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橋本左内
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橋本左内
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)景岳《けいがく》
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(例)科[#「奥外科」に傍点]|彦也《ひこや》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
景岳《けいがく》橋本左内についてまず注意すべきことは、維新の人傑多きなかにあって、渠《かれ》だけは特殊の位地を占めているという点である。すなわち、同時代の志士の多くが尊王倒幕攘夷の一途を死守したのに反し、左内は尊王佐幕開国をもって活動の根底としていた。また、かれの生涯には華かな絃歌情緒の場面もなく、勇壮なる剣戦の火花もなく、逸話《いつわ》畸行《きこう》の類もない。しかも後人の畏敬を受くる点においては同時代の傑士をはるかに凌いで高く、その影響するところまたじつに深刻遠大であるのだ。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
橋本左内は越前福井藩の奥外科[#「奥外科」に傍点]|彦也《ひこや》の長子として、天保五年三月十一日福井常盤町に生れた。七歳のころより藩医|舟岡周斎《ふなおかしゅうさい》、妻木敬斎《さいきけいさい》、勝沢一順《かつさわいちじゅん》等に学び、また高野真斎《たかのしんさい》の門に入って儒学の教えを受けた。
このころよりしてすでに英才の質《たち》を顕し、年歯十歳にして三国志を了解したと伝えられる。さらに十二歳に及んで藩儒|吉田東篁《よしだとうこう》の鞭下に経学ぶや、その進境すこぶる異数、十五歳のおり『啓発録』を著して儕輩《さいはい》を瞠目せしめた。
(左内自筆の『啓発録』はかしこくも宮中に御物として御秘蔵あらせらるると承わる)
嘉永二年、左内は大坂に出て緒方洪庵《おがたこうあん》の塾に入り、蘭学および西洋医術を学んだ。この間まる二年、刻苦して『扶氏経験遺訓』『ローセ氏人身究理書』『病理学通論』『イスホルシング氏理学書』等の原書、訳書の筆写をしたが、現代と違って当時の洋学勉強は想像も及ばぬほど不便かつ困難なものであったから、その苦心のさまじつに思い遣られるものがある。
この緒方塾時代に有名な※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]話がある。――というのは、左内が夜になるとどこかへ出かけて行くのである。同窓の者たちもはじめのうちは散策ぐらいのことであろうと思っていたが、あまり毎夜の外出なので、土地がらもしや悪所通いでも始めたのではなかろうかと案じ、ある夜、大聖寺藩士の渡辺卯三郎《わたなべうさぶろう》というのがひそかに後をつけていった。
緒方塾は過書町――現今の東区北浜三丁目に当たる――にあった。左内は塾を出ると足早に横堀のほうへ曲る、とある橋の袂へ来ると手を拍って、
「……某《なにがし》……某……」
と叫んだ。
つけて来た卯三郎は、こういう場所にはよく賤い売笑の婦《おんな》が出ると聞いていたので、さてこそと息をひそめていると、返辞をして出て来たのは意外にも一人の老乞食であった。
「具合はどうだ」
「ありがとう存じます、お蔭さまでよほど胸が軽くなったようでござります」
「きのうの薬を嚥《の》んでみたか」
「――はい、どうもひどく苦くて……」
そう云いながら、触れば垢のよれそうな胸をはだけた。すると左内はその側へかがみこんで、鼻を衝く臭気もいとわず熱心に診察をはじめた。
このありさまを見て渡辺卯三郎がどんなに驚き、かつ敬服したかは語るまでもあるまい。かようにして乞食を七人まで診察し、薬を与えるさまを見届けて卯三郎は帰った。それまで悪所狂いでもしているのではあるまいかと疑っていた同窓生の態度がにわかに変って、尊敬一段を加えたのはそれからである。
緒方塾に学ぶこと三年、左内が十九歳の嘉永五年二月、国許から父の病を報じてきたので急拠福井へ帰った。そして日夜岳父の病をみとるかたわら、代って病人の診療に当ったが、大坂の勉学の功|顕《あら》われてその手腕すこぶる良く、あるとき梅毒患者の局部切断手術を行ったおりなどは、その見事さに父彦也が、
「それだけの腕ができていようとは思わなかった。儂《わし》はもういつでも安心して死ねる」
と感嘆の声をあげたという。――外科の名手として聞えた岳父にさえ、この言をあらしめたほど左内の技倆は非凡なものであったのである。
同年十月に父が死ぬと、左内は家督相続を許され、二十五石五人扶持を継いで藩医の列に加わった。しかし彼は医術をもって足れりとはしていなかったのである、『啓発録』に、
[#ここから2字下げ]
(前略……ああ、いかにせん、わが身刀圭の家に生れ、賤技に局々としてわが幼少の志を遂ぐることを得ざるを、しかれども所業はここにありても、志すところは彼にありそうらえば……云々)
[#ここで字下げ終わり]
といっているごとく、渠は素より国事大局の上に活眼を有し、やがては志を伸ぶるのとき来たるべきを期していたのだ。はたしてその兆《きざし》は発《あらわ》れた、すなわち安政元年、渠が二十一歳の時、藩命を受けて江戸邸詰めとなったのである。そして江戸深川に開塾していた坪井信道《つぼいしんどう》の門に入ってふたたび蘭学の業を続け、後、さらに杉田成郷《すぎたせいごう》の門を叩いて研鑽おおいに勉めた。
当時、江戸において蘭法医家の一流といえば、坪井信道、戸塚静海《とつかせいかい》、伊東玄朴《いとうげんぼく》の三人で、中にも信道は篤学の名が高かった、左内は信道塾においてもっぱら舎密《セミカ》――Chmica・化学あるいは砲術書、地理学等を学んだが、これが渠の緒方塾時代に培われた新しき世界観を裏付けるのに重要な役立ちをした。ついで杉田塾に移るや、成郷は左内を遇するに朋友の礼をもってし、その著作出版に当っては左内の補佐を受けたほどであった。
江戸における勉学は二十二歳の夏に及んだ、ちょうどそのころに一※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]話がある、――当時、江戸邸にあって藩主|春嶽《しゅんがく》公の股肱《ここう》と云われた鈴木主税《すずきちから》が、水戸の藤田東湖《ふじたとうこ》と会談したとき、
「福井藩には人材が乏しいので、かかる非常の秋に際して心許なく思う」
と歎息した。すると東湖が驚いたように膝をすすめて、
「それは意外なことを聞くものだ、福井には橋本左内という俊才がいるではないか、貴公までがそれを知らずにいたのか」
と叱るように云った。
鈴木主税はかねて左内の才能を伝聞してはいたが、東湖の言によって初めてそれほどの人物であったかと愕き、あらためて左内の器を仔細に検討した結果、その偽りでないことを知ったのである。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
張翼の期はついに来た。
安政二年八月、左内は帰国を命ぜられたうえ、医員を免じ御書院番に列せしめられた。鈴木主税らの推輓《すいばん》によること、もちろんである、この年十一月、春嶽公は藩校明道館を起さんとして、その視察を左内に命じて江戸へ遣した。この江戸滞在中、左内にとって忘るべからざることがある。それは西郷南洲《さいごうないしゅう》と初めて会見したのがそのときであったからだ。――安政二年十二月の一日《あるひ》、左内は不意に芝の薩摩屋敷へ訪ねていった。そのとき南洲――吉兵衛《きちべえ》といった――は、庭前に若者を集めて相撲に興じているところだった。
対面は初めてだが、かねてたがいにその声名は聞いている、ともかくもと一間に招じたが、南洲はそのとき二十九歳、左内は二十二歳で色白の眉目秀でた風貌、薩摩隼人の眼から見ると柔弱な小才士という柄だ。
「何か用でもござってか――?」
という態度もひどく横風であった。左内はすぐに南洲の気持を察し、あえて反抗するさまもなく慇懃《いんぎん》に拝揖《はいゆう》しながら、
「西郷先生のお噂はかねて承わりおります。混沌たる時勢のうちにあって不屈不倒、よく国事に尽瘁《じんすい》あそばされる趣、まことに敬服至極に存じます、幸いかく御面識を得ましたれば、今後先生の驥尾《きび》に付して微力をいたしたく、なにとぞお引廻しにあずかりたい」
と云った。しかし南洲は飄乎《ひょうこ》として、
「いや、拙者は仰せのごとき大人物ではござらん、なにしろ見らるるとおり生来の鈍漢で、いま御覧のごとく若い者と相撲をとるくらいが取柄、まあまあさような固苦しい話はやめにいたしましょう」
「かような若輩ゆえ、そう仰せらるるももっともには存ずるが――」
と、左内は飽くまで謙恭な態度で、まず自ら胸襟を開いて時勢を論じ、国運のことに及んで話説述べつくした。
蘭学によって研究し得た世界事情の智識、科学的な観察、しかも皇国の大本を誤らず、壮士輩の偏見|固陋《ころう》なく、徒《いたずら》なる悲憤慷慨を排して当面の事実を論ずること剴切《がいせつ》適確、ひとつひとつ南洲の胸を撃たずにはおかなかった。左内が辞去して後、南洲は自分の鑑識の誤れることを知り、翌日すぐに福井藩邸を訪い、左内に会って昨日の不礼を詑びたと伝えられる。
これより橋本、西郷の交友は篤く、後、南洲が大島に流謫《るたく》中、左内の刊殺されしを聞くや流涕してその死を悼んだという、さらに南洲が沖永良部に流罪となったおり詠んだ、
[#ここから2字下げ]
洛陽知己皆為[#レ]鬼 南嶼俘囚独竊[#レ]生
生死何疑天附与 願留[#二]魂魄[#一]護[#二]皇城[#一]。
[#ここで字下げ終わり]
という有名な詩の第一句には、あきらかに盟友左内を懐《おも》う至情が含まれていることと思う。
藩へ帰った左内はいくばくもなく明道館講究師に補せられ、蘭学科掛りに任じた。ついで安政四年、二十四歳にして学監心得を命ぜられ、またおおいに学制改革のことに当った。しかるに同年八月、三度命が下って江戸詰めとなり、出府するや即日春嶽公の侍談兼御内用係りに任ぜられたのである。これは現今の秘書役のようなもので、内治外交に参画する重要な任であり、これより左内の国事活躍期に入るのである。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
当時、江戸幕府には二つの大きな暗礁があった。その一は諸外国との修交問題、いま一つは将軍家の建儲問題である。
ここでは両問題を詳しく検討している暇はないが、澎湃《ぼうはい》として興りつつある尊王倒幕攘夷の叫びのうちにあって、時の将軍|家定《いえさだ》は病弱その任に堪えず、幕府また内容の大改革に迫られていたのである。されば一日も早く英明の継嗣《よつぎ》を立て、政途を明らかにして難局打開の策を建てなければならぬ状態にたちいたっていた。――しかして、この問題にもっとも活躍したのが、薩摩の島津斉彬《しまずなりあき》、越前の松平春嶽であった。
春嶽、斉彬はともに開国論で、はやくより鎖国主義撤廃を叫び、またおおいに皇室尊崇のことを幕府に建言した。しかも建儲問題については、ともに一橋刑部《ひとつばしきょうぶ》卿を適材として推《お》していた、されば、春嶽公が左内を側近に召出したのは、まず継嗣のことを決定せんがためであって、左内の活躍もここに発しているのである。
出府して君命を奉じた左内は、これより薩藩の西郷吉兵衛と往来し、一橋慶喜擁立のために奔走勉めたが、同時に諸外国との緊迫した修交問題にも鋭い認識を広め、いわゆる『日魯同盟論』なる意見を国許の村田氏寿《むらたしじゅ》に送っている、――その一節に曰く、
[#ここから2字下げ]
(前略……日本を独立にいたしそうろうには、山丹《さんたん》満洲《まんしゅう》朝鮮《ちょうせん》国をあわせ、かつ亜米利加《アメリカ》洲あるいは印度《インド》地内に領を持たずしてはとても望みのごとくならず……中略、山丹辺は魯国《ろこく》にて手を付けかけおりそうろう。その上今は力足らず、とても西洋諸国の兵に対し比年連戦はおぼつかなく、候間、かえって今のうちに同盟国にあいなり然るべくそうろう。小拙はぜひ魯に従いたく……そのわけは魯に隣境なり、かつ……下略)
[#ここで字下げ終わり]
と書いている。朝鮮満洲の辺まで併せなければ完全な独立は望み難いという説は、今日の状勢から考えてみて、その卓見に驚かざるを得ないところである。
一方、建儲問題はますます緊急を要するにいたり、春嶽、斉彬の両公は水戸烈公、尾張公等と陰に陽に慶喜擁立の運動を始めた。ことに、斉彬の養女|篤《とく》姫は家定の内室に入っているので、この方面からも建策せしめていたが、大奥の権勢たる本寿院《ほんじゅいん》、すなわち家定の生母――が紀州の慶福丸《けいふくまる》を望んでいたので、ことは容易に決定すべくもなかった。――かかる間に、幕府は米国使節の慫慂《しょうよう》に止むなくついに通商条約を結んだので、これが勅許を仰ぐため老中筆頭|堀田備中守《ほったびっちゅうのかみ》を京都へ差し立てた。
堀田備中守は元より一橋派の人物であったから、渠が上京すると同時に建儲運動も京都に移り、橋本左内もまた命を受けて桃井伊織《ももいいおり》と変名して入京、それより三条内大臣実万《さんじょうないだいじんさねま》、粟田宮家《あわたみやけ》、青蓮院宮家《せいれんいんみやけ》、近衛《このえ》左大臣等々に出入りして、もっぱら慶喜擁立のために懇請努力した。
かくて月余、安政五年三月十日にって、朝より通商条約の勅許はまかりならぬと仰せ出され、同じく二十二日には、
「西丸建儲の儀は年長、賢明、人望の三要件を具備したものを選べ」
という御内勅があった。――畢竟《ひっきょう》、左内らの懸命の努力が功を奏したのである。
これが伝わるや、紀州派の人々は驚愕おくところを知らず、四月二十日、備中守が江戸帰着するや、同二十三日卒如として井伊掃部頭《いいかもんのかみ》を大老に任じた。掃部頭は初めより紀州派であったから、渠が大老として堀田備中守の上置に直った以上、もはや万事休矣である。
掃部頭は就任するやまず、勘定奉行|川路左衛門尉《かわじさえもんのじょう》、大番頭|士岐丹波守《どきたんばのかみ》等を一橋派に左袒《さたん》したる廉《かど》をもって左遷し、辣腕をふるって異閥を除いた結果、六月十九日に及んでついに米国との通商条約に調印し、同じく二十五日には断乎として紀伊慶福丸を西丸継嗣に定め、これを天下に公表した。
左内は事態の軽からぬを察し、建儲問題で活躍した自分の嫌疑が春嶽公に及ぼさんことを怖れて側近を去り、国許へ帰ることになったのである。――春嶽公は愛臣との別離を非常に悲しまれ、種々の品を賜って後、一枚の奉書を取り出して自らその手形を捺《お》し、
「ことがかくなっては、またいつそちと会えるか分らぬ、この手形をやるから、これを予と思って朝夕側を放すな」
と云われた。主従の情愛ここにきわまるというベきであろう。
左内は感泣拝辞して帰国したが、翌七月、幕府は建儲問題に策動した人々、水戸烈公をはじめ、水戸公、尾張公、一橋公、春嶽公に対してあるいは隠居、あるいは謹慎遠慮、あるいは江戸登城停止等を命じた。さらに家定|薨《こう》じ、家茂《いえもち》将軍を継ぐや、九月に入ってだんぜん強圧政策をとり、ここに有名な安政の大獄を将来するに至った。
十月二十三日、幕吏は突然、江戸常盤門内の越前家藩邸へ来って、橋本左内の居宅を捜索し、二十三日、左内を町奉行|石谷因幡守《いわやいなばのかみ》役宅へ召喚した、しかして訊問半日に及んで帰宅を許し滝勘蔵《たきかんぞう》の邸に謹慎を命じた。――それ以来前後数回にわたって召喚審問があって後、安政六年十月二日、ついに左内は揚屋《あがりや》入りを命ぜられ、伝馬町の獄に拘禁された。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
左内は滝勘蔵邸に謹慎を命ぜられるや、『資治通鑑』を読破してその註を作り、漢紀を了するなど、一日として勉学を怠らなかったが、伝馬町に禁獄されてからは、獄制の改革を痛感し、同囚|勝野保二郎《かつのやすじろう》に向って、
「牢獄は悪をこらし善を勧むるがための制ではないか。しかるに現今の獄制は小悪を大悪に増上させる設備のようなものだ」
と云い、獄中の教程、指導、出獄後の撫育等についておおいに論じたという。
左内が拘禁されたとき、偶然そこには吉田松陰《よしだしょういん》も囚《とら》われていた。獄中松陰は左内のあることを聞いて思慕し、左内もまた松陰のために詩二篇を贈っている。
十月六日の夜、左内は獄中に筆をとって左のような詩をつくった、
[#ここから2字下げ]
若寃難[#レ]洗恨難[#レ]禁 俯[#(シテ)]則[#(ハチ)]悲傷仰[#(シ)]則[#(ハチ)]吟[#(ズ)]
昨夜城中霜始隕[#(ツ)] 誰[#(カ)]知[#(ラン)]松柏後凋[#(ノ)]心。
[#ここで字下げ終わり]
しかして翌七日、幕府は左内の罪を断じ、遠島に罪一等を増して死罪とし、即日刑の執行が命ぜられた。
左内の最期こそ悲痛である。獄吏が命を伝えるや、左内は自若として獄を出た。――揚屋の出入口は竪四尺横三尺であって、死罪を受ける者は、感動のあまりこの出入口がかならずうまく通れない、しかるに左内は微塵も慌てず、すうっと跼んで潜り出た。見ていた役人が、
「お見事――」
と思わず感嘆した。
牢奉行|石出帯刀《いわでたてわき》は初めから左内を遇するに士礼をもってしたが、当日はとくに――春嶽公より賜った新しい服と上下を許した。これは伝馬町の牢開設以来の新例である。
やがて設けの席《むしろ》に着くと罪状の読聞せがあって、斬首役人が白刄を抜き、左内の背後へ廻って、
「よろしいか」
と声をかけた。すると左内が突然、
「しばらく待て――」
と制した。
そして、ああ……じつに左内は、双手で面を蔽いながら流泪滂沱《るるいぼうだ》として泣いたのである。
左内は死を悲んで泣いたか? いや! そのとき胸底に衝動して渠を泣かしめたのは国運の暗澹たる前途である。虎狼国の四辺を脅し、皇国の安危との一期にある秋、幕府は暴政を逞しゅうして多くの士人傑人を禁獄し、違勅の不敬を犯して耻じず、人心まさにきわまり、内外の不平一時に爆発せんずありの動乱さまではないか、かかるとき――ささいの寃によって断頭の座につく左内の心事こそ、泣いても泣ききれぬものがあったであろう。
左内は、白刄の下に完爾《かんじ》として辞世を咏《よ》むような豪傑ではない、渠は声を放って泣いたのだ、この一事のみをもってしても渠が凡百の志士勇傑でないことが分る。左内は泣いた、断頭の刄《やいば》を控えしめて泣いたのである。
しばらくして左内は静かに涙を拭い、藩邸のほうに向って一礼した後、
「お待たせ申した、いざ!」
といって首をさしのべる、言下に白刄が閃いて左内の首は打ち落された。――ときに左内は二十六歳であった。
左内の遺骸は千住小塚原|回向院《えこういん》に埋葬し、幕府に憚る意味からその雅号の黎園《れいえん》をとって墓号とした。後、文久三年にその遺骸を福井の善慶寺に改葬したが、小塚原の墓域もなお現存している。
左内についてもっとも敬服すべき点は、渠がはやく蘭学に通じていたため、その思想が同時代の儕輩《さいはい》をはるかに抜いて高く、かつ広かったところにある。安政四年四月、藩校明道館を開くに当っては、それまでの一科一人制を廃し、各科に優秀の教授をおいて総合教育法をとろうとした。なお、これに厳戒を与えて、
「器械芸術は彼より取り、仁義忠孝は我において存す」
といっている。また西洋史に精しかったから、革命の排撃すべきことを力説し、皇国の威烈を恪守すべきことを痛論している。
この短文をもってしては、橋本左内の片鱗をも伝うることも困難であったが、詳しくは左内全集あり景岳会あり、これについてじゅうぶんに御研究あらんことを望んでおく。
底本:「抵抗小説集」実業之日本社
1979(昭和54)年2月10日 初版発行
1979(昭和54)年3月1日 二版発行
底本の親本:「青年太陽」
1935(昭和10)年12月号
初出:「青年太陽」
1935(昭和10)年12月号
※表題は底本では、「橋本左内《はしもとさない》」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)景岳《けいがく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)科[#「奥外科」に傍点]|彦也《ひこや》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]
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[#8字下げ]一[#「一」は中見出し]
景岳《けいがく》橋本左内についてまず注意すべきことは、維新の人傑多きなかにあって、渠《かれ》だけは特殊の位地を占めているという点である。すなわち、同時代の志士の多くが尊王倒幕攘夷の一途を死守したのに反し、左内は尊王佐幕開国をもって活動の根底としていた。また、かれの生涯には華かな絃歌情緒の場面もなく、勇壮なる剣戦の火花もなく、逸話《いつわ》畸行《きこう》の類もない。しかも後人の畏敬を受くる点においては同時代の傑士をはるかに凌いで高く、その影響するところまたじつに深刻遠大であるのだ。
[#8字下げ]二[#「二」は中見出し]
橋本左内は越前福井藩の奥外科[#「奥外科」に傍点]|彦也《ひこや》の長子として、天保五年三月十一日福井常盤町に生れた。七歳のころより藩医|舟岡周斎《ふなおかしゅうさい》、妻木敬斎《さいきけいさい》、勝沢一順《かつさわいちじゅん》等に学び、また高野真斎《たかのしんさい》の門に入って儒学の教えを受けた。
このころよりしてすでに英才の質《たち》を顕し、年歯十歳にして三国志を了解したと伝えられる。さらに十二歳に及んで藩儒|吉田東篁《よしだとうこう》の鞭下に経学ぶや、その進境すこぶる異数、十五歳のおり『啓発録』を著して儕輩《さいはい》を瞠目せしめた。
(左内自筆の『啓発録』はかしこくも宮中に御物として御秘蔵あらせらるると承わる)
嘉永二年、左内は大坂に出て緒方洪庵《おがたこうあん》の塾に入り、蘭学および西洋医術を学んだ。この間まる二年、刻苦して『扶氏経験遺訓』『ローセ氏人身究理書』『病理学通論』『イスホルシング氏理学書』等の原書、訳書の筆写をしたが、現代と違って当時の洋学勉強は想像も及ばぬほど不便かつ困難なものであったから、その苦心のさまじつに思い遣られるものがある。
この緒方塾時代に有名な※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]話がある。――というのは、左内が夜になるとどこかへ出かけて行くのである。同窓の者たちもはじめのうちは散策ぐらいのことであろうと思っていたが、あまり毎夜の外出なので、土地がらもしや悪所通いでも始めたのではなかろうかと案じ、ある夜、大聖寺藩士の渡辺卯三郎《わたなべうさぶろう》というのがひそかに後をつけていった。
緒方塾は過書町――現今の東区北浜三丁目に当たる――にあった。左内は塾を出ると足早に横堀のほうへ曲る、とある橋の袂へ来ると手を拍って、
「……某《なにがし》……某……」
と叫んだ。
つけて来た卯三郎は、こういう場所にはよく賤い売笑の婦《おんな》が出ると聞いていたので、さてこそと息をひそめていると、返辞をして出て来たのは意外にも一人の老乞食であった。
「具合はどうだ」
「ありがとう存じます、お蔭さまでよほど胸が軽くなったようでござります」
「きのうの薬を嚥《の》んでみたか」
「――はい、どうもひどく苦くて……」
そう云いながら、触れば垢のよれそうな胸をはだけた。すると左内はその側へかがみこんで、鼻を衝く臭気もいとわず熱心に診察をはじめた。
このありさまを見て渡辺卯三郎がどんなに驚き、かつ敬服したかは語るまでもあるまい。かようにして乞食を七人まで診察し、薬を与えるさまを見届けて卯三郎は帰った。それまで悪所狂いでもしているのではあるまいかと疑っていた同窓生の態度がにわかに変って、尊敬一段を加えたのはそれからである。
緒方塾に学ぶこと三年、左内が十九歳の嘉永五年二月、国許から父の病を報じてきたので急拠福井へ帰った。そして日夜岳父の病をみとるかたわら、代って病人の診療に当ったが、大坂の勉学の功|顕《あら》われてその手腕すこぶる良く、あるとき梅毒患者の局部切断手術を行ったおりなどは、その見事さに父彦也が、
「それだけの腕ができていようとは思わなかった。儂《わし》はもういつでも安心して死ねる」
と感嘆の声をあげたという。――外科の名手として聞えた岳父にさえ、この言をあらしめたほど左内の技倆は非凡なものであったのである。
同年十月に父が死ぬと、左内は家督相続を許され、二十五石五人扶持を継いで藩医の列に加わった。しかし彼は医術をもって足れりとはしていなかったのである、『啓発録』に、
[#ここから2字下げ]
(前略……ああ、いかにせん、わが身刀圭の家に生れ、賤技に局々としてわが幼少の志を遂ぐることを得ざるを、しかれども所業はここにありても、志すところは彼にありそうらえば……云々)
[#ここで字下げ終わり]
といっているごとく、渠は素より国事大局の上に活眼を有し、やがては志を伸ぶるのとき来たるべきを期していたのだ。はたしてその兆《きざし》は発《あらわ》れた、すなわち安政元年、渠が二十一歳の時、藩命を受けて江戸邸詰めとなったのである。そして江戸深川に開塾していた坪井信道《つぼいしんどう》の門に入ってふたたび蘭学の業を続け、後、さらに杉田成郷《すぎたせいごう》の門を叩いて研鑽おおいに勉めた。
当時、江戸において蘭法医家の一流といえば、坪井信道、戸塚静海《とつかせいかい》、伊東玄朴《いとうげんぼく》の三人で、中にも信道は篤学の名が高かった、左内は信道塾においてもっぱら舎密《セミカ》――Chmica・化学あるいは砲術書、地理学等を学んだが、これが渠の緒方塾時代に培われた新しき世界観を裏付けるのに重要な役立ちをした。ついで杉田塾に移るや、成郷は左内を遇するに朋友の礼をもってし、その著作出版に当っては左内の補佐を受けたほどであった。
江戸における勉学は二十二歳の夏に及んだ、ちょうどそのころに一※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]話がある、――当時、江戸邸にあって藩主|春嶽《しゅんがく》公の股肱《ここう》と云われた鈴木主税《すずきちから》が、水戸の藤田東湖《ふじたとうこ》と会談したとき、
「福井藩には人材が乏しいので、かかる非常の秋に際して心許なく思う」
と歎息した。すると東湖が驚いたように膝をすすめて、
「それは意外なことを聞くものだ、福井には橋本左内という俊才がいるではないか、貴公までがそれを知らずにいたのか」
と叱るように云った。
鈴木主税はかねて左内の才能を伝聞してはいたが、東湖の言によって初めてそれほどの人物であったかと愕き、あらためて左内の器を仔細に検討した結果、その偽りでないことを知ったのである。
[#8字下げ]三[#「三」は中見出し]
張翼の期はついに来た。
安政二年八月、左内は帰国を命ぜられたうえ、医員を免じ御書院番に列せしめられた。鈴木主税らの推輓《すいばん》によること、もちろんである、この年十一月、春嶽公は藩校明道館を起さんとして、その視察を左内に命じて江戸へ遣した。この江戸滞在中、左内にとって忘るべからざることがある。それは西郷南洲《さいごうないしゅう》と初めて会見したのがそのときであったからだ。――安政二年十二月の一日《あるひ》、左内は不意に芝の薩摩屋敷へ訪ねていった。そのとき南洲――吉兵衛《きちべえ》といった――は、庭前に若者を集めて相撲に興じているところだった。
対面は初めてだが、かねてたがいにその声名は聞いている、ともかくもと一間に招じたが、南洲はそのとき二十九歳、左内は二十二歳で色白の眉目秀でた風貌、薩摩隼人の眼から見ると柔弱な小才士という柄だ。
「何か用でもござってか――?」
という態度もひどく横風であった。左内はすぐに南洲の気持を察し、あえて反抗するさまもなく慇懃《いんぎん》に拝揖《はいゆう》しながら、
「西郷先生のお噂はかねて承わりおります。混沌たる時勢のうちにあって不屈不倒、よく国事に尽瘁《じんすい》あそばされる趣、まことに敬服至極に存じます、幸いかく御面識を得ましたれば、今後先生の驥尾《きび》に付して微力をいたしたく、なにとぞお引廻しにあずかりたい」
と云った。しかし南洲は飄乎《ひょうこ》として、
「いや、拙者は仰せのごとき大人物ではござらん、なにしろ見らるるとおり生来の鈍漢で、いま御覧のごとく若い者と相撲をとるくらいが取柄、まあまあさような固苦しい話はやめにいたしましょう」
「かような若輩ゆえ、そう仰せらるるももっともには存ずるが――」
と、左内は飽くまで謙恭な態度で、まず自ら胸襟を開いて時勢を論じ、国運のことに及んで話説述べつくした。
蘭学によって研究し得た世界事情の智識、科学的な観察、しかも皇国の大本を誤らず、壮士輩の偏見|固陋《ころう》なく、徒《いたずら》なる悲憤慷慨を排して当面の事実を論ずること剴切《がいせつ》適確、ひとつひとつ南洲の胸を撃たずにはおかなかった。左内が辞去して後、南洲は自分の鑑識の誤れることを知り、翌日すぐに福井藩邸を訪い、左内に会って昨日の不礼を詑びたと伝えられる。
これより橋本、西郷の交友は篤く、後、南洲が大島に流謫《るたく》中、左内の刊殺されしを聞くや流涕してその死を悼んだという、さらに南洲が沖永良部に流罪となったおり詠んだ、
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洛陽知己皆為[#レ]鬼 南嶼俘囚独竊[#レ]生
生死何疑天附与 願留[#二]魂魄[#一]護[#二]皇城[#一]。
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という有名な詩の第一句には、あきらかに盟友左内を懐《おも》う至情が含まれていることと思う。
藩へ帰った左内はいくばくもなく明道館講究師に補せられ、蘭学科掛りに任じた。ついで安政四年、二十四歳にして学監心得を命ぜられ、またおおいに学制改革のことに当った。しかるに同年八月、三度命が下って江戸詰めとなり、出府するや即日春嶽公の侍談兼御内用係りに任ぜられたのである。これは現今の秘書役のようなもので、内治外交に参画する重要な任であり、これより左内の国事活躍期に入るのである。
[#8字下げ]四[#「四」は中見出し]
当時、江戸幕府には二つの大きな暗礁があった。その一は諸外国との修交問題、いま一つは将軍家の建儲問題である。
ここでは両問題を詳しく検討している暇はないが、澎湃《ぼうはい》として興りつつある尊王倒幕攘夷の叫びのうちにあって、時の将軍|家定《いえさだ》は病弱その任に堪えず、幕府また内容の大改革に迫られていたのである。されば一日も早く英明の継嗣《よつぎ》を立て、政途を明らかにして難局打開の策を建てなければならぬ状態にたちいたっていた。――しかして、この問題にもっとも活躍したのが、薩摩の島津斉彬《しまずなりあき》、越前の松平春嶽であった。
春嶽、斉彬はともに開国論で、はやくより鎖国主義撤廃を叫び、またおおいに皇室尊崇のことを幕府に建言した。しかも建儲問題については、ともに一橋刑部《ひとつばしきょうぶ》卿を適材として推《お》していた、されば、春嶽公が左内を側近に召出したのは、まず継嗣のことを決定せんがためであって、左内の活躍もここに発しているのである。
出府して君命を奉じた左内は、これより薩藩の西郷吉兵衛と往来し、一橋慶喜擁立のために奔走勉めたが、同時に諸外国との緊迫した修交問題にも鋭い認識を広め、いわゆる『日魯同盟論』なる意見を国許の村田氏寿《むらたしじゅ》に送っている、――その一節に曰く、
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(前略……日本を独立にいたしそうろうには、山丹《さんたん》満洲《まんしゅう》朝鮮《ちょうせん》国をあわせ、かつ亜米利加《アメリカ》洲あるいは印度《インド》地内に領を持たずしてはとても望みのごとくならず……中略、山丹辺は魯国《ろこく》にて手を付けかけおりそうろう。その上今は力足らず、とても西洋諸国の兵に対し比年連戦はおぼつかなく、候間、かえって今のうちに同盟国にあいなり然るべくそうろう。小拙はぜひ魯に従いたく……そのわけは魯に隣境なり、かつ……下略)
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と書いている。朝鮮満洲の辺まで併せなければ完全な独立は望み難いという説は、今日の状勢から考えてみて、その卓見に驚かざるを得ないところである。
一方、建儲問題はますます緊急を要するにいたり、春嶽、斉彬の両公は水戸烈公、尾張公等と陰に陽に慶喜擁立の運動を始めた。ことに、斉彬の養女|篤《とく》姫は家定の内室に入っているので、この方面からも建策せしめていたが、大奥の権勢たる本寿院《ほんじゅいん》、すなわち家定の生母――が紀州の慶福丸《けいふくまる》を望んでいたので、ことは容易に決定すべくもなかった。――かかる間に、幕府は米国使節の慫慂《しょうよう》に止むなくついに通商条約を結んだので、これが勅許を仰ぐため老中筆頭|堀田備中守《ほったびっちゅうのかみ》を京都へ差し立てた。
堀田備中守は元より一橋派の人物であったから、渠が上京すると同時に建儲運動も京都に移り、橋本左内もまた命を受けて桃井伊織《ももいいおり》と変名して入京、それより三条内大臣実万《さんじょうないだいじんさねま》、粟田宮家《あわたみやけ》、青蓮院宮家《せいれんいんみやけ》、近衛《このえ》左大臣等々に出入りして、もっぱら慶喜擁立のために懇請努力した。
かくて月余、安政五年三月十日にって、朝より通商条約の勅許はまかりならぬと仰せ出され、同じく二十二日には、
「西丸建儲の儀は年長、賢明、人望の三要件を具備したものを選べ」
という御内勅があった。――畢竟《ひっきょう》、左内らの懸命の努力が功を奏したのである。
これが伝わるや、紀州派の人々は驚愕おくところを知らず、四月二十日、備中守が江戸帰着するや、同二十三日卒如として井伊掃部頭《いいかもんのかみ》を大老に任じた。掃部頭は初めより紀州派であったから、渠が大老として堀田備中守の上置に直った以上、もはや万事休矣である。
掃部頭は就任するやまず、勘定奉行|川路左衛門尉《かわじさえもんのじょう》、大番頭|士岐丹波守《どきたんばのかみ》等を一橋派に左袒《さたん》したる廉《かど》をもって左遷し、辣腕をふるって異閥を除いた結果、六月十九日に及んでついに米国との通商条約に調印し、同じく二十五日には断乎として紀伊慶福丸を西丸継嗣に定め、これを天下に公表した。
左内は事態の軽からぬを察し、建儲問題で活躍した自分の嫌疑が春嶽公に及ぼさんことを怖れて側近を去り、国許へ帰ることになったのである。――春嶽公は愛臣との別離を非常に悲しまれ、種々の品を賜って後、一枚の奉書を取り出して自らその手形を捺《お》し、
「ことがかくなっては、またいつそちと会えるか分らぬ、この手形をやるから、これを予と思って朝夕側を放すな」
と云われた。主従の情愛ここにきわまるというベきであろう。
左内は感泣拝辞して帰国したが、翌七月、幕府は建儲問題に策動した人々、水戸烈公をはじめ、水戸公、尾張公、一橋公、春嶽公に対してあるいは隠居、あるいは謹慎遠慮、あるいは江戸登城停止等を命じた。さらに家定|薨《こう》じ、家茂《いえもち》将軍を継ぐや、九月に入ってだんぜん強圧政策をとり、ここに有名な安政の大獄を将来するに至った。
十月二十三日、幕吏は突然、江戸常盤門内の越前家藩邸へ来って、橋本左内の居宅を捜索し、二十三日、左内を町奉行|石谷因幡守《いわやいなばのかみ》役宅へ召喚した、しかして訊問半日に及んで帰宅を許し滝勘蔵《たきかんぞう》の邸に謹慎を命じた。――それ以来前後数回にわたって召喚審問があって後、安政六年十月二日、ついに左内は揚屋《あがりや》入りを命ぜられ、伝馬町の獄に拘禁された。
[#8字下げ]五[#「五」は中見出し]
左内は滝勘蔵邸に謹慎を命ぜられるや、『資治通鑑』を読破してその註を作り、漢紀を了するなど、一日として勉学を怠らなかったが、伝馬町に禁獄されてからは、獄制の改革を痛感し、同囚|勝野保二郎《かつのやすじろう》に向って、
「牢獄は悪をこらし善を勧むるがための制ではないか。しかるに現今の獄制は小悪を大悪に増上させる設備のようなものだ」
と云い、獄中の教程、指導、出獄後の撫育等についておおいに論じたという。
左内が拘禁されたとき、偶然そこには吉田松陰《よしだしょういん》も囚《とら》われていた。獄中松陰は左内のあることを聞いて思慕し、左内もまた松陰のために詩二篇を贈っている。
十月六日の夜、左内は獄中に筆をとって左のような詩をつくった、
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若寃難[#レ]洗恨難[#レ]禁 俯[#(シテ)]則[#(ハチ)]悲傷仰[#(シ)]則[#(ハチ)]吟[#(ズ)]
昨夜城中霜始隕[#(ツ)] 誰[#(カ)]知[#(ラン)]松柏後凋[#(ノ)]心。
[#ここで字下げ終わり]
しかして翌七日、幕府は左内の罪を断じ、遠島に罪一等を増して死罪とし、即日刑の執行が命ぜられた。
左内の最期こそ悲痛である。獄吏が命を伝えるや、左内は自若として獄を出た。――揚屋の出入口は竪四尺横三尺であって、死罪を受ける者は、感動のあまりこの出入口がかならずうまく通れない、しかるに左内は微塵も慌てず、すうっと跼んで潜り出た。見ていた役人が、
「お見事――」
と思わず感嘆した。
牢奉行|石出帯刀《いわでたてわき》は初めから左内を遇するに士礼をもってしたが、当日はとくに――春嶽公より賜った新しい服と上下を許した。これは伝馬町の牢開設以来の新例である。
やがて設けの席《むしろ》に着くと罪状の読聞せがあって、斬首役人が白刄を抜き、左内の背後へ廻って、
「よろしいか」
と声をかけた。すると左内が突然、
「しばらく待て――」
と制した。
そして、ああ……じつに左内は、双手で面を蔽いながら流泪滂沱《るるいぼうだ》として泣いたのである。
左内は死を悲んで泣いたか? いや! そのとき胸底に衝動して渠を泣かしめたのは国運の暗澹たる前途である。虎狼国の四辺を脅し、皇国の安危との一期にある秋、幕府は暴政を逞しゅうして多くの士人傑人を禁獄し、違勅の不敬を犯して耻じず、人心まさにきわまり、内外の不平一時に爆発せんずありの動乱さまではないか、かかるとき――ささいの寃によって断頭の座につく左内の心事こそ、泣いても泣ききれぬものがあったであろう。
左内は、白刄の下に完爾《かんじ》として辞世を咏《よ》むような豪傑ではない、渠は声を放って泣いたのだ、この一事のみをもってしても渠が凡百の志士勇傑でないことが分る。左内は泣いた、断頭の刄《やいば》を控えしめて泣いたのである。
しばらくして左内は静かに涙を拭い、藩邸のほうに向って一礼した後、
「お待たせ申した、いざ!」
といって首をさしのべる、言下に白刄が閃いて左内の首は打ち落された。――ときに左内は二十六歳であった。
左内の遺骸は千住小塚原|回向院《えこういん》に埋葬し、幕府に憚る意味からその雅号の黎園《れいえん》をとって墓号とした。後、文久三年にその遺骸を福井の善慶寺に改葬したが、小塚原の墓域もなお現存している。
左内についてもっとも敬服すべき点は、渠がはやく蘭学に通じていたため、その思想が同時代の儕輩《さいはい》をはるかに抜いて高く、かつ広かったところにある。安政四年四月、藩校明道館を開くに当っては、それまでの一科一人制を廃し、各科に優秀の教授をおいて総合教育法をとろうとした。なお、これに厳戒を与えて、
「器械芸術は彼より取り、仁義忠孝は我において存す」
といっている。また西洋史に精しかったから、革命の排撃すべきことを力説し、皇国の威烈を恪守すべきことを痛論している。
この短文をもってしては、橋本左内の片鱗をも伝うることも困難であったが、詳しくは左内全集あり景岳会あり、これについてじゅうぶんに御研究あらんことを望んでおく。
底本:「抵抗小説集」実業之日本社
1979(昭和54)年2月10日 初版発行
1979(昭和54)年3月1日 二版発行
底本の親本:「青年太陽」
1935(昭和10)年12月号
初出:「青年太陽」
1935(昭和10)年12月号
※表題は底本では、「橋本左内《はしもとさない》」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ