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難破船の怪物
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難破船の怪物
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)英一《えいいち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十|噸《トン》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
-------------------------------------------------------
[#3字下げ]無気味な難破船[#「無気味な難破船」は中見出し]
「――御勉強ですか」
窓から声がした。英一《えいいち》が読んでいた書物から眼をあげて見ると、千田老人のにこやかな顔が覗いている。
「ああ千田君か――」
「浜へ面白いものが着いているんですがね、一緒に行って御覧になりませんか」
「何だい面白いものって」
「難破船らしいです」
「へえ、それは是非見たいね」
「いらっしゃい、御案内致しますよ」
英一は書物を伏せて立上《たちあが》った。
紀州の南端にある袖浦《そでがうら》という小漁港で、杉原《すぎはら》家といえば旧幕時代からの大船主として有名である。英一は杉原家の一人息子で、東京の理科大学に学んでいるが、一週間ほどまえから夏休《なつやすみ》で帰省している。――気質の明るい、豪胆な、骨組のがっしりした体つきで、この浜の者たちみんなから「俺達の若旦那」と敬愛されている好青年だった。
次手《ついで》に千田老人も紹介して置こう。彼は杉原家の捕鯨船「南紀丸」の船長として、四十余年のあいだ太平洋を乗廻《のりまわ》した海の猛者《もさ》である。数年まえから陸へあがり、今では杉原家の屋敷内に家を貰って、十六になる孫娘の不二子と二人、静かな生活を楽しんでいるが、機会さえあれば何時《なんどき》でも南極ぐらいへは出掛けようという元気を持っている。――肩幅の広い、大きな手をした、武骨な体格に似合わず洒落《しゃれ》好きで、銀色の口髭を美しく刈込《かりこ》んでいるし、どんなに暑くてもきちんと上衣《うわぎ》の釦《ボタン》をかけ、靴はいつでもぴかぴか光るのを穿いていた。
「――儂《わし》が初めて捕鯨に出た時」
と老人は云《い》う、「百五十|噸《トン》の船で八十頭の鯨を揚げたものだ。然《しか》し儂はそれを自慢しようとは思わない、儂がいま誰にでも威張れるものはこの海泡石《メアショム》のパイプと、孫娘の不二子だ――この二つが儂の宝物さ」
それが千田老人の口癖だった。
手早く身支度して英一が出て行くと、千田老人は門のところで、その御自慢の海泡石《メアショム》のパイプをふかしながら待っていた。――二人は揃って岩道を下りて行った。
「難破船てどんな船だい」
「どうも外国の貨物船らしいですね。昨日から沖に見えていたんですが、潮に乗せられて波切《なみきり》の岩礁《いわ》のところまで寄って来ています。舷側などはかなり壊れているようです」
「人は乗っていないのかい」
「さあどうでしょう」
老人は肩をすくめた。
岩道を下りきると松原になる。一面に月見草の生えている砂地を、真直《まっすぐ》にぬけたところが浜であった。――袖浦は東西にふたつの岬《はな》の突出《つきで》た港で、沖には波切と呼ばれる岩礁《いわ》があり、波も荒く潮流も悪かったが、湾内が広いのと水深が充分なので、捕鯨船の寄港地としては割に有名であった。
「あれです。――」
浜へ出ると千田老人が指さした。
「なるほど、大きい船だね」
「左様、千二三百|噸《トン》もありましょうか」
二つの岬をつなぐ線からやや沖に当る、波切の岩礁《いわ》のところに一艘の船がかかっていた。船体は灰色で二帆|檣《マスト》、その片方は根元で折れ、片方も中途から上は無い。煙突も潰れているし、舷側には大きな穴が明《あ》いている。――そして今しも一艘の漁船が、荒狂う波と闘いながら難破船の方へ近づいて行くのが見えた。
「――おや、救助船を出したようだな」
「今まで出さなかったのかね」
「潮が悪いから夕方まで待てと云って置いたのですがね、仕様のない奴等だ」
老人は舌打《したうち》をしながら、大股に岸壁の方へ歩み寄った。――其処《そこ》には漁夫の男女が大勢集まって、沖の方を見やりながらがやがや騒いでいたが、近寄って来る千田老人と英一をみつけると慌てて帽子や鉢巻《はちまき》を脱《と》りながら挨拶をした。
「あれ程云って置いたのにどうして船を出したんだ。行ったのは誰だ」
「大東の健太でごぜえます」
漁夫たちの一人が云った。「千田さんの許しがあるまで待てと止めたでがすが、なんでも行くだと云って肯《き》かずに参《めえ》りやした」
「健太と誰だ」
「吉五郎と弁と倉三が一緒でがす」
「仕様のない奴だ。――」
千田老人は腹立たしそうに、急《せわ》しくパイプの煙を吐きながら、眼を細めて沖の方を見やった。――英一は岸壁の端へ行って、持って来た双眼鏡を眼に当てた。
「間違いがなければ宜《い》いが」
千田老人が呟《つぶや》いた。
[#3字下げ]何故か帰らぬ人々[#「何故か帰らぬ人々」は中見出し]
英一の双眼鏡には、救助に向った四人の船が巧《たくみ》に、難破船の舷側へ横着けになったのが映った。――そして一人が船に残り、三人の者が壊れている舷側の穴から、船へ這上《はいあが》って行くのも見えた。
「旨くいったらしいな、千田君」
「――無鉄砲な奴等ですよ」
老人はパイブの莨《たばこ》を詰替《つめか》えた。
難破船へ乗込んで行った三人は中々出て来なかった。その附近は水面下に岩礁《いわ》があるので、波は飛沫《しぶき》をあげながら揉返《もみかえ》している。――外に一人残っている漁夫は、船が舷側へ衝突するのを防ぐためにだいぶ苦心している様子だ。
「どうしたんだろう。入ったまま出て来ないが中に人でもいるのかしら」
「さあ……」
千田老人は眼をしば叩いて、「人がいるなら却《かえ》って早く合図に出て来そうなものですがね、――何も見えませんか」
「見えないね」
双眼鏡の度を強くして見たが、難破船の上には物の動く気配もなかった。――そのうちに、どうした事か舷側で待っていた一人が、急に船を岸の方へ漕ぎ戻し始めた。
「おや、一人だけ戻って来るぜ」
英一が不審そうに云う。
「どうしたんだ」
「三人を置きっ放しじゃないか」
「ありゃあ弁だな」
漁夫たちもがやがや騒ぎだした。
なんと云うことなく、みんなが妙に不安な気持に襲われた。戻って来る船の様子がどうも腑におちないのである。千田老人は眉をしかめながら黙っている――英一は眼も放さず船の動作を見戍《みまも》っていた。
岸へ漕ぎ戻ったのは弁吉という若い漁夫であった。千田老人は大股に近寄って行って、
「どうして独りだけ帰って来たんだ」
と呼びかけた。弁吉は船から上ろうともせず、飛沫《しぶき》に濡れた蒼白い顔をあげて、
「あ、千田さん、誰か四五人集めて下さい。直《すぐ》に引返《ひきかえ》さなくちゃなりません」
「どうしたんだ」
「何だか船の中に変った事があるらしいんです。三人とも直《すぐ》戻る約束で入って行ったんですが、いつ迄《まで》待っても出て来ません。私《あっし》は大声に何度も呼んでみました。けれどてんから返辞がねえのです。うん[#「うん」に傍点]と云う声も聞えねえのです」
「下|甲板《カンパン》にでもいたんだろう」
「それじゃあ今はどうです? ――もう一時間の余になりますよ、一体難破船の下甲板なんぞで、一時間の余も何を……」
「もう宜い、理窟は沢山《たくさん》だ……」
千田老人は振返って、
「おい松右衛門、おまえ若い者を四五人|伴《つ》れて弁と一緒に行って来て呉れ」
「合点でがす」
この浜で草相撲の関を取る松右衛門という漁夫が、直《ただち》に集っている中から四人の屈竟《くっきょう》の若者を選び出し、待兼《まちか》ねている弁の船へ乗込んだ。そして元気に沖へ向って出て行った。
「――千田君」
英一は双眼鏡から眼を放して「まだあの三人の姿は船の上に見えないが、一体どうしたんだろうね、本当に何かあったのかね」
「――私《わし》の心配しているのは」
と老人が低い声で云った、「――あの難破船の中に何か……つまり金とか――その、宝石とか云うものが有ってですね」
「ああそうか、それを皆が奪い合いでもしているのではないかと云うのだね」
「――此《この》浜にはそんな浅猿《あさま》しい奴はいない筈《はず》ですが、然し実際その場になって見ると、人間なんてどんな卑《いやし》い気持が起るか分りませんからな、……実のところ私《わし》は何度もそういう場合に出会っているのです」
千田老人はパイプの火皿を鳴らしながら、彼が捕鯨船の船長をしている時分、――南洋の某海上で漂流船に会い、その船の中に多額の金貨を発見した時、親子兄弟よりも仲の良い船夫たちが、どんなに浅猿《あさま》しい争いを演じたか……と云う話をし始めた。
英一は千田老人の話を聞きながら、双眼鏡は沖へ向けて、難破船の上を眼も離さず見戍っていた。――松右衛門たちは難航を続けていた。小さな四挺櫓の漁船は、白馬の乱飛《みだれとぶ》ぶような飛沫《しぶ》き泡立つ波を、乗切り乗切り進んでいる。えんやえんやという櫓拍子《ろびょうし》の声が、いつまでも波の上を伝わって聞えて来た。
凡《およ》そ四十分の後、彼等は難破船へ着いた。そして用意して行った綱で船を繋ぐと、例の壊れた舷側を伝って、六人全部が船の中へ乗込んで行った。――千田老人は独言のように、
「……松右衛門なら大丈夫だろう」
と呟いた。
[#3字下げ]意外の号音[#「意外の号音」は中見出し]
岸壁に集っている人たちの眼は、吸付《すいつ》けられるように難破船へ注がれていた。――十分、二十分、瞬く間に三十分ほど過ぎた。然しまだ何事も起らない。前に行った三人も、あとから乗込んだ六人も、誰一人として姿を見せない、物の動く気配もない。そして四辺《あたり》はいつか夕暮の色が迫って来た。
「――何かあるんだ」
集っている漁夫たちの中から、遂《つい》に不安そうな叫びがあがった。
「誰も出て来ねえ、声もしねえ」
「そうだ、何か変った事があるに違えねえ」
「船幽霊じゃねえか」
誰かが叫んだ、――みんなぴたりと沈黙した。その不安な沈黙の上へ、夕風と波の音がのしかかった。
日は落ちて、海上は暗くなった。然し難破船は謎のように動かない。九人の漁夫たちはどうしたのか、――午後七時過ぎても、遂に一人も帰っては来なかった。英一は黙って双眼鏡を覗いていたが、やがて振返ると、
「千田君、夕飯だから僕は帰るぜ」
と云った。千田老人は頷いて、
「どうぞお帰り下さい、――此事はどうか何誰《どなた》にも仰有《おっしゃ》いませんように、なに大した事はないでしょう」
「ああ黙っているよ、じゃあ又……」
そう云って英一は帰途についた。
家では父母が待兼ねていた。然し英一は難破船の事には少しも触れず、夕食を了《しま》うと直《す》ぐ自分の部屋へ引取った。そして父親たちが茶間《ちゃのま》にいるのを見定めて納戸《なんど》へ入ると、箱に入れて厳重に納《しま》ってあった父の護身用の拳銃《ピストル》と弾丸を取出《とりだ》し、散歩に行くと云って外へ出た。
英一は浜から帰る時すでにこの決心していたのである。――九人の漁夫が乗込んだまま帰らぬ難破船の謎、それを自分の手で検《しら》べてみたいと思ったのだ。
風ままだ吹いていたが、満潮なので海は割に静まっていた。岸壁には篝火《かがりび》が燃えていて、大勢の人たちが影絵のように沖を見張っている。――英一はその人たちに気付かれぬように、廻道《まわりみち》をして繋船場へ行った。そして自分用の小機動艇《モーターボート》の纜《ともづな》を解き、西側の岬へ向けて静かに岸壁を離れた。
難破船は波切の岩礁に軸先《へさき》を突込《つっこ》んだらしく、やや左舷へ傾いて浮いていた。機動艇《ボート》を廻して見ると、右舷に一艘の小船が繋いである。
「――弁の船だな」、
そう思いながら、機動艇《ボート》を更《さら》にその小船へ繋いで置いて、英一は壊れた舷側の穴から難破船の中へ、辷《すべ》り込んだ。
覚悟はして来たものの、いざ中へ入ってみると遉《さすが》に怖ろしさはごまかせなかった。四辺《あたり》は一寸先も見えぬ闇で、潮のむれるような匂《におい》や、錆び腐る船材の香が強く鼻をうつ、――舷側へ寄せる波のほかにはなんの物音もしない。
「落着《おちつ》かなくちゃいけない」
英一は拳銃《ピストル》を右手に握って、足探りにそろそろと進み始めた。――其処《そこ》は中甲板らしく、貨物船のことで天井も低く、通廊には綱具などが散らばっていて、うっかりすると足を取られそうになる。英一は全紳経を緊張させて、右へ右へと歩をすすめた。凡そ五十歩ほど行った時である。……通廊の左手に上甲板へ出る梯子《はしご》があって、上から微《かす》かに星明りがさしているのをみつけた。そしてそれを登ろうと思って第一段へ足をかけた刹那、突然うしろで、
があん[#「があん」に傍点]ッ
と耳を劈《さ》くような号音が起り、頬をすれすれに風を截《き》って弾丸《たま》が飛んだ。
「あッ――」
英一は首を竦《すく》めながら、身を翻えして梯子の横へ避け、二の弾丸《たま》に備えつつ、
「誰だ、僕は杉原英一だぞ」
と叫んだ。すると通廊で、
「え※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 若旦那――?」
と云う声が聞え、ぱっと懐中電灯の光をさしつけながら、
「おお若旦那……どうして又、――」
狼狽して現われたのは、千田老人であった。
「なんだ、千田君だったのか」
「冗談じゃあない、こんな所へお一人で来るなんて正気の沙汰じゃ有りませんぜ。すんでに二発めを射つところでしたよ、どうして来たんです?」
「君と同じ目的さ、――恐らく」
「仕様のない人だ、そんな事をおさせ申し度《た》くないから、お帰りになったあとで……」
「まあ文句は宜いよ」
英一は老人の言葉を遮って、「それより皆はどうしたい、みつかったかい」
老人は頭を振った。
「未《ま》だみつからないのか」
「不思議ですよ、いま大体下甲板まで見廻って来たんですが、何処《どこ》にもいないんです。一人や二人じゃなし、九人も来ていて皆が皆、影も形もないというのは変です」
[#3字下げ]何かいる……[#「何かいる……」は中見出し]
洋上に浮ぶ難破船の中で、九人の漁夫が煙のように消えた。――こんな事が有得《ありう》るだろうか、船の中は限られている、舷《ふなばた》の外は潮荒き海だ。然《しか》も九人の姿はない。
「兎《と》に角《かく》向うの船室へ行きましょう」
老人が沈黙を破って云った。「今夜はこの船で夜を明かす積《つもり》で、少しばかり支度をさせて来ましたから、不二子を呼んでお茶でも飲みましょう」
「不二ちゃんが来ているのかい」
「ええ、どうしても一緒に来るというもんですから伴《つ》れて来ましたよ」
「乱暴だなあ其《それ》ぁ……」
千田老人は先に立って上甲板へあがり、船長室へと案内した。――部屋の中には小さな豆ランプが灯《とも》っていたが、、人影はなかった。
「おや、不二子は何処《どこ》へ行った」
千田老人は中を見廻して、
「――不二子、……不二子、――」
と呼んだ。答えはなかった。――千田老人の顔がさっと不吉な曇りを帯びた。
「――どうしたんだ」
「此処《ここ》を動くなと云って、鉄砲まで持たせて置いたんですがね、外へでも出たのでしょうか」
「捜してみよう」
英一は甲板へとび出した。
拳銃《ピストル》を片手に、甲板をひと廻り捜してみたが、何処《どこ》にも不二子の姿は見当らなかった。元の船室へ戻ると、千田老人がへし[#「へし」に傍点]折られた銃を持って立っていた。
「――何処《どこ》にもいないぜ、千田君」
「是《これ》を御覧なさい」
老人はそう云って銃を差出した。「是は不二子に持たせて置いた銃です。銃身がこんなにへし[#「へし」に傍点]折れているところをみると……慥《たしか》に何者かが此処《ここ》へやって来て、不二子を掠《さら》って行ったに違いありません」
「――何者かとは……?」
「私にも分りません。然しこの船には何かがいます。――何かが」
老人の言葉は英一を慄然《ぞっ》とさせた。――何かとはなんであろう、この壊れた難破船の中に何がいると云うのだ?
「千田君、何とかしなくては――」
と英一が云いかけた時、老人はいきなり卓上の豆ランプを吹消《ふきけ》した。
「どうしたんだ」
「叱《し》ッ、――静かに」
老人は震え声で囁《ささや》いた。「――船室の外に誰かいます。動いてはいけません」
英一は息を殺して扉《ドア》の脇へ身を片寄せた。
船内は墓場のように森閑としている。舷側へ寄せる波の音が、まるで冥府の呼声《よびごえ》のように聞えるばかり、――ランプの消えた船室の中は、墨を流したような息苦しい闇だった。
英一は耳の中でどっどっ[#「どっどっ」に傍点]と脈|搏《う》つ血の音を聞いた。拳銃《ピストル》を握緊《にぎりし》めた右手はいつかじっとりと汗ばんでいる。
「……千田君――」
英一は声をひそめて呼んだ。
「此処《ここ》にいます」
と老人が答えた、その声の方へ英一が振返った、――丁度《ちょうど》その刹那だった。
「ウッ――※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
と云う老人の呻《うめ》きに続いて、「――-ん、英一さん、は、早く――※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
絞めつけられるような悲鳴が起り、ばりばりッと烈《はげ》しく板の引裂ける音と、どしん[#「どしん」に傍点]と重い物の倒れる気配がした。英一は夢中で、音を頼りに跳びかかったが、
「あッ――」
と云って横へのめった。跳びかかった英一の手に触れたのは、腐った藻のような、ぬるぬるとした生温《なまぬる》い物だった。そして吐気《はきけ》を催すような悪臭が鼻を塞いだ。――一瞬、英一は全身の血がいっぺんに凍るような、凄《すさま》じい恐怖に襲われて立竦んだ。……それは此世のものではない。
海員たちは、
(溺死者の亡霊が船へあがって人を海へ引込む)
と云う迷信を持っている。――それは迷信に違いない、然しいま其処《そこ》にいるのは何だ? 潮の腐ったような匂いを放つ、ぬるぬるした藻のようなものに包まれた怪物は――何だ。英一は十秒ほど全く恐怖で息が止まった。
「――英一さん!」
千田老人の二度めの悲鳴、
「あッ」
と我にかえった英一は、床の上で揉合っている相手へ、猛然と組付《くみつ》いた。然し怪物は逆に英一の頸を掴んだ。英一はその手を振放そうとしたが、怪物の体はどこを掴んでもぬるぬると滑る、そのうちに烈しく突放されて、英一の体は仰《のけ》ざまに倒れた。そして怪物は千田老人を引摺ったまま、甲板の方へ出て行った、
「――いかん!」
頭を烈しく床へ叩きつけられた英一は、くらくらと眩暈《めま》いのするのを、無理に立上って追いかけた。――甲板の星明りにすかして見ると、黒い四|呎《フィート》ばかりの怪物が、千田老人の体を引摺ったまま、正に運転室の方へ曲ろうとしているところだった。――英一は片手で扉《ドア》へ身を支えながら、怪物の背中へ拳銃《ピストル》の狙いを定めて射った。
[#3字下げ]怪物の正体[#「怪物の正体」は中見出し]
だーん、だーん、だーん※[#感嘆符二つ、1-8-75]
三発続けざまに闇を劈《つんざ》いて火花が走った。――怪物は突飛ばされたように甲板へ顛倒《てんとう》した。然し、英一がもう一発くれようとする暇もなく、恐ろしい叫びをあげながら舳先の方へ走去《はしりさ》った。
英一は大股に駈寄って千田老人を抱起《だきおこ》した。老人は気絶していただけで少し手当をすると直《すぐ》に息を吹返した。
「あ……英一さん――」
「怪物は仕止めた。もう大丈夫だ」
「あ、貴方《あなた》――お怪我《けが》は?」
「僕は大丈夫、立てるかい」
千田老人は喘ぎながら立上った。
「お蔭で命拾いをしました。何処《どこ》にいますか、その怪物は?」
「拳銃《ピストル》を三発くれ[#「くれ」に傍点]てやったから、多分その辺に参っているだろう、行って見よう」
英一は千田老人を援《たす》けながら、怪物の逃去った方へ行った。
「此処《ここ》に血の痕《あと》がある」
「ああ、ずっと滴《た》れていますね……」
甲板の上には点々と血が滴《したた》っていた。――二人は拳銃《ピストル》の引金に指をかけ、油断なく身構えながら、懐中電灯でその血痕を照しつつ進んで行った。
血の痕は舳《へさき》の出入吼《ハッチ》から中甲板へ下りている。それを伝って行くと、更に下甲板へ下り、やがて船艙《せんそう》の中へ消えていた。
「――この中だ」
英一は立止まった。耳を澄ますと、――中から凄じい咆哮《ほうこう》が聞えて来る。
「千田さん――」
英一は振返って、「君は懐中電灯をさしつけていて呉れ給え、僕が射止めてやる」
「――――」
老人は無言で頷いた。
英一は扉《ドア》をさっと明《あ》けた。老人は光をさし向けた。がらんとした船艙の中で、此世のものとも思えぬ叫びが起り、大きな荷箱の蔭から、黒い怪物が飛鳥のように跳出《とびだ》した、刹那、
がん! がん※[#感嘆符二つ、1-8-75]
と爆音が起り、火花が迸《ほとばし》った。怪物は二三度高くはね上ると、ずしん[#「ずしん」に傍点]と床を響かせて倒れた。そして――もう動かなかった。
「射止めたね……」
英一が云った。
「みごとな狙いです」
老人がそう云いかけた時、物蔭から、
「――お祖父《じい》さま」
と叫びながら、一人の少女が走出して来て千田老人の体へしがみ着いた。
「おお不二子か、おまえ無事だったのか」
「怖かったわ、怖かったわ」
少女は狂おしく泣きながら、固く固く老人の体へ身をすりつけた。――それは、もう恐らく生きてはいないと思われた不二子であった。見ると怪物の仕業《しわざ》であろう、着物も帯もずたずたに引裂け、桃色の美しい胸や、太腿《ふともも》までが無残に露われていた。
「さあ泣くのはお止め、杉原の若旦那さまが祖父《じい》さんとおまえを助けて下すったのだ。お礼を云うが宜い」
「まあそうでしたの」
少女は始めて英一の方へ振返り、お礼を云おうとしながら、着物の破れめから肌の覗いているのに気付き、さっと頬を染めながら慌てて前を掻合《かきあわ》せた。
「お礼なんかお互いさ、みんなが無事なのが何よりの仕合せだ、――けれど不うちゃん、君は浜の者たちを見なかったかい」
「見ましたわ……彼処《あすこ》に――」
不二子は身震いをしながら片隅を指さした。英一と千田老人は近寄って行って、――そしてひと眼見るなり、
「む――酷《ひど》い」
と云って外向《そむ》いた。其処《そこ》には九人の漁夫たちの酸鼻を極めた死体が転がっていた。――こんな惨虐《ざんぎゃく》を敢《あえ》て犯した怪物は、そも何物であろうか……英一は射止めた死骸の方へ歩み寄った。と――その眼前に、大きな檻があって、何か書いた木札が掲げてあった。
「なんだ」
と近づいて読むと――、
[#ここから2字下げ]
危険に付き厳戒
此檻にいるのは「沼猿」と云って、亜弗利加《アフリカ》南部のトリア地方に棲息するゴリラの一種で、既に数百年前に死絶したと伝えられていたものである。――性質獰猛にして兇暴、常に沼地に住むため、体毛は粘苔《ねんたい》に蔽われている。猥《みだ》りに接近を禁ず。[#地から2字上げ]モレア号船長
[#地から1字上げ]D・デービス
[#ここで字下げ終わり]
「――沼猿!」
「――沼猿!」
読終《よみおわ》ると共に、英一と千田老人は期せずして同音に嘆息した。――眼を振向けると、そこには奇怪な動物の死骸があった。なるほど全体の様子はゴリラに似ている、然し長い体毛の無気味さはどうだ。蒼黒いぬるぬるした粘苔に包まれて、まるで腐った藻屑のようではないか。
今にして思えば不二子が殺されなかったのは、沼猿が九人の漁夫を啖《く》ったばかりで、未だ飢えていなかったからであろう。――その翌《あく》る日モレア号はその惨事を弔うため、火を放って焼かれた。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第四巻 海洋冒険譚」作品社
2008(平成20)年1月15日第1刷発行
底本の親本:「新少年」
1937(昭和12)年7月
初出:「新少年」
1937(昭和12)年7月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)英一《えいいち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十|噸《トン》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
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[#3字下げ]無気味な難破船[#「無気味な難破船」は中見出し]
「――御勉強ですか」
窓から声がした。英一《えいいち》が読んでいた書物から眼をあげて見ると、千田老人のにこやかな顔が覗いている。
「ああ千田君か――」
「浜へ面白いものが着いているんですがね、一緒に行って御覧になりませんか」
「何だい面白いものって」
「難破船らしいです」
「へえ、それは是非見たいね」
「いらっしゃい、御案内致しますよ」
英一は書物を伏せて立上《たちあが》った。
紀州の南端にある袖浦《そでがうら》という小漁港で、杉原《すぎはら》家といえば旧幕時代からの大船主として有名である。英一は杉原家の一人息子で、東京の理科大学に学んでいるが、一週間ほどまえから夏休《なつやすみ》で帰省している。――気質の明るい、豪胆な、骨組のがっしりした体つきで、この浜の者たちみんなから「俺達の若旦那」と敬愛されている好青年だった。
次手《ついで》に千田老人も紹介して置こう。彼は杉原家の捕鯨船「南紀丸」の船長として、四十余年のあいだ太平洋を乗廻《のりまわ》した海の猛者《もさ》である。数年まえから陸へあがり、今では杉原家の屋敷内に家を貰って、十六になる孫娘の不二子と二人、静かな生活を楽しんでいるが、機会さえあれば何時《なんどき》でも南極ぐらいへは出掛けようという元気を持っている。――肩幅の広い、大きな手をした、武骨な体格に似合わず洒落《しゃれ》好きで、銀色の口髭を美しく刈込《かりこ》んでいるし、どんなに暑くてもきちんと上衣《うわぎ》の釦《ボタン》をかけ、靴はいつでもぴかぴか光るのを穿いていた。
「――儂《わし》が初めて捕鯨に出た時」
と老人は云《い》う、「百五十|噸《トン》の船で八十頭の鯨を揚げたものだ。然《しか》し儂はそれを自慢しようとは思わない、儂がいま誰にでも威張れるものはこの海泡石《メアショム》のパイプと、孫娘の不二子だ――この二つが儂の宝物さ」
それが千田老人の口癖だった。
手早く身支度して英一が出て行くと、千田老人は門のところで、その御自慢の海泡石《メアショム》のパイプをふかしながら待っていた。――二人は揃って岩道を下りて行った。
「難破船てどんな船だい」
「どうも外国の貨物船らしいですね。昨日から沖に見えていたんですが、潮に乗せられて波切《なみきり》の岩礁《いわ》のところまで寄って来ています。舷側などはかなり壊れているようです」
「人は乗っていないのかい」
「さあどうでしょう」
老人は肩をすくめた。
岩道を下りきると松原になる。一面に月見草の生えている砂地を、真直《まっすぐ》にぬけたところが浜であった。――袖浦は東西にふたつの岬《はな》の突出《つきで》た港で、沖には波切と呼ばれる岩礁《いわ》があり、波も荒く潮流も悪かったが、湾内が広いのと水深が充分なので、捕鯨船の寄港地としては割に有名であった。
「あれです。――」
浜へ出ると千田老人が指さした。
「なるほど、大きい船だね」
「左様、千二三百|噸《トン》もありましょうか」
二つの岬をつなぐ線からやや沖に当る、波切の岩礁《いわ》のところに一艘の船がかかっていた。船体は灰色で二帆|檣《マスト》、その片方は根元で折れ、片方も中途から上は無い。煙突も潰れているし、舷側には大きな穴が明《あ》いている。――そして今しも一艘の漁船が、荒狂う波と闘いながら難破船の方へ近づいて行くのが見えた。
「――おや、救助船を出したようだな」
「今まで出さなかったのかね」
「潮が悪いから夕方まで待てと云って置いたのですがね、仕様のない奴等だ」
老人は舌打《したうち》をしながら、大股に岸壁の方へ歩み寄った。――其処《そこ》には漁夫の男女が大勢集まって、沖の方を見やりながらがやがや騒いでいたが、近寄って来る千田老人と英一をみつけると慌てて帽子や鉢巻《はちまき》を脱《と》りながら挨拶をした。
「あれ程云って置いたのにどうして船を出したんだ。行ったのは誰だ」
「大東の健太でごぜえます」
漁夫たちの一人が云った。「千田さんの許しがあるまで待てと止めたでがすが、なんでも行くだと云って肯《き》かずに参《めえ》りやした」
「健太と誰だ」
「吉五郎と弁と倉三が一緒でがす」
「仕様のない奴だ。――」
千田老人は腹立たしそうに、急《せわ》しくパイプの煙を吐きながら、眼を細めて沖の方を見やった。――英一は岸壁の端へ行って、持って来た双眼鏡を眼に当てた。
「間違いがなければ宜《い》いが」
千田老人が呟《つぶや》いた。
[#3字下げ]何故か帰らぬ人々[#「何故か帰らぬ人々」は中見出し]
英一の双眼鏡には、救助に向った四人の船が巧《たくみ》に、難破船の舷側へ横着けになったのが映った。――そして一人が船に残り、三人の者が壊れている舷側の穴から、船へ這上《はいあが》って行くのも見えた。
「旨くいったらしいな、千田君」
「――無鉄砲な奴等ですよ」
老人はパイブの莨《たばこ》を詰替《つめか》えた。
難破船へ乗込んで行った三人は中々出て来なかった。その附近は水面下に岩礁《いわ》があるので、波は飛沫《しぶき》をあげながら揉返《もみかえ》している。――外に一人残っている漁夫は、船が舷側へ衝突するのを防ぐためにだいぶ苦心している様子だ。
「どうしたんだろう。入ったまま出て来ないが中に人でもいるのかしら」
「さあ……」
千田老人は眼をしば叩いて、「人がいるなら却《かえ》って早く合図に出て来そうなものですがね、――何も見えませんか」
「見えないね」
双眼鏡の度を強くして見たが、難破船の上には物の動く気配もなかった。――そのうちに、どうした事か舷側で待っていた一人が、急に船を岸の方へ漕ぎ戻し始めた。
「おや、一人だけ戻って来るぜ」
英一が不審そうに云う。
「どうしたんだ」
「三人を置きっ放しじゃないか」
「ありゃあ弁だな」
漁夫たちもがやがや騒ぎだした。
なんと云うことなく、みんなが妙に不安な気持に襲われた。戻って来る船の様子がどうも腑におちないのである。千田老人は眉をしかめながら黙っている――英一は眼も放さず船の動作を見戍《みまも》っていた。
岸へ漕ぎ戻ったのは弁吉という若い漁夫であった。千田老人は大股に近寄って行って、
「どうして独りだけ帰って来たんだ」
と呼びかけた。弁吉は船から上ろうともせず、飛沫《しぶき》に濡れた蒼白い顔をあげて、
「あ、千田さん、誰か四五人集めて下さい。直《すぐ》に引返《ひきかえ》さなくちゃなりません」
「どうしたんだ」
「何だか船の中に変った事があるらしいんです。三人とも直《すぐ》戻る約束で入って行ったんですが、いつ迄《まで》待っても出て来ません。私《あっし》は大声に何度も呼んでみました。けれどてんから返辞がねえのです。うん[#「うん」に傍点]と云う声も聞えねえのです」
「下|甲板《カンパン》にでもいたんだろう」
「それじゃあ今はどうです? ――もう一時間の余になりますよ、一体難破船の下甲板なんぞで、一時間の余も何を……」
「もう宜い、理窟は沢山《たくさん》だ……」
千田老人は振返って、
「おい松右衛門、おまえ若い者を四五人|伴《つ》れて弁と一緒に行って来て呉れ」
「合点でがす」
この浜で草相撲の関を取る松右衛門という漁夫が、直《ただち》に集っている中から四人の屈竟《くっきょう》の若者を選び出し、待兼《まちか》ねている弁の船へ乗込んだ。そして元気に沖へ向って出て行った。
「――千田君」
英一は双眼鏡から眼を放して「まだあの三人の姿は船の上に見えないが、一体どうしたんだろうね、本当に何かあったのかね」
「――私《わし》の心配しているのは」
と老人が低い声で云った、「――あの難破船の中に何か……つまり金とか――その、宝石とか云うものが有ってですね」
「ああそうか、それを皆が奪い合いでもしているのではないかと云うのだね」
「――此《この》浜にはそんな浅猿《あさま》しい奴はいない筈《はず》ですが、然し実際その場になって見ると、人間なんてどんな卑《いやし》い気持が起るか分りませんからな、……実のところ私《わし》は何度もそういう場合に出会っているのです」
千田老人はパイプの火皿を鳴らしながら、彼が捕鯨船の船長をしている時分、――南洋の某海上で漂流船に会い、その船の中に多額の金貨を発見した時、親子兄弟よりも仲の良い船夫たちが、どんなに浅猿《あさま》しい争いを演じたか……と云う話をし始めた。
英一は千田老人の話を聞きながら、双眼鏡は沖へ向けて、難破船の上を眼も離さず見戍っていた。――松右衛門たちは難航を続けていた。小さな四挺櫓の漁船は、白馬の乱飛《みだれとぶ》ぶような飛沫《しぶ》き泡立つ波を、乗切り乗切り進んでいる。えんやえんやという櫓拍子《ろびょうし》の声が、いつまでも波の上を伝わって聞えて来た。
凡《およ》そ四十分の後、彼等は難破船へ着いた。そして用意して行った綱で船を繋ぐと、例の壊れた舷側を伝って、六人全部が船の中へ乗込んで行った。――千田老人は独言のように、
「……松右衛門なら大丈夫だろう」
と呟いた。
[#3字下げ]意外の号音[#「意外の号音」は中見出し]
岸壁に集っている人たちの眼は、吸付《すいつ》けられるように難破船へ注がれていた。――十分、二十分、瞬く間に三十分ほど過ぎた。然しまだ何事も起らない。前に行った三人も、あとから乗込んだ六人も、誰一人として姿を見せない、物の動く気配もない。そして四辺《あたり》はいつか夕暮の色が迫って来た。
「――何かあるんだ」
集っている漁夫たちの中から、遂《つい》に不安そうな叫びがあがった。
「誰も出て来ねえ、声もしねえ」
「そうだ、何か変った事があるに違えねえ」
「船幽霊じゃねえか」
誰かが叫んだ、――みんなぴたりと沈黙した。その不安な沈黙の上へ、夕風と波の音がのしかかった。
日は落ちて、海上は暗くなった。然し難破船は謎のように動かない。九人の漁夫たちはどうしたのか、――午後七時過ぎても、遂に一人も帰っては来なかった。英一は黙って双眼鏡を覗いていたが、やがて振返ると、
「千田君、夕飯だから僕は帰るぜ」
と云った。千田老人は頷いて、
「どうぞお帰り下さい、――此事はどうか何誰《どなた》にも仰有《おっしゃ》いませんように、なに大した事はないでしょう」
「ああ黙っているよ、じゃあ又……」
そう云って英一は帰途についた。
家では父母が待兼ねていた。然し英一は難破船の事には少しも触れず、夕食を了《しま》うと直《す》ぐ自分の部屋へ引取った。そして父親たちが茶間《ちゃのま》にいるのを見定めて納戸《なんど》へ入ると、箱に入れて厳重に納《しま》ってあった父の護身用の拳銃《ピストル》と弾丸を取出《とりだ》し、散歩に行くと云って外へ出た。
英一は浜から帰る時すでにこの決心していたのである。――九人の漁夫が乗込んだまま帰らぬ難破船の謎、それを自分の手で検《しら》べてみたいと思ったのだ。
風ままだ吹いていたが、満潮なので海は割に静まっていた。岸壁には篝火《かがりび》が燃えていて、大勢の人たちが影絵のように沖を見張っている。――英一はその人たちに気付かれぬように、廻道《まわりみち》をして繋船場へ行った。そして自分用の小機動艇《モーターボート》の纜《ともづな》を解き、西側の岬へ向けて静かに岸壁を離れた。
難破船は波切の岩礁に軸先《へさき》を突込《つっこ》んだらしく、やや左舷へ傾いて浮いていた。機動艇《ボート》を廻して見ると、右舷に一艘の小船が繋いである。
「――弁の船だな」、
そう思いながら、機動艇《ボート》を更《さら》にその小船へ繋いで置いて、英一は壊れた舷側の穴から難破船の中へ、辷《すべ》り込んだ。
覚悟はして来たものの、いざ中へ入ってみると遉《さすが》に怖ろしさはごまかせなかった。四辺《あたり》は一寸先も見えぬ闇で、潮のむれるような匂《におい》や、錆び腐る船材の香が強く鼻をうつ、――舷側へ寄せる波のほかにはなんの物音もしない。
「落着《おちつ》かなくちゃいけない」
英一は拳銃《ピストル》を右手に握って、足探りにそろそろと進み始めた。――其処《そこ》は中甲板らしく、貨物船のことで天井も低く、通廊には綱具などが散らばっていて、うっかりすると足を取られそうになる。英一は全紳経を緊張させて、右へ右へと歩をすすめた。凡そ五十歩ほど行った時である。……通廊の左手に上甲板へ出る梯子《はしご》があって、上から微《かす》かに星明りがさしているのをみつけた。そしてそれを登ろうと思って第一段へ足をかけた刹那、突然うしろで、
があん[#「があん」に傍点]ッ
と耳を劈《さ》くような号音が起り、頬をすれすれに風を截《き》って弾丸《たま》が飛んだ。
「あッ――」
英一は首を竦《すく》めながら、身を翻えして梯子の横へ避け、二の弾丸《たま》に備えつつ、
「誰だ、僕は杉原英一だぞ」
と叫んだ。すると通廊で、
「え※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 若旦那――?」
と云う声が聞え、ぱっと懐中電灯の光をさしつけながら、
「おお若旦那……どうして又、――」
狼狽して現われたのは、千田老人であった。
「なんだ、千田君だったのか」
「冗談じゃあない、こんな所へお一人で来るなんて正気の沙汰じゃ有りませんぜ。すんでに二発めを射つところでしたよ、どうして来たんです?」
「君と同じ目的さ、――恐らく」
「仕様のない人だ、そんな事をおさせ申し度《た》くないから、お帰りになったあとで……」
「まあ文句は宜いよ」
英一は老人の言葉を遮って、「それより皆はどうしたい、みつかったかい」
老人は頭を振った。
「未《ま》だみつからないのか」
「不思議ですよ、いま大体下甲板まで見廻って来たんですが、何処《どこ》にもいないんです。一人や二人じゃなし、九人も来ていて皆が皆、影も形もないというのは変です」
[#3字下げ]何かいる……[#「何かいる……」は中見出し]
洋上に浮ぶ難破船の中で、九人の漁夫が煙のように消えた。――こんな事が有得《ありう》るだろうか、船の中は限られている、舷《ふなばた》の外は潮荒き海だ。然《しか》も九人の姿はない。
「兎《と》に角《かく》向うの船室へ行きましょう」
老人が沈黙を破って云った。「今夜はこの船で夜を明かす積《つもり》で、少しばかり支度をさせて来ましたから、不二子を呼んでお茶でも飲みましょう」
「不二ちゃんが来ているのかい」
「ええ、どうしても一緒に来るというもんですから伴《つ》れて来ましたよ」
「乱暴だなあ其《それ》ぁ……」
千田老人は先に立って上甲板へあがり、船長室へと案内した。――部屋の中には小さな豆ランプが灯《とも》っていたが、、人影はなかった。
「おや、不二子は何処《どこ》へ行った」
千田老人は中を見廻して、
「――不二子、……不二子、――」
と呼んだ。答えはなかった。――千田老人の顔がさっと不吉な曇りを帯びた。
「――どうしたんだ」
「此処《ここ》を動くなと云って、鉄砲まで持たせて置いたんですがね、外へでも出たのでしょうか」
「捜してみよう」
英一は甲板へとび出した。
拳銃《ピストル》を片手に、甲板をひと廻り捜してみたが、何処《どこ》にも不二子の姿は見当らなかった。元の船室へ戻ると、千田老人がへし[#「へし」に傍点]折られた銃を持って立っていた。
「――何処《どこ》にもいないぜ、千田君」
「是《これ》を御覧なさい」
老人はそう云って銃を差出した。「是は不二子に持たせて置いた銃です。銃身がこんなにへし[#「へし」に傍点]折れているところをみると……慥《たしか》に何者かが此処《ここ》へやって来て、不二子を掠《さら》って行ったに違いありません」
「――何者かとは……?」
「私にも分りません。然しこの船には何かがいます。――何かが」
老人の言葉は英一を慄然《ぞっ》とさせた。――何かとはなんであろう、この壊れた難破船の中に何がいると云うのだ?
「千田君、何とかしなくては――」
と英一が云いかけた時、老人はいきなり卓上の豆ランプを吹消《ふきけ》した。
「どうしたんだ」
「叱《し》ッ、――静かに」
老人は震え声で囁《ささや》いた。「――船室の外に誰かいます。動いてはいけません」
英一は息を殺して扉《ドア》の脇へ身を片寄せた。
船内は墓場のように森閑としている。舷側へ寄せる波の音が、まるで冥府の呼声《よびごえ》のように聞えるばかり、――ランプの消えた船室の中は、墨を流したような息苦しい闇だった。
英一は耳の中でどっどっ[#「どっどっ」に傍点]と脈|搏《う》つ血の音を聞いた。拳銃《ピストル》を握緊《にぎりし》めた右手はいつかじっとりと汗ばんでいる。
「……千田君――」
英一は声をひそめて呼んだ。
「此処《ここ》にいます」
と老人が答えた、その声の方へ英一が振返った、――丁度《ちょうど》その刹那だった。
「ウッ――※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
と云う老人の呻《うめ》きに続いて、「――-ん、英一さん、は、早く――※[#感嘆符二つ、1-8-75]」
絞めつけられるような悲鳴が起り、ばりばりッと烈《はげ》しく板の引裂ける音と、どしん[#「どしん」に傍点]と重い物の倒れる気配がした。英一は夢中で、音を頼りに跳びかかったが、
「あッ――」
と云って横へのめった。跳びかかった英一の手に触れたのは、腐った藻のような、ぬるぬるとした生温《なまぬる》い物だった。そして吐気《はきけ》を催すような悪臭が鼻を塞いだ。――一瞬、英一は全身の血がいっぺんに凍るような、凄《すさま》じい恐怖に襲われて立竦んだ。……それは此世のものではない。
海員たちは、
(溺死者の亡霊が船へあがって人を海へ引込む)
と云う迷信を持っている。――それは迷信に違いない、然しいま其処《そこ》にいるのは何だ? 潮の腐ったような匂いを放つ、ぬるぬるした藻のようなものに包まれた怪物は――何だ。英一は十秒ほど全く恐怖で息が止まった。
「――英一さん!」
千田老人の二度めの悲鳴、
「あッ」
と我にかえった英一は、床の上で揉合っている相手へ、猛然と組付《くみつ》いた。然し怪物は逆に英一の頸を掴んだ。英一はその手を振放そうとしたが、怪物の体はどこを掴んでもぬるぬると滑る、そのうちに烈しく突放されて、英一の体は仰《のけ》ざまに倒れた。そして怪物は千田老人を引摺ったまま、甲板の方へ出て行った、
「――いかん!」
頭を烈しく床へ叩きつけられた英一は、くらくらと眩暈《めま》いのするのを、無理に立上って追いかけた。――甲板の星明りにすかして見ると、黒い四|呎《フィート》ばかりの怪物が、千田老人の体を引摺ったまま、正に運転室の方へ曲ろうとしているところだった。――英一は片手で扉《ドア》へ身を支えながら、怪物の背中へ拳銃《ピストル》の狙いを定めて射った。
[#3字下げ]怪物の正体[#「怪物の正体」は中見出し]
だーん、だーん、だーん※[#感嘆符二つ、1-8-75]
三発続けざまに闇を劈《つんざ》いて火花が走った。――怪物は突飛ばされたように甲板へ顛倒《てんとう》した。然し、英一がもう一発くれようとする暇もなく、恐ろしい叫びをあげながら舳先の方へ走去《はしりさ》った。
英一は大股に駈寄って千田老人を抱起《だきおこ》した。老人は気絶していただけで少し手当をすると直《すぐ》に息を吹返した。
「あ……英一さん――」
「怪物は仕止めた。もう大丈夫だ」
「あ、貴方《あなた》――お怪我《けが》は?」
「僕は大丈夫、立てるかい」
千田老人は喘ぎながら立上った。
「お蔭で命拾いをしました。何処《どこ》にいますか、その怪物は?」
「拳銃《ピストル》を三発くれ[#「くれ」に傍点]てやったから、多分その辺に参っているだろう、行って見よう」
英一は千田老人を援《たす》けながら、怪物の逃去った方へ行った。
「此処《ここ》に血の痕《あと》がある」
「ああ、ずっと滴《た》れていますね……」
甲板の上には点々と血が滴《したた》っていた。――二人は拳銃《ピストル》の引金に指をかけ、油断なく身構えながら、懐中電灯でその血痕を照しつつ進んで行った。
血の痕は舳《へさき》の出入吼《ハッチ》から中甲板へ下りている。それを伝って行くと、更に下甲板へ下り、やがて船艙《せんそう》の中へ消えていた。
「――この中だ」
英一は立止まった。耳を澄ますと、――中から凄じい咆哮《ほうこう》が聞えて来る。
「千田さん――」
英一は振返って、「君は懐中電灯をさしつけていて呉れ給え、僕が射止めてやる」
「――――」
老人は無言で頷いた。
英一は扉《ドア》をさっと明《あ》けた。老人は光をさし向けた。がらんとした船艙の中で、此世のものとも思えぬ叫びが起り、大きな荷箱の蔭から、黒い怪物が飛鳥のように跳出《とびだ》した、刹那、
がん! がん※[#感嘆符二つ、1-8-75]
と爆音が起り、火花が迸《ほとばし》った。怪物は二三度高くはね上ると、ずしん[#「ずしん」に傍点]と床を響かせて倒れた。そして――もう動かなかった。
「射止めたね……」
英一が云った。
「みごとな狙いです」
老人がそう云いかけた時、物蔭から、
「――お祖父《じい》さま」
と叫びながら、一人の少女が走出して来て千田老人の体へしがみ着いた。
「おお不二子か、おまえ無事だったのか」
「怖かったわ、怖かったわ」
少女は狂おしく泣きながら、固く固く老人の体へ身をすりつけた。――それは、もう恐らく生きてはいないと思われた不二子であった。見ると怪物の仕業《しわざ》であろう、着物も帯もずたずたに引裂け、桃色の美しい胸や、太腿《ふともも》までが無残に露われていた。
「さあ泣くのはお止め、杉原の若旦那さまが祖父《じい》さんとおまえを助けて下すったのだ。お礼を云うが宜い」
「まあそうでしたの」
少女は始めて英一の方へ振返り、お礼を云おうとしながら、着物の破れめから肌の覗いているのに気付き、さっと頬を染めながら慌てて前を掻合《かきあわ》せた。
「お礼なんかお互いさ、みんなが無事なのが何よりの仕合せだ、――けれど不うちゃん、君は浜の者たちを見なかったかい」
「見ましたわ……彼処《あすこ》に――」
不二子は身震いをしながら片隅を指さした。英一と千田老人は近寄って行って、――そしてひと眼見るなり、
「む――酷《ひど》い」
と云って外向《そむ》いた。其処《そこ》には九人の漁夫たちの酸鼻を極めた死体が転がっていた。――こんな惨虐《ざんぎゃく》を敢《あえ》て犯した怪物は、そも何物であろうか……英一は射止めた死骸の方へ歩み寄った。と――その眼前に、大きな檻があって、何か書いた木札が掲げてあった。
「なんだ」
と近づいて読むと――、
[#ここから2字下げ]
危険に付き厳戒
此檻にいるのは「沼猿」と云って、亜弗利加《アフリカ》南部のトリア地方に棲息するゴリラの一種で、既に数百年前に死絶したと伝えられていたものである。――性質獰猛にして兇暴、常に沼地に住むため、体毛は粘苔《ねんたい》に蔽われている。猥《みだ》りに接近を禁ず。[#地から2字上げ]モレア号船長
[#地から1字上げ]D・デービス
[#ここで字下げ終わり]
「――沼猿!」
「――沼猿!」
読終《よみおわ》ると共に、英一と千田老人は期せずして同音に嘆息した。――眼を振向けると、そこには奇怪な動物の死骸があった。なるほど全体の様子はゴリラに似ている、然し長い体毛の無気味さはどうだ。蒼黒いぬるぬるした粘苔に包まれて、まるで腐った藻屑のようではないか。
今にして思えば不二子が殺されなかったのは、沼猿が九人の漁夫を啖《く》ったばかりで、未だ飢えていなかったからであろう。――その翌《あく》る日モレア号はその惨事を弔うため、火を放って焼かれた。
底本:「山本周五郎探偵小説全集 第四巻 海洋冒険譚」作品社
2008(平成20)年1月15日第1刷発行
底本の親本:「新少年」
1937(昭和12)年7月
初出:「新少年」
1937(昭和12)年7月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ