来歴
生い立ち
警察官僚時代
1931年より、
商工省へ出向。
貿易局輸入規制課長補佐を経て、翌々年から課長に就任。同課長職は、長らく警察官僚の出向組が務めており、人材交流の中核的な役割を担ってきた。1935年には、
平城会議の開始に際して、日本政府提出案の策定に携わる。しかしその決裂を見ると、翌1936年1月1日付で発布されることになった
自主軍事宣言の草案起草にも参加した。特に、経済的侵略の条項を担当し、
東亜共栄圏を中心とした計画経済の確立を起案した。後に、
企画院設立などを決定する
戦時行政特別法の草案にあたる文言の策定を行い、警察機能を一元的に管理する警察統制の制定などを想定した。1937年1月より、
商工省貿易局総務課長に就任。
帰任
1938年10月、
内務庁へ復帰。
東日本管区警察局広域調整部次長に着任し、国際的な犯罪捜査に関する条項の策定などを担当した。1939年1月の開戦に伴って、
内務庁警視局防犯課長として初めて本庁勤務となる。本庁に戻ってきたのは、かつて、自身が商工省で担当した
戦時行政特別法の立法に参加するためであった。1940年4月、
太田立志が
警視庁刑事局長に就任すると、遠山も現場配属となって警視庁刑事局参事官・組織犯罪対策部長へ就任。1942年から、
福岡県警察本部保安局参事官・輸出入規制管理担当。この人事異動は、
企画院設立の草案を描きながら、その組織統制が自らの考えるものではなかったため、
企画院統制に反対する人物への左遷人事的意味合いが強かった。1945年1月より
熊本中央警察署署長へ就任。同年8月の終戦後、10月に新組織の
警察庁が発足。
警察庁次長に就任した
太田立志の推薦を受けて、警察庁組織局参事官(管区連携統括担当)・監察局監察官へ就任。1946年に
闇米市場に警察高官が関与して不正な金銭授受を行っていたことが発覚した
茅岡事件の調査本部に入ると、本部長代行として
警察庁高官らの関連容疑者を捜査することになる。1947年4月、事件に連座した一連の人事異動によって、
兵庫県警察本部本部長に就任。1950年5月に警察官僚としての満了を決めて、退官。退官後は、
兵庫県庁の顧問として従事することになる。
政界進出
1951年の初頭から、
民主党の
小原真郎を通じて、何度か政界進出への打診を受けていた。当時年齢にして53歳であり、これまで政治経験を持たなかったため当初は固辞する予定であったが、長らく上長であった
太田立志から、
民主党の
浅岡夢二など大物政治家との縁をつなぐように言われていたことなどが起因して、政界進出の決断を果たすことになる。自らの居住していた
兵庫1区には、3期連続当選中の
釜生唯昭(
大衆社会党)の影響が大きかったため、保守系の議員を求める地元の意向と相まって、次期
衆議院総選挙に
民主党からの出馬を予定していた。しかしながら、自らを政治の世界に引き込もうとしていた
小原真郎が突如、
民主党から
共和党へ移籍。それに伴って、一時期立候補の話は流れていたが、当時の
和光修次総裁代理から「直接会おうよ」と話をもらい、東京で会食。その場で100万円を渡されて出馬が決まった。1952年5月、
第16回衆議院総選挙で
兵庫1区から初出馬。戦況は五分五分とされていたが、
共和党の執行部から応援をもらい、トップで初当選を飾る。当選後、自身を政治の世界に引き込んだと思っている
小原真郎から誘いを受けて旧
民主党系の党内派閥である
構造研に参加。政治に関する基礎的な素養は、この派閥を通して学ぶことになる。1954年から、小原が派閥の政策立案力を強化して、数で劣る他派閥との差を埋めようと画策。その一つとして、警察中枢に顔が広い遠山が
構造研会長代行に就任する。
反旗
1954年の
第6回共和党党大会では、総裁の選任が主要な議題としてとり扱われた。この総裁選任は、共和党内の派閥権力がどのように分散するかという問題であった。
二期会系の議員が、総裁代行を務めていた
和光修次の再選任を望む中、着実に派閥の勢力を伸ばしてきた
鶴田正弘の
保守研系の議員は親分の当選を目指していた。党大会の前月に、遠山は、和光と秘かに会食してその胸中を伺っていた。和光は、「神輿にはもう乗りたくない」とその心境を吐露し最終的な決定を遠山に迫ることとなった。遠山は、党大会前に両派閥の幹部連中と密談を重ねる中、
鶴田正弘本人から支援を依頼されることになる。結局は、
杉浦静と懇意にしていた
構造研の
若田恵三が話を取り纏めたため鶴田総裁を実現することになる。その一方、旧
民主党系の議員を集めて共和党の乗っ取りを最終目的とする
小原真郎には、まったく面白みのない結果を引き起こすことになる。この時期から、
構造研の内部では、小原を支持する根っからの
民主党勢力と遠山を支持する若手・政策人の勢力が分裂を始めることになる。この後、鶴田総裁の下、
職域団体局長として初めての党内役職を持つこととなる。
1955年5月15日の
第17回衆議院総選挙で、2選目を果たす。この選挙では、共和党が大勝して過半数を獲得、以降15年間も継続される共和党政権の始まりを告げた。当選後、組閣本部を担当していた
杉浦静から、「
幹事長代行と
外務大臣のどちらがよろしいですか」と電話を受け、「忙しいほうでお願いします」と返答。その数分後、再び電話がかかり、
鶴田正弘本人から
外務大臣を打診されることになる。外相時代の特に大きな功績は、首相が希求していた有利な形での
国際警察協力機構加盟であった。日本は、
警察庁に国際捜査局を設置して以降、アジアを中心とした国際的な刑事捜査への協力を担ってきた一方、
国際身柄引渡し条約批准の遅れなどから国際的な刑事政策の見直しが求められてきた。遠山は、
国際犯罪人取締法をまとめて、国際基準の捜査体制の確立を明示。1956年1月に
国際警察協力機構への加盟を実現する。また、初めての外遊先に、慣例通りの
中華民国ではなく、
アメリカからの独立で国内情勢が不安定だった
フィリピン連合王国を指名。日本ではこれまで開かれなかった、対東南アジア外交への道を開いた。安定外交による対米政策を牽引し、後に
遠山内閣で調印することとなる
日米豪太平洋パートナーシップ協約の基礎を構築した。1957年6月の
第18回衆議院総選挙で3選。この総選挙では、派閥ごとの立候補者が選挙区に割り振られたが、鶴田総裁の口利きもあって後に
玄徳会として独立する
構造研遠山派が、小原派の候補者を超える数割り当てられることになる。
共和党総裁時代
第18回衆議院総選挙(1957年6月9日)後、
共和党は早期の新総裁選任を発表した。
鶴田内閣で
外務大臣として国際政策の経験があるのみで、政治家としての職責を果たせるか不安が残ったものの、派閥をまとめていた実績から多くの仲間を集めることになる。
保守研と構造研遠山昇派が、支持を表明。遠山は、首班指名を前に「各派閥から3名を入閣」「内閣の人事権は総理に委ねる」「外交及び国際経済は首相が管轄する」「
内閣官房長官には内政の全権を預ける」の4件を
鶴田正弘の後見を受けて認めさせた。
外交指針
内閣の基本方針として、対英、対米の協調路線を推進。「アジアの盟主たる日本」を掲げた遠山外交は、東南アジアを中心とした各国への経済支援を前面に押し出した。
1958年10月、日米中3ヵ国を中心とした太平洋広域安全保障を構築するために
環太平洋総合安全保障条約に調印。1959年5月、
日米豪太平洋パートナーシップ協約を締結する。
新幹線計画
1960年の開通が計画されていた
東海道新幹線計画の根拠法である
新幹線法改正が争点となった。東京-京都間の新幹線計画を神戸まで延伸させる案を鶴の一声で決定させた。「新幹線法」の改正に際して、建設族や文教族を中心に5000億円もの選挙資金を調達した。
前任の
鶴田内閣では、産業界や労働界の後押しを受けて「空の憲法」と呼ばれる「
航空法」が成立。航空法成立の裏では、
望月真備(
社会党幹事長)との政治交渉として、民間人の海外渡航制限緩和が約束されていた。制限緩和に際して、
自由党内では、
国際空港開発法素案で連日連夜の議論が続いていた。この法案は、政界の大長老として生き続けたい
鶴田正弘の思惑があった。「鶴田内閣の延長戦」として国民から非難の上がった遠山内閣は、1959年の年内に
衆議院解散へ踏み切ることを決定。最終決定者は、
政府与党連絡会議に招かれていた、
鶴田正弘元総理であった。
不遇な退陣
第19回衆議院総選挙(1959年7月12日)で、
兵庫1区から4選目を果たす。総理退任の数日後、構造研遠山昇派に属する若手議員らが同調して、新派閥の
玄徳会を設立。同派閥の会長に就任する。派閥会長の就任は、自身を総理の座から引き釣り下ろした鶴田正弘に対する恨みからであった。鶴田は、遠山の後継総理に
杉浦静を指名した。
第5回参議院通常選挙(1960年6月12日)の後、
杉浦内閣(改造)の再組閣の際に、
鶴田正弘が組閣協力を辞退する。これを契機として、自身に敵対意識を向けていた
小原真郎(
構造研会長)が、
大蔵大臣として再入閣することになる。自身は、再び閣内から離れることになる。
1966年3月に、政敵の
鶴田正弘が急逝。鶴田の「共和党葬」を主張したのは、以外にも遠山本人であった。鶴田が去った後、党長老として影響力を持ち、政界を引退する1984年までその影響力を保持し続けた。1986年に
聖路加病院で逝去する。
経歴
選挙歴
最終更新:2025年07月17日 23:10