2012.2.6
那日格拉
那日格拉
中国の伝統的自然観「天人合一」について
張岱年先生は、【中国哲学大綱】のなかで、「中国哲学の天人関係論のなかのいわゆる天人合一には、二つの意味があり、一つは【天人相通】もう一つは【天人相類】である」と指摘されている。この二つの意味のうち、「天人相通」を主張するのは歴代儒家の主流であり、「天人相類」を主張するのはおもに漢代の董仲舒の思想である。
「天人相通」という考え方は、孟子に端を発し、宋代理学において大成した。孟子は「天と人間の本性は一貫しており、人間の本性が天から授けられたものであるから、心を尽くせば本性を知ることができる、それゆえ心を尽くし、本性を知れば天を知ることができる」といっている。宋代の理学者は伝統を受け続いて、やはり「天人合一」について多く主張している。天の本性はすなわち人間の本性であり、天道と人の性は実際は一つに相通じていると主張している。
人間はどのようにすれば「天人合一」を実現することができるのであろうか。儒家の見るところでは、天は人間に合わせることはできず、人間が天に合わせるべきなのである。天が本体であり、人間は天に順応してこそ、はじめて天との合一を最終的に実現することができるということである。
儒家の見るところでは、人間はただ受動的に天に順応するだけではならず、人間の調整および主導的な主体的役割も発揮すべきなのである。
儒家の見るところでは、人間はただ受動的に天に順応するだけではならず、人間の調整および主導的な主体的役割も発揮すべきなのである。
儒家者のなかにも「天人相分」を主張する荀子などもいるが、その数はきわめてすくない。儒家者は多大数が「天人合一」を主張しており、「天人合一」觀は儒家の根本思想の一つであるといえよう。(儒学の生態環境思想とその現代的意義 王家驊)
荀子は「天を客観的存在として自然界に復元して、同時に人間には自然に勝つ能力と、自然を改造する力がある」といっている。
「天人合一」の思想は、その後の科学技術,文伝創作、経済活動といった社会生活のさまざまな方面にわたって徹底的に浸透していた。たとえば、陸機は創作に関しては「天地の形内に籠もり、挫して万物筆端にあり」と述べている。荀子はこういった思想を、じかに社会や経済領域にまで導入して,富国強兵措置とした。業生産の必要に応じて、自然環境を改造すべきである。また、同時に、資源が尽きないように大切に使うことも説いている。たとえば,草木が生長するとき「斧斤山林に入らず」といい、そうすれば「山林童ぜずして、百姓余材有り」といっている。 (東西文化における自然と人間の関係 黄心川 )
「天人合一」の思想は、その後の科学技術,文伝創作、経済活動といった社会生活のさまざまな方面にわたって徹底的に浸透していた。たとえば、陸機は創作に関しては「天地の形内に籠もり、挫して万物筆端にあり」と述べている。荀子はこういった思想を、じかに社会や経済領域にまで導入して,富国強兵措置とした。業生産の必要に応じて、自然環境を改造すべきである。また、同時に、資源が尽きないように大切に使うことも説いている。たとえば,草木が生長するとき「斧斤山林に入らず」といい、そうすれば「山林童ぜずして、百姓余材有り」といっている。 (東西文化における自然と人間の関係 黄心川 )
人間は必ず天に勝つという荀子の思想は、それを継承する者がなかったわけではないが、儒学独尊の封建社会では十分に発展しなかった。しかし、近代西洋の学問が東漸してから,とりわけ新文化運動の伝統思想に対する激しい攻撃のもとで伝統思想の地位に変化が起きた。中国人民共和国の成立後、とりわけ一九五八年の大躍進の時期には、「人は必ず天を勝つ]という思想が極致までに達した。
長い封建社会で主導的な位置を占めてきた儒学がいう「天人合一」は複雑で、完全に自然と人間の関係というわけいではない。天は儒学によって天道、天理などの意味を賦与されている。儒学は積極的に実社会に入るという態度で、天と人の相通じるところを探索している。儒学の「天人合一」は、一種の道徳的な内心の超越を追求し、それによって天理、天道、人間性の統一を実現しようとするものである。 (荘子の「天、人」説と自然と人間の関係 陳紹燕 )
技術の社会である今の現代では、儒学の「天人合一」思想が適当であるか、直面している環境破壊を解決できるのか。
王家驊は「儒学の生態環境思想が結局は伝農業社会の産物であり、そのころの生産力は現代と比べて、非常に低いものであり、人びとは自然のまえで無力の存在であったことを見ておくべきである。そのころ人びとが直面していた生態環境の危機はまだ人類の生存を脅かすほどに深刻ではなかった。それゆえ、そのころの「天人合一」観、自然と人間の関係に対する認識は、おもに自然に順応し、自然との調和共生に到達することを張調しており、消極的で受動的な一面を表していることを免れていない」といっている。
だから、この思想がこのころの生産力低い社会に適当であるが、現代時代に適当ではないということではないか。
また、 黄心川は「儒教の「天人合一」思想は、農業経済における自然資源保護の要求を反映したものであり、小規模生産を基礎とする農業経済における大自然に対する人間の無力感を反映したものでもある。また、この思想は自然を制御、利用するうえでの目票や方向性を明らかにしたが、いかにその目票に達するかという手段について述べていない。したがって中国の歴史においても、自然と人間の調和とは、実現できない空想であり、生態の破壊に対する歯止めとはならなかったのである」といっている。
だから、環境破壊の解決にもできないということではないだろう。
だから、この思想がこのころの生産力低い社会に適当であるが、現代時代に適当ではないということではないか。
また、 黄心川は「儒教の「天人合一」思想は、農業経済における自然資源保護の要求を反映したものであり、小規模生産を基礎とする農業経済における大自然に対する人間の無力感を反映したものでもある。また、この思想は自然を制御、利用するうえでの目票や方向性を明らかにしたが、いかにその目票に達するかという手段について述べていない。したがって中国の歴史においても、自然と人間の調和とは、実現できない空想であり、生態の破壊に対する歯止めとはならなかったのである」といっている。
だから、環境破壊の解決にもできないということではないだろう。
参考文献 「東西的環境思想の現代的意義」