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瀬川美馬

瀬川美馬(せがわみま)〈1910年12月ー1995年4月〉は、日本の商工省官僚、ファーストレディー
夫は瀬川記之(第51代首相)、父は相山久秀(社会学者・大学教授)、母は村勢愛子(女性初の東大教授)。
生誕 1910年12月18日
東京都
逝去 1995年4月2日
学歴 早稲田大学
職歴 商工省キャリア官僚
早稲田大学教授
東京大学教授

来歴

1910年12月、56歳という高齢で出産した村瀬美馬の子として東京都に生まれる。生誕時には、両親ともに東京大学の教員(父は教授、母は助教授)であった。

旧制私立勝山女子高等学校(現・東京女子大学附属勝山女子中学校・高等学校)、早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。卒業後の進路は、母や父との相談の末、学術の世界は女性の進出が難しいと諭されて学界を断念。

1933年、高等文官試験で高文行政科に合格、女性のキャリア官僚第1号となる(女性初)。合格の背景には、官界に顔が利く、母や父の口添えが大きい。入省の翌年に母を失う。女性という色眼鏡で見られたことから、男性同様の出世ルートになかなか乗れず、厄介払いの要領で1941年に企画院へ出向。終戦後も、終戦連絡事務局へそのまま移動扱いになった。終戦のこの時期、関東圏企業労働委員会事務局長を務めていた瀬川記之と結婚。瀬川は、母の村勢愛子の熱心な信奉者であり、マクロ経済学者の側面も持っていた。両親に代わって、父違いの長男である大阪大学教授・東上彦一が参加した。

商工省のキャリア

1949年の終戦連絡事務局解散に合わせて、商工省技術局の課長補佐として復帰。戦後自由主義の流れに乗って、女性キャリア官僚の草分け的存在として活躍。電源局経営局大臣官房での勤務を経て、経営局長を最後に退官(1971年3月)。

教育界へ

1971年4月、母校である早稲田大学に招かれ、政治経済学部教授・女性教育センター長に就任。1972年6月より学校法人早稲田理事を兼任する。
1975年4月、東京大学理事(男女平等)・経済学部経営学科教授(中小企業経営論)・男女平等社会教育研究センター長・次世代協創本部長・男女平等推進委員長・組織改革推進委員長に就任。親子3代続けての東大教授は2人目(1人目は兄の相山立義)、5人兄弟全員の国立大学教授(3人兄弟全員なら過去に存在)は歴史上初。
1986年10月、東京大学理事・経営学大学院名誉教授に就任、現役の第一線を退陣する。

ファーストレディー

夫の瀬川記之は、1989年10月に内閣総理大臣に就任。自身は、ファーストレディーとなる。歴史上最高齢かつ、初のキャリア官僚経験者、初の東京大学教授経験者の就任となった。しかし、国内政治の潮流の中で、1990年6月の首相退陣に伴ってファーストレディーではなくなる。

略年歴

1933年3月 早稲田大学政治経済学部政治学科・卒
4月 商工省入省(行政科 女性初のキャリア入省
7月 軽工業局紙業課
1936年4月 軽工業局紙業課・主務
1938年4月 大臣官房文書課・主務
1941年8月 企画院・出向
総裁室会計課・主務
1944年4月 総裁室文書課・主務
1945年6月 国民労農本部動員計画課・主務
8月 終戦連絡事務局・出向
官房文書課・主務
1947年4月 調整部企画財政課・課長補佐 女性初の課長補佐級

1949年10月 商工省帰任
技術局技術振興課・課長補佐
1951年10月 技術局技術管理保護室長 女性初の室長級
1954年7月 電源局水力発電課・課長補佐
1956年10月 佐久間ダム工事事務所長(第3代) 女性初の国策工事事務所長
1960年4月 経営局創立支援課長 女性初の課長級
1963年7月 経営局総務課長
1964年11月 大臣官房文書課長 女性初の官房三課
1966年7月 大臣官房政策立案統括審議官 女性初の局次長級
1968年7月 経営局長 女性初の局長級
1971年3月 退官

1971年4月 早稲田大学政治経済学部教授
(兼任)女性教育センター長
1972年6月 (兼任)学校法人早稲田理事
1975年4月 東京大学理事
経済学部教授(中小企業経営論)
男女平等社会教育研究センター長
次世代協創本部長
男女平等推進委員長
組織改革推進委員長
1986年10月 東京大学理事・経営大学院名誉教授

家族



最終更新:2026年03月10日 07:50