グレートブリテン連合王国(グレートブリテンれんごうおうこく、英語:United Kingdom of Great Britain)はヨーロッパの立憲君主制国家。統一条約におけるドイツの友邦国であり、経済規模でドイツ圏二位を占める。

グレートブリテン連合王国
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別名:      イギリス、連合王国
首都:      ロンドン
国王:      エドワード八世
首相:      バリー・ドンヴィル
与党:      イギリス人民党
イデオロギー:  英国ファシズム
経済体制:    完全市場資本主義
建国:      1944年


概要


グレートブリテン連合王国は、ブリテン諸島に位置する親ドイツの衛星国である。西はアイルランド海を挟んでアイルランド共和国と接し、南はイングランド海峡、東は北海に面しており、ドイツの友邦国として、新秩序の一翼を担っている。

国は、ドイツに支援された協力政権の下で運営されており、国王のにはエドワード8世、首相のバリー・ドンヴィル、そして彼が率いる「イギリス人民党」(BPP)に対し、ドイツは軍事的駐留権と政治的影響力を行使している。

歴史


夢の終わり


1939年9月3日、無法なポーランド侵攻を行ったドイツ第三帝国に対し、連合王国とフランス共和国は宣戦布告を行った。ドイツ軍はフランスの防衛網を迂回するため、低地諸国を経由して侵攻した。ダンケルクの撤退後、イギリスはギリシャ、ジブラルタル、エジプトでさらなる損害に直面した。

アメリカ合衆国が参戦しても連合国の劣勢は変わらなかった。日本が東南アジアを征服し、英領インドがイギリスの支配に対する本格的な反乱の危機に瀕していたからだ。

しかし、英米共同のモロッコ侵攻が大成功を収め、事態は好転し始めた。その結果、連合国は北アフリカに再び力を注ぐようになった。こうして1944年末、連合国にとって決定的な勝利となった軍事作戦、マーケット・ガーデン作戦が開始された。この勝利は連合国にとってどうしても必要なものだったが、長くは続かなかった······

地獄の門が開かれるとき


1945年3月、イギリス本島が大ゲルマン帝国に侵略された。ほとんどの軍隊が北アフリカに集中していたため、ドイツ軍は簡単にガチョウ足行進しながらイギリス全土を制圧した。北アイルランドはさまざまな国籍の兵士からなる連合部隊によって守られた。イギリス人、アメリカ人、ブラジル人、ウルグアイ人、その他多くの人々が北アイルランドの防衛に参加し、戦時中のジャーナリストの中にはこれを『自由国家の大防衛戦』と呼んだ者もいた。

彼らは最善を尽くしたが、連合国はヨーロッパにおけるナチスに対抗する足がかりを失い、次いで戦局は崩壊した。マーケット・ガーデンの成功は、ドイツ軍とイタリア軍がその統合された兵力をフル活用したため、ほぼ即座に覆された。

戦争における連合国軍の最後の希望は失われた。今残っているのは、混乱したイギリス連邦の残党とアメリカだけである。

新秩序の誕生


ロンドン条約が調印されたとき、ヒトラーはイギリスがドイツの指導のもとで「自由国家」の地位を維持することを認めると決定した。終戦直後の指導者としてドイツが選んだ首相は、他ならぬデビッド・ロイド・ジョージ元首相だったが、彼は首相になって1年も経たないうちに亡くなった。

すぐに後を継いだベッドフォード公爵は、イギリス人民党の名目上の政治的独立を確立した。この党は、前党首ジョン・ベケットがユダヤ人であるという名目でドイツに追放された後、ラッセル卿によって再編成された新組織である。イギリス国内のユダヤ人の大多数は、30万人以上が家から連れ去られ、ライヒに追放された。追放されたユダヤ人のその後は誰にも分かっていない。

イギリスの新秩序の鎖に縛られつつあったが、それを断ち切るのに必要なものはそれほど多くはなかった······

56年蜂起


1953年にベッドフォード公爵が引退し、強硬なファシスト、A・K・チェスタートンがダウニング街10番地に就任した後に不穏な平和が続いた。英国体制に真の亀裂が入り始めたのはこの時だった。西ロシア戦争の混乱を、レジスタンスは攻撃の絶好の機会と捉えた。

密かに再入国した元イギリスSAS隊長デイヴィッド・スターリングに率いられたレジスタンスにとって、時間は刻一刻と迫っていた。スターリングはドイツが回復し始めた速さを鑑みて、政府を崩壊させるべく迅速に行動することを追求し、1956年末にチェスタートン政権に対する大規模蜂起を呼びかけた。

残酷な戦闘の中で、何百人もの死者を出した数回にわたる血みどろの市街戦の後、スターリングの試みは、共産主義ゲリラのビル・アレキサンダーの試みと共に失敗に終わった。両者とも捕らえられ、裁判にかけられたが、即処刑されるまでの時間はそれぞれ15分にも満たなかった。

ドンヴィル首相


56年の大虐殺の後、チェスタートン首相は政府を退いた。その3年後、彼は自宅でアルコール中毒の死体となって発見された。後任は彼の信頼する側近であり腹心でもあるバリー・ドンヴィル提督であり、彼は1930年代に様々な親ドイツの圧力団体に名を連ねていた。

ドンヴィル政権の下、イギリス国内の情勢は安定し、経済繁栄の機会がもたらされた。ドイツの大企業の監督の下、イギリスは60年代に戦前以来の成長を遂げた。

しかし、「イギリス」といううわべの下には、暗い現実がある。レジスタンス運動は再びだんだんと高まっており、イギリス人民党は激しく対立する2つの陣営に分裂した。実用主義者とイデオローグである。

政治


 国王 :エドワード8世  首相 :バリー・ドンヴィル 内務大臣:アンドリュー・フォンテイン
外務大臣:ロナルド・ノール=カイン 財務大臣:ラブ・バトラー ライヒ駐英全権大使:エトムント・フェーゼンマイヤー

勢力


古きイングランドの最後


リチャード・オースティン・「ラブ」・バトラーはドンヴィル内閣の中では変わり者である。というのも、彼だけが同僚とは異なる意向を持っているからだ。ドンヴィルやフォンテインらが退廃の灰の中から新しいイギリスの到来を賛美するのに対し、バトラーはイギリスの傷を治療し、平穏を取り戻すことを使命と考えている。

イギリス人民党の「実用主義者」と呼ばれる派閥の中には、バトラーの考える「民主主義」についてそれぞれ異なる解釈を持つ若手政治家たちがいる。新進気鋭の大臣レジナルド・モードリングもその一人で、バトラーの支持者であり、敵より優位に立つためにはドイツ軍と共に手を汚すことも厭わない男だ。

バトラー周辺にいるもう一人の傑物は、ハロルド・ウィルソン大臣である。彼は長らく公務員を務めており、戦時中のベヴァリッジ報告書の共同執筆者でもあった。ウィルソンはイギリス人民党をイギリス国民の福祉と健康に献身する政府に改革しようとしている。

ファシズムの炎


戦争とオズワルド・モズレー卿の処刑は、ドイツの支配者がイギリス諸島に触手を伸ばす中で、イギリスにおけるファシズムの動きを妨げることはできなかった。オリンピックの聖火のように、イギリスに点火された聖火は、アンドリュー・フォンテインの手に届くまで、指導者から指導者へと受け継がれてきた。

フォンテインとその部下たちは、チェスタートンやドンヴィルが今日まで導いてきたよりもはるかに革命的なファシズム国家を目指す「イデオローグ」として知られるイギリス人民党の派閥を率いている。フォンテインは味方にも敵にも圧倒的な強さと団結のオーラを見せるが、密室においてはイデオローグも他と同様に分裂しているのだ。

ジェフリー・ハムジョン・ビーンの新任大臣はファシズムの島をどのように機能させるかについての革命的なアイデアを持っている。そしてその対立はイギリスの炎を完全に消し去ってしまうかもしれない······

イギリス自由軍団


英国親衛隊・警察最高指導者のヴァルター・ポーツェルトが侵攻中に創設した、イギリス国民で構成された反パルチザン部隊である。先に失敗したイギリス自由軍団の実験を参考にしており、その主要構成員は極右の国民と対独協力者による警察で構成されていた。権力がロンドンに移ると、ドイツ警察のイギリス人をどうするかという問題が持ち上がった。

その答えは簡単で、反パルチザン特別部隊に改編したのだ。この頃には部隊は全国的に拡大していた。コリン・ジョーダンの指導力と、エーリヒ・バッハ=ツェレウスキー自身の熱心な支援が合わさり、部隊はますます重要性を増し、組織も充実し始めた。

反パルチザン戦の主要な戦力として、それはますます軍事化され、よく訓練がなされている。ヒトラーを崇拝する凶悪犯罪者の一団がイギリス政府にとっていかに不愉快な存在であっても、その利用は否定できなかった。

レジスタンス


対独協力者に対抗する新たな組織が立ち上がった。エドワード国王やゲルマニアの傀儡政権に支配されることを拒否するたくさんの英国臣民がいたのだ。これがHMMLR(陛下の最も忠実なるレジスタンス)の設立につながった。

アイルランドを通じて自由主義国機構と連絡を取り合いながら、対独協力者政府を弱体化させる努力を続けている。HMMLRには2つの大きな派閥がある。SOEとUFLRだ。

SOEはスパイ活動、偵察、大胆不敵な作戦を行うことを目的とした戦時中の組織である。現在の彼らの使命は、イギリスを解放し、正統な君主を王位に復帰させることである。UFLRは56年蜂起の混乱の後に結成された。彼らの主な目標は、ドイツ企業の支配から労働者階級を解放することである。この組織は戦争で傷ついた社会主義者ジャック・ジョーンズが率いる左派組織の連合体によって率いられている。

亡命者


イギリスの撤退は絶望的な混乱に特徴づけられた出来事だった。今日、イギリスにいる人々は撤退する者と残る者を分けた「リスト」について語る。その「リスト」の中には、後に首相となるハーバート・モリソンハロルド・マクミランを含む、ウィンストン・チャーチルの戦時内閣のほとんどが含まれていた。

また、現在の野党党首マイケル・フットなど、ビーバーブルック卿の傘下に入る幸運に恵まれた人々も多くリストに含まれていた。オタワの亡命者たちは過去17年間彷徨い続け、愛する祖国に再び足を踏み入れることができないかもしれないという停滞が政府の多くに浸透している。

女王と祖国のためであれ、国民の声のためであれ、マクミランとフットという現在の党首たちは、それぞれの仲間内で神話に近い地位にまで上り詰めた。亡命者の指導者たち以上に安心できる保護者はいないだろう。まだ希望は残されている······

国民精神


ドイツ国防軍の軍靴が初めてイギリスの海岸を横断し始めたときから、何があっても彼らの努力を助ける一群の協力者が必要であることは知られていた。ライヒが押し付けた新たな秩序を維持するためなら、どんなことでもする熱狂的で忠実な集団だ。そうして、それは実現された。グレートブリテンにおける保安警察及び親衛隊保安局の指揮官であるヴァルター・ポーツェルトの監視の下、イギリス自由軍団は改革された。

最も狂信的で献身的な協力者たち、それもヒトラーを預言者のように崇拝する者たちによって構成された彼らは、親衛隊の警察活動を助けることになった。占領下で最も恐ろしい残虐行為のいくつかは自由軍団が起こしたものであり、今日に至るまで、彼らの徽章を見ると恐怖で尻込みしてしまう人がほとんどである。

ドイツ軍からの忠誠と政府への有用性の保証にもかかわらず、自由軍団とその指導者、トーマス・ハラー=クーパーは、しばしば距離を置かれている。結局のところ、自国民よりもヒトラーに忠誠を誓う者たちを本当に信用できるのだろうか?
イギリス自由軍団
ヴィクトリア朝時代以来、イギリスは常に革新の火花を散らしてきた。産業革命をいち早く取り入れた国のひとつであるイギリスは、かつてヨーロッパの技術進歩と進歩の中心地であり、反射望遠鏡や水圧機などの発明は、この島で初めて生み出された。

しかし、第二次世界大戦の大敗により、イギリス諸島は、ドイツ企業が好き勝手に大暴れする遊び場に成り下がった。フォルクスワーゲンAGから国家工場に至るまで、彼らはイギリス市場を支配し、イギリス企業を保護するために政府が規制できないため、平然と行動している。企業は事実上、イギリス経済そのものを支配し、所有し、一般的なイギリス人労働者は彼らの言いなりになっている。
ドイツ企業の優位性
アシカ作戦の記憶は、老若男女を問わず、イギリス人の心の中に今も息づいている。それには、十分な理由がある。ナチス・ドイツは、近代史上初めてイギリス本土の征服に成功した国だった。敵兵がドーバー海峡を渡り、我々を打ち負かすことに成功したのは、ウィリアム征服王の時代、つまりは建国時以来である。にも関わらず、我が国の空軍は撃ち落とされ、高名な海軍は沈められ、多数の陸上部隊も進撃するドイツ軍のロンドン占領を阻止することはできなかった。侵略の惨禍を生き延びた政治体制においても、アシカ作戦は永遠に国民の精神に刻まれており、イギリスは決して外国勢力に服従することはないという伝説を永遠に破壊したままである。
海峡を越えて
その誕生以来、新政府は終わりの見えない抵抗運動の猛攻にさらされてきた。しかし、この動きの中で「恐ろしき双子」ほど恐れられ、よく知られたやり手はいない。統一左翼抵抗運動の指導者、ジャック・ジョーンズと、特殊作戦実行部隊の指導者、フィッツロイ・マクリーンは、どこにでもいるイギリスの抵抗運動集団の二大巨頭である。協力者の軍と秘密警察は、何度も何度も必死になってこの暴力革命主義者たちを追い詰めようとしたが、国中が彼らの名前と顔を知っているにもかかわらず、彼らはいつもどうにか我々の手から逃れようとしている。

彼らの作戦は政府に大きな負担をかけている。支持を集め、作戦を混乱させる彼らの能力は、宿主の血を吸うヒルのようなものだ。それでもなお、双子の上に立つ第三の人物の噂は絶えない。双子の活動を調整し、再び蜂起を起こそうとしている人物がいるというのだ。これらの噂の真偽はともかく、エドワード国王の公の印象が悪化し、政府内の信頼が失墜するにつれ、事態はますます段階的拡大していくだろう。公然たる紛争が現実のものとなるのは時間の問題のようだ……!
恐ろしき双子

各種法律


1911年議会法(廃止)


イギリス史上最も重要な法律のひとつである1911年議会法は、1909年に自由党政府の「人民予算」が貴族院で否決されたことを受けて導入された。1910年に行われた2回の総選挙で可決されたこの法律は、貴族院に対する庶民院の優位を確立し、政府の立法を阻止する貴族たちの力を事実上排除した。

ヨーロッパの覇者の手によって帝国が崩壊した後、イギリス人民党はこの法律を廃止し、選挙で選ばれたわけでもない貴族階級が政府の政策に対する『生得権』を再び支配できるようにし、ウェストミンスターの勢力均衡を取り返しのつかないほどに再編成することとなった。

ファシストの思想家と日和見主義的な協力者の新時代において、庶民院の『民意』は、新たに復活した貴族院の影響力によって、どのような障壁に直面することになるのだろうか。

交戦権の放棄


強国はいかに凋落したか。第二次世界大戦の敗北と帝国の崩壊という2つの屈辱によって、ブリタニアがもはや波を支配していないことは明らかだ。ブリタニアの征服の日々は完全に終わりを告げたのだ。大西洋の反対側に位置する2つの超大国に挟まれた今、ブリタニアが戦場に立つのは自衛のため、あるいは同盟国を助けるためだけであることが一方的に合意されている。

イギリス人民党規約


ドイツによるイギリス解放後に設立されたイギリス人民党は、イギリスで活動を許された唯一の合法政党である。党規約は、利殖、投機、そしてその同類がもたらす脅威からイギリス国民を適切に保護するために、国家を慈悲深い組織へと変貌させ、イギリス国民の福祉と生存権の両方の唯一の管理者として機能させる。実際には、これは政敵を自由に罰したり殺したりする能力と並んで、政府に独裁的な権力を与えるものである。

土地と資産の投機制限


イギリス人民党の教義では、国家の公益に反して自己の富のために土地を買い占めることは、道徳に反する重大な犯罪のひとつであり、世界金融の犯罪の中でも最も広範なものと見なされている。この惨めな花が全国に咲き乱れるのを防いできたのは、国家の意志に他ならない。土地投機が違法化されたことで、住宅所有者は合法的に複数の不動産を所有することができなくなった。ただし、他の住居に最大4カ月居住していることが証明された場合はこの限りではない。これによって、土地を所有するだけでは誰も太ることができず、利己的になることができないのだ。

公務員部分化


人民党政権の初期には、公務員は全員人民党員でなければならないという決まりがあった。新党の権力を強固なものにするための単純な官僚的策略として始まったが、すぐに政権の最大の財産のひとつに成長した。利害の妥協、選挙の後援、官僚が頼まれれば何でも忠実に従うという知識は、多くの政権が危機を切り抜けるのに役立ってきたし、何かを変えない限り、間違いなくそうし続けるだろう。

強制送還の完了


ライヒの臣民が主人とともに『劣等人種』とみなされる人々を服従させ、国外に追放しなければならないことはよく知られているが、イギリスも例外ではない。数次にわたる省庁の監視の下、イギリス諸島は現在、ドイツ人が不浄とみなすものからほとんど(完全にではないにせよ)解放され、残っている、あるいはまだ逃れていない貴重な数人は、社会の片隅で、政府が仕事を終わらせるために戻ってこないことを祈りながら、生活の糧を得るという、恐ろしい生活を送っている。

苛酷な私的独占法


世界的な暴利と金融は、しばしば巨大な複合企業や会社に安住の地を見出す。煌びやかな塔状の建造物や煙の充満した部屋では、退廃の巣を張る巨大なクモが陰謀を企てている。そのため政府は、イギリスでそのような独占が形成されるのを防ぐための措置を講じてきた。東西を問わず、道徳的に破綻した企業や会社に適用される一連の厳しい独占禁止法によって、彼らがここで胆汁をまき散らすのを防ぎ、その一方で、彼らの代わりに条約の友人たちからの投資や協力を促しているのだ。

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最終更新:2024年10月22日 16:46