トルコ共和国(トルコきょうわこく、英語:Republic of Turkey)はヨーロッパとアジアにまたがる共和制国家、三頭連合の原加盟国。
トルコ共和国 |
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通称: トルコ |
首都: アンカラ |
大統領: イスメト・イノニュ |
首相: カシム・ギュレク |
与党: 共和人民党 |
イデオロギー: ケマル主義 |
経済体制: 完全市場資本主義 |
建国: 1923年 |
概要
トルコ共和国はかつての大帝国の残骸から生まれた、ケマル主義の申し子である。
ムスタファ・ケマル・アタテュルクの近代化は、瀕死の病人を再び国際社会へと浮上させ、後を継いだ
イスメト・イノニュとレジャップ・ペケルは世界大戦にて勝ち馬に乗り、広大な旧領を征服したことで、今や再び中東地域の大国として君臨している。
だが実情はどうだろうか。共和国の内情はその繁栄に反してボロボロだ。征服した領土は安定しているとはいいがたく、政治ではペケル政権の独裁的な政策の反動が一気に押し寄せ、与党の
共和人民党には疑惑の目が向けられている。
外に目を向ければ中東地域の新たな秩序は、同盟国たる
イタリアとの無視できない軋轢を産みつつある。内憂外患の共和国はなんとしてでも勢力争いに勝とうとするが、事態は都合良く進むとは限らない。
かつての瀕死の病人は新たなる病気に悩まされている。
歴史
アタテュルクの後継者たち
トルコ最大の英雄であるアタテュルクが亡くなった際、国には3人の後継者がいた。有力視されていたのはアタテュルクの右腕であったイスメト・イノニュだが、不和が原因で首相を辞任するに至った。第二の候補者は、CHP内部における
自由主義の顔である
ジェラル・バヤルである。そしてダークホースが、ジャコパン的な前衛主義共和国の提唱者である
レジェップ・ペケルだった。
1937年に辞任した際、イノニュはペケルを後任の首相に推薦し、アタテュルクは提案を受け入れた。ペケルは異論を取り締まり、急進的な社会改革に着手し、党の二極化を引き起こして国家を根底から揺るがした。アタテュルクは死の前、イノニュに状況を安定させるよう頼んだ。
だが、すでに遅すぎた。大統領に就任し、イノニュはペケルの要求を受け入れることになった。イノニュは、ケマル主義大評議会やケマル主義青年運動などの改革と並んでバヤル率いる自由派の破壊を支持し、実行した。
また一つの戦争
党内の粛清によって国家権力が盤石となった側で、
大国たちは世界を掌握しようとしていた。イノニュとペケルの二人は戦争に反対したが、中立は長く続かなかった。偏執狂的な大国がトルコによる漁夫の利を恐れていたため、捨てざるを得なかったのだ。
1942年、トルコは枢軸国側に立って参戦し、反植民地主義を口実にイギリス領シリアを攻撃した。この戦いは決定的な勝利に終わり、
シリア国民国が樹立されるまでの2年間、シリアは占領下に置かれた。さらにはドイツからの圧力を受けて東部戦線にも進出し、ソ連に大打撃を与えた。
戦争終結後、トルコは西トラキア、バトゥミを手に入れ、アルメニアに姉妹共和国を樹立した。コーカサスに住むトルコ系人種の兄弟たちがナチス支配の奴隷となったことを鑑みても、喜ばしい結果である。1946年、旧秩序は根底から覆り、新たな秩序が生まれ、ペケルはトルコの支配者の座についた。
ジャコバンの共和国
戦後、ペケルは近代化、工業化、世俗化、という急進的な課題に着手した。大規模な土地改革により彼は地主の敵となったが、土地を持たぬ農民にとっては英雄となった。征服された地域のトルコ化は優先事項とされ、総監府が拡大された。
ドイツのヨーロッパ支配に嫌気がさしたイタリアとは、
イベリアと並んで
三頭連合を結成した。コーポラティズム的統制による経済成長は順調だったが、ライシテ(政教分離)政策、国家主義、民主主義の否定に不満を持つ人々の間で反対運動が広まった。
健康上の理由からペケルは1950年に首相を辞し、その右腕であった
ファリフ・リフキ・アタイが後任に就いた。アタイはペケルの政策を継続したが、イノニュが暗黙のうちに育てていたCHP中道派の反発が強まった。ドイツ経済が崩壊する中、穏健派はアタイを追放し、イノニュの党内における新支配を確固たるものとした。
果たされぬ約束
支配権を握ったイノニュは、著名な経済学者で自らの政策の体現者であった
ハサン・サカを首相に任命し、穏健派の筆頭であった
ニハト・エリムの機嫌を損ねた。CHPの急進派を服従させたイノニュは、改革か革命によってトルコには必ず民主主義がもたらされると考え、民主化に着手した。
テフフィク・リュストゥ・アラスや
フアト・キョブリュリュとともに、イノニュは民主的反対派を左派と右派に分けた。そして1958年、初の複数政党による選挙が実施される。ケマル主義者の官僚による投票集計の結果、CHPが70.2%の得票率で首位、次いでUDPが2位、DYPが3位となった。
イラクとの戦争の後、アタテュルクの養女である
サビハ・ギョクチェン率いる第六総監府が設立された。国内では、サカが健康上の問題とCHP内での権力喪失を理由に引退し、同じく正統派の代表である
ターシン・パングオールが後を継いだ。
民主主義の春
1961年末、この派閥はDYPやUDPと協力して「1962年民主化法」を可決した。これは、CHPの一党支配を選挙から排除することを提案したものであり、僅差で大国民議会を通過した。しかし、急進派には異なる計画があった。
大評議会はアタイ議長の鞭打ちにより、迷うことなくこの法案へ拒否権を発動した。民主化は頓挫し、イノニュの沈黙は国民の目に共犯行為として映り、大規模な抗議活動が発生した。パングオールは失敗を恥じて辞任し、国民は新首相を待望している。
政治
移りゆく時代
イノニュの党
トルコ政界の中心を占めるのは、長い歴史を持つ
共和人民党「CHP」である。アタテュルクその人によって創設されたこのは、建国以来トルコを統治してきた。「6本の矢」とも呼ばれる共和主義、国粋主義、大衆主義、世俗主義、改革主義、人種主義の6原則に基づいて運営されている。
今日、党を率いるのはイスメト・イノニュだ。怒りに満ちた神である 彼の独裁的な統治は、トルコ人から愛ではなく恐怖と尊敬をもって受け取られている。また、ニハト・エリムや
ケマル・サディアと並ぶ正統派の指導者でもある。その支配は、カシム・ギュレク、ビュレント・エジェヴィト、トゥルハン・フェイジオール率いる改革派の反対を受けている。
正統派はCHPの一党支配を維持するよう望むが、改革派は民主化の必要性を主張する。正統派は1961年の民主化法案の失敗で勝利を収めたかもしれないが、改革派の台頭は避けられないと多くの人々が感じている。
左の者たち
ペケル政権はトルコを重工業化した。結果、都市化が進み、労働運動が活発化し、組合化した左翼の基盤がトルコに根付き始めた。同様に、ペケル主義の教育政策は、党の背後に結集する強大な青年運動を生み出した。
労働者の権利拡大を約束して労働組合との取引に成功した後、多くの組合員がDYPに加入した。その後の党大会ではアリジャンを差し置いてアイバーが党書記に選出され、社会主義派の支配力が強化されて当面の間党を支配することになった。
右の者たち
右では、
国民民主党(UDP)が頭角を現している。追放されたリベラルなCHP党員によって創設された前身政党は常に政府の監視下に置かれていたため、党上層部に不利益をもたらした。結果、党はより主流の保守主義を推進するようになった。
フアト・キョプリュリュ率いるこの党は、かつてペケルにより禁止された。バヤルによる不可解な殺人もあり、多くの党員が民主主義の殉教者となった。同じころ、
アドナン・メンデレスがキョブリュリュを凌ぐ人気を得るようになり、党の顔となった。
今、党は2つの派閥から成る。ひとつはジェラル・バヤルの伝統に由来する守旧民主派だ。彼の思想は今や力を失い、派は教養ある自由保守主義者で構成されるようになっている。もうひとつは、離散した地主や農村住民、実業家から成る大衆主義の青年民主派だ。皆、共にメンデレスへ信頼を寄せている。
国民精神
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政治力獲得:-10% 戦争協力度:-25.00% 計画立案速度:+10.0% 日毎の迎合度獲得:-0.02% 政党法政策の月毎の変動率:-0.50 投票権政策の月毎の変動率:-0.50 |
トルコのドゥーチェとなったレジェブ・ペケルは、党に長い影を落とした。党そのものが、死後に真の遺産となったのだ。現在のCHPは、進歩的傾向を持っていながら、権威主義的で反民主的だという評判に悩まされている。
この珍しい混合物は、トルコ国民からほとんど愛されていない。時代遅れの正統派だと見なされているのだ。歴史上の存在になる運命からCHPを救いたければ、この逸脱した系統を排除せねばならない。 |
過去の汚れ |
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日毎の政治力獲得:-0.10 安定度:+2.50% |
党の伝達機関は「新たな共和人民党」という言葉に燃え上がっているが、トルコ国民はこれが具体的に何を意味するのか知らない。より触れやすく説明責任を果たす政党を求める声や、国民とのつながりの約束に興味をそそられてはいるが、それが何を意味するのか、さらなる疑問を招く一方である。
ギュレクとCHPが勝利を継続するためには、この「新たな共和人民党」を取り巻く不安の雲から有権者を解放しなければならない。 |
新たな共和人民党 - 不定 |
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安定度:+5.00% 生産効率上限:+10.00% GDP成長率:+0.25% |
戦争が起き、勝利した。トルコでは今、需要が大きく高まり、貿易がかつてないほど活気に満ちているようだ。国は新たな機会を求め、貪欲に成長している。装備の整った軍人が支配せねばならない新たな領土が手に入り、軍需産業は歓喜の声を上げている。
今は黄金時代だが、良いことも永遠には続かない。星が天から落ち始めた場合に備えて、準備しておくのが賢明かもしれない······ |
戦利品 |
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安定度:+2.50% 月毎のケマル主義のイデオロギー変化:+0.01% 月毎のCHP支持率の変化:+0.02% |
CHPがケマル主義の理想を掲げようと努力したにもかかわらず、共和国建国には、最初期からアタテュルクの近代化・世俗化革命に反対する批判者がいた。そのため国民の大多数とは言わないまでも、かなりの人々が、敵意を持つわけではないにしてもケマル主義に無関心である。社会主義者や自由主義者の知識人と並んで、国民の大部分は伝統主義的な価値観に固執している。さらに悪いことに、国民の一部はトルコ人としての帰属意識を受け入れようとせず、愚かな地域主義や分離主義運動を引き起こしている。
共和国の責任者が誰であれ、自分たちの行動のひとつひとつがトルコ国民に影響を及ぼし、反映されるものであること、そして自分たちの政権の寿命と安全を確保するために慎重に行動しなければならないことをよく理解している。 |
政治環境 |
各種法律
1924年憲法 - ペケル改正憲法
ペケル首相による憲法改正は、国家を取り返しがつかないほど変えてしまった。アタテュルクの民主化への夢は捨て去られ、トルコのドゥーチェと呼ばれる人物は議会と国家に対してほとんど無制限の権力を持つようになり、反動派や分離勢力との戦いのため、非自由主義的で急進的な政策を実施していった。憲法に対する不満は高まっており、最も急進的なケマル主義者でさえ、何かを変えねばならないと考えている。
ケマル主義大評議会
自らの「革命」を守るため、レジェプ・ペケル首相は、トルコ大国民議会の上院としてケマル主義大評議会を設立した。ケマル主義の価値観を信奉し、議会が何を提案しようとその価値観が守られるようにするために設立された評議会は、イタリアに倣って設立され、ペケル首相らから効率性を称賛された。議員は首相により提案され、大統領により承認される。選出されれば終身議員となり、法的免除を受け、法案の提出および拒否権行使が可能となる。しかしこれは、トルコ政界の風向きが変わり、民主化が大評議会によって保留される中で論争となっている。
総監府
トルコは広大な国だ。モースルの砂漠からアララト山の頂上まで、自治権を得ようとする集団、さらには偉大なる共和国から分離独立しようとする集団が数多く存在する。アンカラもすべての地域を直接支配することはできず、分離主義者たちに十分な機会を与えてしまっている。この問題を解決するため、アタテュルクによって総監府が1927年に設置された。大統領に対してのみ責任を負う総監府は、領域を制約なしに統治することができ、住民の教育およびトルコ化、地域経済の活性化、テロリストからの防衛のためにトルコ国家が用いる道具として機能している。これらの総監府は、トルコが正当な国境を達成していくにつれて拡大されていった。第五総監府と
第六総監府が最も若く、それぞれ旧シリア北部とモースル・キルクークを統治している。
ヴァルナ条約
ボスポラス海峡は黒海と地中海を結ぶ門であり、地政学上重要な役割を担っている。トルコが独立戦争に勝利したとき、ボスポラス海峡の地位を決定する条約が締結されることが宣言された。モントルー条約である。しかし、トルコは1942年までに全批准国の船舶に対して海峡を封鎖したため、条約は事実上無効となった。
ドイツと
イタリアの圧力を受けて
ブルガリアの都市ヴァルナで新たな条約が締結され、海峡は平時においては枢軸国の全船舶(軍民問わず)に解放され、戦時にはトルコが船舶の通航に関する決定権を持つことになった。独伊間での緊張が高まっている今、この条約はトルコに対する外国の影響力を思い出させ、行動の必要性を示している。
ケマル青年運動
かつてのレジェップ・ペケル首相によって創設されたケマル青年運動は、大評議会がケマル主義革命を上から守るように、革命を下から守る誇り高きトルコの若者たちの組織である。知識階級からも労働者階級からも集められた若者たちは、街頭での愛国的行動を通じてアタテュルクの遺産の敵と戦うことを志願し、6本の矢を高く掲げて反動主義者の心臓に突き刺す。その禁断の熱狂は、敵にも我々にも畏敬の念を抱かせる。
GUI
輝く三日月
暮れる太陽
トルコ共和国は、他の多くの社会国家と同様に、国民に安全で豊かな生活を与え、暴力革命主義や紛争などの要素から国民を守ると同時に、地域の経済状況を発展・改善させる義務を負っている。オスマントルコのスルタンの支配の下、多くの人々が取り残され、星と三日月の旗の下に国民を団結させることが我々に残されている。
我々の任務と野望を達成するためには、危険な海域を横断しなければならない。地域の意識と不満の問題を慎重に扱い、地域の安定、従順、満足を保つために政府の行動を利用しなければならない。
暴力革命主義者との戦いに労力を費やす一方で、地元の人々や経済のことも忘れてはならない。ある地域を再び我が国の一部に完全に統合するためには、さまざまな地域政策によって開発の障壁を上げ、完成させなければならない。監府は独自の課題を提示し、それに対処するための広範な地域的権限を持っており、我々に新たな機会を生み出す一方で、多量の不満を生み出している。
姉妹共和国
関連項目
最終更新:2024年10月15日 23:35