吉田傑俊・下崇道・尾関周二編『「共生」思想の探求』(二〇〇二年)の「はじめに」で述べられているように、二〇〇〇~二〇〇一年、「日中・共生シンポジウム」での共生思想を理論的・実践的に探求する、日本と中国の哲学・社会科学研究者たちによる共同研究報告とその検討が行われた 。奇しくも、二〇〇一年九月にはアメリカで同時多発テロが起き、世界の政治的・経済的・文化的な危機意識が高まった時期である。その背後には、アメリカンスタンダード(市場原理主義)を唯一の尺度としたグローバル化は、貧富の差を拡大し、それに基づく国家間の政治的・文化的対立の激化を招いてきた状況があった。
グローバル化時代の必然的な流れとして、政治的・文化的差異を認め合うことを意味する包括的な概念、〈共生〉は希求されることとなったが、包括的であるがゆえに、抽象的で曖昧な概念である。共生とは何か。どのようにその内実を考えていったらよいのか。その具体的展開として、同署では日本と中国の学者間で共生が模索・検討されている。
グローバル化時代の必然的な流れとして、政治的・文化的差異を認め合うことを意味する包括的な概念、〈共生〉は希求されることとなったが、包括的であるがゆえに、抽象的で曖昧な概念である。共生とは何か。どのようにその内実を考えていったらよいのか。その具体的展開として、同署では日本と中国の学者間で共生が模索・検討されている。
 〈共生〉の思想史的な位置づけを問題とする、第二部「日本と中国における共生思想の展開」において、仏教思想における〈共生〉思想の展開として、亀山は「共生理念の深化と仏教思想の“参照点としての意義”」(共生、  )を提起する。「参照点としての意義」とは、仏教思想をはじめとする東洋思想の評価に関しては、それらの短絡的な賛美に終わるのではなく、「現在の環境問題解決のための思想的課題にどんな論点を理論的に提示するか」(共生、  )にあくまでも着目する視角である。ここでは、共生の語の“氾濫”であり、(中世日本において正統派浄土宗がその機能を果たしたような)人々を隠然とした支配するイデオロギーとして機能することが憂慮されている。現代の共生思想を深めていく上での部分的なヒントと環境思想の豊富化の契機として、ある思想がどのような機能と効果を果たしうるのか、という視角は、〈宗教論〉における、宗教を行為システムとして位置付け、それを信仰する人の生と社会とのあいだにどのような意味づけと関連性を果たしうるのかという視角と重ねて読むことができる。「参照点的意義」は、『環境倫理と風土』 他、「地域再生のコンセプトとしての風土の意義」 、『〈農〉と共生の思想』 などにおいても、用いられる述語であるが、〈宗教論〉、そして、それを準備した〈価値論〉をふまえるとその意義を位置づけやすい。
| + | 「参照点的意義」を論じることになった背景 | 
| + | 「参照点的意義」のさまざまな使われ方 | 
 亀山は参照点的意義において、仏教思想を意義づける。亀山の問題意識のひとつには、人間と自然の共生を考察するさいに、「どこにでもある」「ありふれた自然」を保護しなければならない説得的根拠の解明がある。この問題意識は桑子敏雄 とも共通しており、身体への着目がなされるところが共通しているが、詳しいアプローチは異なる。『共生』のなで、亀山は「縁起説」で示される人間-自然の相互連関と相互変容、「本覚思想」で示される「コミュニケーション関係・自己を写す自然、コミュニケーションの身体性、または身体的響感関係にある自然」(共生、  )に着目することで、ありふれた自然保護の意義を位置づける 。
| + | 「どこにでもある」「ありふれた自然」の保護の説得的根拠の解明 | 
 この身体性への着目は、すでに見てきたように、〈宗教論〉の基盤をなすフォイエルバッハの唯物論的宗教論を継承してのものであるし、それが「参照点的意義」という吟味のための視角に立ったうえでの着目である以上、亀山が単に生活的自然を五感と身体で受けとめることの重要性を言っているのではなく、その経験を理論的に吟味するプロセス、および、さらに体験の中で体験を吟味する理論を再吟味するという、〈価値論〉で扱われた双方向の「試し」 の往復にこそ力点があるといえる。その力点を見誤れば、なぜ『風土』第五章においては風土性と景観が、合意形成において果たす意義が大きく詳細にとりあげられるのか不明瞭となるだろう。
| + | なぜ和辻風土論は批判されるのか | 
 最後に、亀山の〈価値論〉、〈宗教論〉、〈風土論〉のテキスト内で共通して参照されている思想家としてはフォイエルバッハをすぐにあげることができるが、デカルトも併行させた読解の必要性をあらためて提起したい。生活者の社会的生活実践に内在し、そこにあらわれる主体性の契機を、理性と感性ともどもにすくいだし、構築し、随時変更を重ねていくという行程(つまり、「試し」)への執着は、デカルトの影響なしには考えにくいものだからである 。今後、より私のテーマ―環境プラグマティズム、食―と関連した考察を重ねたい。
                                
