はじめに
東京という都市に生まれ育った筆者には、田舎というものがなかった。田舎がないということは、自分のルーツを含む場所がないということである。正確に言えば、筆者のルーツは都市だったが、都市という場所はいかにも心許なく、常に“何かが足りない”ような感覚を持って過ごしていた。
また、街に遊ぶ場所が少なかったこともあり、小さい頃から友人と遊ぶ場合でも外で遊ぶことは少なかった。
これは子供の場合だが、他方で外に出て自分の体を動かさなくてもある程度の生活ができる、というのも都市の特徴である。インターネットの発達がそのことをさらに加速している。
また、街に遊ぶ場所が少なかったこともあり、小さい頃から友人と遊ぶ場合でも外で遊ぶことは少なかった。
これは子供の場合だが、他方で外に出て自分の体を動かさなくてもある程度の生活ができる、というのも都市の特徴である。インターネットの発達がそのことをさらに加速している。
インターネット上でスラングとして使われ始め、現在一般的に広く使われている“リア充”という言葉がある。これは、ネットの世界の住人が仕事、恋愛、趣味などの現実の生活=リアルが充実している人間を指して呼ぶ名称で、対義語は“非リア(充)”である。言葉の意味については様々な用法があるが、この言葉が多くの人に使われ、“リア充”に対して嫉妬や羨望のような視線が送られている場合が多いことは事実である。
では、なぜ“リアルが充実している”ということが呼称まで与えられて社会にこれほど広まっているのだろうか。このことは裏返せば、現代の日本に暮らす人間(特にインターネットをよく利用する若年層)の間に、“リアル”の欠如と渇望が広がっていることを示しているのではないか。
では、なぜ“リアルが充実している”ということが呼称まで与えられて社会にこれほど広まっているのだろうか。このことは裏返せば、現代の日本に暮らす人間(特にインターネットをよく利用する若年層)の間に、“リアル”の欠如と渇望が広がっていることを示しているのではないか。
では“リアル”とは何か。人間にとってのリアルとは第一に“生きていること”である。そして、生きているということは、必ずある空間ある時間に、身体を持って行動しているということである。この感覚をとりあえず「いま、ここにいる」感覚と名付けるとすれば、現代の問題は「いま、ここにいる」感覚を人間が持てなくなっていることであり、社会がこの感覚を無視するような構造になっているからではないかと考えられる。
本論では、この「いま、ここにいる」感覚がどういうものであり、どのようにして得られるのかということを、「私」という一人の人間から考え、その意味を考えたいと思う。
                                
