イタリア王国(イタリアおうこく、イタリア語:Regno d'Italia)は南ヨーロッパの君主制国家。及び三頭連合の事実上の盟主。
イタリア半島、サルデーニャ島、コルシカ島が本土であり、直轄植民地としてリビア、ドデカネス諸島を領有している。また、保護国や自治植民地として、アルバニア王国、モンテネグロ王国、エジプト王国、チュニジア王国、パレスチナ国、東アフリカ、休戦オマーンを保護国とし、中東の独立国家を影響下に置いている。また、フランス領アルジェリアの東部を占領下に置いている。西にフランス国。北にスイス、大ゲルマン帝国。東にクロアチアと国境を接しており、サンマリノとバチカン市国を完全に内包している。

イタリア王国                     
*1
正式名称:    イタリア王国
通称:      イタリア
首都:      ローマ
国家元首:    ウンベルト二世
ドゥーチェ:   ガレアッツォ・チャーノ
与党:      国家ファシスト党
イデオロギー:  ファシズム
経済体制:    コーポラティズム
建国:      1861年


概要


地中海地域の中央、三大陸に跨るイタリア帝国は欧州の主要勢力の一つである。そして、イタリアはイベリア連合およびトルコ共和国との間に結ばれた軍事同盟、三頭連合の事実上の指導者となっている。

大ドイツ帝国に次ぐ経済力、軍事力を持つイタリアは、南ヨーロッパにおける覇権をかつて同盟を結んだ国と争っている。同時にイタリアは政治的には立憲君主制国家であり、エチオピアの皇帝、イタリア、アルバニア、そしてチュニジアの王を務めるウンベルト2世がその冠を戴いている。また一党支配国家でもあり、ファシズムのドゥーチェ、イタリア帝国首相であるガレアッツォ・チャーノがその支配体制を固めている。

プロパガンダ上は、帝国は安定と繁栄の時期にあるようだ。しかし実情はそれとはかけ離れたものである。どうしてこうなってしまったのか?いかにしてイタリアは世界第4位の地位に辿り着き、そして遅れをとり、目指すべき姿からかけ離れてしまったのか?ぜひ説明を読み、謎を解明してほしい……

歴史


ファシズムの勃興


ベニート・ムッソリーニの創設した組織は、ストライキ破りやサンディカリスト叩きたちの緩やかな連合体として始まったが、最終的に国家ファシスト党へとまとまった。共産主義者の扇動に対する恐怖と、ベルサイユ会議でダルマチアを失ったことへの憤りを糧に、PNFは執拗な宣伝と政治的暴力を用いてすぐにその影響力を拡大した。武力による政権奪取の実行に十分な力を得たファシストたちはローマへ行進し、恐れをなしたヴィットーリオ・エマヌエーレ3世国王はすぐにムッソリーニを首相に任命した。

ムッソリーニはそれ以来、権力と栄光という夢のため、国を改造する仕事へ取りかかった。イタリアは、全体主義的で、コーポラティズム的で、軍国主義的な国家となった。「国には全てがある、国以外には何もない、国に仇なすものは何もない」という言葉に、その体制はよく要約されている。そして、エチオピア侵攻と残酷な併合に至る拡張主義が始まった。

遅れた出だし


共産主義と退廃的な自由民主主義の双方に対する共通の戦いを通じ、ファシスト・イタリアとナチス・ドイツはやがてますます緊密となっていった。著名なファシストの反対にも関わらず、ダルマチアに対する歴史的な征服権の主張を実現するため、イタリアは第二次世界大戦に参戦した。

主張とは裏腹に、イタリア軍からすれば、この戦争は初めから上手くいかなかった。装備も統率も不十分な王立イタリア軍は、最初のフランス侵攻で苦戦し、エジプト攻略に行き詰まり、東アフリカではすぐに守勢に立たされた。一方、王立イタリア海軍はイギリス海軍の勢力に数でも質でも圧倒された。この恥ずべき状況を覆すには、何ヵ月もの痛みを伴う教訓と、多くのドイツによる援助が必要だった。最終的に、燃料や弾薬が不足し、何日も爆撃を受けて弱体化したイギリス地中海艦隊は、ついにキプロス近海でイタリア初の改造空母に敗北を喫し、我らが海での戦争は終結することとなった。

勝利


ファシストの鷲がギリシャに降り立った時、勇敢なギリシャ軍はアルバニア国境で激しく抵抗した。だが、イタリア海軍の優位はアテネへの攻撃と直接的な上陸作戦の実施につながり、ギリシャを麻痺させ、最終的に降伏を余儀なくさせた。

要求する全ての土地を占領したイタリアはその後、バルバロッサ作戦に形だけの兵力で参加することとなった。その後、ソ連は崩壊し、イギリスは占領され、日本による真珠湾への原爆投下でついに戦争は終結した。こうして、イタリアは戦勝国として講和会議に参加し、念願の帝国という地位を手に入れた。

枢軸国の終焉


戦前から戦中にかけ、ムッソリーニは多くの人に、ドイツとの同盟を受け入れることへの危険性を忠告されていた。彼はそれを無視し、イタリアが講和会議へ参加できるようにするため、断固としてその意志を貫いた。だが、この態度は講和後、急速に変化することとなった。

枢軸国に生じた最初の亀裂は、ドイツの計画したスイス侵攻作戦だ。ヨーロッパ民主主義最後の砦であるアルプスの小国は、ヒトラーにとって目障りな存在だったのである。ムッソリーニはその時、ドイツがイタリアを包囲し、新たな傀儡国にしようと準備していることを理解した。続くカンピョーネ・ディターリア条約にはイタリアがスイスの独立を正式に保障することが盛り込まれ、イタリアは貴重な緩衝国家を得たが、ライヒは激怒した。

ゆっくりと、しかし確実に、同盟は絶え間ない内紛に陥っていった。ウスタシャ問題、湾岸地域での石油発見へのドイツの怒り、ケニア地域での国境紛争などの様々な要素が原因となり、枢軸国は千切れんばかりに消滅していった。

三頭連合の結成


緊張が高まる中、老齢のムッソリーニはドイツとの戦争の可能性に危機感を募らせており、当時の外務大臣であったガレアッツォ・チャーノに同盟国探しを依頼した。そこで誕生したのが三頭連合である。

当初はイタリアがカフカ―スや黒海でのドイツの拡張主義を懸念するトルコと結成した同盟だったが、1957年にはイベリアにまで拡大した。三頭連合は、相互防衛と南ヨーロッパの共同支配を目的とした軍事・経済同盟である。

50年代前半は、イタリア帝国の黄金時代だった。同盟に守られ、エンリコ・マッテイとENIが休戦オマーンで発見した豊かな油田を燃料としてイタリア経済は成長し、同時に国力も増大した。だが、これは将来噴出する問題の種も蒔いた。豊かさは浪費を生み、浪費は腐敗を生むものだからだ。

新たなドゥーチェの苦悩


1953年、ムッソリーニは静かに息を引き取り、ドゥーチェの座は彼の選んだ後継者であるガレアッツォ・チャーノに引き継がれた。そして、ファシズムの創始者であるカリスマが国を率いなくなったことで、外面の亀裂が目立つようになった。ムッソリーニの過ちに対処しようとせず、むしろそれを過ちと捉えることを完全に拒否するチャーノは、イタリアを経済・政治的不況の悪循環へと陥らせた。

指導者の能力が徐々に信頼を失い始めている国で、チャーノは権力を維持するのに苦労している。次第に抑圧を強めていき、国家という機械を操るためにご機嫌取りやおべっか使いに頼っているのだ。不誠実だったり物議を醸したりする官僚は、植民地やイタリア傀儡国への外交使節として、本土から遠く離れた場所へ送られるのが常だ。だが、忠実な手下で政府を固めようと、問題の解決には限界がある。





政治


各種法律

最終更新:2024年10月22日 22:06