「パカラ、パカラ、パカラ…、パリーン!!(大河ドラマ草燃○るのイントロ)」
オーザルベルグは
クルスベルグの最北端にある州である。
ここは極寒の永久凍土で、硬い岩盤と低温の地下水が吹き出し、掘削作業は危険なものだった。
この劣悪な環境にも関わらず、坑道が無数に走っているのは、エルチニウムが産出していたからだ。
エルチニウムは異世界の超蒸気汽缶(スーパー・スチームパンク・エンジン)に使われる超々活気液である。
詳しい原理は不明だが、水よりも不安定な物質で、低温で大きなエネルギーを取り出すことが出来た。
安定させるには、極低温に保つ必要があり、神聖
ドワーフ帝国は永久凍土からこの液体を取り出していた。
今では蒸気汽缶に代わって超真空管(スーパー・チューブ)技術がクルスベルグの基幹技術となり、
完全に枯れた技術となっていたが、この数十世紀の休眠によってエルチニウムは豊富に溜まっていた。
一度大気に蒸気として溶けたエルチニウムは、やがては雨に混じって凍土に、また貯まる性質があるからだ。
「気を着けろ!」
採掘場に併設された実験施設には、大量のエルチニウムが運び込まれ、利用法の研究が始まっていた。
「よし、最終点検を始める!」
巨大な機械の前に並ぶ科学者たち、指揮を執るのは副総理大臣でもあるベルテ・キュラッサーだ。
号令を聞いたドワーフの作業者たちが、ピカピカに磨かれた真鍮製の機材の前に集まる。
「エル動力機関、圧力を45%へ!」
科学者が手元のコックをひねると低い音が響いた。
部屋中の氷や霜が震えて天井や壁から剥がれ始める。
そこ、ここで氷が床に落ちて、穏やかではない剣呑な音を立てていた。
「トゥーレ機関に動力伝達。反重力ブロックより第8バルブ解放。」
「全ての蒸気を完全に抜け、誘導管が吹き飛ぶぞ!」
「超真空管計器がマイナス目盛りまで落ち込んでいます。」
「モニターを続けろ!どんな些細な変化も見落とすでない!!」
「エルチニウム注入開始。」
「反重力ブロックに亀裂発生。」
「爆縮が起きる前にアブソーバーを全開にして動力機関全体を保護せよ!」
「第7バルブの蒸気が抜けました。」
「よし、再充填!」
「いや、駄目です!中央制御装置、クロックが遅れています!!」
ここでベルテが怒鳴った。
「エルチニウム注入を止めよ!」
「はっ、はい!」
一斉に計器に飛びつくドワーフたち。
色とりどりの真空管が光だし、あちこちから蒸気が噴き出す。
「エル動力機関を停止!」
「反重力ブロック、正常位置に戻ります。」
そこから8時間ほど経って、ようやくすべての機械は停止した。
「クルナップ計画は前途多難だな。」
疲れ切ったベルテはソファーに倒れ込んだ。
この数年間、狂ったように帝国時代の技術を再生して来た、この老ドワーフは、現代では悪魔の化身と忌み嫌われている。
「反重力ブロックの予備は?」
「これ以上、新しく発掘されない限りは9つです。」
ベルテの後ろで、巨大な機械に牽引された、家ほどもある半透明の立方体、それが反重力ブロックである。
その名の通り、それ自体が重力干渉を遮断するものだが、空を飛ぶための装置ではない。
これも超蒸気汽缶の破壊的なエネルギーで全体がひずまないように調整する補助装置に過ぎない。
「この装置は、一体何なのです?」
ベルテが老眼鏡をかけて分厚い文献に目を通しながら答えた。
「ゲート?」
「異世界の言葉で門を意味する。向こう側へ出入りするために装置だ。
これ自体が機械の全てではなく、世界の各地にある子機と連動する親機の、そのまた一つらしい。」
なんとも要領を得ない説明だ。
とにかく、とんでもなく巨大な機械の、そのまた一部ということで、これ自体に特殊な機能はないということだった。
そういってベルテは、そこらへんの紙に何やら図を描き始める。
「この装置自体に、研究する意味はない。
だが、エルチニウムを実用化させるには、もっとも状態の良いこの装置で実験するしかない。
他の場所では、壊れた超蒸気汽缶の再生に着手させた。」
「それがクルナップ計画の本体です、ね?」
ベルテと話していた科学者の眼が怪しく光った。
「ああ。そうだ。」
「これほどの超エネルギーを必要とする兵器とは、一体何ですか?」
「こんな形だ。」
そういってベルテは紙に書いた絵図を見せた。
なんというか、言葉では説明し辛い形をしている。
「できれば、空を飛ぶような兵器だったらいいんだが…。」
ベルテは自分で紙に描いた図案を目を細めながら眺めていった。
一方、エルチニウムの採掘場では鉱夫たちが危険な作業に当たっていた。
「それにしても寒さがこたえるな。」
熟練の炭鉱掘りでさえ、弱音を吐く極寒の坑道内。
油断すれば、すぐに汗まで凍り付いて凍傷になる劣悪な環境。強固な岩盤は事故が絶えなかった。
「こう着ぶくれしてると動き辛いったらないぜ。」
「燃料代も馬鹿にならないよなぁ。」
ただでさえ寒いオーザルベルグでは、灯り用だけでなく、暖を取るにも大量の燃料が要る。
エルチニウムは、今は国内の研究用に採掘している。
つまり、掘っても掘っても国外に輸出する訳でも、商品として売り出している訳でもないので儲けはない。
おまけに毎日、昼も夜も莫大な作業員を投入中である。
しかも凍傷や採掘中の事故で鉱夫たちは次々に病院送りになって、今も大量の人員補充を続けている。
負債がどんどん嵩み、クルスベルグの国庫は空っぽになっていた。
今やクルスベルグの誰もが帝国時代の技術再生を忌み嫌っているというような感情的な問題以前に、
これほど無秩序に資金と人材を投下し続けて大丈夫なのか、という不安も広がった。
そんな中、奇妙な事案が発生していた。
「なんだが、生臭くないか?」
「ああ、エルチニウムを採掘するほど、この臭いが強くなってる気がする。」
鉱夫たちが固まって話していると、別のドワーフが走り寄って来た。
「おい、こっち来てくれ!」
氷漬けの坑道の一部で、大量の死体が見つかった。
極低温のエルチニウムの中で保存されているかのように、何十人分もの死体が折り重なっている。
「死体?」
「それにしたって、なんでこんなに…。」
「…新しい?」
見つかった死体は、まるで昨日の晩に放り込んだように新鮮な状態のままだった。
それもエルチニウムの外に出た途端、次々に腐り落ちて悪臭を放ち始めた。
採掘作業が進むごとに死体は見つかり、エルチニウムの採掘と並行して、死体を運び出す作業が増えていった。
「それにしても凄い量の死体だな。」
「もう何千人分もあるな。」
最初は作業に対する妨害目的で、何者かの仕業かと疑われたが、この採掘場は一日中、稼働し続けている。
これだけの死体を別の場所から運び入れることは、不可能だ。
「エルチニウムがまだまだある以上、もっと出るんだろうな。」
「嫌になるなぁ。」
やがてある日、採掘場に研究者と政府関係者の視察団がやってきた。
その中に混じっていたのは、サミュラだった。
表向きには軍の関係者ということになっている。
「エルチニウムをもっと早く汲み出せないのか?」
「死体の運び出しと並行して行わなければなりませんから。」
ドワーフの採掘場長が、サミュラにそう答えた。
「むしろペースを落とさないと、死体から病原菌が蔓延しかねません。」
場長がそういうと、サミュラの隣にいた鳥人が鼻で笑った。
「この温度で病原菌が増殖できるか。」
「止せ。」
気障りな声を出す鳥人を、サミュラが制した。
「死体を理由に、採掘場を閉鎖しろ。」
それがサミュラの決断だった。
だが、ドワーフの場長は反対しようとする。
ここまで作業を続けて、別の坑道を掘り始めるのはかなり予算が厳しいからだ。
「それは…!」
「やれ。」
場長の言葉を遮ってサミュラは命令した。
なおも続ける。
「時期に軍から正式に文章が届く。
…安心しろ。何もお前たち技師のせいではない。それは私から軍監本部に伝えておく。」
サミュラがそういうとドワーフの場長は、頭を下げてこの場を去った。
彼の部下と政府関係者のドワーフたちもいなくなると、サミュラと彼女の取り巻きらしい鳥人たちだけが残された。
「炭鉱夫たちの代わりに、巌窟王たちを呼べ。
ドワーフのペースでは遅すぎる。何十年かかってもエルチニウムを抜き取れないぞ。」
苛立つ様子のサミュラが、さっきの鳥人に向き直ってそういった。
腹立ちまぎれに底の分厚い鋲付きのブーツで、凍り付いた地面を蹴る。
「サミュラ様ぁ、なーんでこんな穴蔵に拘るんですかい?」
さっきの気障りな鳥人が訊ねると、不愉快そうな顔になったサミュラが応える。
「お前たちは知らなくても良い。」
冷たくあしらわれた鳥人は、サミュラに背を向けてから舌を出して退散した。
とりまきらしい他の鳥人たちも彼に続く。
その後、しばらくサミュラは一人で坑道を歩いて、あちこち見て回った。
たまに気になった地層を調べたり、土を取り出してガラスビンに詰めて持ち帰ったりした。
「地質学っていうのも面白いかも知れないな。」
サミュラは上機嫌になって、独り言をもらした。
理想国家の建設に着手したサミュラだが、人材がそろって来ると、報告を聞く以外にやることがない。
直接自分が動く時以外、サミュラは各地で活動する教団の報告を待って、日々、何かしらの仕事をやりながら時間を潰した。
元は、無学な農民の娘だ。
専門家が集まってくれば、彼女が口出しする様なことは、何もない。
強いて言えば、話し合いが煮詰まった所で彼女が最後の判断を下して、方向性を決定するぐらいか。
それでも昼も夜もなくなった不死者には時間が余り過ぎる。
太陽のあるウチは野良仕事、夜は趣味で歴史や異世界の古典文学、様々な学問をした。
だが結局は農民サミュラとしての生活リズムに一周して落ち着いた。
さて、今日も朝早く起き出して、鍬を持ち畑に向かう。
「ああ、今日は草抜きしないと。」
太陽の下では体がだるく、仕事もきついのだが、夜畑仕事をすると妙な噂が立ちかねない。
今はクルスベルグの数少ない平地で、農家が逃げ出した畑を格安で手に入れて、表向きは農民として暮らしていた。
「サミュラ、今日はいいのかい!?」
ノームたちが声をかける。
サミュラは、野良仕事を休んで教団の活動に参加している間は、体を壊していることになっていた。
「ええ!」
笑顔で手を振って答えるサミュラ。
「無理はいけないよ、サミュラ!」
向こうも軽く返事を返すと自分の畑に歩いて行った。
正直、サミュラは今でもこっちの生活の方が性に合っていると言わないでもない。
だが、自分が本当に特別な力を手にした今、自分には大きな理想を実現させる役目があるのだと決意していた。
「自然に人間が手を入れて管理する。
人間が管理してやることで野菜は自然に任せるよりも安定して育つ。
植物は動物に食べられることで子孫を増やしていくことができる。
誰かに食べられるために存在する命…。
でも、それはやっぱり人間の思い上がりなのかも知れないわね。」
そう言いながら雑草を引き抜くサミュラ。
「…人間の都合で取り除かれる生命…。」
自分がいま引き抜いた雑草を眺めながら、サミュラは独り言を漏らした。
「人間の好き勝手のために…、流される血はきっと絶えないわね。」
クルスベルグ脅威論。
アスコリ戦役に始まる大スラフ島の制圧、電撃的な
ラ・ムールの占領。
そして、その両方の軍事行動で圧倒的な存在感を示した航空兵力。
イストモスは、ここまでクルスベルグとは事を構えていなかった。
まずクルスベルグ側から見て、イストモスの戦力は軽視できないものがあり、
また多額の債権を保有しているため、イストモスを攻撃してもメリットがないという見解に落ち着いていた。
対するイストモスも、クルスベルグを脅威と見ていたが、武器の調達にはクルスベルグに依存しており、
敵対的な行動を起こす勇気が持てずにいた。
この頃からイストモスは武器の調達をクルスベルグ以外にも頼るべきではないかという意見もあったが、
ラ・ムールは最大の仮想敵であり、
ミズハミシマを取引相手にした場合、
ラ・ムールに海上封鎖をされれば武器の調達に支障が出るという側面もあった。
自国内で産業を育てるという建設的な意見もあったが、非現実的に過ぎた。
「クルスベルグは新政府に代わって、卑劣な戦争国家となった。
もはや過去のクルスベルグではない。
今の彼らは外交的膨張政策によって、政府への不信、生活の閉塞感を払拭しようとやっきになっている。
今の彼らは戦勝に酔っているだろうが、酔いは判断を誤らせる。
時期に我がイストモスにも攻撃を仕掛けて来ないという保証はない。」
アッピウスは首長会議で、こう主張した。
「アッピウス殿は大ハンに選出されたいが故に、ありもしない理由でクルスベルグを敵国と思わせ、
我々を無謀な戦争に巻き込もうとしているのではあるまいか?」
「いや、システィウス殿の意見は弱気に過ぎる。
現に、あのラ・ムールさえも、ああも早く陥落したではないか。
今のクルスベルグは、かつてないほどに強大で、かつ正気を失っている。」
「いや、もっと慎重に!」
イストモスが議論を躍らせている間に、クルスベルグは先走った。
フォンベルグの国民議会は発狂していた。
カーラ砂漠の戦いでイストモスがラ・ムールに味方して戦ったことが彼らを震え上がらせた。
加えてイストモスで対クルスベルグ戦争が議論され始めたことが、火に油を注いだ。
「何故、イストモスは我が国に負け、かつ宿敵ラ・ムールに味方したのか?」
「弱者には手を差し伸べるという騎士道精神だろう。」
「まさか、このまま我が国とも戦うつもりではあるまいか?」
「バカめ。我がクルスベルグ大空軍は強いのだ!返り討ちにしてやるわ!!」
「そうだ!攻撃を受ける前に、我々が打って出ればよい!!」
鎚を振るっている内は名工と讃えられる議員たちだが、基本的には政治家としては無能揃いである。
こうも容易く開戦へ向かう議論に傾いても危ぶむ声さえ聞こえず、加速を続けるばかりで反対意見はない。
十分に議会が熱せられたところで、首相パン・オットーが席を立った。
彼は歴史の立会人となり、まるで勝利者のようにうっとりとした調子で議員たちに訴えた。
「それでは、ここにイストモス攻撃の権限を、我が勇壮なる軍隊に与えたい。
賛成の議員諸兄は、起立してくれ給え。」
その日、ほぼ全会一致でイストモス攻撃が決議された。
両手の指の数より少ない何人かの議員は浮き足立った議員たちを横目に頭を抱えたが、
その中に大統領シフ・ヒルシャーもいた。
議会閉会の後で、大統領執務室でシフとパン・オットーは言い争った。
「オットー、これはやり過ぎではないか!?」
シフが迫るが、オットーはご満悦だ。
「連戦連勝で国民は、今の政府を支持している。
何十年もかけて雇用対策や経済政策を続けるより、戦争での勝利こそ、民心を掴む特効薬じゃないか。」
「何を馬鹿な!
キュラッサーはエルチニウム採掘や技術再生に、どれだけの金を使ったと思っている!?
第一、飛行船は軍隊に装備させるためではなく、国外に売り出すはずだった。
それをお前たちが勝手に戦争に使い始めたんだぞ。
飛行船を作った代金は、そっくりそのまま不良資産になって、焦げ付いている。
他にもとんでもない負債が山積みになっているんだぞ。」
シフは大統領執務室に集められた資料をオットーに投げつけた。
これに怒ったオットーは報いた。
「黙れ、三流職人風情が!
クルスベルグの技術力こそが、他のどんな国よりも優れていることを世界中に教えてやる。
神にも等しいドラゴンの大群だろうと、イストモスの大騎士軍団、ミズハミシマの龍神だろうが、
我々の叡智、我々の技術、我々の生み出した新兵器の前に屈するのだ!!」
「それは妄想だ、オットー。
私が帝国技術再生を目指して来たのは、戦争のためなんかじゃない!!」
シフが迫るとオットーもクールダウンして、シフから離れた。
「…君はよくやったよ、ヒルシャー。」
だが、シフは議論を打ち切るつもりはなかった。
「オットー、支持率のために国民に犠牲を強いるな。
我々が先祖から受け継いできた技術は、大量殺戮のためにある訳じゃない!」
「下らないヒューマニズムだ。」
オットーは吐き捨てるようにシフの意見を真っ向から切り捨てた。
それでもシフは演説を続けるのだった。
「君は戦争にいったことがあるか?
確かに僕が行った戦争は、お遊戯のようにいい加減な、遊び半分の小さな戦闘だったよ。
誰一人、真剣にこれから起こることについて、考えが足りなかったのさ。
だが僕と一緒に戦った仲間たちは死んだぞ。
勝とうと負けようと、戦いが激しくなかろうとも、戦争が起こればそこで傷つく者は必ずいる。
僕は職人の世界から逃げ出した中途半端な男だ。
ネジ一本まともには作れないし、工作機械だって使い方が分からない。
だが、戦争は君ら、大師匠(マイスター)たちよりもずっと知っているつもりだ…!」
シフは必死に語り掛けるが、オットーは眉ひとつ動かさない。
「…開戦演説の原稿は、2日以内に閣僚に提出しろ、ヒルシャー。」
大統領は国によって、その権限には大きな差がある。
もともと圧政の解放を建国の起源に持つクルスベルグは個人の権力による独裁を恐れ、
大統領の権限は、極めて弱く、この無謀な戦争を止める手立てはなかった。
だが政権与党そのものが、強力な一党独裁をもくろんだ場合、
議会制民主主義という政治構造は…。
決議から1週間、クルスベルグ空軍はイストモスの全方位、あらゆる場所から侵入した。
ラ・ムール戦と同じく、クルスベルグ空軍は既存の兵力では考えられない速度で進撃し、
瞬く間にイストモスの首都アクティパルに侵入した。
アクティパル大空襲は5度に渡り、都市の各処が火の海に包まれた。
そんな中、事件は起こった。
「クラタナル大天導院を爆撃するかだと?」
クルスベルグ空軍総監、ドルク空軍大将は派遣した第8空軍の司令官から、そのような質問を受けた。
クラタナル大天導院はイストモスの誇りともいうべき建造物で、50年の歳月をかけてようやく完成した。
当然、この時代では新しい建物であり、歴史的な価値はなかったので爆撃の目標になった。
「ラ・ムールの王都は手を出さなかったのに、どういう心境の変化です?」
彼の部下らしい将校がドルクに訊ねた。
その態度は、薄ら笑いを浮かべ、残忍な色に満ちていた。
「分かり切ったことだ。
我々の同志が少ないからだよ。」
ドルクもほくそ笑みながら答えた。
ここでいうドルクの同志とは、悍ましい闇の勢力、いまや各国にはびこる
モルテ教団の信者たちに他ならない。
「それに、イストモス軍の強さは、やはり計り知れぬところがある。
我が君の理想国家建設の邪魔になる敵の力は削いでおかねば。
我が君の思想を理解せぬ、愚か者ども。
死をもって悔いるがいい。」
軽々しく攻撃指令の書類にサインしながら、ドルクは顔を醜く笑いながら歪ませた。
「ああ!
早く、早く!!
我が君の作る地上の楽園に迎え入れてください!
私もそこで、不死なる家族に迎えられるのだ!!
ふひ…、ふひひひひ!!」
明晩にも折り返しの攻撃指令を受け取った第8軍司令、ゲリ空軍中将は真っ青になった。
「…まさか攻撃を指示されるとは。」
今日まで5回も爆撃を仕掛けたが、イストモスは全く動じない。
まるで鉄の意志を揺るがせることなく団結し、空爆にひるまず、それどころか地上戦では勝ち続けていた。
ゲリ中将は、クラタナル爆撃はないものと思っていた。
だからこそ、ワザと攻撃目標からは外して来たのだが、これ以上、効果的な目標は残っていない。
「フォンベルグの空軍司令部は狂っているとしか思えない。
あのような素晴らしい建築物は、人類全体の宝だ。まして職人ならば、あの素晴らしさが分かるはずだ。
どれだけの血のにじむ努力を重ねたか知れない。
…それを破壊するなんて!!」
ゲリ中将も職人の息子だ。
だが、生家の刃物工房は不況で潰れ、軍人としての生涯を歩まざるを得なくなった。
それでも毎日、良いものを安く作ろうという父親や、その弟子たちの姿を覚えている。
クラタナル大天導院もきっと多くの人々の思いが詰まっている。
それを、こんな軽々と壊していいはずがない。
「何としても、司令部の考えを変えなくては。」
ゲリ中将がデスクを立つと、部下たちが立ち塞がった。
「司令、地上戦では大勢の味方が殺されているのですよ?」
「奴等に報いを与えてやりたくないのですか?」
「指令を実行してくださいませんか!」
目を血走らせた部下たちを前に、ゲリは喝破した。
「お前たちは血に酔っている!
大天導院は軍事施設でも、政府の中枢機関でもない。
ただの研究機関じゃないか!
それも兵器を研究している訳ではない。
攻撃する意味はないじゃないか!!」
それでも部下たちは肯首しない。
「やらせてください!」
「許可を!!」
ゲリと部下たちが口論を続けていると、ついにゲリは決心した。
ドワーフの誇り高い将軍は部下たちに背を向け、自らのデスクに座り直していう。
「そうか。
どうしても本国と連絡を取り合えぬというのだな。
ならば、私はこんな悪趣味からは、さっさとおさらばさせて頂く!
さらばだ、諸君!!」
そして腰のホルスターから拳銃を引き抜くと、ゲリは自分の下顎から頭を吹き飛ばして死んだ。
派遣軍の司令官が頓死したことで、空軍第8軍は行動不能に陥った。
すぐに本国は副司令官のバウザー中将を呼び出したが、彼も上官の志を引き継いで爆撃を拒否した。
「司令官の志を、私も引き継ぐ覚悟がある。
諸君、通信機を破壊してしまえ。あのような宝を破壊しようという司令部とは着き合いきれない!!」
バウザー副司令は直属の信頼の置ける部隊を動かし、通信機器を不能にして、
派遣軍全体の行動を不能にした。
たちまち混乱に陥った空中艦隊。
艦同士の短距離通信は悲鳴のような喃語で溢れかえった。
「巡洋艦ヒルドルフよりの返信!本国との連絡が未だに取れません!!」
「戦艦グリュンベルグ、通信途絶!」
「長距離通信は、全て死んでいます!」
「地上の前進基地の通信施設が破壊されている模様!」
第8軍主力航空艦隊、シーブ艦隊司令、シーブ中将は地上の基地が敵の攻撃を受けたのではないかと考え、
他の分遣艦隊とも連絡を試みるが、合流すらままならない。
「イストモス軍が前進基地を攻撃したという可能性は!?」
「小型の偵察機を飛ばしていますが…。」
「司令ぇっ!」
ひとりの下士官が、悲鳴をあげて駆け寄って来た。
「どうした!?」
「地上で反乱が起きたとのこと!
ゲリ司令長官が自殺し、バウザー中将が部下たちと共に通信装置を破壊してしまったとのことです!!
り、理由は本国がクラタナル大天導院を爆撃するという指令を司令長官が拒絶したためで、
今はバウザー中将も命令を拒絶して、逆に命令に従おうという兵たちと戦っています!!」
「な、何だと!?」
この敵軍の混乱は、イストモスにも筒抜けだった。
瓦礫の山と化した首都の中で、必死に抵抗を続けるイストモス騎士たちの元に、ひとりのドワーフが現れた。
「攻撃しないでくれ!こっちは丸腰だ!!」
ドワーフが大声で怒鳴り散らしながら廃墟を駆け抜けていく。
しばらくすると人馬と狗人の集団が崩れかけた建物から姿を見せ、ドワーフを取り囲んだ。
「私はクルスベルグ空軍、第8軍、駆逐艦ロンヴィントの飛行兵タイラー・ウーサー!
今、我が軍の前進基地で起こっていることについて、貴軍に情報を伝えたい。」
この勇気ある特使の用件は、こうである。
この戦争は浮かれた国民が無計画に始め、政府がそれに音頭を取ったものであり、
あろうことか民家や住宅密集地だけでは飽き足らず、遂にクラタナル大天導院を攻撃目標に定めた。
それに反対する一部の心ある将校と兵士たちが叛逆を起こしている。
都合のいい話ではあるが、バウザー中将と彼に従う兵たちを助けて欲しいということだった。
「今なら地上の施設が麻痺していて、空の艦隊は通信が取れずに身動きは取れない。」
「何故だ?」
イストモス騎士がドワーフの飛行兵に訊ねた。
「燃料の関係で無暗には動けないんですよ、飛行船は。」
ドワーフが答えると人馬たちは口々に素っ頓狂な会話を始めた。
「おお、そういうものなのか。」
「燃料というと、あれは油か薪で飛んでいるのか?」
「中にワイバーンが入っているのではなかったのか!」
「その通信機器というのは、敵軍が残していったのだが、これか?」
そういって人馬たちが取り出したのは、ただのエッチな玩具である。
戦場での”慰み物”として、このような機械も与えられていたのだ。
「そ、それは通信機じゃない。」
ドワーフが言うと別の騎士が声をとがらせて言った。
「ほら見ろ!」
「なんだよ、お前だってひょっとしたらって言ってたじゃないか!!」
しばらく、カルチャーギャップによる混乱が続いたが、
オークたちでも見上げるような屈強な人馬の将軍たちが姿を見せると若い騎士たちは口を閉じて敬礼した。
小兵のドワーフ、タイラー兵士は古代の神々に対面したような心持ちになった。
「話は聞いた。
騎士として、そのような状況下にある者を見捨てては置けぬ。
敵とは言え、そのような誠を持つ戦士を助けないで何がイストモスの誇り高き騎士か!」
「アトニウス閣下、直ぐにでも敵陣に突撃し、そのバウザーなる勇士を救いましょう!」
将軍たちがそういうと、若い騎士たちは一部の反論もなく喝采を上げた。
「ウラーッ!」
「ウラーッ!」
「ウラーッ!」
熱し易さでは、今のクルスベルグ国民議会のドワーフたちと変わらない。
だが、彼らの行動には正義があった。省みる事無く敵に手を差し伸べるような矜持があった。
結果からいって、アトニウス率いる騎士団の第8軍前進基地への攻撃は失敗した。
流石に連日の戦闘で数を減らしていた彼の騎士団は、如何に相手が脆弱なクルスベルグ陸軍とはいえ、突破に失敗した。
抵抗したバウザー中将も、押し寄せて来た味方によって殺された。
だが、第8軍の統率能力は完全に崩壊し、まとまった行動がとれなくなったことで撤退した。
それでも軍令に背き、偉大な建築物を守ろうとした二人の将軍の死は、イストモスの人々を奮い立たせた。
騎士道的な行いを貫く二人に対し、遠い本国から非道な命令を発するクルスベルグへの怒りは、
イストモス全体を奮起させ、遂に戦闘に参加していなかった全部族が集結し始めた。
常に戦える状態にあることを美徳とするイストモスだが、全ての部族が戦える訳ではない。
小さな貧しい部族は、恥を忍んで今日までは戦いには参加していなかった。
だが、本来は敵である二人の将軍が自分たちのために立ち上がったというではないか。
これを聞いても自分たちの生活を守り続けることに甘んじていられるほど、彼らの卑劣さの許容量はない。
すぐにでも貧しい人馬や狗人たちさえ、自前で武器を手に入れて、戦場へと駈け出していった。
決断すれば何事にも快刀乱麻。
これまでにない大軍に膨れ上がったイストモス軍は、クルスベルグ国境に迫った。
その報を受け、ラ・ムールも動き出す。
ラープ将軍は占領軍を蹴散らし、自分たちが今度はイストモスに合流することを決定した。
「何をややこしく考えることがありますか!?
受けた恩を返すだけのこと。それが問題でしょうか。」
王都王宮の会議場でラープは猛々しく演説するが、他の重臣たちの反応は鈍い。
まず正式な国王代理ムウが反論した。
「ことの発端であるイストモスに援軍を頼んだのは、君のスタンドプレーだぞ。」
大神官シン・ネレフトも続く。
「どうしても借りを返したいというのなら、君一人で行きたまえ。
ラ・ムール軍は国家の軍隊であって、君の私物ではないし、君の軍権は非常時だけのものだ。
新たに戦端を開くのは、国王代理の権限をもってしか認められない。」
「き、貴殿らには面子はないのか!?」
ラープが吠えるとムウも負けてはいない。
「カー・ラ・ムールを一国民と言った貴官が、今度は国家の対面のために兵に死ねというのか!?
これは全くの二枚舌だぞ、ラープ!!」
「その通り。」
シン・ネレフトも追従した。
ラープは握り拳を固めて悔しがった。
せっかくラ・ムールとイストモスの間にあった憎しみやしがらみが解かれようとしているのに。
だが、彼自身、自分が軍人だから戦争をしたくて仕方ないのではないか、という疑問もあった。
その心の迷いが、これ以上の強硬姿勢になる前に、彼を思いとどまらせた。
「分かった。
イストモス軍には、ラ・ムールは兵を出せぬと伝えよう。」
恨めしそうにムウを睨むラープの眼は、戦場の敵を見るような目になっていた。
その眼光に、ムウも背筋が凍る思いがした。
「しょ、将軍、悪く思うな。
だが、ラ・ムール軍が動けぬのは、君がクルスベルグに早期降伏したからでもあるのだぞ。」
ムウが捨て台詞を吐くと、ラープは一瞬飛びかかりそうになって、その場で堪えた。
「肝に銘じます。」
それだけいうと、肩を落としてラープは王宮から退散した。
議場の神官や大臣たちは、埃臭い軍人の背中をうとましそうに横目で睨んでいた。
「…ぐ、軍人め。」
国王代理ムウ・マフテップは、小さく呟いた。
盟友ラープからの返答にアッピウスは落胆した。
だが、ラープからの書簡には、胸が締め付けられるような彼の思いが伝わって来た。
「ラ・ムールはクルスベルグの占領下にあり、我々には合力出来ぬと言って来た。」
アッピウスの表情で、半ば手紙の内容を察した各族長と将軍たちは驚かなかった。
それでも皆、一様に悔しがった。
「ふん!猫は三日で三年の恩を忘れるということか。」
「言うな。彼らにも事情がある。」
「猫に小判とはまさにこのこと。
奴らに手助けなどしてやることはなかったのだ。」
「自分たちが貸した金は覚えていても、借りは忘れてしまうと見える。」
「義を重んじぬ猫どもなど、ルミコープ河に飲まれてしまえ。」
「もう止せ。」
一瞬にしてお通夜のようになってしまったイストモス軍の本陣。
天幕のなかで歴戦の勇者たちが、情けなくため息をついた。
「引き返すぞ。」
そういったのはララク族のアストス将軍だ。
故郷に老いた叔父の族長と家族たちを残しての出陣であった。
幼くして父が死に、本物の父のように叔父と共に一族を守って来た。
特に父が死んだ直後、多くの部族がララク族の支配領域に攻め寄せ、数えられない程の血が流れた。
叔父も彼も、敵部族から裏切りの誘いを受けたことさえあった。一方を殺して族長にしてやろうと。
それでも二人は互いを信じて協力し、どんな戦いも切り抜けて来た。
そんなアストスは苦労人として知られ、弱小部族の将軍なれど、その言葉には重みがあった。
「アストス殿、ここまで来て引き返すというのか!?」
「クルスベルグは深い谷が続く狭隘な地形。
それは我々、ケンタウロスのもっとも苦手とするところ。
狗人たちだけでは、敵に後背を着かれた場合、瞬く間に壊滅することは、自明の理。
ラ・ムール軍の援軍がなければ、谷の中を進むことは出来ぬ。」
深い傷を幾条にも刻み付けたアストスが、きらびやかな鎧の若い大部族の将軍たちに一喝すると、
誰もが彼の言葉に深く感じ入って、それ以上は何も言えなかった。
「然(さ)もありなん。」
さらに彼より年長の族長、将軍たちも次々に肯首した。
「アッピウス殿はいかに?」
上座を占めるアッピウスに、アストスが声をかけた。
本来であれば、二人の身分は天と地ほども離れている。
このクルスベルグ反攻は、アッピウスの発案であり、彼の言葉によって、皆がここまで来た。
それを覆すことで彼の反感を買いたくない有力者たちは、一様に口を閉ざしていた。
それに見かねて、小勢のアストスが事態の打開に動き出した訳である。
勿論、そのためにラ・ムールが援軍を拒む機会を待って、説得を始めるという手順もあらかじめ決めていた。
「駄目だ。
ここで我々が引き返せば、再びイストモスの各地が爆撃を受け、卑劣な手段で皆が命を落とす。
我々がクルスベルグを攻めることで敵の攻撃を封じ込めることができるのではないか?」
顔色が良くないアッピウス。
苦し紛れな提案をするが、アストスは静かにはねのけた。
「そうでしょうか?
私がクルスベルグの軍権を握っていれば、
敵がどれほど攻め込もうと空中艦隊を自国内に戻すようなことはしません。
あれは敵国に侵入させ、主要な都市を攻撃することに戦略上の意味がある。
自国内での防戦には、せいぜい兵員の移動か、偵察程度にしか使えない。
あの巨大な空中戦艦は、その程度のことに使うような安っぽい代物ではありません。」
アストスの反論に、アッピウスに代わり、彼と考えを同じにする別の族長が口を開いた。
「では、このまま黙って殴り殺されるのを耐えろというのか?」
重ねてアストスが反論する。
「ラ・ムールのように降伏するという手段も考えられますが、
国民皆兵ともいうべき我がイストモスの兵力を恐れて、クルスベルグは攻撃を仕掛けて来た。
恐らくは我が国の国力が、大きく減殺されない以上は、攻撃を続けてくるでしょう。
それゆえに降伏は受諾されないでしょう。
空飛ぶ敵に、今以上の反撃の手段がない以上、耐え続ける以外に取るべき戦略はありません。
飛行船艦隊を維持する燃料や資材が尽きるか。
イストモスすべてが焦土と化すか。これはもう、我慢比べです。」
アストスの口上に、誰もが同意した。
あの空飛ぶ敵に対し、何もできない以上は、反撃する手段がない。
今からクルスベルグの各地にある石炭鉱山などを攻撃しても、すぐには飛行船を封殺することはできないだろう。
第一、クルスベルグに無数にある資源採掘施設を破壊するなど、自殺行為だ。
あそこから世界中に石炭や鉄鉱石などの必需品が提供されている。
それをことごとく破壊すると言うことは、自分たちで文明の灯し火を消してしまうようなものである。
「…ドラゴンに助けを求めてはどうだろうか?」
それはひとりの戯れな発言だった。
だが、すぐに別の人馬の将軍が続いた。
「ドラゴン?」
「確かにドラゴンならば、あの飛行船団を撃滅できるだろう。」
クルスベルグの飛行船団は、ワイバーン程度の攻撃には耐えられるだろうが、ドラゴンの攻撃は耐えられまい。
というより地上でも空中でも、あの規格外の生物より大きな破壊力を持つ生物は存在しない。
スキュラにせよ、ヒドラにせよ、他の海獣にせよ。ドラゴンほどの大きさはない。
「だが、我がイストモスにはドラゴンは住んでいない。」
「クルスベルグのチャールズ一族も追い出されて、今は未踏破地帯の奥地に散ってしまった。
ヘンリー一族は
エリスタリアにいるが、ドラゴンの中でも、あまり強い部族ではない。」
「となれば、ジョージ一族か。」
ドニー・ドニーの辺境で老後の隠遁生活を続けていた黒い長角のゲオルグ。
そんな老ドラゴンのもとに、何人かの使者たちが姿を見せた。
ゲオルグは、それを待っていたように体を起こして挨拶した。
「ケンタウロス、猫人、
ゴブリン。
この時期に種族の違う亜人たちが、ワシのところに来た以上、その理由はひとつしかない。
クルスベルグの空中艦隊をドラゴンの力で撃ち払って欲しいというのであろう?」
ゲオルグ翁がそういうと、一団の中のひとり、ゴブリンの使者が進み出た。
「御明察の通りでございます、ゲオルグ翁。
見返りには十分な報酬を用意します。どうか、我々に力を貸してください。」
「ふふん。」
ゲオルグは残忍な笑い方を返した。
思わず、その場にいる一同が凍り付いた。
並みのドラゴンより、ふた回りは大きいゲオルグは、老いたりとて、足が震えだすほどの威容を湛えている。
「神々の力に守られたお前たちが、どうしてワシらの様な化け物の力など必要とする?
お前たちだけの力で、どうにかすればいいだろう。」
ゲオルグはそういって、オロオロと慌て出す使者団の姿を眺めて面白がっていた。
「報酬に関しても信用できぬ。
戦争で死のうと、ワシらに食い殺されようと、お前たちにとっては同じことではないか。
それがどうしてワシらに助けを乞うような考え方に落ち着いたのか。
呆れてものも言えぬ。
言っておくが、クルスベルグのドワーフめらは食いたくないぞ。
あれは長年の生活で吸い込んだ重金属が体に交じっておる故、毒なのだ。」
そして一層、眼光を鋭くすると素早く首を伸ばして使者団の目の前に頭をおろし、
大顎を開いてたっぷりと怯えさせた。
「どうだ?
同胞のためにワシらの餌になる覚悟が、お前たちにあるのか?」
結局、この日の使者団はケンタウロスたちを残して全員が怯えて逃げ出してしまった。
残された数名のイストモス騎士たちは粘り強く交渉したが、
度胸はあっても交渉事は苦手なお国柄である。
「弱者に手を差し伸べてこそ、騎士道ではありませんか、ゲオルグ翁!」
「騎士道など、ワシらは必要ない。
腹が空けば親子であろうと食らって生きて来た。
どれだけ許しを請われようと、我が牙を逃れた者はおらぬ。
何より騎士道などと薄ら寒い物差しを振りかざすことを恥と知るがいい、イストモスの騎士よ。
貴様らの殺人を正当化するだけの大義名分には、吐き気がする。」
自分たちが信奉する騎士道を非難されて、人馬たちは穏やかではなかったが、相手がドラゴンではやりようがない。
遂にイストモス騎士たちも、泣く泣く撤退した。
「やはりゲオルグ翁は難物だ。
他のドラゴンならば、報酬と言っただけで喜んで力を貸してくれそうなものだが。」
猫人の使者がそういうと、若い人馬が報いた。
「というより、今のジョージ一族の、実質の長である五つ首のジョージに頼めばいいのでは?」
「いや、あれでは話し合いになりそうもない。」
一人のゴブリンが苦笑いしてそういうと、全員が追従した。
しかし持論を真っ向から叩き伏せられたイストモスの若い騎士は面白くない。
「ああ、その場で食われそうだ。」
「あれは翁と違って、ただのケダモノだ。」
「暗い目のジョージはどうだ?」
と猫人がいった。
しかし別の猫人が反論する。
「彼は一族から離れて生活しているからな。
彼の言葉では一族を動かすようなことはできないだろう。」
各国の交渉団は肩を落とした。
八方塞がりだ。
「やはり、エリスタリアのヘンリー一族に頼るというのは?」
「あの骨と皮の様な連中に、何ができるというのだ。
飛行船団の高度まで飛行できなければ、攻撃を加えることさえできない。」
「それにエリスタリアはクルスベルグとは実質、同盟関係にある。
今でもラ・ムール再侵攻を計画して、兵力を回復させようとやっきになっているらしいじゃないか。」
「ミズハミシマはどうなんだ?」
猫人の使者がそういうと、ドニー・ドニーの代表たちが首を振った。
「相変わらず反戦運動だの、デモクラシーだの。
今じゃ乙姫政権と敵対して、北部政府なんていうのが出来ちまって、国を二分してるって有り様だ。
ここだけの話だが、最近、勢力を拡大させているモルテ教団とかいうカルト集団が裏で糸を引いてるらしい。
モルテ教団は長く数百年、ひっそりと地下で活動を続けて来た宗教団体なんだが、
それがこの十年ぐらいでいきなり規模が数倍にもなって、信者も増え始めたんだ。」
ゴブリンの使者がそういうと、人馬の使者も口を挟んだ。
「そのような集団は、聞いたことがない。」
そうイストモス騎士がいうと、ゴブリンは両手をあげ、小馬鹿にするようにいう。
「高潔な騎士様は、宗教で金儲けしたり、モルテ教団の掲げる不死の思想とかは、興味ないだろうからね。」
一人がそういうと、他のゴブリンたちも不快な甲高い声で笑いだした。
そこまでいわれると、人馬たちもムッとする。
「と、当然だ。
不死の思想など、そんな得体の知れぬものは、我々には必要ない。」
「ところでモルテってなんだ?
”死月(11月)”となにか関係が?」
そういったのは猫人の使者だ。
ゴブリンのひとりが答える。
「モルテは教団の開祖の名前じゃない。
死の神モルテ、この世界の生き物たちの死を司るという神を信奉するのが、モルテ教団なのさ。」
「…詳しいな。」
イストモス騎士の付き添いの狗人たちが、不審そうな目を向けるとゴブリンは苦笑いした。
「おいおい、商売上、そういう連中と付き合いがあるだけだよ!」
ゴブリンがうっかり口を滑らせた。
ひとりの人馬が目をカッと見開いて怒鳴り散らす。
「貴様ら、そんな邪悪な教団と付き合いがあるのか!!」
怒髪天を衝く、イストモス騎士たちが一斉にゴブリンたちに駆け寄って来た。
誰もが顔を真っ赤にしている。
「お前たちは商売さえできれば、相手は誰でも構わないというのが気に入らぬ!
もしやミズハミシマの政治混乱も、そうやって助長させているのではあるまいな!?」
「そ、そんなことしないよ。」
ゴブリンのひとりがそういっても、人馬たちは引き下がらない。
「取り引きしたら同じことだろうが!!」
その場は人馬たちが大人しくなるまで話し合いは中断し、後日に仕切り直しとなった。
しかし結局はゲオルグを「うん」と言わせることはできず、数日に渡る交渉は失敗した。
「海の環境を守ろうー!」
「未成年のセックスを禁止しましょう!」
「ミズハミシマを民主化しましょう!」
「ドニー・ドニーとの通商条約に調印すると、国民の半分が職を失いますよ!」
「同性愛を認めましょう!」
「食の安全のため、海外から食料を調達するのはやめましょう!
海外から輸出される食べ物には危険な物質が含まれています!!」
「肉を食べるのは野蛮です!
菜食主義こそ、文明社会の正しい姿です!!」
「共産主義こそ、真の理想国家ですよー!」
「闇タバコ撲滅ー!!」
ミズハミシマの各地で繰り返される無意味なパレードは、加熱を続け、常軌を外れて暴走し始めた。
北部政府はそんな混乱の中で勃興し、反乙姫勢力を糾合し、各地を実効支配した。
かねてよりの反戦運動のためにミズハミシマの正当な政府、南部政府は手出しが出来ず、
北部政府は次々に主要な都市を占領して、今では国を二分する勢力に急成長しつつあった。
「親愛なる将軍様万歳ー!」
群衆の歓呼に答えて姿を現したのは、竜人の男、トトノのオクスである。
元は普通の農民だったが、革命勢力の指導者となって、メキメキと頭角を現した。
「忠勇なる我が革命軍の兵士たちよ、
帝国主義者、乙姫の率いる南部政府を打倒しよう!」
オクスはそういって拳を上げると、民衆もそれに応じて拳を突き上げて答えた。
「打倒しよう!」
「打倒しよう!」
「打倒しよう!」
影から、この低劣な扇動者を見守っていたのがモルテ教団の幹部のひとり、キエム・デュエトである。
キエムは溜息を吐きながら演台から戻って来たオクスに声をかける。
「オクスよ、貴公はこのままミズハミシマを混乱させておけばよい。」
「分かっている。
だが、我が君の大願成就の暁には、ミズハミシマの王にしてくれるという約束は本当だろうな?」
この身の程を知らぬ操り人形の戯言に、キエムは酷く食傷気味だったが、調子を合わせて答えてやった。
「無論だ。
不死の貴族の一員にも迎えてやる。
我が君のために尽くせよ、オクス。」
キエムはオクスとその後のミズハミシマ各地の戦線での方針を話し合い、
ある程度、意見を取りまとめてから別れた。
キエムは焦っていた。
彼の君、サミュラは一向に進まないミズハミシマの破壊工作に苛立って、再三の催促を送って来た。
いっそ、ここでパンデミックを開始しても良いという通達も来ている。
「龍神と乙姫は、既知世界でもっとも恐るべき戦力だからな。
我が君が恐れるのも当然というものだよ。」
そういったのはヴェルルギュリウスだった。
日光対策に厚手のマントとローブを着込み、鋼鉄の仮面を着けている。
「だが、ここでパンデミックを起こすのは危険すぎる。」
骸骨王がそういうと、キエムも頷きながら応えた。
「幽霊船団の戦力を、我が君は過大に評価し過ぎなのだ。」
キエムがそういうと、表情の読めない骸骨王は何を考えているのか、少し声のトーンを落として報いる。
「嫉妬しているのかキエム候?」
「嫉妬だと?」
意表を突かれた様にキエムが顔を上げた。
ヴェルルギュリウスが続ける。
「そうだ。アドミラ提督は我が君のお気に入りだからな。」
骸骨王がそういうと、キエムは動揺を隠せない様子で否定した。
「我が君は、アドミラ伯を気に入っている訳ではない。
…我が君は、ヤツの海軍力を愛でておいでなだけ…。」
「ほら、見ろ。」
骸骨王が人差し指を真っ直ぐに伸ばして、キエムを指す。
不快そうな表情を浮かべるキエムは頭(かぶり)を振って答えた。
「ビル、俺は。
…私はアドミラ伯に嫉妬などしていない。
我が君が幽霊船団の戦力を過大に見積もって、ミズハミシマでパンデミックを起こすことは、
戦略上、不利に働くと考えている。
それだけだよ。」
キエムの言に、骸骨王は腕組みし、次いで脚を組み替えて、しばらく沈黙した。
少しの静寂があって、老獪なヴェルルギュリウスは再び口を開いた。
「ともかく乙姫政権を転覆させるのが、君の役目だ、キエム。
我が君には、君の意見を伝えておくが、ゆめゆめ判断を曇らせるなよ。」
「ああ。」
キエムは口ではそういいながらも、未だに兵力を増やし、ミズハミシマやドニー・ドニーの艦隊を攻撃して
華やかな戦果に恵まれた幽霊艦隊提督、アドミラ伯と彼の強力な艦隊を頭に思い浮かべた。
「エルチニウムの採掘量は、現在、一日当たり80万バレルとなっておりますが、
未だにオーザルベルグの地下には数年分のエルチニウムが埋蔵していると見られます。」
「数年?」
気の遠くなる報告にサミュラはくらくらしながら、黒い大きな犬を抱きしめた。
はじめて絞首刑台で会った時よりも、犬は大きくなっていた。
「…キエムには急いでって伝えたのに、
こっちが手間取ってるんじゃ、良い訳が立たないけど。」
「我が君はキエム候には厳しいですな。」
報告に戻ったヴェルルギュリウスがそういうと、サミュラは頭を掻きながら報いる。
「着き合い辛いのよ。」
「さいで。」
骸骨王の含みのある返事に、サミュラは気が咎めたのか、いぶかしげな表情になった。
「なに?」
不機嫌そうにサミュラが詮索すると、骸骨王は低く笑いながら答える。
「くっくっく…。
いや、何と申しませんが、キエム候も我が君に遠ざけられておるような気がするのでしょう。
たまには、あの小僧もねぎらって下さいませ。お傍に置けとは申しませんので。」
骸骨王の答えに、サミュラは「ああ。」と呟いた。
確かに家臣としては主君に遠ざけられているのは、気にかかるかも知れない。
だが、あの小うるさい石頭を傍近くに置いて、お小言をいわれる方こそやある。
「口うるさいのよ、あいつ。」
「我が君を思えばこそに。」
ここでサミュラが、キッと鋭い目線を骸骨王に飛ばすと、ヴェルルギュリウスは深く頭を下げた。
「平に。」
それでも相変わらず、低く笑い声が聞こえていたが。
次の日、ヴェルルギュリウスは、太陽の下には出られないため、家の中に隠れていた。
だが、サミュラは今日も野良仕事に出て行った。
クルスベルグは、イストモスとの戦争が泥沼化し、イストモス各地を無差別に爆撃し始めていた。
ラ・ムールでも各地でクルスベルグ占領軍とレジスタンスの散発的な戦闘が始まり、
もはや占領統治の限界が見え始めていた。
エリスタリアは長老議会と両王の意見が対立し、兵員補充に失敗し、内乱に突入しつつあった。
ミズハミシマも、近いうちに南部政府と北部政府の衝突は回避できないだろう。
オルニトは国王暗殺が発覚し、政変が起こって乱れに乱れるだろう。
マセ・バズークは沈黙を保っているが、隣国の混乱に、冒険心を駆り立てられているのだろうか?
全てはサミュラが陰で糸を引いて来た事だ。
罪悪感がない訳ではない。だが、これは畑の雑草を抜くことに近い。
彼女の理想とする新国家の建設のためには、邪魔になる敵勢力は弱体化させておく必要があった。
そこに謝罪しようとは思わない。
これは幸福な死を、全ての生命が手にするための、その大いなる善にもとづく犠牲に過ぎないのだから。
そして、人の営みに関係なく、畑は富んで黄金色となる。
「それもまた私たちのための死となる。」
サミュラは、小さくそう呟くと、黙々と大鎌で小麦、正確にはそれに近い異世界の植物を刈り取った。
死の神に魅入られた少女が、黒いローブを被って大鎌を振り回している姿は、如何にもな取り合わせだが、
直射日光を避けて長時間作業するため、これは当然の仕様である。
泥にまみれ、汗を垂らして作業していると、ここがやっぱり自分の原風景なんだとサミュラは確認していた。
ここで仰ぐ太陽は、かつてと違って、お前を罵り、憎しみの言葉を吐きながらその身を焼く。
踏みしめる大地も、自然の摂理に反したお前の影を呪う。
それでもサミュラを、ここに立たせようとする働きが、心のどこかにあった。
草を取り、肥を運び、土を耕して、水をまけと。
それは星が太陽に隠されても、光りを放つことをやめない様に、ごく自然なことであった。
ふと気が付くと、鼻を突く嫌な臭いがしてきた。
この臭いには覚えがある。
「!」
咄嗟に空を見上げると、巨大な生物がサミュラに向かって降りてくるところだった。
次の瞬間に、信じられない力で弾き飛ばされ、サミュラの身体は、文字通り二つに折れた。
背骨が完全に圧し折れ、衝撃で頸椎が外れて、頭は筋肉を断ち切って胴体から離れて落ちた。
「ぐは!?」
サミュラは攻撃して来た敵の正体も理解できないまま、むずっと頭部を相手に摘み上げられ、豆のように潰された。
それでもすぐに胴体の一部が変質し、頭部の代替を果たす機能を構築すると、折れた背骨の修復と並行して再生を始める。
しかし、この間、目や耳などの器官を失っているため、触覚以外の感覚がない。
こっちの世界に来たばかりの頃は、ワイバーンにもこんな風にバラバラにされてきたサミュラだが、
今は度重なるグレードアップで、こうも簡単に戦闘不能になるハズはなかった。
全く想定を上回る攻撃と言うことだ。
それから20分ぐらい、頭がおかしくなるほどの痛みを覚えながらも体の再生を優先させてサミュラは耐えた。
そして敵と同じくらいの体格になれるように体構造を組み替え、満を持して眼球などの感覚器官も再現する。
言葉通り、眼を開くと、景色が変わっていた。
さっきまでのクルスベルグではない。何処までも続く雪原と遠くに見える海。
「ドニー・ドニーか!?」
サミュラは、ゾッとした。
間違いない。この時期のドニー・ドニーは白夜の季節に入っている。
半年経っても夜にはならない。
巨大な肉塊に変身し、おぞけを催す怪物に変身してまで戦闘態勢に入ったものの、最初の攻撃で分かっている。
恐らく、本気で戦っても、この相手からは逃げるのが精いっぱいだと。
それも夜を待っての条件付き。
サミュラの眼前には、二頭の、信じられない大きな龍が飛んでいる。
どちらもドラゴンがまるで小石に思えるような、身もすくむ姿をしている。
「――――!!」
まず一頭がサミュラを肉まんじゅうのように咥えてから、氷の大地に叩き付けた。
サミュラの全身は水風船のように内臓を破裂させて、原形もとどめずにぐちゃぐちゃになった。
もう一頭は天高く上り、雲の間から雷の柱を次々に撃ち落とした。
ドブに詰まったヘドロのようになったサミュラは、瞬く間にガピガピに乾き切ると、骨だけが焦げて残った。
呆気ないほど抵抗する気力もなくなったサミュラは、野鼠のように逃げ出した。
あれがミズハミシマの龍神か、あれがミズハミシマの乙姫の本性かよ。
サミュラは圧倒的な力の差に、自分が甘かったことを痛感した。
世論を操作させれば乙姫も龍神も封じ込められるというのは、いかにも都合のいい話だった。
本当にミズハミシマの国政が立ち行かなくなれば、二人は民衆から反感を買ってでも元凶を突き止めにくる。
いや、しかし、まさか自分の居場所が敵に筒抜けになってしまうとは。
その原理は至極単純。
死の神モルテの代理人たるサミュラの気配は、亜人王の気配という物は神々が神経を研ぎ澄ませれば
例えどのような小細工を弄そうとも隠しおおせる類のものではないのだ。
「――――!」
二人からすれば小さな砂粒程度にまですり減ったサミュラを、彼らはあっさりと発見した。
巨大な体を折り畳み、普通の竜人の姿に変身した龍神と乙姫は、フライングアイ、
空飛ぶ眼球に変身していたサミュラを捕まえた。
容赦なく眼球を潰し、翼を引き千切り、とどめに電流を流して失神させると金属製の箱の中にサミュラを放り込んだ。
箱には小さな穴が開けられており、蓋があって、小窓のようになっていた。
乙姫が、その小窓を開けると、遠くに置いてあったジェリ缶を傾けて、力任せに中身を流し込んだ。
極低温に保たれたエルチニウムだ。
エルチニウムは常温で気化するが、密閉された空間では膨張した気体が無理矢理、抑え込まれて液体に戻ってしまう。
超臨界流体と呼ばれる現象で、気体に昇華する温度で液体に戻されている物質を指す。
超臨界流体は当然、不安定な状態であり、内部の圧力も非常に高くなる。
死の神モルテの神力を与えられ、不死の王となったサミュラの再生が追いつかないほどの超高圧である。
閉じ込められたサミュラは、もう痛いとか苦しいという次元には収まらない。
超拡散性、超高圧、腐食性の気体と液体の中で、不死であるが故の無限の苦しみを味わい続けるのだ。
この絶対に死なない化け物を事実上、死に近い状態に保存する方法こそ、
龍神と乙姫がかつて地上に跋扈した死の神モルテとその眷属たちをオーザルベルグの谷底に封じたやり方であった。
慈悲はない。
サミュラが姿を消して40時間が経った。
最初に気付いたのは骸骨王ヴェルルギュリウスだったが、それも夜になってからのことであり、手遅れだった。
手を尽くして不死の幹部たちをフォンベルグの教団施設に招集したが、やりようがない。
「我が君が何者かに害された可能性がある。」
骸骨王は幹部たちを前に正直に打ち明けたが、建設的な意見はなかった。
「クルスベルグ軍に要請して、ただちに我が君を捜索させよう。」
「ばーか。今、我が君がどんな姿なのかも分からねえんだぜ?
第一、不死にしてくれる肝心のお姫様がいないなんてクルスベルグ軍に知られたら、連中は協力なんてしないだろ?」
気障りな声の鳥人、ガルガ・ガルヴァンディアが、そう主張した。
「つーか、夜になるまで気が着かないとか。
笑えねえぜ、爺様よぉ。」
「口を慎め、ガルガ。
ヴェルルギュリウス伯は、不死の貴族の上座に位置する老大であるぞ。」
そういった、大急ぎで駆け付けたキエムは顔面蒼白であった。
連絡のついた最後の幹部の登場に、場は取り敢えず落ち着き始めた。
「あいあい。」
真剣みにかける返事をするガルガに、一同が不満げな表情を浮かべるが、この男は気にしない。
「キエム候、貴公の風読みでは分からぬのか?」
先に席に着いていた人馬の不死者がキエムに声をかける。
「…まるで掴めませんが、それが逆に、今回の仕手の正体を教えてくれます。」
「やはりか。」
部屋の奥に立っている黒豹人の女がつぶやくと、隣の虎人もうなずいた。
議場の奥まったところで固まっている一団が、訳知り顔で唸ると、ガルガが軽口を叩いた。
「おーい、王様たちよ。
お前らだけ何、全部わかってますぅみたいなぁ口聞いてるんですかー?
俺らにも分かるように話してくんないか…、なぁッ!?」
そういってガルガが机を蹴りあげると、水の入ったコップが床に落ちてけたたましい音を立てた。
憮然とする奥の一団の黒豹人の女が答える。
「龍神と乙姫だ。」
「どーゆーことですかぁ?」
なおも無礼なガルガの言動。
黒豹人の女の隣りの虎人も口を開く。
「分からぬか。
キエム候の霊力は、人の身にあっては王に次ぐ力量を持つ。
その風読みはまさに達人の妙よ。
それをも欺くとなれば、これはもうその上、神の介入以外には考えられぬ。」
底知れぬ威圧感を持つ虎人の言葉に、軽薄なガルガも息を飲んだ。
席を立つと、一層大きな身体があらわになって、その場に集まった幹部たちが目を見張った。
巨漢の虎人はいった。
「この議、余とシンが請け負う。」
「師匠。」
黒豹人、カー・シン・ガフが隣の虎人に振り返った。
玄武岩の様な筋肉におおわれた、大柄の虎人は、言葉をひとつひとつ選び出しながら、ゆっくりと発するのだった。
それはまるで何千年も伝わった古の金属の塑像が突然動き出したような、威厳を備えている。
なにしろ、彼こそが伝説の武王カー・ハグレッキである。
「弟子の不始末は、師たる余の不始末。
伯(きみ)は責任を感じる必要はない。」
骸骨王にねぎらいの言葉をかけると、武王は弟子たる漆黒王カー・シン・ガフを伴って席を立つ。
両隣の他のふたりの不死者の王たちが声をかけた。
「相手は龍神だぞ。
いくら音に聞こえた武王といえども勝ち目はないと思うが?」
すると武王は報いる。
「我が生涯は戦場にあり。」
それに別の王がたずねる。
「公にはサミュラへの忠誠はなかろう。」
「…。」
武王の返答はなかった。
ふたりのカーが立ち去ると、残された幹部たちは、しばらくうち黙った。
ミズハミシマの二人の天龍が、遂に怒りの矛先を向けて来たのだ。
あの二人以外に、対処できる戦力はない。
「で、我が君の不在がクルスベルグ側に漏れたらどうするんだよぉ!」
堰を切ったのはガルガだった。
不愉快な男だが、その発議には看過できぬ点がある。
骸骨王が口を開いた。
「しばらくの間、新たに不死者を選出しない理由は、ワシが適当にでっち上げる。
我が君の不在を知られた場合は、ガルガ、貴様が始末しろ。」
数年前、ハグレッキの王墓が発見された。
オルニトの迷路のような大図書館を駆け回ってサミュラは武王の時代の記録を調べ、この場所を特定させた。
武王の怒りを恐れて逃げ出す信者も多く、発掘作業には手古摺らされたが、ようやく目的のものを手に入れた。
鉛の巨大な棺がワイバーンたちによって、王墓の発掘キャンプに届けられた。
中に入っているのは数千年前に切り刻まれたモルテの一部だ。
大量のエルチニウムの底に沈められていた、それの中には”モルテの咢(あぎと)”が封印されている。
今でこそモルテは一つの姿だったが、かつては不定形の形容し難い巨大な負の神力の塊であったという。
無秩序に死という法則を乱す存在だった、この神は他の神々によって封印された。
だが死という概念そのもののモルテは、封じられたとしても新たに湧き出し、
身体の一部が発見されるつど、新たに封印された。
「武王の石棺の封印を解く!」
モルテの棺の到着を待って、サミュラは号令をかけた。
亜人王ほどの存在を不死者として転生させる以上、サミュラは相応の神力を与える必要があると考え、
世界各地にあるモルテ封印の地を調査して発掘にあたらせた。
しかし実際、はじめてみると呆気ないもので、既に幾らかはモルテ教団が長い歴史の間に発見し、
御神体として信仰の対象にしていたため、すぐにサミュラは多くの力を手に入れることが出来た。
それでもサミュラは亜神でありながら、この時期、その能力はほとんど普通の不死者と変わらないレベルのままだった。
モルテの一部を取り込み続けることでも変化はなく、
サミュラはモルテが自分の意思で力を譲与しない限りは、自分の体内でモルテの一部と自分の自由にできる神力が
別個の存在として隔たりをもって成立していることを理解した。
このためサミュラは、モルテの一部を吸収しても自分自身のパワーアップはできないのだと結論付けた。
不死者が別の不死者の神力の基点を奪うことで力を取り込むことは出来ても、
当然ながらモルテは別格の存在で、神力を融通することも吸収することも出来ないらしい。
「とにかくモルテ再生と不死の王侯は並行して進めないと不味いわね。」
不死の王侯(ノーライフ・キングズ)。
かつて亜人王だった者たちを不死者として転生させ、彼らの王としての政治力や
武力を利用するというサミュラの計画であり、その地位についた王たちの呼称である。
来るべき王道楽土の建設には、他の神々の妨害が想定される。
そのためモルテ神の再生と、戦力の拡充は必然といえた。
「ただでさえ少ない神力を、これ以上分散させるのは不味いのでは?」
サミュラの部下がふたつの棺を前に、サミュラに意見した。
「今の私が力を手にしても、使えないんじゃ意味ないでしょ。
それより、武王カー・ハグレッキを味方に出来れば、これだけ心強い物はないの。」
満を持して石棺が開け放たれたが、中身は空だった。
「空!?空なんてことがある訳ないでしょ!」
サミュラも石棺に乗り出して隅々まで見渡すが、副葬品はおろか、骨の欠片すらない。
盗掘者を警戒してのダミーと言うことも考えられ、武王の王墓の壁という壁を叩き壊して、
隠し部屋を探したが、穴が増えるばかりで崩落寸前まで掘り尽くしても新しい発見はなかった。
サミュラも発掘隊も悲嘆に暮れたが、他にも候補地がない訳ではない。
結局、10個の谷や山をくりぬいて調べたが、他の歴代カーの死体が見つかっただけだった。
「元に戻して。」
疲れ切ったサミュラが11個目の石棺の中身を暴いて、力なくいった。
「よろしいので?」
「武王以外の不死の王侯なんて、作るだけ神力の無駄よ。
第一、誰よ、こいつ。」
そういってサミュラは、はずれカーのミイラのひたいをぺチぺチと叩いた。
徒労とぬか喜びを繰り返しているサミュラの元に、若い白虎人が現れた。
熱心なモルテ教の信者であり、精霊の声を聞くことに長けたキエムという青年だった。
「我が君、私の術なら武王を発見できると思います。」
興奮と不安に入り混じった青年に、見かけ以上に老成したサミュラは冷酷な言葉を吐く。
「そういうのは、見つけてからにして欲しいわね。」
苛立つサミュラに、キエムは気負ったが、勇気を奮って言葉を続けた。
「恐れながら我が君。
武王カー・ハグレッキは生きて大地の上を歩いておられます。」
「ああ、そう。」
キエムは、麗しい屍姫の短い感想で、背中へ氷水を流し込まれた様にハッとなった。
まるで精神病患者を見るような目でサミュラは青年キエムを睨みつけていた。
そのまま大声で怒鳴ると部下たちを呼び寄せる。
「この小僧を病院に連れていって頂戴!」
テントの中に部下たちが雪崩れ込んでくる。
屈強な信者たちがキエムを取り囲み、彼の腕を捩じるが、なおもキエムは訴えた。
「しっ…、信じてくぁっ!
信じてください、我が君よ。
私は我が君の歓心を得るために嘘を吐いているのではありません。
本当に、し、真実をお伝えしたく…!!」
涙を流して訴える狂人に、サミュラは侮蔑すら覚えたが、墓掘りビルのことを思い起こした。
ひょっとしたら非常識な人間の中にこそ、隠された真実はあるのかもしれない。
「…ならば生きて歩いているという武王を連れ帰ってこい。」
サミュラは捨て台詞を吐くと、キエムの前から姿を消した。
キエムは私刑(リンチ)を受け、ボロボロになった体をひきずって砂漠を歩いていた。
発掘隊の利用するオアシスの泉にやってくると傷を冷やし、水を飲むと口をゆすいで血を吐いた。
「我が…、君よ。」
悔しさのあまり肩を震わせるキエムだが、サミュラの言ももっともだ。
これだけ大掛かりな調査を続ける教団幹部の前で、武王が生きているというのは素っ頓狂にもほどがある。
そもそもキエムは、風読みの術によって可能性の高い場所を見つけたといって
サミュラとの謁見を許されたのに、全く話した内容は違っていたから、この結果は当然だ。
「やはり、自分で確かめるしかない。」
精霊の声を頼りに、キエムは旅に出た。
歩き続ける事、数ヶ月。
遂に声は彼を未踏破地帯へと誘い込んだ。
ラ・ムールの最奥、未踏破地帯の入り口にキエムは道なき道を急いだ。
彼を狙って追って来るのは、どれも見たこともない怪物ばかり。
小人が群がる歩く石塔、ぶよぶよとした黒い肉塊。
悪臭を放つ雨は、長く浴びていると確実に彼の身体を蝕み、雨が止むと手足が震え、その場でうずくまって吐き気につかれた。
数日後には食欲が失せ、眼が突然見えなくなるようなことが数時間は続いた。
何より既知世界では滅多に姿を見せないドラゴンが、こっち側では普通に生活している。
ジョージ一族と違い、神に守られていないこちらの種族の方が、手っ取り早いと考えた凶暴な連中だ。
精霊と交信する術だけでなく、武術の腕にも覚えがあったキエムだが、
若僧の自負など簡単に積み崩す様に、未踏破地帯の過酷な環境が、彼を翻弄し、嘲笑った。
そんなある日、倒れたキエムを一人の虎人が救って、自分の家に招いた。
「伯(きみ)がこちらに入った時から余は、伯を見ていた。
伯は精霊の声を、実に正確に掴む。余を探していたのだね?」
節くれ立った巨木の様な虎人は、名乗らずとも分かる。
彼こそが神話の大英雄、武王と歌われたカー・ハグレッキに他ならぬとキエムは確信した。
「恐れながら武王様とお見受けしました。」
「いかにも。」
静かに武王が答えると、キエムはその場で再び失神した。
「師匠。」
黒豹の女、カー・シン・ガフが声をかけた。
武王はそれに優しく応える。
「安心するあまりに気を失ったのだ。」
キエムが体調を取り戻すと、この家には武王と漆黒王のふたりが暮らしていることが分かった。
10年以上前に死んだ漆黒王は勿論、なぜ二人のカーが秘境で隠れ暮らしているのか。
詮索するのは不味いと判断したキエムは、自分が武王を探し歩いていた理由を明かした。
「そうか。
モルテの使徒が地上に姿を現したというのか。」
ほとんど話を聞く前から察しが着いていたかのような口ぶりで武王はうなずいた。
「し、失礼ながらお二人も不死者では?
どうか、我が君のお力となって、我々を導いてください!」
青年キエムが気を急かせて土下座すると、漆黒王は苦笑いし、武王は口を真一文字に閉じた。
漆黒王が頭を床に着けるキエムにいった。
「悪いが師匠も私も、ここから離れるつもりはない。」
「は!?」
驚いてキエムが頭を上げると、漆黒王が続ける。
「事情は詳しく話さなくても分かるだろう。
私も師匠も、モルテの神力で生き返り、こうして大地に影を作っているが、全くその事は不本意なのだよ。」
「…不本意?」
キエムは混乱した。
この時、キエムは普通人であったため、不死者たちがどういうものか、正確に理解していなかったのだ。
「モルテの使徒が転生させた不死者と違い、モルテ神が直接、不死者に転生させた屍王は、
通常の不死者のように、自分の存在に疑問を抱いたり、太陽の光を浴びても死なぬ。
死の神の力によって、死という概念を持つ以前の原始の生命にまで還元させられているからだ。」
世界の神話には、死の起源という説話がある。
色々なパターンがあるが、掻い摘んでいえば、生物は原始の世界では、皆不死で、
神の怒りを受けたり、大きな災いを受けたりして、死というものを受け入れてしまうという説話だ。
「つまり私も師匠、ハグレッキ様も死のうにも死ねぬ。
こいつのお陰でな。」
そういって漆黒王カー・シン・ガフはひたいの角を指差した。
「それは?」
「モルテの角だ。
師匠にもモルテの影が着いている。
これが私たちの不死の基点であり、こいつが私たちから死を抑え込んでいる。
これはモルテの体の一部で、これと一体化した屍王は、もうどうあっても死なない。
死という現象に知性や感情が宿って、無秩序に発現する世界を想像できるか?」
漆黒王の言葉に、キエムは背筋が凍った。
「モルテ神を多くの神々が危険視し、彼を封じ、彼を崇拝する種族すら滅ぼしてしまった。
だがモルテの一部が世界中に散らばって、器を見つけては使徒として転生させ、自分を復活させようとしている。
私たちはモルテ神の精神汚染を耐え、こうして人里離れた場所で暮らしている。
お前たちが我が君と呼んで崇めている女は、本人は正気のつもりだろうが、なんてことはない。
とっくの昔に脳ミソが腐って、モルテの思い通りに動かされているだけだぞ。」
聞き捨てならない話にキエムは眼をむいた。
それを察したように武王が口を開く。
「飯にしようか。」
素っ気なくそれだけいうと、武王は食事の用意を始めた。
「キエム伯(くん)。」
夜半に、武王は床に入ったキエムを起こすと、誘い出して二人だけで話した。
「シンは、ああいっているが、余は伯と共に帰っても良い。」
キエムの表情が明るくなる。
「実は余とシンが不死者となったのには、ややこしい理由があるのだよ。」
言葉の少ない武王は、ゆっくりと話し始めた。
「ドラゴンの血という物を伯は聞いたことがあるかね。
飲めば万病を平癒させるという神呪の効能があると聞く。
あの娘(こ)は訳あって、ドラゴンの血を口にしてしまった。
しかしドラゴンの血を受けた者は、死後、歴代カー・ラ・ムールの列に加わることが出来ぬのだと、
あの娘は酷く塞ぎ込んでしまった。
それで孤独に堪えかね、余の墓を暴いて共に不死になって欲しいとせがんで来たのだよ。」
暴露であった。
キエムは目を丸くしたが、武王は穏やかな表情のままだった。
「玉座にあって親の愛情も知らず、ドラゴンの血を受けた体では子供もその呪いを受けると信じ、
男も知らずに生きて来た、哀れな女だ。
その心の不安にモルテは不死という毒を盛って、あの娘を虜にしている。
死は、いつか受け入れなければならない。
今のまま生活していては、あの娘は何時まで経っても自分の死を受け入れられないだろう。
ここを去り、あの娘と一緒に死に場所を探したいのだ。」
武王は漆黒王を愛娘のように可愛がっている様子だった。
だが、彼が彼女に与えてあげられるのは、死だけなのだ。
キエムは、二人が並々ならぬ苦悩を耐えているのだと覚えた。
共に武人として、苦しい戦いを駆け抜けたカー・ラ・ムールであるハズ。
その二人が自然の摂理に反して、こうしてやり取りしていることが、尋常ならざる覚悟の、
せっぱつまった故の行動なのだと物語っていた。
あくる朝、武王が漆黒王にキエムの誘いを受けることを告げると、
彼女は酷く動揺したが、武王の真意を悟ったのか、彼の言葉に従って、既知世界に帰還した。
武王カー・ハグレッキの隣に立つと漆黒王カー・シン・ガフは、普通の女に見えたが、
キエムの隣に立つと、うって変わってキエムが子供に見えるほどの巨躯である。
猫人最大のシベリアトラの猫人であるハグレッキの身長は334cm、体重は350kg以上。
オークやオウガをも遥かに凌駕する巨体だが、これは虎人ということを考えればむしろ普通の方といって良い。
歴代カー・ラ・ムール最大にして、
全猫人の記録でも最長とされる長身王、ないし巨漢王カー・ハマタは4mにも届こうという巨体であったという。
むしろ猫人の中でも小型の黒豹人のシンが、250cmにまで達していることの方が異常といえた。
キエムも人並み外れた武術の腕、精霊術にも自信があったが、
このふたりと比べると平凡と言わざるを得ない。
モルテが集めた不死の王侯たちの中では、この二人が最も戦闘力が高いと評価されていたが、
当然、サミュラも骸骨王ヴェルルギュリウスもハグレッキをサミュラの護衛に選んだ。
だがしかし、武王自身が自分に代わってカー・シン・ガフを推薦したのである。
「シンは、強さにおいて戦神
ウルサの化身すら倒し、それを凌ぐ高みに立っております。
個の武勇において五百余り全勝無敗、軍を率いても70余りの戦いを将として采配を振るいました。
余自身、シンの方が腕が立つと認めております。
サミュラ殿の護衛というのであれば、このシンを推します。」
武王の推挙に、サミュラも骸骨王も閉口した。
シンは、ほんの十数年前まで現役のカー・ラ・ムールであって、彼女のことは知っている。
しかし伝説に尾ひれがつくこともある。
武王自身が、自分より漆黒王のほうが勝るというならば、とサミュラはシンを護衛に着けた。
ところが、乙姫と龍神がサミュラを急襲した時、シンは動けなかった。
その理由は単純なものだったが…。
「サミュラの気配は、彼女の中のモルテの気配で感じ取れるか、シン?」
武王が訊ねると、漆黒王は顔をゆがめて首を振った。
ドラゴンの血の作用で、不死者となってからも精霊や神の力を全く感知できないままなのだ。
お陰で不死者の特性である人体改造はもちろん再生能力もなく、生者から活力を吸収することもできない。
ただしドラゴンの血がモルテの神力を相殺し、太陽の光を浴びても全く能力の減退は見られない。
重大なのは、そのためにサミュラの危機には動けなかったということである。
「ならば、余がサミュラの位置を探る。
伯はしばらく動かずにおれ。乙姫がサミュラを封じ、どこに置いておるか分かるまでな。」
そういって武王がひとりで行動しようとすると、漆黒王は報いた。
「師匠。
罠と知りつつ、いかれるおつもりか?」
師匠の身を弟子が案ずると、武王は鼻で笑った。
「擱(お)け、シン。
余より伯が武において優(まさ)る故、余は安心して後を任せて行けるのだ。
よもや共に戦い、共に死のうなどと、浮かれたことを案じておったか?」
武王が振り返って応えると、漆黒王は先に頭を下げた。
そして、注意深く、短く言葉を伝えた。
「徒爾なると存じます。」
すなわち漆黒王の言葉の意は、勝算はないのだから、無駄なことはやめろということだった。
武王を相手にして、指図するような暴挙。
同じカー同士といえども、礼を一方的に欠いている。
だが、正確に戦略上の論評を説いたまでである。
相手は龍神と乙姫だ。偵察などする余裕はない。
二人で攻め込んでも勝機はないかも知れないような状況で、僅か過ぎる戦力を二分することは愚策である。
まして、武王を失った後で、未練がましく漆黒王という駒を手元に温存させても、
サミュラという王将を欠いたままでは、何の意味もない。
二人が協力して同時に戦う。これが一番勝算が高いではないか。
しかし、これが如実にふたりの在り様を現してもいた。
サミュラがどんなやり口で封印されているのか、それを考えれば武王は、
娘のようにも思っている漆黒王を乙姫たちと戦わせたくないという思いがあった。
ねじれた時間の中で、起こり得ぬ二人のカー・ラ・ムールの出会い。
武王は漆黒王の望みで不死者となることを受け入れたものの、心のどこかで、
同じ苦しみを知るものと同じ時代を生きてみたいという考えがあったことを密かに認めてもいた。
そして心を通わせた相手に、いたわりと慈しみを覚えない者があるだろうか?
だが、漆黒王は違う。
互いを思い敬うとか、慈しむという考えより、勝つか負けるかという考えを優先させているのだ。
人が見れば、シンを烏滸がましいと見るだろう。
ハグレッキはシンを思って、ここで待てと言っているのだ。
だがハグレッキ自身、シンの主張の正しさも理解している。
だからこそ武王は、漆黒王に対し、友としてではなく、最後に同じ王として接することを決心した。
「漆黒王、公(きみ)の言うとおりだ。
…力を借りる。」
「師しょ…。」
頭を上げた漆黒王の言葉を制すると、武王は続けた。
「今より余をハグレッキと呼ぶ可(べし)。」
「…え?」
突然の申し出に、シンは困惑した。
だが、それが決死の戦いに臨む以上、互いを対等の戦士と認める武王の激励なのだと理解した。
「…ああ。」
それがシンの答えである。
これはただのぶっきらぼうな返事ではない。
王は「はい。」とは答えないもので、「ああ。」というのが古くから王が使う返事とされてきた。
短いながら、シンはこの一言で王としての自覚をもって戦いに臨むことを示したのである。
二人のカーは、波濤を乗り越え、ミズハミシマの中枢、竜宮城に潜った。
並々ならぬお互いの気配で位置は知れている。
盗人の様な粗忽な真似は通用しない。
まるでお互いに申し合わせたように二人のカー・ラ・ムールと二頭の龍は向かい合った。
「八幡。」
恐らく「南無八幡大菩薩」の略か。
乙姫は、それだけいうと玉剣(たまつるぎ)を抜いて構えた。
隣りの龍神は手頃な長槍を持ち出している。
恐らく二人とも周囲の被害を考えて、本来の龍の姿に変身するつもりはないと見ていいだろう。
驕っているようだが、サミュラぐらいは何時でも潰せることは立証済みだ。
それより、自分たちの力を恐れるように扇動されたミズハミシマの民衆の前で、
これ見よがしに完全に力を解放して戦う方が、民心の離反を促すと考えての事だろう。
無論、サミュラ奪回が無意味にはならない。
既に計画は最終段階を目前にしている。次の大混乱が起これば、乙姫も龍神も手出しはできまい。
さてしかし、ハグレッキの手には、王者の指輪(ジーダス・カー)はない。
他にもカー・ラ・ムールに与えられる神器は幾らもあるが、正式なカーではなくなった不死者には扱うことは出来ない。
シンも例の扇状の刃を持った戦斧を持っていない。
だが、それこそ案ずるには及ばない。
イストモス大ハンに星遺物があり、歴代カーの手に神器があるように
屍王に与えられた専用の武具が存在することは、やぶさかではない。
「死神(かみ)の禁名(みな)を讃えよ。」
生前と同じようにハグレッキは鬨の声をあげた。
最初の衝突から数分。
予想に反し、戦いは長引いた。
龍神が乙姫を守ろうと立ち回るだけで、一向に攻める気配を見せないからだ。
シンとハグレッキたちには知りようがないことだったが、乙姫はカーのように転生するといっても、
転生の器として、先代の乙姫を必要とする。
龍神にしてみれば、ラ・ムールの民がレブオーロに対するのように、
乙姫に対して無関心になることなど、道義の上でも、心情の上でもあり得ないことだった。
もし、この辺りの事をシンが知っていたら、容赦しなかったろう。
何より、龍神さえ死の神モルテの力が宿る武器がどういった能力を備えているのか全く把握していない。
警戒するのは当然だった。
ハグレッキの持つ武器は、生前と同じく二振りの長剣だが、見るからにそこから邪悪な気配を感じる。
形状は突き立てた相手に苦痛を与えるためなのか、拷問器具の様な刃をしている。
シンの持つ武器は、大身の槍で、その矛だけでも刃は長剣ぐらいの大きさがある。
しかも高熱を発しているらしく、周囲の海水が沸騰している。
外敵として侵入した二人に、海の精霊たちの保護は受けられていない。
少なくとも窒息、水圧で潰されるはずだが、モルテの神力がそれに代わって二人を保護しているようだ。
「シン、龍神は任せる。
余は乙姫を仕留める。」
ここまでの打ち合いで、二人は積極性に欠く龍神より、存分に腕を振るう乙姫を御し難いと判断した。
いや、そういった戦闘姿勢を別にしても、実力は乙姫が上と見ていいだろう。
ならばこちらは、実力の勝るシンを龍神に当て、一気に勝負をつけてしまうという戦法に出た。
「分かった。」
シンはうなずくと真っ直ぐに龍神に向かって進んだ。
龍神の用意した長槍も相当の業物なのだろうが、
シンの大身の槍と打ち合う度に情けない悲鳴をあげ、刃こぼれして使い物にならなくなっていく。
乙姫の玉剣もミズハミシマの所有する宝剣の一振りだったが、モルテの与えた神器には敵わない。
しかし一見優勢に見えるハグレッキたちだが、実質は違っている。
乙姫も龍神も、最悪の場合は龍化や、この海域全体を海流と落雷で破壊し尽くすぐらいの手は残っている。
「…どうした?
早く龍化しないのか?」
シンが龍神タツミノミコトを挑発する。
不死者となってシンは赤ん坊に戻る前の記憶と、その後の記憶が完全に戻っている。
生前は対イストモス戦争で共闘した二人だが、シンに感傷はない。
「お前たち夫婦こそ、ミズハミシマの最大の武器だが、
同時に人ならざる超常の存在であるお前たちが国政に関わっていること自体が、
この国の民衆をこうも愚昧に変えてしまったのだ。」
この程度の安い挑発に平静を奪われたわけではないが、龍神の右上腕をシンの槍が貫いた。
わずかな打ち合いの中で、シンは龍神の手を読み、巧みに攻め上げてきている。
「―――ッ!!」
「悪いが師匠…、ハグレッキの手伝いに入らねばならんのでな。
これ以上、わずらわされる訳にはいかんのだ。」
果敢に攻め始めたシンに対して、距離を離して龍神は、切創を確かめる。
槍撃で穿たれた傷痕は深く、槍先の持つ高熱のせいなのか、明るい緑色の魔法の炎がチロチロとくすぶっている。
やむなく持っていた長槍を棄て、龍神は左手で傷口の炎を消そうとするが、触れた左手にも燃え移ってしまう。
「―――!?」
冥府の底から持ち帰られたような不気味な緑の火炎を覗くと、この世ならざる景色が見えた。
傷口に群がるように、死霊たちが緑色の炎の中に封じ込められている。
しかし龍神が目を奪われている間にも、炎は傷の深さを増し、真皮を貫いて筋肉、その奥の骨の手前にまで達した。
経験したこともない激痛に龍神は、頭(かぶり)を振って苦しんでいると、
シンは戦いの最中の龍神を残し、その場を切り上げて、乙姫とハグレッキの戦いに参戦した。
シンも持つ槍の名は”死神の剣”と呼ばれる。
本来は”呪いの鉄杖”と呼ばれる別の武具を繋ぎ合わせて一つのモルテ神器となっている。
柄となっている鉄杖自体は、悪霊を呼び集め、装備者の敵に苦痛や災いをもたらすだけの武器だが、
死神の剣の方が重要で、今の龍神のように神でも簡単には消す事の出来ない死の炎を封じ込めている。
その危険性から保管には厳重な処置が施され、モルテの夢と呼ばれるモルテ神の一部であり、
一種の亜空間内に封印されている。
モルテの夢は、モルテが招いた者だけが入る事の出来る悪夢であり、
そこから武器や他の道具、その悪夢に住まう夢魔さえも現実世界に持ち帰ることができる。
「どうやら、向こうは済んだようだな。」
ハグレッキはシンの方が片付いたことを確認すると、これまでとは比べ物にならないほど激しく打ち込みを始めた。
乙姫も応戦するが、ここにシンが加わっては話にならない。
瞬く間に劣勢に追い込まれていった。
だが、それこそ逆鱗に触れるというもの。
すっかり火だるまになって海底でうずくまっていた龍神が、本来の龍の姿になってハグレッキたちと乙姫を分断した。
しかし人間大から龍化したことで炎も均等に大きくなり、周囲の海水の温度が急上昇するほど、
炎の勢いも増して、乙姫もこのままでは炎に飲みこまれてしまう。
「ははは。墓穴を掘ったか。」
シンが乾いた笑いを立てると、ハグレッキは厳しい表情で相対する二人の敵を見つめながら言った。
「いや、勝負はこれからだ。」
ハグレッキがそういうと、シンも一度ゆるめた気を引き締め直した。
やはり、夫の窮地に乙姫も龍化すると、二人の力でモルテの死の炎を抑え込み、消火してしまった。
炎に包まれていたため龍神の消耗は激しいようだが、戦闘能力はいささかも衰えていない。
二人の龍を前に小さな猫人など吹けば飛ぶような矮小な存在に映る。
「ほう。こうしてみるとマルドレイクも子供だましよな。」
ハグレッキは感心しているのか、自棄になっているのか、どっちとも取れない口調で、そういった。
横に立っているシンも、これまで見たこともない巨大な敵に武者震いした。
そう、並みの者であれば怖じ気づくような場面だが、武に生きた二人はむしろ稀なる敵手に興奮していた。
特にシンに至っては、マルドレイクのような強敵に終生出会えず、
師をも凌駕したと認められたその武威を発揮することなく世を去らねばならなかった。
もっとも功名のためでなくとも、シンは強敵を欲してやまなかったろう。
「乙姫よ、お前こそ我が武魂を慰めてくれる敵やも知れぬ。」
興奮した様子でシンが矛を向けると、巨大な龍の顔が一瞬で岩山のように険しく豹変した。
乙姫が唸った。
「図に乗るな。」
そういって猫が鼠に飛びかかるように乙姫は、シンに向かって食らいついた。
だが、馬鹿だな。
隙を見て一閃、あっという間に死の炎が乙姫の顔を焼いた。
「―――!」
炎に煽られて海水が泡立ち、首を振りまわしながら乙姫はとぐろをまいてのた打ち回った。
シンは間髪入れずに龍神にも襲い掛かり、はしこく動き回って全身を焼いた。
それでも小さな野鼠が、大きな山を針でつついているのと変わりない。
火傷から二人の血が流れ、海水を徐々ににごし始めているが、ドラゴンがそうであるように大したダメージはない。
いや、龍神たちの生命力はそのドラゴンなど足元にも及ばない。
「この程度では埒もないか。」
シンは口の端を上に曲げて、わずかに微笑むと槍を両手で掴んで水平に持ち、胸の前へ一文字に突き出した。
「イヘラー・シン・ガフが命ずる。
祟れ、モナス。」
槍はシンの声に応じて震えだすと、あの穢れた緑(あお)い炎の濁流を吐き出して、二人の龍を押し流した。
その勢いは海の底に巨大な地獄を作り出し、竜宮城の手前まで火砕流が押し迫った。
戦いを見守っていたミズハミシマの魚人や竜人たちも血相を変えて逃げ出そうとしたが、まるで間に合わない。
たちどころに海は碧(あお)く輝いて、浮かぶ泡と死人の油が疾(と)く発ち込めた。
このような無差別攻撃は、神代の大英雄、古今独歩の快男児、武王カー・ハグレッキは好むところではない。
だが、シンは目的のためなら手段を選ばない冷酷な軍人である。
戦争に汚いもクソもない。そんなものは、彼女にとっては言い掛かりだ。
あくまでシンは軍人であって、英雄ではなかった。
シンの生きた時代は、ハグレッキの生きた時代のように誰もが気高く詩人のように心が豊かで、
人生を美しいもので彩ることが一番の幸福と知っていた人々とは違う。
他人が絶対に過ちを犯さないとすれば、絶望してしまうような者ばかりだ。
「神霊の威力とは、これほどなのか。」
シンは驚嘆の声をあげた。
ドラゴンの血を受けたシンの眼には見えないが、黒く不気味な怪物が海底に姿を現した。
モルテのしもべ、黒く穢れた冥府の屠殺者、神霊モナスだ。
モナスは、呼び声に応じて姿を見せたものの、召喚した主に自分が見えていないことに気付いて混乱した。
そうやってしばらくオロオロしていたが、取り敢えずこちらは向こうの声が聞こえるので、次の号令を待って律儀に待機した。
その間、広がり続ける地獄を見ていたハグレッキは、我慢できずにシンに声をかけた。
「シンよ、これはむご過ぎる。」
苦言を呈する武王に、漆黒王は冷然と対応する。
「サミュラ殿を救出する、その些細な犠牲です。」
「…些細だと?」
一瞥しただけでも、一国の都の一部が死の波に飲み込まれ、大勢の住民が逃げ惑っている。
ハグレッキが非難するように応ずるとシンはまたも冷酷に報いた。
「どのみち、いずれ焼く国です。」
そこまで言われると、ハグレッキにも一言もない。
敵にかける情けはないということか。
緑(あお)い劫火に焼かれる竜宮城を、ハグレッキとシンは眺めていた。
やにわにシンは大声をあげる。
「龍神と乙姫、我らの目的は分かっているハズだ!
これ以上、いらぬ犠牲を増やしたくないのなら、大人しく屍姫を返すがいい!!」
声に応えて、2頭の龍が姿を見せる。
それに続く様に数十頭の龍が現れて、ハグレッキとシンを包囲した。
しかし、二人のカーを前に無為な抵抗という他ない。
ハグレッキは弾丸のように素早く、次々と龍たちを打ち破り、古代の軍神のように吠えた。
シンも封印を解いた死神の剣の真の威力を躊躇なく振るって、乙姫と龍神を苦しめた。
十分に殺戮を楽しむと、シンは大きく息を吸って、嗅ぎ慣れた臭いに満足した。
「今一度、申し渡す。サミュラ殿をこちらに渡すのだ。」
再度の勧告に、やはり乙姫たちは応じなかった。
見た目には傷だらけだが、まだまだ二人の力は衰えてはいない。
これに落胆したのは、シンよりもむしろハグレッキだった。
サミュラを危険視する二人の考えは、分からなくもない。
だがこの際、思い上がったことを言わせて貰えば、彼女たちはモルテの神力と神器を与えられた自分たちの敵ではない。
先にシンが言ったように、これ以上、戦いを長引かせるぐらいなら、
どんなに酷(むご)く殺しても、そちらの方が犠牲は少なくなるというのは正鵠を射ている。
だが、神代の大英雄、誇り高い武王カー・ハグレッキに罪のない住民を焼く方が正しいと
それを納得しろという方が酷であった。
そんなハグレッキを差し置き、シンは次の攻撃にかかる。
「このまま竜宮城を灰にしても構わんというのなら、これ以上の情けはかけぬ。
モナスよ、この地を穢土と化して、貴共(なども)が身に愛(う)く者らを祟り殺せぇっ!!」
シンの号令に応じ、モナスは黒い毛でおおわれた、大きな口を開いた。
それはズルズルとどこまでも十字に広がっていった。
モナスの口の中には不潔な牙が並んでいて、その間からも目をおおいたくなるような景色が覗いている。
海に広がるモナスの口臭は、冗談ではなく命にかかわる悪臭だ。
おまけに海水にモナスが口いっぱいに溜まっていた汚物が流れ出した。
ベロベロとモナスが舌で口をかき回せば、舐めとられた汚物が次々に海に放たれ、竜宮城を包み込んだ。
吐き出された汚物は海流に乗って広がり始め、炎よりも広い範囲に死をもたらした。
このままでは、本当にこの海域を汚染し尽くしかねない。
「火は消せるが、モナスの穢れはモルテ神の与えた奇跡ぞ。
さあ、国土を千歳(ちとせ)に渡る祟りに沈めたくなければ、サミュラ殿を渡すのだ。」
またもやシンが勧告するが、乙姫たちは一向に抵抗の意思を弱めない。
この問題は、ミズハミシマだけではとどまらないと考えているからだ。
死の神と、その加護を得た亜神の誕生。
それがもたらす混乱に比べれば、街一つが穢れの海に沈もうとも些細な犠牲ということか。
「無駄だ。
このままミズハミシマ全ての海を穢し尽くしても良いのだぞ!?」
流石のシンも、頑なな二人に動揺し始めた。
シンが説得している隣で、モナスは甲高い笑い声をあげた。
海流に混ざる大勢の死体を前に、この呪われた怪物は喜悦の笑いを上げている。
この光景を、ミズハミシマ全土で見たい。
そう言わんばかりではないか。
モナスは神霊だが、その性根は邪悪そのものだ。
もっとも何が悪で善かは人間の価値観に過ぎない。
だが、どのような方向から見ても、モナスは悪である。
死という現象に、生命が終わりを迎えるおごそかで神聖な部分があるとすれば、
モナスが司るのは死に伴う痛みや惨めさ、誰もが避けたいと望む災厄の形をモルテから与えられているのだから。
焼け死ぬ、腐り落ちて死ぬ。
生きる者の尊厳を踏みにじり、その面影すらも残さない。
一辺の救いもない死こそ、この女の本領なのだ。
「乙姫よ、龍神よ!」
ついにハグレッキも、この二人の心変わりを誘う。
「伯らの言い分、一々尤も!
されど、これは常に非ず。これ以上、民草を苦しめ給うな!」
だが、二頭の龍は怒り狂って汚物の中で吠えさえずるばかり。
それもそうだろう。毒を流したのはそちらなのに、駆け引きをするなど虫が良すぎる。
ハグレッキは苦虫を噛んだように低くうなった。
その様子を横目で見ていたシンはこれ以上、攻撃を重ねたものか判断に迷い始めた。
シンが死神の剣を選んだのは、汚れ役を引き受けたからに他ならない。
大英雄カー・ハグレッキに罪のない人々を焼き、腐らせ、溶かし殺すなどという卑劣な役目は、やらせる訳にはいかない。
なればこそ、シンは一層冷酷に、手段を選ばずモナスに死を引き起こさせるだろう。
その時こそ、本当にミズハミシマ全島、全海域、津々浦々は死と穢れと祟りの中に沈む。
ハグレッキとしては、そんなことをシンにやらせたくもないし、
そんなものを起こしてはならないという意思があった。
「み、みすみす命を無駄にするなッ!」
虚しくハグレッキの声を掻き消す様に、乙姫たちは罵声を返した。
それを見ていたモナスはニタニタと笑い転げて、限りある命にしがみつく小虫たちのささやきに手拍子を打った。
善だ、正義だ、と喚く連中が勝手な主張をし合って、言い争うのは気持ちがいい!
しかし、そんな外道を好き勝手にさせる龍神ではない。
傷口を刺すように攻めるモナスの汚物から湧き出る、黄泉の回虫に侵されながら、
龍神は身体をくねらせ、力任せに不快に笑うモナスを突き飛ばし、そのまま咥えて海上へ連れ去った。
シンの眼には神霊モナスが見えておらず、状況が掴めないため、龍神の行動が理解できなかった。
それを察してハグレッキがシンに声をかけようとしたが、この隙を敵は見逃すわけがなかった。
残った乙姫も必死で痛みに耐え、歯を食いしばってハグレッキたちに突進した。
「―――ままよ!」
ハグレッキは両手の剣で、容赦なく乙姫の身体を斬りつけた。
新たな傷口に、瞬く間に毒素が周り、見ている傍から肉がただれ、傷の周りが大きく腫れ始めた。
そこへさらにシンの追撃が加えられ、乙姫の身体の痛覚が集中する部分に、死神の剣が突き立てられる。
「―――!!」
乙姫は、あまりの痛みに身がすくんで動きを止める。
くどいようだが、ハグレッキもシンも情けはない。
次々に増える傷は、順を追って次々に膿み、乙姫を苛む。
「もう我慢するだけ無駄だと分かっても良いだろう!」
シンが怒鳴った。
乙姫は、この隙を逃さなかった。
まずシンもハグレッキも、さすがに水中戦は経験がない。
敵との距離が正確に掴めていないのだ。
次に乙姫は、この場面まで本気で攻撃を仕掛けていなかった。
本来の攻撃の速さをギリギリまで隠し通すために。
だがこの時、本来の動きで素早く尻尾を伸ばしてシンを一撃でバラバラにした。
まるで蚊を潰すように、呆気なくシンは粉々になり、死神の剣も海底に沈んで消えた。
ハグレッキはシンの身体が弾けてなくなったのを見るや、一目散に逃げ出した。
情けないことだが、自分まで意味なく倒されてしまう訳にはいかない。
当然、乙姫はハグレッキを逃がすまいと追いかける。
だが、全身が膿んだ傷だらけで思うように動かず、しばらく泳ぎ続けていたが次第に速度を落とし、
海底に吸い込まれるように消えていった。
ハグレッキは、乙姫の姿が見えなくなっても脇目もふらずに泳いで逃げ出した。
- 語句パーツの独自性も目立つけど裏打ちされる背景雰囲気が押してくる。淡々とクルスベルグを見せるのかな?と思ったらゲートをバネに空気が黒くなるのに驚く。素直にこれがイレヴンズゲートの正史であるとは認めれない気持ちはあるがイレヴンズゲートの物語の一つとしてできあがっているのは確かだろう -- (名無しさん) 2015-10-13 23:29:59
最終更新:2015年10月13日 23:22