発表題目:「ハイデッガー道具論および和辻風土論の環境思想への寄与――〈最適動線〉概念の導入」
氏名:太田和彦(おおたかずひこ)
所属:東京農工大学連合農学研究科
職階:博士課程三年
専攻:農林共生社会科学/環境倫理学
氏名:太田和彦(おおたかずひこ)
所属:東京農工大学連合農学研究科
職階:博士課程三年
専攻:農林共生社会科学/環境倫理学
 本論の目的は、ハイデッガーMartin Heideggerが『存在と時間』(一九二七年)で展開した「道具」概念と、それを受け継ぐ和辻哲朗の風土論とを理論的枠組として、〈最適動線〉を見いだす過程を、生活的自然との身体的関わりのなかで分析することにある。〈最適動線〉とは本論の造語であり、変化しつづける状況における最適な動き方の判断および振る舞いをさす。この分析により、日本における環境思想を、日常的な生活感覚として再解釈する。現在、環境思想はローカリズムに準拠するようになったとはいえ、依然として環境保護運動にコミットしている人々にほぼ限定され、受容されている。環境思想は未だ生活実感に即した常識の水準にはない。ハイデッガーの道具論および和辻の風土論に即した〈最適動線〉概念の導入は、環境思想の常識化、および運動の先進部分以外への敷衍へとつながるだろう。
構成は、三部に分かれる。まず、和辻の風土論がハイデッガーから影響を受けている影響の側面を検討する。『風土 人間学的考察』(一九三五年)の冒頭で、和辻は、ハイデッガーが空間性を根源的な存在構造として捉えていないことを批判する。しかし、和辻の風土論は『存在と時間』における空間性の議論、とりわけ「道具(Zeug)」への考察を応用し、独自に拡大したものであるといえる。一九二九年発表の論考「風土」において、「日常生活の最も手近い」道具は、「使用するものとしての我々自身を理解する」ものとして位置づけられているが、これは明らかに、「道具」についてのハイデッガーの考察を引き継ぐものである。
和辻に風土を強調させる理論的背景がハイデッガーの「道具」概念にあることを確認したあと、「諸々の道具の使用」を、他者の身体の仮想的な取り込み、という視座へと展開させる。これは、ハイデッガーが道具的存在への「配慮(Besorgen)」と、世界内部的に出会われるような他者(人間)への「顧慮(Fursorge)」とを区別しつつ、「気遣い(Sorge)」として統一する過程に準じて行われる。これを通じ、〈最適動線〉を、「適所性(Bewandtnis)」を差し向けあう道具の使用に他者を見出す「気遣いの諸様態」(和辻の文脈では、「感受」と「働き出し」の二重構造)として位置づける。そして、生活者が自分自身を含む、風景および歴史を俯瞰する想像的視座を涵養する契機として、伝統的な生業・生活文化を提起する。
最後に、生活的自然との身体的関わりにおいて〈最適動線〉が見いだされる、という視座が環境思想史においてどのような有効性を持ちうるかを概観する。1980年代以降、伝統的な生業・生活文化から、人と自然との親密な関わり方を再び学ぶことの必要性は、主に生活環境主義の立場から主張されてきたが、その必要性の思想史をふまえた分析はなされてこなかった。本論はこれを補完し、精緻化するものである。
(1199字)
                                
構成は、三部に分かれる。まず、和辻の風土論がハイデッガーから影響を受けている影響の側面を検討する。『風土 人間学的考察』(一九三五年)の冒頭で、和辻は、ハイデッガーが空間性を根源的な存在構造として捉えていないことを批判する。しかし、和辻の風土論は『存在と時間』における空間性の議論、とりわけ「道具(Zeug)」への考察を応用し、独自に拡大したものであるといえる。一九二九年発表の論考「風土」において、「日常生活の最も手近い」道具は、「使用するものとしての我々自身を理解する」ものとして位置づけられているが、これは明らかに、「道具」についてのハイデッガーの考察を引き継ぐものである。
和辻に風土を強調させる理論的背景がハイデッガーの「道具」概念にあることを確認したあと、「諸々の道具の使用」を、他者の身体の仮想的な取り込み、という視座へと展開させる。これは、ハイデッガーが道具的存在への「配慮(Besorgen)」と、世界内部的に出会われるような他者(人間)への「顧慮(Fursorge)」とを区別しつつ、「気遣い(Sorge)」として統一する過程に準じて行われる。これを通じ、〈最適動線〉を、「適所性(Bewandtnis)」を差し向けあう道具の使用に他者を見出す「気遣いの諸様態」(和辻の文脈では、「感受」と「働き出し」の二重構造)として位置づける。そして、生活者が自分自身を含む、風景および歴史を俯瞰する想像的視座を涵養する契機として、伝統的な生業・生活文化を提起する。
最後に、生活的自然との身体的関わりにおいて〈最適動線〉が見いだされる、という視座が環境思想史においてどのような有効性を持ちうるかを概観する。1980年代以降、伝統的な生業・生活文化から、人と自然との親密な関わり方を再び学ぶことの必要性は、主に生活環境主義の立場から主張されてきたが、その必要性の思想史をふまえた分析はなされてこなかった。本論はこれを補完し、精緻化するものである。
(1199字)
