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風車
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風車
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)椙井勝三《すぎいかつぞう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)望|仕《つかまつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
――話が正式に決るまで先方の名は云えぬそうだが、北国筋で松平姓を賜わっている大藩というのだから想像はつくだろう、なんでも政治向の改革に就て相当の人物を求めているこの事だ、初めは二百石だが才腕に依って五百石まで出すと云っている。
――そんな旨い話ならなぜ貴公が申込まぬのだ。
――そう思わぬ訳ではないが、どうもこれ相当の人物という柄ではないからな。
そう云って椙井勝三《すぎいかつぞう》は自嘲するように笑った。咄々《とつとつ》とした話し振と如何にも好人物らしい笑声とが、金之助の耳に快く甦えって来る、
「篤実な奴だな、椙勝《すぎかつ》は」
「……は?」
「昨夜の椙井勝三さ、他の連中と違ってあれは珍しく実直な奴だ」
「…………」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は聞き流して、
「お汁をお代え致しましょうか」
「もう宜い」
金之助は飯茶碗を置いた、「北国筋で大藩松平と云えば加賀の前田であろう、加州の二百石ならそこら[#「そこら」に傍点]の小大名の五百石には当る、先ず梶原金之助の仕官口としても安くはあるまい」
「お茶をお注ぎ致しましょうか」
「うん注いで呉れ、もう間もなく椙勝が迎えに来るだろう」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は金之助の言葉を避けるように、食膳を片付けて台所へ立った。
梶原金之助は大阪の与力の二男で、出世の途を求めるために江戸へ出て来てもう二年になる。――男振も十人並以上だし、剣は諏訪派をよく遣うし、学問も衆に秀でていたが、坊ちゃん育ちで至極のんびりしていた。叔父の藤田三右衛門というのが備前池田家の江戸留守役をしていて、生活費は其処からたっぷり送って来るから、衣食や酒にも事を欠かぬし、身辺の世話をさせるおつゆ[#「つゆ」に傍点]という娘まで雇って暢気に暮していた。
そんな調子なので、貧に窮した浪人たちが頻りに出入りする。彼等は金之助のお坊ちゃん気焔を尤もらしく拝聴しながら、酒食にありついたり、旨い仕官口があるからなどと云っては金を引出して行くのである、……若しおつゆ[#「つゆ」に傍点]が側にいてそれを抑えなかったとしたら、金之助自身が疾うに貧窮していたに違いない。彼女はその長屋の家主松兵衛の亡妻の姪であった、金之助が長屋へ居を定めると同時に、月々の手当を定めて女中代りに来たのであるが、初めから金之助の気性をよくのみこんで、母ともなり姉ともなりつつ面倒をみていた。
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は背戸の日蔭に咲く無名の花のような娘である、よく見ると顔立も美しく、殊にその眸子《ひとみ》と唇許《くちもと》には類《たぐい》稀な魅力をもっていたが、いつも人眼を憚るように、ひっそりと片隅へ身を寄せているという風なので、誰もその美しさをみつける者がなかった、朝夕一緒にいる金之助さえそれに気がつかなかったのである。人間の眼も案外信用の出来ないものだ。
茶を飲終って金之助が起った時、北側の窓の彼方で遽《にわか》に若い女達の笑いさざめく声が嬌々《きょうきょう》と聞えた、
「ええうるさい、また騒ぎ居る」
金之助は窓を明けた。
二坪ほどの小庭を置いて黒塀がずっと伸びている、何処かの大名の別墅《べっしょ》とも思われる広い屋敷で、時折女中たちの遊び戯れる声が華かに聞える、此方から見ると塀の中は梅林になっていて、いま満開の花が風と共にすばらしい香気を送ってくる、
「お呼びでございますか」
金之助の声を聞いておつゆ[#「つゆ」に傍点]が入って来た、
「うるさく騒いでいるというのだ、何処の大名の別墅か知らんが、女共が朝からああ騒ぐようでは家政が紊れている証拠だぞ」
「そんなに声高に仰有《おっしゃ》って、若し聞えては悪うございます、……それより、釣りにお出掛けなさいましたら?」
「いやもう椙勝が来るだろう」
「――――」
「今日一緒に仕官先へ目見得に行く約束だから、そろそろ紋服を出して置いて貰おうか」
「……はい」
温和しく笑いながら、おつゆ[#「つゆ」に傍点]は膝をついたまま動かなかった。――金之助はちらとその面を見やって、
「おまえ椙勝を疑っているな? 岡崎兵馬や呑平安《のんべいやす》みたいに、椙勝も拙者を騙したと思っているのだろう、――馬鹿な、あいつは実直な奴だ、昨夜の話振りを見ても分るし、今まで一度として迷惑を掛けた事がない」
「でも昨夜は十両お持帰りなさいました」
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
「あれは目見得の引出物に遣うので、こんな場合の慣例なんだ、椙勝も出来たら自分で都合したいのだがと云っていたではないか」
「……露地の表に岡崎様が待っていらしったのを御存じでございますか」
「兵馬が――?」
「はい、御一緒にお帰りなさいました」
金之助は眉間を一本やられた感じだった。
岡崎兵馬なる浪人は、他の連中と同じように是まで度々不義理を重ね、今では此処へ足踏みの出来ぬ男である、それが昨夜椙井勝三と組んで来た……それだけで事情は明白なものだ。
「仕様がない……釣に行こう」
金之助はがすっと云った、
「道具を出して呉れ」
「はい、もう揃えてございます」
「餌はどうだ」
「先刻買って参りました」
「じゃあ……その、あれだ。――出掛けるぞ」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]の唇が美しい微笑を刻んだ。……と、そのとたんに、裏の屋敷の方でわっと嬌声があがり、同時に窓からぱっと何かが飛込んで来たと思うと、がらがらッと、茶道具を散乱させ、襖に当って金之助の足許へ転げ落ちた。
「――まあ!」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は吃驚して跳退いた。
突然の事で金之助も呆れながら見ると、勢いで梅の花片をちらちらと巻込んで来たのは、蹴鞠に使う鞠であった。――日頃から騒々しいと思ってもいたし、折悪く椙勝の事でむかむかしているところだったから、
「不埒な女共!」
と金之助は鞠を拾うや、
「宜し、武家の作法を教えて呉れよう」
「まあ! 梶原さま」
「ええ止めるな」
窓へ足を掛けてさっと庭へ跳下りる、――足をあげて黒塀の一部を蹴放した、ばりばりッと云って引裂ける隙から、中へ踏込んでみると一面の梅林で、その向うに広庭がひらけ、七八人の奥女中たちが茫然と立竦《たちすく》んでいる、
「この鞠は貴公たちの物か!」
金之助は声いっぱいに喚きたてた。
「――――」
「貴公たちの鞠か、そうで無いのか」
喚きながら二三歩踏出した時、――女たちの後から一人の少女が進み出て来た。
髪容《かみかたち》と衣装で直ぐ高貴の乙女だということが分った。年は十七か八であろう、すばらしく美しい、金之助はひと眼見るなり、まるで撃たれたように、大きく眼を瞠りながらたじたじと退った。
「お赦し下さいませ」
乙女は威の備った声音で、
「婢《はした》たちが戯れの蹴鞠でございます、お住居をお騒がせ致しましたでしょうか?」
「い、いや、別にその」
「わたくしから不調法のお詫びを申します、どうぞ御勘弁なさいまして」
「決して、決して其の儀は」
金之助はひどくまごついた、
「その御会釈では却って痛入ります、拙者としては唯、その、ま、鞠をお返しに参った許りなので、悪からず、どうぞ」
塀を蹴破って物を返しに来る奴もあるまい、顔を赧くしながらしどろもどろにそれだけ云うと、物を相手に返して逃げるように塀外へ跳出した金之助、引裂けた板をそっと押着けて置いて、汗を拭きながら家の中へ入った。
どうなる事かとはらはらしていたおつゆ[#「つゆ」に傍点]は、無事に済んだのでほっとしながら、
「まあよく穏かに済ましていらっしゃいましたこと、余り御様子が烈しいので、どんな間違いになるかと……」
「美しい、実に美しい人だ」
金之助は呻くように云った、
「番士ぐらい出て来るかと思ったら、いきなり姫君の御出ましで、遉《さすが》の拙者も兜を脱いだよ、あの美しさには正に敗北だ」
「――そんな美しい方でしたの?」
「梶原金之助二十六歳の今日までついぞ曽て女など眼についた覚えはなかった、然し今日こそ初めて美しい人を見た、世の中にはあんな美しい人もいるものかと思うと眼の覚めたような気持がする」
「……わたくしも拝見すれば宜しゅうございましたこと――」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は淋しそうに呟いた。
彼女は自分が美しい娘ではないと信じている、生れも育ちも卑しいし、孤児だし、才芸の嗜《たしなみ》もないことを知っている。――だから、眼前で他人の美しさを賞められる事は何よりも辛かった、殊に金之助の口から聞くことは悲しかった、おつゆ[#「つゆ」に傍点]は危く涙が溢れそうになるのを、そっと隠しながら云った、
「あの、釣にお出掛けなさいましては」
「うん行こう、今日は幸先が宜いからきっと大漁に違いない、酒をたっぷり買って置いて呉れ」
金之助の眼は活々と輝いていた。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
今日もまた金之助は、日が暮れてから空《から》の魚籠を提げ、ひどく酔って帰った。
露地を入って来ると、自分の家の表に浪人態の男が二人立っている、それを押退けて入ると家主の松兵衛がおつゆ[#「つゆ」に傍点]と何か話しているところだった。
「是はお帰りなさいまし」
「家主か、――何だ表に来ているのは」
「お帰り遊ばせ」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は甲斐々々しく釣道具を受取りながら、
「あの、此家を移って頂きたいと申すのですけれど」
「いや儂がお話し申すよ」
松兵衛は愛想笑いをしながら、
「真に勝手なお願いで御立腹かも知れませんが、向う側に空いている方へお移りを願えませんでしょうか、実は表に来ておいでのお武家様が、是非この家を借りたいというお話で、店賃も倍増しという……」
「駄目だ、断るぞ!」
金之助は上へあがりながらにべ[#「にべ」に傍点]も無く云った。
「例え借家でも一旦借りた以上は拙者の城廓だ、訳もなくおいそれと明渡す事が出来ると思うか、第一ここは隣の梅がよく匂うし、棟端れで閑静でもある、移る事はならんぞ」
「そうでもございましょうが、此方様も折角の御懇望で」
「挨拶も申さず失礼ながら」
浪人者の一人が進出て、「仔細あって是非この家を所望|仕《つかまつ》りたい、御迷惑でもござろうが枉《ま》げてお移りが願えまいか」
「貴公なんだ!」
「いや御立腹では恐れ入るが」
「如何にも立腹だ。何処の何者だか知らんが第一そんなに此家を望むのは不審だぞ、仔細があるという其の仔細を聞こうではないか、此処の床下に金の延棒でも埋っているのか、それとも他にもっと深い悪企みがあるのか」
「ああいや、それ程仰せらるるなれば強《しい》てとは申さぬ、我々は向うを借りる事に致すから」
「待て、急に止すというのも怪しいぞ」
「決して左様な事はござらん、いずれ改めて御挨拶に参上仕る、御免」
相手はすっかり怯気《おじけ》づいた様子で、家主を急《せ》きたてながら立去った。――金之助はその後へぺっとを吐いて、
「だらしの無い腰抜共、折角売った喧嘩を買いもせず、尻尾を巻いて逃げ居るとは浪人の値打も下ったもんだ」
「……直ぐ御膳の支度を致しましょうか」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は逆らわぬように云った。
「酒を呑む」
「召上っていらしったのでございませんか」
「呑み足らん、つけろ」
金之助はどっかと坐ったが、ふと[#「ふと」に傍点]床に活けてある梅をみつけて、
「あの梅はおまえの手活か」
と訊いた。おつゆ[#「つゆ」に傍点]は慌てて、
「まあ、申上げるのをすっかり忘れて居りました、お出掛けの直ぐ後で、隣のお屋敷からお女中が届けて参りましたんですの」
「隣から――?」
「お姫《ひい》さまがお愛し遊ばしている『朧夜』という梅とか、先日の不調法のお詫びに一枝、お笑草にという御口上で……それから、この短冊が添えてございました」
「どれ見せい」
受取った短冊には美しい筆跡で、
[#ここから3字下げ]
わがやどの梅のはつ花咲きにけり
待つ鶯はなどか来なかぬ
[#ここで字下げ終わり]
と金槐集の一首が認めてあった。――歌の意味は悲しく頼りなげなものだ。どのような身分の人であるか知らぬが、あの美しさで、広い邸宅に住み、多くの女中たちに傅《かしず》かれながら、何を悲しげに待つと云うのであろう、
「――待つ鶯はなどか……」
眤《じっ》と短冊の文字を覓《みつ》めている、金之助の横顔から、おつゆ[#「つゆ」に傍点]は淋しげに眼を外らしながら酒肴の支度に立った。――金之助は膳拵えが済むまで短冊を手から離さなかった。
「どうぞ召上って――」
「うん」
「今日はよい日並でしたのに、一尾もお釣りになりませんでしたの?」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]はつとめて微笑しながら給仕に坐った。――然し金之助はその笑顔には眼もくれず、
「使いの者は他に何も云わなかったか」
「……はい、別に何も――」
「どうも訳ありげな歌だ」
金之助は短冊を置いて酒を呑み始めた。おつゆ[#「つゆ」に傍点]は話題を外らしたい様子で、
「今日は何方へお出でなさいました」
「橋場の河岸だ、……この酒は味が変っているではないか」
「お口に合いませぬか」
「不味《まず》い!」
「では買い替えて参りましょう」
「それには及ばぬ、少し考えたい事もあるから外へ行って呑んで来る、金を出して呉れ」
金之助はぷいっと立った。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は蒼白《あおざ》めた顔を伏せたまま動かなかった。――金之助は不審げに、
「どうしたんだ、金を出して呉れないのか」
「お金はございませんの」
「無い? まだ月半ばにもならないのに、もう無くなって了ったのか」
「先日椙井様に差上げたのがお終いでございました」
「そんなら叔父にそう云って」
「――いいえ」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は静かに面をあげて、
「叔父さまの方は去年の暮からおつゆ[#「つゆ」に傍点]がお断り申上げてございます」
「な、何だと、それはどういう訳だ」
金之助はむずと坐った。――おつゆ[#「つゆ」に傍点]の表情は曽て見たことのない、強い意志にひきしまっていた。
「それは、叔父さまからお仕送りのある限り、貴方のお身が定らぬと存じたからです、この儘では貴方の御才能が朽ちきって了うと存じたからでございます」
「おつゆ[#「つゆ」に傍点]、おまえ金之助に狎《な》れて差出がましい事を申すぞ」
「そのお叱りは後で伺います」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は驚くほど冷静に云った、「わたくしは貴方さまの召使でございます、決してそれ以上に狎れた考えはございません、けれど貴方さまは誤っていらっしゃいます、仕官の口にしましても、二百石以上でなければならぬと毎《いつ》も仰有《おっしゃ》いますが、主家さえ頼むに足りたなら足軽でも結構ではございませんかしら」
「拙者に生涯軽輩で終れと云うのか」
「御出世はそれからの事、貴方さまなら決していつまで埋れていらっしゃる筈はございません、太閤さまも草履取から御立身遊ばしたではございませんか」
「馬鹿を云え、あれは戦国の世の事だ、泰平の今日そんな夢が見ていられるか」
「お言葉ではございますが、戦国の世にも草履取は何千人といた筈です、けれど太閤殿下と云われる迄に出世をなすったのはお一人でございます。泰平の世だから足軽は生涯足軽だというお考えは、万人が万人考えることではございませぬか。おつゆ[#「つゆ」に傍点]は貴方さまをそんな人達と同じお方とは思いませぬ、貴方さまもそうはお考えになりませんでしょう?……叔父さまのお仕送りをお断り申したのは差出た仕方でございました、また愚かな身で御意見がましい事を申上げて、さぞ御不快でございましたでしょう、――どうぞお赦し下さいませ」
「もう宜い、黙れ」
「……はい」
「床を取って呉れ、寝る」
金之助は外向いたまま立上った。
おつゆ[#「つゆ」に傍点]が次の間へ夜具を延べるのを待兼ねて、金之助は母に叱られた子供のようにもぐり込むと、蒲団を頭から引被って眼を閉じた。――色々な考えが胸いっぱいに渦を巻いている。日頃あんなに温和しいおつゆ[#「つゆ」に傍点]の何処に、今宵のような強い意力がひそんでいたのか。然も云い廻しこそ拙なけれ、この言葉は的確に真実を刺止めていた。……草履取は何千人もいたが太閤は唯一人しか出なかったという、その一言は金之助の胸をずばりとたち[#「たち」に傍点]割ったのである。
――そうだ、己は馬鹿だった。
金之助は闇の中で唇を噛んだ。
――大望ある者が禄高を云々するなどとは不心得だった、自分の腕に覚えさえあれば足軽仲間からでも出世は出来る筈だ、二百石を望むのは己の才能を自ら二百石に売るのと同じではないか。……然もそれは叔父の仕送りがあるからこそ云えたのだ、ああ。
物事が判《はっ》きりと見えて来た、中でもおつゆ[#「つゆ」に傍点]の姿が、まるでいま初めて見るかのような鮮かさで、眼前の闇に浮上って来た。
「――おつゆ[#「つゆ」に傍点]」
金之助が卒然と闇の中から呼ぶ、
「は、はい」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]の声は妙に狼狽《うろた》えていた、
「叔父の方を断ったのは去年の暮だと云ったようだな」
「……はい」
「今日までどうして過して来たのか」
「それは、あの、倹《つま》しく致しまして。二人だけでございますから――」
「そうか」
金之助は暫く黙っていたが、
「明日は波木井《はぎい》を訪ねるぞ」
「…………」
「それから、当分酒はやめだ」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は静かに頬笑んだ、そして眼にいっぱい涙をうかべながら何度も独り頷いた。
隣の部屋からは、いつか金之助の健康な寝息が聞え始めた、おつゆ[#「つゆ」に傍点]は行灯の火をかき立てながら、一度納戸へ押入れて置いた風呂敷包を取出してひろげた、――中からは赤や紫や緑の美しい紙片が現われた、「一文風車」の内職である、この正月から暮しの足しに、金之助には知らさず、夜毎々々おつゆ[#「つゆ」に傍点]は風車を作っていたのである、
――是で今夜から。
とおつゆ[#「つゆ」に傍点]は胸の中で呟いた。
――本当にこの風車がお役に立つようになった。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
それから二日めに、例の浪人者二人は前の空店《あきだな》へ移って来たが、恐る恐る挨拶にやって来て金之助の態度の変っているのに驚いた。
実のところ、あの翌る朝から金之助はがらりと変った、おつゆ[#「つゆ」に傍点]が食事拵えをしているあいだに、箒を持って露地の掃除をしたり、もっと変った事は朝食が済むと直ぐ、隣町にある剣術道場へ出掛けて行ったことだ。――そして午《ひる》近くに帰った時には、高頬と手首をひどく赧く腫らしていた。
「まあひどい、どう遊ばしました」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]が驚いて訊くと、
「いや、何でもない」
さすがに些か気恥しげに、「波木井に頼むにも腕がなま[#「なま」に傍点]ではいかんと思って、久し振りに竹刀を持ってみたのだが、武芸というものは恐ろしい、暫く怠けている内に自慢の諏訪派がすっかり腐っていた」
「そんなにひどく腫れて、さぞおうございましょう、何かお薬を」
「いや大丈夫、是は薬をつけるより叩き固めるのが早道だ。然し驚いたよ、こんなに腕が鈍っていようとは思わなかった、当分みっちり鍛え直しだ」
箸を持つのも痛そうに、午飯を掻込むと直ぐ、金之助は再び道場へ出掛けて行った。
おつゆ[#「つゆ」に傍点]の一言を胆に銘じた金之助は、こうして先ず腕から仕上げ直すため、半月ほどは殆ど道場通いに夢中だった。素より諏訪派の剣を執っては抜群の才を持っていただけに、心を打込めば更生するのも早く、やがてその道場では誰も手に立つ者がない迄に腕を取戻した。
斯くて二月も終りに近づき、世間は雛の支度に春めいて来た或る夜半のこと――。
ぐっすり熟睡していた金之助は、何か唯ならぬ物の気配を感じてふっと眼を覚ました。森閑と寝鎮っている夜のしじまの中に、雨戸をとじ明ける忍びやかな音が聞える。
――夜盗か。
と起上ったが、この貧乏長屋を盗賊の狙う筈もなし、何者であろうと大剣を取って壁際へ身を引いた。
雨戸が巧みに外された。星月夜の仄明りを背にして、厳重に身拵えをした武士が一人、二人、三人、五人、足音を忍ばせながら座敷へ上って来る。
――前へ越して来た浪人共だな。
金之助は息を詰めた。
――さてこそ何か仔細があるぞ。
若し自分を狙うのなら一打にと、大剣の鯉口を切って眤《じっ》と身構えた。然しそうでは無かった。彼等は誰も気付かぬと見てか、中間《なかのま》を通り抜けて窓へ行くと、其処でも音のせぬように雨戸を明け、互いに合図し合いながら、一人ずつ庭へ下りて行った、――数えると八人である。
金之助は初めて分った。
――そうか彼等は裏の屋敷を狙っていたのだ、それであんなに此の家を借りようとしたのだな。矢張り盗賊の群に相違ない!
頷くと共に、素早く窓から庭へ下り、いつか蹴放した塀の破れからすっ[#「すっ」に傍点]と屋敷の中へ身を入れた。――ところが其処には二人の男が張番をしていたのである、金之助が入るのと、二人が抜討に左右から斬りつけるのと殆ど同時であった。
「えイッ」
「お」
だっと烈しく体がもつれた。必殺の剣をどう躱《かわ》しどう斬ったか、二人の男は悲鳴と共に顛倒し、金之助は脱兎の如く広庭へ走り抜けていた。
屋敷の棟をめがけて馳走三十歩、広縁の雨戸が外れていて、屋内に消魂《けたたま》しい叫喚と、床を踏鳴らす音が聞える、――金之助は跳躍して広縁から座敷へ踏込んだ。と其処には此の家の宿直侍と見える若者が三人、例の浪人者三名と凄じい死闘を演じている、
「おのれ盗賊!」
喚くと共に、走り寄った金之助は、いきなり一人をたっ[#「たっ」に傍点]と背から斬放した。
「――御助勢|仕《つかまつ》るぞッ」
「あっ!」
浪人者が驚くより疾く、宿直侍の一人がひきつった声で、
「お願い申す、奥に、姫が」
「や!」
「姫の御命を狙う奸賊でござる、此処は構わず奥へ姫をお願い申す」
「――心得た」
金之助は叫ぶなり、襖を蹴放して奥へと走入《はせい》った。局口《つぼねぐち》を入って、仄暗《ほのぐら》く灯の点《とも》った寝殿にかかるとたんに、四五名の腰元たちに囲まれて姫が……転げるように走って来るのとばったり会った、
「姫! 御安堵遊ばせ」
金之助は叫びながら一歩出た。
「梶原金之助御守護を仕ります」
「おおそなたは……」
「早く、腰元衆、姫を彼方へ」
押しやって置いて、殺到して来る兇漢三名の前へ、金之助は敢然と立塞がった。
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
「おつゆ[#「つゆ」に傍点]、起きるんだ起きるんだ」
恐ろしく元気な声で呼起されたおつゆ[#「つゆ」に傍点]は、寝過したのかと驚いて起上り、中間《なかのま》を覗いて見ると、――窓はまだ白みかかった許りというのに、行灯の光の下で金之助がせっせと荷拵えをしている。
「まあ、どう遊ばしますの?」
「まあ早く起きて来い、愈々金之助も世間へ出る時が来たぞ、――おまえが寝ているあいだにすばらしい番狂わせがあったんだ」
「何だかまるで分りませんが」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は手早く着替えをして出た。
「裏の屋敷の正体が知れたよ、信濃国で四万八千石の大名の姫君だ、いやその姫君の隠れ家だったんだ。精《くわ》しい事は分らないが、御正室と妾腹と二人の姫がいてお定まりの家督争いという事になったらしい、裏に在《おわ》すのは御正室の姫で、さる大名の御二男が養子として入婿する事に決っているのを、妾腹の姫を守立てる一味が、そうはさせじと御命まで狙いはじめた、そこで姫君は……松姫と仰有るのだが、騒擾の鎮るまで安全な場所へ身をお退き遊ばしていたのだ」
「そう早口に仰有ってはわたくしにはよく分りません」
「後で悠《ゆっ》くり考えれば宜い、拙者もあらましの事しか知らないのだ。――それでつまり、姫君は此処へ暫く隠れて在したのだが、事態不利と看た妾腹方の奸臣共は、遂に非常手段に訴えて一挙に姫を弑殺《しさつ》し参らせようと踏込んだのだ」
「それは、裏のお屋敷でございますか」
「然も一刻ばかり前の事だ」
「――まあ」
「拙者は盗賊だと思って走《はせ》つけたのだが、旨く間に合って姫君は御無事、斬込んだ奸物は残らず斬伏せてやった」
「ちっとも、存じませんでした」
「直ぐ帰ろうとしたが、奥家老が出て来て是非とも随身して呉れという話よ、姫君も世に出るまでの守護を頼むという仰せで、当分は無禄の御奉公と話が定った」
「それは、何よりな……」
「夜が明けると直ぐ、麻布の中屋敷へお立退きだそうで、拙者も一緒に御警護をして行かねばならぬ」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]の顔がさっ[#「さっ」に傍点]と蒼白めた、――金之助は話のあいだに身支度を終えて、
「ところで――」
と向直った。
「これでやっと拙者の体は定ったが、おまえはこれからどうする」
「……わたくし?」
「松兵衛の処へ帰っても、あの因業爺と一緒の暮しは辛かろうが」
「宜しゅうございます。わたくしの事なら宜しゅうございます」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は明るく笑いながら、然ししどろもどろ[#「しどろもどろ」に傍点]の声で云った。
「実は、わたくしも、考えていました、いつかお話し申しましたでしょう? 尾張の在に叔母が一人ありますが、その叔母が、此方へ来るようにと、何度もそう云ってよこしていたのです。わたくし、実はもう、行くからと、返辞を出してあったのです」
「そうか、それなら安心だ」
金之助は頷いて懐から袱紗《ふくさ》包を取出し、その中の小判を数枚掴んで差出した。
「急ぐので礼も満足には云えぬ、長いあいだよく面倒をみて呉れた、何も云わぬ、ほんの寸志で恥しいが、支度金として貰って来たものの裾分けだ、取って呉れ」
「いえ、そんな、飛んでもない」
「辞退するなら怨むぞ、――おつゆ[#「つゆ」に傍点]」
「……はい」
「信じて呉れるか」
金之助は小判と共におつゆ[#「つゆ」に傍点]の手を持添えて云った。
「金之助はな、何千人の草履取の中の、唯一人になってみせるぞ」
「……はい」
「身分の栄達はせずとも、心だけは必ず太閤に成って見せるぞ、分るか」
「ほほほほほ」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は高々と笑った。「可笑《おか》しゅうございますわ、今更そんな事を仰有るなんて、初めから分っているではございませんか、さ――お出で遊ばせ、朝日と一緒に門出をなさるなんて御運めでたい瑞祥でございます」
「ではさらばだ、健固を祈るぞ」
「貴方さまも、どうぞ……」と云ったが、
「あ、暫く」と背へすり寄って、
「お衿が折れて居りますから」
声の明るさとは凡そ逆に、わなわなと震える指で、折れても居ない衿を静かに正し、その手をそっと逞しい肩へ辷らせながら、
「はい、宜しゅうございます」
云うと共に、上端《あがりはな》へ崩れるように坐って了った。
四半刻(三十分)の間もない別れであった。夢のようなとは此事であろう。金之助の遠ざかり行く足音を聞きながら、おつゆ[#「つゆ」に傍点]は茫然と呟いていた、「――風車……風車が廻る」
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
それから五日めの朝、馬上の武士が家主松兵衛の家を遽《あわただしく》しく訪れた。――見違えるように立派になった梶原金之助である。
「松兵衛、おつゆ[#「つゆ」に傍点]は居るか」
「おお、是は梶原様」
「おつゆ[#「つゆ」に傍点]はどうした、まだ居るか」
「何か彼女《あれ》が不埒でも致しましたか、否え実は私も腹を立てているところで、貴方様がお立退きなすった直ぐ後、ふいっと出たまま行衛が知れません、孤児だと思って今日まで五年も面倒をみてやりましたのに、まるで恩も義理も知らぬ畜生でございます」
「尾張在に叔母があるとか申したが、それへ参ったのではないのか」
「出鱈目でございます、何の尾張どころか天涯きって叔母も親類もありはしません、なにしろ虫も殺さぬ面をしてあんな奴とは知りませんでしたよ、全く考えると腹が煮えて……」
止めどもない饒舌を後に、茫然と表へ出た金之助は、――馬の口を取りながら、くっと空を仰いで呟いた。
「おつゆ[#「つゆ」に傍点]、おまえ何処にいるんだ、なぜ金之助を見捨てたんだ。……あの時は何の気もなく別れたが、別れてみて初めて分ったぞ、金之助にはおまえが要るんだ、それはおまえが一番よく知っていたんじゃないか――おつゆ[#「つゆ」に傍点]、おまえは金之助を捨てて平気なのか」
滂沱《ぼうだ》たる涙が金之助の頬を濡らした。――彼の仰ぐ空に白雲がひとつ春光を浴びて、西へ西へと流れていた。
「そうです、あたしは笑って門出をお祝い申しました、若し泣きでもしたら、あの方はきっと……」
芝西久保の松音寺の門前に、一文風車を作って売るささやかな店がある。――その女主人が、通い内職に来ている若い娘たちを相手に、しめやかな話を続けていた。
「きっと――そのお武家さまはおまえを嫁になすったことね」
娘の一人が云った。
「どうして一緒にいらっしゃらなかったの、そのお武家さまもきっとおまえを想っていらしったのだわ」
「わたしは出来るだけの事をしました、卑しい生れつきで愚な女でしたけれど、幾らかはお役に立ったと思います、それで宜いのです、あの方が世に出れば立派なお武家様です、わたしのような者がいては御出世のお妨げになるかも知れません、例えお妨げにならずとも、わたしは、自分で自分をよく知っています、――そして、矢張りお別れしてよかったと思います」
「それでは余り悲しいじゃないの、ねえ皆さん」
「初めのうちは」と女主人は眼を閉じて云った。
「わたしも泣いて泣いて泣き暮しました、でも今ではその涙が、わたしをこうして落着かせて呉れています、――おまえ方は気付いてはいないかしら」
「なんでしょう、何がありますの?」
「毎月十七日には、この店を閉めて休むでしょう……それはね、笑わずに聞くんですよ」
女主人は微笑しながら、
「あの方が御主人の御名代で、この松音寺へ御参詣においで遊ばすんです」「まあ――」
娘たちは嬌然と眼を見交わして叫んだ。
「知らなかったわ、ひどいおかみさん」
「どんな方ですの? 教えて」
「……お馬に召して」
女主人は歌うように去った。
「お槍を立てて、あの頃より少しお肥り遊ばして、でも眼は同じようにまるで子供で……立派な立派なお姿なんです」
「――――」
「わたしは、窓の中からそっと見ている、そっと、……もう悲しくはない、千人の草履取の中から、あの方は唯一人の人にお成り遊ばした。是でいいんです」
女主人はぼっと頬を染めながら、軒先の青空を見て云った、
「風車が廻る、……風車が」
五年後の秋のことであった。
底本:「感動小説集」実業之日本社
1975(昭和50)年6月10日 初版発行
1978(昭和53)年5月10日 九版発行
底本の親本:「婦人倶楽部」
1938(昭和13)年12月号
初出:「婦人倶楽部」
1938(昭和13)年12月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)椙井勝三《すぎいかつぞう》
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(例)望|仕《つかまつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#8字下げ]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
――話が正式に決るまで先方の名は云えぬそうだが、北国筋で松平姓を賜わっている大藩というのだから想像はつくだろう、なんでも政治向の改革に就て相当の人物を求めているこの事だ、初めは二百石だが才腕に依って五百石まで出すと云っている。
――そんな旨い話ならなぜ貴公が申込まぬのだ。
――そう思わぬ訳ではないが、どうもこれ相当の人物という柄ではないからな。
そう云って椙井勝三《すぎいかつぞう》は自嘲するように笑った。咄々《とつとつ》とした話し振と如何にも好人物らしい笑声とが、金之助の耳に快く甦えって来る、
「篤実な奴だな、椙勝《すぎかつ》は」
「……は?」
「昨夜の椙井勝三さ、他の連中と違ってあれは珍しく実直な奴だ」
「…………」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は聞き流して、
「お汁をお代え致しましょうか」
「もう宜い」
金之助は飯茶碗を置いた、「北国筋で大藩松平と云えば加賀の前田であろう、加州の二百石ならそこら[#「そこら」に傍点]の小大名の五百石には当る、先ず梶原金之助の仕官口としても安くはあるまい」
「お茶をお注ぎ致しましょうか」
「うん注いで呉れ、もう間もなく椙勝が迎えに来るだろう」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は金之助の言葉を避けるように、食膳を片付けて台所へ立った。
梶原金之助は大阪の与力の二男で、出世の途を求めるために江戸へ出て来てもう二年になる。――男振も十人並以上だし、剣は諏訪派をよく遣うし、学問も衆に秀でていたが、坊ちゃん育ちで至極のんびりしていた。叔父の藤田三右衛門というのが備前池田家の江戸留守役をしていて、生活費は其処からたっぷり送って来るから、衣食や酒にも事を欠かぬし、身辺の世話をさせるおつゆ[#「つゆ」に傍点]という娘まで雇って暢気に暮していた。
そんな調子なので、貧に窮した浪人たちが頻りに出入りする。彼等は金之助のお坊ちゃん気焔を尤もらしく拝聴しながら、酒食にありついたり、旨い仕官口があるからなどと云っては金を引出して行くのである、……若しおつゆ[#「つゆ」に傍点]が側にいてそれを抑えなかったとしたら、金之助自身が疾うに貧窮していたに違いない。彼女はその長屋の家主松兵衛の亡妻の姪であった、金之助が長屋へ居を定めると同時に、月々の手当を定めて女中代りに来たのであるが、初めから金之助の気性をよくのみこんで、母ともなり姉ともなりつつ面倒をみていた。
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は背戸の日蔭に咲く無名の花のような娘である、よく見ると顔立も美しく、殊にその眸子《ひとみ》と唇許《くちもと》には類《たぐい》稀な魅力をもっていたが、いつも人眼を憚るように、ひっそりと片隅へ身を寄せているという風なので、誰もその美しさをみつける者がなかった、朝夕一緒にいる金之助さえそれに気がつかなかったのである。人間の眼も案外信用の出来ないものだ。
茶を飲終って金之助が起った時、北側の窓の彼方で遽《にわか》に若い女達の笑いさざめく声が嬌々《きょうきょう》と聞えた、
「ええうるさい、また騒ぎ居る」
金之助は窓を明けた。
二坪ほどの小庭を置いて黒塀がずっと伸びている、何処かの大名の別墅《べっしょ》とも思われる広い屋敷で、時折女中たちの遊び戯れる声が華かに聞える、此方から見ると塀の中は梅林になっていて、いま満開の花が風と共にすばらしい香気を送ってくる、
「お呼びでございますか」
金之助の声を聞いておつゆ[#「つゆ」に傍点]が入って来た、
「うるさく騒いでいるというのだ、何処の大名の別墅か知らんが、女共が朝からああ騒ぐようでは家政が紊れている証拠だぞ」
「そんなに声高に仰有《おっしゃ》って、若し聞えては悪うございます、……それより、釣りにお出掛けなさいましたら?」
「いやもう椙勝が来るだろう」
「――――」
「今日一緒に仕官先へ目見得に行く約束だから、そろそろ紋服を出して置いて貰おうか」
「……はい」
温和しく笑いながら、おつゆ[#「つゆ」に傍点]は膝をついたまま動かなかった。――金之助はちらとその面を見やって、
「おまえ椙勝を疑っているな? 岡崎兵馬や呑平安《のんべいやす》みたいに、椙勝も拙者を騙したと思っているのだろう、――馬鹿な、あいつは実直な奴だ、昨夜の話振りを見ても分るし、今まで一度として迷惑を掛けた事がない」
「でも昨夜は十両お持帰りなさいました」
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
「あれは目見得の引出物に遣うので、こんな場合の慣例なんだ、椙勝も出来たら自分で都合したいのだがと云っていたではないか」
「……露地の表に岡崎様が待っていらしったのを御存じでございますか」
「兵馬が――?」
「はい、御一緒にお帰りなさいました」
金之助は眉間を一本やられた感じだった。
岡崎兵馬なる浪人は、他の連中と同じように是まで度々不義理を重ね、今では此処へ足踏みの出来ぬ男である、それが昨夜椙井勝三と組んで来た……それだけで事情は明白なものだ。
「仕様がない……釣に行こう」
金之助はがすっと云った、
「道具を出して呉れ」
「はい、もう揃えてございます」
「餌はどうだ」
「先刻買って参りました」
「じゃあ……その、あれだ。――出掛けるぞ」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]の唇が美しい微笑を刻んだ。……と、そのとたんに、裏の屋敷の方でわっと嬌声があがり、同時に窓からぱっと何かが飛込んで来たと思うと、がらがらッと、茶道具を散乱させ、襖に当って金之助の足許へ転げ落ちた。
「――まあ!」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は吃驚して跳退いた。
突然の事で金之助も呆れながら見ると、勢いで梅の花片をちらちらと巻込んで来たのは、蹴鞠に使う鞠であった。――日頃から騒々しいと思ってもいたし、折悪く椙勝の事でむかむかしているところだったから、
「不埒な女共!」
と金之助は鞠を拾うや、
「宜し、武家の作法を教えて呉れよう」
「まあ! 梶原さま」
「ええ止めるな」
窓へ足を掛けてさっと庭へ跳下りる、――足をあげて黒塀の一部を蹴放した、ばりばりッと云って引裂ける隙から、中へ踏込んでみると一面の梅林で、その向うに広庭がひらけ、七八人の奥女中たちが茫然と立竦《たちすく》んでいる、
「この鞠は貴公たちの物か!」
金之助は声いっぱいに喚きたてた。
「――――」
「貴公たちの鞠か、そうで無いのか」
喚きながら二三歩踏出した時、――女たちの後から一人の少女が進み出て来た。
髪容《かみかたち》と衣装で直ぐ高貴の乙女だということが分った。年は十七か八であろう、すばらしく美しい、金之助はひと眼見るなり、まるで撃たれたように、大きく眼を瞠りながらたじたじと退った。
「お赦し下さいませ」
乙女は威の備った声音で、
「婢《はした》たちが戯れの蹴鞠でございます、お住居をお騒がせ致しましたでしょうか?」
「い、いや、別にその」
「わたくしから不調法のお詫びを申します、どうぞ御勘弁なさいまして」
「決して、決して其の儀は」
金之助はひどくまごついた、
「その御会釈では却って痛入ります、拙者としては唯、その、ま、鞠をお返しに参った許りなので、悪からず、どうぞ」
塀を蹴破って物を返しに来る奴もあるまい、顔を赧くしながらしどろもどろにそれだけ云うと、物を相手に返して逃げるように塀外へ跳出した金之助、引裂けた板をそっと押着けて置いて、汗を拭きながら家の中へ入った。
どうなる事かとはらはらしていたおつゆ[#「つゆ」に傍点]は、無事に済んだのでほっとしながら、
「まあよく穏かに済ましていらっしゃいましたこと、余り御様子が烈しいので、どんな間違いになるかと……」
「美しい、実に美しい人だ」
金之助は呻くように云った、
「番士ぐらい出て来るかと思ったら、いきなり姫君の御出ましで、遉《さすが》の拙者も兜を脱いだよ、あの美しさには正に敗北だ」
「――そんな美しい方でしたの?」
「梶原金之助二十六歳の今日までついぞ曽て女など眼についた覚えはなかった、然し今日こそ初めて美しい人を見た、世の中にはあんな美しい人もいるものかと思うと眼の覚めたような気持がする」
「……わたくしも拝見すれば宜しゅうございましたこと――」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は淋しそうに呟いた。
彼女は自分が美しい娘ではないと信じている、生れも育ちも卑しいし、孤児だし、才芸の嗜《たしなみ》もないことを知っている。――だから、眼前で他人の美しさを賞められる事は何よりも辛かった、殊に金之助の口から聞くことは悲しかった、おつゆ[#「つゆ」に傍点]は危く涙が溢れそうになるのを、そっと隠しながら云った、
「あの、釣にお出掛けなさいましては」
「うん行こう、今日は幸先が宜いからきっと大漁に違いない、酒をたっぷり買って置いて呉れ」
金之助の眼は活々と輝いていた。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
今日もまた金之助は、日が暮れてから空《から》の魚籠を提げ、ひどく酔って帰った。
露地を入って来ると、自分の家の表に浪人態の男が二人立っている、それを押退けて入ると家主の松兵衛がおつゆ[#「つゆ」に傍点]と何か話しているところだった。
「是はお帰りなさいまし」
「家主か、――何だ表に来ているのは」
「お帰り遊ばせ」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は甲斐々々しく釣道具を受取りながら、
「あの、此家を移って頂きたいと申すのですけれど」
「いや儂がお話し申すよ」
松兵衛は愛想笑いをしながら、
「真に勝手なお願いで御立腹かも知れませんが、向う側に空いている方へお移りを願えませんでしょうか、実は表に来ておいでのお武家様が、是非この家を借りたいというお話で、店賃も倍増しという……」
「駄目だ、断るぞ!」
金之助は上へあがりながらにべ[#「にべ」に傍点]も無く云った。
「例え借家でも一旦借りた以上は拙者の城廓だ、訳もなくおいそれと明渡す事が出来ると思うか、第一ここは隣の梅がよく匂うし、棟端れで閑静でもある、移る事はならんぞ」
「そうでもございましょうが、此方様も折角の御懇望で」
「挨拶も申さず失礼ながら」
浪人者の一人が進出て、「仔細あって是非この家を所望|仕《つかまつ》りたい、御迷惑でもござろうが枉《ま》げてお移りが願えまいか」
「貴公なんだ!」
「いや御立腹では恐れ入るが」
「如何にも立腹だ。何処の何者だか知らんが第一そんなに此家を望むのは不審だぞ、仔細があるという其の仔細を聞こうではないか、此処の床下に金の延棒でも埋っているのか、それとも他にもっと深い悪企みがあるのか」
「ああいや、それ程仰せらるるなれば強《しい》てとは申さぬ、我々は向うを借りる事に致すから」
「待て、急に止すというのも怪しいぞ」
「決して左様な事はござらん、いずれ改めて御挨拶に参上仕る、御免」
相手はすっかり怯気《おじけ》づいた様子で、家主を急《せ》きたてながら立去った。――金之助はその後へぺっとを吐いて、
「だらしの無い腰抜共、折角売った喧嘩を買いもせず、尻尾を巻いて逃げ居るとは浪人の値打も下ったもんだ」
「……直ぐ御膳の支度を致しましょうか」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は逆らわぬように云った。
「酒を呑む」
「召上っていらしったのでございませんか」
「呑み足らん、つけろ」
金之助はどっかと坐ったが、ふと[#「ふと」に傍点]床に活けてある梅をみつけて、
「あの梅はおまえの手活か」
と訊いた。おつゆ[#「つゆ」に傍点]は慌てて、
「まあ、申上げるのをすっかり忘れて居りました、お出掛けの直ぐ後で、隣のお屋敷からお女中が届けて参りましたんですの」
「隣から――?」
「お姫《ひい》さまがお愛し遊ばしている『朧夜』という梅とか、先日の不調法のお詫びに一枝、お笑草にという御口上で……それから、この短冊が添えてございました」
「どれ見せい」
受取った短冊には美しい筆跡で、
[#ここから3字下げ]
わがやどの梅のはつ花咲きにけり
待つ鶯はなどか来なかぬ
[#ここで字下げ終わり]
と金槐集の一首が認めてあった。――歌の意味は悲しく頼りなげなものだ。どのような身分の人であるか知らぬが、あの美しさで、広い邸宅に住み、多くの女中たちに傅《かしず》かれながら、何を悲しげに待つと云うのであろう、
「――待つ鶯はなどか……」
眤《じっ》と短冊の文字を覓《みつ》めている、金之助の横顔から、おつゆ[#「つゆ」に傍点]は淋しげに眼を外らしながら酒肴の支度に立った。――金之助は膳拵えが済むまで短冊を手から離さなかった。
「どうぞ召上って――」
「うん」
「今日はよい日並でしたのに、一尾もお釣りになりませんでしたの?」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]はつとめて微笑しながら給仕に坐った。――然し金之助はその笑顔には眼もくれず、
「使いの者は他に何も云わなかったか」
「……はい、別に何も――」
「どうも訳ありげな歌だ」
金之助は短冊を置いて酒を呑み始めた。おつゆ[#「つゆ」に傍点]は話題を外らしたい様子で、
「今日は何方へお出でなさいました」
「橋場の河岸だ、……この酒は味が変っているではないか」
「お口に合いませぬか」
「不味《まず》い!」
「では買い替えて参りましょう」
「それには及ばぬ、少し考えたい事もあるから外へ行って呑んで来る、金を出して呉れ」
金之助はぷいっと立った。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は蒼白《あおざ》めた顔を伏せたまま動かなかった。――金之助は不審げに、
「どうしたんだ、金を出して呉れないのか」
「お金はございませんの」
「無い? まだ月半ばにもならないのに、もう無くなって了ったのか」
「先日椙井様に差上げたのがお終いでございました」
「そんなら叔父にそう云って」
「――いいえ」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は静かに面をあげて、
「叔父さまの方は去年の暮からおつゆ[#「つゆ」に傍点]がお断り申上げてございます」
「な、何だと、それはどういう訳だ」
金之助はむずと坐った。――おつゆ[#「つゆ」に傍点]の表情は曽て見たことのない、強い意志にひきしまっていた。
「それは、叔父さまからお仕送りのある限り、貴方のお身が定らぬと存じたからです、この儘では貴方の御才能が朽ちきって了うと存じたからでございます」
「おつゆ[#「つゆ」に傍点]、おまえ金之助に狎《な》れて差出がましい事を申すぞ」
「そのお叱りは後で伺います」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は驚くほど冷静に云った、「わたくしは貴方さまの召使でございます、決してそれ以上に狎れた考えはございません、けれど貴方さまは誤っていらっしゃいます、仕官の口にしましても、二百石以上でなければならぬと毎《いつ》も仰有《おっしゃ》いますが、主家さえ頼むに足りたなら足軽でも結構ではございませんかしら」
「拙者に生涯軽輩で終れと云うのか」
「御出世はそれからの事、貴方さまなら決していつまで埋れていらっしゃる筈はございません、太閤さまも草履取から御立身遊ばしたではございませんか」
「馬鹿を云え、あれは戦国の世の事だ、泰平の今日そんな夢が見ていられるか」
「お言葉ではございますが、戦国の世にも草履取は何千人といた筈です、けれど太閤殿下と云われる迄に出世をなすったのはお一人でございます。泰平の世だから足軽は生涯足軽だというお考えは、万人が万人考えることではございませぬか。おつゆ[#「つゆ」に傍点]は貴方さまをそんな人達と同じお方とは思いませぬ、貴方さまもそうはお考えになりませんでしょう?……叔父さまのお仕送りをお断り申したのは差出た仕方でございました、また愚かな身で御意見がましい事を申上げて、さぞ御不快でございましたでしょう、――どうぞお赦し下さいませ」
「もう宜い、黙れ」
「……はい」
「床を取って呉れ、寝る」
金之助は外向いたまま立上った。
おつゆ[#「つゆ」に傍点]が次の間へ夜具を延べるのを待兼ねて、金之助は母に叱られた子供のようにもぐり込むと、蒲団を頭から引被って眼を閉じた。――色々な考えが胸いっぱいに渦を巻いている。日頃あんなに温和しいおつゆ[#「つゆ」に傍点]の何処に、今宵のような強い意力がひそんでいたのか。然も云い廻しこそ拙なけれ、この言葉は的確に真実を刺止めていた。……草履取は何千人もいたが太閤は唯一人しか出なかったという、その一言は金之助の胸をずばりとたち[#「たち」に傍点]割ったのである。
――そうだ、己は馬鹿だった。
金之助は闇の中で唇を噛んだ。
――大望ある者が禄高を云々するなどとは不心得だった、自分の腕に覚えさえあれば足軽仲間からでも出世は出来る筈だ、二百石を望むのは己の才能を自ら二百石に売るのと同じではないか。……然もそれは叔父の仕送りがあるからこそ云えたのだ、ああ。
物事が判《はっ》きりと見えて来た、中でもおつゆ[#「つゆ」に傍点]の姿が、まるでいま初めて見るかのような鮮かさで、眼前の闇に浮上って来た。
「――おつゆ[#「つゆ」に傍点]」
金之助が卒然と闇の中から呼ぶ、
「は、はい」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]の声は妙に狼狽《うろた》えていた、
「叔父の方を断ったのは去年の暮だと云ったようだな」
「……はい」
「今日までどうして過して来たのか」
「それは、あの、倹《つま》しく致しまして。二人だけでございますから――」
「そうか」
金之助は暫く黙っていたが、
「明日は波木井《はぎい》を訪ねるぞ」
「…………」
「それから、当分酒はやめだ」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は静かに頬笑んだ、そして眼にいっぱい涙をうかべながら何度も独り頷いた。
隣の部屋からは、いつか金之助の健康な寝息が聞え始めた、おつゆ[#「つゆ」に傍点]は行灯の火をかき立てながら、一度納戸へ押入れて置いた風呂敷包を取出してひろげた、――中からは赤や紫や緑の美しい紙片が現われた、「一文風車」の内職である、この正月から暮しの足しに、金之助には知らさず、夜毎々々おつゆ[#「つゆ」に傍点]は風車を作っていたのである、
――是で今夜から。
とおつゆ[#「つゆ」に傍点]は胸の中で呟いた。
――本当にこの風車がお役に立つようになった。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
それから二日めに、例の浪人者二人は前の空店《あきだな》へ移って来たが、恐る恐る挨拶にやって来て金之助の態度の変っているのに驚いた。
実のところ、あの翌る朝から金之助はがらりと変った、おつゆ[#「つゆ」に傍点]が食事拵えをしているあいだに、箒を持って露地の掃除をしたり、もっと変った事は朝食が済むと直ぐ、隣町にある剣術道場へ出掛けて行ったことだ。――そして午《ひる》近くに帰った時には、高頬と手首をひどく赧く腫らしていた。
「まあひどい、どう遊ばしました」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]が驚いて訊くと、
「いや、何でもない」
さすがに些か気恥しげに、「波木井に頼むにも腕がなま[#「なま」に傍点]ではいかんと思って、久し振りに竹刀を持ってみたのだが、武芸というものは恐ろしい、暫く怠けている内に自慢の諏訪派がすっかり腐っていた」
「そんなにひどく腫れて、さぞおうございましょう、何かお薬を」
「いや大丈夫、是は薬をつけるより叩き固めるのが早道だ。然し驚いたよ、こんなに腕が鈍っていようとは思わなかった、当分みっちり鍛え直しだ」
箸を持つのも痛そうに、午飯を掻込むと直ぐ、金之助は再び道場へ出掛けて行った。
おつゆ[#「つゆ」に傍点]の一言を胆に銘じた金之助は、こうして先ず腕から仕上げ直すため、半月ほどは殆ど道場通いに夢中だった。素より諏訪派の剣を執っては抜群の才を持っていただけに、心を打込めば更生するのも早く、やがてその道場では誰も手に立つ者がない迄に腕を取戻した。
斯くて二月も終りに近づき、世間は雛の支度に春めいて来た或る夜半のこと――。
ぐっすり熟睡していた金之助は、何か唯ならぬ物の気配を感じてふっと眼を覚ました。森閑と寝鎮っている夜のしじまの中に、雨戸をとじ明ける忍びやかな音が聞える。
――夜盗か。
と起上ったが、この貧乏長屋を盗賊の狙う筈もなし、何者であろうと大剣を取って壁際へ身を引いた。
雨戸が巧みに外された。星月夜の仄明りを背にして、厳重に身拵えをした武士が一人、二人、三人、五人、足音を忍ばせながら座敷へ上って来る。
――前へ越して来た浪人共だな。
金之助は息を詰めた。
――さてこそ何か仔細があるぞ。
若し自分を狙うのなら一打にと、大剣の鯉口を切って眤《じっ》と身構えた。然しそうでは無かった。彼等は誰も気付かぬと見てか、中間《なかのま》を通り抜けて窓へ行くと、其処でも音のせぬように雨戸を明け、互いに合図し合いながら、一人ずつ庭へ下りて行った、――数えると八人である。
金之助は初めて分った。
――そうか彼等は裏の屋敷を狙っていたのだ、それであんなに此の家を借りようとしたのだな。矢張り盗賊の群に相違ない!
頷くと共に、素早く窓から庭へ下り、いつか蹴放した塀の破れからすっ[#「すっ」に傍点]と屋敷の中へ身を入れた。――ところが其処には二人の男が張番をしていたのである、金之助が入るのと、二人が抜討に左右から斬りつけるのと殆ど同時であった。
「えイッ」
「お」
だっと烈しく体がもつれた。必殺の剣をどう躱《かわ》しどう斬ったか、二人の男は悲鳴と共に顛倒し、金之助は脱兎の如く広庭へ走り抜けていた。
屋敷の棟をめがけて馳走三十歩、広縁の雨戸が外れていて、屋内に消魂《けたたま》しい叫喚と、床を踏鳴らす音が聞える、――金之助は跳躍して広縁から座敷へ踏込んだ。と其処には此の家の宿直侍と見える若者が三人、例の浪人者三名と凄じい死闘を演じている、
「おのれ盗賊!」
喚くと共に、走り寄った金之助は、いきなり一人をたっ[#「たっ」に傍点]と背から斬放した。
「――御助勢|仕《つかまつ》るぞッ」
「あっ!」
浪人者が驚くより疾く、宿直侍の一人がひきつった声で、
「お願い申す、奥に、姫が」
「や!」
「姫の御命を狙う奸賊でござる、此処は構わず奥へ姫をお願い申す」
「――心得た」
金之助は叫ぶなり、襖を蹴放して奥へと走入《はせい》った。局口《つぼねぐち》を入って、仄暗《ほのぐら》く灯の点《とも》った寝殿にかかるとたんに、四五名の腰元たちに囲まれて姫が……転げるように走って来るのとばったり会った、
「姫! 御安堵遊ばせ」
金之助は叫びながら一歩出た。
「梶原金之助御守護を仕ります」
「おおそなたは……」
「早く、腰元衆、姫を彼方へ」
押しやって置いて、殺到して来る兇漢三名の前へ、金之助は敢然と立塞がった。
[#8字下げ]六[#「六」は中見出し]
「おつゆ[#「つゆ」に傍点]、起きるんだ起きるんだ」
恐ろしく元気な声で呼起されたおつゆ[#「つゆ」に傍点]は、寝過したのかと驚いて起上り、中間《なかのま》を覗いて見ると、――窓はまだ白みかかった許りというのに、行灯の光の下で金之助がせっせと荷拵えをしている。
「まあ、どう遊ばしますの?」
「まあ早く起きて来い、愈々金之助も世間へ出る時が来たぞ、――おまえが寝ているあいだにすばらしい番狂わせがあったんだ」
「何だかまるで分りませんが」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は手早く着替えをして出た。
「裏の屋敷の正体が知れたよ、信濃国で四万八千石の大名の姫君だ、いやその姫君の隠れ家だったんだ。精《くわ》しい事は分らないが、御正室と妾腹と二人の姫がいてお定まりの家督争いという事になったらしい、裏に在《おわ》すのは御正室の姫で、さる大名の御二男が養子として入婿する事に決っているのを、妾腹の姫を守立てる一味が、そうはさせじと御命まで狙いはじめた、そこで姫君は……松姫と仰有るのだが、騒擾の鎮るまで安全な場所へ身をお退き遊ばしていたのだ」
「そう早口に仰有ってはわたくしにはよく分りません」
「後で悠《ゆっ》くり考えれば宜い、拙者もあらましの事しか知らないのだ。――それでつまり、姫君は此処へ暫く隠れて在したのだが、事態不利と看た妾腹方の奸臣共は、遂に非常手段に訴えて一挙に姫を弑殺《しさつ》し参らせようと踏込んだのだ」
「それは、裏のお屋敷でございますか」
「然も一刻ばかり前の事だ」
「――まあ」
「拙者は盗賊だと思って走《はせ》つけたのだが、旨く間に合って姫君は御無事、斬込んだ奸物は残らず斬伏せてやった」
「ちっとも、存じませんでした」
「直ぐ帰ろうとしたが、奥家老が出て来て是非とも随身して呉れという話よ、姫君も世に出るまでの守護を頼むという仰せで、当分は無禄の御奉公と話が定った」
「それは、何よりな……」
「夜が明けると直ぐ、麻布の中屋敷へお立退きだそうで、拙者も一緒に御警護をして行かねばならぬ」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]の顔がさっ[#「さっ」に傍点]と蒼白めた、――金之助は話のあいだに身支度を終えて、
「ところで――」
と向直った。
「これでやっと拙者の体は定ったが、おまえはこれからどうする」
「……わたくし?」
「松兵衛の処へ帰っても、あの因業爺と一緒の暮しは辛かろうが」
「宜しゅうございます。わたくしの事なら宜しゅうございます」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は明るく笑いながら、然ししどろもどろ[#「しどろもどろ」に傍点]の声で云った。
「実は、わたくしも、考えていました、いつかお話し申しましたでしょう? 尾張の在に叔母が一人ありますが、その叔母が、此方へ来るようにと、何度もそう云ってよこしていたのです。わたくし、実はもう、行くからと、返辞を出してあったのです」
「そうか、それなら安心だ」
金之助は頷いて懐から袱紗《ふくさ》包を取出し、その中の小判を数枚掴んで差出した。
「急ぐので礼も満足には云えぬ、長いあいだよく面倒をみて呉れた、何も云わぬ、ほんの寸志で恥しいが、支度金として貰って来たものの裾分けだ、取って呉れ」
「いえ、そんな、飛んでもない」
「辞退するなら怨むぞ、――おつゆ[#「つゆ」に傍点]」
「……はい」
「信じて呉れるか」
金之助は小判と共におつゆ[#「つゆ」に傍点]の手を持添えて云った。
「金之助はな、何千人の草履取の中の、唯一人になってみせるぞ」
「……はい」
「身分の栄達はせずとも、心だけは必ず太閤に成って見せるぞ、分るか」
「ほほほほほ」
おつゆ[#「つゆ」に傍点]は高々と笑った。「可笑《おか》しゅうございますわ、今更そんな事を仰有るなんて、初めから分っているではございませんか、さ――お出で遊ばせ、朝日と一緒に門出をなさるなんて御運めでたい瑞祥でございます」
「ではさらばだ、健固を祈るぞ」
「貴方さまも、どうぞ……」と云ったが、
「あ、暫く」と背へすり寄って、
「お衿が折れて居りますから」
声の明るさとは凡そ逆に、わなわなと震える指で、折れても居ない衿を静かに正し、その手をそっと逞しい肩へ辷らせながら、
「はい、宜しゅうございます」
云うと共に、上端《あがりはな》へ崩れるように坐って了った。
四半刻(三十分)の間もない別れであった。夢のようなとは此事であろう。金之助の遠ざかり行く足音を聞きながら、おつゆ[#「つゆ」に傍点]は茫然と呟いていた、「――風車……風車が廻る」
[#8字下げ]七[#「七」は中見出し]
それから五日めの朝、馬上の武士が家主松兵衛の家を遽《あわただしく》しく訪れた。――見違えるように立派になった梶原金之助である。
「松兵衛、おつゆ[#「つゆ」に傍点]は居るか」
「おお、是は梶原様」
「おつゆ[#「つゆ」に傍点]はどうした、まだ居るか」
「何か彼女《あれ》が不埒でも致しましたか、否え実は私も腹を立てているところで、貴方様がお立退きなすった直ぐ後、ふいっと出たまま行衛が知れません、孤児だと思って今日まで五年も面倒をみてやりましたのに、まるで恩も義理も知らぬ畜生でございます」
「尾張在に叔母があるとか申したが、それへ参ったのではないのか」
「出鱈目でございます、何の尾張どころか天涯きって叔母も親類もありはしません、なにしろ虫も殺さぬ面をしてあんな奴とは知りませんでしたよ、全く考えると腹が煮えて……」
止めどもない饒舌を後に、茫然と表へ出た金之助は、――馬の口を取りながら、くっと空を仰いで呟いた。
「おつゆ[#「つゆ」に傍点]、おまえ何処にいるんだ、なぜ金之助を見捨てたんだ。……あの時は何の気もなく別れたが、別れてみて初めて分ったぞ、金之助にはおまえが要るんだ、それはおまえが一番よく知っていたんじゃないか――おつゆ[#「つゆ」に傍点]、おまえは金之助を捨てて平気なのか」
滂沱《ぼうだ》たる涙が金之助の頬を濡らした。――彼の仰ぐ空に白雲がひとつ春光を浴びて、西へ西へと流れていた。
「そうです、あたしは笑って門出をお祝い申しました、若し泣きでもしたら、あの方はきっと……」
芝西久保の松音寺の門前に、一文風車を作って売るささやかな店がある。――その女主人が、通い内職に来ている若い娘たちを相手に、しめやかな話を続けていた。
「きっと――そのお武家さまはおまえを嫁になすったことね」
娘の一人が云った。
「どうして一緒にいらっしゃらなかったの、そのお武家さまもきっとおまえを想っていらしったのだわ」
「わたしは出来るだけの事をしました、卑しい生れつきで愚な女でしたけれど、幾らかはお役に立ったと思います、それで宜いのです、あの方が世に出れば立派なお武家様です、わたしのような者がいては御出世のお妨げになるかも知れません、例えお妨げにならずとも、わたしは、自分で自分をよく知っています、――そして、矢張りお別れしてよかったと思います」
「それでは余り悲しいじゃないの、ねえ皆さん」
「初めのうちは」と女主人は眼を閉じて云った。
「わたしも泣いて泣いて泣き暮しました、でも今ではその涙が、わたしをこうして落着かせて呉れています、――おまえ方は気付いてはいないかしら」
「なんでしょう、何がありますの?」
「毎月十七日には、この店を閉めて休むでしょう……それはね、笑わずに聞くんですよ」
女主人は微笑しながら、
「あの方が御主人の御名代で、この松音寺へ御参詣においで遊ばすんです」「まあ――」
娘たちは嬌然と眼を見交わして叫んだ。
「知らなかったわ、ひどいおかみさん」
「どんな方ですの? 教えて」
「……お馬に召して」
女主人は歌うように去った。
「お槍を立てて、あの頃より少しお肥り遊ばして、でも眼は同じようにまるで子供で……立派な立派なお姿なんです」
「――――」
「わたしは、窓の中からそっと見ている、そっと、……もう悲しくはない、千人の草履取の中から、あの方は唯一人の人にお成り遊ばした。是でいいんです」
女主人はぼっと頬を染めながら、軒先の青空を見て云った、
「風車が廻る、……風車が」
五年後の秋のことであった。
底本:「感動小説集」実業之日本社
1975(昭和50)年6月10日 初版発行
1978(昭和53)年5月10日 九版発行
底本の親本:「婦人倶楽部」
1938(昭和13)年12月号
初出:「婦人倶楽部」
1938(昭和13)年12月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ