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アルゼンチン政治史
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保守寡頭制の時代(1880年~1916年)
- 大地主を中心とするエリート層が政治を独占した
- 経済的には「黄金時代」とも呼ばれた
国民自治党の支配
- フリオ・ロカに代表される国民自治党 (PAN)が、大地主などの寡頭支配層と連携し、選挙を操作しながら長期にわたり政権を独占した。
- PANの支配した時代は、「80年世代」の時代とも呼ばれる
ロカ大統領(第1期) (1880年~1886年)
- 1880年にフリオ・アルヘンティーノ・ロカが大統領に就任
- 1878年から1879年にかけて実施された「砂漠の征服」が評価されたため
- 「砂漠の征服」は、パタゴニアの先住民(マプチェ族など)に対する騎兵部隊による波状攻撃のことであり、現在ではジェノサイドとされる
- この作戦で、パタゴニアがアルゼンチンの支配下になり、35%も領土が拡大した
- 就任直前にブエノスアイレスの連邦首都化を議会で可決させ、長年の対立に終止符を打った
- ライシスト(世俗主義)法
- 教会の権力を削ぎ、国家の権威を強化するために行った
- 市民登録制度を創設し、それまで教会が管理していた出生、死亡、婚姻の記録を国家の管理下に
- 教会が運営していた教育機関を国営化し、初等教育を無償化
- バチカンとの関係を断絶させる結果になった
- チリとの国境問題を交渉し、1881年の条約でパタゴニア地方の領有権を確保し、領土を拡大
フレアス・セルマン大統領 (1886年~1890年)
- ロカの後継者、ミゲル・フアレス・セルマン
- 1890年、公園革命
- PANの腐敗した政治と経済危機に対する不満が爆発
- クーデター未遂事件
- PAN内部でもロカの政策に反対する動きが生まれる
- 近代派 (PAN - línea modernista)と呼ばれる改革派グループ(ロケ・サエンス・ペーニャなど)
ロカ大統領(第2期)(1898年~1904年)
- 居住法
- 政府にとって危険と見なされた外国人(主にアナキストや社会主義者の労働運動指導者)を追放する権限を政府に与える法律
- 1901年、徴兵制の導入
- 1902年、五月協定(チリとの平和協定)
- ドラゴ・ドクトリン
- ロカ政権の外務大臣ルイス・ドラゴが提唱した外交原則
- 外国勢力は、アメリカ大陸の主権国家から武力や領土占領によって公的債務を回収することはできないと主張
ロケ・サエンス・ペーニャ大統領 (1910年~1914年)
- ロケ・サエンス・ペーニャ、PANの進歩派
- 1912年、サエンス・ペーニャ法
- 男子普通・秘密・義務投票を保障する法律を制定
- 高まる社会不安を抑えるため
経済と社会
- ヨーロッパからの大量の移民(イギリスが主)と外国投資により経済は急成長
- 農業(特に畜産と穀物)が大規模化・工業化
- 1884年には無償・非宗教の普遍的な義務教育を保障する法律が制定(ロカ政権)
- カトリック教会との深刻な対立が起こった
- 不正選挙と寡頭支配に対する反発から、急進市民連合 (UCR) が結成され、反乱を起こすなど抵抗を強めた
急進市民連合の時代 (1916年~1930年)
急進市民連合(UCR)
- 急進市民連合(UCR)は、1891年に設立された急進主義、世俗主義の政党
- 急進の名は、男子普通選挙を求めたことに由来する
- プロレタリアの政党というよりは、新興ブルジョアや中間層のための政党
- 現存する
- 伝統的に中産階級を主な支持基盤とした
- 党内には保守自由主義から社会民主主義まで多様な派閥が存在
- 寡頭制政権を打倒するため、1893年と1905年に武装蜂起を試みたが失敗した
イリゴージェン大統領(第1期)(1916年~1922年)
- イポリト・イリゴージェン、初の普通選挙でアルゼンチン大統領になった人
- 第一次世界大戦で中立を維持しつつ、ヨーロッパに輸出して利益を得た
アルベアル大統領(1922年~1928年)
イリゴージェン大統領(第2期)(1928年~1930年)
- 1929年、世界恐慌でアルゼンチン経済は壊滅的な打撃を受けた
- 1930年、世界恐慌による経済危機の中、軍事クーデターが起こり終焉
- アルゼンチン近代史における最初のクーデター
忌まわしき10年間とペロンの台頭(1930年~1946年)
- 政治腐敗の時代
- 1930年、保守派と軍部の反発が高まる中、親ファシストの将軍ホセ・フェリクス・ウリブルによる軍事クーデターでイリゴージェン政権は倒された
ウリブル大統領(1930年~1932年)
- コーポラティズムに基づく憲法への改正を目指した
- 急進的なファシズム路線は、クーデターを支持した保守層からも支持を得られず、すぐに失脚
フスト大統領(1932年~1938年)
- アグスティン・P・フスト、より穏健な保守派の将軍、不正選挙で大統領に就任
- コンコルダンシアと呼ばれる連立政権を形成し、支配を続けるようになった
- 愛国的詐欺 (fraude patriótico)
- 急進市民連合(UCR)を政治から排除するためには、不正選挙もやむなし
経済と社会
- 世界恐慌の影響で、従来の輸出モデルが立ち行かなくなり、国内市場向けの輸入代替工業化が進展
- 工業労働者階級がさらに拡大
- ロカ=ランシマン協定(フスト政権)
- イギリスとの牛肉貿易協定
- ↑のような国の富裕層や外国資本を優遇する政策が中心で、国民の生活は困窮
- 1935年には、牛肉産業における汚職疑惑を追及していたリサンドロ・デ・ラ・トーレ上院議員の盟友が議会内で暗殺される事件が発生
カスティージョ大統領(1942年~1943年)
- ラモン・カスティージョ
- カスティージョは連合国側で参戦する動きを見せていた
- 軍部内には、伝統的な中立政策の維持を望む声や、共産主義の拡大を恐れる将校たちが多数存在
- 国内の選挙不正や腐敗に対する不満も高まっていた
- 1943年6月4日、統一将校団によるクーデター
- ナショナリスト思想を持つ秘密の将校グループによる
- ペドロ・ラミレス、エデルミロ・ファレル、フアン・ドミンゴ・ペロン(当時大佐)が中心メンバー
- 無血で大統領官邸を制圧した
ローソン大統領(1943年6月4日~6月7日)
- アルトゥーロ・ローソン、クーデター後の臨時政権
- 大統領だった期間は、1943年6月4日から6月7日まで。まさしく3日天下
ラミレス大統領(1943年6月7日~1944年3月9日)
- ペドロ・パブロ・ラミレス・メンチャカ、ファシスト
- ローソンの辞任を強要し、WW2中の中立を維持した
- ペロンは労働福祉庁長官に任命されて、活躍した
- 労働裁判所の設置、最低賃金、有給休暇などの労働者政策を行い、労働組合との強固な同盟関係築き、労働者階級の絶大な支持を獲得した
ファレル大統領(1944年3月9日~1946年6月3日)
- ファレル政権下で、ペロンは労働福祉長官の職を維持したまま、さらに陸軍大臣と副大統領を兼任することになった
- 1945年10月、軍部内で高まるペロンの人気を警戒した反対派により、ペロンが全役職を解任され、逮捕・拘束される
- 10月17日、「忠誠の日」
- ペロン逮捕を知った労働者たちが、労働総同盟の呼びかけで大規模なデモを決行
- 大衆の圧力に屈した軍事政権はペロンを釈放
- 後に「忠誠の日」としてペロニズムの最も重要な記念日となった
- ペロンはデモの組織化に尽力した女優のエバ・ドゥアルテ(エビータ)と結婚することになる
ペロンの時代(1946年~1955年)
- ペロンの基本方針は、大衆受けのいい親労働者政策であり、それに社会正義,経済的自立,自主外交などのレトリックを付加している。
- ペロンによるポピュリズムをペロニズムという。
- ペロニズムは、社会正義を強調することから正道主義(フスティシアリスモ)と言われる。
経済政策
- 中央銀行、鉄道、公共事業、大学などを次々と国営化
- 第二次世界大戦中に蓄積された外貨準備を使い、イギリスなど外国資本からの独立を目指した
- 穀物輸出を管理する国家機関IAPI(貿易振興院)を設立し、輸出利益を福祉事業や国内産業の資金源とした
- 輸入代替工業化を強力に進めた
- これらの政策の結果、GDPは飛躍的に増大した
社会政策
- 労働者の実質賃金を大幅に引き上げ、労働者の国民所得に占める分配率を40%から49%へと上昇させた
- 全国民を対象とする社会保障制度や国民皆保険制度を導入
- エビータが設立した「エバ・ペロン財団」は、学校、病院、孤児院などを建設し、貧困層に絶大な人気を博した
- 1947年にエビータの尽力により、女性参政権が実現
- 空港、高速道路、住宅(約50万戸)、学校(8,000校以上)、病院(4,200以上)などを建設し、国のインフラを劇的に改善した
権威主義的手法
- 大学から2000人以上の反対派の教授を追放するなど、知識人や中産階級を弾圧
- 反政府的なメディアを接収したり潰したり
- 自らに忠実でない労働組合指導者を追放し、労働総同盟(CGT)を完全に支配下に置いた
外交政策
- 冷戦においては、「第三の道」をとった
- ソ連と国交を回復する一方で、アメリカとの関係改善も模索
- アメリカからはファシスト認定されていた
失脚
- 1952年に精神的支柱であったエビータが死去
- 同時期に経済も悪化し始める
- 離婚法を制定しようとしたことなどが原因で、カトリック教会との関係が決定的に悪化、ペロン破門
- 1955年6月、海軍と空軍の一部が五月広場を爆撃し、多数の市民が犠牲となるクーデター未遂事件が発生
- 1955年9月、軍部によるクーデター「解放革命」が成功し、ペロンはパラグアイへ亡命
解放革命と脆弱な文民政権の時代 (1955年~1966年)
- 軍部が「脱ペロン化」を掲げて政治を主導
- その下で選挙が行われるものの、ペロニストが排除されていた
解放革命
- 1955年9月16日、ロナルディはコルドバを拠点にクーデター(自称「解放革命」)を開始
- 同時に、イサーク・ロハス提督率いる海軍も呼応し、マル・デル・プラタの燃料施設を砲撃、ラ・プラタの製油所爆撃をちらつかせてペロンに降伏を迫った
ロナルディ大統領(1955年9月23日〜1955年11月13日)
- エドゥアルド・エルネスト・ロナルディ、カトリック・ナショナリスト
- 数回反ペロンクーデターに参加していた、生粋の反ペロン主義者
- ただし、ペロニズム政策に関しては全否定しなかった
- クーデター成功後、事実上の臨時大統領に就任
- 政権内の内部対立
- ロナルディ派(カトリック・ナショナリズム派)
- ペロニズムを(ペロン本人抜きで)政治体制に再統合しようとする穏健派
- ペロニズムの完全な弾圧には反対
- 強硬派(経済的自由主義派、急進的反ペロニズム派)
- イサーク・ロハス、ペドロ・エウヘニオ・アランブルが代表
- ペロニストを政治・労働組合から完全に排除し、ペロン政権時代の社会政策を撤廃しようとする急進的なグループ
- ロナルディ派(カトリック・ナショナリズム派)
- 弾圧政策
- 議会を解散し、最高裁判事を罷免、全土の民選公職者(知事や市長)を更迭
- 労働総同盟(CGT)に介入し、エバ・ペロンの遺体を奪取
- 大学にも介入し、報道の自由を制限
- 同性愛者への弾圧も開始(カトリック系の政権のため)
- 内閣は極端にカトリック色の強い人物で固めていた
- ナチズムやファシズムへの共感を隠さなかったフアン・カルロス・ゴイェネチェが報道長官に就任
- ロナルディの義弟が要職に就任
- 強硬派の不満の原因となった
- 1955年11月13日、軍により、失脚
- ロナルディが内務大臣にナショナリズム的な人物を任命しようとしたことが、海軍を中心とする強硬派の我慢の限界を超えさせた
- 後任には強硬派のアランブルが就任し、ペロニズムに対する徹底的な弾圧(「非ペロン化」)が始まった