来歴
政界
1927年8月、
横浜市市政顧問に招聘され、横浜市市政懇話会会長として
国政政党や
内閣と市のパイプ役を担当した。1928年に、
横浜市長の
間宮田町の任期途中の退任に伴って、後任を決める横浜市長選挙に出馬。
公党の圧倒的なバックアップによって、初当選を果たす。任期途中の1938年に、
横浜市長を辞任し、
第11回衆議院総選挙に出馬。
1942年9月、
1942年全国選挙週間に合わせた横浜市長選挙に、元職候補として出馬。
東亜同盟推薦の
横田稔を破って復活当選を果たす。市長選挙への鞍替えは、非推薦として
衆議院議員の再選が難しいと認めたためであった。戦時下の横浜市長として、
大日本首長報国会への出席を見送る決断をし、公職にありながら憲兵の監視対象になっていた。1943年に、
国富慎太郎が代表を務める政治結社
陸土会の縁で、
満州国からの引揚げ船収容港として
横浜港を提供。1945年8月に終戦を迎えると、
駐留軍が進駐する
横須賀市を支援する日本の前線基地として機能を果たす。戦後の
公職追放リストに載るが、最終的に追放を免れ、公選市長へと移り変わる。
1948年12月、
万国産業博覧会事業財団理事の
ウィルソン・テレンマーヤーがかつて進駐軍の幹部として
横浜市との交渉を担当していた縁で、万博視察団の誘致を強引に進めた。万博視察団の誘致を迎えるにあたり、市の財政のおよそ8年分をつぎ込んだ大規模な公共事業を進めた。1950年8月に万博視察団を
厚木飛行場から迎え、1か月間の滞在を実現させた。結果として、1958年の
横浜万博誘致を実現させた。1963年3月に、自身の懸案であった「
神奈川県立大学」の開学を実現させたことを背景に政界引退を表明する。
政界引退
人物
演劇界とのかかわり
1944年7月、
横浜市長の在職中に、
大洋映画がバックアップして設立した
横浜大洋歌劇団の団長に就任した。
大洋映画は、
鎌倉市への設置で取締役会を進めていたものの、横浜市内に土地を持っていた
国富慎太郎が土地建物を格安で譲渡することを提案したため横浜市内に設立された。
1948年まで団長の地位にあったが、そののち
大洋映画社外取締役に就任することになる。
万国産業博覧会事業財団の理事会視察をアジアで初めて招致した人物として知られる。その後、「1958年
横浜万博」を現地実行本部長として成功に導いた立役者でもある。この功績から、
日本万博協議会初代会長、並びに名誉会長を務める。
陸土会のバックアップ
政治結社として1933年に設立された
陸土会は、代表の
国富慎太郎が活動の主軸と国内から
満州国に移すという目的で、日本国内の有力者との接点を開拓していた。そのさなか、民間港として小規模であった
横浜港の規模拡大を進めた。
公職追放の憂き目にあっていた
国富慎太郎の後任として、陸土会総裁を務めていた
宮村学成の支援で、宮村がオーナーを務める
横浜地下水道の社長を務めるなど縁がつながれている。
選挙歴
|
選挙 |
開票日 |
年齢 |
選挙区 |
政党 |
定数 |
順位 |
| 当 |
横浜市長選挙 |
1928年10月 |
35 |
横浜市 |
|
1 |
1/1 |
| 当 |
横浜市長選挙 |
1932年10月 |
39 |
横浜市 |
|
1 |
1/2 |
| 当 |
横浜市長選挙 |
1936年10月 |
43 |
横浜市 |
|
1 |
1/2 |
| 当 |
第11回衆議院総選挙 |
1938年8月 |
47 |
旧神奈川1区 |
東亜同盟 |
11 |
1/20 |
| 当 |
横浜市長選挙 |
1942年9月 |
51 |
横浜市 |
|
1 |
1/2 |
| 当 |
横浜市長選挙 |
1946年4月 |
54 |
横浜市 |
|
1 |
1/2 |
| 当 |
第1回地方統一選挙(横浜市長選) |
1946年12月 |
55 |
横浜市 |
|
1 |
1/4 |
| 当 |
第2回地方統一選挙(横浜市長選) |
1950年12月 |
59 |
横浜市 |
|
1 |
1/2 |
| 当 |
第3回地方統一選挙(横浜市長選) |
1954年12月 |
63 |
横浜市 |
|
1 |
1/5 |
| 当 |
第4回地方統一選挙(横浜市長選) |
1958年12月 |
67 |
横浜市 |
|
1 |
1/3 |
| 当 |
第5回地方統一選挙(横浜市長選) |
1962年12月 |
71 |
横浜市 |
|
1 |
1/2 |
家族
最終更新:2026年02月25日 09:00