第189話 メダル・オブ・オナー
1484年(1944年)10月31日 午後5時 バージニア州ノーフォーク
巡洋戦艦アラスカの艦長を務めるリューエンリ・アイツベルン大佐は、晩秋の風が吹きすさぶ中、ゆっくりとした足取りで、
実家のある薬局店に向かっていた。
「ふぅ~、秋も大分深まって来たな。」
リューエンリは、ずれた制帽を直しつつ、季節の変わり目を肌で感じ取る。
2分ほど歩くと、通り沿いにある小さな薬局が見えて来た。
彼は、薬局を過ぎ、右隣にある民家の玄関に入って行く。
扉を開けると、内側に付いている鈴が軽やかな音を立てた。
「ただいまぁ~。」
彼は、のんびりとした口調でそう言ってから、家の中に入る。
リビングに目を向けると、そこには、テーブルに紙を置きながら、物難しそうな顔を浮かべている妹が居た。
「あ、お帰りなさい。今日は早いわね。」
妹は、リューエンリに気が付くと、物静かな声音で言葉を返して来た。
「仕事が早く終わったからな。それよりもミレルティ、今日はせっかくの休みなのに、まだ仕事をするのかい?」
「兄さん。技術者は思った以上に忙しいんだよ~。」
ミレルティはおどけた口調で、リューエンリに答える。
「忙しすぎて、彼氏の約束をまたすっぽかしたりとかしてないだろうな?そんな事したら、逃げられちまうぞ。」
「む…それは余計なお世話ですよ。海軍大佐殿。」
彼女は、顔を膨らませながら、最後の部分を強調する。
ミレルティは、風貌は大人しめな感があるが、実際は気が強く、昔から負けず嫌いな性格で知られている。
銀髪のショートヘアに、整った顔立ち、良く出来た体のスタイルは誰もが見惚れる物があり、そこらの女に負けぬ美しさがある。
今年で34歳になるが、外見上は20代中盤どころか、前半と見ても疑われない程である。
そんな彼女は、今年で交際4年目の彼氏がいる。その彼氏もまた、ミレルティの勤め先であるブリュースター社の技術員として働いている。
「そうそう。女の恋愛に、変な事は言わない物よ。」
後ろから声が掛る。リューエンリは振り向いてから、声を発した人物の姿を確認する。
「これはこれは。流石はアイツベルン家一の恋愛通。その言葉、しかと受け止めておくよ。」
彼は、もう1人の妹であるイリスに向けて、やや演技掛った口調で返す。
それに対し、イリスは
「うえ、気持ち悪い。」
と、顔をあからさまにしかめながら、そう吐き捨てた。
「ぐ……相変わらず、トゲのある言い方だな。」
リューエンリは眉をひそめながら、イリスの顔を見つめる。
イリスはミレルティと違って、髪を長く伸ばしており、その長さは腰の辺りまである。
彼女もまた、ミレルティと同様に整った顔付きをしており、バージニア大学ではミスの候補に選ばれている。
体つきは悪くはないが、ミレルティと比べると、やや胸のボリュームが無いため、一昔前までは、時折、ミレルティの
胸元を親の仇のような目付きで見つめる事もあった。
外見はややトゲのあるような感が強く、普段から掛けている眼鏡がその印象を強く醸し出している。
そして、口調も容赦がなく、気に入らない事はずけずけと言いまくる。
年齢は32歳であり、彼女も今、7年間交際を続けている男性が居る。
リューエンリは、思春期までミレルティとイリスのコンビにしてやられ続けたため、2人を見ると否応なしに、昔の記憶が蘇ってしまう。
(う、いかん。またトラウマが)
彼は心中でそのトラウマを取り払い、苦笑しながら自室に向かう。
「おい、そういえば、母さんと父さんはどうした?」
リューエンリは、2人の妹を交互に見ながら問い掛ける。
「1時間前に買い物に行ったよー。もうすぐで帰って来るんじゃない?」
ミレルティが答えた。
イリスの方は、食器棚からコップを取り出して、水を汲んでいた。
「買い物か。兄貴はまだ店の中かい?」
「うん。もうそろそろ閉店時間だから、店じまいの準備でもしてるんじゃないかな?」
「そうか。」
リューエンリは頷いてから、自分の部屋に向かった。
自室でラフな格好に着替えたリューエンリは、ベッドの側に置いてあった本を取って、リビングに戻った。
「ふぅ~、やっと一息つける。」
彼はそう言いながら、図面を見ながら唸るミレルティの反対側のソファーに座った。
「う~ん……考えが浮かばないなぁ…」
向かい側のミレルティが、諦めたような言葉を言いながら、背中をソファーに寄り掛らせる。
リューエンリは、妹の様子に興味なしといった具合で本を読んでいく。
「……兄さん。前々から思ってたんだけど、何の本を読んでいるの?」
ミレルティは、読書にふける兄に対して、何気ない口調で尋ねた。
「ん?これか?」
リューエンリは、ちらりと本の表紙を見る。
「これはな。孫子の兵法っていう名の兵法書さ。」
「孫子の兵法…?」
ミレルティは、初めて聞く言葉に首を捻った。
「料理のレシピ本?」
その言葉に、思わずリューエンリは体をずらしそうになった。
「おいおい……今兵法書と言っただろう。」
「兄さん……ミレルティ姉さんに難しい事言っても駄目よ。」
後ろのテーブルで、新聞を見ていたイリスがリューエンリにいってくる。
「ミレルティ姉さんは、昔っからそうよねぇ。」
「ちょっとぉ!馬鹿にしないでよ!」
ミレルティが顔を膨らませながら、後ろの妹に抗議する。
「い、今のはちょっとした勘違いよ!」
「勘違いでレシピ本か?とかは言わんぜ。」
リューエンリは、ミレルティの天然ぶりに笑いながら、諭すような声で言う。
ミレルティとイリスは、姉と妹の関係にあるが、昔から妹が姉を引っ張るような形になっている。
ミレルティは大人になっても、独自の天然さが抜けず、妹のイリスがそれを指摘して物事を正すというのが常にある。
高校時代はこれが頻繁にあり、どちらが本当の姉で、本当の妹であるかと、半ば本気で言われる程であった。
(それ故に、2人の人気は高かったようだ)
「まっ、姉さんの天然ぶりは今に始まった事じゃないから、別に何とも思わないけどね。」
「むぅ、イリスったら、昔から意地悪なんだから。」
「フフフ、怒る姉さんはいつ見ても可愛いわねぇ。」
顔を膨らますミレルティに対して、イリスは微笑みながらそう言う。
「まぁまぁ、そう怒るなよ。間違いは誰にでもあるんだから。」
リューエンリは諭すような口ぶりで言う。
「…確かにそうね。」
ミレルティは、あっさりとした口調で喋る。
「兄さんも、昔は男としての道を外したしねぇ。」
「…う。」
リューエンリは、何故か背中に悪寒を感じた。
「そうそう、兄さんも昔、間違いを犯したね。」
「いや、あれはお前達が強要したからだろうが!」
リューエンリは、慌てた口調で2人に言う。彼は心中で、藪から蛇を突きだしてしまったと確信する。
「え~?最初にすすめたのは、お母さんだったけど?」
ミレルティが笑いながら、半目で彼を見つめる。
リューエンリは、幼少期は病弱な体質であり、普段は家で大人しくしている事が多かった。
10歳の頃、何を思ったのか、母フィーネは、妹達の眼前でリューエンリにフリル付きのドレスを着せてしまった。
彼は、学校に居る時に、その風貌からよく女の子に間違えられた。
なぜ間違えられたか?
幼少期のリューエンリは余り髪を切らせて貰えず、髪が普通の男子と違って長かった。
それに加え、顔立ちに特徴があった事が、異性に間違えられる原因となった。
また、母フィーネが、リューエンリを女の子同然に扱った事が災いし、(当時、フィーネは、第一子である長男を出産した後、
第二子は女を産むと決めていた)リューエンリは、幼少期から内気な性格を持つ男の子として育ってしまった。
母フィーネは、リューエンリから学校での話を聞いた時、どれだけ女に似ているかを試す為に、リューエンリを騙すような形で
フリル付きのドレスを着せたのだが……
それが、リューエンリのトラウマの原因になるとは、そして、妹2人の悪趣味な遊びが始まるとは、その時は誰も知る由も無かった。
それから思春期まで、リューエンリは、その弱気な性格を利用した妹達に遊ばれ続けた。
母親も、どういう訳かこれを黙認し、いつしか、家の中には、リューエンリの女装姿の写真が飾られるようになった。
中学2年の学校での演劇部で女役をやらされ、リューエンリの悪夢はここに極まった。
(思えば、今座っている後ろの壁にも、恥ずかしい写真が飾られていたんだよなぁ)
リューエンリは、頭を抱えながら昔の事を思い出す。
彼が据わっているソファーの後ろには、幾つかの写真が掲げられているが、昔は、女役を演じた時の姿が映っていた。
どういう訳か、彼の役は演劇部では大人気であり、妹達も何故か満足気な顔を浮かべていた。
しかし、中学3年になる前の、ある春の日に、彼は人生の転換点に出会った。
当時、リューエンリは、迷惑な事ばかりさせまくる家族に辟易していた内気な少年に過ぎなかったが、その日は、たまたま父親に
連れられて、ノーフォークの海軍基地にやって来た。
そこで、彼は海軍の戦艦という物を、初めて間近で見る事が出来た。
この時見た戦艦は、ペンシルヴァニア級戦艦のネームシップ、ペンシルヴァニアであり、あの時感じた異様な重厚さと、頼もしげな
風格は、今でもはっきりと目に焼き付いている。
リューエンリは、束の間の思考を終えてから、ミレルティに言葉を返す。
「まっ、母さんがすすめたお陰で、俺は恥ずかしい少年時代を送った。でも。」
リューエンリは、後ろの写真に親指を向ける。
「人間、間違いは正せるもんさ。親父が、俺を海軍基地に連れて行かなかったら、今頃は海軍軍人としての人生を
歩んでいなかっただろうな。」
ソファーの後ろの写真は、少年時代に飾られていた写真とは違う。
彼の後ろには、彼が初めて艦長を務める事になった、軽巡洋艦セント・ルイスの雄姿をバックに、笑顔で記念撮影に
臨むリューエンリと父の写真があった。
そのすぐ右には、海軍兵学校を卒業した時に、家族と共に移した記念写真がある。
写真の中のリューエンリは、恥ずかしい少年時代を送った内気な顔つきが綺麗さっぱりと消え、海軍士官にふさわしい
凛々しい顔つきを浮かべていた。
「毎度の如く、俺の昔の傷を抉って頭を抱えさせようとしているのだろうが、そうはいかんぞ。」
リューエンリはどうだ、と言わんばかりの顔つきで、ミレルティにそう言い放つ。
「あらら、あっさりと撥ね退けられちゃった。」
ミレルティは苦笑し、後ろの妹に顔を向ける。
「兄さん、強くなったわねぇ。」
「ええ。楽しみが無くなってしまって、本当につまらないわね。」
イリスが、残念そうに言う。
「……全く、こいつらは、いつまでも。」
彼は苦笑しながら、再び本を読み始める。
「兄さん。」
ふと、イリスがリューエンリを呼ぶ声が聞こえた。
「何だ?」
「………海軍に入って、良かったと思う?」
いきなりの質問に、リューエンリはしばし黙るが、3秒ほどの間を置いてから、ゆっくりと頷いた。
「良かったよ。」
リューエンリは、本を側に置いて、イリスの顔を見つめる。
「そう……あたし、前から少し気になっていたんだけど。兄さんは、休暇で家に帰る時、時折難しそうな顔を浮かべて
いたのを見た事があるの。あたしは、もしかして、兄さんは仕事で何か悩んでいるのかな…と思ったんだけど。」
「恋の悩みじゃない?兄さんって、まだ彼女いないし。」
唐突に、ミレルティが口を挟んで来る。
「姉さん……あたしはそんな事言ってないわよ。」
空気の読めない姉の言葉に、イリスは半目で睨みながら、ミレルティに言う。
「…まぁ、変な突っ込みは置いといて。兄さんが難しそうな顔をするのは、戦争が始まってからなの。兄さんは、
本当は内気で、優しい人だし…人を殺してしまった事に後悔……しているのかな…と、あたしは思ったんだけど。」
「……」
リューエンリは、腕を組みながら、じっとイリスの言葉を聞いていた。
彼は、しばらく考えた後に口を開いた。
「流石はイリスだ。勘が良い。」
リューエンリは苦笑しながら言う。
「俺は、海軍軍人となって、今年で20年になる。戦争が始まった11月12日の海戦の時、初めて実戦を戦った。
それ以来、俺は巡洋艦の艦長として、ある時は戦隊の参謀として、そして、今は一巡洋戦艦の艦長として実戦を
潜り抜けて来た。俺は、軍人として、戦果を挙げた喜びを感じると同時に、人を殺してしまったという事も感じている。
こう思うのは、軍人として良くない事かも知れんが。」
リューエンリは一旦言葉を区切り、ふぅっとため息を吐いてから続ける。
「俺の艦が沈めた敵艦や、対空砲が撃ち落としたワイバーンや飛空挺に乗っていた敵兵も、きっと家族や親友が居たんだろうと。
こんな事を、たまに思ってしまうのさ。」
彼は、これまで自分が戦って来た戦場の光景を思い出す。
ある時は、巡洋艦の艦長として敵艦と殴り合い、ある時は、アラスカ級巡戦の艦長として敵戦艦との死闘を制して来た。
多数の砲弾を艦のあらゆる個所に叩き付けられ、文字通りぼろ屑になりながら沈んでいく敵巡洋艦。
致命的な個所に主砲弾が命中し、一瞬にして大爆発を起こし、轟沈していく敵戦艦。
そして、これまでの対空戦闘で排除して来た、幾多もの敵ワイバーンや航空機。
戦果という名の惨劇を、リューエンリは数え切れぬほど見て来た。
そして、それを軍人としての宿命として、しっかり見届けて来た。
自らの命令によって奪った人命……
シホールアンル人やマオンド人も、アメリカ人と同じ人であり、奪った数だけ、それぞれの人生があった。
「家に帰ってきた時も、時折そんな事を考えてしまうんだ。炎上しながら沈んでいく船に乗っていた敵兵にも、妻や子供が居たのか。
親が、戦死の報せを聞いたらどう思うのか、と。」
「……」
「……」
2人は、一言も話さずに、リューエンリの言葉を聞く。
リューエンリは、休暇で帰宅した際に、よく妹達から手柄話を聞かせてくれとお願いされたが、その時は表面的な内容しか
教えなかった。
今回のような、戦争の真偽を問いただすような内容は、全く聞かされていない。
それ故に、今、兄から聞かされる話には、驚きを隠せなかった。
「軍人と言う職業は、本当に業の深い物だよ。自分が死なぬ為に、敵を死なすのだからね。考えが深い奴なら、精神が
参ってもおかしく無いだろう。」
「兄さんは、この戦争で苦痛に思った事はある?」
「勿論あるさ。」
ミレルティの問いに、リューエンリは即答する。
「俺が指揮する艦に乗っていた乗員に戦死者が出て、水葬にする時は特に辛い。少年時代に感じたあのトラウマなんかとは
比べ物にもならないな。」
リューエンリはそこで苦笑する。
「女装は自分が恥ずかしがるだけで、相手は何も感じないが……軍人は、一時の命令で命が無くなるからな。敵と……
味方の命がね。」
彼は、視線をラジオの側に置いてある写真に写す。
その写真は、リューエンリがアラスカの艦長に就任した際、アラスカをバックに家族と記念撮影をした物だ。
「でも、俺はその度に、彼らの死は決して無駄ではなかったと思った。その悲しみをバネに、任務に打ち込んで来た。
だから、俺はこうして、生き残る事が出来たんだ。」
「生き残る…」
イリスは、リューエンリの口から出て来た、最後の言葉を小さく反芻する。
その言葉には、妙な重みがあった。
「戦争は…これからも続く。俺は、今後も前線で戦い続けるだろう。アラスカに乗ってな。」
リューエンリは、やや重い口調でそう言ってから、読書を再開する。
それから10分程が経過した。
玄関が開かれる音が聞こえ、リューエンリは視線を上げる。
「ふぅ、終わった終わったぁ…ようリューエンリ!」
「お疲れ兄貴。店の仕事はもう終わったのかい?」
リューエンリは、家の中に入って来た、兄のハルスに笑顔を見せながら問う。
「ああ。今日はこれで店閉まいだ。」
ハルスは快活な笑みを浮かべて、リューエンリに答えた。
リューエンリの兄貴であり、アイツベルン家の長男でもあるハルスは、昔から体育会系の学校に通っていた事もあり、
体つきはがっしりとしている。
それに対して、顔つきは端整であり、どこかリューエンリと似ている。
彼は、父と共に実家の薬屋で働いている。
「それよりも、お前達。」
ハルスはリューエンリから視線を離し、2人の妹達を交互に見やる。
「明後日に着る服はちゃんと選んで置いたか?明後日はワシントンで、リューエンリの表彰式だぞ。」
「あ…いけない!」
ミレルティがしまったと言わんばかりに声を上げる。
「友達から服借りるのを忘れてた!」
「服借りるって、ミレルティ。お前、相変わらず自分好みの服しか買っていないのか。」
リューエンリが呆れるように言う。
「いやははは、あたしは不器用な人でして。」
ミレルティは苦笑しながら、後頭部を掻いた。
「というわけで、ちょっと出掛けてきまーす!!」
言うが早いか、ミレルティは風も撒く勢いで家から飛び出して行った。
「全く、本当に不器用だなぁ。あれで、航空機会社のエリート技術士っつぅから、世の中訳が分からんぜ。」
ハルスは首を捻りながら呟く。
「同感だわ。ハルス兄さん。」
イリスも無愛想な口ぶりで相槌を打った。
「イリス、お前はちゃんと準備出来ているか?」
「あたしの方はとっくに済んでるわよ。この間の同窓会の時に付けたスーツで行こうと思ってる。」
彼女は、眼鏡の位置を直しながらハルスに答えた。
「OK。」
ハルスはニカッと笑ってから、イリスの肩を叩いた。
「しかし、俺の弟が、まさか名誉勲章を貰うとは、夢にも思わなかったなぁ。」
「俺も驚きだよ。」
リューエンリは恥ずかしげな口ぶりで、ハルスに返す。
「俺としては、別に普通の事をしたまでと思ってるんだが。」
「戦艦の主砲をぶっ放して敵機阻止で普通か?」
ハルスがすかさず突っ込んだ。それに、リューエンリは一瞬きょとんとした表情になり、それから苦笑いを浮かべる。
「どう見ても普通の事じゃねえぜ。」
「まっ、兄貴の言う通りだ。」
リューエンリは、参ったと言わんばかりに肩をすくめた。
「でも、あの時は、あれが最適な方法だと思ったんだ。その結果、俺が所属していた任務群は、他の任務群と比べて
被害が少なかった。でも……それで名誉勲章が貰えるとは。」
リューエンリは、どこか複雑そうな口調で言う。
「なあに、そう不安がる事も無いだろう。」
ハルスは、リューエンリの不安を打ち消すような、張りのある声で語りかける。
「上の人が、お前は名誉勲章を与えるに値する人物と認めたんだ。ここであれこれ思っても仕方がないさ。それに、
お前は貰って当然の事をしているんだ。ここは堂々と、胸を張ればいいさ。」
「……兄貴の言う通りだな。」
リューエンリはそう言うと、ソファーから立ち上がる。彼の顔は晴れ晴れとしていた。
「明後日は、皆の前で恥をかかないようにするよ。」
「おう。その意気だ。しっかりとやれよ。」
ハルスはそう答えると、颯爽とした足取りで自らの部屋に向かって行った。
11月2日 午前10時 ワシントンDC
リューエンリは、他の受章者と共にワシントンDCにあるホワイトハウスを訪れていた。
この日の天気は晴れであったが彼は、その光景を美しいとは思わず、これまでに経験した事の無い緊張感に囚われていた。
「大丈夫ですか?」
不意に、側から声が掛った。
リューエンリは、隣に立っているローレンス・ダスビット中佐に顔を向けた。
「ああ、大丈夫だ。ただ、少し緊張していてね。」
彼は、ダスビット中佐に向けて作り笑いを浮かべる。
「そうですか。実は、自分も緊張していますよ。」
ダスビット中佐も、自分の心境を素直に伝える。
「大統領閣下から直接、勲章を授与されるのですよ。緊張して当然です。」
「ハハ。そうだね。」
リューエンリは微笑する。
その時、会場で拍手が上がった。リューエンリとダスビットは、ルーズベルト大統領が檀上に上がるのを見た。
ルーズベルトは、マイクの前で姿勢を正すと、壇上の前に設けられた、観客席に座っている人々に向けて話し始めた。
「皆さん、おはようございます。今日はこのホワイトハウスにお越し頂き、誠にありがとうございます。」
ルーズベルトは、いつものように活きの良い声音を響かせた。
「これより、議会名誉勲章授与式を行いたいと思います。」
彼の言葉が一旦区切られると、観客席から自然に拍手が沸き起こる。
「まず、最初の受章者を紹介いたします。」
ルーズベルトが、受章者が待機している場所に目を向ける。最初の受章者は、ダスビット中佐であった。
ルーズベルトは、ダスビット中佐が、名誉勲章を授与されるきっかけとなった、先の海戦での功績を説明した後、ダスビット中佐を
檀上まで呼び寄せてから、勲章を授与した。
ルーズベルトがダスビットの襟首に名誉勲章を掛けた瞬間、観客席からは大きな拍手が沸き起こった。
ダスビット中佐の勲章授与が終わり、いよいよリューエンリの出番がやって来た。
「次に、本日2人目の受勲者の紹介を行います。」
ルーズベルトは、改まった口調で紹介を行う。
「リューエンリ・アイツベルン大佐は、ダスビット中佐も参加したレビリンイクル沖海戦に、巡洋戦艦アラスカの艦長として戦闘に
加わっていました。アイツベルン大佐は、敵航空部隊が攻撃を行っている最中、味方空母を救うため、自艦の主砲を用いて、低空侵入
を図っていた敵航空部隊を排除しようとしました。この砲撃で撃墜出来たワイバーンは少なかったものの、突然の砲撃に驚いた敵部隊は、
統率のとれた攻撃が出来なくなり、結果的に、アイツベルン大佐指揮下のアラスカは、所属していた任務群の空母が撃沈されるのを
未然に防ぎました。合衆国海軍と、合衆国議会は、咄嗟の判断で味方空母群の危機を救った、アイツベルン大佐の功績を称え、
議会名誉勲章を授与する事を決定いたしました。」
ルーズベルトは、言葉を言い終えてから係官に目を向ける。
頷いた係官は、リューエンリに声を掛けた。
「アイツベルン大佐、どうぞこちらに。」
リューエンリは、緊張を押し殺した表情で頷くと、堂々とした足取りで壇上に向かった。
檀上には、車椅子に乗ったルーズベルト大統領が居る。
ルーズベルトのすぐ目の前にまで近付いたリューエンリは、そこで足を止め、直立不動の体勢で敬礼を送る。
ルーズベルトは彼に答礼を行った後、勲章を手に取り、リューエンリに直接、授与の言葉を送る。
「アメリカ合衆国海軍大佐、リューエンリ・アイツベルン。貴官は、先の海戦で類稀な働きを見せ、味方機動部隊の危地を救う事に大きく
貢献した。我々、アメリカ合衆国議会は、貴官の功績を称え、ここに、名誉勲章を授与するものとする。1944年11月2日
アメリカ合衆国大統領 フランクリン・デラノ・ルーズベルト。」
リューエンリは頭を下げ、ルーズベルトから勲章を掛けて貰う。
襟首に勲章が掛けられたと確認すると、リューエンリはゆっくりと顔を上げる。
「おめでとう。アイツベルン大佐。君は、合衆国の誇りだ。」
ルーズベルトは、顔に笑みを張り付かせながら、リューエンリにそう語りかけた後、自然な動作で右手を差し出した。
「…ありがとうございます。大統領閣下。」
リューエンリは、務めて平静な声音でそう返し、ルーズベルトの右手を握った。
その手は、とても温かった。
握手を終えると、リューエンリは再び敬礼を送り、ルーズベルトも答礼した。
彼は、ちらりと胸元の勲章を見る。
星を逆さまの形にしたブロンズ色の勲章には、女神と男の姿が象られており、勲章は、錨の形をした物と青色のリボンで繋がっている。
リューエンリは海軍出身のため、デザインは海軍専用の物となっている。
名誉勲章は、陸、海軍によってデザインが異なっており、陸軍軍人が授与する場合は、リューエンリの勲章とは別のデザインの物が与えられる。
リューエンリは観客席に顔を向けた。観客席の真ん中辺りの席には、彼の両親や、兄、妹達が座っている。
彼の家族は、いずれもがリューエンリの姿を見つめていた。
(母さんが泣きながら、こっちを見ているな)
リューエンリは、しきりにハンカチで涙を拭き取る母に視線を送る。
母の視線からは、良く頑張ったね、という思いが伝わって来る。
彼は、体を来た方向に向け直すと、堂々とした足取りで壇上を去って行った。
その後も、名誉勲章の授与式は続き、この日は海軍から3名、陸軍から2名、海兵隊から3名の受章者が発表された。
8名の受章者のうち、2名は戦死後の受章であるため、本人の代わりに家族が勲章を受け取る事になった。
11月5日 午前7時 バージニア州ノーフォーク
「艦長、出港準備完了!」
自らが艦長を務める巡洋戦艦アラスカの艦橋で、軍港の周囲を見回していたリューエンリは、背後から聞こえる声に、冷静な口調で答える。
「両舷、前進微速。」
彼の口から出された命令は、すぐさま航海科、機関科へと伝わって行く。
艦深部にあるボイラーが、唸りを強くし、艦尾のスクリューが回転を始める。
機関故障で戦列を離れていたアラスカは、修理を終え、その後の完熟訓練を終えて、ようやく前線に復帰する事が決まった。
「艦長!シャングリラが出港します!」
見張りの声が艦橋に響く。
リューエンリは、アラスカの右舷300メートルに停泊していた、空母のシャングリラに目を向ける。
エセックス級空母の13番艦として就役したシャングリラは、11月2日に完熟訓練を終え、11月4日付を持って、第38任務部隊
第3任務群への配属が決まった。
第38任務部隊第3任務群は、元は第37任務部隊第1任務群の艦艇で編成されていた部隊であるが、先日行われた艦隊の再編により、
TF37は解隊され、新たにTF38の指揮下に入った。
空母5隻を失い、3隻を損傷させられたTF37は、TF38指揮下では、使える4隻の空母…ボクサー、フランクリン、ラングレー、
プリンストンを主力に1個の空母群を編成し、TG38.3となっている。
これは10月時の話で、11月からは、損傷した空母イントレピッドとレキシントンが復帰するため、近い内にTG38.4が編成される。
リューエンリの指揮するアラスカは、昨日受け取った通信ではTG38.3に編入される事が決まっており、艦隊の集結地である
ホウロナ諸島のファスコド島までは、“新米”であるシャングリラを伴いながら航海を行う事になる。
「流石は最新鋭の空母だ。塗装が真新しいな。」
リューエンリは何気ない口調で呟いた。
「これで、元TF37の空母も勢ぞろいしますね。次こそは、パウノール司令官の仇討ちと行きたい物です。」
副長のロバート・ケイン中佐がリューエンリに言う。
「そう行きたい物だが、勢揃いと言う訳には行かないようだ。」
「ん?それはどういう事です?」
リューエンリの言葉を聞いたケイン中佐は、怪訝な顔つきを浮かべた。
「これは噂なのだが、軽空母のラングレーが、停泊地から居なくなっているらしい。何でも、カレアント海軍の古い軍艦と
一緒に出て行ったきり、そのままのようだが……」
「へぇ、ラングレーが、ですか。」
ケイン中佐は、訳が分からぬと言わんばかりに、首を横に振る。
「ハルゼー親父がまた何か企んでいるんですかね?」
「さぁね。」
リューエンリは肩を竦めた。
「詳しい話は、ラングレーの艦長から聞くといいさ。」
彼はそう言ってから、会話を締め括る。
その時、後ろから幾人かの男が、艦橋に入って来る様子に気が付いた。
リューエンリは、音がした方向に振り向き、その中の1人に敬礼を送った。
「おはようございます。長官。」
「おはよう艦長。」
レイモンド・スプルーアンス大将は、いつも通りの冷静な声音で、自らの旗艦の艦長に挨拶を返した。
「ふむ。今日は悪く無い天気だね。」
「はっ。空は見事な秋晴れとなっております。」
リューエンリは、軽やかな口調でスプルーアンス大将に告げる。
第3艦隊司令長官であるウィリアム・ハルゼー大将は、11月中旬にレイモンド・スプルーアンス大将に指揮権を移譲する事が本国で決定した。
スプルーアンスは、久方ぶりの前線復帰の際には、慣れ親しんだ重巡洋艦のインディアナポリスを旗艦に定めようとしたが、インディアナポリスは、
11月2日にレンフェラルの攻撃を受けて大破したため、しばらくはドックから出れなくなった。
スプルーアンスは、急遽艦隊の旗艦を変更し、11月4日付けで、前線復帰寸前のアラスカを旗艦に定める事を決めた。
アラスカがホウロナ諸島に到着し、スプルーアンスがハルゼーから艦隊の指揮を交代すれば、アラスカは第5艦隊の旗艦となる。
リューエンリのアラスカは、図らずも、大艦隊を率いる旗艦となったのだ。
(名誉勲章を貰った上に、第5艦隊旗艦の艦長とは……何か、嫌な予感がするな)
リューエンリは、喜びを感じるどころか、逆に言い知れぬ不安感に囚われる。
(でも、決まった物は仕方がない。与えられた任務はこれまで通りこなしていくだけだ)
彼はそう思い直し、再び、前方を見据え始める。
アラスカの艦体が微かに振動しながら、ゆっくりと前進を開始する。
艦深部にある8基のバブコック・ウィルコックス缶は、快調に動いているようだ。
やがて、アラスカはノーフォークの港外に躍り出た。
空母シャングリラと巡洋戦艦アラスカは、途中で3隻の駆逐艦と合流した後、南海岸沖を通過するルートで、一路、ホウロナ諸島に向かって行った。
1484年(1944年)10月31日 午後5時 バージニア州ノーフォーク
巡洋戦艦アラスカの艦長を務めるリューエンリ・アイツベルン大佐は、晩秋の風が吹きすさぶ中、ゆっくりとした足取りで、
実家のある薬局店に向かっていた。
「ふぅ~、秋も大分深まって来たな。」
リューエンリは、ずれた制帽を直しつつ、季節の変わり目を肌で感じ取る。
2分ほど歩くと、通り沿いにある小さな薬局が見えて来た。
彼は、薬局を過ぎ、右隣にある民家の玄関に入って行く。
扉を開けると、内側に付いている鈴が軽やかな音を立てた。
「ただいまぁ~。」
彼は、のんびりとした口調でそう言ってから、家の中に入る。
リビングに目を向けると、そこには、テーブルに紙を置きながら、物難しそうな顔を浮かべている妹が居た。
「あ、お帰りなさい。今日は早いわね。」
妹は、リューエンリに気が付くと、物静かな声音で言葉を返して来た。
「仕事が早く終わったからな。それよりもミレルティ、今日はせっかくの休みなのに、まだ仕事をするのかい?」
「兄さん。技術者は思った以上に忙しいんだよ~。」
ミレルティはおどけた口調で、リューエンリに答える。
「忙しすぎて、彼氏の約束をまたすっぽかしたりとかしてないだろうな?そんな事したら、逃げられちまうぞ。」
「む…それは余計なお世話ですよ。海軍大佐殿。」
彼女は、顔を膨らませながら、最後の部分を強調する。
ミレルティは、風貌は大人しめな感があるが、実際は気が強く、昔から負けず嫌いな性格で知られている。
銀髪のショートヘアに、整った顔立ち、良く出来た体のスタイルは誰もが見惚れる物があり、そこらの女に負けぬ美しさがある。
今年で34歳になるが、外見上は20代中盤どころか、前半と見ても疑われない程である。
そんな彼女は、今年で交際4年目の彼氏がいる。その彼氏もまた、ミレルティの勤め先であるブリュースター社の技術員として働いている。
「そうそう。女の恋愛に、変な事は言わない物よ。」
後ろから声が掛る。リューエンリは振り向いてから、声を発した人物の姿を確認する。
「これはこれは。流石はアイツベルン家一の恋愛通。その言葉、しかと受け止めておくよ。」
彼は、もう1人の妹であるイリスに向けて、やや演技掛った口調で返す。
それに対し、イリスは
「うえ、気持ち悪い。」
と、顔をあからさまにしかめながら、そう吐き捨てた。
「ぐ……相変わらず、トゲのある言い方だな。」
リューエンリは眉をひそめながら、イリスの顔を見つめる。
イリスはミレルティと違って、髪を長く伸ばしており、その長さは腰の辺りまである。
彼女もまた、ミレルティと同様に整った顔付きをしており、バージニア大学ではミスの候補に選ばれている。
体つきは悪くはないが、ミレルティと比べると、やや胸のボリュームが無いため、一昔前までは、時折、ミレルティの
胸元を親の仇のような目付きで見つめる事もあった。
外見はややトゲのあるような感が強く、普段から掛けている眼鏡がその印象を強く醸し出している。
そして、口調も容赦がなく、気に入らない事はずけずけと言いまくる。
年齢は32歳であり、彼女も今、7年間交際を続けている男性が居る。
リューエンリは、思春期までミレルティとイリスのコンビにしてやられ続けたため、2人を見ると否応なしに、昔の記憶が蘇ってしまう。
(う、いかん。またトラウマが)
彼は心中でそのトラウマを取り払い、苦笑しながら自室に向かう。
「おい、そういえば、母さんと父さんはどうした?」
リューエンリは、2人の妹を交互に見ながら問い掛ける。
「1時間前に買い物に行ったよー。もうすぐで帰って来るんじゃない?」
ミレルティが答えた。
イリスの方は、食器棚からコップを取り出して、水を汲んでいた。
「買い物か。兄貴はまだ店の中かい?」
「うん。もうそろそろ閉店時間だから、店じまいの準備でもしてるんじゃないかな?」
「そうか。」
リューエンリは頷いてから、自分の部屋に向かった。
自室でラフな格好に着替えたリューエンリは、ベッドの側に置いてあった本を取って、リビングに戻った。
「ふぅ~、やっと一息つける。」
彼はそう言いながら、図面を見ながら唸るミレルティの反対側のソファーに座った。
「う~ん……考えが浮かばないなぁ…」
向かい側のミレルティが、諦めたような言葉を言いながら、背中をソファーに寄り掛らせる。
リューエンリは、妹の様子に興味なしといった具合で本を読んでいく。
「……兄さん。前々から思ってたんだけど、何の本を読んでいるの?」
ミレルティは、読書にふける兄に対して、何気ない口調で尋ねた。
「ん?これか?」
リューエンリは、ちらりと本の表紙を見る。
「これはな。孫子の兵法っていう名の兵法書さ。」
「孫子の兵法…?」
ミレルティは、初めて聞く言葉に首を捻った。
「料理のレシピ本?」
その言葉に、思わずリューエンリは体をずらしそうになった。
「おいおい……今兵法書と言っただろう。」
「兄さん……ミレルティ姉さんに難しい事言っても駄目よ。」
後ろのテーブルで、新聞を見ていたイリスがリューエンリにいってくる。
「ミレルティ姉さんは、昔っからそうよねぇ。」
「ちょっとぉ!馬鹿にしないでよ!」
ミレルティが顔を膨らませながら、後ろの妹に抗議する。
「い、今のはちょっとした勘違いよ!」
「勘違いでレシピ本か?とかは言わんぜ。」
リューエンリは、ミレルティの天然ぶりに笑いながら、諭すような声で言う。
ミレルティとイリスは、姉と妹の関係にあるが、昔から妹が姉を引っ張るような形になっている。
ミレルティは大人になっても、独自の天然さが抜けず、妹のイリスがそれを指摘して物事を正すというのが常にある。
高校時代はこれが頻繁にあり、どちらが本当の姉で、本当の妹であるかと、半ば本気で言われる程であった。
(それ故に、2人の人気は高かったようだ)
「まっ、姉さんの天然ぶりは今に始まった事じゃないから、別に何とも思わないけどね。」
「むぅ、イリスったら、昔から意地悪なんだから。」
「フフフ、怒る姉さんはいつ見ても可愛いわねぇ。」
顔を膨らますミレルティに対して、イリスは微笑みながらそう言う。
「まぁまぁ、そう怒るなよ。間違いは誰にでもあるんだから。」
リューエンリは諭すような口ぶりで言う。
「…確かにそうね。」
ミレルティは、あっさりとした口調で喋る。
「兄さんも、昔は男としての道を外したしねぇ。」
「…う。」
リューエンリは、何故か背中に悪寒を感じた。
「そうそう、兄さんも昔、間違いを犯したね。」
「いや、あれはお前達が強要したからだろうが!」
リューエンリは、慌てた口調で2人に言う。彼は心中で、藪から蛇を突きだしてしまったと確信する。
「え~?最初にすすめたのは、お母さんだったけど?」
ミレルティが笑いながら、半目で彼を見つめる。
リューエンリは、幼少期は病弱な体質であり、普段は家で大人しくしている事が多かった。
10歳の頃、何を思ったのか、母フィーネは、妹達の眼前でリューエンリにフリル付きのドレスを着せてしまった。
彼は、学校に居る時に、その風貌からよく女の子に間違えられた。
なぜ間違えられたか?
幼少期のリューエンリは余り髪を切らせて貰えず、髪が普通の男子と違って長かった。
それに加え、顔立ちに特徴があった事が、異性に間違えられる原因となった。
また、母フィーネが、リューエンリを女の子同然に扱った事が災いし、(当時、フィーネは、第一子である長男を出産した後、
第二子は女を産むと決めていた)リューエンリは、幼少期から内気な性格を持つ男の子として育ってしまった。
母フィーネは、リューエンリから学校での話を聞いた時、どれだけ女に似ているかを試す為に、リューエンリを騙すような形で
フリル付きのドレスを着せたのだが……
それが、リューエンリのトラウマの原因になるとは、そして、妹2人の悪趣味な遊びが始まるとは、その時は誰も知る由も無かった。
それから思春期まで、リューエンリは、その弱気な性格を利用した妹達に遊ばれ続けた。
母親も、どういう訳かこれを黙認し、いつしか、家の中には、リューエンリの女装姿の写真が飾られるようになった。
中学2年の学校での演劇部で女役をやらされ、リューエンリの悪夢はここに極まった。
(思えば、今座っている後ろの壁にも、恥ずかしい写真が飾られていたんだよなぁ)
リューエンリは、頭を抱えながら昔の事を思い出す。
彼が据わっているソファーの後ろには、幾つかの写真が掲げられているが、昔は、女役を演じた時の姿が映っていた。
どういう訳か、彼の役は演劇部では大人気であり、妹達も何故か満足気な顔を浮かべていた。
しかし、中学3年になる前の、ある春の日に、彼は人生の転換点に出会った。
当時、リューエンリは、迷惑な事ばかりさせまくる家族に辟易していた内気な少年に過ぎなかったが、その日は、たまたま父親に
連れられて、ノーフォークの海軍基地にやって来た。
そこで、彼は海軍の戦艦という物を、初めて間近で見る事が出来た。
この時見た戦艦は、ペンシルヴァニア級戦艦のネームシップ、ペンシルヴァニアであり、あの時感じた異様な重厚さと、頼もしげな
風格は、今でもはっきりと目に焼き付いている。
リューエンリは、束の間の思考を終えてから、ミレルティに言葉を返す。
「まっ、母さんがすすめたお陰で、俺は恥ずかしい少年時代を送った。でも。」
リューエンリは、後ろの写真に親指を向ける。
「人間、間違いは正せるもんさ。親父が、俺を海軍基地に連れて行かなかったら、今頃は海軍軍人としての人生を
歩んでいなかっただろうな。」
ソファーの後ろの写真は、少年時代に飾られていた写真とは違う。
彼の後ろには、彼が初めて艦長を務める事になった、軽巡洋艦セント・ルイスの雄姿をバックに、笑顔で記念撮影に
臨むリューエンリと父の写真があった。
そのすぐ右には、海軍兵学校を卒業した時に、家族と共に移した記念写真がある。
写真の中のリューエンリは、恥ずかしい少年時代を送った内気な顔つきが綺麗さっぱりと消え、海軍士官にふさわしい
凛々しい顔つきを浮かべていた。
「毎度の如く、俺の昔の傷を抉って頭を抱えさせようとしているのだろうが、そうはいかんぞ。」
リューエンリはどうだ、と言わんばかりの顔つきで、ミレルティにそう言い放つ。
「あらら、あっさりと撥ね退けられちゃった。」
ミレルティは苦笑し、後ろの妹に顔を向ける。
「兄さん、強くなったわねぇ。」
「ええ。楽しみが無くなってしまって、本当につまらないわね。」
イリスが、残念そうに言う。
「……全く、こいつらは、いつまでも。」
彼は苦笑しながら、再び本を読み始める。
「兄さん。」
ふと、イリスがリューエンリを呼ぶ声が聞こえた。
「何だ?」
「………海軍に入って、良かったと思う?」
いきなりの質問に、リューエンリはしばし黙るが、3秒ほどの間を置いてから、ゆっくりと頷いた。
「良かったよ。」
リューエンリは、本を側に置いて、イリスの顔を見つめる。
「そう……あたし、前から少し気になっていたんだけど。兄さんは、休暇で家に帰る時、時折難しそうな顔を浮かべて
いたのを見た事があるの。あたしは、もしかして、兄さんは仕事で何か悩んでいるのかな…と思ったんだけど。」
「恋の悩みじゃない?兄さんって、まだ彼女いないし。」
唐突に、ミレルティが口を挟んで来る。
「姉さん……あたしはそんな事言ってないわよ。」
空気の読めない姉の言葉に、イリスは半目で睨みながら、ミレルティに言う。
「…まぁ、変な突っ込みは置いといて。兄さんが難しそうな顔をするのは、戦争が始まってからなの。兄さんは、
本当は内気で、優しい人だし…人を殺してしまった事に後悔……しているのかな…と、あたしは思ったんだけど。」
「……」
リューエンリは、腕を組みながら、じっとイリスの言葉を聞いていた。
彼は、しばらく考えた後に口を開いた。
「流石はイリスだ。勘が良い。」
リューエンリは苦笑しながら言う。
「俺は、海軍軍人となって、今年で20年になる。戦争が始まった11月12日の海戦の時、初めて実戦を戦った。
それ以来、俺は巡洋艦の艦長として、ある時は戦隊の参謀として、そして、今は一巡洋戦艦の艦長として実戦を
潜り抜けて来た。俺は、軍人として、戦果を挙げた喜びを感じると同時に、人を殺してしまったという事も感じている。
こう思うのは、軍人として良くない事かも知れんが。」
リューエンリは一旦言葉を区切り、ふぅっとため息を吐いてから続ける。
「俺の艦が沈めた敵艦や、対空砲が撃ち落としたワイバーンや飛空挺に乗っていた敵兵も、きっと家族や親友が居たんだろうと。
こんな事を、たまに思ってしまうのさ。」
彼は、これまで自分が戦って来た戦場の光景を思い出す。
ある時は、巡洋艦の艦長として敵艦と殴り合い、ある時は、アラスカ級巡戦の艦長として敵戦艦との死闘を制して来た。
多数の砲弾を艦のあらゆる個所に叩き付けられ、文字通りぼろ屑になりながら沈んでいく敵巡洋艦。
致命的な個所に主砲弾が命中し、一瞬にして大爆発を起こし、轟沈していく敵戦艦。
そして、これまでの対空戦闘で排除して来た、幾多もの敵ワイバーンや航空機。
戦果という名の惨劇を、リューエンリは数え切れぬほど見て来た。
そして、それを軍人としての宿命として、しっかり見届けて来た。
自らの命令によって奪った人命……
シホールアンル人やマオンド人も、アメリカ人と同じ人であり、奪った数だけ、それぞれの人生があった。
「家に帰ってきた時も、時折そんな事を考えてしまうんだ。炎上しながら沈んでいく船に乗っていた敵兵にも、妻や子供が居たのか。
親が、戦死の報せを聞いたらどう思うのか、と。」
「……」
「……」
2人は、一言も話さずに、リューエンリの言葉を聞く。
リューエンリは、休暇で帰宅した際に、よく妹達から手柄話を聞かせてくれとお願いされたが、その時は表面的な内容しか
教えなかった。
今回のような、戦争の真偽を問いただすような内容は、全く聞かされていない。
それ故に、今、兄から聞かされる話には、驚きを隠せなかった。
「軍人と言う職業は、本当に業の深い物だよ。自分が死なぬ為に、敵を死なすのだからね。考えが深い奴なら、精神が
参ってもおかしく無いだろう。」
「兄さんは、この戦争で苦痛に思った事はある?」
「勿論あるさ。」
ミレルティの問いに、リューエンリは即答する。
「俺が指揮する艦に乗っていた乗員に戦死者が出て、水葬にする時は特に辛い。少年時代に感じたあのトラウマなんかとは
比べ物にもならないな。」
リューエンリはそこで苦笑する。
「女装は自分が恥ずかしがるだけで、相手は何も感じないが……軍人は、一時の命令で命が無くなるからな。敵と……
味方の命がね。」
彼は、視線をラジオの側に置いてある写真に写す。
その写真は、リューエンリがアラスカの艦長に就任した際、アラスカをバックに家族と記念撮影をした物だ。
「でも、俺はその度に、彼らの死は決して無駄ではなかったと思った。その悲しみをバネに、任務に打ち込んで来た。
だから、俺はこうして、生き残る事が出来たんだ。」
「生き残る…」
イリスは、リューエンリの口から出て来た、最後の言葉を小さく反芻する。
その言葉には、妙な重みがあった。
「戦争は…これからも続く。俺は、今後も前線で戦い続けるだろう。アラスカに乗ってな。」
リューエンリは、やや重い口調でそう言ってから、読書を再開する。
それから10分程が経過した。
玄関が開かれる音が聞こえ、リューエンリは視線を上げる。
「ふぅ、終わった終わったぁ…ようリューエンリ!」
「お疲れ兄貴。店の仕事はもう終わったのかい?」
リューエンリは、家の中に入って来た、兄のハルスに笑顔を見せながら問う。
「ああ。今日はこれで店閉まいだ。」
ハルスは快活な笑みを浮かべて、リューエンリに答えた。
リューエンリの兄貴であり、アイツベルン家の長男でもあるハルスは、昔から体育会系の学校に通っていた事もあり、
体つきはがっしりとしている。
それに対して、顔つきは端整であり、どこかリューエンリと似ている。
彼は、父と共に実家の薬屋で働いている。
「それよりも、お前達。」
ハルスはリューエンリから視線を離し、2人の妹達を交互に見やる。
「明後日に着る服はちゃんと選んで置いたか?明後日はワシントンで、リューエンリの表彰式だぞ。」
「あ…いけない!」
ミレルティがしまったと言わんばかりに声を上げる。
「友達から服借りるのを忘れてた!」
「服借りるって、ミレルティ。お前、相変わらず自分好みの服しか買っていないのか。」
リューエンリが呆れるように言う。
「いやははは、あたしは不器用な人でして。」
ミレルティは苦笑しながら、後頭部を掻いた。
「というわけで、ちょっと出掛けてきまーす!!」
言うが早いか、ミレルティは風も撒く勢いで家から飛び出して行った。
「全く、本当に不器用だなぁ。あれで、航空機会社のエリート技術士っつぅから、世の中訳が分からんぜ。」
ハルスは首を捻りながら呟く。
「同感だわ。ハルス兄さん。」
イリスも無愛想な口ぶりで相槌を打った。
「イリス、お前はちゃんと準備出来ているか?」
「あたしの方はとっくに済んでるわよ。この間の同窓会の時に付けたスーツで行こうと思ってる。」
彼女は、眼鏡の位置を直しながらハルスに答えた。
「OK。」
ハルスはニカッと笑ってから、イリスの肩を叩いた。
「しかし、俺の弟が、まさか名誉勲章を貰うとは、夢にも思わなかったなぁ。」
「俺も驚きだよ。」
リューエンリは恥ずかしげな口ぶりで、ハルスに返す。
「俺としては、別に普通の事をしたまでと思ってるんだが。」
「戦艦の主砲をぶっ放して敵機阻止で普通か?」
ハルスがすかさず突っ込んだ。それに、リューエンリは一瞬きょとんとした表情になり、それから苦笑いを浮かべる。
「どう見ても普通の事じゃねえぜ。」
「まっ、兄貴の言う通りだ。」
リューエンリは、参ったと言わんばかりに肩をすくめた。
「でも、あの時は、あれが最適な方法だと思ったんだ。その結果、俺が所属していた任務群は、他の任務群と比べて
被害が少なかった。でも……それで名誉勲章が貰えるとは。」
リューエンリは、どこか複雑そうな口調で言う。
「なあに、そう不安がる事も無いだろう。」
ハルスは、リューエンリの不安を打ち消すような、張りのある声で語りかける。
「上の人が、お前は名誉勲章を与えるに値する人物と認めたんだ。ここであれこれ思っても仕方がないさ。それに、
お前は貰って当然の事をしているんだ。ここは堂々と、胸を張ればいいさ。」
「……兄貴の言う通りだな。」
リューエンリはそう言うと、ソファーから立ち上がる。彼の顔は晴れ晴れとしていた。
「明後日は、皆の前で恥をかかないようにするよ。」
「おう。その意気だ。しっかりとやれよ。」
ハルスはそう答えると、颯爽とした足取りで自らの部屋に向かって行った。
11月2日 午前10時 ワシントンDC
リューエンリは、他の受章者と共にワシントンDCにあるホワイトハウスを訪れていた。
この日の天気は晴れであったが彼は、その光景を美しいとは思わず、これまでに経験した事の無い緊張感に囚われていた。
「大丈夫ですか?」
不意に、側から声が掛った。
リューエンリは、隣に立っているローレンス・ダスビット中佐に顔を向けた。
「ああ、大丈夫だ。ただ、少し緊張していてね。」
彼は、ダスビット中佐に向けて作り笑いを浮かべる。
「そうですか。実は、自分も緊張していますよ。」
ダスビット中佐も、自分の心境を素直に伝える。
「大統領閣下から直接、勲章を授与されるのですよ。緊張して当然です。」
「ハハ。そうだね。」
リューエンリは微笑する。
その時、会場で拍手が上がった。リューエンリとダスビットは、ルーズベルト大統領が檀上に上がるのを見た。
ルーズベルトは、マイクの前で姿勢を正すと、壇上の前に設けられた、観客席に座っている人々に向けて話し始めた。
「皆さん、おはようございます。今日はこのホワイトハウスにお越し頂き、誠にありがとうございます。」
ルーズベルトは、いつものように活きの良い声音を響かせた。
「これより、議会名誉勲章授与式を行いたいと思います。」
彼の言葉が一旦区切られると、観客席から自然に拍手が沸き起こる。
「まず、最初の受章者を紹介いたします。」
ルーズベルトが、受章者が待機している場所に目を向ける。最初の受章者は、ダスビット中佐であった。
ルーズベルトは、ダスビット中佐が、名誉勲章を授与されるきっかけとなった、先の海戦での功績を説明した後、ダスビット中佐を
檀上まで呼び寄せてから、勲章を授与した。
ルーズベルトがダスビットの襟首に名誉勲章を掛けた瞬間、観客席からは大きな拍手が沸き起こった。
ダスビット中佐の勲章授与が終わり、いよいよリューエンリの出番がやって来た。
「次に、本日2人目の受勲者の紹介を行います。」
ルーズベルトは、改まった口調で紹介を行う。
「リューエンリ・アイツベルン大佐は、ダスビット中佐も参加したレビリンイクル沖海戦に、巡洋戦艦アラスカの艦長として戦闘に
加わっていました。アイツベルン大佐は、敵航空部隊が攻撃を行っている最中、味方空母を救うため、自艦の主砲を用いて、低空侵入
を図っていた敵航空部隊を排除しようとしました。この砲撃で撃墜出来たワイバーンは少なかったものの、突然の砲撃に驚いた敵部隊は、
統率のとれた攻撃が出来なくなり、結果的に、アイツベルン大佐指揮下のアラスカは、所属していた任務群の空母が撃沈されるのを
未然に防ぎました。合衆国海軍と、合衆国議会は、咄嗟の判断で味方空母群の危機を救った、アイツベルン大佐の功績を称え、
議会名誉勲章を授与する事を決定いたしました。」
ルーズベルトは、言葉を言い終えてから係官に目を向ける。
頷いた係官は、リューエンリに声を掛けた。
「アイツベルン大佐、どうぞこちらに。」
リューエンリは、緊張を押し殺した表情で頷くと、堂々とした足取りで壇上に向かった。
檀上には、車椅子に乗ったルーズベルト大統領が居る。
ルーズベルトのすぐ目の前にまで近付いたリューエンリは、そこで足を止め、直立不動の体勢で敬礼を送る。
ルーズベルトは彼に答礼を行った後、勲章を手に取り、リューエンリに直接、授与の言葉を送る。
「アメリカ合衆国海軍大佐、リューエンリ・アイツベルン。貴官は、先の海戦で類稀な働きを見せ、味方機動部隊の危地を救う事に大きく
貢献した。我々、アメリカ合衆国議会は、貴官の功績を称え、ここに、名誉勲章を授与するものとする。1944年11月2日
アメリカ合衆国大統領 フランクリン・デラノ・ルーズベルト。」
リューエンリは頭を下げ、ルーズベルトから勲章を掛けて貰う。
襟首に勲章が掛けられたと確認すると、リューエンリはゆっくりと顔を上げる。
「おめでとう。アイツベルン大佐。君は、合衆国の誇りだ。」
ルーズベルトは、顔に笑みを張り付かせながら、リューエンリにそう語りかけた後、自然な動作で右手を差し出した。
「…ありがとうございます。大統領閣下。」
リューエンリは、務めて平静な声音でそう返し、ルーズベルトの右手を握った。
その手は、とても温かった。
握手を終えると、リューエンリは再び敬礼を送り、ルーズベルトも答礼した。
彼は、ちらりと胸元の勲章を見る。
星を逆さまの形にしたブロンズ色の勲章には、女神と男の姿が象られており、勲章は、錨の形をした物と青色のリボンで繋がっている。
リューエンリは海軍出身のため、デザインは海軍専用の物となっている。
名誉勲章は、陸、海軍によってデザインが異なっており、陸軍軍人が授与する場合は、リューエンリの勲章とは別のデザインの物が与えられる。
リューエンリは観客席に顔を向けた。観客席の真ん中辺りの席には、彼の両親や、兄、妹達が座っている。
彼の家族は、いずれもがリューエンリの姿を見つめていた。
(母さんが泣きながら、こっちを見ているな)
リューエンリは、しきりにハンカチで涙を拭き取る母に視線を送る。
母の視線からは、良く頑張ったね、という思いが伝わって来る。
彼は、体を来た方向に向け直すと、堂々とした足取りで壇上を去って行った。
その後も、名誉勲章の授与式は続き、この日は海軍から3名、陸軍から2名、海兵隊から3名の受章者が発表された。
8名の受章者のうち、2名は戦死後の受章であるため、本人の代わりに家族が勲章を受け取る事になった。
11月5日 午前7時 バージニア州ノーフォーク
「艦長、出港準備完了!」
自らが艦長を務める巡洋戦艦アラスカの艦橋で、軍港の周囲を見回していたリューエンリは、背後から聞こえる声に、冷静な口調で答える。
「両舷、前進微速。」
彼の口から出された命令は、すぐさま航海科、機関科へと伝わって行く。
艦深部にあるボイラーが、唸りを強くし、艦尾のスクリューが回転を始める。
機関故障で戦列を離れていたアラスカは、修理を終え、その後の完熟訓練を終えて、ようやく前線に復帰する事が決まった。
「艦長!シャングリラが出港します!」
見張りの声が艦橋に響く。
リューエンリは、アラスカの右舷300メートルに停泊していた、空母のシャングリラに目を向ける。
エセックス級空母の13番艦として就役したシャングリラは、11月2日に完熟訓練を終え、11月4日付を持って、第38任務部隊
第3任務群への配属が決まった。
第38任務部隊第3任務群は、元は第37任務部隊第1任務群の艦艇で編成されていた部隊であるが、先日行われた艦隊の再編により、
TF37は解隊され、新たにTF38の指揮下に入った。
空母5隻を失い、3隻を損傷させられたTF37は、TF38指揮下では、使える4隻の空母…ボクサー、フランクリン、ラングレー、
プリンストンを主力に1個の空母群を編成し、TG38.3となっている。
これは10月時の話で、11月からは、損傷した空母イントレピッドとレキシントンが復帰するため、近い内にTG38.4が編成される。
リューエンリの指揮するアラスカは、昨日受け取った通信ではTG38.3に編入される事が決まっており、艦隊の集結地である
ホウロナ諸島のファスコド島までは、“新米”であるシャングリラを伴いながら航海を行う事になる。
「流石は最新鋭の空母だ。塗装が真新しいな。」
リューエンリは何気ない口調で呟いた。
「これで、元TF37の空母も勢ぞろいしますね。次こそは、パウノール司令官の仇討ちと行きたい物です。」
副長のロバート・ケイン中佐がリューエンリに言う。
「そう行きたい物だが、勢揃いと言う訳には行かないようだ。」
「ん?それはどういう事です?」
リューエンリの言葉を聞いたケイン中佐は、怪訝な顔つきを浮かべた。
「これは噂なのだが、軽空母のラングレーが、停泊地から居なくなっているらしい。何でも、カレアント海軍の古い軍艦と
一緒に出て行ったきり、そのままのようだが……」
「へぇ、ラングレーが、ですか。」
ケイン中佐は、訳が分からぬと言わんばかりに、首を横に振る。
「ハルゼー親父がまた何か企んでいるんですかね?」
「さぁね。」
リューエンリは肩を竦めた。
「詳しい話は、ラングレーの艦長から聞くといいさ。」
彼はそう言ってから、会話を締め括る。
その時、後ろから幾人かの男が、艦橋に入って来る様子に気が付いた。
リューエンリは、音がした方向に振り向き、その中の1人に敬礼を送った。
「おはようございます。長官。」
「おはよう艦長。」
レイモンド・スプルーアンス大将は、いつも通りの冷静な声音で、自らの旗艦の艦長に挨拶を返した。
「ふむ。今日は悪く無い天気だね。」
「はっ。空は見事な秋晴れとなっております。」
リューエンリは、軽やかな口調でスプルーアンス大将に告げる。
第3艦隊司令長官であるウィリアム・ハルゼー大将は、11月中旬にレイモンド・スプルーアンス大将に指揮権を移譲する事が本国で決定した。
スプルーアンスは、久方ぶりの前線復帰の際には、慣れ親しんだ重巡洋艦のインディアナポリスを旗艦に定めようとしたが、インディアナポリスは、
11月2日にレンフェラルの攻撃を受けて大破したため、しばらくはドックから出れなくなった。
スプルーアンスは、急遽艦隊の旗艦を変更し、11月4日付けで、前線復帰寸前のアラスカを旗艦に定める事を決めた。
アラスカがホウロナ諸島に到着し、スプルーアンスがハルゼーから艦隊の指揮を交代すれば、アラスカは第5艦隊の旗艦となる。
リューエンリのアラスカは、図らずも、大艦隊を率いる旗艦となったのだ。
(名誉勲章を貰った上に、第5艦隊旗艦の艦長とは……何か、嫌な予感がするな)
リューエンリは、喜びを感じるどころか、逆に言い知れぬ不安感に囚われる。
(でも、決まった物は仕方がない。与えられた任務はこれまで通りこなしていくだけだ)
彼はそう思い直し、再び、前方を見据え始める。
アラスカの艦体が微かに振動しながら、ゆっくりと前進を開始する。
艦深部にある8基のバブコック・ウィルコックス缶は、快調に動いているようだ。
やがて、アラスカはノーフォークの港外に躍り出た。
空母シャングリラと巡洋戦艦アラスカは、途中で3隻の駆逐艦と合流した後、南海岸沖を通過するルートで、一路、ホウロナ諸島に向かって行った。