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  • 序章 なぜ〈まことのことば〉を検討する必要があるのか?

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序章 なぜ〈まことのことば〉を検討する必要があるのか?

最終更新:2012年01月23日 14:28

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◆序章 なぜ〈まことのことば〉を検討する必要があるのか?
第一節 私と極限で似る言語について

 私たちはどういうわけか、いかなるときも言語を使わずにはいられない。もっとも私秘的で内向的な自省においても、または空気が裏返るような熱狂にさらされたときですら、夕暮れの住宅街が群青から黒へ変わるのを車窓から眺める疲労のときも樹々の緑の翳りの深みに微睡むときもまた、私たちは完全に言語から離れることができない。眠りのなかで見る夢でさえ象徴的言語に還元されており、日常的な言葉に翻訳してそれらを語れてしまう私たちは、言語を使っているのではなく、むしろ言語によって使われ、掴み取られているかのようだ。人間のあらゆる世界体験は本質的に言語性をおびる。さらに言語は正体不明の三人称性から常に制約を受ける。「三人称は人称ではない」と主張するバンヴェニスト(Émile Benveniste: 1902 – 1976)は、『一般言語学の諸問題』(1983 岸本訳)において言語における人称性に関して、次のように述べる。
 1.人称の相関問題、わたし/あなたの人称を、かれの非-人称に対立させる。
 2.主体性の相関関係、前者の内部にあって、わたしをあなたに対立させる。単数と複数との 通常の区別は、人称の領域においては、厳密な人称(=《単数》)と拡大された人称(=《複数》)の区別に置き換えられないまでも、少なくともそのように解釈されねばならない。ただ《三人称》のみが、非=人称であることによって、真の複数を受容する。(『一般言語学の諸問題』)
 つまり、一人称/二人称は相補的な概念であり、「わたし」は「わたし」と宣言することで発話行為の主体を産出する(1)。そして、その場にいない正体不明の複数の者-三人称の領域が二者間の発話における境界を画定する規則となる(2)。この三人称性が、言語をいま、ここにいる私でない上方へと霧散させる。私に不可避である言語はいくら馴致しても決して私自身ではありない。私と私にとっての世界は言語から離れられず、その言語は私にも世界にも似ていない。だが、ソシュールの言語学を継承したバンヴェニストが(そしてオースティン(J. L. Austin, 1911-1960)が)叙述的な事後確認ではない、依頼や警告などの機能的な発言に反復不能な一回性を見出したように、瞬間、「言語が私と極限で似る」ということはあり得るだろう。現実感を、真実を与える恍惚体験を、言語から離れられない人間が通過するならば、それは〈まことのことば〉の体験と言うにふさわしい。この〈まことのことば〉を自然科学や仏教の広範な語彙を駆使して散文や詩の形式で他者への伝達を試みた者が九十年ほど前の東北にいた。かの宮澤賢治である。本論は賢治が心象スケッチ「春と修羅」で用いた〈まことのことば〉という語句を手がかりにして、彼の行った恍惚体験とその伝達への探索を追う。
 ところで、言語が私と極限で似るとは、いったいどういうことなのだろうか?
 私と極限で似る言語。それは真理を約束する思想や権威づけられた宗教のそれではない。もっとも高揚した気分のとき不意に聞こえてくる声、あるいは夜の夢で聴いていた音楽のようなものだ。私の体を強く揺さぶる羞恥と快感は次の瞬間に忘れ去られる。それらを幻聴や夢想と片づけるのは容易い。しかし、私たちは言語的還元に僅かに先行する世界を聴くおぞましい恍惚のときにこそ、まさに真実を――世界のリアリティを感じているのではないだろうか。私たちは現実という概念を知っているが、現実感とは、把握不能な、形にならない幻想的な何かによって与えられて初めて可能になるのではないだろうか。
 真実とは現実への覚醒のことだろうか。現実を暴露し、覆いを剥がされ、白日の下に晒す振る舞いにおいて真実は現れるのだろうか。(ギリシャ語の「Aleetheia(真理)」はそういう振る舞いのことだ。ちなみに、本論で「真理」という言葉を避けているのはAleetheiaとの同義を防ぐためである。)それとも、詩歌や画、能楽などに現れる欺きのない感動、あるいはさし迫った境遇において現実は、真実は現れるのだろうか。(日本語の「まこと」の語義から演繹すればそうなる。)  現代西欧思想の始祖の一人ともいえるニーチェ(Friedrich Nietzsche: 1844 - 1900)は『悦ばしき知識』(1882~1887)のアフォリズムにおいてこう語る。
「私にとって今や「仮象 Schein」とは何であるか! 確かにそれは何らかの本質の対立物ではない、──私が何らかの本質について語り得るにせよ、それはまさしくその仮象の述語としてでしかないのだ! 確かにそれは、未知のXに被せたり外したりできるような死んだ仮面ではない! 仮象とは私にとって活動し生きているものそのものであり、それはみずからへの嘲笑のあげくに私をしてこう感じさせずにはおかないのだ、ここには仮象と鬼火と幽霊の舞踏の他には何もないのだ、──すべてのこうした夢想者たちの間で、「認識者」である私もまた自分の舞踏を踊るのだ、認識者とは地上の舞踏を長引かせる一個の手段であり、そのかぎりで生存の祝祭の世話役に属するのだ、と。そしてすべての認識の高尚なる首尾一貫性と連繋はおそらく、この夢想の普遍性と、このすべての夢想者たち相互の全き理解を維持し、そうすることでまさに夢の持続を維持するための最高の手段なのであり、またこれからもそうなのだ、と。」(『悦ばしき知識』54)
 『ツァラトゥストラ』以降、ニーチェは真理そのものが仮象(-誤謬)を必要とし、仮象(-誤謬)なくして真理は存在しない、という反プラトン的なテーゼに至る。「(キリスト教的)神の真理」ではなく古典文献学由来の生成Werdenを前提としたニーチェの真理概念はむしろヘラクレイトスのそれに近い。本論はこの「仮象(-誤謬)をもって真理となす」という立場を継承する。というのも、私たちが無限に多様な現実世界を認知・解析しようとするに際して使用可能なのは、電気暗号化精度の低い知覚器官と頻繁に誤信を起こす記憶、たかだか10の11乗数のささやかな素子-ニューロンであり、さらに入力された情報は言語化による圧縮、同化‐縮減によって不可塑的な情報化けを引き起こしているという無視しがたい事情があるからだ。奇しくもニーチェが『権力への意志』で述べているように、「諸物の流動という究極の真理は、血肉化が不能なものだ。われわれの器官は誤謬を掴むようにできている。」
 おそろく、読者は〈まことのことば〉という語句そのものに胡散臭さと陳腐さを感じているだろう。確かに。現代の先進国において真実や真理という抽象概念は暫定的にしか理解されず、果てしなくカタログ化された感情とモチベーションは債権として取り引きされ、善悪と真偽の基準となる象徴的規則のどれに従っているのかも、いまの私たちには意識化できない。この状況下において可能な問いはこうである。私たちが、あらゆる活動において避けがたく仮象(-誤謬)のうちにあるということを知っていながら、それでもなお、私たちがそれを行ってしまうのはなぜなのか? 世界の現実性を求めるのはなぜなのか?
 必要な作業は事物と想定された物自体をありのままに見る神秘主義的真理の解析ではない。重要なのは、どうして現実そのものが、錯誤を抜きにしては再現することができないのかについて解答することである。この検討は直接的に言及されないが、本論の基調をなしている。未完の作品『学者アラムハラドの見た着物』の学者アラムハラドは彼の塾で学童たちにこう問いかける。
「火はあつく、乾かし、照らし騰る、水はつめたく、しめらせ、下る、鳥は飛び、またなく。魚について獣についておまえたちはもうみんなその性質を考えることができる。けれども一体どうだろう、小鳥が啼かないでいられず魚が泳がないでいられないように人はどういうことがしないでいられないだろう。人が何としてもそうしないでいられないことは一体どういう事だろう。」(『学者アラムハラドの見た着物』)
 アラムハラドは人間の性質を通俗科学の人間観(二足歩行や発話)に求めず、「私は饑饉でみんなが死ぬとき若し私の足が無くなることで饑饉がやむなら足を切っても口惜しくありません。」という大臣の子の宣言に涙する。だが、正義を愛することを人間の本質的志向と説く老師の一方で最も年少のセララバアドが「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います。」と答えることこそが、この作家の世界に流れる最高の倫理性であるとするならば、この問いは宮澤賢治の作品群とふれ合う幅を決して減らしはしないだろう。
【註記】
 バンヴェニストは言語学者として多大な業績を残している一方で、インド・ヨーロッパ神話、古代ペルシャ宗教にも通じていた。とりわけ、善悪の対決という宇宙史的運命論を説いた世界最古の一神教として知られるゾロアスター教(拝火教)研究の第一人者でもあった。ニーチェの『ツァラトゥストラ』はゾロアスター教の開祖ザラスシュトラを主題とした創作である。(ゾロアスター教の聖典『ガーサー』を読み耽ったニーチェは専門家に十年ほど先んじてザラスシュトラがイラン北西部のウルミア湖畔で生まれたことを明かにしている。)キリスト生誕の際に占星術を用いてペルシャから救世主誕生の事実を見届けにやってきた三人のマギ(博士)はゾロアスター教の博士の謂いであり、仏教の不殺生戒もザラスシュトラの戒律の影響を受けていると言われている。危険であり制御不可能な「火」という現象と親和的な心象を抱き、焼身幻想に翻弄され自身を「仮定された有機交流電灯の/一つの青い照明です」と夢想した賢治とゾロアスター教の関連は、直接に認められないもの興味深いものがある。


第二節 宮澤賢治と〈まことのことば〉について

 宮澤賢治(1896 - 1933)は日本の詩人・作家・教師・農業運動家である。生涯を通じて法華経に傾倒した。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」などの文言で知られる彼の理想主義的な世界観は、高木仁三郎(1938 - 2000)をはじめとする日本のエコロジストに今日にいたるまで強く影響を与えている。また、鳥山敏子(1941 - )が前に引用した賢治の「農民芸術概論」とシュタイナー教育を基盤としたNPO法人「賢治の学校」を設立するなど、自然教育への影響も大きい。(*1) 『春と修羅』、『銀河鉄道の夜』などに代表される自然科学や仏教の専門用語を織り交ぜた彼の作品群は、自然の美しさや人と動物の関係性の豊かさを讃美しているとして、主に童話作品として、肯定的に広く受け入れられている。
 ここで注目したいのは、賢治を受容するにあたり、彼を思想家として捉えるスタンスが今日、暗黙の通例になっている事情だ。賢治の著作、人生に現代という困難な時代を生きぬく知恵を見出す鳥山敏子らがいる一方で、賢治のファシズム的傾向を指摘し、満州事変のときまで生きていたら日中戦争を肯定しただろうと予想する柄谷行人らも(*2)、賢治を思想家として捉える視点に依拠している。
 では、文学研究においてはどうか? 賢治が傾倒していた法華経をはじめとする仏教教義的意味を作品内に見出そうとする大塚常樹『宮澤賢治 心象の記号論』。当時の自然科学が彼に与えたイマジネーションを読解する、やはり大塚常樹の『宮澤賢治 心象の宇宙論』が主流と言えるだろう。最近の研究では、西成彦の『新編 森のゲリラ 宮澤賢治』(平凡社/2004)では賢治の作品をクレオール文学(*3)として扱うポスト・コロニアリズムの視点に立っている。また、中沢新一の『カイエ・ソバージュⅡ 熊から王へ』(講談社/2002)では地理民族史とともに「氷河鼠の毛皮」が論じられている。いずれにしても、賢治の文学作品は仏教史、科学史、政治思想史の文脈で捉えられ、そのなかで位置づけられている。賢治から時代を解く、あるいは仏教思想、自然科学を受容する方法を見出すという観点が広くある。
 しかし、賢治を思想家と捉えるには難点がある。つまり、賢治は書簡以外では時代を論じることもなく、仏教思想、自然科学について公表を試みることもなかったのだ。彼が彼自身の思想について明瞭に語っているのは「農民芸術概論」と複数の書簡においてのみであり、それらの量は彼が残した心象スケッチや童話作品などに比べると圧倒的に少なく、羅須地人協会で講義するためのメモ書き以上のものではない。そもそも、「農民芸術概論」に記された内容のほとんどは、当時の帰農ブームでベストセラーになった室伏高信の『文明の没落』や『土に還れ』に依拠したものであり(*4)、そこにオリジナリティは認められない。また、保阪嘉内への書簡で表明される彼の思想は、当時国柱会を率いていた田中智学の説法に感化された折伏を越えるものではない。
 このように、賢治の思想はその系譜を室伏高信と田中智学に依っている。だが、それをもって賢治の評価をおとしめるのもまた早急である。賢治が公表を目指したのは、『春と修羅』、『注文の多い料理店』に代表される無数の作品群である。そこには意味ではなく一つ一つの場所や動作や会話こそが書かれている。それらははたして比喩、あるいは暗号なのだろうか? つまり、仏教思想や自然科学を、あるいは帰農主義を迂回的に説こうとして彼は心象スケッチや童話を書いたのだろうか。
 賢治が、一ヶ月に原稿用紙三千枚という(なかば伝説めいた)破格の量の文章量を書いた大正十年前後に目を向けるとき、彼を苛立たせ、焦燥させた幻覚-ファンタズム(*5)が見出される。たとえば、大正八年の嘉内宛ての書簡において賢治は彼に特徴的な錯乱を示している。(*6)この錯乱は賢治を苦しめ、苛むが、錯乱の絶頂においてはむしろ「夢中の夢」という無限の入れ子構造、誠、善なり/善にあらず、人類最大の幸福/不幸という概念の断片がくり返し飛来し、彼を魅惑する。
 賢治の思想と作品は、この苦痛と快感が絶え間なく入り替わる恍惚の瞬間をその本質的起源とする。したがって本論においては、賢治が法華経の理論的地平で活動しようとしたとき、彼を常に悩ませた彼の幻覚-ファンタズムの力が病理学的に素描され、それが詩・童話作品の執筆において精力的に練り上げられ、やがて媒介性を持たず、直接的に自他を疎通させる仮想の言語〈まことのことば〉へと組織化され、また極度に理想化されていく大正十年前後の彼の作品と書簡が中心に検証される。
 まず、第一章では最近の二つの賢治研究、押野武志『童貞としての宮沢賢治』(2003)と大澤信亮『宮沢賢治の暴力』(2007)から、賢治を襲った幻覚-ファンタズムに目を向ける。そしてそれらが隠喩――法華経の教説の隠喩ではなく、生理学的-症候的な体験であったことを強調する。つまり、生前に出版された『注文の多い料理店』『春と修羅』の序文をはじめとして、複数の作品において(先にあげた「氷河鼠の毛皮」でも、話は北風がきれぎれに吹き飛ばしてきたことが冒頭で語られる)、風や電灯、架線や月明かりからことばが語られた、という事態が賢治の作品においてはくり返し語られるが、実際に賢治が聴覚的-痙攣的な、ひとつの現実的-分裂病的体験にさらされていると本論では捉える。これを強調するのは、賢治の作品を語るときに陥りがちな仏教思想や自然科学の象徴読解、もしくは感傷的で無痛な幸福の気配へと堕することへの注意を喚起するためである。
 第二章では、賢治が〈まことのことば〉をどのように伝達しようとしたのかが問われる。つまり、賢治の思想と彼の幻覚の対比を基軸としつつ、賢治が法華経の教説を、彼に固有の幻覚-ファンタズムから生まれる個別の情動を伝達するためのいわば「方便」としたのではないかという仮説を立てる。賢治は法華経に傾倒し、法華経を彼の活動のよりどころとした。彼の戦闘的な青年仏教徒、あるいは日蓮主義者としての側面を無視することはできない。だが、第一章で考察した通り、賢治を魅了していた彼の幻覚は、彼が意図する日蓮主義運動の理論において障害物であり、彼を言語的理論のうちに閉じさせることがなかった。賢治はもともと浄土真宗の門徒であったが、それとは無関係に、賢治ほど異端から脱しきることなく日蓮主義に心酔した門徒はいない。というのも、賢治は法華経を、彼の聴きとった幻聴〈まことのことば〉を伝達するための仮の言説として使用したからだ。賢治は「法華文学ノ創作」を志しているつもりだったが、彼の言葉は法華経の教説の隠喩ではなく、「林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきた」「ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたない」ものへと捧げられ続けた。〈まことのことば〉は、法華経の教説としての〈まことのことば〉なのではない。〈まことのことば〉の教説として初めて法華経はある。ここでは賢治の作品に仏教教義的な意味を見出そうとする議論が批判的に継承されている。
 第三章では、〈まことのことば〉の伝達が、なぜ法華経という形式を通じてなされたのかが問われる。前述の通り、賢治はもともと浄土真宗の門徒であった。かつて歎異抄をもって自らの指針としていた賢治は、なぜ棄教しなければならなかったのか? それは法華経の理論システムの総体が、賢治の〈まことのことば〉の幻聴と極めて親和的であったからだ。ゴータマ・シッダールタ(つまり、仏陀)は法華経を説く直前に法華経以外は随他意であり、法華経のみが随自意であると宣言した。つまり、他人の意に随って説くことをやめ、ゴータマ自身が真実だと確信している教えを説くと。実際に、法華経には「かならずまさに真実を説くべし。」「正直に方便をすてて、ただ無上道を説く。」「法華最も第一なり。」という表明が頻出する。「わかってもらえるだろうか。……これこそが、これこそが本当の真実なのだ」という表明。だが、このような自己証明は論理的には決して成功しない。クルト・ゲーデルの第1不完全性原理によれば、ある矛盾の無い理論体系(ω無矛盾の公理系)の中に、肯定も否定もできない証明不可能な命題が、必ず存在する。つまり、矛盾のない体系には本当かどうかわからない領域が必ず存在するのだ。それが真実であるためには、それがそれ自身を真実だと証言するより他にない真実。だが、その真実は、客観的に真偽を検証することができない。この検証不能性にもかかわらず、〈まことのことば〉は鹿と農民の交感を描いた『鹿踊りのはじまり』(1921)以降、遺稿となった『銀河鉄道の夜』に至るまで、モチーフとして多様な変奏をされている。それらを網羅すると紙面が膨大となるので、ここでは心象スケッチ集『春と修羅』に収録されている心象スケッチ「春と修羅」(*7)などの主要作品から、〈まことのことば〉の検証不能性と伝達不能性を賢治がどのように扱ったかを整理する。これにより、彼が思想的に希求した〈まことのことば〉〈世界全体の幸い〉とは一般化を目指すいわゆる“思想”ではなく、身体の水準における“叫び”にとどまることが指摘されるだろう。
 ここで重要なのは、〈まことのことば〉が検証不能性であるにもかかわらず、それを賢治が耐えることができたのはなぜか、という問いだ。それどころか賢治は彼自身にも「なんのことだか、わけのわからない」正体不明な挿話であなたの歓待を熱心に試みる。
 これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。
(『注文の多い料理店 序』)
 細心な彼がそのような倨傲に及ぶことができたのはなぜか? それは賢治がゴータマの言葉に、彼自身の真実を読みとったからだ。〈まことのことば〉の体験を、賢治はゴータマのそれと強引に結節しようとし、最終的に失敗する。というのも、法華経で語られる真実は、ゴータマに知られた真実であり、賢治のそれではないからだ。賢治は、法華経において固有の方法で表明された真実の不可能と、自らが表明する〈まことのことば〉の不可能の固有の落差を通じて、両者の違いそのものの裏側に、自らの真実を感知する。だが、賢治がそこに読みとるのはゴータマの真実ではなくあくまでも彼自身の真実である。そのような錯誤を犯してまで、〈まことのことば〉は法華経の形式をとらなければならなかったのだろうか? この問いが第三章では考察される。内容を先取りすれば、賢治の幻想、あるいは〈まことのことば〉は性的衝動の作動と切り離すことができないものであったのだ。意識にとって性的衝動は、常に外部から不意に立ち現れ侵入してくる、悪や、恐怖心から切り離されえない対象である。〈まことのことば〉はもっとも忌まわしき状況において賢治のもとを訪れる。この状況を受け入れるために、思考する主体=賢治は真実に際してもう一度、それを原初的な光景(事実である必要のないシミュレーション)と重ね合わせる必要があったのだ。そこで選ばれたシナリオが法華経であった。
 ところで、結局のところ、賢治はゴータマの真実と彼のそれを取り違え、〈まことのことば〉をめぐる恍惚体験の伝達に失敗する。賢治は一つの失笑ものの事例にすぎないのだろうか? 終章である第四章では共同体論から見た賢治の積極的固有性が、彼の“思想”とは別の場所にあることを若干提起する。言語を、あるいは宗教を、性交を、芸術を、政治を通じて、ときに苛烈なほどの熱意をもって、私たちは眼前の他者とコミュニケーションをとろうとする。その一方で、以前は興奮を感じた同じ相手との同じような会話に退屈し、自分の(そして相手の)誤謬と愚鈍さを疑い、失望する。間主観的なコミュニケーションにおける興奮と失望の予期不能な入れ替わり。私たちはこの状況をうまく統御することができない。というのも、かつて真実を聴いた自分と対面するのは、自分と同じ姿をしていない、同じ声を返さない他者であるからだ。それでも私たちは言語を使わずにはいられないように、私を常に失望させる他者、私が常に失望させてきた他者と対面せざるを得ない。そのときに、私にとっての真実を伝えようとする蠢動と熱意の喚起こそが、賢治の表現のもっとも積極的な固有性である。私たちは言語化可能な領域をわずかでも拡張し、私に真実を与えた恍惚体験の伝達を試みる。そして、伝達の不可能は苦痛とともに新しい地平の予感を更新し、私を真実のなかに閉じこめないだろう。燦然とざわめき立つ光のなかで、忘れられていた現実を知りなおす恐怖を賢治はその諸作品において訓練する。



(*1)環境思想の文脈における宮澤賢治の位置づけに関しては『環境思想キーワード』に詳しい。
(*2)『批評空間Ⅱ 14号』「宮澤賢治をめぐって」関井光男・村井紀・吉田司・柄谷行人(共同討議): p.6~p.41
(*3)クレオールとはもともと植民地生まれの白人を意味していたが、今日では混合の民、混血の文化、混種の言葉などを指す。たとえばフランス人が海外の植民地に移住したとき、やがて本国を知らない子供が生まれる。その子供を本国生まれの子供と区別するためにクレオールと呼ぶ。クレオール文学とは、クレオールを生み出す複数言語・ 複数文化的環境の社会的現実を描いた文学作品を指す。
(*4) 上田哲『宮澤賢治 その理想世界への道程』(国文学研究叢書 1988/11)
上田は『文明の没落』や『土に還れ』の本には直接的に「農民芸術概論綱要」や「農民芸術の興隆」と符合するような文や語句は見つからなかったとしながらも、室伏高信の宮澤賢治への影響は否定できないと考察している。(P.264) また、羅須地人協会での農耕生活の実践は室伏高信が大きな影響を与えていると結んでいる。
(*5)「幻覚-ファンタズムphantasm」という術語が本論では多く用いられる。これは、賢治を考察するにあたり、ピエール・クロソウスキー(Pierre Klossowski, 1905 - 2001)の視座を援用しているからだ。クロソウスキーは主著『ニーチェと悪循環』(兼子訳, 2004)や『生きた貨幣』(兼子訳,2000)において、言語によって分節される以前の人間の欲望、言葉によって把握不能な感情、形にならない衝動、一般性に還元されない幻想的な何かを“ファンタスムfantasme”と呼ぶ。
(*6)1919年8月20日前後の保阪嘉内宛ての書簡は、まさに賢治が陥っていた錯乱の多くが彼自身によって描写された重要な資料である。以下はやや冗長であるが、引用しよう。
 成金と食へないもののにらみ合か。へっへ労働者の自覚か。へい結構で。どうも。ウヘッ。わがこの虚空のごときかなしみを見よ。私は何もしない。何もしてゐない。幽霊が時々私をあやつって裏の畑の青虫を五疋拾はせる。どこかの人と空虚なはなしをさせる。正に私はきちがいである。諸君よ。諸君よ。……(中略)……
 このかなしみからどうしてそう整った本当の声が出やう。無茶苦茶な訳だ。しかしこの乱れたこゝろはふと青いたひらな野原を思ひふっとやすらかになる。あなたはこんな手紙を読まされて気の毒な人だ。その為に私は大分心持がよくなりました。みだれるな。みだれるな。さあ保阪さん。すべてのものは悪にあらず。善にもあらず。われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。われはなし。すべてはわれにして、われと云はるゝものにしてわれにはあらず総ておのおのなり。われはあきらかなる手足を有てるごとし。いな。たしかにわれは手足をもてり。さまざまの速なる現象去来す。この舞台をわれと名づくるものは名づけよ。名づけられたるが故にはじめの様は異ならず。手足を明に有するが故にわれありや。われ退いて、われを見るにわが手、動けるわが手、重ねられし二つの足をみる。これがわれなりとは誰が証し得るや。触るれば感ず。感ずるものが我なり。感ずるものはいづれぞ。いづちにもなし。いかなるものにも断じてあらず。
 見よこのあやしき蜘蛛の姿。あやしき蜘蛛のすがた。
 今我にあやしき姿あるが故に人々われを凝視す。しかも凝視するものは人々にあらず。我にあらず。その最中にありて速にペン、ペンと名づくるものを動かすものはもとよりわれにはあらず。われは知らず。知らずといふことをも知らず。おかしからずや、この世界は。この世界はおかしからずや。人あり、紙ありペンあり夢の如きこのけしきを作る。これは実に夢なり。実に実に実に夢なり。而も正しく継続する夢なり。正しく継続すべし。破れんか。夢中に夢を見る。その夢も又夢のなかの夢これらをすべて引き括め、すべてこれらは誠なり誠なり。善なり善にあらず  人類最大の幸福、人類最大の不幸
 謹みて帰命し奉る 妙法蓮華経。南無妙法蓮華経
(*7) 本論考では以下、『春と修羅』は心象スケッチ集を指し、「春と修羅」は収録されている詩を指すことにする。この同名性については、三章の冒頭で考察される。

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