第192話 マッド・クラッシュ作戦
1484年(1944年)11月11日 午前10時 ヘルベスタン民主共和国モンメロ
アメリカ大西洋艦隊司令長官を務めるジョン・ニュートン大将は、モンメロに向かう特別機の中で、飛行場へ到着する時を待っていた。
「長官、本機はまもなく、モンメロ飛行場に着陸するそうです。」
隣に座っていた参謀長のレイ・ノイス中将が伝えてくる。
ニュートンは、機の窓から下界を見下ろす。
彼らを乗せたPB4Yは、20分前から海岸線の上空を飛行している。
その様子は、今も変わらないが、そう間をおかぬ内に、特別機は進路を内陸へ向けるだろう。
「ようやく到着か……しかし、この年で10時間以上も飛行機に揺られるのは、いささかきつい物があるな。」
「確かに。」
ニュートンの言葉を聞いたノイスは、思わず苦笑する。
「我々は普段、まだまだ若いぞ!と、心の中では思っていますが、やはり、体は正直な物です。昔と違って、今は余り、無理が出来ませんな。」
「ふむ……人間、誰しもそうなる物だからな。致し方ない事だが……自分がこうやって老いていくのかと思うと、少し寂しく感じるな。」
ニュートンは、苦笑混じりの声音でそう言い放った。
その時、彼らを乗せたPB4Yが大きく機を傾けた。飛行場への着陸行程に入ったのか、機は旋回を終えた後、徐々に高度を下げていく。
10分後、ニュートンを乗せた特別機は無事、モンメロ飛行場に着陸した。
同日午後1時
ニュートンとノイスは、長旅の休憩もそこそこに、午後1時までにはモンメロにある、レーフェイル大陸派遣軍司令部内の会議室に赴いていた。
会議室内には、レーフェイル派遣軍に所属している陸軍の軍司令官や随員、そして、ヘルベスタン、ルークアンド、レンベルリカからやって来た
軍人達も、椅子に腰を下ろしてマッカーサーが現れるのを待っている。
ニュートンは時計を確認してから、もうそろそろ会議が始まるなと思った。直後、出入り口のドアが音立てて開かれる。
会議室内に、レーフェイル派遣軍司令官である、ダグラス・マッカーサー大将が入室してきた。
マッカーサーは、参謀長のサイモン・バックナー中将を従えながら、長テーブルの真ん中……ちょうど、ニュートンの右斜めの位置の席まで
歩み寄った。
「ご多忙の中、お集まりいただきありがとうございます。これより、会議を開きます。」
マッカーサーは、椅子に座るなり、事務的な口調で会議開催の言葉を放つ。
「本日。各国の将星、ならびに、軍司令官各位に集まって貰ったのは、近々発動するマオンド本土侵攻作戦、マッドクラッシュ作戦に関する
最終的な確認を行うためです。」
マッカーサーは立ち上がり、机に置いてあった指示棒を掴むと、背後に掲げられているレーフェイル大陸の地図を大雑把に撫でる。
「現在、マオンド共和国は、この地図に記されているように、我々が侵攻するまで保有していた国外の領地を全て失っています。
客観的に見て、本国のみとなったマオンドは、今は相当に厳しい状況にあると思われます。」
彼は説明しながら、マオンド本国北西部の辺りを、指示棒で小突く。
「我々は、今度の作戦で、このマオンド北西部…トハスタ地方から敵本国に侵攻します。」
マッカーサーは言葉を区切ってから、侵攻作戦の主役を務める3個軍の軍司令官の顔を見回す。
アメリカ軍レーフェイル大陸派遣軍は、第14、第15、第17軍の3個軍をマオンド本土侵攻作戦の要として投入する。
レーフェイル派遣軍は、この3個軍の他に、第22軍と第25軍。
そして、今年の9月に増援としてやって来た第28軍を有しているが、第22軍はレンベルリカ並びにルークアンド国内で治安維持のために
派遣されている。
第25軍と第28軍は、エンテック領奪回作戦に投入され、作戦が完了した今も、同地で展開して、万が一の場合に備えて国境沿いに待機している。
第14、15、17軍は、レーフェイル大陸戦初期において最も働いた部隊であったが、今年の9月頃に戦力の再編のため、攻勢の主役を
第22、25、28軍に譲り、ヘルベスタンやルークアンド国内で休養を行っていた。
そのため、この3個軍は、他の軍と比べて装備も完全に整っており、兵達も十分に休養が取れているため、マッカーサーは次期作戦の
主力にはこの3個軍を充てる事にした。
「トハスタ地方は、中西部から南部にかけて山岳地帯が広がっており、機械化部隊の進撃にはいささか不向きな地形と言われていますが、
我々が調べた所によると、トハスタの中部にあるファグバ方面は平坦な土地が続いており、ここを突破すれば、比較的短時間でトハスタを
縦断する事が可能です。このトハスタを制圧すれば、そこから南にある首都まで一気に雪崩れ込む事が出来ます。」
彼は、指示棒をトハスタの位置から、一気にクリンジェまで下げる。
「しかし、マオンド側も我々の動きは、ある程度予測していると思われます。敵も防衛線を敷いて、頑強に抵抗してくるでしょう。」
「マッカーサー閣下、今回は敵国の本土決戦という事になりますが…」
レンベルリカ連邦共和国軍司令官であるレオトル・トルファー大将が、すかさず質問する。
「快速機動が容易な部隊が多く居るとはいえ、トハスタ中西部の峡谷地帯を抜くのは、地の利が敵にある今は、困難であると思うのですが。」
「確かに……ここは防御側にとって、侵攻軍を食い止めるには打って付けの場所です。」
マッカーサーはトハスタの中部……山脈と山脈の間の細い街道のような場所を指示棒で撫でる。
「トハスタに展開されている兵力は、推定でも4個軍…人員にして20万以上はおります。確かに、あなた方アメリカ軍は、優秀な装備を
誇っています。ですが、このような狭い地域が激戦区になれば、自慢の快速機動や、航空支援も十分に能力を発揮できないかもしれませんぞ。」
「トルファー閣下の言われる通りですな。」
ルークアンド共和国軍司令官であるフィド・エイゲル大将が同感とばかりに頷く。
「ここは、他の軍も動員して、一気に攻勢を仕掛けてはいかがですかな?我らルークアンド軍も、微力ながら、貴軍の手助けをすることは可能です。」
「レンベルリカも同様です。」
トルファー大将が、冷静な声音でマッカーサーに言う。
「我が祖国の戦いでは、あなた方に多大な支援を受けました。今度は、我らがあなた方にお返しをする番です。」
「……トルファー閣下。エイゲル閣下。それは、貴国の首脳部が決められた事ですかな?」
マッカーサーは、2人の将星に尋ねる。
トルファー大将とエイゲル大将は、ほぼ同時に頷いた。
「我が軍に対する貴国の心遣いは、本当にありがたい。ですが……本当に大丈夫なのですかな?」
マッカーサーは再度、2人の将星に尋ねる。
「レンベルリカとルークアンドは、マオンド側の酷い占領政策の影響で国力が低下していると聞きます。一日でも早い復興が急務である
レンベルリカやルークアンドが、更にしのぎを削ってまで、派兵をする余裕はあるのですか?」
「……」
「……」
2人の将星は押し黙る。
(図星だな)
マッカーサーは心中でそう思った。
レンベルリカとルークアンドは、解放が成った後にそれぞれレンベルリカ連邦共和国とルークアンド共和国という新しい国に生まれ変わった。
しかし、両国は、マオンド側の侵攻と、度重なる搾取や、今回の戦争で国土が荒れ、各種産業も資材不足や人手不足等の問題を抱えており、
軍を維持するだけでも精一杯の状況だ。
そんな両国が、国外に派兵できる程の経済力がある筈がない。
いや……出来ない事はないであろうが、やったとしても、それは“国家規模のやせ我慢”でしかない。
「マッカーサー閣下。正直申しまして、レンベルリカには余裕はありません。」
「我がルークアンドも、同様です。」
2人の将軍は、痛々しげな口調で言う。
「…ですが閣下。我々は、恩返しをしたいのです!」
唐突に、エイゲル大将が声高に言い放った。
それを見たニュートンは、表面上は平静を保ちながらも、心中ではやや驚いていた。
(…いきなり、そのような事を言うとは)
彼は、胸の内でそう呟く。
レンベルリカを始めとするレーフェイル大陸の各国は、長い間マオンドの支配下に置かれていたが、その重圧から解放してくれた
アメリカ軍は、各国から熱烈な歓迎を受けた。
そこの所は既に想定内であったため、アメリカ軍の各部隊も、執拗とも言える歓迎攻めを上手い具合に乗りきって来た。
アメリカ側は、人情に厚いとも言われるレンベルリカやルークアンドも、今後は国内の復興に全力を尽くすであろうから、対マオンド
戦の後半戦は米軍単独で行うであろうと予想していた。
(そうでなければ、米式装備を満足に供与されていないレンベルリカ、ルークアンド軍をサポートしなければならないため、
アメリカ側としては余計な手間を省きたかった)
しかし、各国の思いは、アメリカ側の予想を上回るほどに強くかった。
元々、恩を授けた人には必ず恩返しを、という習慣が強いレンベルリカやルークアンドは、解放後に行われた臨時政府内での会議で、
満場一致でアメリカ軍と共にマオンドと戦うという事を決めており、国民もまた、今の厳しい現状を認識しながらも、恩返しが
出来るのならば、という思いで、軍のマオンド侵攻……すなわち、復讐戦を強く望んでいた。
エイゲル大将とトルファー大将は、祖国を代表し、純粋な気持ちで「我らにも助力をさせてくれ」と、マッカーサーに懇願しているのである。
「マッカーサー将軍。どうか、我らにも御一助を……」
2人の将軍は、真剣な眼差しでマッカーサーを見つめる。
「……長官、これは意外な展開ですな。」
ふと、隣のノイス参謀長の小声が聞こえてくる。
「ああ。まさか、会議の場でこんな事が行われるとは。」
ニュートンは、小声でそう返してから、レンベルリカとルークアンドの将軍を交互に見る。
2人の将軍は、半ば、熱に浮かされたような表情を見せている。
(彼らの態度からして、本当に、レーフェイル派遣軍を支援したい気持ちで一杯なのだろうな)
彼がそう思った時、マッカーサーは胸ポケットからコーンパイプを取り出し、その先に葉を詰めてから火を付ける。
ニュートンには、マッカーサーのその行動が、彼の頭にある考えを整理しているように思えた。
紫煙を吐き出したマッカーサーは、2人の将軍に向けて口を開く。
「トルファー閣下、エイゲル閣下。それは、貴国の指導部も一致してお決めになられた事ですかな?」
「はい。」
「その通りです。」
2人の将軍はハッキリとした口調で答えた。
マッカーサーは頷きながら、もう一息だけパイプを吸った。
「祖国解放後の繁忙期に、苦労されているにも関わらず、あなた方から良き言葉をお聞かせ頂いた事に、合衆国陸軍を代表して
礼を述べさせていただきます。」
彼はそう言ってから、軽く頭を下げる。
「その上で、私は、あなた方にお伝えしたい。」
マッカーサーは一呼吸置いてから、続きを言う。
「今度の作戦は、是が非でも、我が軍のみで行いたいのです。」
「なっ!?」
2人の将軍は、異口同音に驚きの声を漏らす。
「マッカーサー閣下。それは、我々は引っ込んでいろ、という事なのですか?」
「……誠に申し上げにくいですが、そうなります。」
マッカーサーの言葉を聞いたトルファーは、一瞬にして頭に血が上るのを感じた。
トルファーは更に言葉を続けようとしたが、それは出来なかった。
「しかし、現状では、そうしなければいけない状況にあるのではありませんか?」
「……そこの所は重々承知しております。」
エイゲルがマッカーサーに言い返す。
「ですが、貴国はベルリイク大陸戦線で、南大陸連合と共同で戦っているではありませんか。ならば、わが国も同様に戦えます。」
「ベルリイク大陸とレーフェイル大陸の状況は、余りにも違いが大きすぎます。」
マッカーサーがすかさず返答する。
「ベルリイク大陸の同盟国は、シホールアンルの脅威に晒されていましたが、まだ国家として機能し、本格的な反撃を開始するまで
時間があったため、我々は援助を行い、南大陸連合軍の戦闘力を向上させました。ですが、レーフェイル大陸は、全ての国がマオンドの
支配下にあり、6月の作戦開始時は、ベルリイク大陸のように、同盟国が存在している、という事はありませんでした。その後、
エイゲル閣下やトルファー閣下が決起されたお陰で、レーフェイル大陸にあったマオンドの支配地域を奪回する事に成功していますが、
レンベルリカ軍やルークアンド軍は、未だに装備が昔のままとなっています。我が軍と同様の武器を供与された部隊もありますが、
全体から見れば、それはごく僅かです。それに加え、貴国の現状からして、派兵を行えば、ただでさえ壊滅的打撃を受けている経済に
鞭を打つ事になります。」
マッカーサーは言葉を放ちながら、片手で指示棒を握り、レンベルリカとルークアンドを交互になぞる。
「確かに、レンベルリカとルークアンドは独立し、私達は新たな同盟国を得る事が出来ました。ですが、その同盟国が、苦しい時に
無理をしてしまえばどうなります?国民は、新政府に不満をぶつけ、最悪の場合は、国家存続に関わる事態に発展しかねません。」
マッカーサーは、視線を地図から、2人の将軍に移す。
「私は、ようやく独立できたレンベルリカとルークアンドには無理をさせたくありません。あなた方のお心遣いには非常に感謝しております。
ですが、その恩返しは、また別の機会にさせてもらえませんか?」
「……」
トルファーは押し黙ったが、エイゲルは尚もマッカーサーに懇願する。
「しかし、マッカーサー閣下。我々は無理をしてでも、あなた方に恩返しをし、あの憎きマオンドを打ち破りたいのです!マオンドは、
戦場が本土に移るとあって、大軍を用意して待ち構えているはずです。マッカーサー閣下、どうか、その大軍を分散させ、引き付ける
役目だけでも……」
「エイゲル閣下、そこの所も、我々は考えております。」
マッカーサーはそう言いながら、ニュートンに視線を移す。目が合った時、ニュートンは心中で、ああ、あの話かと呟いた。
「今回の作戦で、主導権は我々にあります。通常、戦という物は、防御側が比較的有利な状態で始まる場合が殆どです。しかし、
その有利な状態というのは、敵の出方によって生まれる物です。防御側の予想範囲内の出方であれば、戦闘の様相は防御側有利に展開します。
ですが、防御側が、攻撃側の出方を予想できていなければ、どうなると思いますか?」
「……私が防御側の指揮官ならば、敵が予想外の行動を取った場合は素早く対処しますが、心情的にはかなり厄介である、と思います。」
「そう、かなり厄介です。攻撃側は、主導権を握っている以上、ある意味では好き放題に動き回れるのです。」
マッカーサーはそう言ってから、ニュートンに顔を向けた。
ようやく出番か、と、胸の内で呟いたニュートンは、席を立ちあがる。
「今回の作戦で、私が指揮する大西洋艦隊は、陸軍の攻撃開始と呼応して、マオンド本土西岸に機動部隊でもって攻撃を行います。その後に、
戦艦部隊に護衛された輸送船団を引き連れ、トハスタの南西部にある町、コルザミ近海にまで接近します。」
「輸送船団……まさか、上陸作戦を行うつもりですか!?」
エイゲルが驚きを露わにしながら聞いてくる。
彼は、アメリカがこれまでに、幾度も敵前上陸作戦を敢行してきた事を知っている。
トハスタ南西部のコルザミは、首都のあるクリナ領まで僅か20マイル北にある地域である。
ここに機甲師団を含む上陸部隊が揚陸されれば、首都クリンジェまで300キロの道のりを走破するだけである。
エイゲルは、アメリカ軍が短期で決着を付けるために、上陸作戦を行おうとしているのかと考えた。
「いや、上陸作戦は行いません。」
ニュートンが意外な言葉を発する。
「何ですと?」
「輸送船団は囮です。」
マッカーサーが言う。
「先ほど、エイゲル閣下は、マオンド本土には敵が大軍を用意して待ち構えている、と言われていましたな?ならば、その大軍を減らせば良い。」
マッカーサーは、指示棒でマオンド西岸の部分を叩く。
「海軍は、200隻の輸送船を率いて、一時的にコルザミ近海に接近。それから2日間は、護衛の戦艦部隊と、機動部隊の艦載機、
並びに陸軍航空隊の重爆隊が大規模な事前爆撃を行います。」
「場合によっては、アイオワ級戦艦を始めとする快速戦艦部隊を、首都クリンジェの近くにある軍港に向かわせ、襲撃する計画も立てています。」
ニュートンが相槌を打つように言葉を付け加える。
「この偽装作戦でもって敵の注意を引き付ければ、敵はコルザミと北方から我が軍が押し寄せて来ると錯覚し、戦力を分散する事になるでしょう。」
「………」
エイゲルは、思わず言葉を失ってしまった。彼は一瞬、それは非常識だと思いかけた。
だが、彼はその思いを瞬時に打ち消す。
(いや……アメリカなら、この作戦は可能だ。アメリカには、それを実行に移せるだけの力がある。)
彼は、脳裏にこれまでの経験と、部下から聞いた話を思い浮かべる。
ルークアンド戦役の頃、エイゲルは独立軍を率いて、マオンド軍と戦ったが、装備の乏しいルークアンド独立軍は、マオンド側の攻撃の前に
苦戦を強いられていた。
悪戦苦闘するルークアンド独立軍を救ったのは、今までに見た事もない兵器を駆るアメリカ軍だった。
米軍は、優秀な装備と、圧倒的な戦力で持ってマオンド軍を駆逐し、ルークアンド解放に貢献してくれた。
それに加え、エイゲルはまだ見た事は無いが、アメリカは強力な陸軍に加え、海軍も有している。
その中でも、高速機動部隊という名の大艦隊の話は特に有名であり、その艦隊の一員であるアイオワ級と呼ばれる巨大戦艦が、マオンド側の
新鋭戦艦を鎧袖一触で叩き潰した事は、誰もが知っている。
(大陸西岸の制海権を失ったマオンド海軍に、アメリカ海軍を抑える力はもはやない。なるほど……アメリカ側も、なかなか手の込んだ事をする)
エイゲルは驚くと共に、米側の策略に感心を示した。
「第7艦隊は、主力である高速機動部隊、第72任務部隊の空母10隻の他、第73任務部隊の護衛空母を17隻、戦艦5隻以下の艦艇を
有しています。この有力な艦隊に守られた200隻の輸送船団がマオンド本土西岸を航行し、陸の近くに現れれば、マオンド側は我が軍の
上陸作戦が近いと判断して、軍を分散させるでしょう。そうさせるために、第7艦隊は通常と変わらぬ事前攻撃を行う予定です。」
ニュートンは、事務的な口調でそう説明した。
「なるほど……それなら、我々の出番も必要ないのかもしれませんな。」
エイゲルの左隣にいるトルファーが言う。
「最大の戦力で持って、大規模な囮作戦を行う……か。流石は物が豊かなアメリカだ。完敗です。」
トルファーは、自らの負けを認め、素直に引き下がる。
「私も同感です。正直申しまして、恩返しを出来ぬ事は辛いですが……アメリカ側がそのような作戦を考えておられるのならば、我々は
出る幕がありませぬな。」
エイゲルも観念したような表情を浮かべながら、マッカーサーに頭を下げる。
「先ほどの非礼、どうかお許し願いたい。」
「いや、非礼などとはとんでもない。あなた方の心遣いには、本当に感謝しています。」
彼は言葉を区切り、口に加えていたコーンパイプを外す。
「それに、あなた方は恩返しが出来ない、と言われていますが。私としましては、あなた方には十分に恩返しをさせてもらっている、
と思います。エイゲル閣下は、ルークアンド領内に航空基地の建設を許可して貰いました。そして、トルファー閣下には、エンテック方面の
マオンド軍の状況や、国境地帯の状況など、重大な情報を知らせて貰った上に、潜水艦基地の建設も許可させて貰いました。これだけでも、
我々は今後の作戦を行うに当たって、以前と比べて楽な状態で臨む事が出来ます。我々が、このレーフェイルでマオンドと上手く立ち回って
いられるのは、あなた方のお陰でもあります。だから、そう卑屈にならないで下さい。」
マッカーサーは微笑んだ。
「マッカーサー閣下。今回の作戦では、敵の注意を逸らせるために囮作戦を行う、との事ですが……」
ヘルベスタン民主共和国軍司令官ゴルス・トンバル大将が聞く。
「マオンド軍の航空戦力は未だに強大で、艦隊の航空兵力だけでは、囮船団の護衛任務を果たせますかな?」
「そこの所も心配はありません。」
マッカーサーは自信ありげに答えた。
「囮船団が西岸に近付くのは、作戦開始から6時間が経った後です。その頃には、ヘルベスタン、ルークアンドに設けられた基地から発進した、
陸軍航空隊がマオンド本土各地を空襲します。特に、トハスタ地域の空襲は大規模に行いますので、マオンド側の航空部隊はこれに対応する一方、
囮船団に対しても戦力振り分ける筈ですが、2正面作戦を強いられるマオンド側は、航空戦力が不足がちになる可能性があります。」
「実際、マオンド側航空部隊は、以前と比べてかなり苦しい状況にあると思われます。」
ニュートンが発言する。
「我が艦隊が傍受した、敵の魔法通信から得た情報によりますと、マオンド陸軍が保有している航空戦力は、増派も含めて計3000機前後、
海軍は200機前後とあります。この数字は幾分、推測された物が混じっていますが、それを差し引いても、マオンド側には尚多数の航空兵力が
残っています。ですが、これらの航空部隊も、陸軍航空隊との航空戦に戦力を振り分けられますから、当然、我が艦隊に向かって来る敵航空部隊は、
全体の航空戦力から見てもおおよそ3割程度だと思われます。」
「3割程度……しかし、それでも800騎近い航空兵力が、囮部隊に向かって来るかもしれませんぞ?」
トンバル大将は更に質問する。
「確かに、敵の航空部隊は脅威ではあります。ですが、こちらは10隻の高速空母に加えて、17隻の護衛空母を有しています。航空戦力は、
TF72のみでも760機。TF73も含めると1400機以上になります。また、TF72は、先日行われた母艦航空隊の再編によって、
一部の空母を戦闘機専用空母に仕立て上げています。この結果、艦隊全体の戦闘機数は通常よりも3割増しとなり、敵航空部隊の襲撃に
対しては万全の体制を整えております。借りに輸送船に損害が出たとしても、元々は空船で、実質的な損害は軽くなる見込みです。」
ニュートンの返事に、トンバル大将は納得した。
「そうでありますか。」
「はい。むしろ、我々では、マオンド側の航空戦力を撃滅するチャンスであると捉えております。航空部隊を失えば、マオンド陸軍は近接航空支援を
受けられなくなり、地上戦での優位はさらに広がるでしょう。」
「航空戦力を撃滅する……か。積極的ですな。」
トンバル大将は頷いた。
同時に、彼は、アメリカという国の戦いという物を改めて思い知らされた。
「ひとまず、今作戦の内容はこのような物になります。」
マッカーサーは、声をやや張り上げさせながら、会議室の参加者達に言う。
「何かご質問はありますかな?」
彼は、各国の将軍たちを見回しながら質問する。将軍達は、その質問に答えぬまま、黙って首を横に振った。
会議は、1時間ほどで終わった。
当初は、作戦参加を強く望んでいたトルファー将軍とエイゲル将軍であったが、米側の用意周到な作戦案に納得し、自国軍のマオンド本土侵攻作戦
参加を見送らせると約束した。
会議はその後、侵攻作戦に伴って予測される敵の反撃や、敵国民の扱い等に話が及び、短いながらも、内容の濃い話し合いが展開された。
11月12日 午後8時 ユークニア島泊地
第7艦隊第72任務部隊第2任務群に所属している戦艦ウィスコンシンの艦内では、乗員達の大半が任を解かれ、当直の兵達が通常の業務に
勤しむ中、通信室のある一席に座っている通信兵は、考え事をしているのか、10分ほど前からずっと壁を見つめていた。
コーヒーカップを片手に、何やら愚痴をこぼしながら入って来た通信長のスティーブン・アンカート大尉は、その通信兵……今年の7月から、
魔法通信傍受機の操作要員としてウィスコンシンに勤務し始めた、カレアント海軍出身のカレアント人兵曹に顔を向けた。
「おう。どうした?君の勤務はもう終わっているはずだが。」
アンカート大尉に声を掛けられたカレアント人の兵曹、フィムト・ヒッケルス1等兵曹は、一瞬ビクッと体を震わせてから、咄嗟に振り向く。
「あ、これは通信長。」
「何ボサーっとしとる。国に残した彼女の事でも考えていたのか?」
「通信長、しつこいっすねぇ。自分は彼女なんかいませんよ。」
ヒッケルス1等兵曹は、膨れっ面になりながらアンカート大尉に言う。
「君が自慢している、綺麗な猫耳と尻尾を見せびらかせば、女の子なんかイチコロだと思うがね。」
「通信長、そんな事ありませんよ。でなきゃ、今頃ウィスコンシンには乗ってません。」
ヒッケルス1等兵曹は苦笑しながら、アンカート大尉に返す。
「……通信長。そういえば少しばかり気になる物を見つけたのですが……」
ヒッケルスは、途端に真剣な顔つきになりながら、机に置いていた紙の束をアンカートに差し出した。
「こいつは?」
「1か月前からの通信文を集めた物です。所々に、気になる部分を赤線で引いています。」
アンカート大尉は、机にコーヒーカップを置き、両手でその紙の束を取る。
紙の枚数は合計で20ほど。あまり多くは無い。
アンカートは、渡された紙を、1枚1枚めくっていく。
10分後、一通り目を通したアンカート大尉は、顔を上げてから口を開く。
「ナルフィー関連の奴が多いな。」
「ええ。それに、日付を追って行くと、ナルファトス教の関係者たちが西へ、西へ移動しているのが分かりますよ。」
ヒッケルスが、赤線で敷かれた文字を指しながら、アンカートに説明する。
ナルフィーとは、ナルファトス教と、それを指示する信者達に対する渾名であるが、この名は元々、最近公開されたディズニー映画に
出てくる敵役が飼っているペットの名前である。
今年の9月。アメリカ本土では、トム&ジェリーが主役の映画が公開された。
いつもなら、トムとジェリーの掛け合いが面白おかしく(ジェリーがよく悲惨な目にあう)描かれるのだが、今回はいがみあっている
トムとジェリーが協力し合って、いきなり喧嘩を吹っ掛けてきた敵と戦う、という内容であった。
その敵役の名が、ショールとマオリー、そして、マオリーのペットの犬、ナルフィーである。
敵の名前の由来は、見る人が見ればすぐに分かった。
ショールはシホールアンル、マオリーはマオンド、そして、ナルフィーはナルファトス教である。
映画の中での扱いは、敵役に相応しい物であり、特にペットの犬のナルフィーは、最初から狂犬病に罹った猛犬として扱われ、大事な部分で
ショールとマオリーの尻や足に噛み付いて足を引っ張る等、敵側の方でも役立たずとして扱われていた。
そのペットの名前が、現実のナルファトス教に対しても、渾名(もしくは蔑称)として使われているのである。
「あそこの部屋に居るレウクと話し合ったんですが……」
ヒッケルスは、親指で、通信室とガラスのドアで隔てられている魔法通信傍受室に居るレウク・ハインカル1等兵曹を指す。
「話し合った結果、ナルファトス教団に所属している特殊部隊が、何らかの作戦を行うためにマオンド北西部のトハスタに向かっている
のではないか?という結論に達しました。」
「何らかの作戦だと?それに、どうしてこの文が、ナルファトス教団所属の特殊部隊が発したと分かる?」
「……これは又聞きした物なんですが。何でも、ナルファトス教団に属している戦闘部隊は、殊更に信仰心が熱い信者で編成されているようです。
この戦闘部隊は、1日に2回はナルファトス教の教義に従って、必ず感謝の言葉を述べ、自分達の部隊が果たすべき目的の進捗状況を、魔法通信で
本部に逐一知らせるようです。その報告がまた、熱心な信者らしいものでして……」
「ふむ……この文書にも、何かそれらしい物が書いてあるな。『我らの目的が果たされるまで、あともう少し。この不死の薬を用いて、北より
迫る邪教徒共を殲滅させる時は近い』……か。」
アンカートは、その一文を読み終えてからクスリと笑う。
「まっ、遠くの洋上から、17インチ砲を撃ちまくる巨大戦艦を見れば、あいつらは恐ろしい力を持つ邪教徒だ!と思うのもおかしくは無いな。」
彼はそう言ってから、紙の束をヒッケルスに差し出す。
「他の艦の通信員も、この情報を傍受しているのかな?」
「さあ…そこまではなんとも。あの通信機は、その機体ごとに癖がありますからね。」
「機体ごとの癖……か。新兵器には付き物の初期症状だな。」
アンカートはため息交じりにそう呟く。
「その特殊部隊とやらが、トハスタに向かっているとなると、陸さんは敵の地上軍のみならず、ナルフィーの特殊部隊からも迎え撃たれる、
という事になるのか。」
「恐らく、そうなるでしょうね。」
ヒッケルスはそう返しながら、アンカートから紙の束を受け取った。
「そうと来れば、マイリー共は今度こそ、陸軍を叩き潰そうと心に決めているのだろうな。最も、その頑張りが実るかどうか、だが。」
アンカートは、机に置いたコーヒーカップを手に取り、通信室のドアに向かおうとしたが、何かを思い出したのか、くるりと体を向き直す。
「…その情報についてだが、俺が艦長に報告しておく。10分後にまた来る。それまでに、その通信文を封筒に入れておいてくれ。」
「了解です。」
命令を聞いたヒッケルスは、アンカートが通信室から出た直後に、封筒に紙の束を入れて、机の上に置いた。
1484年(1944年)11月11日 午前10時 ヘルベスタン民主共和国モンメロ
アメリカ大西洋艦隊司令長官を務めるジョン・ニュートン大将は、モンメロに向かう特別機の中で、飛行場へ到着する時を待っていた。
「長官、本機はまもなく、モンメロ飛行場に着陸するそうです。」
隣に座っていた参謀長のレイ・ノイス中将が伝えてくる。
ニュートンは、機の窓から下界を見下ろす。
彼らを乗せたPB4Yは、20分前から海岸線の上空を飛行している。
その様子は、今も変わらないが、そう間をおかぬ内に、特別機は進路を内陸へ向けるだろう。
「ようやく到着か……しかし、この年で10時間以上も飛行機に揺られるのは、いささかきつい物があるな。」
「確かに。」
ニュートンの言葉を聞いたノイスは、思わず苦笑する。
「我々は普段、まだまだ若いぞ!と、心の中では思っていますが、やはり、体は正直な物です。昔と違って、今は余り、無理が出来ませんな。」
「ふむ……人間、誰しもそうなる物だからな。致し方ない事だが……自分がこうやって老いていくのかと思うと、少し寂しく感じるな。」
ニュートンは、苦笑混じりの声音でそう言い放った。
その時、彼らを乗せたPB4Yが大きく機を傾けた。飛行場への着陸行程に入ったのか、機は旋回を終えた後、徐々に高度を下げていく。
10分後、ニュートンを乗せた特別機は無事、モンメロ飛行場に着陸した。
同日午後1時
ニュートンとノイスは、長旅の休憩もそこそこに、午後1時までにはモンメロにある、レーフェイル大陸派遣軍司令部内の会議室に赴いていた。
会議室内には、レーフェイル派遣軍に所属している陸軍の軍司令官や随員、そして、ヘルベスタン、ルークアンド、レンベルリカからやって来た
軍人達も、椅子に腰を下ろしてマッカーサーが現れるのを待っている。
ニュートンは時計を確認してから、もうそろそろ会議が始まるなと思った。直後、出入り口のドアが音立てて開かれる。
会議室内に、レーフェイル派遣軍司令官である、ダグラス・マッカーサー大将が入室してきた。
マッカーサーは、参謀長のサイモン・バックナー中将を従えながら、長テーブルの真ん中……ちょうど、ニュートンの右斜めの位置の席まで
歩み寄った。
「ご多忙の中、お集まりいただきありがとうございます。これより、会議を開きます。」
マッカーサーは、椅子に座るなり、事務的な口調で会議開催の言葉を放つ。
「本日。各国の将星、ならびに、軍司令官各位に集まって貰ったのは、近々発動するマオンド本土侵攻作戦、マッドクラッシュ作戦に関する
最終的な確認を行うためです。」
マッカーサーは立ち上がり、机に置いてあった指示棒を掴むと、背後に掲げられているレーフェイル大陸の地図を大雑把に撫でる。
「現在、マオンド共和国は、この地図に記されているように、我々が侵攻するまで保有していた国外の領地を全て失っています。
客観的に見て、本国のみとなったマオンドは、今は相当に厳しい状況にあると思われます。」
彼は説明しながら、マオンド本国北西部の辺りを、指示棒で小突く。
「我々は、今度の作戦で、このマオンド北西部…トハスタ地方から敵本国に侵攻します。」
マッカーサーは言葉を区切ってから、侵攻作戦の主役を務める3個軍の軍司令官の顔を見回す。
アメリカ軍レーフェイル大陸派遣軍は、第14、第15、第17軍の3個軍をマオンド本土侵攻作戦の要として投入する。
レーフェイル派遣軍は、この3個軍の他に、第22軍と第25軍。
そして、今年の9月に増援としてやって来た第28軍を有しているが、第22軍はレンベルリカ並びにルークアンド国内で治安維持のために
派遣されている。
第25軍と第28軍は、エンテック領奪回作戦に投入され、作戦が完了した今も、同地で展開して、万が一の場合に備えて国境沿いに待機している。
第14、15、17軍は、レーフェイル大陸戦初期において最も働いた部隊であったが、今年の9月頃に戦力の再編のため、攻勢の主役を
第22、25、28軍に譲り、ヘルベスタンやルークアンド国内で休養を行っていた。
そのため、この3個軍は、他の軍と比べて装備も完全に整っており、兵達も十分に休養が取れているため、マッカーサーは次期作戦の
主力にはこの3個軍を充てる事にした。
「トハスタ地方は、中西部から南部にかけて山岳地帯が広がっており、機械化部隊の進撃にはいささか不向きな地形と言われていますが、
我々が調べた所によると、トハスタの中部にあるファグバ方面は平坦な土地が続いており、ここを突破すれば、比較的短時間でトハスタを
縦断する事が可能です。このトハスタを制圧すれば、そこから南にある首都まで一気に雪崩れ込む事が出来ます。」
彼は、指示棒をトハスタの位置から、一気にクリンジェまで下げる。
「しかし、マオンド側も我々の動きは、ある程度予測していると思われます。敵も防衛線を敷いて、頑強に抵抗してくるでしょう。」
「マッカーサー閣下、今回は敵国の本土決戦という事になりますが…」
レンベルリカ連邦共和国軍司令官であるレオトル・トルファー大将が、すかさず質問する。
「快速機動が容易な部隊が多く居るとはいえ、トハスタ中西部の峡谷地帯を抜くのは、地の利が敵にある今は、困難であると思うのですが。」
「確かに……ここは防御側にとって、侵攻軍を食い止めるには打って付けの場所です。」
マッカーサーはトハスタの中部……山脈と山脈の間の細い街道のような場所を指示棒で撫でる。
「トハスタに展開されている兵力は、推定でも4個軍…人員にして20万以上はおります。確かに、あなた方アメリカ軍は、優秀な装備を
誇っています。ですが、このような狭い地域が激戦区になれば、自慢の快速機動や、航空支援も十分に能力を発揮できないかもしれませんぞ。」
「トルファー閣下の言われる通りですな。」
ルークアンド共和国軍司令官であるフィド・エイゲル大将が同感とばかりに頷く。
「ここは、他の軍も動員して、一気に攻勢を仕掛けてはいかがですかな?我らルークアンド軍も、微力ながら、貴軍の手助けをすることは可能です。」
「レンベルリカも同様です。」
トルファー大将が、冷静な声音でマッカーサーに言う。
「我が祖国の戦いでは、あなた方に多大な支援を受けました。今度は、我らがあなた方にお返しをする番です。」
「……トルファー閣下。エイゲル閣下。それは、貴国の首脳部が決められた事ですかな?」
マッカーサーは、2人の将星に尋ねる。
トルファー大将とエイゲル大将は、ほぼ同時に頷いた。
「我が軍に対する貴国の心遣いは、本当にありがたい。ですが……本当に大丈夫なのですかな?」
マッカーサーは再度、2人の将星に尋ねる。
「レンベルリカとルークアンドは、マオンド側の酷い占領政策の影響で国力が低下していると聞きます。一日でも早い復興が急務である
レンベルリカやルークアンドが、更にしのぎを削ってまで、派兵をする余裕はあるのですか?」
「……」
「……」
2人の将星は押し黙る。
(図星だな)
マッカーサーは心中でそう思った。
レンベルリカとルークアンドは、解放が成った後にそれぞれレンベルリカ連邦共和国とルークアンド共和国という新しい国に生まれ変わった。
しかし、両国は、マオンド側の侵攻と、度重なる搾取や、今回の戦争で国土が荒れ、各種産業も資材不足や人手不足等の問題を抱えており、
軍を維持するだけでも精一杯の状況だ。
そんな両国が、国外に派兵できる程の経済力がある筈がない。
いや……出来ない事はないであろうが、やったとしても、それは“国家規模のやせ我慢”でしかない。
「マッカーサー閣下。正直申しまして、レンベルリカには余裕はありません。」
「我がルークアンドも、同様です。」
2人の将軍は、痛々しげな口調で言う。
「…ですが閣下。我々は、恩返しをしたいのです!」
唐突に、エイゲル大将が声高に言い放った。
それを見たニュートンは、表面上は平静を保ちながらも、心中ではやや驚いていた。
(…いきなり、そのような事を言うとは)
彼は、胸の内でそう呟く。
レンベルリカを始めとするレーフェイル大陸の各国は、長い間マオンドの支配下に置かれていたが、その重圧から解放してくれた
アメリカ軍は、各国から熱烈な歓迎を受けた。
そこの所は既に想定内であったため、アメリカ軍の各部隊も、執拗とも言える歓迎攻めを上手い具合に乗りきって来た。
アメリカ側は、人情に厚いとも言われるレンベルリカやルークアンドも、今後は国内の復興に全力を尽くすであろうから、対マオンド
戦の後半戦は米軍単独で行うであろうと予想していた。
(そうでなければ、米式装備を満足に供与されていないレンベルリカ、ルークアンド軍をサポートしなければならないため、
アメリカ側としては余計な手間を省きたかった)
しかし、各国の思いは、アメリカ側の予想を上回るほどに強くかった。
元々、恩を授けた人には必ず恩返しを、という習慣が強いレンベルリカやルークアンドは、解放後に行われた臨時政府内での会議で、
満場一致でアメリカ軍と共にマオンドと戦うという事を決めており、国民もまた、今の厳しい現状を認識しながらも、恩返しが
出来るのならば、という思いで、軍のマオンド侵攻……すなわち、復讐戦を強く望んでいた。
エイゲル大将とトルファー大将は、祖国を代表し、純粋な気持ちで「我らにも助力をさせてくれ」と、マッカーサーに懇願しているのである。
「マッカーサー将軍。どうか、我らにも御一助を……」
2人の将軍は、真剣な眼差しでマッカーサーを見つめる。
「……長官、これは意外な展開ですな。」
ふと、隣のノイス参謀長の小声が聞こえてくる。
「ああ。まさか、会議の場でこんな事が行われるとは。」
ニュートンは、小声でそう返してから、レンベルリカとルークアンドの将軍を交互に見る。
2人の将軍は、半ば、熱に浮かされたような表情を見せている。
(彼らの態度からして、本当に、レーフェイル派遣軍を支援したい気持ちで一杯なのだろうな)
彼がそう思った時、マッカーサーは胸ポケットからコーンパイプを取り出し、その先に葉を詰めてから火を付ける。
ニュートンには、マッカーサーのその行動が、彼の頭にある考えを整理しているように思えた。
紫煙を吐き出したマッカーサーは、2人の将軍に向けて口を開く。
「トルファー閣下、エイゲル閣下。それは、貴国の指導部も一致してお決めになられた事ですかな?」
「はい。」
「その通りです。」
2人の将軍はハッキリとした口調で答えた。
マッカーサーは頷きながら、もう一息だけパイプを吸った。
「祖国解放後の繁忙期に、苦労されているにも関わらず、あなた方から良き言葉をお聞かせ頂いた事に、合衆国陸軍を代表して
礼を述べさせていただきます。」
彼はそう言ってから、軽く頭を下げる。
「その上で、私は、あなた方にお伝えしたい。」
マッカーサーは一呼吸置いてから、続きを言う。
「今度の作戦は、是が非でも、我が軍のみで行いたいのです。」
「なっ!?」
2人の将軍は、異口同音に驚きの声を漏らす。
「マッカーサー閣下。それは、我々は引っ込んでいろ、という事なのですか?」
「……誠に申し上げにくいですが、そうなります。」
マッカーサーの言葉を聞いたトルファーは、一瞬にして頭に血が上るのを感じた。
トルファーは更に言葉を続けようとしたが、それは出来なかった。
「しかし、現状では、そうしなければいけない状況にあるのではありませんか?」
「……そこの所は重々承知しております。」
エイゲルがマッカーサーに言い返す。
「ですが、貴国はベルリイク大陸戦線で、南大陸連合と共同で戦っているではありませんか。ならば、わが国も同様に戦えます。」
「ベルリイク大陸とレーフェイル大陸の状況は、余りにも違いが大きすぎます。」
マッカーサーがすかさず返答する。
「ベルリイク大陸の同盟国は、シホールアンルの脅威に晒されていましたが、まだ国家として機能し、本格的な反撃を開始するまで
時間があったため、我々は援助を行い、南大陸連合軍の戦闘力を向上させました。ですが、レーフェイル大陸は、全ての国がマオンドの
支配下にあり、6月の作戦開始時は、ベルリイク大陸のように、同盟国が存在している、という事はありませんでした。その後、
エイゲル閣下やトルファー閣下が決起されたお陰で、レーフェイル大陸にあったマオンドの支配地域を奪回する事に成功していますが、
レンベルリカ軍やルークアンド軍は、未だに装備が昔のままとなっています。我が軍と同様の武器を供与された部隊もありますが、
全体から見れば、それはごく僅かです。それに加え、貴国の現状からして、派兵を行えば、ただでさえ壊滅的打撃を受けている経済に
鞭を打つ事になります。」
マッカーサーは言葉を放ちながら、片手で指示棒を握り、レンベルリカとルークアンドを交互になぞる。
「確かに、レンベルリカとルークアンドは独立し、私達は新たな同盟国を得る事が出来ました。ですが、その同盟国が、苦しい時に
無理をしてしまえばどうなります?国民は、新政府に不満をぶつけ、最悪の場合は、国家存続に関わる事態に発展しかねません。」
マッカーサーは、視線を地図から、2人の将軍に移す。
「私は、ようやく独立できたレンベルリカとルークアンドには無理をさせたくありません。あなた方のお心遣いには非常に感謝しております。
ですが、その恩返しは、また別の機会にさせてもらえませんか?」
「……」
トルファーは押し黙ったが、エイゲルは尚もマッカーサーに懇願する。
「しかし、マッカーサー閣下。我々は無理をしてでも、あなた方に恩返しをし、あの憎きマオンドを打ち破りたいのです!マオンドは、
戦場が本土に移るとあって、大軍を用意して待ち構えているはずです。マッカーサー閣下、どうか、その大軍を分散させ、引き付ける
役目だけでも……」
「エイゲル閣下、そこの所も、我々は考えております。」
マッカーサーはそう言いながら、ニュートンに視線を移す。目が合った時、ニュートンは心中で、ああ、あの話かと呟いた。
「今回の作戦で、主導権は我々にあります。通常、戦という物は、防御側が比較的有利な状態で始まる場合が殆どです。しかし、
その有利な状態というのは、敵の出方によって生まれる物です。防御側の予想範囲内の出方であれば、戦闘の様相は防御側有利に展開します。
ですが、防御側が、攻撃側の出方を予想できていなければ、どうなると思いますか?」
「……私が防御側の指揮官ならば、敵が予想外の行動を取った場合は素早く対処しますが、心情的にはかなり厄介である、と思います。」
「そう、かなり厄介です。攻撃側は、主導権を握っている以上、ある意味では好き放題に動き回れるのです。」
マッカーサーはそう言ってから、ニュートンに顔を向けた。
ようやく出番か、と、胸の内で呟いたニュートンは、席を立ちあがる。
「今回の作戦で、私が指揮する大西洋艦隊は、陸軍の攻撃開始と呼応して、マオンド本土西岸に機動部隊でもって攻撃を行います。その後に、
戦艦部隊に護衛された輸送船団を引き連れ、トハスタの南西部にある町、コルザミ近海にまで接近します。」
「輸送船団……まさか、上陸作戦を行うつもりですか!?」
エイゲルが驚きを露わにしながら聞いてくる。
彼は、アメリカがこれまでに、幾度も敵前上陸作戦を敢行してきた事を知っている。
トハスタ南西部のコルザミは、首都のあるクリナ領まで僅か20マイル北にある地域である。
ここに機甲師団を含む上陸部隊が揚陸されれば、首都クリンジェまで300キロの道のりを走破するだけである。
エイゲルは、アメリカ軍が短期で決着を付けるために、上陸作戦を行おうとしているのかと考えた。
「いや、上陸作戦は行いません。」
ニュートンが意外な言葉を発する。
「何ですと?」
「輸送船団は囮です。」
マッカーサーが言う。
「先ほど、エイゲル閣下は、マオンド本土には敵が大軍を用意して待ち構えている、と言われていましたな?ならば、その大軍を減らせば良い。」
マッカーサーは、指示棒でマオンド西岸の部分を叩く。
「海軍は、200隻の輸送船を率いて、一時的にコルザミ近海に接近。それから2日間は、護衛の戦艦部隊と、機動部隊の艦載機、
並びに陸軍航空隊の重爆隊が大規模な事前爆撃を行います。」
「場合によっては、アイオワ級戦艦を始めとする快速戦艦部隊を、首都クリンジェの近くにある軍港に向かわせ、襲撃する計画も立てています。」
ニュートンが相槌を打つように言葉を付け加える。
「この偽装作戦でもって敵の注意を引き付ければ、敵はコルザミと北方から我が軍が押し寄せて来ると錯覚し、戦力を分散する事になるでしょう。」
「………」
エイゲルは、思わず言葉を失ってしまった。彼は一瞬、それは非常識だと思いかけた。
だが、彼はその思いを瞬時に打ち消す。
(いや……アメリカなら、この作戦は可能だ。アメリカには、それを実行に移せるだけの力がある。)
彼は、脳裏にこれまでの経験と、部下から聞いた話を思い浮かべる。
ルークアンド戦役の頃、エイゲルは独立軍を率いて、マオンド軍と戦ったが、装備の乏しいルークアンド独立軍は、マオンド側の攻撃の前に
苦戦を強いられていた。
悪戦苦闘するルークアンド独立軍を救ったのは、今までに見た事もない兵器を駆るアメリカ軍だった。
米軍は、優秀な装備と、圧倒的な戦力で持ってマオンド軍を駆逐し、ルークアンド解放に貢献してくれた。
それに加え、エイゲルはまだ見た事は無いが、アメリカは強力な陸軍に加え、海軍も有している。
その中でも、高速機動部隊という名の大艦隊の話は特に有名であり、その艦隊の一員であるアイオワ級と呼ばれる巨大戦艦が、マオンド側の
新鋭戦艦を鎧袖一触で叩き潰した事は、誰もが知っている。
(大陸西岸の制海権を失ったマオンド海軍に、アメリカ海軍を抑える力はもはやない。なるほど……アメリカ側も、なかなか手の込んだ事をする)
エイゲルは驚くと共に、米側の策略に感心を示した。
「第7艦隊は、主力である高速機動部隊、第72任務部隊の空母10隻の他、第73任務部隊の護衛空母を17隻、戦艦5隻以下の艦艇を
有しています。この有力な艦隊に守られた200隻の輸送船団がマオンド本土西岸を航行し、陸の近くに現れれば、マオンド側は我が軍の
上陸作戦が近いと判断して、軍を分散させるでしょう。そうさせるために、第7艦隊は通常と変わらぬ事前攻撃を行う予定です。」
ニュートンは、事務的な口調でそう説明した。
「なるほど……それなら、我々の出番も必要ないのかもしれませんな。」
エイゲルの左隣にいるトルファーが言う。
「最大の戦力で持って、大規模な囮作戦を行う……か。流石は物が豊かなアメリカだ。完敗です。」
トルファーは、自らの負けを認め、素直に引き下がる。
「私も同感です。正直申しまして、恩返しを出来ぬ事は辛いですが……アメリカ側がそのような作戦を考えておられるのならば、我々は
出る幕がありませぬな。」
エイゲルも観念したような表情を浮かべながら、マッカーサーに頭を下げる。
「先ほどの非礼、どうかお許し願いたい。」
「いや、非礼などとはとんでもない。あなた方の心遣いには、本当に感謝しています。」
彼は言葉を区切り、口に加えていたコーンパイプを外す。
「それに、あなた方は恩返しが出来ない、と言われていますが。私としましては、あなた方には十分に恩返しをさせてもらっている、
と思います。エイゲル閣下は、ルークアンド領内に航空基地の建設を許可して貰いました。そして、トルファー閣下には、エンテック方面の
マオンド軍の状況や、国境地帯の状況など、重大な情報を知らせて貰った上に、潜水艦基地の建設も許可させて貰いました。これだけでも、
我々は今後の作戦を行うに当たって、以前と比べて楽な状態で臨む事が出来ます。我々が、このレーフェイルでマオンドと上手く立ち回って
いられるのは、あなた方のお陰でもあります。だから、そう卑屈にならないで下さい。」
マッカーサーは微笑んだ。
「マッカーサー閣下。今回の作戦では、敵の注意を逸らせるために囮作戦を行う、との事ですが……」
ヘルベスタン民主共和国軍司令官ゴルス・トンバル大将が聞く。
「マオンド軍の航空戦力は未だに強大で、艦隊の航空兵力だけでは、囮船団の護衛任務を果たせますかな?」
「そこの所も心配はありません。」
マッカーサーは自信ありげに答えた。
「囮船団が西岸に近付くのは、作戦開始から6時間が経った後です。その頃には、ヘルベスタン、ルークアンドに設けられた基地から発進した、
陸軍航空隊がマオンド本土各地を空襲します。特に、トハスタ地域の空襲は大規模に行いますので、マオンド側の航空部隊はこれに対応する一方、
囮船団に対しても戦力振り分ける筈ですが、2正面作戦を強いられるマオンド側は、航空戦力が不足がちになる可能性があります。」
「実際、マオンド側航空部隊は、以前と比べてかなり苦しい状況にあると思われます。」
ニュートンが発言する。
「我が艦隊が傍受した、敵の魔法通信から得た情報によりますと、マオンド陸軍が保有している航空戦力は、増派も含めて計3000機前後、
海軍は200機前後とあります。この数字は幾分、推測された物が混じっていますが、それを差し引いても、マオンド側には尚多数の航空兵力が
残っています。ですが、これらの航空部隊も、陸軍航空隊との航空戦に戦力を振り分けられますから、当然、我が艦隊に向かって来る敵航空部隊は、
全体の航空戦力から見てもおおよそ3割程度だと思われます。」
「3割程度……しかし、それでも800騎近い航空兵力が、囮部隊に向かって来るかもしれませんぞ?」
トンバル大将は更に質問する。
「確かに、敵の航空部隊は脅威ではあります。ですが、こちらは10隻の高速空母に加えて、17隻の護衛空母を有しています。航空戦力は、
TF72のみでも760機。TF73も含めると1400機以上になります。また、TF72は、先日行われた母艦航空隊の再編によって、
一部の空母を戦闘機専用空母に仕立て上げています。この結果、艦隊全体の戦闘機数は通常よりも3割増しとなり、敵航空部隊の襲撃に
対しては万全の体制を整えております。借りに輸送船に損害が出たとしても、元々は空船で、実質的な損害は軽くなる見込みです。」
ニュートンの返事に、トンバル大将は納得した。
「そうでありますか。」
「はい。むしろ、我々では、マオンド側の航空戦力を撃滅するチャンスであると捉えております。航空部隊を失えば、マオンド陸軍は近接航空支援を
受けられなくなり、地上戦での優位はさらに広がるでしょう。」
「航空戦力を撃滅する……か。積極的ですな。」
トンバル大将は頷いた。
同時に、彼は、アメリカという国の戦いという物を改めて思い知らされた。
「ひとまず、今作戦の内容はこのような物になります。」
マッカーサーは、声をやや張り上げさせながら、会議室の参加者達に言う。
「何かご質問はありますかな?」
彼は、各国の将軍たちを見回しながら質問する。将軍達は、その質問に答えぬまま、黙って首を横に振った。
会議は、1時間ほどで終わった。
当初は、作戦参加を強く望んでいたトルファー将軍とエイゲル将軍であったが、米側の用意周到な作戦案に納得し、自国軍のマオンド本土侵攻作戦
参加を見送らせると約束した。
会議はその後、侵攻作戦に伴って予測される敵の反撃や、敵国民の扱い等に話が及び、短いながらも、内容の濃い話し合いが展開された。
11月12日 午後8時 ユークニア島泊地
第7艦隊第72任務部隊第2任務群に所属している戦艦ウィスコンシンの艦内では、乗員達の大半が任を解かれ、当直の兵達が通常の業務に
勤しむ中、通信室のある一席に座っている通信兵は、考え事をしているのか、10分ほど前からずっと壁を見つめていた。
コーヒーカップを片手に、何やら愚痴をこぼしながら入って来た通信長のスティーブン・アンカート大尉は、その通信兵……今年の7月から、
魔法通信傍受機の操作要員としてウィスコンシンに勤務し始めた、カレアント海軍出身のカレアント人兵曹に顔を向けた。
「おう。どうした?君の勤務はもう終わっているはずだが。」
アンカート大尉に声を掛けられたカレアント人の兵曹、フィムト・ヒッケルス1等兵曹は、一瞬ビクッと体を震わせてから、咄嗟に振り向く。
「あ、これは通信長。」
「何ボサーっとしとる。国に残した彼女の事でも考えていたのか?」
「通信長、しつこいっすねぇ。自分は彼女なんかいませんよ。」
ヒッケルス1等兵曹は、膨れっ面になりながらアンカート大尉に言う。
「君が自慢している、綺麗な猫耳と尻尾を見せびらかせば、女の子なんかイチコロだと思うがね。」
「通信長、そんな事ありませんよ。でなきゃ、今頃ウィスコンシンには乗ってません。」
ヒッケルス1等兵曹は苦笑しながら、アンカート大尉に返す。
「……通信長。そういえば少しばかり気になる物を見つけたのですが……」
ヒッケルスは、途端に真剣な顔つきになりながら、机に置いていた紙の束をアンカートに差し出した。
「こいつは?」
「1か月前からの通信文を集めた物です。所々に、気になる部分を赤線で引いています。」
アンカート大尉は、机にコーヒーカップを置き、両手でその紙の束を取る。
紙の枚数は合計で20ほど。あまり多くは無い。
アンカートは、渡された紙を、1枚1枚めくっていく。
10分後、一通り目を通したアンカート大尉は、顔を上げてから口を開く。
「ナルフィー関連の奴が多いな。」
「ええ。それに、日付を追って行くと、ナルファトス教の関係者たちが西へ、西へ移動しているのが分かりますよ。」
ヒッケルスが、赤線で敷かれた文字を指しながら、アンカートに説明する。
ナルフィーとは、ナルファトス教と、それを指示する信者達に対する渾名であるが、この名は元々、最近公開されたディズニー映画に
出てくる敵役が飼っているペットの名前である。
今年の9月。アメリカ本土では、トム&ジェリーが主役の映画が公開された。
いつもなら、トムとジェリーの掛け合いが面白おかしく(ジェリーがよく悲惨な目にあう)描かれるのだが、今回はいがみあっている
トムとジェリーが協力し合って、いきなり喧嘩を吹っ掛けてきた敵と戦う、という内容であった。
その敵役の名が、ショールとマオリー、そして、マオリーのペットの犬、ナルフィーである。
敵の名前の由来は、見る人が見ればすぐに分かった。
ショールはシホールアンル、マオリーはマオンド、そして、ナルフィーはナルファトス教である。
映画の中での扱いは、敵役に相応しい物であり、特にペットの犬のナルフィーは、最初から狂犬病に罹った猛犬として扱われ、大事な部分で
ショールとマオリーの尻や足に噛み付いて足を引っ張る等、敵側の方でも役立たずとして扱われていた。
そのペットの名前が、現実のナルファトス教に対しても、渾名(もしくは蔑称)として使われているのである。
「あそこの部屋に居るレウクと話し合ったんですが……」
ヒッケルスは、親指で、通信室とガラスのドアで隔てられている魔法通信傍受室に居るレウク・ハインカル1等兵曹を指す。
「話し合った結果、ナルファトス教団に所属している特殊部隊が、何らかの作戦を行うためにマオンド北西部のトハスタに向かっている
のではないか?という結論に達しました。」
「何らかの作戦だと?それに、どうしてこの文が、ナルファトス教団所属の特殊部隊が発したと分かる?」
「……これは又聞きした物なんですが。何でも、ナルファトス教団に属している戦闘部隊は、殊更に信仰心が熱い信者で編成されているようです。
この戦闘部隊は、1日に2回はナルファトス教の教義に従って、必ず感謝の言葉を述べ、自分達の部隊が果たすべき目的の進捗状況を、魔法通信で
本部に逐一知らせるようです。その報告がまた、熱心な信者らしいものでして……」
「ふむ……この文書にも、何かそれらしい物が書いてあるな。『我らの目的が果たされるまで、あともう少し。この不死の薬を用いて、北より
迫る邪教徒共を殲滅させる時は近い』……か。」
アンカートは、その一文を読み終えてからクスリと笑う。
「まっ、遠くの洋上から、17インチ砲を撃ちまくる巨大戦艦を見れば、あいつらは恐ろしい力を持つ邪教徒だ!と思うのもおかしくは無いな。」
彼はそう言ってから、紙の束をヒッケルスに差し出す。
「他の艦の通信員も、この情報を傍受しているのかな?」
「さあ…そこまではなんとも。あの通信機は、その機体ごとに癖がありますからね。」
「機体ごとの癖……か。新兵器には付き物の初期症状だな。」
アンカートはため息交じりにそう呟く。
「その特殊部隊とやらが、トハスタに向かっているとなると、陸さんは敵の地上軍のみならず、ナルフィーの特殊部隊からも迎え撃たれる、
という事になるのか。」
「恐らく、そうなるでしょうね。」
ヒッケルスはそう返しながら、アンカートから紙の束を受け取った。
「そうと来れば、マイリー共は今度こそ、陸軍を叩き潰そうと心に決めているのだろうな。最も、その頑張りが実るかどうか、だが。」
アンカートは、机に置いたコーヒーカップを手に取り、通信室のドアに向かおうとしたが、何かを思い出したのか、くるりと体を向き直す。
「…その情報についてだが、俺が艦長に報告しておく。10分後にまた来る。それまでに、その通信文を封筒に入れておいてくれ。」
「了解です。」
命令を聞いたヒッケルスは、アンカートが通信室から出た直後に、封筒に紙の束を入れて、机の上に置いた。