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清算主義
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概要
清算主義 | ||
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英名 | Liquidationism |
別名 | 解党派、解党主義 |
清算主義とは、党の活動を合法的な形態に限定し、従来の非合法な地下組織を廃止することを主張した、ロシア社会民主労働党内のメンシェヴィキの派閥の思想である。
第一次ロシア革命(ブルジョワ革命)後の、1905年以後に見られるようになった思想である。革命後の弾圧強化の中で、現実主義的になったメンシェヴィキの一派が、ブルジョアと組み、合法的な民主社会主義路線を主張するようになった。
主要な提唱者は、パーヴェル・アクセリロードであり、全ロシア労働者大会を招集し、そこで合法的な労働者政党を創設するという構想を打ち出した。他にも、アレクサンドル・ポトレーソフ、ウラジーミル・レヴィツキー、フョードル・チェレヴァーニン、ピョートル・ガルヴィなどがこの路線を支持した。
批判
ボリシェヴィキからの批判
レーニン率いるボリシェヴィキは、このメンシェヴィキらに対し、過去の成果を清算するようなものだと批判し、清算主義というレッテルを貼った。
レーニンは合法活動を必ずしも否定せず、非合法活動と合法活動を柔軟に組み合わせることを主張した。
メンシェヴィキ内からの批判
亡命していたメンシェヴィキの指導者であるユーリー・マルトフやフョードル・ダンは、清算主義の主張には同意せず、刷新された形での地下組織の維持が必要だと考えていた。ただし、清算主義者の追放には反対した。
また、ゲオルギー・プレハーノフが率いる少数のメンシェヴィキ・グループ(プレハーノフ派)は、ボリシェヴィキと同様に非合法な党の維持を主張し、清算主義に反対した。
清算主義者の追放とその後
1912年、ボリシェヴィキは清算主義者をロシア社会民主労働党から追放することを宣言した。これにより、ボリシェヴィキとメンシェヴィキは別々の政党として完全に分裂した。
当時メンシェヴィキのレフ・トロツキーは、1912年8月にウィーンで、ボリシェヴィキとプレハーノフ派に対抗して、マルトフ派、ブンド(ユダヤ人労働総同盟)、その他の社会民主主義組織「8月ブロック」を結成した。このブロックは内部の多様性から脆弱であり、1917年までに崩壊した。