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友のためではない
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友のためではない
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)会沢寅二郎《あいざわとらじろう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)父|蒔田内記《まきたないき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
――よし、こいつ斬ってやろう。
会沢寅二郎《あいざわとらじろう》は即座に心を決めた。以前から時どきそう思うことがあった。生かしておいてもお役には立たない。いや、うっかりすると御家の名を汚すようなこともしかねないようだ。いくたびもそう思ったが、相手の角之助《かくのすけ》の父|蒔田内記《まきたないき》は、庄内藩酒井家にとっては功労のある人物で、角之助はたった一人の男子だった。
父親の心を思い遣ると気の毒でもあるし、また相手を斬れば、自分も切腹は免れない。あんなつまらぬやつのために、命を捨てるのは残念だという気持もあった。おそらく家中の者は誰しもそう考えたであろう。それがまた、角之助を増長させる因でもあった。藩家に功労のある老臣の子であり、膂力《りょりょく》も強く、十八歳という年には似合わず、刀法にもずばぬけた腕をもっている。――ずいぶん厳しく育てたつもりだが、と、父親の内記も歎息するが、それほど悪くなっているとは知らないらしい。結局は誰も抑える者がないので、類をもって集る仲間と好き勝手なことをする。それがだんだん目に余るようになった。
その数日まえ、会沢寅二郎は国家老に呼ばれて、江戸にいる御主君への使者を命ぜられた。参覲ちゅうの酒井忠当《さかいただとう》から、「国許の書庫にある、これこれの書物を調べて、寅二郎に持って来させるように」
と、とくに名指しの申しつけがあった。……常づね学問のお相手には、彼と杉沼欣之丞《すぎぬまきんのじょう》という者とがよく召される。二人は同年の十八歳であり、また無二の友でもあったが、気の強い寅二郎にたいして、おとなしい欣之丞はいつも陰にまわるようにしているため、忠当から御声のかかるのも、どちらかといえば寅二郎のほうが多かった。
そのときの御用もほんとうなら欣之丞の役なのだが、御指名だからやむをえず、彼は欣之丞に相談をして、書庫の調べを手伝ってもらった。そして角之助との争いは、その調べが終って、いよいよ出立という前日のことだったのである。
「明日出立いたします」と、国家老に届けて下城する途中、大手の桝形のところで、向こうから駈け足で曲って来た男があり、避けようとした寅二郎とはげしく衝き当った。しかも相手はいきなり、「ばか者、眼を明いて歩け」と、ど鳴りつけた。それが角之助であるのを見て、寅二郎はむらむらと怒りがとみあげてきた。火急の御用でもない限り、城中を駆けまわるということはないものだ。おのれのほうこそ謝罪すべきだのに、そう思っているところへ押しかぶせて、「なんだ会沢の青瓢箪か、刀の抜きようも知らず、無用の字ばかり見ているから道も満足には歩けない、学問ができても御馬前のお役には立たんぞ」
その一言が、堪忍の緒を切った。――よし、こいつ斬ってやろう、寅二郎は即座にそう決心し、「どちらが御馬前のお役に立つか、試してみようではないか」と、叫んだ。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
その夜、かなり更けてから、寅二郎はひそかに杉沼欣之丞を訪ね、角之助との始末を語った。「……それで、斬ったのか」欣之丞はしずかに訊き返した。「斬った、鉄砲的場の裏の原でみごとに斬って来た、そして、そのことはなんでもないのだが、斬ったとたんに、江戸への使者の役目を思いだしたんだ」寅二郎は暗然と面を伏せた、「……こいつ斬ってやれと思ったときは、恥ずかしいが使者の役を忘れていた、日頃からの怒りが一時にこみあげて、前後のふんべつを失ったのだ」
「…………」
「角之助を斬ったからには、おれも切腹する、それについて頼みがあって来たのだが、江戸への使者の役をそこもとに代ってもらいたいのだ」
「それはいけない」欣之丞は、そっと頭を振った、
「……役目を殿からそこもとへの御指名だ、江戸へはそこもとが行かなくてはいけない」
「しかし角之助を斬った以上は」
「それはおれが引受ける」穏かにおちついた声で、欣之丞はそう云った、「……相手が相手だから切腹せずとも解決のつく方法はあると思う、それはよく考えて、おれが始末をつけるよ、そこもとはかまわず江戸へ出立するがいい」
平常から控えめな、思慮の深い欣之丞ではあり、そのときのおちついた口ぶりが、いかにもなにか思案ありげだったので、なお二三押し問答をしたのち、寅二郎はついに友の意見に従うことにきめた。
「では、役目を果して帰るまで、角之助とのことを頼む、帰って来たらどのようにも責任をとるから」
そう云い交わして杉沼の家を辞したのであった。
寅二郎が江戸邸へ着いたのは、万治二年の十月はじめだった。そして着いた三日めに、国許から急使があり、『杉沼欣之丞が蒔田角之助と私闘をし、相手を討ち果したうえ、自訴して出たので、藩の掟どおり切腹させた』ということが、江戸邸の家中に披露された。……寅二郎は色を失った。「いかん」と思い、すぐ老職に事実を告げようとしていると、そこへ急飛脚が欣之丞からの手紙を届けて来た。寅二郎は震える手で封を切り、すぐにひらいてみると、――この手紙がそちらへ着く頃は、すでに自分はこの世を去っているであろう。そういう書きだしで、次のような簡単な文章が記してあった。
[#ここから2字下げ]
藩家のおんために蒔田角之助を処分せざるべからざることは、いささか志ある者の等しく期しいたるところにござそろ。そこもとは誰かがなさざるべからざることを率先してなした。すなわちことは私闘にあらず、御家百年のおんためにて候。……拙者が自訴し、御法どおり切腹の仰せつけを蒙り候こと、そこもとお聞きの節はおそらく『友情のため』とも思し召さるべし、もしさようなれば、お考え違いなること、ここに判然と申し上げ候。僭上には候えども、拙者はそこもとこそやがて御家の柱石たるべき人物なりと、かねてより確信をもって期待しまいり候。いかなることありとも、角之助ごとき者の命と取替えには相成らず、誰が責任を負って死すべきかとなれば、御家将来のためには、そこもとより拙者の死すべきがまだしもにござそろ。……そこもとは藩家のために、誰かがなさざるべからざることをなされ候。されば拙者も藩家将来のために、誰かが負わざるべからざる責任を負いしまでにて、断じて些々たる友情にはこれ無く候。
[#ここで字下げ終わり]
念のため一筆という結びの文字を読みながら寅二郎は泣いた。友情のためではないと断るのは、『この心を無にしてくれるな』という悲壮な叫びである。自分は『私闘の罪で切腹』という、さむらいとして不名誉な死にかたをしても、藩家の柱石となる友を生かすことができれば悔いはない。そういう欣之丞のひとすじな心が、いま寅二郎には痛いほど鮮やかに感じられる。――そうだ、この杉沼の心を無にしてはならない。彼は涙を押しぬぐって座を立った。――おれは欣之丞と二人ぶんの御奉公をしなければならぬ。柱石となることはできずとも、この命ひとつをかならず二人ぶんのお役に立てるのだ。
出仕の刻限がきていた。寅二郎は支度を改め、なにごともなかったもののように、しずかに御殿へ上っていった。そして友の死がほんとうに友情のためであるかないかより、それほど自分を信じてくれた友のためにも、全力を尽くして、『お役に立つ人間』にならなければならぬと誓うのだった。
底本:「爽快小説集」実業之日本社
1978(昭和53)年6月25日 初版発行
1979(昭和54)年7月15日 二版発行
底本の親本:「海軍」
1945(昭和20)年5、6月合併号
初出:「海軍」
1945(昭和20)年5、6月合併号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)会沢寅二郎《あいざわとらじろう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)父|蒔田内記《まきたないき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
――よし、こいつ斬ってやろう。
会沢寅二郎《あいざわとらじろう》は即座に心を決めた。以前から時どきそう思うことがあった。生かしておいてもお役には立たない。いや、うっかりすると御家の名を汚すようなこともしかねないようだ。いくたびもそう思ったが、相手の角之助《かくのすけ》の父|蒔田内記《まきたないき》は、庄内藩酒井家にとっては功労のある人物で、角之助はたった一人の男子だった。
父親の心を思い遣ると気の毒でもあるし、また相手を斬れば、自分も切腹は免れない。あんなつまらぬやつのために、命を捨てるのは残念だという気持もあった。おそらく家中の者は誰しもそう考えたであろう。それがまた、角之助を増長させる因でもあった。藩家に功労のある老臣の子であり、膂力《りょりょく》も強く、十八歳という年には似合わず、刀法にもずばぬけた腕をもっている。――ずいぶん厳しく育てたつもりだが、と、父親の内記も歎息するが、それほど悪くなっているとは知らないらしい。結局は誰も抑える者がないので、類をもって集る仲間と好き勝手なことをする。それがだんだん目に余るようになった。
その数日まえ、会沢寅二郎は国家老に呼ばれて、江戸にいる御主君への使者を命ぜられた。参覲ちゅうの酒井忠当《さかいただとう》から、「国許の書庫にある、これこれの書物を調べて、寅二郎に持って来させるように」
と、とくに名指しの申しつけがあった。……常づね学問のお相手には、彼と杉沼欣之丞《すぎぬまきんのじょう》という者とがよく召される。二人は同年の十八歳であり、また無二の友でもあったが、気の強い寅二郎にたいして、おとなしい欣之丞はいつも陰にまわるようにしているため、忠当から御声のかかるのも、どちらかといえば寅二郎のほうが多かった。
そのときの御用もほんとうなら欣之丞の役なのだが、御指名だからやむをえず、彼は欣之丞に相談をして、書庫の調べを手伝ってもらった。そして角之助との争いは、その調べが終って、いよいよ出立という前日のことだったのである。
「明日出立いたします」と、国家老に届けて下城する途中、大手の桝形のところで、向こうから駈け足で曲って来た男があり、避けようとした寅二郎とはげしく衝き当った。しかも相手はいきなり、「ばか者、眼を明いて歩け」と、ど鳴りつけた。それが角之助であるのを見て、寅二郎はむらむらと怒りがとみあげてきた。火急の御用でもない限り、城中を駆けまわるということはないものだ。おのれのほうこそ謝罪すべきだのに、そう思っているところへ押しかぶせて、「なんだ会沢の青瓢箪か、刀の抜きようも知らず、無用の字ばかり見ているから道も満足には歩けない、学問ができても御馬前のお役には立たんぞ」
その一言が、堪忍の緒を切った。――よし、こいつ斬ってやろう、寅二郎は即座にそう決心し、「どちらが御馬前のお役に立つか、試してみようではないか」と、叫んだ。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
その夜、かなり更けてから、寅二郎はひそかに杉沼欣之丞を訪ね、角之助との始末を語った。「……それで、斬ったのか」欣之丞はしずかに訊き返した。「斬った、鉄砲的場の裏の原でみごとに斬って来た、そして、そのことはなんでもないのだが、斬ったとたんに、江戸への使者の役目を思いだしたんだ」寅二郎は暗然と面を伏せた、「……こいつ斬ってやれと思ったときは、恥ずかしいが使者の役を忘れていた、日頃からの怒りが一時にこみあげて、前後のふんべつを失ったのだ」
「…………」
「角之助を斬ったからには、おれも切腹する、それについて頼みがあって来たのだが、江戸への使者の役をそこもとに代ってもらいたいのだ」
「それはいけない」欣之丞は、そっと頭を振った、
「……役目を殿からそこもとへの御指名だ、江戸へはそこもとが行かなくてはいけない」
「しかし角之助を斬った以上は」
「それはおれが引受ける」穏かにおちついた声で、欣之丞はそう云った、「……相手が相手だから切腹せずとも解決のつく方法はあると思う、それはよく考えて、おれが始末をつけるよ、そこもとはかまわず江戸へ出立するがいい」
平常から控えめな、思慮の深い欣之丞ではあり、そのときのおちついた口ぶりが、いかにもなにか思案ありげだったので、なお二三押し問答をしたのち、寅二郎はついに友の意見に従うことにきめた。
「では、役目を果して帰るまで、角之助とのことを頼む、帰って来たらどのようにも責任をとるから」
そう云い交わして杉沼の家を辞したのであった。
寅二郎が江戸邸へ着いたのは、万治二年の十月はじめだった。そして着いた三日めに、国許から急使があり、『杉沼欣之丞が蒔田角之助と私闘をし、相手を討ち果したうえ、自訴して出たので、藩の掟どおり切腹させた』ということが、江戸邸の家中に披露された。……寅二郎は色を失った。「いかん」と思い、すぐ老職に事実を告げようとしていると、そこへ急飛脚が欣之丞からの手紙を届けて来た。寅二郎は震える手で封を切り、すぐにひらいてみると、――この手紙がそちらへ着く頃は、すでに自分はこの世を去っているであろう。そういう書きだしで、次のような簡単な文章が記してあった。
[#ここから2字下げ]
藩家のおんために蒔田角之助を処分せざるべからざることは、いささか志ある者の等しく期しいたるところにござそろ。そこもとは誰かがなさざるべからざることを率先してなした。すなわちことは私闘にあらず、御家百年のおんためにて候。……拙者が自訴し、御法どおり切腹の仰せつけを蒙り候こと、そこもとお聞きの節はおそらく『友情のため』とも思し召さるべし、もしさようなれば、お考え違いなること、ここに判然と申し上げ候。僭上には候えども、拙者はそこもとこそやがて御家の柱石たるべき人物なりと、かねてより確信をもって期待しまいり候。いかなることありとも、角之助ごとき者の命と取替えには相成らず、誰が責任を負って死すべきかとなれば、御家将来のためには、そこもとより拙者の死すべきがまだしもにござそろ。……そこもとは藩家のために、誰かがなさざるべからざることをなされ候。されば拙者も藩家将来のために、誰かが負わざるべからざる責任を負いしまでにて、断じて些々たる友情にはこれ無く候。
[#ここで字下げ終わり]
念のため一筆という結びの文字を読みながら寅二郎は泣いた。友情のためではないと断るのは、『この心を無にしてくれるな』という悲壮な叫びである。自分は『私闘の罪で切腹』という、さむらいとして不名誉な死にかたをしても、藩家の柱石となる友を生かすことができれば悔いはない。そういう欣之丞のひとすじな心が、いま寅二郎には痛いほど鮮やかに感じられる。――そうだ、この杉沼の心を無にしてはならない。彼は涙を押しぬぐって座を立った。――おれは欣之丞と二人ぶんの御奉公をしなければならぬ。柱石となることはできずとも、この命ひとつをかならず二人ぶんのお役に立てるのだ。
出仕の刻限がきていた。寅二郎は支度を改め、なにごともなかったもののように、しずかに御殿へ上っていった。そして友の死がほんとうに友情のためであるかないかより、それほど自分を信じてくれた友のためにも、全力を尽くして、『お役に立つ人間』にならなければならぬと誓うのだった。
底本:「爽快小説集」実業之日本社
1978(昭和53)年6月25日 初版発行
1979(昭和54)年7月15日 二版発行
底本の親本:「海軍」
1945(昭和20)年5、6月合併号
初出:「海軍」
1945(昭和20)年5、6月合併号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ