- 環境学者ルネ・デュポスが1960年代に提唱した「地球規模で考え、足元からの行動を」という環境活動の標語がある。まさに、環境を考えるときは、生態系全体を視野に入れる必要がある。地球も大気も水もすべてが物質循環、エネルギー流てつながっていることを教えるのは生態学の知見である。だが、実際に具体的な対策をとる場合にはローカルなことからしか着手できない。逆に地域の特性に合ったローカルなことに目を向けることが行動の具体化につながっていく。その両面から考えていく必要がある。
- 『地球への求愛』
- いわば「飼いならされた」植生は、ほかにも放牧地、採草地などに例が多い。これは、「更新性の」生物資源を消耗することなく持続的に利用する方法としては理想的な形、いわゆるsustainable useである。うまく管理された耕地も、やはりおなじような性格をもつ。一次生産主体の文明系、梅樟のいう人間・自然系の段階では、耕地と一)のような安定二次植生との適当な組合わせのもとで持続的な生産が営まれていた。日本の例でいえば、水田と、肥料用の植物材料を収穫する里山の林(多くはマツ林)、薪炭用の雑木林の組合わせが、安定した美しい農山村の生活景観をかたちづくっていた。デュボスが人と自然との協力あるいは共生の理想像としたヨーロッパ農村も、おなじような景観をもっている。
- 【ベルクによるデュボス批判】
『内なる神』において、この高名な生態学者は、人類誕生の地と考えられる木の茂ったサヴァンナの風景を、アルカディアの風景(ヨーロッパ絵画における美しい環境の範型)と対比させる。この生態学的図式は、引き続いて美的図式に変えられることになる。
この二つの考え方は、社会生物学と類縁関係にあり、人間の精神活動の爺深部に生態学ない生物行動学的原型が存続することを前提にするという共通点を持っている。その原型は転移運動によって表出するものだが、絶えず活動を続ける。行動生物学=生態学的図式が美的図式に代わるとされるのである。
こうした考え方には三つの問題点がある。まずそれらが証明不能だということ。ひとつの図式からもうひとつへの推移の鎖を再構成することができないからである。所与として見る限り、そこにあるのは純粋にアナロジーのみである(すなわち行動生物学/美意識、ないし生態学/美意識という変形が、人類史においてよりも、デュボスやアプルトンの頭脳の内部で行なわれたことも大いにありうるということである。もっとも同じ理由から、彼らが間違っていると断言することもできない)。第一一に、問題の記憶痕跡が、どこで、どのように存続しているのか分からないということ。そのようなメカニズムは、生物学によって十分に解明されたとは、とうてい言い難い。生物学はこの領域に介入すると、先天性と後天性に対するそれぞれの支持者のドグマ論争で、今なお頻繁に泥沼に踏み入ってしまうのである。第三に、これらのテーマは、人類史の他の古生物的環境、つまりサヴァンナとアルカディアのどちらからも大きく異なる風土については、何も語っていない。ある場合(サヴァンナ/アルカディア)には記憶痕跡も原型もあることになるかもしれないが、他の場合にはどうなのだろうか。
- 長野敬・新村明美訳『内なる神 人間・風土・文化』蒼樹書房、1974年
- 【リン・ホワイトの『機械と神』への反論】
- ホワイトの主張にはキリスト教側からの反論があいついだ。反論の主だった内容は、キリスト教の本意は人間による自然支配ではないというものだった。グラッケンによれば、『聖書』の真意は、人間に自然の管理者として責任を負わせるものだという。こうした視点はデュボス、ジョン・パスモア、ロビン・アトフィールにもみられるものである。シューマッハはスチュワード精神の忘却にこそ問題があると指摘している。ディープ・エコロジーの創始者アルネ・ネスもシューマッハとほぼ同じことを述べている。批判点と同様に、各々評価する点も異なっているが、バーロは聖フランチェスコとともにトマス・ミュンツァーを評価し、ルネ・デュボスはベネディクトを評価し、シューマッハはトマス・アクィナスを評価し、ジム・ノルマンはイエス・キリストを各々の視点で評価している。
- 【自然のスチュワード】
- ルネ・デュポスの思想はエコセントリズムの範疇に入るべきものであるが、一種の人間中心主義の立場をとっている。場所の特性を重視し地域生態系を生命のシステム論的に眺めているが、スチュワード精神や人工の景観を評価し、人間の自由意志や科学力を重要視している。産業文明は修正されなければならないが、家屋・公園・工場・ビルディングなどの人造物の建設も環境を配慮すべきものと考えている。デュボスは場所の特性、場所の精神に注目する。「景観、あるいはそこに住む人々の独自性は、その場所の持つ一群の属性によって決定されている」、そして「ひとつひとつの場所は、その場所独自の精神を持っていて、その精神が発達するにつれて、その場所の物理的外観や、そこに住む人々の思潮を形づくっている」。しかも自然的・文化的な諸影響力は、技術的・政治的命題を克服するほど強力である。デュポズによればnatureとは「地理的、社会的、あるいは人間的な現象ばかりではなく、わけても、実在の表面下にかくれたすべての『力』なのである」。そして本当の環境というものは、自らの感覚によって知覚できる環境、あるいは身体に影響をあたえる環境なのであると考えている。いわば人間あっての環境とも言える。それに、あるがままの自然と考えられているもの自体が人工のものであることが多いのである。人間は太古の昔より生活するために努力してきた。有史以来ほとんど変わらず、それゆえに私たちにとって老いることがないかにみえる景観は、実は人工の結果なのである。こうした人工の景観は、場所の精神が生みだした人間精神によるものなのである。原野主義の立場をとらないデュポスにとってはベネディクト教会のような自然の管理(スチュワード)こそが望ましい態度である。ナッシュは、啓蒙された人間中心主義というデュボスの思想は「人類は世界に責任を負っているから『自分にもっとも役立つように自然を操作する』ことができるし、そのようにしなくてはならないが、常に自分たちではなく、神が所有する物に敬意も忘れてはならない」ものであると要約している。デュボスは人間中心主義でありながらも、環境神学の前提ももっているのである。ナッシュはデュポスをアルド・レオポルドの理論を精緻化した人物とみなしている。
【内在的価値との相反性】
- 他の生物に「内在的価値」を認めるエコロジーの倫理は、どうしても、人間固有の文化・文明を
求めようとする人間の倫理と衝突することになる。言い換えれば、生物中心的な世界(生態系)と人間中心的な文化・文明とのあいだには、避けることのできない対立・矛盾が存在する。デュポスはこう述べる。「地球の人間化は必然的に、野生の状態やそれに依存している多くの生物種の破壊をもたらすから、生態学の原則と人間文化のあいだには基本的な矛盾が存在する」と。
- 【レオポルドへの高評価】
- ルネ・デュボスはアメリカ自然保護運動の「聖書」としてレオポルドの『砂漠の暦(野生の歌が聞こえる)』を絶賛している。