アカイロ/ロマンス ◆tu4bghlMIw
それは血と縁を巡る紅の物語。
すべてのハジマリは少女の見た不思議な夢だ。
見慣れたはずの光景。桜のように舞い散る白いエンジュの花。
見慣れたはずの光景。桜のように舞い散る白いエンジュの花。
少女はその世界を識っていた。
でもソレが一体何時、何処で見かけたモノなのかまるで見当が付かない。
ただ漠然とした懐かしい想いだけがそこにあった。
自分はこの光景に見覚えがあるのだ。
でもソレが一体何時、何処で見かけたモノなのかまるで見当が付かない。
ただ漠然とした懐かしい想いだけがそこにあった。
自分はこの光景に見覚えがあるのだ。
しばらくして、少女は一つの事実に気付いた。
これは……この景色は、自分の心の中に眠っていたものである、と。
そして凍り付いていた記憶が水底から引き上げられると同時に、唐突に頭へと浮かぶ一つのフレーズがあった。
これは……この景色は、自分の心の中に眠っていたものである、と。
そして凍り付いていた記憶が水底から引き上げられると同時に、唐突に頭へと浮かぶ一つのフレーズがあった。
――――たいせつなひとが、いなくなってしまった。
滲んでいく紅はゆっくりと心を絶望の色へと染め上げる。
目の奥がジンジンと痛む。
これは決して思い出してはいけない記憶だ。
決して踏み込んではならない禁断の領域なのだ。
目の奥がジンジンと痛む。
これは決して思い出してはいけない記憶だ。
決して踏み込んではならない禁断の領域なのだ。
……聞こえる。優しくて柔らかい女の人の声だ。
「駄目なの、桂ちゃん――」
静止するその言葉が少女に二の足を踏ませる。
同時に、ここにいてはならないのだと少女は悟った。
この先に行ってはいけない。
足を踏み入れれば――きっと、辛い気持ちになる。そんな、気がした。
同時に、ここにいてはならないのだと少女は悟った。
この先に行ってはいけない。
足を踏み入れれば――きっと、辛い気持ちになる。そんな、気がした。
――ざあっ。
風が、空を舞った。
そうだ……これは、夢だ。名残の夢だ。
そうだ……これは、夢だ。名残の夢だ。
でも、一つだけ疑問に思う事があるのだ。
大切な人とは、いったい誰の事だろうか。そして、この声の主はだれ……?
大切な人とは、いったい誰の事だろうか。そして、この声の主はだれ……?
「――桂ちゃん」
くるくると青白い蝶が何かの周りを旋回するように飛んだ。
そして、光の奥から浮かび上がる一つの影。
それは――悲しそうな顔をした女の人だった。
そして、光の奥から浮かび上がる一つの影。
それは――悲しそうな顔をした女の人だった。
「ここに来てはダメなの」
「でもっ……」
「ねえ、約束して」
「……約束?」
「でもっ……」
「ねえ、約束して」
「……約束?」
こくり、と女の人は頷いた。
この声は、この顔は――知っている、私はこの人を知っている。
痛みがツッと瞼の奥で弾けるように広がる。
ずきん、ずきん、と断続的に伝播する波紋のように――
この声は、この顔は――知っている、私はこの人を知っている。
痛みがツッと瞼の奥で弾けるように広がる。
ずきん、ずきん、と断続的に伝播する波紋のように――
「わたしの声も、姿も、あの景色も――夜の淵に沈めてしまうと。明日の朝日に溶かしてしまうと」
暗に、この人は「忘れろ」と言っているのだ。
夢はただの夢。
覚えている事に意味なんてないのかもしれない。
忘れていた方がいいのだ。
ああ、でもそんな事を言っているのにどうしてこの女の人は――
夢はただの夢。
覚えている事に意味なんてないのかもしれない。
忘れていた方がいいのだ。
ああ、でもそんな事を言っているのにどうしてこの女の人は――
「桂ちゃん――」
こんなに、悲しそうな微笑を浮かべているのだろう。
「わたし、は……」
虚ろな疑問だ。
忘れてしまえばいい、だけど……忘れてはならない気もする。
忘れてしまえばいい、だけど……忘れてはならない気もする。
考える。
考える。
考える。
考える。
考える。
もっと耳を澄ませて、女の人の声に心を寄せようと必死になった。
でも――答えは出ない。
でも――答えは出ない。
「あっ……!」
短い悲鳴のような残滓だけが木霊して世界は暗転する。
少女は、返事をする事が出来なかった。
迷い、戸惑い、逡巡――僅かな躊躇が選択の機会を失わせた。
少女は、返事をする事が出来なかった。
迷い、戸惑い、逡巡――僅かな躊躇が選択の機会を失わせた。
少女の意識はぷつり、とまるで糸が千切れるように――途切れる。
そして、また、全てを忘れてしまう。
そして、また、全てを忘れてしまう。
遥かなる想いの彼方へと、全ては忘却の淵へと沈んでいく。
それは、タソガレ。
少女が見たモノは槐夢。白いエンジュの花に包まれた夢。
暖かい温もりに満ちた――幻視行の果て。
少女が見たモノは槐夢。白いエンジュの花に包まれた夢。
暖かい温もりに満ちた――幻視行の果て。
§
それから、時は流れ――少女は約束の場所・経観塚にて再度、非日常へと足を踏み入れる。
緑豊かなその地において、少女には大切な人が何人も出来た。
だけど少女は一人。唯一無二の存在だ。
同じ人間が何人もいる事なんて有り得ない。
だけど少女は一人。唯一無二の存在だ。
同じ人間が何人もいる事なんて有り得ない。
そんな、廻る世界の中。数奇な運命の末に少女は一人の相手を選んだ。
少女、羽籐桂が選んだ相手の名は浅間サクヤ。
千年の時を生きる鬼。観月の民の最後の生き残りだった。
千年の時を生きる鬼。観月の民の最後の生き残りだった。
だが、当然のように――それ以外の世界も存在したはずなのだ。
鬼を殲滅する事を使命とする鬼切り部の漆黒の剣士、千羽烏月と共に笑いあう世界もあっただろう。
「鬼切り」の頭目を務める若杉グループの若き総帥にして<一言主>の力を継承した少女、若杉葛と他愛のない話で盛り上がる世界もあっただろう。
双子の鬼の片割れ。忌み子としてその存在を消された悲しき姫、ノゾミと心を通わす世界もあっただろう。
「鬼切り」の頭目を務める若杉グループの若き総帥にして<一言主>の力を継承した少女、若杉葛と他愛のない話で盛り上がる世界もあっただろう。
双子の鬼の片割れ。忌み子としてその存在を消された悲しき姫、ノゾミと心を通わす世界もあっただろう。
そして、主を封印するため白きエンジュの樹にその身を捧げた桂の従姉――ユメイが羽藤柚明に戻る事の出来た世界も確かにあったのだ。
だがそれは結局、仮定だ。IFの世界に過ぎない。
少女達の認識は食い違う。
歯車は噛み合わず、運命は交錯する。悲しい涙だけが流れ落ちる。
誰の責任でもない。抗う運命だけが過酷で、残酷で、戦う意志は泡沫のように消えてしまう。
少女達の認識は食い違う。
歯車は噛み合わず、運命は交錯する。悲しい涙だけが流れ落ちる。
誰の責任でもない。抗う運命だけが過酷で、残酷で、戦う意志は泡沫のように消えてしまう。
少女を待ち続けた一本の想いの糸は、ゆらゆらと月夜を漂い続けた。
§
――――とっくに、わたしの結論は出ていた筈なのに。
ユメイは、ゆっくりと空を見上げた。
天には黄金の鏡とソレを覆い隠すような叢雲。
完全に天候が崩れるような事は無いだろうが、満点の星空という訳ではない。
単純な照明としての灯りならば、電灯や信号機の方がよっぽど上等だ。
首筋をくすぐる冷たい風のせいで少しだけ肌が痺れる。
それでも彼女の胸の奥に湧き上がるのは煩わしさではなくて、黄昏の光のような暖かい気持ちだった。
完全に天候が崩れるような事は無いだろうが、満点の星空という訳ではない。
単純な照明としての灯りならば、電灯や信号機の方がよっぽど上等だ。
首筋をくすぐる冷たい風のせいで少しだけ肌が痺れる。
それでも彼女の胸の奥に湧き上がるのは煩わしさではなくて、黄昏の光のような暖かい気持ちだった。
やっと――自分は「桂ちゃん」に会えたのだから。
だけど、その心の中には「幸せ」以外の、別の感情が渦を巻いていた。
だけど、その心の中には「幸せ」以外の、別の感情が渦を巻いていた。
「桂ちゃん――」
思わずユメイはギュッと自分の身体を抱きしめる。
夜風は冷たい。だけどこの感覚も「人の肉体」があるという証拠なのだと彼女は思う。
月影が光の帯となって降り注ぐ。少しだけ曇った空は心を癒してはくれないのだ。
天を見上げても、流れる灰色の雲と煌く星の海は虚しさだけをユメイの心に積み上げていく。
夜風は冷たい。だけどこの感覚も「人の肉体」があるという証拠なのだと彼女は思う。
月影が光の帯となって降り注ぐ。少しだけ曇った空は心を癒してはくれないのだ。
天を見上げても、流れる灰色の雲と煌く星の海は虚しさだけをユメイの心に積み上げていく。
そう、今この瞬間も、ユメイの心は――春の嵐のように荒れ狂っていた。
十六歳の少女としての肉体と、それにオハシラサマとしての過ごした十年間。
人柱として神樹に全てを捧げた時からユメイの時間は止まってしまった。
精神だけが月齢を重ね、身体は《力》が生み出した幻想に過ぎない。
現在、何らかの力によって受肉しているとはいえ、それも何時まで続くか分からない不安定さに満ち溢れていた。
人柱として神樹に全てを捧げた時からユメイの時間は止まってしまった。
精神だけが月齢を重ね、身体は《力》が生み出した幻想に過ぎない。
現在、何らかの力によって受肉しているとはいえ、それも何時まで続くか分からない不安定さに満ち溢れていた。
何よりも、自分がまさかもう一度桂ちゃんに出会えるなんて思っていなかったのだ。
絶対に桂ちゃんは経観塚に足を踏み入れてはいけなかった筈なのに。
思い出してはならない記憶が、残酷な記憶があの場所には多過ぎる。
絶対に桂ちゃんは経観塚に足を踏み入れてはいけなかった筈なのに。
思い出してはならない記憶が、残酷な記憶があの場所には多過ぎる。
でも、桂ちゃんに再会出来た時、湧き上がった春の萌芽のような感覚は……。
心の底から噛み締める嬉しさ、喜びは決して嘘や幻ではなかった。
心の底から噛み締める嬉しさ、喜びは決して嘘や幻ではなかった。
あんなに小さかった筈の桂ちゃんが自分と同じぐらいの背格好になっていた事は、本当にビックリした。
辛うじて身長はまだこっちの方がちょっとだけ高かったけれど、きっとすぐに追い抜かれてしまうだろう。
桂ちゃんは毎日成長している。
きっともう少ししたら、真弓さんのような素敵な女性になるのだと思う。
未来が……桂ちゃんには、この先も輝かしい世界があるのだから。
辛うじて身長はまだこっちの方がちょっとだけ高かったけれど、きっとすぐに追い抜かれてしまうだろう。
桂ちゃんは毎日成長している。
きっともう少ししたら、真弓さんのような素敵な女性になるのだと思う。
未来が……桂ちゃんには、この先も輝かしい世界があるのだから。
――だから、わたしは守らないといけない。桂ちゃんの明日を、桂ちゃんの未来への道を。
その時、ふとユメイの脳裏を過ぎったのは桂ちゃん達の手を引いて、夕焼けの道を歩いた日の光景だった。
自分はまだ生身の肉体で、桂ちゃんも白花ちゃんも二人ともまだまだ小さな子供だった。
少しだけ傾いたオレンジ色の陽射しと、耳に残るひぐらしの声。
舗装されていない田舎の道を二人の手を引いて歩いていった記憶。
自分はまだ生身の肉体で、桂ちゃんも白花ちゃんも二人ともまだまだ小さな子供だった。
少しだけ傾いたオレンジ色の陽射しと、耳に残るひぐらしの声。
舗装されていない田舎の道を二人の手を引いて歩いていった記憶。
桂ちゃんが「お姉ちゃん!」と名前を呼んでくれるのが嬉しくて堪らなくてわたしはずっと笑っていた。
腕を引っ張る小さくて柔らかな手の感触が心を満たしてくれたのだ。
髪もまだしっかりとした黒で、わたしはセーラー服なんかを着て学校に通う高校生で……、
腕を引っ張る小さくて柔らかな手の感触が心を満たしてくれたのだ。
髪もまだしっかりとした黒で、わたしはセーラー服なんかを着て学校に通う高校生で……、
「どうして、なのかしら。変ね、本当に今更の話。ずっとずっと昔の事なのに……」
誰もいない場所で一人、まるで自分自身に言い聞かせるように独り言が漏れた。
月はぼんやりと空に浮かんでいる。
ユメイはジッとそれを見上げながら、ゆっくりと流れる雲を目で追った。
吹く風と踏み締める地面の感触は、オハシラサマの力を実体化させた時と少しだけ違う気がする。
ユメイはジッとそれを見上げながら、ゆっくりと流れる雲を目で追った。
吹く風と踏み締める地面の感触は、オハシラサマの力を実体化させた時と少しだけ違う気がする。
畦道を桂ちゃん達と歩いた記憶が黄昏色に輝いている。
オハシラサマになってからのわたしは昼に外の世界を出歩く事は身体への負担が大き過ぎるため極力控えていた。
ユメイは、この十年間夜の世界の住人として過ごして来たのだから。
オハシラサマになってからのわたしは昼に外の世界を出歩く事は身体への負担が大き過ぎるため極力控えていた。
ユメイは、この十年間夜の世界の住人として過ごして来たのだから。
見慣れた黄金の鏡と青白く光る月の蝶。
それは彼女に現実を思い知らせる鍵でしかなかった。
別にユメイは月が嫌いなのではない。
ずっと、守り神として生きて行く事に絶望した訳でも、耐えられなくなった訳でもない。
それは彼女に現実を思い知らせる鍵でしかなかった。
別にユメイは月が嫌いなのではない。
ずっと、守り神として生きて行く事に絶望した訳でも、耐えられなくなった訳でもない。
だけど、大きくなった桂ちゃんを見ても、その意志には一片の濁りすら生じなかった、と言えば嘘になってしまう。
桂ちゃんはわたしにとって何よりも大切で、大切で、掛け替えのない存在だった。
桂ちゃんはわたしにとって何よりも大切で、大切で、掛け替えのない存在だった。
その再会の日のたった四日間の邂逅ですら、その後に必ず訪れる別れの時が怖かった。
それでも、辛いけど、悲しいけど……桂ちゃんとの別れは絶対にやって来るのだと必死に自分を抑え付けた。
恥ずかしい事も、大変な事だって沢山あった。
それでも、その何倍、何十倍もの喜びを桂ちゃんとの触れ合いはわたしにくれたのだ。
それでも、辛いけど、悲しいけど……桂ちゃんとの別れは絶対にやって来るのだと必死に自分を抑え付けた。
恥ずかしい事も、大変な事だって沢山あった。
それでも、その何倍、何十倍もの喜びを桂ちゃんとの触れ合いはわたしにくれたのだ。
ううん、本当は……わたしなんてどうなったって構わない。
わたしの望みはいつだって、一つだけしかない。
わたしの望みはいつだって、一つだけしかない。
ただ、桂ちゃんが無事に生きてくれればいい――それが全てだ。
桂ちゃん達を守るためにわたしは名前を捨てた。でもその決断には一部の後悔だってない。
わたしは、羽藤柚明でなくなってしまっても構わないのだ。
ただのユメイであったとしても、桂ちゃんが笑顔で過ごす事が出来ればわたしはどうなっても……。
わたしは、羽藤柚明でなくなってしまっても構わないのだ。
ただのユメイであったとしても、桂ちゃんが笑顔で過ごす事が出来ればわたしはどうなっても……。
「……桂ちゃん」
漆黒の世界は音もなく自身に語り掛ける。
冷たい風と空気の流れだけで、何もかもが満たされて行くような感覚だった。
冷たい風と空気の流れだけで、何もかもが満たされて行くような感覚だった。
だけど、それは同時にポッカリと胸に空洞が出来てしまったかのような気分でもある。
虚ろで、だけど満ちた世界だ。ちっぽけな決意なんて、不意の出来事が起これば簡単に押し潰されてしまう。
そして、ソレは同時に今までの自分を否定する事に等しくて。
虚ろで、だけど満ちた世界だ。ちっぽけな決意なんて、不意の出来事が起これば簡単に押し潰されてしまう。
そして、ソレは同時に今までの自分を否定する事に等しくて。
人は簡単には変われない。だけど、本当にあっさりと変わってしまう事もある。
切欠は些細な遭遇。待ち望んでいた再会。
そして、突き付けられた残酷な一つの事実。
噛み違えた歯車がギチギチと鈍い音を立てて、身体の奥で悲鳴を上げている。
そして、突き付けられた残酷な一つの事実。
噛み違えた歯車がギチギチと鈍い音を立てて、身体の奥で悲鳴を上げている。
わたしは――
§
ユメイは時間を確認した。一時を回ってもうすぐ二時。
普通ならば、もう休んでしまってもおかしくない時間帯だ。
普通ならば、もう休んでしまってもおかしくない時間帯だ。
四回目の放送が終わり、わたし達にはやらなければならない事が沢山あった。
例えばりのさんをしっかりとした形で眠らせてあげなければならなかったし、再会した桂ちゃん達との情報交換も必要だ。
無事で――桂ちゃんの片腕は切り落とされて〝違う腕〟になっていたけれど――出会えた喜びを語り明かす、という訳にはいかない。
例えばりのさんをしっかりとした形で眠らせてあげなければならなかったし、再会した桂ちゃん達との情報交換も必要だ。
無事で――桂ちゃんの片腕は切り落とされて〝違う腕〟になっていたけれど――出会えた喜びを語り明かす、という訳にはいかない。
それで……一度、休憩をした方がいいんじゃないかって事になったんだっけ。
「桂ちゃん達は……」
わたしは自分の立っている場所からギリギリ見える位置にある小さな民家に視線を送った。
今、あそこでは桂ちゃん達が仮眠を取っている筈だ。
場所はりのさんが息を引き取ったすぐ近く、鉄橋の周辺にある平屋だ。
人が住んでいた形跡こそあったものの、中は見事なまでにもぬけの空。
結局、夜の闇を凌ぐために少しだけお邪魔させて貰う事になった。
今、あそこでは桂ちゃん達が仮眠を取っている筈だ。
場所はりのさんが息を引き取ったすぐ近く、鉄橋の周辺にある平屋だ。
人が住んでいた形跡こそあったものの、中は見事なまでにもぬけの空。
結局、夜の闇を凌ぐために少しだけお邪魔させて貰う事になった。
一日が過ぎ、わたし達の疲労はピークに達していたと言ってしまっても過言ではないだろう。
働き盛りの男の人だって休まず、眠らず二十四時間行動し続ける事は難しい。
しかもここは「殺し合い」という行為を強制させられている、張り詰めた緊張感に囲まれた隔離空間だ。
しかもその場に居合わせた人間五人全てが女、という悪条件。
目的地である教会が大分近付いて来たとはいえ、進路を急ぎ過ぎる訳にはいかなかった。
働き盛りの男の人だって休まず、眠らず二十四時間行動し続ける事は難しい。
しかもここは「殺し合い」という行為を強制させられている、張り詰めた緊張感に囲まれた隔離空間だ。
しかもその場に居合わせた人間五人全てが女、という悪条件。
目的地である教会が大分近付いて来たとはいえ、進路を急ぎ過ぎる訳にはいかなかった。
そして今、わたしが一人で立っているのは見張り当番として家の周りで見回り役を買って出たからだった。
見張りは約一時間の交代制。この島に残された人間はあと二十四人だ。
禁止エリアによって移動可能範囲自体は狭まっているものの、他の人間と遭遇する確率は減少している筈なのだが……。
見張りは約一時間の交代制。この島に残された人間はあと二十四人だ。
禁止エリアによって移動可能範囲自体は狭まっているものの、他の人間と遭遇する確率は減少している筈なのだが……。
今は真夜中でおそらく他の人間も身体を休めている頃合だと予測出来る。
かといって一箇所に留まり続けるのは非常に危険だ。
結局、空が明るくなる前後を目安に見張りのローテーションを決めた――それがほんの一時間ほど前の事。
かといって一箇所に留まり続けるのは非常に危険だ。
結局、空が明るくなる前後を目安に見張りのローテーションを決めた――それがほんの一時間ほど前の事。
……りのさんのお墓。
立っているすぐ近く、少しだけ土が盛り上がった場所に自然と眼が行った。
もっと深くて、ちゃんとしたお墓を作ってあげたかった。
だけど、時間も足りないし複数の人間が真夜中に作業をするのは目立ち過ぎてしまう。
もっと深くて、ちゃんとしたお墓を作ってあげたかった。
だけど、時間も足りないし複数の人間が真夜中に作業をするのは目立ち過ぎてしまう。
その時、向日葵のような笑顔で笑う明るい髪色の少女の姿がサッとユメイの頭を過ぎった。
同時に彼女の思念波に乗せて送られて来た言葉がリフレインする。
同時に彼女の思念波に乗せて送られて来た言葉がリフレインする。
――だからって、それじゃあ悲しみが続くだけだから。連鎖は、誰かが断ち切らなきゃダメだと思うから――
――子供っぽい、調子いいこと言ってるかもしれないけど、私は、みんなに笑って欲しいんです――
――みんなに、みんなにとっての、極上な日々を目指して欲しい。それだけが、私の望みです――
りのさんの最期の言葉を思い出すだけで、わたしは今も胸が一杯になりそうになる。
彼女は必死に必死に戦ったのだと思う。
抗う事の出来ない運命に矢尽き、刀折れてもただひたすら前だけを向いて……。
想いは、伝わるのだ。風に乗り、空気を伝い、煌く流星のような輝きを残しながら思念の波となって――
彼女は必死に必死に戦ったのだと思う。
抗う事の出来ない運命に矢尽き、刀折れてもただひたすら前だけを向いて……。
想いは、伝わるのだ。風に乗り、空気を伝い、煌く流星のような輝きを残しながら思念の波となって――
りのさんの願いはたった一つだけだ。
でも、自分の命が消え行くその瞬間までその想いを抱き続けるなんてどれだけ大変な事なのだろう。
誰だって死ぬのは嫌な筈なのだ。
消えたくない、ずっと生きていたい、笑っていたいと思うのは当然の願望だ。
臆病な自分を奮い立たせても迫り来る死の運命に笑って立ち向かえる人間がどれだけいるだろう。
でも、自分の命が消え行くその瞬間までその想いを抱き続けるなんてどれだけ大変な事なのだろう。
誰だって死ぬのは嫌な筈なのだ。
消えたくない、ずっと生きていたい、笑っていたいと思うのは当然の願望だ。
臆病な自分を奮い立たせても迫り来る死の運命に笑って立ち向かえる人間がどれだけいるだろう。
「わたし」という存在が終焉を迎えたとして、最後の一瞬まで「皆の幸せ」を祈り続ける事なんて出来やしない。
きっと、わたしは――たった一人の相手の事だけを考えている筈なのだ。
今まで出会った優しい人達や仲間に気を回す余裕なんてきっとない。
ましてや、知らない人間にまでその意志を向ける事なんて絶対に出来る訳がなくて。
きっと、わたしは――たった一人の相手の事だけを考えている筈なのだ。
今まで出会った優しい人達や仲間に気を回す余裕なんてきっとない。
ましてや、知らない人間にまでその意志を向ける事なんて絶対に出来る訳がなくて。
【みんなに、笑って欲しい】
【悲しみの連鎖を終わらせて欲しい】
【悲しみの連鎖を終わらせて欲しい】
りのさんの祈りは……大きくて、立派で、暖かな光に満ちた優しさそのものだ。
それはあらゆる人間に等しく降り注ぐ愛だ。
至高の福音。大いなる慈愛。優しい心の現われだった。だから、
それはあらゆる人間に等しく降り注ぐ愛だ。
至高の福音。大いなる慈愛。優しい心の現われだった。だから、
「…………わたしは、」
――自分が矮小で、情けのないモノであるように思えてしまう。
「どうして……こんな……っ」
言葉が自然と紡がれる。
投げ掛けるべき相手のいないその音は湖に溢した砂鉄のように沈んで行くだけだ。
胸に当てた掌からドクドクと、命の鼓動が伝わってくる。
指先は温度を掴み、そして己の中へと巡回し還元する。
投げ掛けるべき相手のいないその音は湖に溢した砂鉄のように沈んで行くだけだ。
胸に当てた掌からドクドクと、命の鼓動が伝わってくる。
指先は温度を掴み、そして己の中へと巡回し還元する。
踏み締める芝の感触と柔らかくて少しだけ湿った土が草履を通して足の裏に伝わって来る。
着物を擦る膝丈ぐらいの雑草がピンと夜露を弾いた。
藍の着物に触れた水滴が更に生地を濃い色に変える。
着物を擦る膝丈ぐらいの雑草がピンと夜露を弾いた。
藍の着物に触れた水滴が更に生地を濃い色に変える。
ああ、わたしはいったい何をウジウジと迷っているんだろう。
今誰かがわたしの心の中を切り開いて覗き見たとしても、その暗澹として渦を巻くような感情を解き明かす事は出来ない筈だ。
手入れを怠った薔薇園の蔦薔薇のように、いくつもの感情が葛藤しせめぎあっている。
何を悩んでいる。吐き出してしまえ。
既に自分の中で答えは出ている筈なのだから。
こうやって答えを決め切れずにいる「振り」をしているだけに違いないのに――
今誰かがわたしの心の中を切り開いて覗き見たとしても、その暗澹として渦を巻くような感情を解き明かす事は出来ない筈だ。
手入れを怠った薔薇園の蔦薔薇のように、いくつもの感情が葛藤しせめぎあっている。
何を悩んでいる。吐き出してしまえ。
既に自分の中で答えは出ている筈なのだから。
こうやって答えを決め切れずにいる「振り」をしているだけに違いないのに――
わたしは、決断して……実行しなければならない。
大事な事に、気付いてしまったのだ。自分を誤魔化す事なんて出来ない。
大事な事に、気付いてしまったのだ。自分を誤魔化す事なんて出来ない。
もしもこのまま行動しないまま、勇気を振り絞らないで終わったとして、いったい何が残ると言うのだろう。
「現状維持」という行為は何よりも安全で無難な選択なのだとは思う。
だけど今のわたしがそうしても、ただ自分に嘘を吐く事になるだけだ。
「現状維持」という行為は何よりも安全で無難な選択なのだとは思う。
だけど今のわたしがそうしても、ただ自分に嘘を吐く事になるだけだ。
今までは良かったのだ。
そう――桂ちゃんにもう一度、出会う前は。
逆に、数時間前のわたしにはこの決断を下す理由も意志も勇気もなかった。
そう――桂ちゃんにもう一度、出会う前は。
逆に、数時間前のわたしにはこの決断を下す理由も意志も勇気もなかった。
ただ怯えて震えていただけのわたし。
目の前で血を流して死んで行くりのさんを必死に救おうとしたわたし。
そしてこうして「とある決断」のため悩んでいるわたし。
全部、本物のわたしだ。嘘偽りのない真実の姿なのだ。
目の前で血を流して死んで行くりのさんを必死に救おうとしたわたし。
そしてこうして「とある決断」のため悩んでいるわたし。
全部、本物のわたしだ。嘘偽りのない真実の姿なのだ。
頭の中だけで曖昧な決意を固める事は簡単だ。
だけど、それを実行に移す事は何にも増して難しい。
勇気が……足りない。そうだ、いつもいつだって……!
だけど、それを実行に移す事は何にも増して難しい。
勇気が……足りない。そうだ、いつもいつだって……!
力が欲しかった。強い意志が欲しかった。
皆を守るための力が、わたしには足りなかったのだ。
皆を守るための力が、わたしには足りなかったのだ。
だけど、桂ちゃんと再会した瞬間、わたしは自分の中の全てが変わって行く事を感じ取った。
怯え、震え、誰かに守られる意気地のユメイでいてはならないのだ。
わたしは――桂ちゃんを守らなければならない。
怯え、震え、誰かに守られる意気地のユメイでいてはならないのだ。
わたしは――桂ちゃんを守らなければならない。
そのために必要な力も、勇気も、覚悟も初めから全部持っていたのだ。
十年前のあの日、羽藤柚明がこの世から消えた時からずっと――
十年前のあの日、羽藤柚明がこの世から消えた時からずっと――
「……あの、ユメイさん!」
「え……!?」
「え……!?」
ユメイは背筋をビクッと震わせた。
予想外の事態だった。
いや、それは聞き覚えのある彼女の「仲間」の声だったのだが。
完全に自分の世界に入り込んでいた彼女は「誰かに話し掛けられる」という可能性を完全に排除していたのだ。
予想外の事態だった。
いや、それは聞き覚えのある彼女の「仲間」の声だったのだが。
完全に自分の世界に入り込んでいた彼女は「誰かに話し掛けられる」という可能性を完全に排除していたのだ。
動揺を必死に隠しながらユメイが振り向いた先にいたのは、
「見張り、交代の時間ですよ」
あまりに過剰なユメイの反応に苦笑いを浮かべる菊地真の姿だった。
§
平屋から少し離れた空き地で佇むユメイを見た時、真は妙な引っ掛かりのようなものを感じ取った。
だがいったい何に対して、と聞かれても答えに窮してしまう。
実際、半ば感覚的なものだったし明確な判断材料や不安や心配などの悪感情があった訳でもない。
漠然と存在するのは曖昧な「予感」だけだった。
ソレは、夜空を流れる小さな彗星のようにその実態を把握する前にフッと消えてしまう。
実際、半ば感覚的なものだったし明確な判断材料や不安や心配などの悪感情があった訳でもない。
漠然と存在するのは曖昧な「予感」だけだった。
ソレは、夜空を流れる小さな彗星のようにその実態を把握する前にフッと消えてしまう。
だけど「在った事」だけは理解出来る。
それだからこそ、気持ちが悪い。不安で、居た堪れない気分になる。
これが第六感とか言うモノなのだろうか……でも、それにしたって何故?
それだからこそ、気持ちが悪い。不安で、居た堪れない気分になる。
これが第六感とか言うモノなのだろうか……でも、それにしたって何故?
「どうかしたんですか? 誰か怪しい人がいたとか……」
「いえ……その、ちょっと」
「いえ……その、ちょっと」
驚いて振り返ったユメイは取り繕うような曖昧な言葉で空白を埋めようとする。
真の顔を見ようとせず、目を逸らし慌てたような仕草だ。
それは不思議な感覚だった。
確かに自分は彼女とは出会ったばかりだが、桂から聞いていた「ユメイ」という人間の情報とは微妙な不一致が生じる。
真の顔を見ようとせず、目を逸らし慌てたような仕草だ。
それは不思議な感覚だった。
確かに自分は彼女とは出会ったばかりだが、桂から聞いていた「ユメイ」という人間の情報とは微妙な不一致が生じる。
「ちょっと?」
「ええ、少しだけ考え事をしていたんです」
「考え事、ですか? こんな場所で……?」
「はい。こんな場所で、です」
「ええ、少しだけ考え事をしていたんです」
「考え事、ですか? こんな場所で……?」
「はい。こんな場所で、です」
ユメイが気だるげな仕草で藍色の髪を掻き上げ、そして物憂げな眼差しで真を見た。
四つの瞳、二つの視線がぶつかり合うと同時に真の身体が大きく揺れた。
四つの瞳、二つの視線がぶつかり合うと同時に真の身体が大きく揺れた。
最初に反応した器官は心臓だった。
感覚器としての役割で言えば、瞳や皮膚の方が伝達速度はよっぽど速かったのかもしれない。
だが、真っ先にそれを行動へと移したのは二対の心房、心室からなるヒトの中枢だった。
感覚器としての役割で言えば、瞳や皮膚の方が伝達速度はよっぽど速かったのかもしれない。
だが、真っ先にそれを行動へと移したのは二対の心房、心室からなるヒトの中枢だった。
――ドクン。
胸の奥がぎこちない動悸と共に身体を揺らした。
まるで心臓の音が骨を通して、伝わって来るようだ。
まるで心臓の音が骨を通して、伝わって来るようだ。
それは歌やダンスのレッスンを終えた後のある種爽快な鼓動とはまるで違った感覚だ。
背筋がゾクゾクと震える。
ステージに上がる前の高揚感や程よい緊張ともまた少しだけ違う。
背筋がゾクゾクと震える。
ステージに上がる前の高揚感や程よい緊張ともまた少しだけ違う。
味わった事のない不可解な、
「でも、危ないですよ。まだまだ危ない人は沢山いるんですし」
「少しだけ、気が抜けていたみたいですね。ごめんなさい、わたしが……わたしが桂ちゃんを守らないといけないのに。
桂ちゃんには……幸せになってもらいたいのに」
「少しだけ、気が抜けていたみたいですね。ごめんなさい、わたしが……わたしが桂ちゃんを守らないといけないのに。
桂ちゃんには……幸せになってもらいたいのに」
――違和感。
儚げな顔付きのままユメイは吐き出すように言った。
真は自身の中から湧き上がってきた感情を押さえ込もうとした。
真は自身の中から湧き上がってきた感情を押さえ込もうとした。
それは明らかに間違った想いだ。こんな事を思ってはいけない。
確かに自分が今、目の前で佇んでいる彼女に若干気圧されている部分がある事は否定しない。
不気味だ……とか、変だ……とか。
心じゃなくて、身体が警鐘を鳴らしているんだ。
でも、いったい何に対して?という疑問には答えられない。いや、答えてはいけない気がする。
確かに自分が今、目の前で佇んでいる彼女に若干気圧されている部分がある事は否定しない。
不気味だ……とか、変だ……とか。
心じゃなくて、身体が警鐘を鳴らしているんだ。
でも、いったい何に対して?という疑問には答えられない。いや、答えてはいけない気がする。
――ドクン。
そうだ、りのちゃんの最期の瞬間を思い出せばいい。
あの時、ユメイさんがどれだけ一生懸命になってりのちゃんを救おうとしたのか。忘れられる訳がない。
一番頑張っていたのだってユメイさんだ。
クタクタになって、まともに歩けなくなるくらい……この人は、アレだけ他の人間に対して必死になれる人なのに。
あの時、ユメイさんがどれだけ一生懸命になってりのちゃんを救おうとしたのか。忘れられる訳がない。
一番頑張っていたのだってユメイさんだ。
クタクタになって、まともに歩けなくなるくらい……この人は、アレだけ他の人間に対して必死になれる人なのに。
……ん、待てよ。ああ、もしかして!
「もーユメイさん、本当に大丈夫ですか? さっきの『電話』の時からどこか変な感じでしたし。
回復する力は自分には使えない、って事ですかね? それならアルに頼めば何とかなりますよ!
他には……あっ、確か桂の血って特別なんですよね。だったらお願いして血を飲ませて貰えばいいんじゃないかな。
桂もちょっとぐらい痛くたって、ユメイさんのためなら……」
「……贄の血、ですか」
「そう、それです!」
回復する力は自分には使えない、って事ですかね? それならアルに頼めば何とかなりますよ!
他には……あっ、確か桂の血って特別なんですよね。だったらお願いして血を飲ませて貰えばいいんじゃないかな。
桂もちょっとぐらい痛くたって、ユメイさんのためなら……」
「……贄の血、ですか」
「そう、それです!」
――りのちゃんが死んでしまった事に落ち込んでいるんじゃないだろうか。
そう考えると色々な事に辻褄が合ってくる気がしないでもなかった。
桂と話していてもユメイさんが何処となく辛そうな表情をしていた事。
「ツヴァイ」という人に電話をして幾つか情報を手に入れたのに浮かない表情をしていた事。
全然食事も休みも取ろうともしないのに、いの一番で見張りを買って出た事。
「ツヴァイ」という人に電話をして幾つか情報を手に入れたのに浮かない表情をしていた事。
全然食事も休みも取ろうともしないのに、いの一番で見張りを買って出た事。
つまり……ユメイさんは少しだけ自暴自棄になっているのかもしれないのだ。
例えばユメイさんは自分が無力で、何にも出来なかったと思っているんじゃないだろうか。
だから身体を労わろうともせず、何かに追われるように自分を痛めつけてしまう。
思考が負の螺旋に嵌ってしまっているという事だ。
考えれば考えるほど心は脆弱なモノへと変わり、勢いを失っていく。
だから身体を労わろうともせず、何かに追われるように自分を痛めつけてしまう。
思考が負の螺旋に嵌ってしまっているという事だ。
考えれば考えるほど心は脆弱なモノへと変わり、勢いを失っていく。
――ドクン。
でも、そんな事は絶対にない!と真は思うのだ。
あの時、目に涙を溜めながらもどれだけ彼女がりのちゃんのために尽力したのか、言葉にしなくても皆分かっている事だ。
ユメイさんはやれるだけの事をやったんだ。
ボクとは違う。ボクは何かをやろうとする前に、逃げ出してしまった――
あの時、目に涙を溜めながらもどれだけ彼女がりのちゃんのために尽力したのか、言葉にしなくても皆分かっている事だ。
ユメイさんはやれるだけの事をやったんだ。
ボクとは違う。ボクは何かをやろうとする前に、逃げ出してしまった――
教会の懺悔室での出来事は真の中で大きな腫瘍となっていた。
アレは間違いなく、純粋な逃避だった。
終着点が同じ、なんて言葉は外見だけの嘘。
心の中を整理するために時間を置く……なるほど、確かに上等な手段かもしれないとは思う。
アレは間違いなく、純粋な逃避だった。
終着点が同じ、なんて言葉は外見だけの嘘。
心の中を整理するために時間を置く……なるほど、確かに上等な手段かもしれないとは思う。
しかし、結果はどうだろうか?
次の放送明け――伊藤誠と葛木宗一郎の死が放送を通して真へと告げられた。
消えた真をやよい達が必死に探し回っていたであろう事は容易く想像出来る。
その探索の際に誰かに襲われたとしたら……?
浮き足立った所を襲われれば流石にこの二人といえど、一溜りもないのではないか。
それにやよいを守る、という大きな問題もあった筈だ。人が減れば、それだけ負担は残された人間に集中する。
消えた真をやよい達が必死に探し回っていたであろう事は容易く想像出来る。
その探索の際に誰かに襲われたとしたら……?
浮き足立った所を襲われれば流石にこの二人といえど、一溜りもないのではないか。
それにやよいを守る、という大きな問題もあった筈だ。人が減れば、それだけ負担は残された人間に集中する。
残されたやよいが今、どんな思いでいるのか想像する事さえ真には恐ろしかった。
彼女は一人だ。もちろん戦う力なんて持っていない。
誰かに襲われでもしたら、成す術もなく殺されてしまうだろう。
ポツン、と咲き誇る一輪の花を圧し折る事に特別な力など必要とはされていない。
彼女は一人だ。もちろん戦う力なんて持っていない。
誰かに襲われでもしたら、成す術もなく殺されてしまうだろう。
ポツン、と咲き誇る一輪の花を圧し折る事に特別な力など必要とはされていない。
庇護者の消えた――王子を失った姫に、暴徒へと抗う力はない。
だから一刻も早く、やよいに会いにいかなければいけない。
だけどソレばかりを考えていてもダメだ。
頭を柔軟にして、少しずつ……だけど確実に自分がやれる事をこなして行く。
だけどソレばかりを考えていてもダメだ。
頭を柔軟にして、少しずつ……だけど確実に自分がやれる事をこなして行く。
桂とユメイさんも再会出来たんだ。
運命的な出会いなんて何回だってやってやる!
ボクはやよいを信じるって決めたんだから……!
運命的な出会いなんて何回だってやってやる!
ボクはやよいを信じるって決めたんだから……!
「元気を出してください、ユメイさん!」
「……真さん?」
「ユメイさんが落ち込んでいたらボクだけじゃなくて、桂も悲しみます!」
「……そうですね。桂ちゃんは優しいからわたしがこんな有様じゃ不安にさせるだけだものね」
「……真さん?」
「ユメイさんが落ち込んでいたらボクだけじゃなくて、桂も悲しみます!」
「……そうですね。桂ちゃんは優しいからわたしがこんな有様じゃ不安にさせるだけだものね」
年上の人に対してちょっと失礼だったかも、とは思わなくもない。
落ち込んでいる人を励ますのは勇気がいる事だと思う。
相手の心に踏み込み傷に触れる覚悟がなければ、受け止める意志がなければ、逆に相手を傷付けかねない。
落ち込んでいる人を励ますのは勇気がいる事だと思う。
相手の心に踏み込み傷に触れる覚悟がなければ、受け止める意志がなければ、逆に相手を傷付けかねない。
だけどボクは……ボクは皆に笑っていて欲しい。
ボクは、アイドルなんだ。アイドルは皆を楽しませて笑顔をプレゼントする仕事だ。
だから、落ち込んでいる人がいれば元気を分けてあげたい。
ボクは、アイドルなんだ。アイドルは皆を楽しませて笑顔をプレゼントする仕事だ。
だから、落ち込んでいる人がいれば元気を分けてあげたい。
襲って来る人に立ち向かうだけじゃない。
苦しんでいる人達の心も守ってあげたい――!
苦しんでいる人達の心も守ってあげたい――!
「そうです! 辛くなったら桂やアルや碧ちゃんを頼ればいいんです。
あ、その頼りないかもしれないけど、ボクだって頑張りますよ! 皆で頑張りましょう。負けちゃダメです!」
「真さんは……強いんですね」
あ、その頼りないかもしれないけど、ボクだって頑張りますよ! 皆で頑張りましょう。負けちゃダメです!」
「真さんは……強いんですね」
くすり、とようやくユメイがその端正な口元を綻ばせた。
小さな微笑だったけれど、それは心が一杯に満たされるような本当に気持ちのいい笑顔だと真は思った。
小さな微笑だったけれど、それは心が一杯に満たされるような本当に気持ちのいい笑顔だと真は思った。
月は凪ぎ、雲は静まり、世界はプラネタリウムのようにキラメキに溢れた空間へと変わる。
天気までもがボク達の会話を見守っていてくれているようだ、なんて取り留めのない事を考える。
天気までもがボク達の会話を見守っていてくれているようだ、なんて取り留めのない事を考える。
「全然そんな事ないですって!
そりゃあボクも……落ち込んだ事はあったけど……桂やアルのおかげで自分の中で整理を付けられたんです!」
「こんなに元気な真さんでも、沈んだ気持ちになる事はやっぱりあるんですね」
「あっ酷いですよー! そりゃあボクだって年頃の女の子ですからね。悩みの一つや二つぐらい……」
「ふふっ、本当かしら」
そりゃあボクも……落ち込んだ事はあったけど……桂やアルのおかげで自分の中で整理を付けられたんです!」
「こんなに元気な真さんでも、沈んだ気持ちになる事はやっぱりあるんですね」
「あっ酷いですよー! そりゃあボクだって年頃の女の子ですからね。悩みの一つや二つぐらい……」
「ふふっ、本当かしら」
会話がようやく廻り出したのかもしれない。
少しだけ意地悪な事を言ったユメイに対して真が頬を膨らませる。
悲壮感に溢れた色で顔面を塗りたくっていたユメイがぎこちないながらも笑う。
真もそんなユメイの笑顔を見て、もっともっと彼女を元気にしたいと思った。
少しだけ意地悪な事を言ったユメイに対して真が頬を膨らませる。
悲壮感に溢れた色で顔面を塗りたくっていたユメイがぎこちないながらも笑う。
真もそんなユメイの笑顔を見て、もっともっと彼女を元気にしたいと思った。
だから、
「本当ですっ! その、信じて貰えないかもしれないんですけど……ボクの知り合いに高槻やよいって子がいて……」
ユメイに対して決して言ってはならないような事まで思わず口にしてしまう。
もちろん真には罪はない。当然、何が問題なのかなど本人には決して分からないだろう。
それは時間と世界の誤差。
一つの選択肢から枝分かれする、同じようで全く違う未来の展望だ。
もちろん真には罪はない。当然、何が問題なのかなど本人には決して分からないだろう。
それは時間と世界の誤差。
一つの選択肢から枝分かれする、同じようで全く違う未来の展望だ。
「――その子とボクって、違う世界から来たらしいんですよね」
「……ッ!?」
「……ッ!?」
ユメイが大きく目を見開き、呆然とした表情を浮かべた。
しかし、真は彼女の変化に気付かない。
しかし、真は彼女の変化に気付かない。
「信じられない話だと思いますよね。ボクも少しだけ……ほんの少しだけですけど、落ち込みました。
あのやよいは違う世界のやよい……そう考えるだけで現実感がスッと消えていくんです。
ボクの知っているやよいと、このやよいは違う。見た目は同じでも別人なんだって……」
「…………」
「でも、でもですよ! そんなのちっぽけな心配だったんです!
ボクはボクですし、やよいはやよいなんです。
やよいはしっかりと『ボク』を、菊地真を見てくれた。それだけでもう、妙な心配なんて必要なかったんです。
大切なのは信じる事……ウダウダ考えてても何にも変わったりしないんです!」
あのやよいは違う世界のやよい……そう考えるだけで現実感がスッと消えていくんです。
ボクの知っているやよいと、このやよいは違う。見た目は同じでも別人なんだって……」
「…………」
「でも、でもですよ! そんなのちっぽけな心配だったんです!
ボクはボクですし、やよいはやよいなんです。
やよいはしっかりと『ボク』を、菊地真を見てくれた。それだけでもう、妙な心配なんて必要なかったんです。
大切なのは信じる事……ウダウダ考えてても何にも変わったりしないんです!」
真にとってもこの事実を他の人間に話すのは勇気が必要な事だ。
既に懺悔室の相手と桂、二人に同じような事を喋っているとはいえ覚悟がなければ口にも出せない事実。
既に懺悔室の相手と桂、二人に同じような事を喋っているとはいえ覚悟がなければ口にも出せない事実。
真はただユメイにだけ向けて話しているのではない。
これは自分自身に投げ掛ける言葉でもあるのだ。
つまり、再確認の意を帯びた「菊地真」への激励。
これは自分自身に投げ掛ける言葉でもあるのだ。
つまり、再確認の意を帯びた「菊地真」への激励。
噛み締めるように、吐き出すように。
力一杯語る真はユメイの驚愕の裏側に『他の理由がある』と察知する事が出来なかった。
ぼんやりと頭の隅で思っただけなのだ。
やっぱりこんな事言ったら普通は驚くよね、と。
力一杯語る真はユメイの驚愕の裏側に『他の理由がある』と察知する事が出来なかった。
ぼんやりと頭の隅で思っただけなのだ。
やっぱりこんな事言ったら普通は驚くよね、と。
故に、真はユメイの異常といっても差し支えのない動揺を――見逃した。
「……真さん」
「なんですか、ユメイさん」
「違う世界の人間だったとしても、それは同じ人間……真さんはそう思うんですね?」
「はいっ。でも世界が違っても、相手を思う気持ちは変わったりしません!」
「そう……ですよね。おなじ……どっちも……同じ、人間」
「なんですか、ユメイさん」
「違う世界の人間だったとしても、それは同じ人間……真さんはそう思うんですね?」
「はいっ。でも世界が違っても、相手を思う気持ちは変わったりしません!」
「そう……ですよね。おなじ……どっちも……同じ、人間」
ユメイの問いに真は満面の笑みでもって答えた。
その言葉の背後にあるのは一部の淀みもない澄み切った確信だ。
その言葉の背後にあるのは一部の淀みもない澄み切った確信だ。
桂の助言によって、真は「自分らしさ」を取り戻した。
実直で、快活で、どれだけ落ち込んでも折れる事のない強い心を持った菊地真を。
実直で、快活で、どれだけ落ち込んでも折れる事のない強い心を持った菊地真を。
だが、
「わたしが……」
「へ?」
「――わたしが、やらなければならない」
「へ?」
「――わたしが、やらなければならない」
――その愚鈍なまでの真っ直ぐで穢れのない心は、素直過ぎる故に物事の核心へと迫り過ぎてしまう。
「え……っ」
真の視界の端に青白い光が走った。
見間違いだろうか、と一瞬だけ考える。
蛍、という事はないだろう。この気温だ。さすがに夏の虫である蛍が生活するには寒すぎる。
だけどそれ以上無駄な思索を巡らせている暇は真には存在しなかった。
見間違いだろうか、と一瞬だけ考える。
蛍、という事はないだろう。この気温だ。さすがに夏の虫である蛍が生活するには寒すぎる。
だけどそれ以上無駄な思索を巡らせている暇は真には存在しなかった。
なぜなら次の瞬間、真が「あっ」と思った時には――彼女の身体には『青白い蝶』が纏わりついていたのだから。
「ユ……メイさん?」
「――ごめんなさい、真さん」
「――ごめんなさい、真さん」
辺り一面に青白い花が咲き誇っているようだった。
スポットライトや舞台用の照明器具ですら比べものにならないほど強烈な光で目の前が一杯になる。
空を見上げる事も出来ない。世界がいつの間にか単色の光で埋まってしまったようだった。
スポットライトや舞台用の照明器具ですら比べものにならないほど強烈な光で目の前が一杯になる。
空を見上げる事も出来ない。世界がいつの間にか単色の光で埋まってしまったようだった。
蝶を振り払おうと必死に両手を顔の前で薙ぐ。
しかし、空の切れ目が生まれた瞬間、新しい光によって視界は遮られる。
しかし、空の切れ目が生まれた瞬間、新しい光によって視界は遮られる。
……逃げられない。何が起こっているのか、まるで分からない。
ユメイさんが蝶の形をした《力》を使う事は知っている。
だけど、ユメイさんの力は傷ついた身体を癒すための優しい輝きの筈だ。
言うならばあれは太陽の光を反射して、孤独に大地を照らし続ける月の光の結晶だった。
冷たくて気持ちいい……だけど、心の中が暖かくなるような力だった筈なのだ。
ユメイさんが蝶の形をした《力》を使う事は知っている。
だけど、ユメイさんの力は傷ついた身体を癒すための優しい輝きの筈だ。
言うならばあれは太陽の光を反射して、孤独に大地を照らし続ける月の光の結晶だった。
冷たくて気持ちいい……だけど、心の中が暖かくなるような力だった筈なのだ。
「あっ……!」
でも、コレは……コレは……違う!
全身の筋肉から力が抜けていく。両脚で自分の体重を支え切る事が出来ない。
ドサッ、と無粋な音を立てて、ボクは少しだけ湿った地面に両手を付いてしまう。
全身の筋肉から力が抜けていく。両脚で自分の体重を支え切る事が出来ない。
ドサッ、と無粋な音を立てて、ボクは少しだけ湿った地面に両手を付いてしまう。
蝶が触れた場所に燃えるような熱が発生したような気もした。
だけど火傷をしてしまった、という訳でもない。
弾けた月光は痛くも冷たくもない。
ぼんやりと濡れるような燐光だ。
だけど火傷をしてしまった、という訳でもない。
弾けた月光は痛くも冷たくもない。
ぼんやりと濡れるような燐光だ。
だけど――
「うっ……っ……!」
指先が痺れて、頭がぼんやりとする。
ボクの身体の中の『生きる力』と、蝶がぶつかり合っている。
そして――パチン、と消える。
ボクの中から大切な何かが消滅して行く。
ボクの身体の中の『生きる力』と、蝶がぶつかり合っている。
そして――パチン、と消える。
ボクの中から大切な何かが消滅して行く。
弾けて、飛んで、砕けて……世界の塵へと変わってしまう。
「けい……ち…………めに、サ……ん……かえ……け……しあわ……」
ユメイさんが何かを喋っている。
だけどボクには彼女がいったいどんな言葉を話しているのかまるで聞き取れなかった。
事態の急変にボクの頭は完全にショートしてしまっているのだ。
だけどボクには彼女がいったいどんな言葉を話しているのかまるで聞き取れなかった。
事態の急変にボクの頭は完全にショートしてしまっているのだ。
だから心もまるで穏やかな小波のようだった。
胸の奥から、大きな衝動が湧き上がる訳でもない。
胸の奥から、大きな衝動が湧き上がる訳でもない。
ただ、枯れていくように。
ただ、落ちていくように。
ただ、沈んでいくように。
ただ、落ちていくように。
ただ、沈んでいくように。
ボクの意識は消えて行く。
ユメイさんがどうしてこんな事をしたのかなんて見当も付かない。
心の奥の感情の種は「怒り」や「苦しみ」へと形を変える事もない。
ただ漠然で曖昧な「疑問」だけが、ゼロの海を漂っているだけだった。
ユメイさんがどうしてこんな事をしたのかなんて見当も付かない。
心の奥の感情の種は「怒り」や「苦しみ」へと形を変える事もない。
ただ漠然で曖昧な「疑問」だけが、ゼロの海を漂っているだけだった。
「あっ――」
216:tear~追憶夜想曲~(後編) | 投下順 | 217:アカイロ/ロマンス(Ⅱ) |
時系列順 | ||
195:メモリーズオフ~T-wave~(後編) | 羽藤柚明 | |
杉浦碧 | ||
羽藤桂 | ||
アル・アジフ | ||
菊地真 | ||
205:CROSS††POINT | 深優・グリーア | |
吾妻玲二 |