福嶋卒論
終章 行為連関としての人間存在
(ⅰ) 責任と行為
これまで二つの章にわたって責任のなかみについて考えてきた。本論では「呼応責任」と「結果責任」という概念整理を仮定したうえで論を進めてきたわけだが、その結果見えてきたことは、双方に必要な自発性の欠如、正確には自発性を持つために不可欠な共同体における人間関係からの教育や習慣づけといった働きかけの欠落、という視点である。この点に重点を置いて総括していこうと思う。
まず、個人に起点を持ち、自発的で能動的に責任を引き受けるべきとする「呼応責任」とは、自然法則ではなく道徳法則に従うことができる人間の意思の動きという自由を出発点とする。すなわち、理性をもって自分を律することができることこそが自由なのであり、さらに、道徳的人格を持つものであれば、その自由にもとづいた意思を行為に移すのは必然であり当為であるということから出発するのである。ここにおいて、なぜ理性が道徳法則に従うのか、というそもそも開かれていない問いを見いだすことができる。それは道徳的人格に対する問いであり、あたかも人間が先天的に持つ性質であるかのように語られる理性への問いでもあるだろう。
日常生活を送る実際の場面においては、人間とはより他律的で集団に流されやすく、また自分で決めたはずの意志を全うできるとも限らない弱さを持ち合わせている。これをすべて個人の自覚や自律の不足といってしまうのは、実態から眼を背けているとしか言いようのない強引さを伴う。そうではなく、「人間とは本来、道徳的人格であろうとするものだ」という教義を、それぞれが身を置く社会において教えられ習慣付けられ、それを実行するということはいかなることであるかを学んでいくべきなのであり、そういった個人への働きかけが不可欠であると考えるほうが納得できる。人間はこの世に生れ落ちただけで道徳的人格たることはできないのである。
そしてもう一方の、責任主体としての個人を帰結の終点とみなす「結果責任」に即した文脈では、責任とは個人から見れば自分以外の外部から一方的に押し付けられる受動的なものでしかないように見える。「どうするべきか」あるいは「どうするべきでないか」という規定や基準は予め決まっていて、それらに外れないように行為しなければならない。現在の社会では、それらの規定や基準は法や道徳、習慣などといわれる制度であり、個人に責任を帰すために設定されているともいえる。とはいえ、このような制度は他ならぬ人間がそれぞれの共同体の中で自ら定めたという経緯を忘れてはならない。法の根拠とは、部分性を含まない一般的で普遍的な「一般意志」なのである。
この一般意志が私たちの日常生活の環の外にあると設定されることで、法の正当性や絶対性が保たれるのであるから、ある意味で私たちが自発的に受動的な機構を生み出しているのである。押し付けられている構造を創ったのは、押し付けられている私たちであるという当たり前の前提が抜け落ちるのである。この構造を維持し、時には改善していくためには、構造が人間関係からかけ離れて存在することではなく、人間関係において構造を運営していくという営為が欠かせない。その営為に必要なのは私たちの価値判断にもとづく実践であり、受動的な機構を受動的なまま維持するための能動性ともいえるのではないだろうか。ここに、結果責任を引き受けるという呼応責任ともいえる自発性が見いだせる。
この自発性こそが当事者性であろう。これが欠落しているように感じるのは、ひとえに個人が自律していないからと言ってしまうにはあまりに構造的な矛盾があるように感じられる。つまり、共同体の外部にいつの間にか沈殿した法などのシステムによって与えられる基準に依拠すれば、どう行為すべきかは自律した個人ならば教えられなくても分かっているはずであり、その上で基準に外れる行為をしたとみなされるのであるから罰せられるのは当然である、という構造である。ここに自律・自発性を前提にしてしまうことが、自律するための過程を消失させるため、自由を媒介とした責任と行為の系全体を維持できなくしてしまうという矛盾がある。当事者不在で、ただただ押し付けられるようにしか見えない責任とは、呼応責任が機能せず個人に帰結される結果責任のみがそこを終着点として処理されていくだけの責任であるといえよう。この状況の打開のためには、自律とは当人だけではなくその周囲の人間関係すなわち共同体においてなされる教育・習慣づけプロセスを必須として身につく徳であるという捉え直しが不可欠である。ただし注記しておきたいのは、この議論は共同体がいかにして近代的な自律した個人を再生産するか、ということではないということだ。ポイントは共同体という人間関係の中で、自立性・自発性を担保した個別の人間をいかに育てるか、ということであり、さらにそのように育てられた人間が集積しなければ共同体も成立しえない、ということにある。
ではここでこの責任という概念を実際の行為に移すときに現れる問題点を改めて考えてみたい。(因みに本段落以降「責任」という語を単独で使用する場合は、呼応責任と結果責任の両方の意味を含む、総体としての責任を指すこととしたい。)普通私たちが何かを意図してそれを行動に移すという場合、その行為の結果は予期されているような仕方で現れる。しかし同時に、自分がその行為に際して持っていた意図と、その行為によって起こった結果には、思いもよらぬ乖離が見られることもある。自分が予測しえなかったという場合、その結果がもたらされるという予測は一般的に可能であると思われるが、当の行為者本人には予測できなかったという場合と、そもそも誰にも予測不可能な偶発性の高いものだという場合が考えられるが、その区別なく責任は問われるのである。すなわち、意図しようとしまいと、意図できようとできまいと、行為を行ったことで結果が生じた以上は行為者は責任を逃れることはできない。ただし、どの程度の責任があるか、責任の重大さについての判断は異なってくる。
例えば教室のドアを開けたら、そこに立っていた人がドアにぶつかって怪我をした、という場合、廊下に人がいるのを知らずにドアを開け、たまたまぶつかっただけの場合はドアを開けた行為者の責任は軽い。しかし、このようなことがよくあるので、ドアには注意の張り紙があった場合はどうだろうか。先ほどよりも行為者の責任は少し重くなる。あるいは、廊下から声がしていたのでそこに人がいることは普通の人ならば気がついたはずだ、という目撃者の証言があったらどうであろう。また、ドアの角にぶつかって頭を切って出血し倒れてしまった場合、いくら行為者の故意ではないとはいえ責任はさらに重くなる。この例のなかで、「ドアを開ける」という行為は同時に「人に怪我をさせる」とも記述できるように、どこからどこまでをひとつの行為と考えるかによって、あらゆる記述が可能になる。これは「アコーディオン効果 」として行為論で問題になることであるが、行為の記述の幅は狭くも広くも取ることができ、それがちょうどアコーディオンの蛇腹の伸縮と同じであるということを指す。この効果に対して、行為の始点と終点を切り取る役目が責任という概念なのではないだろうか。「ドアを開けた」ことから「人に怪我をさせた」ことまでが行為者の責任なのであり、その二つの記述のどちらかだけを取り上げて、他意なくドアを開けただけであるから責任がない、とも、人に怪我をさせたのだからすべての責任は行為者にある、ともいえないのである。
では、どこからどこまでを切り取るかはどうやって決まるのか。それはもちろん法や道徳などの制度によって決められているものもあるが、そのようないつの間にか誰かが決めたものの了承せざるを得ない基準ではなく、より具体的な人間関係の中で共通了解とされている詳細な基準、しかも「そうするべきである」という価値判断を含む「規範」に拠って決まるといえるのではないだろうか。前述の例ならば、規範とは「ドアの張り紙をきちんと見る」べきであり、「ドアはゆっくり静かにあける」ことを遵守すべきであり、その規範を守ろうとする呼応責任と、規範にて要請される結果責任を満たすことを行為しなければならない、ということではないだろうか。そして、ここでなぜ単なる規則ではなく規範を持ち出すのかといえば、規範とは背けば法的な刑罰に限らず社会的な冷遇や非難などといった制裁が加えられ、遵守すれば少なくとも制裁を避けることができるだけでなく、さらに厚遇や尊敬を得ることもある、より人間関係を直接的に反映する限定された規則であるといえるからである。その意味で、より私たちに近い日常的な事象に関わる詳細なきまりとしての「掟」に近いことを想定していることを強調しておきたい。
これまで二つの章にわたって責任のなかみについて考えてきた。本論では「呼応責任」と「結果責任」という概念整理を仮定したうえで論を進めてきたわけだが、その結果見えてきたことは、双方に必要な自発性の欠如、正確には自発性を持つために不可欠な共同体における人間関係からの教育や習慣づけといった働きかけの欠落、という視点である。この点に重点を置いて総括していこうと思う。
まず、個人に起点を持ち、自発的で能動的に責任を引き受けるべきとする「呼応責任」とは、自然法則ではなく道徳法則に従うことができる人間の意思の動きという自由を出発点とする。すなわち、理性をもって自分を律することができることこそが自由なのであり、さらに、道徳的人格を持つものであれば、その自由にもとづいた意思を行為に移すのは必然であり当為であるということから出発するのである。ここにおいて、なぜ理性が道徳法則に従うのか、というそもそも開かれていない問いを見いだすことができる。それは道徳的人格に対する問いであり、あたかも人間が先天的に持つ性質であるかのように語られる理性への問いでもあるだろう。
日常生活を送る実際の場面においては、人間とはより他律的で集団に流されやすく、また自分で決めたはずの意志を全うできるとも限らない弱さを持ち合わせている。これをすべて個人の自覚や自律の不足といってしまうのは、実態から眼を背けているとしか言いようのない強引さを伴う。そうではなく、「人間とは本来、道徳的人格であろうとするものだ」という教義を、それぞれが身を置く社会において教えられ習慣付けられ、それを実行するということはいかなることであるかを学んでいくべきなのであり、そういった個人への働きかけが不可欠であると考えるほうが納得できる。人間はこの世に生れ落ちただけで道徳的人格たることはできないのである。
そしてもう一方の、責任主体としての個人を帰結の終点とみなす「結果責任」に即した文脈では、責任とは個人から見れば自分以外の外部から一方的に押し付けられる受動的なものでしかないように見える。「どうするべきか」あるいは「どうするべきでないか」という規定や基準は予め決まっていて、それらに外れないように行為しなければならない。現在の社会では、それらの規定や基準は法や道徳、習慣などといわれる制度であり、個人に責任を帰すために設定されているともいえる。とはいえ、このような制度は他ならぬ人間がそれぞれの共同体の中で自ら定めたという経緯を忘れてはならない。法の根拠とは、部分性を含まない一般的で普遍的な「一般意志」なのである。
この一般意志が私たちの日常生活の環の外にあると設定されることで、法の正当性や絶対性が保たれるのであるから、ある意味で私たちが自発的に受動的な機構を生み出しているのである。押し付けられている構造を創ったのは、押し付けられている私たちであるという当たり前の前提が抜け落ちるのである。この構造を維持し、時には改善していくためには、構造が人間関係からかけ離れて存在することではなく、人間関係において構造を運営していくという営為が欠かせない。その営為に必要なのは私たちの価値判断にもとづく実践であり、受動的な機構を受動的なまま維持するための能動性ともいえるのではないだろうか。ここに、結果責任を引き受けるという呼応責任ともいえる自発性が見いだせる。
この自発性こそが当事者性であろう。これが欠落しているように感じるのは、ひとえに個人が自律していないからと言ってしまうにはあまりに構造的な矛盾があるように感じられる。つまり、共同体の外部にいつの間にか沈殿した法などのシステムによって与えられる基準に依拠すれば、どう行為すべきかは自律した個人ならば教えられなくても分かっているはずであり、その上で基準に外れる行為をしたとみなされるのであるから罰せられるのは当然である、という構造である。ここに自律・自発性を前提にしてしまうことが、自律するための過程を消失させるため、自由を媒介とした責任と行為の系全体を維持できなくしてしまうという矛盾がある。当事者不在で、ただただ押し付けられるようにしか見えない責任とは、呼応責任が機能せず個人に帰結される結果責任のみがそこを終着点として処理されていくだけの責任であるといえよう。この状況の打開のためには、自律とは当人だけではなくその周囲の人間関係すなわち共同体においてなされる教育・習慣づけプロセスを必須として身につく徳であるという捉え直しが不可欠である。ただし注記しておきたいのは、この議論は共同体がいかにして近代的な自律した個人を再生産するか、ということではないということだ。ポイントは共同体という人間関係の中で、自立性・自発性を担保した個別の人間をいかに育てるか、ということであり、さらにそのように育てられた人間が集積しなければ共同体も成立しえない、ということにある。
ではここでこの責任という概念を実際の行為に移すときに現れる問題点を改めて考えてみたい。(因みに本段落以降「責任」という語を単独で使用する場合は、呼応責任と結果責任の両方の意味を含む、総体としての責任を指すこととしたい。)普通私たちが何かを意図してそれを行動に移すという場合、その行為の結果は予期されているような仕方で現れる。しかし同時に、自分がその行為に際して持っていた意図と、その行為によって起こった結果には、思いもよらぬ乖離が見られることもある。自分が予測しえなかったという場合、その結果がもたらされるという予測は一般的に可能であると思われるが、当の行為者本人には予測できなかったという場合と、そもそも誰にも予測不可能な偶発性の高いものだという場合が考えられるが、その区別なく責任は問われるのである。すなわち、意図しようとしまいと、意図できようとできまいと、行為を行ったことで結果が生じた以上は行為者は責任を逃れることはできない。ただし、どの程度の責任があるか、責任の重大さについての判断は異なってくる。
例えば教室のドアを開けたら、そこに立っていた人がドアにぶつかって怪我をした、という場合、廊下に人がいるのを知らずにドアを開け、たまたまぶつかっただけの場合はドアを開けた行為者の責任は軽い。しかし、このようなことがよくあるので、ドアには注意の張り紙があった場合はどうだろうか。先ほどよりも行為者の責任は少し重くなる。あるいは、廊下から声がしていたのでそこに人がいることは普通の人ならば気がついたはずだ、という目撃者の証言があったらどうであろう。また、ドアの角にぶつかって頭を切って出血し倒れてしまった場合、いくら行為者の故意ではないとはいえ責任はさらに重くなる。この例のなかで、「ドアを開ける」という行為は同時に「人に怪我をさせる」とも記述できるように、どこからどこまでをひとつの行為と考えるかによって、あらゆる記述が可能になる。これは「アコーディオン効果 」として行為論で問題になることであるが、行為の記述の幅は狭くも広くも取ることができ、それがちょうどアコーディオンの蛇腹の伸縮と同じであるということを指す。この効果に対して、行為の始点と終点を切り取る役目が責任という概念なのではないだろうか。「ドアを開けた」ことから「人に怪我をさせた」ことまでが行為者の責任なのであり、その二つの記述のどちらかだけを取り上げて、他意なくドアを開けただけであるから責任がない、とも、人に怪我をさせたのだからすべての責任は行為者にある、ともいえないのである。
では、どこからどこまでを切り取るかはどうやって決まるのか。それはもちろん法や道徳などの制度によって決められているものもあるが、そのようないつの間にか誰かが決めたものの了承せざるを得ない基準ではなく、より具体的な人間関係の中で共通了解とされている詳細な基準、しかも「そうするべきである」という価値判断を含む「規範」に拠って決まるといえるのではないだろうか。前述の例ならば、規範とは「ドアの張り紙をきちんと見る」べきであり、「ドアはゆっくり静かにあける」ことを遵守すべきであり、その規範を守ろうとする呼応責任と、規範にて要請される結果責任を満たすことを行為しなければならない、ということではないだろうか。そして、ここでなぜ単なる規則ではなく規範を持ち出すのかといえば、規範とは背けば法的な刑罰に限らず社会的な冷遇や非難などといった制裁が加えられ、遵守すれば少なくとも制裁を避けることができるだけでなく、さらに厚遇や尊敬を得ることもある、より人間関係を直接的に反映する限定された規則であるといえるからである。その意味で、より私たちに近い日常的な事象に関わる詳細なきまりとしての「掟」に近いことを想定していることを強調しておきたい。
(ⅱ) 規範をめぐって
前節にて導出された、「掟」に近く、具体的な人間関係を反映するような「規範」とはどのようなものか。このような規範についての概念は必ずしも一般的ではないと思われるが、ここで強調される側面について考えてみたい。
通常一般に規範という語を用いる場合、その内容には単なる規則という以上によい・わるいという価値判断が含まれた模範的なあり方を示すもの、という印象が付随する。それは、規範とは人間は本来どうあるべきか、ということに直接的に関わることを想定しているからであり、規範が人間の生き方や本質そのものを固定化し、定式化するという意味で枠組みを構成するものだからであろう。このように語られる場合の規範とは、すなわち普遍性をもつ確固たる基準なのであり、その基準にもとづいて事は進んでいかなければならないという点において、まず定立されなければならないものと言えるだろう。確かにそれに照らして正当か不当かを判断できなければ、何ら拘束力を持つものではなくなってしまうという意味では基準としてそれなりに不動でなくてはならないが、果たしてこの不動性すなわち普遍性にどれほど信憑性があるのだろうか。
ここで、フーコーの権力論のなかで捉えられる規範の問題が参考になる 。規範の概念をめぐる考察の中で上記の普遍性についての懐疑が提出されているのだが、その論とはおおよそ以下の通りである。例えば男女差別や人種差別などは、その撤廃が叫ばれたのはそう昔のことではないにもかかわらず、男女や人種の別に限らず人間はみな平等であるとする考え方は今日ではごく当然の規範となっている。このような事実が認められる以上、規範には不確実な性質があることは否定できない。そればかりか、それらは人々の現実的な批判的運動や要求を通じた個別闘争の生々しさを伴って創出されたのであり、もともと何故か根拠も分からぬままにあったという類のものではない。すなわち、規範とは常に限界を抱えているものであり、その限界を再構成していくことが不可欠なのであると言えよう。そして、その再構成のためには「批判(critique)」という態度を重視すべきであるとし、それは規範を生み出すためのポジティブな行為実践である。
これは、まったくもって共感するところであり、まさに強調したいといった規範の側面である。規範といってもその内容に流動性があるという事実は、創出する側にも立ち得るし遵守を要請される側にも立ち得るという、共同体の一構成員たる私たちの動的なあり方と深く関わる。あくまでも私たちは単独で個別に生きているのではなく、規範によってどのように行為するかを一定の仕方で背負わされているのであり、またどのような行為が望ましいのかを周囲に背負わせてもいるのであり、そういった関係性のなかにこそ存在している。そのような何らかの関係性でくくることができるまとまりを、ここではひとつの共同体と考えているのだが、その共同体なくしては規範も生まれ得ないことが大前提としてあることを確認しておきたい。
人間存在を実践的行為的連関と捉える和辻哲郎によれば、行為の必須の契機に 、第一には「主体の間の働き合い(何らかの意味の自他対立なきところには行為は存せず)」であり、第二には「行為は必ず既存の人間関係を背負いつつ可能的な人間関係への方向として働く」ということを挙げている。この二点とはすなわち、人間存在の空間性と時間性を指しているのであるが、第一の契機とは、個人とは共同性の否定によって、そして共同性とは個人の否定によって存在しているという空間性を根拠に、個人の行動は対立的な個人の行動として必ず他の個人との連関のうえに成り立つことを示す。また第二の契機とは、人は生まれるとともに一定の社会組織のなかに組み込まれる以上、行為が過去の間柄を背負ったものであることに加え、いまだ存在していない関係を予め含んだ、来るべき主体的連関への方向(「動機」「目的」などと呼ばれるものに近接)をもつことを、人間関係において過去的間柄から未来的間柄へ動き行く運動として捉えなければならない、という時間性において示す。このように示される契機をもつ行為の連関こそが、人間存在といえるのである。そしてこの行為連関こそが、規範の出所であり、所在でもあると考える。
最後に、序章で提起した「日本人らしさ」との関係において規範を考えてみたい。「日本人らしさ」という場合、それが肯定的に使われる場合には日本人としてよいであろうと考えられる規範に則っている、と言えそうである。しかしその規範たるものは、戦後の経済成長とアメリカ化が進むなかでどんどん挿げ替えられていく部分と、昔ながらの日本に根付いてきた部分とが無秩序に混ざりあって、その「普遍性」を失っていったのではないかと思う。そのような状況において、法や制度といった外部は欧米由来の近代的モデルを基盤なきまま踏襲したことで何かといえば自己責任という体のよい押し付けが横行したのであり、責任など何とか逃れる以外の何物でもないという雰囲気が充満したのではないだろうか。ということは「自律できていない人間像」として日本人を批判することは当たらずとも遠からずではあったのかもしれないが、その批判は共同体的な人間関係がある上でのものであったと考えられる。それは日本人論が結局、個人は個別存在としてどうあるべきかという内面的なことではなく、関係性を重視することを強調し続けたということとも無関係ではないだろう。その反面で近代的個人が賛美され、それをよしとせず自由のない古い共同体は解体されるべきという潮流のなかで、経済が上向きで環境問題が噴出するまでは、それでも問題は表面化していなかったのだろう。しかしその間に確実に、規範を醸成する関係性そのものは崩壊していったことには眼は向けられず、当事者意識の薄いしらけた事なかれ主義に陥ったような気がしている。
喫緊の課題とは、普遍的である必要はないが、具体的な関係性に依拠しその関係性に対して有効な規範を新しく打ち立てていくこと、ひいてはその関係性そのものを再建し修復していくことなのではないだろうか。
前節にて導出された、「掟」に近く、具体的な人間関係を反映するような「規範」とはどのようなものか。このような規範についての概念は必ずしも一般的ではないと思われるが、ここで強調される側面について考えてみたい。
通常一般に規範という語を用いる場合、その内容には単なる規則という以上によい・わるいという価値判断が含まれた模範的なあり方を示すもの、という印象が付随する。それは、規範とは人間は本来どうあるべきか、ということに直接的に関わることを想定しているからであり、規範が人間の生き方や本質そのものを固定化し、定式化するという意味で枠組みを構成するものだからであろう。このように語られる場合の規範とは、すなわち普遍性をもつ確固たる基準なのであり、その基準にもとづいて事は進んでいかなければならないという点において、まず定立されなければならないものと言えるだろう。確かにそれに照らして正当か不当かを判断できなければ、何ら拘束力を持つものではなくなってしまうという意味では基準としてそれなりに不動でなくてはならないが、果たしてこの不動性すなわち普遍性にどれほど信憑性があるのだろうか。
ここで、フーコーの権力論のなかで捉えられる規範の問題が参考になる 。規範の概念をめぐる考察の中で上記の普遍性についての懐疑が提出されているのだが、その論とはおおよそ以下の通りである。例えば男女差別や人種差別などは、その撤廃が叫ばれたのはそう昔のことではないにもかかわらず、男女や人種の別に限らず人間はみな平等であるとする考え方は今日ではごく当然の規範となっている。このような事実が認められる以上、規範には不確実な性質があることは否定できない。そればかりか、それらは人々の現実的な批判的運動や要求を通じた個別闘争の生々しさを伴って創出されたのであり、もともと何故か根拠も分からぬままにあったという類のものではない。すなわち、規範とは常に限界を抱えているものであり、その限界を再構成していくことが不可欠なのであると言えよう。そして、その再構成のためには「批判(critique)」という態度を重視すべきであるとし、それは規範を生み出すためのポジティブな行為実践である。
これは、まったくもって共感するところであり、まさに強調したいといった規範の側面である。規範といってもその内容に流動性があるという事実は、創出する側にも立ち得るし遵守を要請される側にも立ち得るという、共同体の一構成員たる私たちの動的なあり方と深く関わる。あくまでも私たちは単独で個別に生きているのではなく、規範によってどのように行為するかを一定の仕方で背負わされているのであり、またどのような行為が望ましいのかを周囲に背負わせてもいるのであり、そういった関係性のなかにこそ存在している。そのような何らかの関係性でくくることができるまとまりを、ここではひとつの共同体と考えているのだが、その共同体なくしては規範も生まれ得ないことが大前提としてあることを確認しておきたい。
人間存在を実践的行為的連関と捉える和辻哲郎によれば、行為の必須の契機に 、第一には「主体の間の働き合い(何らかの意味の自他対立なきところには行為は存せず)」であり、第二には「行為は必ず既存の人間関係を背負いつつ可能的な人間関係への方向として働く」ということを挙げている。この二点とはすなわち、人間存在の空間性と時間性を指しているのであるが、第一の契機とは、個人とは共同性の否定によって、そして共同性とは個人の否定によって存在しているという空間性を根拠に、個人の行動は対立的な個人の行動として必ず他の個人との連関のうえに成り立つことを示す。また第二の契機とは、人は生まれるとともに一定の社会組織のなかに組み込まれる以上、行為が過去の間柄を背負ったものであることに加え、いまだ存在していない関係を予め含んだ、来るべき主体的連関への方向(「動機」「目的」などと呼ばれるものに近接)をもつことを、人間関係において過去的間柄から未来的間柄へ動き行く運動として捉えなければならない、という時間性において示す。このように示される契機をもつ行為の連関こそが、人間存在といえるのである。そしてこの行為連関こそが、規範の出所であり、所在でもあると考える。
最後に、序章で提起した「日本人らしさ」との関係において規範を考えてみたい。「日本人らしさ」という場合、それが肯定的に使われる場合には日本人としてよいであろうと考えられる規範に則っている、と言えそうである。しかしその規範たるものは、戦後の経済成長とアメリカ化が進むなかでどんどん挿げ替えられていく部分と、昔ながらの日本に根付いてきた部分とが無秩序に混ざりあって、その「普遍性」を失っていったのではないかと思う。そのような状況において、法や制度といった外部は欧米由来の近代的モデルを基盤なきまま踏襲したことで何かといえば自己責任という体のよい押し付けが横行したのであり、責任など何とか逃れる以外の何物でもないという雰囲気が充満したのではないだろうか。ということは「自律できていない人間像」として日本人を批判することは当たらずとも遠からずではあったのかもしれないが、その批判は共同体的な人間関係がある上でのものであったと考えられる。それは日本人論が結局、個人は個別存在としてどうあるべきかという内面的なことではなく、関係性を重視することを強調し続けたということとも無関係ではないだろう。その反面で近代的個人が賛美され、それをよしとせず自由のない古い共同体は解体されるべきという潮流のなかで、経済が上向きで環境問題が噴出するまでは、それでも問題は表面化していなかったのだろう。しかしその間に確実に、規範を醸成する関係性そのものは崩壊していったことには眼は向けられず、当事者意識の薄いしらけた事なかれ主義に陥ったような気がしている。
喫緊の課題とは、普遍的である必要はないが、具体的な関係性に依拠しその関係性に対して有効な規範を新しく打ち立てていくこと、ひいてはその関係性そのものを再建し修復していくことなのではないだろうか。