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染血桜田門外
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染血桜田門外
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)劇《はげ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)々|劇《はげ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「うっ」に傍点]
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時は万延元年(一八六〇)三月三日。前日より降り出した雪は未明になって益々|劇《はげ》しく、あやめも解《わか》らぬように降りしきっていた。永らくうっ[#「うっ」に傍点]憤を胸に抱いて、何時《いつ》かは積る恨《うらみ》を霽《はら》さんものをと其《そ》の日を待ちわびていた水戸の浪士、機《とき》こそ来れ皇天|吾等《われら》を憫《あわ》れみたまいて此《こ》の大雪、咫尺《しせき》も分らぬ雪中にて日頃の思いを晴らすは明日を置いては又|何日《いつ》の時か有る可《べ》きぞと、前日|即《すなわ》ち二日の子《ね》の刻、品川の料亭虎屋に鳩合《きゅうごう》した同志の面々、高橋、金子、佐野、野村をはじめ二十七人、其の夜の明方近き頃には芝|愛宕山《あたごやま》にまで来ていた。稲田重蔵、彼は同志の中でも老功の評高き人であるから早速奇智をめぐらし、寺の庫裏《くり》に走って所化《しょけ》を呼び起し、
「吾々は当山信仰の者でござるが、朋友《ほうゆう》どもが今日|上方《かみがた》へ発足いたすに付、朝参り旁々《かたがた》此処迄《ここまで》見送りに参りしが此の大雪、暫時《ざんじ》の間本堂を借用申したい、ちと休息|仕《つかまつり》りとう存ずる故《ゆえ》」
と云えば内より所化、睡《ねむ》そうな眼をこすりつつ細目に雨戸を開き、
「いと易き事、御遠慮なく、御ゆるりと御休息あれ、定めしこの大雪にては道中御難儀の事でござりましょう」
と袖《そで》かき合せ再び戸を閉して臥床《ふしど》に帰った容子《ようす》。一同案ずる事は無しと本堂に登り、車座になれば森川繁之助と杉山弥一郎は担《にな》って来た五升|樽《だる》の鏡を抜いて同志に指示《ゆびさ》す。傍の蓮田市五郎は用意の勝栗とするめを取り出し皆に分配する。眼前に迫った大望の意気、忽《たちま》ちの裡《うち》に五升の酒を飲みほし、次第に白んで来る東の海辺をじっと瞠《みつ》めていた高橋多一郎、側《そば》なる佐野に対《むか》い、
「有村雄助殿は金子氏と共に東海道を京都に登る筈《はず》なれど、今朝は某《それがし》と共に桜田へ出て、貴所《あなた》方の働きを見届け申す覚悟、又有村殿は今朝五ツを合図に桜田へ立ち廻り各々《おのおの》方の助太刀致す所存とかにも承った。そこで某は忰《せがれ》庄左衛門、黒沢、大貫其他野村殿と共に中仙道を大坂へ急ぎ、兼ねての義挙に及ぶ所存なれば、何《いず》れ方も心置きなく充分の御働きが緊要にござる」
と云えば佐野は委細承知いたしたと固い決心の色を表し、総勢を手分けして大老の登城を待ち受ける事となった。先《ま》ず蓮田、黒沢、広岡、斉藤の四名は先供を斫《き》って戦の端を開き、山口、森、杉山、鯉淵、広木の五人は堀端に控えて居て先供が立騒ぐ隙《すき》に乗じて駕籠《かご》を目掛けて切り込まる可し。佐野、大関、岡部、稲田、増子、海後の六人は駕籠|脇《わき》の空虚をねらい素早く切り進む事、関、森山の両所は時機に応じて何れへなりと斫り込む可しと高橋多一郎は、それぞれ人数の配置を定めた。当日の浪士の装束は何れも黒|小袖《こそで》に馬乗袴《うまのりばかま》、其の上を赤|合羽《がっぱ》にて包み雪|覆《おお》いには竹皮|笠《がさ》を戴き素跿《すあし》に草履を堅く穿《は》いている。然《しか》し斉藤外三名の者は故意《わざ》と高足駄に蛇の目の傘を差した。斯《か》くて用意万端は充分に整った。東の空がほのぼのと白む時、山を降りて各々三方に分れ、事の成就を約して目指す外桜田へと道を急いで行った。
この日、大老井伊中将|直弼朝臣《なおすけあそん》は上巳《じょうし》の祝日故、諸大名は卯《う》の半刻迄に総出仕との事であったが、役柄とて辰《たつ》の刻の登城と云うことになっていた。大老は熨斗目《のしめ》長袴に家格の白革の一本道具、駕籠の左右は二列の供連が居ならび、叱咤《しった》の声高く先を払って打ち進んで来た。ちょうど行列が松平大隅守の門前まで来たとき、突然高足駄を穿いた四人の侍が、蛇の目の傘を前だれにさして、つかつかと近寄り先箱の供の者にどしんと突当った。これこそ大義に燃ゆる斉藤|監物《けんもつ》等四人の志士であった。
「無礼者、大老の御駕籠じゃ!」
と箱持が大声に叫んで払い退《の》けようとすると、黒沢忠三郎は、
「大老と知ってじゃ!」
と大喝、腰の刀に手が掛ると見る瞬間|忽《たちま》ち箱の者の細首を抜打に切って落す。スワ狼藉者《ろうぜきもの》と呼《よば》わり立ち騒ぐ暇に、
「従五位下朝散太夫斉藤監物一徳が、天に代って国賊大老を誅《ちゅう》して呉れるわ!」
と大音声に叫べば、続いて蓮田、黒沢等も各々名乗りを上げ傘投げ捨てて素足になって斫り廻る。駕籠脇の侍共は、突然の来襲に只々《ただただ》狼狽《ろうばい》するばかり、先供に狼藉ありと犇《ひし》めき騒いでいる。何れも身には合羽を纏《まと》っていたから即座に活動は出来ない、まして刀には柄袋《つかぶくろ》が掛かっている。井伊の家来の中でも利《き》け者の日下部《くさかべ》三郎右衛門は御駕籠脇を承っていたが一大事と見て取ったか、
「乗物を戻されい。早う戻されい」
と供の者に叫べば、陸尺《ろくしゃく》は心得て足早やに十間|許《ばか》り後へヒタヒタと舁《か》き戻した。ちょうどこの時、さいぜんから堀端にかくれて容子を窺《うかが》っていた山口辰之助、森五六郎、杉山、鯉淵、広木の五人は、時刻はよしと赤合羽をかなぐり捨て一刀ひらりと抜きかざして勢《いきおい》こんで切って入る。忽ちの中に二三人は切り仆《たお》され井伊の家来は列を乱して切り防いだ。流石《さすが》は武功の名家と知られた片桐|権之丞《ごんのじょう》、川西忠左衛門等主君の大事と知って死を賭《と》しての防戦には、山口等も支えられて駕籠脇へは容易に近寄ることが出来なかった。次第に大老の駕籠は舁き戻されて彼等から遠のいて行く、この時松平大隅守の門前から、「御訴え申す」と呼わりながら真先に佐野竹之助が鎗《やり》を揮《ふる》ってまっしぐらに馳《はせ》て来た。それッ彼方《あっち》にも敵が有るぞ! 油断なさるな! と日下部三郎右衛門一同に注意して太刀合《たちあ》いながら合羽を脱ぎ捨て防戦につとめた。彼は聞えたる剣道の達人であったから先ず稲田重蔵、増子金八郎を相手に戦う中、稲田は遂《つい》に彼の為めに左の肩先深く斫り付けられ次第に勢が肱《ゆる》んで来た。同志の危険を見てとった大関和七郎は敵を追いまくり飛鳥の如《ごと》く飛び来って「己れッ!」と云いざま力にまかせて日下部《くさかべ》を後袈裟に切り倒す。佐野竹之助は一ち早く駕籠に追い迫って大老を守っていた侍二三に手疵《てきず》を負わし、其の隙に乗じて駕籠の外より、ねらい定めて鎗を突き付けた。鎗の穂先はたしかに手ごたえがあった。佐野は戸を引き開け大老を打ちとらんものと駕籠に手を掛けようとした時、供侍加田九郎が馳せ来って佐野の右肩先を五寸ばかり斬《き》り下げた。竹之助は「やったなッ」と振り反《か》えりながら抜打ちに横に払えば、刀の冴《さ》えか腕の冴えか九郎の首は血煙たてて二間ばかりさきへ飛んで落ちた。斉藤、蓮田、黒沢、広木の四人は先供を斫りまくり沢村、川西の二人を討取り其他数人に深手を負わせて追い散らし山口、杉山等に力を合せて、独りも余さず討取れと火花を散らして斬りむすんでいたが、、井伊の供連れには未《ま》だ片桐をはじめ北、川原、永田、松井等三十余人の者共が死力をつくして切り防ぐので、いつ果つるとも見えなかった。只々雪粉々と降りしきる白|皚々《がいがい》たる中に刃《やいば》を揮って互にしのぎをけずっていた。白雪は次第にくれないの鮮血に染まり屍《しかばね》は其の数を増して行くのであった。
かかる折から、薩藩の有村治左衛門は辰の刻に外桜田の上杉弾正の辻番所へ来って傘打ち捨て、同心を呼び出して、
「只今ここへ二十人ばかりの武士は参らざりしか」
と訊《たず》ぬれば同心の二三人は顔面|蒼白《そうはく》となり足を顫《ふる》わせて、
「二十人か三十人かは存じ申さねど、あれ彼方を御覧あれ、御大老の御登城先へ何国《いずこ》の武士が斬り込み、あの如く戦の最中でござる」
と云う。治左衛門は指さされる方を雪を透してながむれば、果して堀端に剣をひらめかして戦っている。鍔音《つばおと》さえ聞こえて来る。
「さては後れたりしか、されど、未《いま》だ大老は仕とげまじ、御免あれ!」
と云いつつ柄袋を取って辻番へ投げ入れ袴の股立《ももだち》高くとり、さげ緒を抜いて襷《たすき》となし手拭《てぬぐい》をたたんで鉢巻、腰のわざ物をひらりと引き抜けば番人どもはいよいよ以って肝をつぶし、只眼を見はるばかり、治左衛門はおっ取り刀、御駕籠目掛けてまっしぐらに馳せて行く。駕籠脇の透《すき》を窺《うかが》った治左衛門、近寄って戸を蹴放《けはな》せば、佐野竹之助、大関和七郎も馳せ来る。治左衛門は背後から切って掛る井伊の侍をまっこう竹割となし、ひらりと体をまわして、いきなり大老の胸座《むなぐら》とって引き出す。大老は已《すで》に竹之助の為《た》めに鎗で肋間《ろっかん》を差し貫かれ早や虫の息となっていた。土足で二足三足蹴上げると、其処へ馳せ参じた蓮田市五郎が大老の御首に手を掛け引き立たせ「早く早く」と声をかければ、「心得申した」と竹之助、治左衛門互いに一刀ずつ切り付け難なく井伊中将の御首を上げることが出来た。竹之助は大音に、
「井伊大老の御首只今賜わり申したッ」
と呼われば、関鉄之助は是《これ》を合図に鉄砲を一発撃って本望を達した旨《むね》を一同に知らせた。
「各々引上げ召され、引き上げ候《そうら》え」
と五度六度と鉄之助は呼び立てる。鉄之助の合図を耳にした高橋等四名は其のまま甲州路さしてまっしぐら、金子、有村雄介、佐多鉄三郎の三名は品川より東海道を京へ登って行く。
治左衛門は井伊大老の御首を刀の先に差し貫き声高らかに吟ずるのであった。
「くろがねもとけざらめやなますらおが国の為めとて思いきる太刀」
三度び吟じ終れば佐野竹之助も亦《また》、
「敷島の錦《にしき》の御旗もちささげ、皇《すめ》ら軍《いくさ》のさきがけやせん」
と、朗々吟じ続けるのであった。彼等両人を真先に大関、蓮田、山口等残りの同志十二人も後を続いて日比谷の方へと走って行った。井伊の家臣も手負いし者二十余人にも及んでいるので彼等の後を追う可き勇気さえもなかった。只々悲惨を極めたのは稲田重蔵であった。深手の為めに同志と共に引き上げる事も出来なかった。井伊の侍共はこうして歩行も出来ない稲田を数十人してずたずたに斫りさいなんで大老の死骸《しがい》と共に屋敷へと引き取って行った。関鉄之助はさいぜんより樹かげにかくれて一同の立ち去るのを見とどけた上、水戸浪士の引揚げた跡をば見廻り取落せし物など有っては、狼狽《うろた》たりと後々に至りても人々のお笑いとなっては恥辱と、刀の鞘《さや》などの落ちたるものを堀に投げ入れ其の場から越後地さして落のびた。海後、岡部、広木の三名は浅手さえも負わなかったので、水戸に帰り其の後久しく山間に潜んでいたと云うことである。
話は元にもどって日比谷の方に走った十四人の浪士は日比谷御門に至って、
「拙者等は水戸殿の家来に候えど今朝大老を討留め、只今引上げ申す途中、江戸表不案内なれば何卒《なにとぞ》脇坂殿の御屋敷へ御案内の程願わしゅう存じまする」
と番所の同心にたのめば、同心は其の勢に恐れて誰も返答する者とてはなかった。やむなく其の先の番所|八代洲《やよす》川岸へ行かんものをと一同は互に疲れたる体を助け合いながら降りしきる雪を侵して進んで行った。併《しか》し負傷している者も多いので歩行が自由にならず遂に有村は一人おくれて其の姿を見失い、佐野初め蓮田、黒田、斉藤の四名は互に助け合いながら困難な歩をはこばせていたがこれ又雪の中に見えなくなって了《しま》った。大関、森、森山、杉山の四人は最早や是迄と思ったものか、道筋の細川越中守の邸《やしき》へ自首したのであった。後にとり残された広岡、山口、鯉淵の三名は深手の為めに雪中にころびまろびつ、もはや立上る勇気さえなくなってしまった。
「いかに山口、鯉淵の御両所御聞き下され。兼ねての宿望は只今已に達し申した。最早やこの世に思い置く事は更らに無し、見らるる通りこの深手、よし生命を全《まっと》うしたとて、姦吏《かんり》の手に捕えられて彼等ごとき者の刀の錆《さび》と消ゆることはまことに口惜《くちお》しし、いっそ此の所に於て潔《いさぎ》よく切腹致して相果てんと存ずるが如何《いかが》でござる」
と広岡覚二郎、両名に促せば鯉淵は、
「某とてもこの痛手、最早歩行も叶《かな》い難し、いざ諸共《もろとも》に死出の御供仕らん」
と三人は雪の上に坐をしめて誰か天朝の居ます方を伏し拝み、先ず鯉淵は刀を以って吾れと我が咽喉《のど》を貫けば、流血胸を紅に染めて其の儘《まま》打臥《うちふ》して相果てる。吾れも後れはせじと山口、広岡の両名も、互に胸差しちがえれば迸《ほとば》しる鮮血は白雪を点々と色どっていく。次第に衰えて行く義烈の志士の魂、天子万歳の声もとぎれとぎれ――唯、雪は鵞毛《がもう》に似てこれ等みたりの骸《むくろ》の上に黙々と積って行くのであった。
[#地から2字上げ](昭和二年四月十九日)
底本:「怒らぬ慶之助」新潮社
1999(平成11)年9月1日発行
2006(平成18)年4月10日八刷
底本の親本:同人誌
1927(昭和2)年4月19日
初出:同人誌
1927(昭和2)年4月19日
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)劇《はげ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)々|劇《はげ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「うっ」に傍点]
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時は万延元年(一八六〇)三月三日。前日より降り出した雪は未明になって益々|劇《はげ》しく、あやめも解《わか》らぬように降りしきっていた。永らくうっ[#「うっ」に傍点]憤を胸に抱いて、何時《いつ》かは積る恨《うらみ》を霽《はら》さんものをと其《そ》の日を待ちわびていた水戸の浪士、機《とき》こそ来れ皇天|吾等《われら》を憫《あわ》れみたまいて此《こ》の大雪、咫尺《しせき》も分らぬ雪中にて日頃の思いを晴らすは明日を置いては又|何日《いつ》の時か有る可《べ》きぞと、前日|即《すなわ》ち二日の子《ね》の刻、品川の料亭虎屋に鳩合《きゅうごう》した同志の面々、高橋、金子、佐野、野村をはじめ二十七人、其の夜の明方近き頃には芝|愛宕山《あたごやま》にまで来ていた。稲田重蔵、彼は同志の中でも老功の評高き人であるから早速奇智をめぐらし、寺の庫裏《くり》に走って所化《しょけ》を呼び起し、
「吾々は当山信仰の者でござるが、朋友《ほうゆう》どもが今日|上方《かみがた》へ発足いたすに付、朝参り旁々《かたがた》此処迄《ここまで》見送りに参りしが此の大雪、暫時《ざんじ》の間本堂を借用申したい、ちと休息|仕《つかまつり》りとう存ずる故《ゆえ》」
と云えば内より所化、睡《ねむ》そうな眼をこすりつつ細目に雨戸を開き、
「いと易き事、御遠慮なく、御ゆるりと御休息あれ、定めしこの大雪にては道中御難儀の事でござりましょう」
と袖《そで》かき合せ再び戸を閉して臥床《ふしど》に帰った容子《ようす》。一同案ずる事は無しと本堂に登り、車座になれば森川繁之助と杉山弥一郎は担《にな》って来た五升|樽《だる》の鏡を抜いて同志に指示《ゆびさ》す。傍の蓮田市五郎は用意の勝栗とするめを取り出し皆に分配する。眼前に迫った大望の意気、忽《たちま》ちの裡《うち》に五升の酒を飲みほし、次第に白んで来る東の海辺をじっと瞠《みつ》めていた高橋多一郎、側《そば》なる佐野に対《むか》い、
「有村雄助殿は金子氏と共に東海道を京都に登る筈《はず》なれど、今朝は某《それがし》と共に桜田へ出て、貴所《あなた》方の働きを見届け申す覚悟、又有村殿は今朝五ツを合図に桜田へ立ち廻り各々《おのおの》方の助太刀致す所存とかにも承った。そこで某は忰《せがれ》庄左衛門、黒沢、大貫其他野村殿と共に中仙道を大坂へ急ぎ、兼ねての義挙に及ぶ所存なれば、何《いず》れ方も心置きなく充分の御働きが緊要にござる」
と云えば佐野は委細承知いたしたと固い決心の色を表し、総勢を手分けして大老の登城を待ち受ける事となった。先《ま》ず蓮田、黒沢、広岡、斉藤の四名は先供を斫《き》って戦の端を開き、山口、森、杉山、鯉淵、広木の五人は堀端に控えて居て先供が立騒ぐ隙《すき》に乗じて駕籠《かご》を目掛けて切り込まる可し。佐野、大関、岡部、稲田、増子、海後の六人は駕籠|脇《わき》の空虚をねらい素早く切り進む事、関、森山の両所は時機に応じて何れへなりと斫り込む可しと高橋多一郎は、それぞれ人数の配置を定めた。当日の浪士の装束は何れも黒|小袖《こそで》に馬乗袴《うまのりばかま》、其の上を赤|合羽《がっぱ》にて包み雪|覆《おお》いには竹皮|笠《がさ》を戴き素跿《すあし》に草履を堅く穿《は》いている。然《しか》し斉藤外三名の者は故意《わざ》と高足駄に蛇の目の傘を差した。斯《か》くて用意万端は充分に整った。東の空がほのぼのと白む時、山を降りて各々三方に分れ、事の成就を約して目指す外桜田へと道を急いで行った。
この日、大老井伊中将|直弼朝臣《なおすけあそん》は上巳《じょうし》の祝日故、諸大名は卯《う》の半刻迄に総出仕との事であったが、役柄とて辰《たつ》の刻の登城と云うことになっていた。大老は熨斗目《のしめ》長袴に家格の白革の一本道具、駕籠の左右は二列の供連が居ならび、叱咤《しった》の声高く先を払って打ち進んで来た。ちょうど行列が松平大隅守の門前まで来たとき、突然高足駄を穿いた四人の侍が、蛇の目の傘を前だれにさして、つかつかと近寄り先箱の供の者にどしんと突当った。これこそ大義に燃ゆる斉藤|監物《けんもつ》等四人の志士であった。
「無礼者、大老の御駕籠じゃ!」
と箱持が大声に叫んで払い退《の》けようとすると、黒沢忠三郎は、
「大老と知ってじゃ!」
と大喝、腰の刀に手が掛ると見る瞬間|忽《たちま》ち箱の者の細首を抜打に切って落す。スワ狼藉者《ろうぜきもの》と呼《よば》わり立ち騒ぐ暇に、
「従五位下朝散太夫斉藤監物一徳が、天に代って国賊大老を誅《ちゅう》して呉れるわ!」
と大音声に叫べば、続いて蓮田、黒沢等も各々名乗りを上げ傘投げ捨てて素足になって斫り廻る。駕籠脇の侍共は、突然の来襲に只々《ただただ》狼狽《ろうばい》するばかり、先供に狼藉ありと犇《ひし》めき騒いでいる。何れも身には合羽を纏《まと》っていたから即座に活動は出来ない、まして刀には柄袋《つかぶくろ》が掛かっている。井伊の家来の中でも利《き》け者の日下部《くさかべ》三郎右衛門は御駕籠脇を承っていたが一大事と見て取ったか、
「乗物を戻されい。早う戻されい」
と供の者に叫べば、陸尺《ろくしゃく》は心得て足早やに十間|許《ばか》り後へヒタヒタと舁《か》き戻した。ちょうどこの時、さいぜんから堀端にかくれて容子を窺《うかが》っていた山口辰之助、森五六郎、杉山、鯉淵、広木の五人は、時刻はよしと赤合羽をかなぐり捨て一刀ひらりと抜きかざして勢《いきおい》こんで切って入る。忽ちの中に二三人は切り仆《たお》され井伊の家来は列を乱して切り防いだ。流石《さすが》は武功の名家と知られた片桐|権之丞《ごんのじょう》、川西忠左衛門等主君の大事と知って死を賭《と》しての防戦には、山口等も支えられて駕籠脇へは容易に近寄ることが出来なかった。次第に大老の駕籠は舁き戻されて彼等から遠のいて行く、この時松平大隅守の門前から、「御訴え申す」と呼わりながら真先に佐野竹之助が鎗《やり》を揮《ふる》ってまっしぐらに馳《はせ》て来た。それッ彼方《あっち》にも敵が有るぞ! 油断なさるな! と日下部三郎右衛門一同に注意して太刀合《たちあ》いながら合羽を脱ぎ捨て防戦につとめた。彼は聞えたる剣道の達人であったから先ず稲田重蔵、増子金八郎を相手に戦う中、稲田は遂《つい》に彼の為めに左の肩先深く斫り付けられ次第に勢が肱《ゆる》んで来た。同志の危険を見てとった大関和七郎は敵を追いまくり飛鳥の如《ごと》く飛び来って「己れッ!」と云いざま力にまかせて日下部《くさかべ》を後袈裟に切り倒す。佐野竹之助は一ち早く駕籠に追い迫って大老を守っていた侍二三に手疵《てきず》を負わし、其の隙に乗じて駕籠の外より、ねらい定めて鎗を突き付けた。鎗の穂先はたしかに手ごたえがあった。佐野は戸を引き開け大老を打ちとらんものと駕籠に手を掛けようとした時、供侍加田九郎が馳せ来って佐野の右肩先を五寸ばかり斬《き》り下げた。竹之助は「やったなッ」と振り反《か》えりながら抜打ちに横に払えば、刀の冴《さ》えか腕の冴えか九郎の首は血煙たてて二間ばかりさきへ飛んで落ちた。斉藤、蓮田、黒沢、広木の四人は先供を斫りまくり沢村、川西の二人を討取り其他数人に深手を負わせて追い散らし山口、杉山等に力を合せて、独りも余さず討取れと火花を散らして斬りむすんでいたが、、井伊の供連れには未《ま》だ片桐をはじめ北、川原、永田、松井等三十余人の者共が死力をつくして切り防ぐので、いつ果つるとも見えなかった。只々雪粉々と降りしきる白|皚々《がいがい》たる中に刃《やいば》を揮って互にしのぎをけずっていた。白雪は次第にくれないの鮮血に染まり屍《しかばね》は其の数を増して行くのであった。
かかる折から、薩藩の有村治左衛門は辰の刻に外桜田の上杉弾正の辻番所へ来って傘打ち捨て、同心を呼び出して、
「只今ここへ二十人ばかりの武士は参らざりしか」
と訊《たず》ぬれば同心の二三人は顔面|蒼白《そうはく》となり足を顫《ふる》わせて、
「二十人か三十人かは存じ申さねど、あれ彼方を御覧あれ、御大老の御登城先へ何国《いずこ》の武士が斬り込み、あの如く戦の最中でござる」
と云う。治左衛門は指さされる方を雪を透してながむれば、果して堀端に剣をひらめかして戦っている。鍔音《つばおと》さえ聞こえて来る。
「さては後れたりしか、されど、未《いま》だ大老は仕とげまじ、御免あれ!」
と云いつつ柄袋を取って辻番へ投げ入れ袴の股立《ももだち》高くとり、さげ緒を抜いて襷《たすき》となし手拭《てぬぐい》をたたんで鉢巻、腰のわざ物をひらりと引き抜けば番人どもはいよいよ以って肝をつぶし、只眼を見はるばかり、治左衛門はおっ取り刀、御駕籠目掛けてまっしぐらに馳せて行く。駕籠脇の透《すき》を窺《うかが》った治左衛門、近寄って戸を蹴放《けはな》せば、佐野竹之助、大関和七郎も馳せ来る。治左衛門は背後から切って掛る井伊の侍をまっこう竹割となし、ひらりと体をまわして、いきなり大老の胸座《むなぐら》とって引き出す。大老は已《すで》に竹之助の為《た》めに鎗で肋間《ろっかん》を差し貫かれ早や虫の息となっていた。土足で二足三足蹴上げると、其処へ馳せ参じた蓮田市五郎が大老の御首に手を掛け引き立たせ「早く早く」と声をかければ、「心得申した」と竹之助、治左衛門互いに一刀ずつ切り付け難なく井伊中将の御首を上げることが出来た。竹之助は大音に、
「井伊大老の御首只今賜わり申したッ」
と呼われば、関鉄之助は是《これ》を合図に鉄砲を一発撃って本望を達した旨《むね》を一同に知らせた。
「各々引上げ召され、引き上げ候《そうら》え」
と五度六度と鉄之助は呼び立てる。鉄之助の合図を耳にした高橋等四名は其のまま甲州路さしてまっしぐら、金子、有村雄介、佐多鉄三郎の三名は品川より東海道を京へ登って行く。
治左衛門は井伊大老の御首を刀の先に差し貫き声高らかに吟ずるのであった。
「くろがねもとけざらめやなますらおが国の為めとて思いきる太刀」
三度び吟じ終れば佐野竹之助も亦《また》、
「敷島の錦《にしき》の御旗もちささげ、皇《すめ》ら軍《いくさ》のさきがけやせん」
と、朗々吟じ続けるのであった。彼等両人を真先に大関、蓮田、山口等残りの同志十二人も後を続いて日比谷の方へと走って行った。井伊の家臣も手負いし者二十余人にも及んでいるので彼等の後を追う可き勇気さえもなかった。只々悲惨を極めたのは稲田重蔵であった。深手の為めに同志と共に引き上げる事も出来なかった。井伊の侍共はこうして歩行も出来ない稲田を数十人してずたずたに斫りさいなんで大老の死骸《しがい》と共に屋敷へと引き取って行った。関鉄之助はさいぜんより樹かげにかくれて一同の立ち去るのを見とどけた上、水戸浪士の引揚げた跡をば見廻り取落せし物など有っては、狼狽《うろた》たりと後々に至りても人々のお笑いとなっては恥辱と、刀の鞘《さや》などの落ちたるものを堀に投げ入れ其の場から越後地さして落のびた。海後、岡部、広木の三名は浅手さえも負わなかったので、水戸に帰り其の後久しく山間に潜んでいたと云うことである。
話は元にもどって日比谷の方に走った十四人の浪士は日比谷御門に至って、
「拙者等は水戸殿の家来に候えど今朝大老を討留め、只今引上げ申す途中、江戸表不案内なれば何卒《なにとぞ》脇坂殿の御屋敷へ御案内の程願わしゅう存じまする」
と番所の同心にたのめば、同心は其の勢に恐れて誰も返答する者とてはなかった。やむなく其の先の番所|八代洲《やよす》川岸へ行かんものをと一同は互に疲れたる体を助け合いながら降りしきる雪を侵して進んで行った。併《しか》し負傷している者も多いので歩行が自由にならず遂に有村は一人おくれて其の姿を見失い、佐野初め蓮田、黒田、斉藤の四名は互に助け合いながら困難な歩をはこばせていたがこれ又雪の中に見えなくなって了《しま》った。大関、森、森山、杉山の四人は最早や是迄と思ったものか、道筋の細川越中守の邸《やしき》へ自首したのであった。後にとり残された広岡、山口、鯉淵の三名は深手の為めに雪中にころびまろびつ、もはや立上る勇気さえなくなってしまった。
「いかに山口、鯉淵の御両所御聞き下され。兼ねての宿望は只今已に達し申した。最早やこの世に思い置く事は更らに無し、見らるる通りこの深手、よし生命を全《まっと》うしたとて、姦吏《かんり》の手に捕えられて彼等ごとき者の刀の錆《さび》と消ゆることはまことに口惜《くちお》しし、いっそ此の所に於て潔《いさぎ》よく切腹致して相果てんと存ずるが如何《いかが》でござる」
と広岡覚二郎、両名に促せば鯉淵は、
「某とてもこの痛手、最早歩行も叶《かな》い難し、いざ諸共《もろとも》に死出の御供仕らん」
と三人は雪の上に坐をしめて誰か天朝の居ます方を伏し拝み、先ず鯉淵は刀を以って吾れと我が咽喉《のど》を貫けば、流血胸を紅に染めて其の儘《まま》打臥《うちふ》して相果てる。吾れも後れはせじと山口、広岡の両名も、互に胸差しちがえれば迸《ほとば》しる鮮血は白雪を点々と色どっていく。次第に衰えて行く義烈の志士の魂、天子万歳の声もとぎれとぎれ――唯、雪は鵞毛《がもう》に似てこれ等みたりの骸《むくろ》の上に黙々と積って行くのであった。
[#地から2字上げ](昭和二年四月十九日)
底本:「怒らぬ慶之助」新潮社
1999(平成11)年9月1日発行
2006(平成18)年4月10日八刷
底本の親本:同人誌
1927(昭和2)年4月19日
初出:同人誌
1927(昭和2)年4月19日
入力:特定非営利活動法人はるかぜ