寺沢数正(てらさわかずまさ、1925年7月-1992年12月)は、日本の
運輸官僚、政治家。
来歴
生い立ち
1925年7月、
高知県立土佐高等学校在学中に、
徴兵を受けて
呉海兵団に召集。外地出兵こそなかったが、空襲された都市の復興などに駆り出された。1945年8月の終戦後、10月に帰郷して高校に復帰。特例により、1946年4月に
大阪大学へ進学。
運輸官僚
政界進出
衆議院大蔵委員会理事の地位にあった父
寺沢昭文が、1960年2月に急性心筋梗塞で急逝。
保守党本部と父の後援会は、
高知全県区の公認候補として数正の立候補を要請。当初断っていたが、後援会会員だった高校時代の恩師から熱心に誘いを受けたことで政治の道を進むことを決心。1961年10月に
運輸省を退官。12月、父と共通の師を持つ
大松四郎(
選対本部長)のすすめで、党の選対本部職員となる。大松は、我が子のように選挙対策の世話をしてくれたため、
第21回衆議院総選挙(1966年4月24日)で初当選。当選直後から、父が所属していた
政風会に加入。
国対族の政治家
第2次
瀬川内閣では青年局理事、改造内閣で青年局長に就任した。
1966年9月、変わる山口内閣で政策勉強として所属していた運輸建設部会で空港港湾小委員長、衆院本部理事に就任。1966年11月に小田信折運輸副大臣の交代など一連の流れによって、運輸建設部会座長に就任(兼任)。1967年2月、運輸官僚として大先輩だった(入省当時の鉄道総局長官臨時代理)伊藤書記官長が派閥を立ち上げると日成会に参加する。1967年5月の田村改造内閣で国対副委員長に就任。1967年8月に3選目を果たし、衆院会派の議事進行係、党高知県幹事長(1970年9月まで)に就任。
中枢へ 1969年12月の師走決戦で4選目を果たす。日成会では、日本における安全保障の確立には教育こそ必要であるとして文教分野に傾倒。当選同期の徳永絵里文相、福添蔭上文教部会長とともに、派内調整の目的から文教副部会長に就任(伊藤首相からは喫緊での入閣を依頼されていた)。1970年9月の総裁選でも、派閥の合意形成に基づき伊藤万次郎に投票。第2次伊藤改造内閣で文部大臣として初入閣。わずか4か月で内閣が再び改造されたため懸案の義務教育法改正が果たせず閣僚ポストから離れる。同年12月の再改造内閣では党の文教部会座長に復任。予算成立後の翌年4月、再々改造内閣で環境大臣として入閣を果たす。背景としては、自動車環境租税法の成立を目指した内閣の方針があった。さらに、軍事関連三法成立を目指して基幹産業界に近い人間が閣内に入った。
党幹部として 1972年12月、伊原内閣で衆院に就任。
最終更新:2025年08月12日 16:28