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決断主義
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シュミットの決断主義
決断主義 | ||
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英名 | Dizisionismus |
別名 |
決断主義とは、主権論(何が主権か、誰が主権をもつのかなど)における立ち位置の一つである。
端的に言えば、決断主義は、あらゆる法が機能しなくなったとき(例外状態)に、「決断」する能力を持つものを主権者とする思想である。
例外状態(Ausnahmezustand)
例外状態は、既存の法律の効力が停止し、国家が無法状態と化した状況を指す。法の秩序の外である例外状態においては、法の中から決断を導くことが不可能とされる。
法的決断
そもそも例外状態ではない日常においても、法律というものは曖昧性を含んでいる。法律に書かれている内容を実行に移す際、必ず解釈を含むことになる。その意味で、法律の実践には常に、例外への契機が含まれている。
例外状態においては、上で述べたように、法律に基づいて決断を行うことができない。つまり、決断についてその内容の正当性を問うことは不可能である。
このことから、決断において本質的なのは、法律と照らし合わせた際に、それに基づいているかや正当かではなく、決断する権威によって、内容に関する論争を打ち切るという形式そのものである。つまり、決断とは、有無を言わせずに正当かどうかの議論を打ち切り、強制的に物事を前に進めることである。
このことより、法の秩序において、より本質的なのは、法律の文面では無く、正しさとは何かという議論を打ち切る決断という形式であるとされるのである。
ちなみに、ホッブズは「真理でなく、権威が法を作る」という言葉を残しており、シュミットはホッブズを決断主義者であるとして称賛している。
人格主義
決断には、必ずそれを下す人間、あるいは組織などが必要である。そのことを人格という。
わざわざ、シュミットがこの当たり前のことを強調したのは、法体系を非人格的なものとしたハンス・ケルゼンに対する批判意識があったためである。ケルゼンは、現実の権力や政治的決断を無視し、法の体系の中で完結させていた。
政治神学
政治神学とは、近代の国家学は、それまでの神学を世俗化したものであるという考え方である。
例えば、よくあるご都合主義物語では、主人公一行に危険が差し迫った際に「奇跡」が起こる。奇跡とは、それまで物語が構築してい来た世界観からは導出されないものであり、世界の法則をぶち壊すものである。「奇跡」を起こしたのは多くの場合「神」のおかげだとされる。ここでの神様は、多神教の神というよりは、むしろ一神教の神というイメージの方が強いだろう。要するに「創造主」である。
何が言いたいかというと、シュミットの理論における「主権者」と、それまでの神学の「神」はきれいに対応しているということである。どちらも秩序を創造者であり、秩序が崩壊したときに超越的な力でどうにかし、新たな秩序を作り出すものである。
まとめ
これまでに導入した用語を用いてまとめると、決断主義とは、主権者とは「例外状態」に「決断」できる「人格」であるとする考え方と言える。この決断する主権者の権威によって、法秩序は成立していると言える。