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義務と名誉
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義務と名誉
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)欧洲《おうしゅう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)中|電燈《でんとう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
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[#3字下げ]スパイがいる![#「スパイがいる!」は中見出し]
欧洲《おうしゅう》大戦のおわりに近い頃。
無敵艦隊として、世界の海軍を戦慄《せんりつ》させた、独逸《ドイツ》の北海艦隊の中に、ストラールという弩級《どきゅう》戦艦があった。大戦のはじめには、有名なベルゲイ提督の乗艦としてきこえ、幾多の海戦に、旗艦として活躍した、優秀な艦《ふね》であった。
一九一八年の夏七月、キール軍港に入って、艤装《ぎそう》修復をいそいでいた戦艦ストラールは、ようやくにしてそれをおえたので、海にある艦隊と合すべくキールを出港した。
ところが出港するとまもなく、二等軍医のマメールが、忽然《こつぜん》として姿を消したという事件がおこった。医務室にはマメールの帽子も荷物もそのままあるし、卓子《テーブル》の上には、半分ほどにへった酒の壜《びん》もある。艦内総動員で捜査したが、結局彼は酒に酔って、甲板から海へ墜落したものとみとめるより外になかった。
しかたがないので、ふたたびキールへもどって、新任まだ日の浅い、ザスニッツという、二等軍医を乗船させ、出発した。
「おい、なんだかこんどの航海はへんだぜ」
「そうだ、妙にうさん臭い感じがするなあ」
「おたがいに注意しようぜ」
乗組員はそういって戒《いま》しめあった。
ところが、艦《ふね》がスカゲラクの岬をまわろうとしていた時、はたして第二の椿事《ちんじ》がおこった。ちょうど夕食の時刻で、幕僚と共に、艦長フェレンツ大佐が、卓子《テーブル》へついたとたん、
「大事件です、艦長!」
と、甲板士官のユンケル少尉《しょうい》が、とびこんできた。
「どうしたんだ、そんなに慌《あわ》てて」
「だれか、火薬庫へ通ずるパイプの水栓を、あけた者があります」
「なに!」艦長は仰天して、
「火薬はどうした、水栓は?」
「幸い発見が早かったので、さっそく水栓はとめましたが、火薬の一部は濡《ぬ》れてしまったようです、ご検分ねがいます」
「すぐいこう」
航海長と共に、フェレンツ大佐は出かけていった。
火薬庫へ通ずるパイプというのは、艦《ふね》に火災などのおこった場合、火薬が引火して爆発するのを防ぐために、水を注入して、万全を計るしかけである。
「どうしたのですか」
火薬庫の調査をして出てくると、二等軍医のザスニッツが、いつの間にか、うしろへきて、ユンケル少尉の肩を叩《たた》いた。
「誰かパイプの水栓をあけたんです。火薬が水浸しになってしまいましたよ」
「どうして水栓がとれたのですか」
「とれたのではない、誰かとった奴《やつ》がいるんです。あのバルブが自然にあくことなど、ぜったいにありません」
「不思議ですねえ。誰かがやったとして、誰がそんなばかなことをするでしょう」
「スパイですよ」ユンケル少尉は鋭くいった。
「ほう」二等軍医は眉《まゆ》をひそめて、
「だがこの艦《ふね》の乗組員は、みんなアルレル地方出身の選抜の独逸《ドイツ》兵ときいていますが」
「そうでない人もいます。第一に貴官は和蘭《オランダ》生れだし、砲術長は、カナダで育った人ですからね」
ユンケル少尉の眼は、そういいながら鋭く、二等軍医の顔をにらんだ。ザスニッツはちらと尻眼《しりめ》に少尉を見たが、静かに笑って、
「ほう、そうすると砲術長か僕か、どっちか一人が、スパイというわけですね」
「いや、僕はただ一例をあげただけですよ」
ユンケルはそういいすてて、大股《おおまた》に去った。
だれかが水栓をあけた。だれかが、しかし誰がしたかということは、まったくわからずじまいだった。火薬の損害は四分ノ一ほどですんだが、それを補充するために、キールへ帰るか、かえらぬかということで、少しごたごたした後、艦《ふね》は航海をつづけることに決した。
前年の二月、ヘリゴランド沖の海戦に先だって、一等戦艦のオスナブリュクが、原因の分らぬ火薬庫爆発で沈没したことがある。これも後にいたって、イギリス軍のスパイの仕業ということがわかった。
それを思い合せる時、フェレンツ大佐は、こんどの事件も、かならずスパイのやったことに相違ないとかんがえ、急に艦内の警戒を厳にした。
さもあらばあれ、戦艦ストラールは、無事にスカゲラク海峡を、通過して、北海の荒海を、南方にむかって進んでいた。
[#3字下げ]ふたたび海中へ[#「ふたたび海中へ」は中見出し]
七月十七日の夜、十二時すぎ。
当番にあたったユンケル少尉が、後部甲板の左舷《さげん》を巡視していると、霧の海面をつたわって、かすかに汽艇の近づいてくるような物音をきいた。艦橋監視兵に、注意をうながそうとしたが、ふとある事を考えて、艦載水雷艇の蔭《かげ》へ身をひそめた。
ものの五分もたったであろうか、左舷二番砲の暗がりから、するすると、怪しい男があらわれたと思うと、懐中|電燈《でんとう》を取出《とりだ》して、何やら海上へ向って点火信号をはじめた。
「スパイだ! うぬ」
うなずいたユンケル少尉、忍び足に怪人物のうしろへ近よると、いきなり頸《くび》へとびかかった。とたんに相手はふりかえった、少尉の腕を逆にとる顔、――少尉が思わず、
「あ! ザスニッツ軍医」
「声をたてるな」
「くそっ!」
はげしく突きかかる拳《こぶし》。二等軍医は恐ろしい力で少尉の拳をはねのけると、逆にとった腕を引よせざま、力まかせに少尉の鼻柱へ、ぐわんと拳を見舞った。みごとなストレート、少尉はくらくらとなって失神する。軍医は手早く少尉の体を、細紐《ほそひも》でしばりあげると、
「もう八分しかないぞ」
呟《つぶや》きながら、ぐったりしたユンケルの体をかつぎあげて、下甲板《げかんぱん》へおりていった。
二等軍医ザスニッツこそ、英国海軍の特務機関シャンバー中尉だったのである。マメール軍医が失踪《しっそう》したのも、火薬庫へ注水したのも、もちろん彼であった。――彼の任務は、独逸《ドイツ》北海艦隊の主脳艦たる、ストラールを爆沈して、艦隊の勢力を殺《そ》ごうとするにあるのだ。
ユンケル少尉をかついで、下甲板へおりたシャンバー中尉は、雑具室の中へユンケルをほうりこんでおいて、火薬庫の方へ走った。用意はかねてできている、――注水パイプの水栓を、動かぬようにした上、火薬へ火をつけるのだ。
五分にして仕事はおわった。
「万事よし、さらばストラール」
シャンバー中尉はにっこり笑うと、脱兎《だっと》のように上甲板へかけあがって、左舷後甲板へ出た。――闇《やみ》の中にするすると近よってくる汽艇、それと見てシャンバーは、海へさんぶと身をおどらせた。
近よってきた汽艇がシャンバー中尉を救いあげる、と同時に戦艦ストラールの中央部が、どどどどど! ぶきみに鳴動したかと見るまに、ぐわあ――ん※[#感嘆符二つ、1-8-75] 凄《すさ》まじい爆音と共に、百フィートばかりの火柱がほとばしり出た。
「やった」「成功だ、大成功だ」
英国汽艇の上では、シャンバー中尉を取《とり》かこんで、戦友達が思わず歓呼の声をあげた。ストラールは瞬時にして大混乱におちいった。救命ボートをおろす者、艦載汽艇をつりおろす者、甲板は右往左往する乗組員で、怒濤《どとう》のようにふさがった。
汽艇の甲板に立って、その有様をじっと見ていたシャンバー中尉は、ふいに、
「いかん、忘れた!」と叫んだ。
「どうした、シャンバー中尉」
「ユンケルという若い少尉を縛りあげたまま、雑具室へほうりこんできた、あのままおけば艦《ふね》と共に沈んでしまう。ユンケルが雑具室にいることを知っているのは、僕一人だ。助けてこなければ……」
「ばかな。敵軍の士官を助けにゆく奴があるか、これは戦争だぞ」
「だまれ」中尉は同僚の言葉を鋭くさえぎった。
「たとえ戦争にもせよ、戦闘力をなくした者を殺すことができるか。ユンケルはいま、戦闘力を失っている、そして僕は大英帝国の軍人だ」
「よせシャンバー、君は死んでしまう」
「いいや、僕は人間としての義務をはたすのだ」
いいすてると、驚いてとめる戦友の手を払いのけて、シャンバー中尉は、ふたたび海中へ身をおどらせた。
中尉が、ストラールの甲板へ這上《はいあが》った時、第二回の爆発がおこって、艦《ふね》は五十度の角度に傾きつつ沈没しつつあった。――むせるような強い硝煙と、身をこがすような艦《ふね》の中をしゃ二《に》む二《に》突進した中尉は、
「ユンケル少尉!」
と叫びながら、雑具室へとびこんだ。見るとそこに少尉が、身をしばられたまま猛煙と火熱にもがきまわっている。シャンバー中尉は、いきなりユンケルをかつぎあげると、眼もくらむ煙の渦をおかして、必死に上甲板まで脱出した。いままさに、最後のボートが艦《ふね》をはなれようとしているところだ。中尉はユンケルをしばった細紐をとくなり、
「まだ一人のこっているぞ!」と叫びながら、少尉の体を、舷側《げんそく》の方へおしゃった。その時、ユンケル少尉は、はっきりと意識をとりもどした。そして、左舷の方へ走り去っていく、シャンバーの姿を見るやいなや、
「うぬ、スパイ奴《め》!」
わめきながら、拳銃を取出して一発、二発。シャンバー中尉の背をねらってうった。中尉はあっと低く叫んだが、よろよろと二三歩よろめいて、ばったりたおれた。
×
二時間の後。
英海軍汽艇の必死の捜査によって、人事不省におちいったシャンバー中尉は救いあげられた。二発の弾丸《たま》は、大腿部《だいたいぶ》を貫通しただけで、負傷としては軽いものだった。
「君の向うみずにも呆《あき》れるぞ、ばかだなあシャンバー」
戦友の一人が、なかば感歎《かんたん》の声とともに叱《しか》りつけた時、シャンバー中尉は、にっこり笑いながらこたえた。
「僕は二発の弾丸《たま》で、大英帝国軍人の、義務と名誉を買ったのだ、安いものさ、はははは」
底本:「周五郎少年文庫 南方十字星 海洋小説集」新潮文庫、新潮社
2019(平成31)年2月1日発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1934(昭和9)年12月号
初出:「少年少女譚海」
1934(昭和9)年12月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1-8-75]
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[#3字下げ]スパイがいる![#「スパイがいる!」は中見出し]
欧洲《おうしゅう》大戦のおわりに近い頃。
無敵艦隊として、世界の海軍を戦慄《せんりつ》させた、独逸《ドイツ》の北海艦隊の中に、ストラールという弩級《どきゅう》戦艦があった。大戦のはじめには、有名なベルゲイ提督の乗艦としてきこえ、幾多の海戦に、旗艦として活躍した、優秀な艦《ふね》であった。
一九一八年の夏七月、キール軍港に入って、艤装《ぎそう》修復をいそいでいた戦艦ストラールは、ようやくにしてそれをおえたので、海にある艦隊と合すべくキールを出港した。
ところが出港するとまもなく、二等軍医のマメールが、忽然《こつぜん》として姿を消したという事件がおこった。医務室にはマメールの帽子も荷物もそのままあるし、卓子《テーブル》の上には、半分ほどにへった酒の壜《びん》もある。艦内総動員で捜査したが、結局彼は酒に酔って、甲板から海へ墜落したものとみとめるより外になかった。
しかたがないので、ふたたびキールへもどって、新任まだ日の浅い、ザスニッツという、二等軍医を乗船させ、出発した。
「おい、なんだかこんどの航海はへんだぜ」
「そうだ、妙にうさん臭い感じがするなあ」
「おたがいに注意しようぜ」
乗組員はそういって戒《いま》しめあった。
ところが、艦《ふね》がスカゲラクの岬をまわろうとしていた時、はたして第二の椿事《ちんじ》がおこった。ちょうど夕食の時刻で、幕僚と共に、艦長フェレンツ大佐が、卓子《テーブル》へついたとたん、
「大事件です、艦長!」
と、甲板士官のユンケル少尉《しょうい》が、とびこんできた。
「どうしたんだ、そんなに慌《あわ》てて」
「だれか、火薬庫へ通ずるパイプの水栓を、あけた者があります」
「なに!」艦長は仰天して、
「火薬はどうした、水栓は?」
「幸い発見が早かったので、さっそく水栓はとめましたが、火薬の一部は濡《ぬ》れてしまったようです、ご検分ねがいます」
「すぐいこう」
航海長と共に、フェレンツ大佐は出かけていった。
火薬庫へ通ずるパイプというのは、艦《ふね》に火災などのおこった場合、火薬が引火して爆発するのを防ぐために、水を注入して、万全を計るしかけである。
「どうしたのですか」
火薬庫の調査をして出てくると、二等軍医のザスニッツが、いつの間にか、うしろへきて、ユンケル少尉の肩を叩《たた》いた。
「誰かパイプの水栓をあけたんです。火薬が水浸しになってしまいましたよ」
「どうして水栓がとれたのですか」
「とれたのではない、誰かとった奴《やつ》がいるんです。あのバルブが自然にあくことなど、ぜったいにありません」
「不思議ですねえ。誰かがやったとして、誰がそんなばかなことをするでしょう」
「スパイですよ」ユンケル少尉は鋭くいった。
「ほう」二等軍医は眉《まゆ》をひそめて、
「だがこの艦《ふね》の乗組員は、みんなアルレル地方出身の選抜の独逸《ドイツ》兵ときいていますが」
「そうでない人もいます。第一に貴官は和蘭《オランダ》生れだし、砲術長は、カナダで育った人ですからね」
ユンケル少尉の眼は、そういいながら鋭く、二等軍医の顔をにらんだ。ザスニッツはちらと尻眼《しりめ》に少尉を見たが、静かに笑って、
「ほう、そうすると砲術長か僕か、どっちか一人が、スパイというわけですね」
「いや、僕はただ一例をあげただけですよ」
ユンケルはそういいすてて、大股《おおまた》に去った。
だれかが水栓をあけた。だれかが、しかし誰がしたかということは、まったくわからずじまいだった。火薬の損害は四分ノ一ほどですんだが、それを補充するために、キールへ帰るか、かえらぬかということで、少しごたごたした後、艦《ふね》は航海をつづけることに決した。
前年の二月、ヘリゴランド沖の海戦に先だって、一等戦艦のオスナブリュクが、原因の分らぬ火薬庫爆発で沈没したことがある。これも後にいたって、イギリス軍のスパイの仕業ということがわかった。
それを思い合せる時、フェレンツ大佐は、こんどの事件も、かならずスパイのやったことに相違ないとかんがえ、急に艦内の警戒を厳にした。
さもあらばあれ、戦艦ストラールは、無事にスカゲラク海峡を、通過して、北海の荒海を、南方にむかって進んでいた。
[#3字下げ]ふたたび海中へ[#「ふたたび海中へ」は中見出し]
七月十七日の夜、十二時すぎ。
当番にあたったユンケル少尉が、後部甲板の左舷《さげん》を巡視していると、霧の海面をつたわって、かすかに汽艇の近づいてくるような物音をきいた。艦橋監視兵に、注意をうながそうとしたが、ふとある事を考えて、艦載水雷艇の蔭《かげ》へ身をひそめた。
ものの五分もたったであろうか、左舷二番砲の暗がりから、するすると、怪しい男があらわれたと思うと、懐中|電燈《でんとう》を取出《とりだ》して、何やら海上へ向って点火信号をはじめた。
「スパイだ! うぬ」
うなずいたユンケル少尉、忍び足に怪人物のうしろへ近よると、いきなり頸《くび》へとびかかった。とたんに相手はふりかえった、少尉の腕を逆にとる顔、――少尉が思わず、
「あ! ザスニッツ軍医」
「声をたてるな」
「くそっ!」
はげしく突きかかる拳《こぶし》。二等軍医は恐ろしい力で少尉の拳をはねのけると、逆にとった腕を引よせざま、力まかせに少尉の鼻柱へ、ぐわんと拳を見舞った。みごとなストレート、少尉はくらくらとなって失神する。軍医は手早く少尉の体を、細紐《ほそひも》でしばりあげると、
「もう八分しかないぞ」
呟《つぶや》きながら、ぐったりしたユンケルの体をかつぎあげて、下甲板《げかんぱん》へおりていった。
二等軍医ザスニッツこそ、英国海軍の特務機関シャンバー中尉だったのである。マメール軍医が失踪《しっそう》したのも、火薬庫へ注水したのも、もちろん彼であった。――彼の任務は、独逸《ドイツ》北海艦隊の主脳艦たる、ストラールを爆沈して、艦隊の勢力を殺《そ》ごうとするにあるのだ。
ユンケル少尉をかついで、下甲板へおりたシャンバー中尉は、雑具室の中へユンケルをほうりこんでおいて、火薬庫の方へ走った。用意はかねてできている、――注水パイプの水栓を、動かぬようにした上、火薬へ火をつけるのだ。
五分にして仕事はおわった。
「万事よし、さらばストラール」
シャンバー中尉はにっこり笑うと、脱兎《だっと》のように上甲板へかけあがって、左舷後甲板へ出た。――闇《やみ》の中にするすると近よってくる汽艇、それと見てシャンバーは、海へさんぶと身をおどらせた。
近よってきた汽艇がシャンバー中尉を救いあげる、と同時に戦艦ストラールの中央部が、どどどどど! ぶきみに鳴動したかと見るまに、ぐわあ――ん※[#感嘆符二つ、1-8-75] 凄《すさ》まじい爆音と共に、百フィートばかりの火柱がほとばしり出た。
「やった」「成功だ、大成功だ」
英国汽艇の上では、シャンバー中尉を取《とり》かこんで、戦友達が思わず歓呼の声をあげた。ストラールは瞬時にして大混乱におちいった。救命ボートをおろす者、艦載汽艇をつりおろす者、甲板は右往左往する乗組員で、怒濤《どとう》のようにふさがった。
汽艇の甲板に立って、その有様をじっと見ていたシャンバー中尉は、ふいに、
「いかん、忘れた!」と叫んだ。
「どうした、シャンバー中尉」
「ユンケルという若い少尉を縛りあげたまま、雑具室へほうりこんできた、あのままおけば艦《ふね》と共に沈んでしまう。ユンケルが雑具室にいることを知っているのは、僕一人だ。助けてこなければ……」
「ばかな。敵軍の士官を助けにゆく奴があるか、これは戦争だぞ」
「だまれ」中尉は同僚の言葉を鋭くさえぎった。
「たとえ戦争にもせよ、戦闘力をなくした者を殺すことができるか。ユンケルはいま、戦闘力を失っている、そして僕は大英帝国の軍人だ」
「よせシャンバー、君は死んでしまう」
「いいや、僕は人間としての義務をはたすのだ」
いいすてると、驚いてとめる戦友の手を払いのけて、シャンバー中尉は、ふたたび海中へ身をおどらせた。
中尉が、ストラールの甲板へ這上《はいあが》った時、第二回の爆発がおこって、艦《ふね》は五十度の角度に傾きつつ沈没しつつあった。――むせるような強い硝煙と、身をこがすような艦《ふね》の中をしゃ二《に》む二《に》突進した中尉は、
「ユンケル少尉!」
と叫びながら、雑具室へとびこんだ。見るとそこに少尉が、身をしばられたまま猛煙と火熱にもがきまわっている。シャンバー中尉は、いきなりユンケルをかつぎあげると、眼もくらむ煙の渦をおかして、必死に上甲板まで脱出した。いままさに、最後のボートが艦《ふね》をはなれようとしているところだ。中尉はユンケルをしばった細紐をとくなり、
「まだ一人のこっているぞ!」と叫びながら、少尉の体を、舷側《げんそく》の方へおしゃった。その時、ユンケル少尉は、はっきりと意識をとりもどした。そして、左舷の方へ走り去っていく、シャンバーの姿を見るやいなや、
「うぬ、スパイ奴《め》!」
わめきながら、拳銃を取出して一発、二発。シャンバー中尉の背をねらってうった。中尉はあっと低く叫んだが、よろよろと二三歩よろめいて、ばったりたおれた。
×
二時間の後。
英海軍汽艇の必死の捜査によって、人事不省におちいったシャンバー中尉は救いあげられた。二発の弾丸《たま》は、大腿部《だいたいぶ》を貫通しただけで、負傷としては軽いものだった。
「君の向うみずにも呆《あき》れるぞ、ばかだなあシャンバー」
戦友の一人が、なかば感歎《かんたん》の声とともに叱《しか》りつけた時、シャンバー中尉は、にっこり笑いながらこたえた。
「僕は二発の弾丸《たま》で、大英帝国軍人の、義務と名誉を買ったのだ、安いものさ、はははは」
底本:「周五郎少年文庫 南方十字星 海洋小説集」新潮文庫、新潮社
2019(平成31)年2月1日発行
底本の親本:「少年少女譚海」
1934(昭和9)年12月号
初出:「少年少女譚海」
1934(昭和9)年12月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ