加藤忠史@KatoTadafumi
"新型うつ": 青年期特有の未熟な自我、経験の乏しさ等に起因する職場不適応事例が、精神科を受診した結果、「抑うつ状態」との診断書を発行され、一定期間の休養指示及び薬物療法等、うつ病としての対応が取られることにより、周囲が困惑するという社会現象のこと。(私製精神医学辞典より)
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正直、加藤忠史御大には絡みたくない(彼は昔から精神病理学者をDISりまくってきた歴史がある)。しかし、精神医学の側のこういう態度が、誰かが書いていたが「年間自殺者をあと1万人上乗せする」ことになりかねないことを危惧する。
"新型うつ": 青年期特有の未熟な自我、経験の乏しさ等に起因する職場不適応事例が、精神科を受診した結果、「抑うつ状態」との診断書を発行され、一定期間の休養指示及び薬物療法等、うつ病としての対応が取られることにより、周囲が困惑するという社会現象のこと。(私製精神医学辞典より)
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正直、加藤忠史御大には絡みたくない(彼は昔から精神病理学者をDISりまくってきた歴史がある)。しかし、精神医学の側のこういう態度が、誰かが書いていたが「年間自殺者をあと1万人上乗せする」ことになりかねないことを危惧する。
以前ほつま先生が書いてらっしゃったけれども、メランコリー型うつは真面目な仕事人間がなるという言説は、会社にとって有意義な人間をいかに保護するかという論理に寄与していたのかもしれない。現代の新型うつをめぐる議論は、会社にとって不要な人をいかに排除するかという思惑をあからさまに示す。
新型うつ病が旧来の意味のうつ病ではない。そこまでは認めよう。しかし、職場の不適応という言葉でいいのだろうか、本当にそんな劣悪な環境に適応すべきなのか。適応できないことが障害なのか。そして、新型うつ病が仮に不適応であったとして、彼らを一時的に休職させて何がいけないのか。
某氏には、シモーヌ・ヴェイユみたいに一回、工場体験してきたらどうか、と言いたい。本当の問題は、労働基準法を守っているような職場がまるでなく、しかも守っているようでは経営自体がなりたたないというシステムにあるのだ。そのシステム全体の歪みが、いまや個人に押しつけられている。
「新型うつは他責的である」つまり「他人のせいにする」、という言説それ自体が、すべては「個人の責任であるのにもかかわらず…」というネオリベ的前提を孕んでいる。
↓RTした我らが上司は、全共闘世代だし、労働問題にも注目してるんですよ。
加藤敏先生 "1980年代以降、英米圏でも労働時間が長くなり、仕事の厳密性、迅速性が求められる中で、このBeard型うつ病が増えてきている" "グローバル化した企業競争の下で、日本と英米圏で似たようなうつ病像を呈しているのではないか" http://paxil.jp/documents/da/mf/mf002.php
我らが上司の概念で「職場結合型うつ病」というのがあるけれども、これは現代のうつ病が職場の劣悪な労働環境と個人の相互作用によって生じていることを指摘している。それをあたかも個人の甘えの問題、個人病理に還元するのはいかがなものか。そこから何がかわるというのか。
本人に迷惑がかかるといけないので後で消すが、我らが上司は通勤環境のことも言っていた。都会のあの異常な満員電車で毎日通勤することは、それだけで疲弊する、神経衰弱になっておかしくない、と。変えるべきは労働環境と通勤環境である。我々が診断書を書いて休職させることも必要なときは必ずある。
今日のバス事故の件にしても、運転手はむしろ被害者でしょう。私は、一度でも自分がウィラーのバスを使い、彼らの労働環境の悪化に加担したことを真剣に恥じた。
昔、メランコリー親和型うつ病というものが盛んに言われていた。仕事に真面目すぎる人がうつ病になるという。現代の「職場結合型うつ病」では、本人が真面目であることのかわりに、職場自体が徹底的な能率主義をとっている。その点で、職場と個人の関係としてはメランコリー型と同型になる(加藤)。
この話をうけて。メランコリー親和型うつ病に電気痙攣療法が著効するのだから、現代の職場結合型うつ病の場合は、職場に電気ショックかければいいんですよ。単純な話。
こういうのを「精神医学の権力」と言わずして、何をその名で呼ぶのか。マルクシストもフーコー研究者も、いまこそ出番である。
加藤敏先生 "こうしたタイプのうつ病は、産業革命下の米国で内科医Beardが提唱した神経衰弱(神経疲弊)の延長線上にあるとみることができます。職場結合性うつ病は、いわば「Beard型うつ病」といえるでしょう。" B! http://paxil.jp/documents/da/mf/mf002.php