亀山研・ゼミ合宿 個人発表
2011/9/11 小松美由紀
現代日本の「わたし」と「みんな」
2011/9/11 小松美由紀
現代日本の「わたし」と「みんな」
1. 軸となる問題意識
○ 現代日本の心(人)に関する問題について考え、解決への手掛かりをつかみたい
メイン:近年増加している「新型うつ」(時には解離性障害など、他の精神疾患も含める)
その他念頭にある事象:自殺、引きこもり、空気を読む、自分探し、クレーマー etc
⇒ ① 本人(or周囲の人間)が楽しくない、苦しい
② 能動的な人間、戦力の減少(=他者の負担増)→ 社会が回らなくなる
○ 現代日本の心(人)に関する問題について考え、解決への手掛かりをつかみたい
メイン:近年増加している「新型うつ」(時には解離性障害など、他の精神疾患も含める)
その他念頭にある事象:自殺、引きこもり、空気を読む、自分探し、クレーマー etc
⇒ ① 本人(or周囲の人間)が楽しくない、苦しい
② 能動的な人間、戦力の減少(=他者の負担増)→ 社会が回らなくなる
○ 原因はどこにあるのか?
一方では「本人の甘え、自分勝手」、他方では「周囲・社会の理解が不十分」
(精神医学では:ストレス、生活環境、遺伝などが原因で発症。薬で改善することも多いが…?)
→ 単純に「脳の問題だ」「ワガママだ」「理解不足だ」などとは言えないだろう。
しかし、本人にも周囲の人間にも何か問題があるように思える。一体どうなっているのか?
→ 「わたし」「みんな」というキーワード
一方では「本人の甘え、自分勝手」、他方では「周囲・社会の理解が不十分」
(精神医学では:ストレス、生活環境、遺伝などが原因で発症。薬で改善することも多いが…?)
→ 単純に「脳の問題だ」「ワガママだ」「理解不足だ」などとは言えないだろう。
しかし、本人にも周囲の人間にも何か問題があるように思える。一体どうなっているのか?
→ 「わたし」「みんな」というキーワード
2. 「わたし」を考える
精神疾患・心の病という呼称。更にその原因とされる精神的なストレス。「新型うつ」等の原因を探る上では、精神・心について考えてみる必要がありそうだ。
心や精神は日常用語だが、その正体は定かでない(幻想? 心=脳? 心身二元論? 死後も不滅?)。それでも私を含めた多くの人間が、精神のようなものが「ある」と感じている。
→ 1人の人間(「私」)の中にある、精神(あるいは自我、意識)のようなものを、
ここでは「わたし」と呼ぶことにする。(実体か否かは問わない)
精神疾患・心の病という呼称。更にその原因とされる精神的なストレス。「新型うつ」等の原因を探る上では、精神・心について考えてみる必要がありそうだ。
心や精神は日常用語だが、その正体は定かでない(幻想? 心=脳? 心身二元論? 死後も不滅?)。それでも私を含めた多くの人間が、精神のようなものが「ある」と感じている。
→ 1人の人間(「私」)の中にある、精神(あるいは自我、意識)のようなものを、
ここでは「わたし」と呼ぶことにする。(実体か否かは問わない)
1) 「わたし」の性質
「わたし」を考える上で、高田明典の『「私」のための現代思想』という本が勉強になった。
この本を参考に、暫定的ではあるが「わたし」のイメージを図にしてみた(図1, 2)。
「わたし」を考える上で、高田明典の『「私」のための現代思想』という本が勉強になった。
この本を参考に、暫定的ではあるが「わたし」のイメージを図にしてみた(図1, 2)。
○ 図1.2の説明
- 「わたし」の輪郭がぼやけている ←「わたし」と身体は何らかの形でつながっている
- 「わたし」が身体の内側にある
←「わたし」は身体を通さないと「私」以外の人間・物と交流できない(声、感覚など)
- 「わたし」は雲状・アメーバ状で濃度・形が変わる
← うつ病、解離性障害、演技、無我?などにおける「わたし」の状態を表現
← 粒子・内容物 ≒ 言語化された「わたし」の一部(「私」の思考・性格など)
「 今、私の脳裏に発生している思考は、言語によって表現されています。言語以外の方法で表現された私の思考を、私は認識することができません。(中略)今「眠いかもしれない」と感じましたが、それも「眠いかもしれない」と脳裏で言葉になった瞬間に「感じた」ことであり、それ以前には「思ってもみなかった」ことだと言えます。 」(高田,2006)
← 粒子・内容物 ≒ 言語化された「わたし」の一部(「私」の思考・性格など)
「 今、私の脳裏に発生している思考は、言語によって表現されています。言語以外の方法で表現された私の思考を、私は認識することができません。(中略)今「眠いかもしれない」と感じましたが、それも「眠いかもしれない」と脳裏で言葉になった瞬間に「感じた」ことであり、それ以前には「思ってもみなかった」ことだと言えます。 」(高田,2006)
自分はどんな人間かと考えた時、「私はカレーが好きだ」「私は気まぐれな性格だ」という風に、言葉で表すことはできる。しかし、これらは自分の一部・一面ではあるが自分の全てではない。
⇒ 「わたし」は言語という形でしか知りえず、「わたし」全体(or「わたし」そのもの)を知ることはできない。
→ (認識できる)「わたし」≒ 言葉の束
→ (認識できる)「わたし」≒ 言葉の束
高田はウィトゲンシュタインの「超越確実性言明」(「 「無根拠」にあなたが信じ、主張することしかできない言明 」のこと)という概念を用いて、「 「超越確実言明」とは、私たちが「個別の正しさ」を追及するときの「論理の基盤」となるものです。(中略)また、「超越確実性言明」の束は、〈私〉を構成する主たる要素です。 」と述べている。
この「超越確実性言明」は「私はカレーが好きだ」「私は今この文を読んでいる」など様々だ。中には捨てられないもの、つまり信念(あるいは妄想)があるという。捨てられない、強い「超越確実性言明」があれば、それが「わたし」の基盤となる。(図では黒い点)
この「超越確実性言明」は「私はカレーが好きだ」「私は今この文を読んでいる」など様々だ。中には捨てられないもの、つまり信念(あるいは妄想)があるという。捨てられない、強い「超越確実性言明」があれば、それが「わたし」の基盤となる。(図では黒い点)
2) 「わたし」を支える他者
当然のことながら、人間は「私」1人だけではない。そこで次に、「私」と他者との関係について引き続き『「私」のための現代思想』をもとに考えていきたい。高田は「 《私》の存在は、〈他者〉の存在によって支えられて 」いると述べ、その仕組みを説明している。それを「私A」と、別の人間である「私B」に置き換えてみた。(図3)
当然のことながら、人間は「私」1人だけではない。そこで次に、「私」と他者との関係について引き続き『「私」のための現代思想』をもとに考えていきたい。高田は「 《私》の存在は、〈他者〉の存在によって支えられて 」いると述べ、その仕組みを説明している。それを「私A」と、別の人間である「私B」に置き換えてみた。(図3)
○ 図3の説明
場面設定・状況:「私B」が「私A」から発せられた情報を受け取った
(Bへの発言だけでなく、その他の声、動作、姿なども含む)
「わたしB」では:「私A」(or「わたしA」)の存在を認める「超越確実性言明」が発生。
=「私B」は「私A」の存在を引き受けた
「わたしA」では:「私B」から何も受け取っていない=「私B」の存在を引き受けていない
※「私A」が意図的に「私B」へと情報を発した(「呼びかけた」)
=「わたしA」の中には「私B」の存在を認める「超越確実性言明」が既にある
→ 「呼びかける」前に、「私B」から何かを受け取っていた
(Bへの発言だけでなく、その他の声、動作、姿なども含む)
「わたしB」では:「私A」(or「わたしA」)の存在を認める「超越確実性言明」が発生。
=「私B」は「私A」の存在を引き受けた
「わたしA」では:「私B」から何も受け取っていない=「私B」の存在を引き受けていない
※「私A」が意図的に「私B」へと情報を発した(「呼びかけた」)
=「わたしA」の中には「私B」の存在を認める「超越確実性言明」が既にある
→ 「呼びかける」前に、「私B」から何かを受け取っていた
「 〈他者〉によって「厚く引き受けられている」とき、「《私》の存在」はより強度を増し、その結果、「超越確実性言明」もその力を増します。 」(高田,2006)
→ 「超越確実性言明」を信じる力が増し、「わたし」が強化される(濃くなる)
「引き受け」は他者への「呼びかけ」や、他者からの「呼びかけ」に対する「応答」に
よって厚くすることができるという。しかし、この「呼びかけ」や「応答」が実際の「わたし」(≒ 「わたし」全体、図1の「わたし」)に基づいていない時、「わたし」、あるいは自分らしい「私」は「厚く引き受けられ」ないだろう。
→ 「超越確実性言明」を信じる力が増し、「わたし」が強化される(濃くなる)
「引き受け」は他者への「呼びかけ」や、他者からの「呼びかけ」に対する「応答」に
よって厚くすることができるという。しかし、この「呼びかけ」や「応答」が実際の「わたし」(≒ 「わたし」全体、図1の「わたし」)に基づいていない時、「わたし」、あるいは自分らしい「私」は「厚く引き受けられ」ないだろう。
3) 「わたし」を抑圧する他者
他者は「わたし」を支える存在だが、同時に抑圧する存在でもある。高田はこの抑圧について、ハイデガーの「世界劇場」やゴフマンの「共在」という概念をもとに論じている。
○ 概要
他者は「わたし」を支える存在だが、同時に抑圧する存在でもある。高田はこの抑圧について、ハイデガーの「世界劇場」やゴフマンの「共在」という概念をもとに論じている。
○ 概要
- 「私」たちは「世界劇場」(あるいは「共在の場」)に投げ出され、(本来の)「わたし」とは
異なる「役割」を演じている
- 「世界劇場」・「共在の場」は小舞台(1対1?)から人生という大舞台まで様々
- 役割は固定的に割り振られる訳ではない。その場の人間同士の関係によって発生し、
次第に固定化していく。固定化した状態?を「相互関係秩序」と呼ぶ
- 「相互関係秩序」の中で「与えられた」役割が自分の求めていたものと違った時、
「私」は束縛を感じ、役割を上手く演じられない
→「役割」と「わたし」全体のギャップが一定以上である時、「私」は抑圧を感じる
→「役割」と「わたし」全体のギャップが一定以上である時、「私」は抑圧を感じる
抑圧をもたらす役割、他者との関係にある時どうすれば良いか
- ハイデガーによると「役割を演じている役者である自己を自覚すること」
- 「〈他者〉に呼びかけること、〈他者〉の呼びかけに応答すること」を通して
自分の居場所をつくる(別の関係を構築しようとする)。
→ そうしないと「厚く引き受けられない」ことになり、「わたし」は弱体化する
→ そうしないと「厚く引き受けられない」ことになり、「わたし」は弱体化する
3. 「みんな」を考える
「みんな」:日本人の多くが「ある」と感じてきた、ある集団に属する人々の
精神を統合したかのような存在。神と似ている?
「みんな」:日本人の多くが「ある」と感じてきた、ある集団に属する人々の
精神を統合したかのような存在。神と似ている?
1) 「みんな」の性質
同質性、特に共通のモラル感覚を持つことを強いるようだ。
以下、前回のレジュメより引用
佐藤によると、日本に伝統的に存在する「世間」は以下の4つのオキテから成るという。
①「贈与・互酬の関係」:もらったものに対する「お返し」の必要性を意味する。お中元やお歳暮といった典型的なもののほか、メールに即座に返信するという現象もこれに含まれる。
②「身分制」:序列意識のこと。先輩・後輩や長男・次男といった、欧米では意識されない「身分」が存在し、相手の「身分」によって人称を使い分けたり敬語を用いたりする必要がある。「世間」における「身分」がその人の存在の根拠になる。
③「共通の時間意識」:皆が一緒の時間を生きているという意識。「あの時はありがとうございました」「お世話になっています」「今後ともよろしく」という言葉は、それぞれ過去・現在・未来において同じ時間(世間)に生きている(いた)ことの確認である。この「共通の時間意識」が独特の「人間平等主義」を生み、それが同調圧力や妬みにつながる。
④「呪術性」:俗信・迷信のたぐいが多いことを意味する。日本人が「宗教的色彩」が濃い行事を行う一方で自分を「無宗教」だと思うのは、「世間」が「自然宗教」からでき上がっているからだ。
同質性、特に共通のモラル感覚を持つことを強いるようだ。
以下、前回のレジュメより引用
佐藤によると、日本に伝統的に存在する「世間」は以下の4つのオキテから成るという。
①「贈与・互酬の関係」:もらったものに対する「お返し」の必要性を意味する。お中元やお歳暮といった典型的なもののほか、メールに即座に返信するという現象もこれに含まれる。
②「身分制」:序列意識のこと。先輩・後輩や長男・次男といった、欧米では意識されない「身分」が存在し、相手の「身分」によって人称を使い分けたり敬語を用いたりする必要がある。「世間」における「身分」がその人の存在の根拠になる。
③「共通の時間意識」:皆が一緒の時間を生きているという意識。「あの時はありがとうございました」「お世話になっています」「今後ともよろしく」という言葉は、それぞれ過去・現在・未来において同じ時間(世間)に生きている(いた)ことの確認である。この「共通の時間意識」が独特の「人間平等主義」を生み、それが同調圧力や妬みにつながる。
④「呪術性」:俗信・迷信のたぐいが多いことを意味する。日本人が「宗教的色彩」が濃い行事を行う一方で自分を「無宗教」だと思うのは、「世間」が「自然宗教」からでき上がっているからだ。
2) 「みんな」と「わたし」たち
- 「みんな」は「わたし」たちに共有されていた。
(共同体内の目上から目下へと継承、統一性が確保)
→ 「わたし」の基盤となっていた
→ 「わたし」の基盤となっていた
3) 「みんな」の混乱
- 個人を前提とする「自由と民主主義」は「みんな」を否定する
→ 共通のモラル感覚の消失。大きい「みんな」の解体
- しかし、「みんな」を否定されても急には変われない
→ 何でもモラルの問題にする、小さい「みんな」を大きい「みんな」だと思い込む
4. 問題の所在と解決への道
- 「みんな」という基盤を失い、「わたし」が弱体化した
- 「みんな」が消失し、(〈他者〉の了解不可能性を認識した)コミュニケーションの
必要性が生まれたが、それが不足している
→ 具体的には?
→ 具体的には?
5. 「参考」文献
高田明典『「私」のための現代思想』光文社新書,2006
岡本薫「世間さまが許さない!」ちくま新書,2009
高田明典『「私」のための現代思想』光文社新書,2006
岡本薫「世間さまが許さない!」ちくま新書,2009
(前回レジュメより)
佐藤直樹『暴走する「世間」で生きのびるためのお作法』 講談社+α新書,2009
佐藤直樹『暴走する「世間」で生きのびるためのお作法』 講談社+α新書,2009
