第三節〈まことのことば〉の啓蒙性
 まず、作品の輪郭を概観しよう。「春と修羅」の冒頭において、詩を語っているおれ(=賢治)は、激情のあまり唾を吐き、歯軋りしながら湿地帯をさまよっているひとりの修羅であるという宣言がなされる。作品自体はおれ(=賢治)=修羅の怒りに応じるように少しずつ各行の段組がずれはじめ、中盤は詩の構成全体が上下にうねりだし、そのうねりの直中において修羅の憤怒の理由は語られる。つまり、「まことのことばはうしなはれ」(l.20)ており、「(まことのことばはこゝになく 修羅のなみだはつちにふる)」(l.45)のだと。
自身から〈まことのことば〉が失われているという表現が真だとすれば、この詩もまた〈まことのことば〉によって構成されたものではなくなる。逆にこの詩は〈まことのことば〉によって語られたと主張するならば、〈まことのことば〉が失われているという詩の内容は偽となるだろう。このエピメニデスのパラドックス(*1)と同形の、発言する主体へと無限に回帰する自己言及的パラドックスは、発言する主体を常に不安にさせる。
フランスの哲学者ミシェル・フーコー(Michel Foucault, 1926-1984)は、この自己言及的パラドックス解決点として言説の主体と言説の間に階層構造を導入する。(*2)つまり、フーコーは「私は嘘つきだ」という言説があるとき、それを述べている言説の主体を分離させ、言説の主体を言説よりも上位の審級におく。「私は『私は嘘つきだ』と言う」ときに、最初の私は次の私よりも上位にあり、別のものとしてある。この場合、〈まことのことば〉が失われているという表現を、〈まことのことば〉によって構成することは一見、可能であるように思われる。だが、もし語る‘私’と、‘私’に語られる“私”を分離したとすれば、言明において私はまったく同時に二人いることになり、そのこと自体が虚構fictionにならないだろうか? それはどちらかの私を仮の姿として貶め、傷つかない私は諂曲模様(*3)を描き、語る主体をますます卑屈な修羅へと導くことにならないだろうか? それとも、私が同時に複数の――異なる場所にいることは可能なのだろうか?
この問いを考えるために、宮澤賢治に影響を与えた天台・日蓮の十界互具思想(*4)を見てみよう。前章のとおり、賢治は大正九年国柱会に入会したが、そのとき信仰の本尊たるべく授与された日蓮の曼陀羅を、彼は生涯身辺から離さなかった。日蓮は曼陀羅において、法華経の世界観を一枚の図に仮託する。そのなかに日蓮が『観心本尊鈔』で説く《十界互具》も語られている。賢治は自身のなかに修羅や畜生、餓鬼といった六道の下層に存在する意識が自身の内部に潜んでいることを絶えず気にし続けており、「人間の世界における修羅の成仏」を願っていた。この修羅からの脱出を法華経の文脈で読むとすれば、大塚の論考するように《捨身布施》へと至ることになるだろう。それは、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という大乗仏教の利他行の精神のもとに「宇宙の微塵となりて無方の空にちらば」ることである。この部分は「春と修羅」の後半で「(このからだそらのみじんにちらばれ)」と望む修羅の独白と一致している。そして、身体をばらばらに粉砕して散開することは、私が同時に複数の――異なる場所にいるための十分条件ともなる。だが、たとえ自身が粉々に散らばり空に撒かれて二度と地上に降りてこないとしても、私の語るべき真実はただ一つのそれのみであるとしたらどうだろう? そして、ただ一つのそれのみの真実を語る言葉――〈まことのことば〉は失われているのだから、修羅=賢治の捨身布施への投企は彼の憤怒を最終的に消し去りはしない。糸杉Zypressen(はいよいよ黒く、賢治の怒りをかき立てる。
それにしても、不可能とされる〈まことのことば〉とはなんなのだろうか? 賢治が熱烈な法華経行者であることや「春と修羅」が灌仏会に書かれたことなどをふまえると、〈まことのことば〉とは真言(釈迦の発した言葉)と解釈することができるだろう。だが、修羅が涙を流しながら怒り、歯軋りするのは彼のいる四月の気層の底に〈まことのことば〉が見いだせないからである。ここで問いが生まれる。そもそもなぜ私は〈まことのことば〉とは何であるかをすでに知っているのだろうか?
千葉一幹は『賢治を探せ』(*5)で、〈まことのことば〉を、かつて乳児の頃に、自分の頭上を行き交っていた大人たちの声を〈まことのことば〉の原型として指摘する。つまり、大人の世界の特徴は発話-音声をともなった息吹によって互いの動きが左右されるということであり、横臥したままの乳児にすれば、遥か上空で言葉が行き来することによって人が人に触りもしないのに人が動くという奇跡が起こっているように思える。このかつてあった奇跡の記憶が、賢治に〈まことのことば〉の原型を与え、幼児が大人たちの声を学習するのと同形の希求と、まだ言葉を話せないという苦痛を再現させるという。賢治=修羅のいる四月の気層の底に〈まことのことば〉が見いだせないのは、自身の使っている言葉が、かつて幼児の時に記憶していた大人たちの言葉とは似ても似つかないように思えるからであり、この落差に修羅は怒りに燃え、無力に涙する。
千葉の〈まことのことば〉の発達心理学的な素描は大筋で賛同することができる。言語は話者の内部にあるとされる感情や意志を伝達するための媒介物であり、世界に直接作用するような性質をもつものではない。言語は、間接的なコミュニケーションを成り立たせるものであり、話し手と聞き手を不完全な形で媒介するものでしかないが、それでもなお、私たちが感情や意志の疎通に熱意をもつのは、言語習得の起源において声の奇跡を知っているからだろう。自身から〈まことのことば〉が失われ、作品が〈まことのことば〉とは似ても似つかないもので構成されたものであるという意識もそれで説明することができる。多数の人々とは違い、おれ=賢治は〈まことのことば〉を強烈に希求してしまう要因としての性的衝動からも説明が可能なので、病理学的側面からは千葉の論考がもっとも妥当性が高いだろう。
では、幼少時の記憶の再演である〈まことのことば〉はなぜ啓蒙主義的性格を帯び始めるのだろうか? それを考えるに先立って、啓蒙主義的な操作が汎歴史的に暴力性と近似していることを確認しておこう。今日、一般に言われる啓蒙主義は十八世紀のジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau:1712 - 1778)とイマヌエル・カント(Immanuel Kant:1724 - 1804)の知見が重要な位置を占める。しかもこの二人の著作の内容は狭い意味で合理主義的なものではなく、むしろその内容はきわめて観念的で専制的な要素を内包している。(それは現実の近代資本主義の姿に対応している。というのも近代とは、合理性と科学性、あるいは自由と寛容が主張されつつ、しかし現実には歴史上最も大がかりな規模で暴力性と専制性が猛威をふるった時代であったからだ。)ルソーの思想は過激かつ神秘主義的であり、カントは霊能者・スウェーデンボルグ(Emanuel Swedenborg:1688 - 1772)の批判に彼独自の思想の出発点を持つ。この二人の思想を要約すると、個々人をそれ自身において共同体たらしめることであり、それと平行して共同体へと還元不能な時間(ないしは歴史)と事物の内容といった要素を放逐することにある。つまり、自由な諸個人(ルソーの言う「自然状態」)と、それによって形成される共同体は、別々の次元に存在してはならないという原則が啓蒙主義の前提にはある。それは同時に、世界の(真実の世界の)存立を、人間の抽象的な営為以外の、例えば神に基礎づけることの禁止であり、人間の認識に世界と同等の普遍性を期待させることでもある。だが、もちろんその原則と期待は限定された人間の演算能力ゆえに裏切られ、裏切られた憤懣は回収不能な外部への攻撃性となって表出する(そして戦争が起こる)。この暴力の駆動過程は末法時代の日本においては日蓮がその著作『開目抄』で折伏を最適の布教法と判定する過程とまったく同形である。今日の日蓮宗が摂受も行うようになったのは、安土問答(1579)の法論で浄土宗に負けてからであり、それまでは折伏一辺倒であったことを思い出そう。法華経のみがゴータマの内証の悟りそのままを説き示し、法華経以外の教説はゴータマが衆生の機根に随って、衆生の好むところに随って説法し、真実に誘引するための方便の低い権教(後に棄てられるべき仮の教え)であるとする法華経の教説は、〈まことのことば〉を絶対他者に向けて送信しようと模索していた賢治を随喜させた。その体験は彼自身に真実を与えた現実的体験と、法華経の教説で説かれる真実を錯綜させるほど強力なものであったし、また賢治が自覚されないままに法華経を〈まことのことば〉として使用する際の必要条件であった。だが前述の通り、賢治とゴータマの真実は結合することができないのでやがて破綻を迎える。
では、内的体験の圏域を脱しない〈まことのことば〉とは、結局のところ単に個人の枠内にとどまる独我論的-一人称的なものにすぎないのだろうか?
自身から〈まことのことば〉が失われているという表現が真だとすれば、この詩もまた〈まことのことば〉によって構成されたものではなくなる。逆にこの詩は〈まことのことば〉によって語られたと主張するならば、〈まことのことば〉が失われているという詩の内容は偽となるだろう。このエピメニデスのパラドックス(*1)と同形の、発言する主体へと無限に回帰する自己言及的パラドックスは、発言する主体を常に不安にさせる。
フランスの哲学者ミシェル・フーコー(Michel Foucault, 1926-1984)は、この自己言及的パラドックス解決点として言説の主体と言説の間に階層構造を導入する。(*2)つまり、フーコーは「私は嘘つきだ」という言説があるとき、それを述べている言説の主体を分離させ、言説の主体を言説よりも上位の審級におく。「私は『私は嘘つきだ』と言う」ときに、最初の私は次の私よりも上位にあり、別のものとしてある。この場合、〈まことのことば〉が失われているという表現を、〈まことのことば〉によって構成することは一見、可能であるように思われる。だが、もし語る‘私’と、‘私’に語られる“私”を分離したとすれば、言明において私はまったく同時に二人いることになり、そのこと自体が虚構fictionにならないだろうか? それはどちらかの私を仮の姿として貶め、傷つかない私は諂曲模様(*3)を描き、語る主体をますます卑屈な修羅へと導くことにならないだろうか? それとも、私が同時に複数の――異なる場所にいることは可能なのだろうか?
この問いを考えるために、宮澤賢治に影響を与えた天台・日蓮の十界互具思想(*4)を見てみよう。前章のとおり、賢治は大正九年国柱会に入会したが、そのとき信仰の本尊たるべく授与された日蓮の曼陀羅を、彼は生涯身辺から離さなかった。日蓮は曼陀羅において、法華経の世界観を一枚の図に仮託する。そのなかに日蓮が『観心本尊鈔』で説く《十界互具》も語られている。賢治は自身のなかに修羅や畜生、餓鬼といった六道の下層に存在する意識が自身の内部に潜んでいることを絶えず気にし続けており、「人間の世界における修羅の成仏」を願っていた。この修羅からの脱出を法華経の文脈で読むとすれば、大塚の論考するように《捨身布施》へと至ることになるだろう。それは、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という大乗仏教の利他行の精神のもとに「宇宙の微塵となりて無方の空にちらば」ることである。この部分は「春と修羅」の後半で「(このからだそらのみじんにちらばれ)」と望む修羅の独白と一致している。そして、身体をばらばらに粉砕して散開することは、私が同時に複数の――異なる場所にいるための十分条件ともなる。だが、たとえ自身が粉々に散らばり空に撒かれて二度と地上に降りてこないとしても、私の語るべき真実はただ一つのそれのみであるとしたらどうだろう? そして、ただ一つのそれのみの真実を語る言葉――〈まことのことば〉は失われているのだから、修羅=賢治の捨身布施への投企は彼の憤怒を最終的に消し去りはしない。糸杉Zypressen(はいよいよ黒く、賢治の怒りをかき立てる。
それにしても、不可能とされる〈まことのことば〉とはなんなのだろうか? 賢治が熱烈な法華経行者であることや「春と修羅」が灌仏会に書かれたことなどをふまえると、〈まことのことば〉とは真言(釈迦の発した言葉)と解釈することができるだろう。だが、修羅が涙を流しながら怒り、歯軋りするのは彼のいる四月の気層の底に〈まことのことば〉が見いだせないからである。ここで問いが生まれる。そもそもなぜ私は〈まことのことば〉とは何であるかをすでに知っているのだろうか?
千葉一幹は『賢治を探せ』(*5)で、〈まことのことば〉を、かつて乳児の頃に、自分の頭上を行き交っていた大人たちの声を〈まことのことば〉の原型として指摘する。つまり、大人の世界の特徴は発話-音声をともなった息吹によって互いの動きが左右されるということであり、横臥したままの乳児にすれば、遥か上空で言葉が行き来することによって人が人に触りもしないのに人が動くという奇跡が起こっているように思える。このかつてあった奇跡の記憶が、賢治に〈まことのことば〉の原型を与え、幼児が大人たちの声を学習するのと同形の希求と、まだ言葉を話せないという苦痛を再現させるという。賢治=修羅のいる四月の気層の底に〈まことのことば〉が見いだせないのは、自身の使っている言葉が、かつて幼児の時に記憶していた大人たちの言葉とは似ても似つかないように思えるからであり、この落差に修羅は怒りに燃え、無力に涙する。
千葉の〈まことのことば〉の発達心理学的な素描は大筋で賛同することができる。言語は話者の内部にあるとされる感情や意志を伝達するための媒介物であり、世界に直接作用するような性質をもつものではない。言語は、間接的なコミュニケーションを成り立たせるものであり、話し手と聞き手を不完全な形で媒介するものでしかないが、それでもなお、私たちが感情や意志の疎通に熱意をもつのは、言語習得の起源において声の奇跡を知っているからだろう。自身から〈まことのことば〉が失われ、作品が〈まことのことば〉とは似ても似つかないもので構成されたものであるという意識もそれで説明することができる。多数の人々とは違い、おれ=賢治は〈まことのことば〉を強烈に希求してしまう要因としての性的衝動からも説明が可能なので、病理学的側面からは千葉の論考がもっとも妥当性が高いだろう。
では、幼少時の記憶の再演である〈まことのことば〉はなぜ啓蒙主義的性格を帯び始めるのだろうか? それを考えるに先立って、啓蒙主義的な操作が汎歴史的に暴力性と近似していることを確認しておこう。今日、一般に言われる啓蒙主義は十八世紀のジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau:1712 - 1778)とイマヌエル・カント(Immanuel Kant:1724 - 1804)の知見が重要な位置を占める。しかもこの二人の著作の内容は狭い意味で合理主義的なものではなく、むしろその内容はきわめて観念的で専制的な要素を内包している。(それは現実の近代資本主義の姿に対応している。というのも近代とは、合理性と科学性、あるいは自由と寛容が主張されつつ、しかし現実には歴史上最も大がかりな規模で暴力性と専制性が猛威をふるった時代であったからだ。)ルソーの思想は過激かつ神秘主義的であり、カントは霊能者・スウェーデンボルグ(Emanuel Swedenborg:1688 - 1772)の批判に彼独自の思想の出発点を持つ。この二人の思想を要約すると、個々人をそれ自身において共同体たらしめることであり、それと平行して共同体へと還元不能な時間(ないしは歴史)と事物の内容といった要素を放逐することにある。つまり、自由な諸個人(ルソーの言う「自然状態」)と、それによって形成される共同体は、別々の次元に存在してはならないという原則が啓蒙主義の前提にはある。それは同時に、世界の(真実の世界の)存立を、人間の抽象的な営為以外の、例えば神に基礎づけることの禁止であり、人間の認識に世界と同等の普遍性を期待させることでもある。だが、もちろんその原則と期待は限定された人間の演算能力ゆえに裏切られ、裏切られた憤懣は回収不能な外部への攻撃性となって表出する(そして戦争が起こる)。この暴力の駆動過程は末法時代の日本においては日蓮がその著作『開目抄』で折伏を最適の布教法と判定する過程とまったく同形である。今日の日蓮宗が摂受も行うようになったのは、安土問答(1579)の法論で浄土宗に負けてからであり、それまでは折伏一辺倒であったことを思い出そう。法華経のみがゴータマの内証の悟りそのままを説き示し、法華経以外の教説はゴータマが衆生の機根に随って、衆生の好むところに随って説法し、真実に誘引するための方便の低い権教(後に棄てられるべき仮の教え)であるとする法華経の教説は、〈まことのことば〉を絶対他者に向けて送信しようと模索していた賢治を随喜させた。その体験は彼自身に真実を与えた現実的体験と、法華経の教説で説かれる真実を錯綜させるほど強力なものであったし、また賢治が自覚されないままに法華経を〈まことのことば〉として使用する際の必要条件であった。だが前述の通り、賢治とゴータマの真実は結合することができないのでやがて破綻を迎える。
では、内的体験の圏域を脱しない〈まことのことば〉とは、結局のところ単に個人の枠内にとどまる独我論的-一人称的なものにすぎないのだろうか?
(*1)ギリシアの詩人エピメニデス(前500年?)の詩とされるものが、新約聖書の偽作「テトスへの手紙」1章12節にある。この「すべてのクレタ人は嘘つきだ、とクレタの預言者が言った。」という一節は、1908年にバートランド・ラッセルが型理論についての論文で引用し、広く知られることとなった。
(*2)フーコー『外の思考―ブランショ・バタイユ・クロソウスキー』(朝日出版社 1978) P.11~P.16
(*3)見田宗介『宮沢賢治―存在の祭りのなかへ』(岩波書店1987)。見田は修羅の特性を「諂曲(てんごく):自分の意思を曲げて他人に媚びへつらうこと」に見出している。
(*4)「十界」とは、生命の境涯を十種に分類したもので、仏法の生命観の基本。十界はそれぞれ、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界のこと。このうち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天をまとめて「六道」、声聞・縁覚・菩薩・仏をまとめて「四聖(ししょう)」ともいう。
(*5) 千葉一幹『賢治を探せ』(講談社 2003)
                                
(*3)見田宗介『宮沢賢治―存在の祭りのなかへ』(岩波書店1987)。見田は修羅の特性を「諂曲(てんごく):自分の意思を曲げて他人に媚びへつらうこと」に見出している。
(*4)「十界」とは、生命の境涯を十種に分類したもので、仏法の生命観の基本。十界はそれぞれ、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界のこと。このうち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天をまとめて「六道」、声聞・縁覚・菩薩・仏をまとめて「四聖(ししょう)」ともいう。
(*5) 千葉一幹『賢治を探せ』(講談社 2003)
