遠山昇

遠山昇(とおやまのぼる、1898年4月-1986年4月)は、第36代内閣総理大臣外務大臣(鶴田内閣)。

来歴

生い立ち

1898年4月、京都府京都市出身。父親の遠山賢生は、京都府庁に勤務する地方官吏で、京都府知事室長や府電気鉄道部長などを歴任した。母は、京都女子家政学院講師のであり、裏千家師範の茶道家。
旧制宇治高等学校(現在の京都大学宇治高等学校)を経て、京都大学文学部文芸学科日本文学専攻を卒業。

警察官僚時代

1921年4月、高等文官試験行政科を経て、内務庁に採用。内務庁警視局へ配属されると警察官僚としての道を開いた。北日本管区警察局総務部経理会計課に配属。2年後には、宮城県警察本部刑事局広域犯罪対策部に配属される。直属の上長である県警刑事局参事官/広域犯罪対策部長の太田立志は、1946年1月から初代警察庁次長に就任するキャリア官僚の1人である。この太田参事官は、人事面では絶大な後見人となった。1925年4月、在中華民国日本大使館へ経済部参事官として中華民国へ赴任。3年間の勤務の中で、中華民国から日本へもたらされる、薬物の管理を担当し当時合法であったアヘン産業の輸入政策を担当する。1928年4月より帰国、東日本管区警察局広域調整部管区組織課、群馬県警察本部総務部管区連絡課、南日本管区警察局広域調整部管区調整課長を歴任。

商工省出向

1931年より、商工省へ出向。貿易局輸入規制課長補佐を経て、翌々年から課長に就任。同課長職は、長らく警察官僚の出向組が務めており、人材交流の中核的な役割を担ってきた。1935年には、平城会議の開始に際して、日本政府提出案の策定に携わる。しかしその決裂を見ると、翌1936年1月1日付で発布されることになった自主軍事宣言の草案起草にも参加した。特に、経済的侵略の条項を担当し、東亜共栄圏を中心とした計画経済の確立を起案した。後に、企画院設立などを決定する戦時行政特別法の草案にあたる文言の策定を行い、警察機能を一元的に管理する警察統制の制定などを想定した。1937年1月より、商工省貿易局総務課長に就任。

帰任

1938年10月、内務庁へ復帰。東日本管区警察局広域調整部次長に着任し、国際的な犯罪捜査に関する条項の策定などを担当した。1939年1月の開戦に伴って、内務庁警視局防犯課長として初めて本庁勤務となる。本庁に戻ってきたのは、かつて、自身が商工省で担当した戦時行政特別法の立法に参加するためであった。1940年4月、太田立志警視庁刑事局長に就任すると、遠山も現場配属となって警視庁刑事局参事官・組織犯罪対策部長へ就任。1942年から、福岡県警察本部保安局参事官・輸出入規制管理担当。この人事異動は、企画院設立の草案を描きながら、その組織統制が自らの考えるものではなかったため、企画院統制に反対する人物への左遷人事的意味合いが強かった。1945年1月より熊本中央警察署署長へ就任。同年8月の終戦後、10月に新組織の警察庁が発足。警察庁次長に就任した太田立志の推薦を受けて、警察庁組織局参事官(管区連携統括担当)・監察局監察官へ就任。1946年に闇米市場に警察高官が関与して不正な金銭授受を行っていたことが発覚した茅岡事件の調査本部に入ると、本部長代行として警察庁高官らの関連容疑者を捜査することになる。1947年4月、事件に連座した一連の人事異動によって、兵庫県警察本部本部長に就任。1950年5月に警察官僚としての満了を決めて、退官。退官後は、兵庫県庁の顧問として従事することになる。

政界進出

1951年の初頭から、民主党小原真郎を通じて、何度か政界進出への打診を受けていた。当時年齢にして53歳であり、これまで政治経験を持たなかったため当初は固辞する予定であったが、長らく上長であった太田立志から、民主党浅岡夢二など大物政治家との縁をつなぐように言われていたことなどが起因して、政界進出の決断を果たすことになる。自らの居住していた兵庫1区には、3期連続当選中の釜生唯昭(大衆社会党)の影響が大きかったため、保守系の議員を求める地元の意向と相まって、次期衆議院総選挙民主党からの出馬を予定していた。しかしながら、自らを政治の世界に引き込もうとしていた小原真郎が突如、民主党から共和党へ移籍。それに伴って、一時期立候補の話は流れていたが、当時の和光修次総裁代理から「直接会おうよ」と話をもらい、東京で会食。その場で100万円を渡されて出馬が決まった。1952年5月、第16回衆議院総選挙兵庫1区から初出馬。戦況は五分五分とされていたが、共和党の執行部から応援をもらい、トップで初当選を飾る。当選後、自身を政治の世界に引き込んだと思っている小原真郎から誘いを受けて旧民主党系の党内派閥である構造研に参加。政治に関する基礎的な素養は、この派閥を通して学ぶことになる。1954年から、小原が派閥の政策立案力を強化して、数で劣る他派閥との差を埋めようと画策。その一つとして、警察中枢に顔が広い遠山が構造研会長代行に就任する。

反旗

1954年の第6回共和党党大会では、総裁の選任が主要な議題としてとり扱われた。この総裁選任は、共和党内の派閥権力がどのように分散するかという問題であった。二期会系の議員が、総裁代行を務めていた和光修次の再選任を望む中、着実に派閥の勢力を伸ばしてきた鶴田正弘保守研系の議員は親分の当選を目指していた。党大会の前月に、遠山は、和光と秘かに会食してその胸中を伺っていた。和光は、「神輿にはもう乗りたくない」とその心境を吐露し最終的な決定を遠山に迫ることとなった。遠山は、党大会前に両派閥の幹部連中と密談を重ねる中、鶴田正弘本人から支援を依頼されることになる。結局は、杉浦静と懇意にしていた構造研若田恵三が話を取り纏めたため鶴田総裁を実現することになる。その一方、旧民主党系の議員を集めて共和党の乗っ取りを最終目的とする小原真郎には、まったく面白みのない結果を引き起こすことになる。この時期から、構造研の内部では、小原を支持する根っからの民主党勢力と遠山を支持する若手・政策人の勢力が分裂を始めることになる。この後、鶴田総裁の下、職域団体局長として初めての党内役職を持つこととなる。

外務大臣時代

1955年5月15日の第17回衆議院総選挙で、2選目を果たす。この選挙では、共和党が大勝して過半数を獲得、以降15年間も継続される共和党政権の始まりを告げた。当選後、組閣本部を担当していた杉浦静から、「幹事長代行外務大臣のどちらがよろしいですか」と電話を受け、「忙しいほうでお願いします」と返答。その数分後、再び電話がかかり、鶴田正弘本人から外務大臣を打診されることになる。外相時代の特に大きな功績は、首相が希求していた有利な形での国際警察協力機構加盟であった。日本は、警察庁に国際捜査局を設置して以降、アジアを中心とした国際的な刑事捜査への協力を担ってきた一方、国際身柄引渡し条約批准の遅れなどから国際的な刑事政策の見直しが求められてきた。遠山は、国際犯罪人取締法をまとめて、国際基準の捜査体制の確立を明示。1956年1月に国際警察協力機構への加盟を実現する。また、初めての外遊先に、慣例通りの中華民国ではなく、アメリカからの独立で国内情勢が不安定だったフィリピン連合王国を指名。日本ではこれまで開かれなかった、対東南アジア外交への道を開いた。安定外交による対米政策を牽引し、後に遠山内閣で調印することとなる日米豪太平洋パートナーシップ協約の基礎を構築した。1957年6月の第18回衆議院総選挙で3選。この総選挙では、派閥ごとの立候補者が選挙区に割り振られたが、鶴田総裁の口利きもあって後に玄徳会として独立する構造研遠山派が、小原派の候補者を超える数割り当てられることになる。

共和党総裁時代

第18回衆議院総選挙(1957年6月9日)後、共和党は早期の新総裁選任を発表した。鶴田内閣外務大臣として国際政策の経験があるのみで、政治家としての職責を果たせるか不安が残ったものの、派閥をまとめていた実績から多くの仲間を集めることになる。保守研と構造研遠山昇派が、支持を表明。遠山は、首班指名を前に「各派閥から3名を入閣」「内閣の人事権は総理に委ねる」「外交及び国際経済は首相が管轄する」「内閣官房長官には内政の全権を預ける」の4件を鶴田正弘の後見を受けて認めさせた。
遠山内閣
遠山内閣では、民間人閣僚として総務大臣御門文兼(台湾商船代表取締役社長)、初の女性建設相として建設大臣湯舟一葉が入閣。また、世界を空路でつなげる国際航空政策の一丁目一番地である国際空港開発法成立を担当する所管大臣として、飯尾正特命担当大臣(航空本部)がそれぞれ入閣。
外交指針
内閣の基本方針として、対英、対米の協調路線を推進。「アジアの盟主たる日本」を掲げた遠山外交は、東南アジアを中心とした各国への経済支援を前面に押し出した。
1958年10月、日米中3ヵ国を中心とした太平洋広域安全保障を構築するために環太平洋総合安全保障条約に調印。1959年5月、日米豪太平洋パートナーシップ協約を締結する。
新幹線計画
1960年の開通が計画されていた東海道新幹線計画の根拠法である新幹線法改正が争点となった。東京-京都間の新幹線計画を神戸まで延伸させる案を鶴の一声で決定させた。「新幹線法」の改正に際して、建設族や文教族を中心に5000億円もの選挙資金を調達した。
国際空港開発法
前任の鶴田内閣では、産業界や労働界の後押しを受けて「空の憲法」と呼ばれる「航空法」が成立。航空法成立の裏では、望月真備(社会党幹事長)との政治交渉として、民間人の海外渡航制限緩和が約束されていた。制限緩和に際して、自由党内では、国際空港開発法素案で連日連夜の議論が続いていた。この法案は、政界の大長老として生き続けたい鶴田正弘の思惑があった。「鶴田内閣の延長戦」として国民から非難の上がった遠山内閣は、1959年の年内に衆議院解散へ踏み切ることを決定。最終決定者は、政府与党連絡会議に招かれていた、鶴田正弘元総理であった。

不遇な退陣

第19回衆議院総選挙(1959年7月12日)で、兵庫1区から4選目を果たす。総理退任の数日後、構造研遠山昇派に属する若手議員らが同調して、新派閥の玄徳会を設立。同派閥の会長に就任する。派閥会長の就任は、自身を総理の座から引き釣り下ろした鶴田正弘に対する恨みからであった。鶴田は、遠山の後継総理に杉浦静を指名した。
第5回参議院通常選挙(1960年6月12日)の後、杉浦内閣(改造)の再組閣の際に、鶴田正弘が組閣協力を辞退する。これを契機として、自身に敵対意識を向けていた小原真郎(構造研会長)が、大蔵大臣として再入閣することになる。自身は、再び閣内から離れることになる。

赤城内閣で再入閣

1963年7月、第20回衆議院総選挙の後、玄徳会の推薦を受けて1963年総裁選へ出馬。票固めが予想以上に難しく、予備選で敗北、辛酸をなめる結果となった。勝利した赤城勇作の下、赤城内閣外務大臣として初入閣。国際経済戦略を所管する目的もあり、内閣官房国際経済戦略本部本部長を兼任する。

1966年3月に、政敵の鶴田正弘が急逝。鶴田の「共和党葬」を主張したのは、以外にも遠山本人であった。鶴田が去った後、党長老として影響力を持ち、政界を引退する1984年までその影響力を保持し続けた。1986年に聖路加病院で逝去する。

経歴

1898年 4月 京都府京都市出身
1917年 3月 旧制宇治高等学校(現在の京都大学宇治高等学校)・卒業
1921年 3月 京都大学文学部文芸学科日本文学専攻・卒業
4月 内務庁入庁
7月 警視局総務課
1922年 4月 北日本管区警察局総務部経理会計課・主務
1924年 4月 宮城県警察本部刑事局広域犯罪対策部捜査課長
1925年 4月 在中華日本大使館書記官・経済部参事官
1928年 4月 群馬県警察本部総務部管区連絡課長
1929年 10月 東日本管区警察局広域調整部管区組織課長
1930年 4月 東日本管区警察局広域調整部・次長
1931年 4月 商工省へ出向
貿易局輸入規制課・課長補佐
1933年 1月 貿易局輸入規制課長
1937年 1月 貿易局総務課長
1938年 10月 内務庁へ帰任
東日本管区警察局広域調整部長
1939年 1月 警視局防犯課長
1940年 4月 警視庁刑事局参事官・組織犯罪対策部長
1942年 4月 福岡県警察本部保安局参事官・輸出入規制管理監
1945年 1月 熊本中央警察署署長
10月 警察庁へ出向
組織局参事官・管区連携統括部長
1947年 4月 兵庫県警察本部本部長
1950年 5月 退官
1951年 12月 共和党入党
1952年 5月 第16回衆議院総選挙で初当選(兵庫1区
以降11回連続トップ当選
1954年 1月 構造研会長代行(-1959)
12月 職域団体局局長
1955年 5月 外務大臣鶴田内閣)・初入閣
1957年 6月 内閣総理大臣・共和党総裁(-1959)
1959年 8月 玄徳会会長
1963年 7月 外務大臣内閣官房国際経済戦略本部本部長(赤城内閣
1984年 8月 政界引退
1986年 4月 逝去

選挙歴

選挙 開票日 年齢 選挙区 政党 定数 順位
第16回衆議院総選挙 1952年5月11日 54 兵庫1区 共和党 5 1/8
第17回衆議院総選挙 1955年5月15日 57 兵庫1区 共和党 5 1/8
第18回衆議院総選挙 1957年6月9日 59 兵庫1区 共和党 5 1/9
第19回衆議院総選挙 1959年7月12日 61 兵庫1区 共和党 5 1/9
第20回衆議院総選挙 1963年7月14日 65 兵庫1区 共和党 5 1/8
第21回衆議院総選挙 1966年4月24日 68 兵庫1区 共和党 5 1/8
第22回衆議院総選挙 1970年4月26日 72 兵庫1区 共和党 5 1/7
第23回衆議院総選挙 1973年9月16日 75 兵庫1区 共和党 5 1/7
第24回衆議院総選挙 1978年7月2日 80 兵庫1区 自由党 5 1/8
第25回衆議院総選挙 1980年5月18日 82 兵庫1区 自由党 5 1/8
第26回衆議院総選挙 1983年6月5日 85 兵庫1区 自由党 5 1/8
最終更新:2025年07月17日 23:10