというのだから、結構な条件を突きつけていることには間違いない。
しかし唯一の家族である一人娘を人質にするというのだから、結構な条件を突きつけていることには間違いない。
母親は少女を愛してくれている。
そのことに疑いはない。
それでも、交渉が母親の闇に触れるような内容であった場合。
彼女の知らない、恐ろしい家族の一面を垣間見る時が来たのかもしれない。
そのことに疑いはない。
それでも、交渉が母親の闇に触れるような内容であった場合。
彼女の知らない、恐ろしい家族の一面を垣間見る時が来たのかもしれない。
怪しさを感じたことはあった。
それでも、疑うことは家族の絆を傷付けることだと考えていたからこそ、少女は何も感じていないふりをしていた。
それでも、疑うことは家族の絆を傷付けることだと考えていたからこそ、少女は何も感じていないふりをしていた。
恐ろしい。
見捨てられること、酷い目に遭うこと、そしてとんでもない秘密に触れてしまうこと。
目を瞑って、少女は眠ろうとした。
できるならば、何も気が付かないうちに全て──18年の人生すらも──終わってしまえばいいと願いながら。
見捨てられること、酷い目に遭うこと、そしてとんでもない秘密に触れてしまうこと。
目を瞑って、少女は眠ろうとした。
できるならば、何も気が付かないうちに全て──18年の人生すらも──終わってしまえばいいと願いながら。
意識を朦朧とさせることすら叶わず、紳士が電話を取る物音が耳に入る。
「ええ、ええ」
「心得ましたよ」
「お嬢さんは如何にいたしましょう」
「ええ、仰せの通りに」
「心得ましたよ」
「お嬢さんは如何にいたしましょう」
「ええ、仰せの通りに」
狸寝入りを決めながらも、少女は聞き耳を立てる。
電話の向こうの声は聞き取れないが、紳士は特段喜ぶ様子も落胆する様子もない。
どのように受け止めるべきか、心の準備をしておくべきか、決めかねていると、
電話の向こうの声は聞き取れないが、紳士は特段喜ぶ様子も落胆する様子もない。
どのように受け止めるべきか、心の準備をしておくべきか、決めかねていると、
「良かったじゃないか。母君はお嬢さんのことをとても大事にしているようだ。我々のお願いを聞き入れてくれたそうだよ」
おずおずと瞼を開いて紳士を見つめる。
彼に嘘をついて揶揄っている様子は無かった。
母親を少しでも疑ったことを恥じると共に、解放の喜びを少しずつ実感し始める。
彼に嘘をついて揶揄っている様子は無かった。
母親を少しでも疑ったことを恥じると共に、解放の喜びを少しずつ実感し始める。
しかしそこで少女は気が付いた。
紳士に彼女の拘束を解く様子はない。
混乱に陥りかける彼女に紳士は優しく声をかける。
紳士に彼女の拘束を解く様子はない。
混乱に陥りかける彼女に紳士は優しく声をかける。
「口約束だけで君を手放すわけにはいかないからね。母君の誠意を確かめて漸く、君も役割御免となる」
機嫌良さげに語る紳士の携帯電話が、しばらく経って再び鳴らされた。
「なるほど、なるほど」
「それでは問題はないのですね」
「結構、結構。それでは予定通りに」
「それでは問題はないのですね」
「結構、結構。それでは予定通りに」
通話を終了した紳士の顔は上気していた。
少女は異変を察知する。
しかし質問も、逃走も許されてはいなかった。
少女は異変を察知する。
しかし質問も、逃走も許されてはいなかった。
紳士は先程まで通話に使っていたスマートフォンを構え、少女にカメラを向けた。
三脚を立て、端末を固定する。
三脚を立て、端末を固定する。
「交渉は決裂だそうだ。たった今、依頼主の下にチンピラが押し寄せたらしい。何事もなく返り討ちにしたそうだがね」
紳士は少女へとゆっくり近づいていく。
ロングノーズの革靴が、リズムを刻む。
ロングノーズの革靴が、リズムを刻む。
「簡単な質問だけで口を割ったそうだよ。母君が金を積んで彼らを派遣したことは間違いない。こうなった以上、私が君に仕置を与える必要性は理解しているね」
動けない獲物へと骨ばった手を伸ばしたその時、おかしな音が部屋に響いた。
ぺちょり、ぺちょり。
ぺち、ぺち。
ぺち、ぺち。
粘ついた液体の滴る音がした。
部屋は隠されたどこかの倉庫で、数少ない窓は暗幕で塞がれている。
照明は紳士と少女の近くに用意された単2電池で起動するランタン一つに限られていた。
部屋は隠されたどこかの倉庫で、数少ない窓は暗幕で塞がれている。
照明は紳士と少女の近くに用意された単2電池で起動するランタン一つに限られていた。
「……?なんの音だろう。水漏れだろうか」
紳士がランタンを手に取り、振り返る。
彼が見たのは丁度、宙に割れた闇が塞がれている光景だった。
彼が見たのは丁度、宙に割れた闇が塞がれている光景だった。
逆光にちらつく人影が、嵩増す闇に姿を消す。
「……侵入者か!!」
紳士は素早く前後左右へと照明を掴んだ手を伸ばし、辺りを見回した。
始まりの異変と同様、粘つく音がする方向に光を向けるが、そこに人の気配はない。
なんらかのブラフが仕掛けられている。
始まりの異変と同様、粘つく音がする方向に光を向けるが、そこに人の気配はない。
なんらかのブラフが仕掛けられている。
完全に相手を見失った。
不明人物は突如としてこの場に現れた以上、倉庫を自由に出入りする術がある。
紳士が今最も困るのは、人質を逃がされることだ。
手早く少女を脇に抱え込むべく、彼女の元へ走り込む、途端。
不明人物は突如としてこの場に現れた以上、倉庫を自由に出入りする術がある。
紳士が今最も困るのは、人質を逃がされることだ。
手早く少女を脇に抱え込むべく、彼女の元へ走り込む、途端。
紳士の背に打撃が打ち込まれた。
一発、二発、三発。
軽く受け流すことのできる威力ではない、さりとて致命的ではない。
紳士は闘争に特化した戦闘魔人だ。
一発、二発、三発。
軽く受け流すことのできる威力ではない、さりとて致命的ではない。
紳士は闘争に特化した戦闘魔人だ。
痛みを気に留めないよう振る舞いながら、彼は振り返る。
ランタンの光が侵入者の姿を照らした。
ランタンの光が侵入者の姿を照らした。
肩より上で短く切られた髪。
丈が長い灰緑色のマウンテンパーカー。
革の黒手袋。
白のハーフパンツ。
燻んだ色のジャンプブーツ。
丈が長い灰緑色のマウンテンパーカー。
革の黒手袋。
白のハーフパンツ。
燻んだ色のジャンプブーツ。
細身で、可愛らしくすらある、年若い少女だ。
しかし、パーカーの裾から覗く異物を発見し、紳士の背に戦慄が走った。
銀色に輝く細い線の束。
ユラユラと揺れるそれは、イソギンチャクのように先端を放射状に広げ、閉じ、撚り捻り、不定形の指を形作る。
しかし、パーカーの裾から覗く異物を発見し、紳士の背に戦慄が走った。
銀色に輝く細い線の束。
ユラユラと揺れるそれは、イソギンチャクのように先端を放射状に広げ、閉じ、撚り捻り、不定形の指を形作る。
「……噂の『ネイルアーティスト』か!」
人質への注意を断ち、全神経を『ネイルアーティスト』へ向ける。
「ご存じでしたか、光栄です。少しは名が売れてきたようですね」
倉庫はこの人数が居並ぶことだけを考えれば十分過ぎるほどに広い。
それでも『ネイルアーティスト』の声はあまりにも響かない。
声量が足りていないわけではない、しかし声質を形成する和音から、何らかの要素が決定的に欠けている。
それでも『ネイルアーティスト』の声はあまりにも響かない。
声量が足りていないわけではない、しかし声質を形成する和音から、何らかの要素が決定的に欠けている。
「それでもですね、ネイルアーティストなど世の中には腐るほどいるわけで。私個人の名前を覚えて頂けると更に更に、嬉しいです。改めて自己紹介をいたしましょう。倒萩 です」
倒萩は素早く紳士の側面に回り込むと、足首の高さに蹴りを入れた。
無防備な背後からの蹴撃、尾撃、蹴撃の一連すらも有効とはならなかった。
まずは体格の違いから素早さで撹乱し、着実に崩す。
無防備な背後からの蹴撃、尾撃、蹴撃の一連すらも有効とはならなかった。
まずは体格の違いから素早さで撹乱し、着実に崩す。
しかし彼女の足は途中で「何か」に阻まれた。
間を置かずに「何か」が倒萩の身体に打ち当てられ、軽い身体を勢いよく吹き飛ばす。
間を置かずに「何か」が倒萩の身体に打ち当てられ、軽い身体を勢いよく吹き飛ばす。
「自己紹介は少しくどかったかな、君が名前を呼ばれる機会など来やしないのだから。今後一切、永遠にね」
紳士のツーピーススーツのパンツははち切れ、破れている。
彼はベルトを外して破損した布切れを脱ぎ捨てた。
褌一枚となった彼は、『ネイルアーティスト』の一撃を防ぎ、更には強烈な攻撃を加えたモノの姿を曝け出す。
彼はベルトを外して破損した布切れを脱ぎ捨てた。
褌一枚となった彼は、『ネイルアーティスト』の一撃を防ぎ、更には強烈な攻撃を加えたモノの姿を曝け出す。
「ケホ、ケホ。んん、痛い……」
遠く壁際まで飛ばされた倒萩はゆっくりと立ち上がり、敵が握る灯火で、その姿を確認した。
「ふんどしですか。和の文化を、深く愛しているのですね……」
「他に言うことがあるだろう?」
「急に脱ぎ出したものだから、驚きました」
「他に言うことがあるだろう?」
「急に脱ぎ出したものだから、驚きました」
倒萩を満足に照らすには、紳士の手にある明かりは弱過ぎる。
しかしこの姿となった彼に今、それが問題にはならなかった。
しかしこの姿となった彼に今、それが問題にはならなかった。
「君が一切言及しないようだから、私の口から説明しよう。これこそが私の魔人能力、名を『脚揺 』!!」
彼の下半身には太く逞しい脚が、六本も生え揃っていた。
革靴とソックスを脱ぎ去り、硬い角質に覆われた大きな足が各々コンクリートを踏み締めている。
虫のように器用に動く多足は重心を安定させるのみならず、当然ながら地を蹴る効率を何重にも倍増させる。
彼が倒萩の目前まで接近するまで、彼女が吹き飛ばされるよりも長い時間はかからなかった。
革靴とソックスを脱ぎ去り、硬い角質に覆われた大きな足が各々コンクリートを踏み締めている。
虫のように器用に動く多足は重心を安定させるのみならず、当然ながら地を蹴る効率を何重にも倍増させる。
彼が倒萩の目前まで接近するまで、彼女が吹き飛ばされるよりも長い時間はかからなかった。
「君は見たことがあるか!? 最大時速二百kmで走りながら繰り出される前蹴りを!」
槍のように突き出された脚の二本を、間一髪で回避する。
しかし次の攻撃は休む暇もなく繰り出される。
しかし次の攻撃は休む暇もなく繰り出される。
「想像したことがあるか!? 刹那に三度、異なる部位へと浴びせられるソバットを!!」
構えた両腕のブロックは体重と脚力で弾き飛ばされ、肩と腹に痛打が見舞われる。
「さあ、くたばりたまえ。そして彼岸の鬼へ伝え聞かせるがいい! 両腕への足緘(あしがらみ)と、首への三角絞で構成される、私のフィニッシュホールドを!!」
倒萩の細腕が無骨な四本の脚に捕えられ、触れるだけでも折れそうな首は褌の股に固定される。
筋や骨が違える音、例によって欠けた音質の踠く声。
喘鳴にも似た音は潰され途絶えた。
筋や骨が違える音、例によって欠けた音質の踠く声。
喘鳴にも似た音は潰され途絶えた。
生粋の戦闘魔人の身体能力、磨き上げた絞め技。
束ねた青竹ですら股に挟めば瞬時に折り割れる大腿筋の持ち主は、獲物の絶望を愉しむべくゆっくりと力を強めていく。
紳士は勝利を確信する。
束ねた青竹ですら股に挟めば瞬時に折り割れる大腿筋の持ち主は、獲物の絶望を愉しむべくゆっくりと力を強めていく。
紳士は勝利を確信する。
小さいが数多き痛み。
血が滲み、掻き乱される。
獲物の首を挟んだ腿が乱雑に刃物で突かれたようだ。
見れば伸ばされた尾の先端が彼の腿を刺し貫いている。
血が滲み、掻き乱される。
獲物の首を挟んだ腿が乱雑に刃物で突かれたようだ。
見れば伸ばされた尾の先端が彼の腿を刺し貫いている。
「姑息な真似を……もはや君の惨死は必然だのに」
僅かに緩んだ拘束から、倒萩は抜け出そうとしていた。
押し付けられていた地面を溶かし、身体に付着したゲル状の液体で摩擦を減らしながら地面に沈み込んだのだ。
紳士の脚が幼魚を追うべく泥濘を探ると、数メートル先に彼女は打ち上げられる。
その間にも彼の脚は地深くに固められた。
押し付けられていた地面を溶かし、身体に付着したゲル状の液体で摩擦を減らしながら地面に沈み込んだのだ。
紳士の脚が幼魚を追うべく泥濘を探ると、数メートル先に彼女は打ち上げられる。
その間にも彼の脚は地深くに固められた。
ダラリと外れた肩を垂らしながら、倒萩は微笑んだ。
「ふんどしが死に場所は、嫌ですから。全身全霊で免れますよ……ケホッ」
「そうは言うが、息も絶え絶えじゃないか。両腕にも力が入らないだろう。君を逃すと思うかい? 嬲られるのが趣味というならば、私もジェントルマンシップに則ろう」
「ふんどしが死に場所は、嫌ですから。全身全霊で免れますよ……ケホッ」
「そうは言うが、息も絶え絶えじゃないか。両腕にも力が入らないだろう。君を逃すと思うかい? 嬲られるのが趣味というならば、私もジェントルマンシップに則ろう」
地面に固められた紳士の脚が消失した。
四本となった脚は瞬時に六本に戻っている。
倒萩の尾が傷付けた痕跡も残っていない。
生え変わったのだ。
四本となった脚は瞬時に六本に戻っている。
倒萩の尾が傷付けた痕跡も残っていない。
生え変わったのだ。
「そんな、脱皮するカニじゃないんですから」
「ハハ、蟹挟(かにばさみ)を御所望かい?」
「ハハ、蟹挟(かにばさみ)を御所望かい?」
余裕を持った速度で、紳士は倒萩へと接近する。
反抗する体力は削り切った。
尾による反撃はあり得るが、能力もその器官に頼っていることは明確。
同時に仕掛けてくることはできないだろう。
次に捕えた際は力づくで巻いて結んで俯せに寝かせてしまえばいい。
反抗する体力は削り切った。
尾による反撃はあり得るが、能力もその器官に頼っていることは明確。
同時に仕掛けてくることはできないだろう。
次に捕えた際は力づくで巻いて結んで俯せに寝かせてしまえばいい。
注意すると尾は地面を離れて彼に向けられていた。
握り掴む好機だ。
握り掴む好機だ。
六足の急加速で飛び掛かろうとした紳士、その身体が垂れ落ちるカーテンに遮られた。
スライムのような、クリームのような。
ドロリとした粘着物が彼の全身に絡みついた。
すかさず倒萩が尾で触れると、被覆する粘液は瞬時に石と鋼の拘束となる。
スライムのような、クリームのような。
ドロリとした粘着物が彼の全身に絡みついた。
すかさず倒萩が尾で触れると、被覆する粘液は瞬時に石と鋼の拘束となる。
「天井を垂らしました。少し広い部屋で、一度は吹き飛ばされたものだから、誘導には苦労しましたが……」
続いて尾が地面に触れると、紳士は体を包む石塊と一緒に地面にゆっくりと飲み込まれていく。
「私を殺すつもりか!? 言っておくが私の雇い主は邪魔者に容赦することなど無いのだぞ!反撃にあったチンピラ共は一体どうなったことだろうな、彼らを少しでも刺激したくなければ、私の扱いには気を使うことだ!」
「あなたは、私がネイルアーティストだとご存じのはずでしょう。それならば、私が殺しを苦手にしていることも当然知っているはず。あなたのように非道いことはしませんよ」
「あなたは、私がネイルアーティストだとご存じのはずでしょう。それならば、私が殺しを苦手にしていることも当然知っているはず。あなたのように非道いことはしませんよ」
往生際を忘れて喚く紳士を肩まで浸からせ、床を固め直した倒萩はようやく、捕えられた少女と顔を合わせた。
「お顔に怪我をされているようですが、ご無事で何よりです」
誘拐された少女よりも倒萩は幼く、怪我も大きかった。
しかし、優しげな声をかける相手も異形の魔人には違いがなく、囚われの少女はその顔に見覚えがない。
口元のテープを剥がされながら、何を話せばいいものか、彼女には分からない。
新たな誘拐犯の可能性も残されているし、そうでなくてもまた、身内の闇に触れる存在ではあるのだろうから。
しかし、優しげな声をかける相手も異形の魔人には違いがなく、囚われの少女はその顔に見覚えがない。
口元のテープを剥がされながら、何を話せばいいものか、彼女には分からない。
新たな誘拐犯の可能性も残されているし、そうでなくてもまた、身内の闇に触れる存在ではあるのだろうから。
「露波 タッカーさんですね、お母様の依頼で助けに参りました。ネイルアーティストの、倒萩です」
ロハは逡巡の末、頷いた。
ーーー
冷え冷えとした板張りの小屋。
染みついた生臭い悪気(あっき)は、七日間をかけて濃厚に熟成している。
ガチガチと歯を打ち鳴らす少女は、椅子の背もたれと肘掛け、そして脚に、ワイヤーロープで固く結びつけられていた。
染みついた生臭い悪気(あっき)は、七日間をかけて濃厚に熟成している。
ガチガチと歯を打ち鳴らす少女は、椅子の背もたれと肘掛け、そして脚に、ワイヤーロープで固く結びつけられていた。
「何泣いてやがんだよォ! こんなクソ臭え場所に隠れなきゃいけない俺の方が泣きてえんだわ。そういうの、理解れよ…!」
禿頭の髭面が喚き、少女を威嚇する。
「歯を抜いたらの消毒方法なんて分からねえし、顔が腫れたら萎えるからよォ、爪だけで勘弁してやってるじゃねえか。叫ぶんじゃねえよ、うるせえな…」
少女の両手両足の先では今もまだ傷口が塞がらず、小さな赤い川を作っている。
土と埃と臭気を催す汁の中、か弱い指先から剥離した半透明の鱗が種々の汚れに浸されていた。
土と埃と臭気を催す汁の中、か弱い指先から剥離した半透明の鱗が種々の汚れに浸されていた。
少女には物心ついた頃から両親がいなかった。
裕福な地主をしていた父型の祖父に引き取られ、自然豊かな田舎で幸せに暮らしていた。
花や蝶、木の実や小鳥を眺め、透明な細流に足を入れる。
裕福な地主をしていた父型の祖父に引き取られ、自然豊かな田舎で幸せに暮らしていた。
花や蝶、木の実や小鳥を眺め、透明な細流に足を入れる。
屋敷の広大な書庫に足を運び、読み方も分からない感じや異国語で沢山のページに目を落とす。
代わり映えのない日々は穏やかで、樹冠近くの巣で陽を浴びる雛のように優しく愛に包まれていた。
代わり映えのない日々は穏やかで、樹冠近くの巣で陽を浴びる雛のように優しく愛に包まれていた。
凄惨な暴力に晒される兆しはあった。
生活圏では見かけなかったような威圧的な若者が敷地内に踏み込み、祖父や少女を脅かすことが増えていた。
花火を上げ、単車を乗り回し、ゴミを捨てる。
落書きをし、注射器を捨て、大声で下品な言葉を投げつける。
生活圏では見かけなかったような威圧的な若者が敷地内に踏み込み、祖父や少女を脅かすことが増えていた。
花火を上げ、単車を乗り回し、ゴミを捨てる。
落書きをし、注射器を捨て、大声で下品な言葉を投げつける。
エスカレートする凶行を受けて警察に相談を入れた祖父だったが、念のために見回りに来た警官は落書きのいくつかを目撃したのみで、子供の遊びと決めつけて帰ってしまった。
「いずれまた、元の暮らしに戻れるさ。ああいった輩にとって、田舎は刺激が少なく退屈だろう」
孫娘にかけた老爺の言葉は、結局のところ自分を慰めるための言い訳でしか無かった。
庭や館内、敷地の整備のために住まわせていた使用人が一人二人と辞めて行き、広い屋敷は管理が行き届かずに寂れていく。
庭や館内、敷地の整備のために住まわせていた使用人が一人二人と辞めて行き、広い屋敷は管理が行き届かずに寂れていく。
使用人が運転する車に乗って街の学校への道を往復するのが少女の日常だったが、その日は少し違った。
彼女は微睡みながら、窓の外の夕陽が沈んでいくのを眺めていた。
いつもならば曲がるはずの道を曲がらず、車が直進しているので指摘すると、間違えた訳ではないのだと返事があった。
彼女は微睡みながら、窓の外の夕陽が沈んでいくのを眺めていた。
いつもならば曲がるはずの道を曲がらず、車が直進しているので指摘すると、間違えた訳ではないのだと返事があった。
「普段は通らないかもしれませんが、たまには気分転換もいいですよ」
平然とした運転手の説明を受け、結局は暗い森ばかりの景色に飽きてしまい、彼女は完全な眠りに落ちた。
車の扉が開けられる音がした。
半目のままシートベルトを外し、外に踏み出した所で自宅が見当たらず探したが、少女は強く腕を掴まれて小屋へと引き摺り込まれた。
半目のままシートベルトを外し、外に踏み出した所で自宅が見当たらず探したが、少女は強く腕を掴まれて小屋へと引き摺り込まれた。
「ジジイが持ってる土地切り拓いてニュータウンを作りたいって偉い人が言っててさあ、俺もそれに協力したいワケ。お前からもジジイにお願いしてくれ」
運転手が戸の外で礼を告げて帰った後、凶暴な禿頭の男は彼女に語りかけた。
「警察に捕まりますよ。すぐに帰してくれるならば、寄り道で遅くなったと言い訳もできるのですが」
口の中に酸味があった。
腹を急に蹴られたらしい。
男の行動の意味が、少女には分からなかった。
罪を重ねることにはリスクしかないはずなのに。
腹を急に蹴られたらしい。
男の行動の意味が、少女には分からなかった。
罪を重ねることにはリスクしかないはずなのに。
「これから切り拓く山にテメーとジジイの墓を掘って、その上にアーバンな生活を演出しても良いんだぜ、俺はよ。もしかして法とか社会価値だとかで俺を脅そうってのか……? そうやって権力をひけらかす奴を見た時にはさ、徹底的に戦うのが男ってもんだろ」
何にヒートアップしているのか分からず口を閉じた少女だが、禿頭が持ち込んだ録音機には一週間をたっぷりとかけて、祖父に贈られる生存報告が貯められていった。
食事は謎の流動食。
服は体の上に毛布をかけただけ。
衛生のために一日に二度お湯をかけられ、汚れた布で雑な清拭が行われる。
服は体の上に毛布をかけただけ。
衛生のために一日に二度お湯をかけられ、汚れた布で雑な清拭が行われる。
録音の時間に痛めつけられ、それ以外の時間は眠るに眠れず、朦朧として過ごす。
想定以上にこの生活が長引いているようで、禿頭は更に怒りっぽくなった。
想定以上にこの生活が長引いているようで、禿頭は更に怒りっぽくなった。
「愛しい孫の爪を一揃い送りつけたら、『土地を売るのは親族に引き止められてる』だなんて泣き言漏らしやがってさあ。本当に使えないジジイだよアイツ。監視されてるとか言っちゃあいたけど、そんなん自分でどうにかしろよな……!」
警察や親族に誘拐のことを漏らさないよう口止めしているそうだが、限界が近づいていることを禿頭も気にしているらしい。
「今からでも……諦めた方が……」
少女は男が哀れになってきた。
果断と無謀を勘違いし、手段を選ばず手を伸ばしさえすれば誰でも欲しいものを入手できると思い違いをしている。
果断と無謀を勘違いし、手段を選ばず手を伸ばしさえすれば誰でも欲しいものを入手できると思い違いをしている。
そんな短慮な相手に命を委ねている自分自身も、熟(つくづく)可哀想な気がしてくる。
それでつい口を滑らせてしまったのだ。
舐められていると思い込んだら理不尽に怒り散らす性根は、嫌になるほど思い知らされていたというのに。
それでつい口を滑らせてしまったのだ。
舐められていると思い込んだら理不尽に怒り散らす性根は、嫌になるほど思い知らされていたというのに。
「忘れたかよ! テメーらを殺して終わりでも俺は構わねえんだって! 土地が相続されるならそれを改めて狙うだけだしな……、そう、そうだよ。テメーらは事故に偽装して殺して。リトライできるじゃん。言いつけ通りに一旦諦めるのもアリかもなぁ!」
目を血走らせ、男はポケットにしまっていたナイフを抜き取った。
少女は身をよじった。
当初は姿勢を戒めて身動きが取れなくしていた鉄の縄が、七日の間にほんの少し緩んでいることに気が付いた訳ではない。
必死で体を揺らすと、縛り付けられた椅子も動いた。
椅子が正面へと倒れ、肘掛けが靴の上から禿頭の親指を潰す。
少女は身をよじった。
当初は姿勢を戒めて身動きが取れなくしていた鉄の縄が、七日の間にほんの少し緩んでいることに気が付いた訳ではない。
必死で体を揺らすと、縛り付けられた椅子も動いた。
椅子が正面へと倒れ、肘掛けが靴の上から禿頭の親指を潰す。
呻き声を上げて敵はナイフを取り落とす。
少女の上腕は背もたれに縛り付けられていたが、肘から先は自由だった。
少女の上腕は背もたれに縛り付けられていたが、肘から先は自由だった。
無意識の行動である。
ナイフを拾い、滅茶苦茶に振り回した。
重症を負わせた訳ではない。
しゃがみ込んだ禿頭の手に浅く線を引いただけだ。
それでも彼は戸を開けて逃げ出した。足を引きずり、泣きながら。
ナイフを拾い、滅茶苦茶に振り回した。
重症を負わせた訳ではない。
しゃがみ込んだ禿頭の手に浅く線を引いただけだ。
それでも彼は戸を開けて逃げ出した。足を引きずり、泣きながら。
籠った空気に外気が溶け込み、息をするのが少しだけ楽になった。
ナイフで拘束を解こうと縄に刃を押し当て、上下に動かすが傷つく様子もない。
幾度かの試行を経て破壊を諦め、少女は蝸牛のような姿勢のまま世界へ這い出した。
ナイフで拘束を解こうと縄に刃を押し当て、上下に動かすが傷つく様子もない。
幾度かの試行を経て破壊を諦め、少女は蝸牛のような姿勢のまま世界へ這い出した。
それから何日も経った頃、近辺の牧場で気絶しているのを発見され、彼女は病院へと運ばれた。
高熱を出して寝込み、起きた時には何もかもが変わっていた。
高熱を出して寝込み、起きた時には何もかもが変わっていた。
「君は魔人になったんだよ」
医師の診断を受けた。
厳重な拘束は解けていたが、腰からはワイヤーロープにも牛の尾にも似た、変てこな物が生えている。
見知らぬ自分の身体。
厳重な拘束は解けていたが、腰からはワイヤーロープにも牛の尾にも似た、変てこな物が生えている。
見知らぬ自分の身体。
屋敷に帰りたかったが、祖父と孫が住む場所ではなくなったことを、見知らぬ親族から聞かされた。
祖父は少女が病院で寝込んでいる間に家も土地も安く売り払ってしまった。
そのことについて親族達からは酷く叱責され、孫娘な解放されていたことは後になって知り、見舞いに訪れ、彼はその姿を見た。
祖父は少女が病院で寝込んでいる間に家も土地も安く売り払ってしまった。
そのことについて親族達からは酷く叱責され、孫娘な解放されていたことは後になって知り、見舞いに訪れ、彼はその姿を見た。
少女は退院後、祖父に会いに行った。
彼はかつての暮らしと引き換えに手にした僅かな金銭で、清貧な施設に入っていた。
屋敷での暮らしのことも、少女のことも覚えておらず、祖父はニコニコと微笑んでいた。
疾うに暖かくなった春の日差しの中、とても幸せそうな様子だった。
彼はかつての暮らしと引き換えに手にした僅かな金銭で、清貧な施設に入っていた。
屋敷での暮らしのことも、少女のことも覚えておらず、祖父はニコニコと微笑んでいた。
疾うに暖かくなった春の日差しの中、とても幸せそうな様子だった。
ーーー
丸められた紙片を広げ、手早く皺を伸ばす。
そうして右下隅に五芒星とサインを書き込む。
""路覇 タッカー""
紙面を裏返すと、先ほどまで何の書き込みもなかった真っ白な一面を黒い線がびっしりと覆い尽くしている。
中心には蛍光色の黄緑で星のマーク。
そうして右下隅に五芒星とサインを書き込む。
""路覇 タッカー""
紙面を裏返すと、先ほどまで何の書き込みもなかった真っ白な一面を黒い線がびっしりと覆い尽くしている。
中心には蛍光色の黄緑で星のマーク。
拡大、拡大、範囲変更、方角調整。
これでロハの現在地と周辺施設を案内する地図が完成した。
これでロハの現在地と周辺施設を案内する地図が完成した。
『堪輿万国全覧御宇基図 』。
自由範囲、自由倍率の地図を作成するロハの魔人能力だ。
彼女自身の手でマーキングした物は地図上にいつでも表示でき、さらには一般図以外の内容も地図の類ならば出力できる。
自由範囲、自由倍率の地図を作成するロハの魔人能力だ。
彼女自身の手でマーキングした物は地図上にいつでも表示でき、さらには一般図以外の内容も地図の類ならば出力できる。
「あの女! マジであの女!! タダじゃおかねえ!」
「だから主従関係はキッチリ植え付けてやるべきだって言ったでヤンスよアニキ!」
「うっせえ!」
「だから主従関係はキッチリ植え付けてやるべきだって言ったでヤンスよアニキ!」
「うっせえ!」
この二年間で聞き取れるようになった異国語が、背後の壁裏を行き過ぎる。
足音は十人弱のものだった。
追跡者の権限で動かせる最大限の手勢だろう。
金やコネで追加の人員を雇う可能性はあるが、それでも一度足跡を隠すことができれば、決して状況は絶望的ではない。
足音は十人弱のものだった。
追跡者の権限で動かせる最大限の手勢だろう。
金やコネで追加の人員を雇う可能性はあるが、それでも一度足跡を隠すことができれば、決して状況は絶望的ではない。
魔幇の開催する百年節、そして清王朝の秘宝盗難。
先日伝えられたニュース、またとない好機にロハは短時間で判断を働かせた。
そうして、自由への切符を入手したのだ。
終着までの道中油断は許されないが、思わず頬が緩む。
周辺に監視の目がない時間は、本当に久しぶりだった。
先日伝えられたニュース、またとない好機にロハは短時間で判断を働かせた。
そうして、自由への切符を入手したのだ。
終着までの道中油断は許されないが、思わず頬が緩む。
周辺に監視の目がない時間は、本当に久しぶりだった。
魔都上海。
チャイナマフィアの実効支配という冷ややかな暗黒とは裏腹に、賑わいは暖かさを帯びている。
現代のイスファハーンと呼称しても差し支えない一大貿易都市は、異土東西の風に運ばれた種を培い果実を得てきた。
バザールにはあらゆる品々が陳列される。
チャイナマフィアの実効支配という冷ややかな暗黒とは裏腹に、賑わいは暖かさを帯びている。
現代のイスファハーンと呼称しても差し支えない一大貿易都市は、異土東西の風に運ばれた種を培い果実を得てきた。
バザールにはあらゆる品々が陳列される。
身分、生活、護衛、交渉能力、秘密の隠滅。
ロハの望む商品も間違いなく売り出されている。
しかし、信用できる相手、使い物になる商品を探すのは骨が折れる。
逃げながらであれば尚更だ。
ロハの望む商品も間違いなく売り出されている。
しかし、信用できる相手、使い物になる商品を探すのは骨が折れる。
逃げながらであれば尚更だ。
百年節に浮かれる来賓や観光客に用はない。
普段通り営業している仕事人さえいればいいのだ。
だというのに、長く商売を続けているような相手は大抵出払っている。
聞けば盗難された秘宝に関連して、皆が緊急の用件を入れているという。
ロハは歯噛みした。
普段通り営業している仕事人さえいればいいのだ。
だというのに、長く商売を続けているような相手は大抵出払っている。
聞けば盗難された秘宝に関連して、皆が緊急の用件を入れているという。
ロハは歯噛みした。
ーー
路覇タッカー、本名 露波タッカー。
彼女は異国の血を引く日本人だ。
何故上海で別名義で生活しているのか、と問われれば誘拐されたから、と答えるしかない。
それは、かつて倒萩に救出された誘拐事件から数年後のことである。
彼女は異国の血を引く日本人だ。
何故上海で別名義で生活しているのか、と問われれば誘拐されたから、と答えるしかない。
それは、かつて倒萩に救出された誘拐事件から数年後のことである。
まずは、倉庫から帰宅した時のことから順を追って語ることとしよう。
「してないわよ、犯罪なんて」
救出され帰宅したロハが母から聞き出したのは、母親の商売と父親についてだった。
ロハは母親の商売に関して直球で疑問を投げつけた。
自分の家庭は貿易商としては不自然なほど富裕ではないか、という旨を口に出したのだ。
救出され帰宅したロハが母から聞き出したのは、母親の商売と父親についてだった。
ロハは母親の商売に関して直球で疑問を投げつけた。
自分の家庭は貿易商としては不自然なほど富裕ではないか、という旨を口に出したのだ。
初めは質問の意図すら掴めていなかった母親も、倒萩のフォローを受けて娘の疑心暗鬼に理解を示した。
そして、笑った。
そして、笑った。
「うちの家が小金持ちなのはね、あなたのお父さんがトグカワ埋蔵金を発掘したからなのよ」
ロハは実父の顔を見たことがなかった。
写真を見たことも、名前が呼ばれる場面も覚えがなかった。
今更聞くことでもないかと短い半生で封印しかけていた存在が不意に現れたのだ。
写真を見たことも、名前が呼ばれる場面も覚えがなかった。
今更聞くことでもないかと短い半生で封印しかけていた存在が不意に現れたのだ。
「お父さん……、アタシにもいたの!?」
「いたわよ。離婚したけどね」
「いたわよ。離婚したけどね」
母親の話によると、ロハの父親は魔人だったらしい。
結婚当初は今よりも小規模な取引で家を支えていた母親と、専業主夫をしていた父親がそれなりに幸せに暮らしていたという。
ある時魔人能力を活かした趣味の遺跡発掘で埋蔵金を発掘した父親は、それを高値で売り付け莫大な財産を手にした。
結婚当初は今よりも小規模な取引で家を支えていた母親と、専業主夫をしていた父親がそれなりに幸せに暮らしていたという。
ある時魔人能力を活かした趣味の遺跡発掘で埋蔵金を発掘した父親は、それを高値で売り付け莫大な財産を手にした。
母親も初めは伴侶の偉業と大金を喜んでいた。
自称トレジャーハンターとして世界を周遊する父親への愛情を尽かすようになる。
ロハが生まれても滅多に家に帰らなくなった彼に母親は離婚訴訟を起こし、家と慰謝料と養育費を勝ち取り今に至る、ということだった。
自称トレジャーハンターとして世界を周遊する父親への愛情を尽かすようになる。
ロハが生まれても滅多に家に帰らなくなった彼に母親は離婚訴訟を起こし、家と慰謝料と養育費を勝ち取り今に至る、ということだった。
「今だって、どうせどこかでミイラだかオーパーツだかを見て喜んでるわよ……」
呆れた顔、遠い目をして言う母親にロハは聞く。
なぜ、そのことを自分から聞くまで教えてくれなかったのか。
なぜ、そのことを自分から聞くまで教えてくれなかったのか。
「ロハが憧れたら困るでしょ」
埋蔵金を元手にした資金を手にすることで母親の事業は拡大。
父親から受け取った慰謝料や彼が残した宝が他にあるのではないか、小悪党が疑い寄りつくこともあった。
今回の誘拐もその類だったらしい。
父親から受け取った慰謝料や彼が残した宝が他にあるのではないか、小悪党が疑い寄りつくこともあった。
今回の誘拐もその類だったらしい。
「覚えてないかもしれないけどね、ロハは小さい頃、お金以外の目的で誘拐されたことがあるのよ。その時は、周囲を嗅ぎ回るチンピラが犯人を倒したものだから、今回も試してみたわけだけど」
保険として雇っておいた倒萩以外は、手も足も出ずに終わった。
これ以上何に巻き込まれるか分からず恐れる彼らとは、これでスッパリ手を切れたのだとか。
これ以上何に巻き込まれるか分からず恐れる彼らとは、これでスッパリ手を切れたのだとか。
「なんというか、倒萩さんのおかげだわね……誘拐の依頼者とも、話をつけてくれたんでしょう?」
「ええ、私としても十分な対価は頂いていますから」
「ええ、私としても十分な対価は頂いていますから」
ベッドに寝込む母親とロハを両脇に倒萩はにこやかに振る舞う。
本人も戦いの中で重症を負っていたはずなのに、紳士をとっちめ、彼の依頼者に対して交渉し、歩けないほどに弱ったロハを背負って運んだ。
本人も戦いの中で重症を負っていたはずなのに、紳士をとっちめ、彼の依頼者に対して交渉し、歩けないほどに弱ったロハを背負って運んだ。
「本当に、タフで逞しいのねえ、倒萩さんは」
「私なんて。ここまでロハさんを一人で育て上げた覇覇(ハハ)さん。そして恐ろしい目に遭ってすぐだというのに、自分に関わる謎を解き明かそうとするロハさん。お二方こそ、本当に逞しいと思いますよ」
「私なんて。ここまでロハさんを一人で育て上げた覇覇(ハハ)さん。そして恐ろしい目に遭ってすぐだというのに、自分に関わる謎を解き明かそうとするロハさん。お二方こそ、本当に逞しいと思いますよ」
談笑する二人を尻目に、ロハは痛む自分の身体を思った。
自称""ネイルアーティスト""、倒萩。
一体何なのだろう、この少女は。
自称""ネイルアーティスト""、倒萩。
一体何なのだろう、この少女は。
ーー
細筆の先が、瓶に入った液体に触れてたっぷりと液体を含んだ。
滴る毛先を右手親指の爪に当てて、はみ出ることがないよう丁寧に塗っていく。
UVライトを当てて樹脂の硬化を促進し、剥がす。
タコ糸と接着されていた爪は、綺麗に指から剥がれていた。
滴る毛先を右手親指の爪に当てて、はみ出ることがないよう丁寧に塗っていく。
UVライトを当てて樹脂の硬化を促進し、剥がす。
タコ糸と接着されていた爪は、綺麗に指から剥がれていた。
「これが標準的な『ジェルネイル』ですね」
人差し指の爪中心線に沿って縦に傷をつけ、隙間に入れた針金をフックにして、剥がす。
「これは『観音開き』と言います」
液体窒素を綿棒に含ませ、中指の爪に何度も塗り、変質したところでヒビを入れ、剥がす。
「""デンジロー""です」
床に沈んだ紳士は口すらも固められ、無防備な手を少女に弄ばれていた。
真剣な眼差しをした倒萩は、壁の外から持ち込んだ鞄から次々に道具を取り出すと、一枚一枚異なった趣で彼の爪を破損させていく。
真剣な眼差しをした倒萩は、壁の外から持ち込んだ鞄から次々に道具を取り出すと、一枚一枚異なった趣で彼の爪を破損させていく。
「ンンンンーー!!!」
情けないほど涙を流し、地中の褌は失禁したもので塗れている紳士に、倒萩は微笑みかける。
「よく頑張りましたね、両手は終わりました。残りは両足だけ。折り返しですよ、ファイト!」
「ンンンンーーーー!!!」
「""湯霜""」「""隠し包丁""」「""チョコパイ""」「""カブトムシ""」「""爆竹""」
「ンンンンーーーー!!!」
「""湯霜""」「""隠し包丁""」「""チョコパイ""」「""カブトムシ""」「""爆竹""」
響きにくい不可思議な声で耳元に囁きながら、淡々と作品を仕上げる倒萩。
しかし、不慮の事態が起きる。
しかし、不慮の事態が起きる。
「左足に取りかかろうとしたら、右足の爪が生え変わってますね。そういえば、この人カニでした……」
流れのまま左足に手をかける。
「""網走""」「""革命""」「""賢者の石""」「""カワサキ""」「""臨界点突破""」
左足の爪も、やがて復活する。
再度右足からやり直し、左足、再度右足、左足、右、左、右、左……
再度右足からやり直し、左足、再度右足、左足、右、左、右、左……
紳士が精神に異常をきたし、やがて意識を失うと再生は停止した。
「計、五百二十枚。お疲れ様でした」
拘束を解かれ、傷の手当てや食事の差し入れを受けたロハは、毛布に包まりながら倒萩の創作を見つめていた。
当初はロハへ向けられていた三脚のスマホカメラが紳士と倒萩の狂態を見つめ、録画をしている。
倒萩の手袋が画面に触れ、録画を停止した。
動画ファイルを選択し、最後に端末が通信した相手へと共有を行う。
当初はロハへ向けられていた三脚のスマホカメラが紳士と倒萩の狂態を見つめ、録画をしている。
倒萩の手袋が画面に触れ、録画を停止した。
動画ファイルを選択し、最後に端末が通信した相手へと共有を行う。
着信音。
「もしもし、動画の投稿者です。
誘拐の実行犯には息がありますので、まずはご安心を。
私からの要求は、あなた方が私と依頼者である覇覇タッカーさん、その身内の者に報復を行わないことです。
それさえ守られるならば、この件で更なる被害が出ることはありません。
しかし、この条件が守られていないと私が判断したその時点で新しい作品に取り掛かります。
以上」
「もしもし、動画の投稿者です。
誘拐の実行犯には息がありますので、まずはご安心を。
私からの要求は、あなた方が私と依頼者である覇覇タッカーさん、その身内の者に報復を行わないことです。
それさえ守られるならば、この件で更なる被害が出ることはありません。
しかし、この条件が守られていないと私が判断したその時点で新しい作品に取り掛かります。
以上」
一方的に会話を打ち切り、倒萩はロハを見る。
「それでは、帰りましょうか」
ーー
標的の爪二十枚につき、依頼者本人の爪一枚と日本円に換算して一千万円。
制作への報復には無償で対応。
その他、制作期間中は依頼者の安全を守り、政策に直接関係ない要望であっても、できる限り叶える。
制作への報復には無償で対応。
その他、制作期間中は依頼者の安全を守り、政策に直接関係ない要望であっても、できる限り叶える。
倒萩は以上の条件を守って仕事をする。
それでは、依頼人たる覇覇タッカーの爪が足りない場合には如何にするか。
誘拐犯を標的に依頼を受けた倒萩だが、爪が増えるのは想定外だった。
二十枚で終わらせても良いが、後引かぬ痛みは無反省と報復にも繋がる。
自己判断の末、再生が終わるまで制作を続行したが、まさか標的二十六人分と同枚数になるなどとは、思いもしない。
それでは、依頼人たる覇覇タッカーの爪が足りない場合には如何にするか。
誘拐犯を標的に依頼を受けた倒萩だが、爪が増えるのは想定外だった。
二十枚で終わらせても良いが、後引かぬ痛みは無反省と報復にも繋がる。
自己判断の末、再生が終わるまで制作を続行したが、まさか標的二十六人分と同枚数になるなどとは、思いもしない。
「分割払いであれば、お金の方は何とかなるけれど……」
「いいえ、お金の方は二十枚分で結構。それよりも爪です。こちらは私の美意識に関わる問題で、ネイルアーティストとして譲れない部分もあるものですから……」
「分かったわ。一度剥がして、治った後でもう一度剥がせばいいでしょう。私には覚悟があります、倒萩さんは娘を守って下さったのだから」
「覇覇さんは分かっていません、二十枚分も私の制作に携わってしまえば、それ以上は人間として終わりです。
これから、ロハさんと生きていくのでしょう?」
「(そんなに言うならば、美意識とやらを一旦放棄してくれれば手っ取り早いのにね…)」
「いいえ、お金の方は二十枚分で結構。それよりも爪です。こちらは私の美意識に関わる問題で、ネイルアーティストとして譲れない部分もあるものですから……」
「分かったわ。一度剥がして、治った後でもう一度剥がせばいいでしょう。私には覚悟があります、倒萩さんは娘を守って下さったのだから」
「覇覇さんは分かっていません、二十枚分も私の制作に携わってしまえば、それ以上は人間として終わりです。
これから、ロハさんと生きていくのでしょう?」
「(そんなに言うならば、美意識とやらを一旦放棄してくれれば手っ取り早いのにね…)」
母と倒萩の会話を聞き、ロハは二人の間で交わされた契約内容を知った。
そして、自らの手を差し出した。
そして、自らの手を差し出した。
「アタシが引き受ける。攫われたのはアタシだから」
倒萩は先ほどまで捕えられていた少女を見上げた。
震えている、怯えている。
しかし、覚悟の表情に嘘はない。
震えている、怯えている。
しかし、覚悟の表情に嘘はない。
「ありがとうございます。それでは早速、取り掛かります」
ーーー
ロハは市場を彷徨う。
食品、玩具、衣装、装飾、ありきたりの品は溢れているのに。
武器、薬品、奴隷、ペット。
違う、そんなものが欲しいわけではない。
食品、玩具、衣装、装飾、ありきたりの品は溢れているのに。
武器、薬品、奴隷、ペット。
違う、そんなものが欲しいわけではない。
母娘で代償を支払い寝込んでいた生活の中、倒萩は細やかに家や仕事、学校に関する物事について介助を行った。
自分が傷つけておきながら、態々優しくする理由とは。
聞くことができず、左手と左足は癒え、少女は依頼人の家を出た。
自分が傷つけておきながら、態々優しくする理由とは。
聞くことができず、左手と左足は癒え、少女は依頼人の家を出た。
気が付けば、ロハは魔人に覚醒していた。
医者が言うには、非日常の体験がこうなることを促進したらしい。
得た能力は細やかなものだと、自分ではそう思っていた。
しかし、そう思わない者はいた。
そして、道具として彼女を利用するために、遠い国へと攫ったのだ。
医者が言うには、非日常の体験がこうなることを促進したらしい。
得た能力は細やかなものだと、自分ではそう思っていた。
しかし、そう思わない者はいた。
そして、道具として彼女を利用するために、遠い国へと攫ったのだ。
ロハは能力を隠し通した。
自由倍率、自由範囲の地図など作れない。
粗い精度で特定倍率、近隣範囲の地図のみである、と。
自由倍率、自由範囲の地図など作れない。
粗い精度で特定倍率、近隣範囲の地図のみである、と。
彼女を誘拐した新興国家直属の組織はそれを疑い続けたが、結局真偽を明らかにすることはできなかった。
使い道がないと思い込んだ組織は彼女を上海支部の下っ端として配属、監視の目を付けながらエージェントとして教育していた。
少女の貴重な二年は、たったこれだけで過ぎてしまったのである。
使い道がないと思い込んだ組織は彼女を上海支部の下っ端として配属、監視の目を付けながらエージェントとして教育していた。
少女の貴重な二年は、たったこれだけで過ぎてしまったのである。
「おい、あれじゃねえか、おい!ビンゴ、いましたぜ、アニキ!」
油断した。
中層建築物上階から見下ろす組織の人員が、通信機を手にロハへ押し寄せてくる。
中層建築物上階から見下ろす組織の人員が、通信機を手にロハへ押し寄せてくる。
人混みが割れ、黒服の男達が棒と刀を持ち近づいてくる。
ロハへ攻撃的な視線を向けているのは、十人どころではない。
雇われの解決屋も合流したのだろう。
ロハへ攻撃的な視線を向けているのは、十人どころではない。
雇われの解決屋も合流したのだろう。
「余計な手間と金を使わせやがって、観念しろよ。俺たちを舐めたツケは払わせてやるからな。」
上海支部長の立場で、『アニキ』と呼ばれる男性だ。
彼が棒を振り上げ歩み出た。
ロハが両腕を顔の前で翳すと、その上から思いきり叩きつける。
彼が棒を振り上げ歩み出た。
ロハが両腕を顔の前で翳すと、その上から思いきり叩きつける。
「魔人能力について、今度こそ明らかにしてもらうぞ! それを使えば今回払った何百倍の金も返ってくるし、上からの覚えもめでたいだろうからな!」
膝が折れて倒れそうになるが、歯を食いしばり、耐える。
「大人しく従うと口にすれば、今すぐ止めてやる!どうだ!」
「嫌だ!」
「即答か!バカめ!」
「嫌だ!」
「即答か!バカめ!」
腕が痺れてくるが、構わない。
今更、誘拐や脅迫に悪気も持たない卑怯者に媚びて、魂から負けるなんて、そんな結末は絶対に認めない。
暴力を遠目に身守る人混みに、何か懐かしいものを見た気がした。
今更、誘拐や脅迫に悪気も持たない卑怯者に媚びて、魂から負けるなんて、そんな結末は絶対に認めない。
暴力を遠目に身守る人混みに、何か懐かしいものを見た気がした。
腕を苛む痛みが止む。
「この人、作品にしていいですか」
尾の生えた少女がいた。
武器を持った黒服達は、地面に下半身を埋めている。
武器を持った黒服達は、地面に下半身を埋めている。
「そうだね、剥いで!できる限り、酷く、苦しく! だけどアタシには今生憎、金がない! そうだ……、ダイヤ!今噂になってるダイヤを発見して後払いでもいい!?」
自分でも何を言っているのかは分からない。
それでも、目の前の少女は、倒萩は和かに頷いた。
それでも、目の前の少女は、倒萩は和かに頷いた。
魔都上海、ダイヤと爪を奪われる覚悟をせよ。