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挟箱
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挟箱
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)曲輪《くるわ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)外|曲輪《くるわ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「むすび」に傍点]
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霧の深い朝のことだった。三河のくに岡崎城の外|曲輪《くるわ》の馬場で、小姓組の若侍たちが馬をせめていると、不意に城のあるじ水野|監物《けんもつ》がやって来た。
扈従《こじゅう》二名をつれた姿をみて、柵《さく》の外に供待ちをしていた若侍の下僕たちは「殿さまだ」と囁《ささや》き合うなり慌《あわ》てて物蔭《ものかげ》へと逃げ去ったが、そのなかで一人、よほど狼狽《ろうばい》したとみえて、挟箱を置いたまま逃げた者があった。
「慌てた奴がいるものだ」扈従の一人がそう云って挟箱を拾って来た。「……ちょうど恰好《かっこう》でございます。お腰掛にあそばしては……」
「家臣の物でも挟箱を腰掛にはなるまい。何者の品かあらためてみい」
御主君の命なので、扈従の者が挟箱の蓋《ふた》をはらってみた。中に入っていたのは反故紙《ほごがみ》に包んだ焼むすび[#「むすび」に傍点]五箇と、武者|草鞋《わらじ》二足だけであった。……挟箱というものは着替えの衣服を入れて持歩く道具であろう。それなのに焼むすび[#「むすび」に傍点]と草鞋が出て来たから、扈従の者たちは思わずわっ[#「わっ」に傍点]と失笑《ふきだ》してしまった。
「蓋をしめろ……」監物|忠善《ただよし》はきびしい声で云った。「なにを笑うのだ。武士たる者はつねづね非常の時の備えがなくてはならぬ。今この刹那《せつな》に出陣というとも、この挟箱ひとつ持てば即座に馬を駆って出られるぞ。……槍刀《そうとう》が光っていても空腹では戦いはできまい。着替えの衣服よりも、焼むすび[#「むすび」に傍点]武者草鞋を忘れぬ心掛こそ武士としてこのうえなきたしなみだ。笑うよりこの性根を学ばなければならんぞ」
そう叱りつけると、監物忠善はその挟箱を手に取って押し戴《いただ》いたうえ、しずかに傍《かたわ》らへさし置いた。……後にその持主を呼びだしてその心掛を賞し、なお食禄《しょくろく》加増を命じたと伝えられる。
[#地から2字上げ](「写真週報」昭和十九年八月三十日号)
底本:「怒らぬ慶之助」新潮社
1999(平成11)年9月1日発行
2006(平成18)年4月10日八刷
底本の親本:「写真週報」
1944(昭和19)年8月30日号
初出:「写真週報」
1944(昭和19)年8月30日号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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《》:ルビ
(例)曲輪《くるわ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)外|曲輪《くるわ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「むすび」に傍点]
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霧の深い朝のことだった。三河のくに岡崎城の外|曲輪《くるわ》の馬場で、小姓組の若侍たちが馬をせめていると、不意に城のあるじ水野|監物《けんもつ》がやって来た。
扈従《こじゅう》二名をつれた姿をみて、柵《さく》の外に供待ちをしていた若侍の下僕たちは「殿さまだ」と囁《ささや》き合うなり慌《あわ》てて物蔭《ものかげ》へと逃げ去ったが、そのなかで一人、よほど狼狽《ろうばい》したとみえて、挟箱を置いたまま逃げた者があった。
「慌てた奴がいるものだ」扈従の一人がそう云って挟箱を拾って来た。「……ちょうど恰好《かっこう》でございます。お腰掛にあそばしては……」
「家臣の物でも挟箱を腰掛にはなるまい。何者の品かあらためてみい」
御主君の命なので、扈従の者が挟箱の蓋《ふた》をはらってみた。中に入っていたのは反故紙《ほごがみ》に包んだ焼むすび[#「むすび」に傍点]五箇と、武者|草鞋《わらじ》二足だけであった。……挟箱というものは着替えの衣服を入れて持歩く道具であろう。それなのに焼むすび[#「むすび」に傍点]と草鞋が出て来たから、扈従の者たちは思わずわっ[#「わっ」に傍点]と失笑《ふきだ》してしまった。
「蓋をしめろ……」監物|忠善《ただよし》はきびしい声で云った。「なにを笑うのだ。武士たる者はつねづね非常の時の備えがなくてはならぬ。今この刹那《せつな》に出陣というとも、この挟箱ひとつ持てば即座に馬を駆って出られるぞ。……槍刀《そうとう》が光っていても空腹では戦いはできまい。着替えの衣服よりも、焼むすび[#「むすび」に傍点]武者草鞋を忘れぬ心掛こそ武士としてこのうえなきたしなみだ。笑うよりこの性根を学ばなければならんぞ」
そう叱りつけると、監物忠善はその挟箱を手に取って押し戴《いただ》いたうえ、しずかに傍《かたわ》らへさし置いた。……後にその持主を呼びだしてその心掛を賞し、なお食禄《しょくろく》加増を命じたと伝えられる。
[#地から2字上げ](「写真週報」昭和十九年八月三十日号)
底本:「怒らぬ慶之助」新潮社
1999(平成11)年9月1日発行
2006(平成18)年4月10日八刷
底本の親本:「写真週報」
1944(昭和19)年8月30日号
初出:「写真週報」
1944(昭和19)年8月30日号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ