■田中角栄の「日本列島改造論」(1972年)
環境史の文脈では、圧倒的に田中角栄は『日本列島改造論』(1972年)で取り上げられることが多い。つまり「生活環境の名において、まさしく生活環境を破壊する政策を推進する」(ベルク『風土の日本』407頁)という政策としてこれは語られる。
環境史の文脈では、圧倒的に田中角栄は『日本列島改造論』(1972年)で取り上げられることが多い。つまり「生活環境の名において、まさしく生活環境を破壊する政策を推進する」(ベルク『風土の日本』407頁)という政策としてこれは語られる。
※田中=竹下派はアジア外交重視であり、「列島改造論」や「ふるさと創生」で知られるように「都市と地方の格差の解消」を最優先の政治課題に掲げていた。その一方に、福田派は日米同盟重視のグローバリズムがある。
六○年代の高度成長体制が国土と国民を整備開発の政策にいともたやすく従属させたことである。この政策は祖先伝来の国の生態と風景の遺産を公然と解体し、消滅させ、破壊した。空間構成の動機は、都市の地区割りや規模の経済等の形を取って現われ、見たところ強制するまでもなく、その頃、地方の慣性抵抗を一掃していた。そもそも「新全総」(1969年)の中心的な目標は、明白に僻地を開発し、より機能的かつ流動的な空間を作り出すことだった。田中角栄の『日本列島改造論』(1972年)の掲げたスローガンのひとつは同じ方向を向いている。列島全体を二日行動圏」とすることである。
実のところ体制側は、追い立てている当の住民たちに、住んでいる場所を愛する心を教える権利さえ横取りしていた。九州の志布志湾の巨大コンビナート計画がその実例である。鹿児島県当局がこの件に関して配った文書のひとつには、次のような勧告が見られる。「県民ひとりひとりに自然保護の価値意識を高めることに今後努力し……」、ところがこの計画には、埋め立てにより沿岸の風光を無条件に消滅させてしまうことが含まれていた。その風景の一部は、指定地域とされるほどに見事なものであったのだが。
風土性の歪みがこの段階まで達すると、社会と場所の関係の逆転はシユルレアリスムに近いものとなっていた。ある種の経済の需要に応じるための国土の機能化には、あらゆる属地性を根絶することが前提となっていた。反発が起こらないはずはない。住民運動が起こる。千賀裕太郎、内山節、亀山純生らの場所論を考える上で、この「生活環境の名において、まさしく生活環境を破壊する政策が推進される」ことへの批判をバックボーンとみなすこともできるだろう。
以下は千賀さんの、どこかの文章の抜書き。
実のところ体制側は、追い立てている当の住民たちに、住んでいる場所を愛する心を教える権利さえ横取りしていた。九州の志布志湾の巨大コンビナート計画がその実例である。鹿児島県当局がこの件に関して配った文書のひとつには、次のような勧告が見られる。「県民ひとりひとりに自然保護の価値意識を高めることに今後努力し……」、ところがこの計画には、埋め立てにより沿岸の風光を無条件に消滅させてしまうことが含まれていた。その風景の一部は、指定地域とされるほどに見事なものであったのだが。
風土性の歪みがこの段階まで達すると、社会と場所の関係の逆転はシユルレアリスムに近いものとなっていた。ある種の経済の需要に応じるための国土の機能化には、あらゆる属地性を根絶することが前提となっていた。反発が起こらないはずはない。住民運動が起こる。千賀裕太郎、内山節、亀山純生らの場所論を考える上で、この「生活環境の名において、まさしく生活環境を破壊する政策が推進される」ことへの批判をバックボーンとみなすこともできるだろう。
以下は千賀さんの、どこかの文章の抜書き。
戦後の高度成長期に日本人が獲得した社会的生産力は,それが10倍か1,000倍かは別にして,それまでのパワーとは桁違いとなったことは確かであるが,こうした巨大化した社会的生産力を“適切”に用いて国土を美しく符理するには至らなかった。具体的に起こったことは,田中角栄が「日本列島改造論」で主張し,その指導による大規模地域開発が全国規模で旺盛に展開したことなのだが,その負の側面,すなわち「公害」という山河と人間の心身への破壊的な打撃についての「論理的帰結」を引き出しえなかったわけである。筆者はしかし,こうした公害が1960年代後半の段階で明るみに出てからもなお,力学における慣性の法則を見るがごとく,長期にわたって野放しにされたことのほうが,罪はより深いのではないかと思う。つまり,近代化の負のインパクトを予見できなかったばかりでなく,それ以上に,公害が発生して以降も長く,水俣病に象徴されるように公害による病苦を見て見ぬふりをし,その補償と原因除去を怠ってきたことを,厳しく問い直すべきではないかと思うのである。
経済成長をあらゆる事象に優先して推し進めようとする社会。それは「国益」と「地方振興」の名のもとに流布された経済主義イデオロギーであるが,それも一皮剥けば,地方・中央における個別具体的な私益・利権獲得の戦略・戦術にすぎなかったことは周知のことである。
このことが最も色濃く現れた場は,地域における公共事業導入“競争”である。もちろん,公共事業導入の目的としての「地域発展」の美名がすべて偽りだったというわけではない。公共施設が地域間の経済的・社会的格差を縮小し,社会的公平を促進した側面があることは認めなければならない。だからこそ私益の確保は地域住民の支持を得て成就したのである。しかしながら,公共事業が一部のグループの私物と化しているという側面を見逃すことはできない。
■1960年代の、開発に関する空気
農村社会はもういらないというような発想があったと思います。日本中を工業地帯にすればいい、将来は米だろうが、キャベツであろうが、工場でつくれるのだというような議論すらあった。田中角栄が、原爆でも使って中部山岳地帯の山を吹き飛ばして、その土で東京湾を埋め立てると、新潟に雪は降らないし東京は拡がるし、いいではないか、というようなことを地元でいっていた頃です。ところが、原爆でも使って日本の背骨に当たる山々を吹き飛ばしたらどうだろうかということは、ぼくが小学生だった頃には、ぼくの学校の先生がまじめに言っていたことでもあるのです。科学の進歩によってきっとそのくらいのことはできるようになるだろうと。そうなったら日本から川がなくなるのではないかという心配がぼくにはあったのですが。そういうようなことが、疑いもなく議論されていた時代、一九六○年代が終るまではそういう時代であったろうと思うのです。
ですから、古いものはよくない、どうやって先へ先へと向かうか、どう未来を先取りするか、そういう考え方が、疑いなくあらわれていた。この雰囲気のもとでは、当然ながら時間的普遍性を求めようなどということは、時代遅れであって、ありえない時代錯誤だということだった。
内山節『自然・労働・共同社会の理論』農文協,1989
