藤生光史

藤生光史(ふじおみつふみ)〈1968年9月ー2035年8月〉は、日本の政治家。

来歴

前半生

昌弘は、共和党幹事長運輸大臣を務めた共和党・自由党の代議士であり、高知全県区の自由党における盤石な地盤を築き上げた。長兄の成久は、早大卒業後に父の秘書を経て早稲田大学文化構想学部教授を務めた。次兄の勝彦は、神戸大学卒業後に父の私設秘書を経て高知県会議長高知県知事まで務めた地方政治家であった。父が文部大臣として初入閣した1968年、高知県高知市の母の生家で生まれた。幼少期のほとんどを母方の祖父母の家で過ごすことになる。祖父の吉田仙吉も元官選高知県知事であり、実質的に育ての親になったのは、吉田の書生であった米田裕二(後の高知県知事・衆議院議員)であった。

学生時代

土佐高校卒業後、大阪大学教育学部に現役で進学。中等教育学科社会教育専攻で学び、中高の地理歴史科教育免許を卒業と同時に取得。大学卒業後、同大教職大学院教育学研究科に進学。大学院1年目の秋に突如退学して、渡米を宣言。渡米後、ハーバードケネディスクールに独学で受験するも不合格となる。しかし、日本人留学生として聴講生という形で入学することになる。2年間学んだ後、雨宮財閥系列の日米合同経済研究所嘱託研究員として一応職を得ることになる。半年間務めるが、期間満了を目前に日本へ帰国。

政界進出

の急逝(1994年1月)に伴い帰国。父の没後、後継候補者の選任が大きな問題となってきた。自由党県連川上猛会長は、次兄の勝彦(高知県会議員)を推薦するが、高知県議会の中岡忠正自由党議員団長が光史を推薦して対立することになる。県連の総会でも意見は分かれたが、最終的に次兄が国政進出を辞退することを表明したため、光史が自由党高知1区の公認候補者となった。1996年12月、第31回衆議院総選挙で自由党公認候補として高知1区から出馬。地盤を引き継いだ後継候補として初当選を飾る。当選後、青年局委員・総務会委員を務める。党内派閥では、父も所属していた梶井幸也総務会長が率いる二期会(梶井派)に入会。若手の中軸を担う存在として注目を集めることになる。次期衆院選戦略の立案では、急遽招集された党選対本部に二期会を代表して送り込まれる。2000年10月の第32回衆議院総選挙を前に、川上猛が政界引退を表明して後任の高知県連会長候補に上るが、下福一之介幹事長の指名で参院四国選挙区選出の大友康義が就任(2000年8月)することになる。

初入閣

特命担当大臣(領土問題/国土強靭化・総合開発/消費者問題/国土緑化戦略)を務める深谷鉄平が、自身の選挙区での買収に関連する問題で議員辞職をすると、後任の閣僚として初入閣する。「新鮮味あふれる人事」を掲げていた山口厚首相は、史上最年少の国務大臣として藤生を指名することとなった。入閣に際して、藤生を熱心に推薦したのは、派閥の領袖でもある梶井幸也政審会長であった。当時、務めていた総務会長代行の職を継続。青年局長を次長の中沢博康に承継した。棚ぼた人事とも言える形で、特命担当大臣(領土問題/国土開発・強靭化/消費者/国土緑化戦略)として初入閣を果たす。第3次山口内閣でも留任する形で閣僚ポストに就くことになる。第3次山口内閣では、二期会福屋登(厚生労働大臣)とともに、閣内における派閥議論のまとめ役に徹することとなる。就任中の2006年4月、消費者庁の公文書紛失・取引先情報漏洩の問題が発生すると、担当閣僚として辞任を表明。山口内閣が、日米共同施設協議に関して党内左派の反対による衆議院での造反を見かねて、「国民に信を問う」として2006年7月に衆議院を解散。第34回衆議院総選挙に突入すると、過半数をわずかに超えて政権を獲得。自身も選挙区で初めて相手候補に比例復活を許すなど、危ない選挙戦を戦った。衆院選後、二期会の新会長となった石田直也(元建設大臣)から譲られて、自由党道路族の最高機関ともいわれる国土開発戦略調査会長に就任。

野党時代

2008年10月、自由党の党内左派と言われた、自由党古賀和也森野茂雄深野新拓が突如離党して、郷党平和を設立する。自由党単独での過半数を逃すものの、統一会派野党との予算協定を結んで通常国会終幕まで政権を確保。2009年5月の第35回衆議院総選挙では、社会党新人候補の中島園水小選挙区で落選、中四国比例区での比例復活(中四国比例区での比例復活は、広島3区朝垣信也兵庫4区小鷹昇兵庫6区清水遥兵庫10区山本太の5名であった)。最終的には、自由党が大敗して下野。野党として、閣僚経験者を委員会の最前線に立たせる人事を敷いたため衆院消費者問題特別委員会野党筆頭理事に就任。また、政風会大友康義華政クラブ本田喜多朗に次いで4代目の高知県連会長に就任。2009年8月、野党力の強化を掲げて政権力委員会の設立が党大会で決議されると、消費者担当として委員会入り。2010年5月、形骸化していた政策審議会を解体して、党政権力委員会(党首を委員長とする)に一元化を決定。初代委員長代行(影の官房長官)に就任。

与党復帰

2015年8月、第37回衆議院総選挙で3度目の正直を果たし、小選挙区での議席を奪還。藤沢内閣では、内閣官房長官特命担当大臣(領土問題消費者問題)として職責を全う。自身がこれまで信念を注いできた消費者安全に対応した食品安全保障戦略、朝鮮を中心とする拉致被害に対応する国際関係戦略などの課題解決を目指した。2017年8月、荒尾祐樹(外務大臣)を新たな二期会会長に迎えると、自身は副会長に就任。任期満了に伴う2018年8月の党首公選では、二期会の推薦で出馬する意向を表明する。党首公選の告示目前には、猪瀬浩輔が率いる旧華政クラブを吸収して、佐藤榮が率いる政風会岡信慎太郎候補と激突する。しかし、この党首公選では、泡沫候補ともいわれるような少数支持者を母体とする候補が乱立。最終的には、党首公選始まって以来初となる、1次投票での岡信慎太郎当選が決定する。党首公選後の記者会見では、「ノーサイド」と表明した岡信であったが、ふたを開けた人事では、藤生支持を表明した二期会や旧華政クラブのメンバーが外される。

新党日本設立

岡信内閣で、党や内閣の閣僚ポストを辞退すると、自身に近い議員らの勧めもあって党内における新派閥の組織を求められる。しかしこのころ、集団離党による新党結成を目標に密かな造反を画策。2018年12月、室星浩太(愛知3区選出・前運輸相)とともに、日本自動車工業会会長の相沢豊久(愛知財団総裁)と会食を行った。「政局になれば、新党を結集したい。特に、会長のお考え通りに名古屋から総理を出しても私はよいと思っている」「もし、私を支援していただけるなら、この東海を政治の中心にしてもよい」として、支持を求めた。一方で、先の党首公選で自身とともに立候補し、岡信内閣で排除されていた島延太郎(愛知12区選出)とも密かに会食を行う。この会食では、「新党に参加してくれれば、選挙の結果によっては日本政治のリーダーを任せたい。私は新党の代表になるつもりはない。君に頼みたい」と離党の口説き落としを行った。さらに、社会党の中道右派として一部存在していた若手議員を中心とした社会党若手有志の会会長の島津亜希には、「日本における本物の中道政治、右も左もいる政治の新しい世界をみよう」と新党に誘い入れる。新党に対してはそれぞれ、二期会メンバーの半数以上、玄徳会横山派の全議員、社会党の中道右派や新人メンバーなど、70名(衆院53名・参院17名)が結成に賛同。2019年度予算案が可決した翌週、2019年4月22日に、各々が各党に対して離党届を提出。自身も務めていた調査会長などの役職を返上。翌23日に、新党日本としての政党届を自治省に提出、届け出代表人島延太郎、議員総数70名(衆院53名・参院17名)となった。4月26日の新党日本結党集会では、自身が司会進行役を務めるもその場で新党日本党首代行に選出される。結党集会では、無所属の衆議院議員5名(中沢博康中村雄大高橋健太郎佐藤悠斗木村真由美)が参加を表明。

新党躍進

2019年5月、社会党が提出した岡信内閣不信任決議案に対して賛成票を投じるが、わずかに過半数を超えずに留保された。しかし2か月後の2019年7月、第38回衆議院総選挙において、前職の58名に加えて新人候補者30名の88名を公認候補者として立候補させた。この選挙では、これまで自由党に投票してきた保守層が分裂、自由党の組織票を大きく刈り取ったおかげで、比較第二党の野党第一党に大躍進を遂げる。選挙後、社会党と共立党の連立政権に対して野党としての政策討論を迫る。社会党の太田伸介(高知2区選出)と秘かに会食を行い、社会党と新党日本で次期高知県知事の共同推薦を決定する。2020年9月、自由党の一部議員を中心として平和再生党が結党すると、急速に距離を縮めて国会論戦での共闘を目指す。2021年8月、社会党との連立体制にあった共立党が社会党との合流を宣言、それに対して連立に非積極的だった一部共立党議員が内閣不信任決議案を提出。野党各党はそれに相乗りする形で内閣不信任決議案は可決。社会党内閣は、解散の道を選ばざるを得なくなり、第39回衆議院総選挙でついには政権党を明け渡す。政権党となった新党日本は、平和再生党と共に政権与党を形成。島内閣が成立したが、閣内には入らず党務の調整に尽くす。2021年12月、新党日本と平和再生党からなる与党会派は、藤生光史に対して「永年在職25年表彰」を行うことを正式に衆議院に通告した。2022年1月の永年在職25年の記念挨拶では、「新党日本が通常国会終幕後の本年5月に開催を表明している、新党日本の党首選に私は出馬することといたします」として党首選挙への出馬意向を表明した。党首選では、自身の筆頭推薦人として鷲尾一子(内閣官房事務副長官)を招聘。党内リベラル勢力(社会党出身者)を味方につけて、ライバル候補の甘粕信太(自由党出身)を下した。

内閣総理大臣

新党日本党首への就任後、首班指名を受けて第102代内閣総理大臣に就任。党の要職を保守系の重鎮議員固め、藤生内閣では平和再生党も併せて若手を大々的に抜擢した。特に、幹事長として甘粕信太を登用。特に、当初の予想を超えてリベラル勢力を重要ポストに就かせた。2023年6月、梶忠貫商工大臣の不祥事、左傾化する防衛政策に対抗する党の方針に従って内閣改造。翌月、自由党青洲会会長の島田雄太郎平和再生党の№2だった神庭美紀子と3人で会食。リベラル政策を掲げる平和再生党左派を外し、自由党内の中道を吸収する大規模与党の形成を確約する。その見返りとして、衆院解散のキャスティングボートを握ることになる。11月、野党に対する予告なく衆院解散を突如宣言。

日本民主党

衆院解散後、平和再生党右派、自由党中道勢力が次々に離党を宣言。新党日本は、解党を宣言して新たな連合与党である「日本民主党」を形成する。初代代表に就任。結党の混乱期にも議席を獲得できるように、お国入りを全候補者に命令。知名度のある党幹部は、自分の選挙区ではなく危険性の高い地方での遊説を命令した。第40回衆議院総選挙では、290議席を超える日本民主党の大躍進で政界の地図を大きく塗り替えた。第2次藤生内閣では、急速な親米路線にシフト。自由党時代の日米安全保障条約を全面改訂することで「新時代連携協定」なる日米間の新しい枠組み形成を目指した。この協定実現を目指す基幹大臣として特命担当大臣(気候変動・地球温暖化対策)(再エネ・持続的社会開発)(AI社会推進)(宇宙開発)(サイバー防衛)を新設。サイバー防衛担当大臣が所管する協定として「サイバー共通防衛協定」の実現を目指した。2025年4月の通常国会終幕時、与党会派代表者会見の席上で「本年も通常国会を終えて、金融政策に関する一応の終着を見ることができました。よって私たちは、新しい与党の代表者を選任するフェーズに入ったのではないかと確信をいたしました」として、代表選挙の実施とともに自身の代表引退の意向を表明した。

政界引退

2026年8月、衆院解散に伴って政界引退を表明。政界引退後、地元高知県で政治に関する研究を続け、2029年に政治学論文である「創成期日本の社会変革」を発表。日本における保革伯仲に対して深い反対意見を提示した。2029年に日本民主党が下野すると政界の論壇から身を引く。2030年4月、四国文化学園の理事長に着任。四国文化学園の創始者は、阪大の同級生真坂幸恵(四国文化学園大学学長)の父である真坂良仁(神戸大学名誉教授)。着任後、自身の後援会(土佐会館)副会長である屋舗白人(屋敷公認会計士事務所代表会計士/高知県会計士連合会会長)を選任した。2035年8月、末期がんによってこの世を去った。特筆すべきは若い政治遍歴である。二大政党制の終焉に直面し、自らも最前線で多党制の時代でオールをこぎ続けてきた。

選挙歴

当落 選挙 開票日 年齢 選挙区 政党 定数 順位
第31回衆議院総選挙 1996年12月1日 28 高知1区 自由党 1 1/3
第32回衆議院総選挙 2000年10月1日 32 高知1区 自由党 1 1/4
第33回衆議院総選挙 2004年8月8日 35 高知1区 自由党 1 1/3
第34回衆議院総選挙 2006年7月30日 37 高知1区 自由党 1 1/3
比復 第35回衆議院総選挙 2009年5月10日 40 高知1区(中四国比例区) 自由党 1 2/4
比復 第36回衆議院総選挙 2012年12月9日 44 高知1区(中四国比例区) 自由党 1 2/5
第37回衆議院総選挙 2015年8月2日 46 高知1区 自由党 1 1/3
第38回衆議院総選挙 2019年7月28日 50 高知1区 新党日本 1 1/4
第39回衆議院総選挙 2021年8月9日 52 高知1区 新党日本 1 1/3
第40回衆議院総選挙 2023年11月12日 55 高知1区 日本民主党 1 1/4

主な役職歴

内閣

衆議院

日本民主党

  • 代表(2023年11月ー2025年7月)

新党日本

自由党

経歴

最終更新:2025年06月10日 21:04