1夏以降の研究課題のおさらい
政府や水俣病でのチッソ、原発事故での東電を批判するだけで本当にいいのだろうか。彼らの責任のみを問うことで、私たちは責任から逃れてはいないだろうか。そして、本来、私たちが目を背けてはいけない責任やリスク、それから逃げている限り、私たちは同じことを繰り返してしまうのではないだろうか。そして、私たちが原発事故という、かつての公害病と同じ様な悲劇を繰り返してしまった真の原因はそこにあると私は思う。そして、本来、「私たちが目を背けてはいけない責任やリスク」のあり方を、もちろん政府や企業が引き受けるべき責任を見失わないようにしつつ、検討するのが研究課題である。
前回の発表で挙がった課題は、おそらく以下の2点であると思われる。
政府や水俣病でのチッソ、原発事故での東電を批判するだけで本当にいいのだろうか。彼らの責任のみを問うことで、私たちは責任から逃れてはいないだろうか。そして、本来、私たちが目を背けてはいけない責任やリスク、それから逃げている限り、私たちは同じことを繰り返してしまうのではないだろうか。そして、私たちが原発事故という、かつての公害病と同じ様な悲劇を繰り返してしまった真の原因はそこにあると私は思う。そして、本来、「私たちが目を背けてはいけない責任やリスク」のあり方を、もちろん政府や企業が引き受けるべき責任を見失わないようにしつつ、検討するのが研究課題である。
前回の発表で挙がった課題は、おそらく以下の2点であると思われる。
- リスクと責任という概念の定義に関して
- リスクの私事化を単に強調することに否定的なルーマンの理論を批判的に検証する
2責任について
“船長として、Xはその乗客と乗組員の安全に対して責任があった。しかし、先日の航海でからは毎晩酔いつぶれており、船の遭難に責任があった。彼は正気でないという噂が流れたが、彼は自らの行為に責任があると医者は診断した。航海の間中、彼は全く無責任に行動し、彼は責任ある人物ではないということが明らかになった。船の遭難の責任は異常な嵐にあると、船長は繰り返し主張したが、刑事訴訟において彼は自らの過失行為に対して刑事責任があるとされた。それとは別に、民事訴訟において、生命と財産の損失に対して法的責任を負わされた。彼は今でも生きており、たくさんの女性と子供の死に対して道徳的に責任がある”
(H.L.A. Hart 1968:211 瀧川による訳)
⇒責任responsibilityという語の多義性
※ドイツ語、英語の責任にあたる言葉をすべて責任という言葉に置き換えたゆえに、責任という語が多義性を持っているとは一概には言えない。海外においても、責任概念は様々な意味を持つ。
“船長として、Xはその乗客と乗組員の安全に対して責任があった。しかし、先日の航海でからは毎晩酔いつぶれており、船の遭難に責任があった。彼は正気でないという噂が流れたが、彼は自らの行為に責任があると医者は診断した。航海の間中、彼は全く無責任に行動し、彼は責任ある人物ではないということが明らかになった。船の遭難の責任は異常な嵐にあると、船長は繰り返し主張したが、刑事訴訟において彼は自らの過失行為に対して刑事責任があるとされた。それとは別に、民事訴訟において、生命と財産の損失に対して法的責任を負わされた。彼は今でも生きており、たくさんの女性と子供の死に対して道徳的に責任がある”
(H.L.A. Hart 1968:211 瀧川による訳)
⇒責任responsibilityという語の多義性
※ドイツ語、英語の責任にあたる言葉をすべて責任という言葉に置き換えたゆえに、責任という語が多義性を持っているとは一概には言えない。海外においても、責任概念は様々な意味を持つ。
ネガティブな責任:ポジティブな責任
「する」論理の責任:「である」論理の責任→自由意志と決定論の問題?
※リスク:危険→現代ではどちら「として」も捉えられうる(ルーマン)
負担責任:応答責任
過去へベクトルが向かっている責任:未来へ向かっている責任
受動的な責任:能動的な責任
転嫁可能な責任:転嫁不可能な責任
技術の責任:理論の責任(?)
⇒おそらく、「私たちが目を背けてはいけない責任や」とは、右に分類されるもの
いわゆる自己責任論は左の責任概念
・自己責任論を強調→どこかにあった責任が転嫁されているだけ
・「私たちが目を背けてはいけない責任」を強調→みようとしていないものをちゃんとみる
→両者の区分をしっかりする必要がある
左の責任までも自己責任として処理されてはならない
※「怖れ」と「不安」(ハイデガー)
→現存在のうちから「立ち上ってくる」ものをちゃんとみる
「する」論理の責任:「である」論理の責任→自由意志と決定論の問題?
※リスク:危険→現代ではどちら「として」も捉えられうる(ルーマン)
負担責任:応答責任
過去へベクトルが向かっている責任:未来へ向かっている責任
受動的な責任:能動的な責任
転嫁可能な責任:転嫁不可能な責任
技術の責任:理論の責任(?)
⇒おそらく、「私たちが目を背けてはいけない責任や」とは、右に分類されるもの
いわゆる自己責任論は左の責任概念
・自己責任論を強調→どこかにあった責任が転嫁されているだけ
・「私たちが目を背けてはいけない責任」を強調→みようとしていないものをちゃんとみる
→両者の区分をしっかりする必要がある
左の責任までも自己責任として処理されてはならない
※「怖れ」と「不安」(ハイデガー)
→現存在のうちから「立ち上ってくる」ものをちゃんとみる
3ルーマン批判
別紙:ハーバマス/ルーマン論争、を参照
システム理論に由来する概念=リスク変換
リスク変換とは
別紙:ハーバマス/ルーマン論争、を参照
システム理論に由来する概念=リスク変換
リスク変換とは
“多様な(人間の健康に関する、あるいは自然環境に関する、あるいは災害に関する等々の)外的脅威が、社会システムにとって把捉されると、そのシステム固有の「リスク」へと変換され、当該システムは(当の外的脅威そのものではなく)その変換されたリスクに対してしかるべき対応を取るようになるという事態”(ルーマン 1991:183、小松による訳)
→システミックリスクの存在=各々のシステムの対処に任せていては新たなリスクが生まれることの繰り返し
⇒システムでどうこうするわけではなく、むしろ環境世界において発生するリスクを低減する方向を目指すべき
※リスクを低減する仕組みをつくることは新たなシステムを創造するに過ぎない
⇒システムでどうこうするわけではなく、むしろ環境世界において発生するリスクを低減する方向を目指すべき
※リスクを低減する仕組みをつくることは新たなシステムを創造するに過ぎない
⇒ルーマン理論において、システムとして捉えられないものがあるはず
→そこを明らかに、「強い理論」と「正しい理論」の融合(どちらも批判はしない)
→そこを明らかに、「強い理論」と「正しい理論」の融合(どちらも批判はしない)
参考文献
瀧川裕英『責任の意味と制度』勁草書房、2009
瀧川による引用 H.L.A Hart “Postscript” Oxford University Press 1968
ハーバマス、ルーマン『批判理論と社会システム理論』木鐸社、1987
小松丈晃『「リスク社会」論以後とシステム理論』(2011年9月4日 日本社会理論学会大会シンポジウムにおける報告)
小松による引用 Luhmann, N “Siziologie des Gesellshaft” Walter de Gruyter 1991
瀧川裕英『責任の意味と制度』勁草書房、2009
瀧川による引用 H.L.A Hart “Postscript” Oxford University Press 1968
ハーバマス、ルーマン『批判理論と社会システム理論』木鐸社、1987
小松丈晃『「リスク社会」論以後とシステム理論』(2011年9月4日 日本社会理論学会大会シンポジウムにおける報告)
小松による引用 Luhmann, N “Siziologie des Gesellshaft” Walter de Gruyter 1991
