D)〈まことのことば〉の教説としての法華経
〈まことのことば〉は、法華経の教説としての〈まことのことば〉なのではない。〈まことのことば〉の教説として、法華経は法華経としてある。(*1) 本章の要旨を一言で集約すれば、こうなるだろう。賢治の〈まことのことば〉は法華経の教説と正確に違う。彼は救世者を気取っているわけではない。(まったく同じ意味で、彼は救世者ではない。)ほんとうのさいわいや、いずれ信仰も情動も化学と同じになるというセロのような声の語り口。それらは、誤って飲んだ毒に苦しむ子どもたちに薬を飲ませようとする医者の方便の劣化複製であるだろうだろうか? 賢治は、火事になった家で遊ぶ子供らを誘い出す長者に扮した田舎者であるだろうか? 執着せず、妨げられず、知識を示す力を持ち、誤りない知力を持ち、特別の感覚器官の力を持っていると――あらゆることを、自分を感情にいれずに、よく見聞きし、わかり、そして忘れずにいられると――いえるだろうか? それらは最晩年の独白めいた願望でしかない。
〈まことのことば〉はその起源においてなんらかの隠喩ではなく、また論理における真偽の公準でもない。それはただたしかにここにいる、いまだかつて、わたしがここから消えたことはなかったという事実であり、まったく意に反して聴きとられた声である。それがいかなる病因による幻聴であるかは、次章で考察するため、いまは問わないでおこう。ただ、彼が初めて法華経に接して受けた恍惚は、避けがたい束縛の力を行使することとなる。実感された束縛は、しかし、その瞬間から彼に歓喜と罪責感を交互に与えつづける。
〈まことのことば〉は存在の一連のはてしない振動のようなものであるが、なんらかの物体をとおして、つまり、聴覚的に認識できるよう音声を発する者とそれを聞く者との間に介在する空気の拡がりを震動させるようにして、わたしに語られるわけではない。また物体、物質に似たものによって表象される仕方によって語られるわけでもない。林や野はらや鉄道線路の虹や月光から彼は〈まことのことば〉を聴くのではなく、聴いているときにはすでに虹や月光があるのである。
〈まことのことば〉を聴くものは、〈まことのことば〉が聴こえてくるからそれを聴くのであるが、聴くものに聴かれることによって、〈まことのことば〉は存在するわけではない。――これは賢治の幻聴が真実となるために不可欠の命題である。
この命題は、あるいは、こう言いかえられる。「わたしは鉄道線路の反射光や十一月の山風から真実を聴きとる。しかし、鉄の光沢や寒さの知覚が、わたしに真実を吹きこむのではない。〈まことのことば〉が光や風を通じて、わたしに真実を与えた。つまり、わたしが聴きとった声は、反射光や北風の声だったのだが、その声はそれらからのものではなく、それらを通じてのものであった。わたしは、〈まことのことば〉が存在するから聴くわけではない。〈まことのことば〉が存在することによって、わたしは光のプリズムから、満たされた大気から、それを聴くことができるようになるのだ。〈まことのことば〉は真実である。一刹那一刹那、生じては滅するものを明確に知る。それに接するわたしは、わたしをあたかもせわしく明滅する電灯のように感ずる。しかも、わたしは救いがたい蒙昧のなかで、それを、それであることを知らず、あるいはそれであることを完全に忘れて、聴く。聴きとることと、知られることの、いずれが先であるかも知らないままに」
彼の聴きとった〈まことのことば〉が、ほんとうの〈まことのことば〉であるかどうかについて、前述の通り彼自身は決してあらかじめ知ることができず、それゆえに検証することができないからである。「どうしてもこんなことがあるようでしかたない、わたしの聴いている、この、これとはなにか。わからない。だが、わたしは、越えていく。この、これに導かれて。――けれど、この、これを記憶していないなら、どうしてわたしはいま、この、これを、真実として聴いているのだろうか?」
そうした問いが示す領域は途方もなく広大なものである。その問いは、私たちが現在行なっている論理的な推論とは違った推論によってあつかわれるだろう。その推論は、そのほうが、より精緻であるかもしれないが、それのみでは述べ、語ることができない。おそらくは進化論的事情によって、私たちはその推論は使用することができない。(*2) そこで、賢治は消化器とともに語る。つまり、非連続に聴きとられた〈まことのことば〉の断片の幾つかが、――おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません、と。賢治の、共犯者を見つけんとする野心は消化器の象徴によって原始的な形で現れる。幾片かはすきとおったたべものとしてあなたに供えられる。なぜか。なぜ、彼は、彼自身にもわけがわからないものであなたの歓待を試みるのだろうか? しっかりした記憶をもっている世尊でさえ、「最高の希有なものが得られた」と証言するだけでやめておいたにもかかわらず。賢治は、彼自身がほんとうのことだと確信したものが何であるか、それら断片がどのようであるか、それら断片がどのように見えるか、それら断片がどのような形をとるか、それら断片自体の存在がどうであるかを、まったく知らない。なのに、彼の堂々たる細心は、なぜその得体の知れない奇異なものによって、あなたの歓待を試みることを彼に許したのだろうか?(*3)
〈まことのことば〉は、法華経の教説としての〈まことのことば〉なのではない。〈まことのことば〉の教説として、法華経は法華経としてある。(*1) 本章の要旨を一言で集約すれば、こうなるだろう。賢治の〈まことのことば〉は法華経の教説と正確に違う。彼は救世者を気取っているわけではない。(まったく同じ意味で、彼は救世者ではない。)ほんとうのさいわいや、いずれ信仰も情動も化学と同じになるというセロのような声の語り口。それらは、誤って飲んだ毒に苦しむ子どもたちに薬を飲ませようとする医者の方便の劣化複製であるだろうだろうか? 賢治は、火事になった家で遊ぶ子供らを誘い出す長者に扮した田舎者であるだろうか? 執着せず、妨げられず、知識を示す力を持ち、誤りない知力を持ち、特別の感覚器官の力を持っていると――あらゆることを、自分を感情にいれずに、よく見聞きし、わかり、そして忘れずにいられると――いえるだろうか? それらは最晩年の独白めいた願望でしかない。
〈まことのことば〉はその起源においてなんらかの隠喩ではなく、また論理における真偽の公準でもない。それはただたしかにここにいる、いまだかつて、わたしがここから消えたことはなかったという事実であり、まったく意に反して聴きとられた声である。それがいかなる病因による幻聴であるかは、次章で考察するため、いまは問わないでおこう。ただ、彼が初めて法華経に接して受けた恍惚は、避けがたい束縛の力を行使することとなる。実感された束縛は、しかし、その瞬間から彼に歓喜と罪責感を交互に与えつづける。
〈まことのことば〉は存在の一連のはてしない振動のようなものであるが、なんらかの物体をとおして、つまり、聴覚的に認識できるよう音声を発する者とそれを聞く者との間に介在する空気の拡がりを震動させるようにして、わたしに語られるわけではない。また物体、物質に似たものによって表象される仕方によって語られるわけでもない。林や野はらや鉄道線路の虹や月光から彼は〈まことのことば〉を聴くのではなく、聴いているときにはすでに虹や月光があるのである。
〈まことのことば〉を聴くものは、〈まことのことば〉が聴こえてくるからそれを聴くのであるが、聴くものに聴かれることによって、〈まことのことば〉は存在するわけではない。――これは賢治の幻聴が真実となるために不可欠の命題である。
この命題は、あるいは、こう言いかえられる。「わたしは鉄道線路の反射光や十一月の山風から真実を聴きとる。しかし、鉄の光沢や寒さの知覚が、わたしに真実を吹きこむのではない。〈まことのことば〉が光や風を通じて、わたしに真実を与えた。つまり、わたしが聴きとった声は、反射光や北風の声だったのだが、その声はそれらからのものではなく、それらを通じてのものであった。わたしは、〈まことのことば〉が存在するから聴くわけではない。〈まことのことば〉が存在することによって、わたしは光のプリズムから、満たされた大気から、それを聴くことができるようになるのだ。〈まことのことば〉は真実である。一刹那一刹那、生じては滅するものを明確に知る。それに接するわたしは、わたしをあたかもせわしく明滅する電灯のように感ずる。しかも、わたしは救いがたい蒙昧のなかで、それを、それであることを知らず、あるいはそれであることを完全に忘れて、聴く。聴きとることと、知られることの、いずれが先であるかも知らないままに」
彼の聴きとった〈まことのことば〉が、ほんとうの〈まことのことば〉であるかどうかについて、前述の通り彼自身は決してあらかじめ知ることができず、それゆえに検証することができないからである。「どうしてもこんなことがあるようでしかたない、わたしの聴いている、この、これとはなにか。わからない。だが、わたしは、越えていく。この、これに導かれて。――けれど、この、これを記憶していないなら、どうしてわたしはいま、この、これを、真実として聴いているのだろうか?」
そうした問いが示す領域は途方もなく広大なものである。その問いは、私たちが現在行なっている論理的な推論とは違った推論によってあつかわれるだろう。その推論は、そのほうが、より精緻であるかもしれないが、それのみでは述べ、語ることができない。おそらくは進化論的事情によって、私たちはその推論は使用することができない。(*2) そこで、賢治は消化器とともに語る。つまり、非連続に聴きとられた〈まことのことば〉の断片の幾つかが、――おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません、と。賢治の、共犯者を見つけんとする野心は消化器の象徴によって原始的な形で現れる。幾片かはすきとおったたべものとしてあなたに供えられる。なぜか。なぜ、彼は、彼自身にもわけがわからないものであなたの歓待を試みるのだろうか? しっかりした記憶をもっている世尊でさえ、「最高の希有なものが得られた」と証言するだけでやめておいたにもかかわらず。賢治は、彼自身がほんとうのことだと確信したものが何であるか、それら断片がどのようであるか、それら断片がどのように見えるか、それら断片がどのような形をとるか、それら断片自体の存在がどうであるかを、まったく知らない。なのに、彼の堂々たる細心は、なぜその得体の知れない奇異なものによって、あなたの歓待を試みることを彼に許したのだろうか?(*3)
E)転回の再体験
賢治が、彼自身にも真偽の検証ができない〈まことのことば〉。それが真実であるためには、それがそれ自身を真実だと証言するより他にないという〈まことのことば〉。この矛盾に満ち、流通を絶たれた言葉は、けれど無媒介的にあらゆる聴き手に伝達されなければならない。この問題を解決しないままに、賢治が自身の名において語る言葉を、彼自身にとって非常に重要なモチーフであった食に託して伝達しようとしたのはなぜか? この問いを考察するにあたり、大正三年に法華経-智学に出会う以前の賢治についてもう一度考えよう。
まず、本章の最初に触れた座禅の影響であるが、当時の書簡を読むかぎり、静座によって肉体を鍛えて返信するという少年らしい空想を膨らませるにとどまっている。(*1) その後の証言などをみても賢治が座禅を行っていた様子は見られない。また、中学生時代の賢治は友人・藤原健次郎に宛てた封書で、気にくわないクラスメートにいたずらを仕掛けたり、成績の悪いのを自慢している。軍人あがりの体育教師については「奴。来学期は生しておかない。なますにして食ってしまはなくっちゃぁ腹の虫が気がすまねぇだ。」(*2)と呪詛の言葉を書いていることから、浄土真宗の信仰も、後の法華信仰ほどに徹底したものではなかったようだ。
それよりも彼が熱中していたのは登山と植物・鉱物採集であり、仕送られていた小遣いのほとんどが登山関係に使われている。また、父宛の封書では岩手山登山の、中学生にしてはハードな行程が記されている。(*3)
また、このころには短歌もすでに作られている。賢治がなぜ最初に短歌という形式を選んだかについては、盛岡中学の先輩・石川啄木の影響が指摘されている。しかし、一読すればわかるとおり、賢治の短歌群は啄木のような叙情高い歌からはほど遠い。むしろ、賢治の短歌群において特徴的なのは、くり返し表される賢治自身を見るものの眼差しである。(*4)対象化された風景を描くのではなく、風景によって表現者が対象化されてしまう事態は、恨みや腹立たしさなどのネガティブな情動とともに賢治を悩ませる。だが、賢治は風景に従属するその位置から離れることはなかった。
宮澤賢治が法華経-田中智学と出会う以前に短歌を通じて表されたこの風景を前にした自身の徹底的な無根拠性は、法華経を通過することによって引き返すことのできない決定的な感覚として、それ以降の彼に痕跡を残すこととなる。法華経-智学を通過したあとに、彼は一時的に法華経と日蓮という〈真理〉を確信し、これに従属することとなるが、そこにおける経典崇拝は日蓮や田中のそれとは異質のものであった。真に信仰に足るものは法華経の言説そのものではなく、〈真理〉の確信という転回そのものである。次章では、その転回が彼の創作においてどのように再演encore-再構築されたかをたどろう。
賢治が、彼自身にも真偽の検証ができない〈まことのことば〉。それが真実であるためには、それがそれ自身を真実だと証言するより他にないという〈まことのことば〉。この矛盾に満ち、流通を絶たれた言葉は、けれど無媒介的にあらゆる聴き手に伝達されなければならない。この問題を解決しないままに、賢治が自身の名において語る言葉を、彼自身にとって非常に重要なモチーフであった食に託して伝達しようとしたのはなぜか? この問いを考察するにあたり、大正三年に法華経-智学に出会う以前の賢治についてもう一度考えよう。
まず、本章の最初に触れた座禅の影響であるが、当時の書簡を読むかぎり、静座によって肉体を鍛えて返信するという少年らしい空想を膨らませるにとどまっている。(*1) その後の証言などをみても賢治が座禅を行っていた様子は見られない。また、中学生時代の賢治は友人・藤原健次郎に宛てた封書で、気にくわないクラスメートにいたずらを仕掛けたり、成績の悪いのを自慢している。軍人あがりの体育教師については「奴。来学期は生しておかない。なますにして食ってしまはなくっちゃぁ腹の虫が気がすまねぇだ。」(*2)と呪詛の言葉を書いていることから、浄土真宗の信仰も、後の法華信仰ほどに徹底したものではなかったようだ。
それよりも彼が熱中していたのは登山と植物・鉱物採集であり、仕送られていた小遣いのほとんどが登山関係に使われている。また、父宛の封書では岩手山登山の、中学生にしてはハードな行程が記されている。(*3)
また、このころには短歌もすでに作られている。賢治がなぜ最初に短歌という形式を選んだかについては、盛岡中学の先輩・石川啄木の影響が指摘されている。しかし、一読すればわかるとおり、賢治の短歌群は啄木のような叙情高い歌からはほど遠い。むしろ、賢治の短歌群において特徴的なのは、くり返し表される賢治自身を見るものの眼差しである。(*4)対象化された風景を描くのではなく、風景によって表現者が対象化されてしまう事態は、恨みや腹立たしさなどのネガティブな情動とともに賢治を悩ませる。だが、賢治は風景に従属するその位置から離れることはなかった。
宮澤賢治が法華経-田中智学と出会う以前に短歌を通じて表されたこの風景を前にした自身の徹底的な無根拠性は、法華経を通過することによって引き返すことのできない決定的な感覚として、それ以降の彼に痕跡を残すこととなる。法華経-智学を通過したあとに、彼は一時的に法華経と日蓮という〈真理〉を確信し、これに従属することとなるが、そこにおける経典崇拝は日蓮や田中のそれとは異質のものであった。真に信仰に足るものは法華経の言説そのものではなく、〈真理〉の確信という転回そのものである。次章では、その転回が彼の創作においてどのように再演encore-再構築されたかをたどろう。
D)〈まことのことば〉の教説としての法華経
(*1) 田中智学は炯眼だった。賢治は教団からすれば真性の背教者であり、棄教者である。あらゆる教団の構成員は教説を共有することで、抑圧の作用としての真理の開示に出会い、真理を知るが、恥と罪責感という自己意識ときわめて密接な感情と信仰とが不可分に近接している者にとって、流通を許された真理や善など、まったく恐れるに足らない。
(*2) つまり、演繹においてあまりにも慎重であった個体は、類似したものを見たときに即座に「同値である」と推定した個体よりも、より強く淘汰されるダーウィン的-遺伝子的原理が働くからである。たとえば、犬が無数の肉片を前にしたとき、それらを同じ肉であると認識することができなければ、犬は餓死してしまうだろうし、雛鳥が天敵の識別に時間を費やせば費やすほど、逃げのびることは難しくなるだろう。論理学の基礎はここにある。つまり、本来からいって等しいものなどまったく存在しないにもかかわらず、「同値である」と断じる所作に。
(*3) 賢治が食という肉体感覚に過敏だったことは、食事の音を恥ずかしがっていたという証言や彼の菜食主義からもうかがえる。ちなみに、国柱会は在家主義であの、肉食妻帯を許可している。つまり、菜食は智学の影響ではない。
(*1) 田中智学は炯眼だった。賢治は教団からすれば真性の背教者であり、棄教者である。あらゆる教団の構成員は教説を共有することで、抑圧の作用としての真理の開示に出会い、真理を知るが、恥と罪責感という自己意識ときわめて密接な感情と信仰とが不可分に近接している者にとって、流通を許された真理や善など、まったく恐れるに足らない。
(*2) つまり、演繹においてあまりにも慎重であった個体は、類似したものを見たときに即座に「同値である」と推定した個体よりも、より強く淘汰されるダーウィン的-遺伝子的原理が働くからである。たとえば、犬が無数の肉片を前にしたとき、それらを同じ肉であると認識することができなければ、犬は餓死してしまうだろうし、雛鳥が天敵の識別に時間を費やせば費やすほど、逃げのびることは難しくなるだろう。論理学の基礎はここにある。つまり、本来からいって等しいものなどまったく存在しないにもかかわらず、「同値である」と断じる所作に。
(*3) 賢治が食という肉体感覚に過敏だったことは、食事の音を恥ずかしがっていたという証言や彼の菜食主義からもうかがえる。ちなみに、国柱会は在家主義であの、肉食妻帯を許可している。つまり、菜食は智学の影響ではない。
E)転回の再体験
(*1) (1910年9月19日)藤原健次郎あて書簡
(*2)「筋骨もし鉄よりも堅く疾病もなく煩悶もなく候はば下手くさく大層などをするよりよっぽどの親孝行と存じ申し候」
(*3)(1910年10月1日)宮沢政次郎あて封書より。以下、引用。
同行者は嘉助さん、阿部孝さん、私とも一人、外に青柳教諭五年の人々六名にて候へき。合計十一人にて登り私共嘉助さん共四人麓の小屋に宿り三合目迄たいまつにて登りこゝにて他の柳沢にとまれる人々は追付き日の出を四合目に見頂上に上り、御鉢参りをしてそれより網張口へ下り大地ごくのの噴烟の所御釜噴火口御苗代等を経て網張に至り翌日小岩井をかゝりて帰舎仕り候。
(*4)代表的な歌としては、
さすらひの楽師は町のはづれにてまなこむなしくけしの茎噛む
〔明治44年1月〕
褐色のひとみの奥に何やらん悪しきをひそめわれを見る牛
ブリキ鑵がはらだたしげにわれをにらむつめたき冬の夕暮のこと
西ぞらのきんの一つ目うらめしくわれをながめてつとしづむなり
うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり
〔明治45年4月〕
(*1) (1910年9月19日)藤原健次郎あて書簡
(*2)「筋骨もし鉄よりも堅く疾病もなく煩悶もなく候はば下手くさく大層などをするよりよっぽどの親孝行と存じ申し候」
(*3)(1910年10月1日)宮沢政次郎あて封書より。以下、引用。
同行者は嘉助さん、阿部孝さん、私とも一人、外に青柳教諭五年の人々六名にて候へき。合計十一人にて登り私共嘉助さん共四人麓の小屋に宿り三合目迄たいまつにて登りこゝにて他の柳沢にとまれる人々は追付き日の出を四合目に見頂上に上り、御鉢参りをしてそれより網張口へ下り大地ごくのの噴烟の所御釜噴火口御苗代等を経て網張に至り翌日小岩井をかゝりて帰舎仕り候。
(*4)代表的な歌としては、
さすらひの楽師は町のはづれにてまなこむなしくけしの茎噛む
〔明治44年1月〕
褐色のひとみの奥に何やらん悪しきをひそめわれを見る牛
ブリキ鑵がはらだたしげにわれをにらむつめたき冬の夕暮のこと
西ぞらのきんの一つ目うらめしくわれをながめてつとしづむなり
うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり
〔明治45年4月〕