亀山研ゼミ 個人発表
2011/05/16 駒津弘和
郊外論をうけて(「地域」に「根差す」こととつなげて)
1 問題意識の確認
「地域」に「根差す」ことを考えたとき、その根底には当たり前であるが、現在の社会は本当に「根差し」ているのかという思いがあった。(「根差す」ことがどういうことであるかとは別に)ただ、人はどのような形であれ根差すことなしには生きてはいけない。どこかに自分の芯となる何かであったり、周りの環境に対して自分の「居場所」というものが必要である。
近代生み出された科学技術によって、人々は従来では不可能であったことを多く可能にしてきた。その科学技術は現代においてもなくてはならないものである。しかしそれは同時に本来ならば自分の「居場所」を規定していたはずのある程度の力も無力化してしまったように思える。ちょうどそれは自由を手に入れたはずが、結局自由をもてあましてしまい、何をしたらよいか・どうするべきか、といったような困惑に陥ってしまうような状態に似ている。自由によって抑圧されかねない中で、どのように「居場所」を見つければよいのか。それが、「地域」に「根差す」ことを思いつくに至った経緯であると思う。
2 何故郊外なのか
今回春休みあたりから取り組んでいる、郊外論を題材に発表する。ここで述べる郊外は、大都市圏や地方都市圏を問わず都市部と農村地帯の間に広がる、いわゆるニュータウンとして一戸建ての家々が建ち並ぶ現代風(もしくはポストモダン?)街並みや、少し前ならば高度経済成長時に多く建てられた集合住宅(=団地)を想定する。
郊外に対する私の印象は、それまで存在していた町の形を新しく変え、更にそこに住む人たちも多く変わるというものである。つまり、簡単に言うと地域全体として根付いていない場所である。そのためこのような所はそもそも根を張った場所であるのか、根を張ることはできるのか、どのように張っていくのか、と多くの疑問が浮かんだ。そのことから、これらの疑問を解消していくことに、ヒントがあるのではと考えた。一方でしかし終わりがあれば始まりがあるように、何らかの状態で根を下ろしていけるともある種確信していた。
3 郊外の現状の見方
三浦(2004)は郊外化していくことを「地域固有の歴史、伝統、価値観、生活様式を持ったコミュニティが崩壊し、代わって、ちょうどファストフードのように全国一律の均質な生活環境が拡大した」(p4)とし、それを「ファスト風土」化とした。またこのような郊外の特徴は、①故郷喪失(生まれ育ちの異なる人々が移り住む)、②共同性の欠如(地域としての共同性の育みにくさ)、③均質性(住民は年齢・所得・家族構成などで類似)、でありそれにより地域固有の文化の喪失、犯罪の増加、若者の意欲の低下などの問題が生じているとしている。このような問題点の指摘は私のもつ印象とほぼ一致している。
若林(2007)も郊外は「もともとあった近郊社会の地域生活とも、自分たちのいなかや故郷とも切り離された人びとが、ライフスタイルと生活と文化を、市場で購入した商品によって作り上げてゆく」(p175)ところとしている。またそうした中にも「現在に向けて積み重ねられ、生きられた厚み」があるとしており、それを紐解いた内容になっている。以下主に若林を参考に考えた。
4 「根差す」3要素(仮に“内部要因”“外部要因”“その外側”)
●外部要因←その「地域」に固有の歴史性や風土
「根差す」先の場所には、その場所で固有に育まれた環境がある。それを外部要因としている。ここでは自然や風土ということも考えながらも、若林が述べる「一見均質に見える郊外という場所は、空間的にも時間的にも孕んでいる非均質性、その多面性と重層性をもっている」(p96)ということも含めている。
郊外は郊外なりの自然・風土との関わり合いがあるし、それぞれの郊外の歴史としての積み重ねがある。それが地層のように歴史を積み重ねる。これは人々が移り変わっていくとしてもこの歴史性は残る。このような積み重ねを外部要因と考えたが、今はまだ明確にはいえない。
●内部要因←新しいものを創造していくこと(他者との交わり)
郊外では、戦後からの半世紀に過ぎない“薄っぺらな”歴史も「固有の条件として不可避的に織り込まれながら、その土地とそこに生きる人の生の連なりの積み重ねによってそこに固有の歴史的な厚みのようなものもまた生み出されるはず」(若林、p36)とある。この厚みのようなものの創出は、他者とのかかわりの折り重なりから始まるものである。そしてそれが、共同体としての意識やコミュニティの形成に寄与していくのである。しかし一方で郊外は、いわばたまたまそこに住むことを選んだだけの人々の集まりであり、「帰属した共同性も、共通の記憶や思いもなかなか形成しづらい」(若林、p218)。
よって現代における「根差し」というのは、移ろいやすいものであるのではないかといえる。それは、農山村をはじめとした過疎化や単身世帯の増加という現象を通してもわかる。こういった中でどのように他者とのかかわりを築いていけるのか。そんな社会を生きなければいけない状態になっていることは確かである。
イメージとしての祭り。私の近所の夏祭りは、小学校低学年の頃は規模が小さいながらも非常に盛り上がっていたように思う。少なくともそう感じた。しかし、年々衰退していってしまった。その祭り自体25年くらい続いているらしい。つまりここで言いたいのは、その中で祭りの隆盛と衰退があったわけである。しかし祭り自体は私の記憶の中には深く根付いているように思う。
●その外側←社会的な背景
先に示した2つの要因が働くにあたって、社会的な背景は無視できない。例えば、郊外化については、戦後民家の8,9割ほどが借家であり、高度経済成長時には家を持つこともしくは郊外の団地に住むこと(団地族)が一つのステータスとされていた。また安定成長後もニュータウンなど広くきれいに整備された住まいに人々は憧れた。そういった影響を人々に与えられる風潮の働きは大きい。ここでは、そのような生活を消費できることに価値を見出しているような価値観の転換が見て取れるように思う。
これまで挙げた3つの要素が深くかかわっていることが現段階で分かったことであるが、これら3つがどのように連関し合っているかということについては理解から程遠い。今の文献を読みなおしていくことで掘り返していきたい。
5 「根差す」を受けて「地域」とは
私は始め、地域があっての何かという捕らえ方をしていた。「根差す」といった場合、地域のどこに根差すのか、地域には何があるのかといったように。しかしこれは、全くの逆であると今は考える。人々がいるからこそ「地域」が出来るのではないか。つまり「地域」は地域ではない。
地域とはあくまで一般的には、土地の一区切りからなる場所と言える。しかし「根差す」ための地域とは人々からなるため、そこには多種多様な「地域」のあり方があるのではないか。人々は関わりあいを通して「コミュニティ」を作り、そこに自分たちの存在(=居場所?)を確認しあう。そしてそれが「地域」を形成していく。よって、そのような人々の動きや交わりによって「地域」が規定されていくということができ、またそこには前述した外部要因としての地域の固有性やその外側としての社会や経済といった影響も鑑みなければならない。
6 まとめ
現時点での私の考える射程は、人々が移り変わっていく中でどのように根差せるのかということである。「根差す」ためには他者との交わりが必要であり、つまりそれは「コミュニティ」のあり方であろう。(地元学においてもここを課題としていた。)その意味づけをこれからの課題としたい。
しかし、ここで宮台真司の指摘によって混乱してしまった。彼によると「ニュータウンの計画やまちづくりをめぐる議論や政策がたいていは地域と結びついたコミュニティの形成を志向してきたことを批判して、そうした思考には『人々は一般にローカリティを求めるはず』という単純な想定があるが、それは『大きな勘違い』であり、実際には多くの人はコンビニやファミレスなどの『匂いのない場所』を背景に『名前を欠いた存在』になりたいのだ」。(若林、p198)
私が冒頭に「居場所」が必要と述べたように、必要と感じていることの前提が崩れてしまった。このようなことは改めて言われてみると、同感できることもある気がする。ここから考え直さなければならない。
7 感想
これまで受けてきた地シスの授業を復習しているようだった。6であげた宮台の述べたことは没個性や個人の主体性というような個人の問題へ還元されていくというように感じた。
これをまとめる中で、今までになくいろんな考えが頭をよぎったけれど全く整理されていないので、たくさん質問頂けると幸いです。
主な参考文献
若林幹夫「郊外の社会学―現代を生きる形」ちくま新書2007
三浦展「ファスト風土化する日本 郊外化とその病理」洋泉社新書2004
三浦展「脱ファスト風土宣言」洋泉社新書2006
2011/05/16 駒津弘和
郊外論をうけて(「地域」に「根差す」こととつなげて)
1 問題意識の確認
「地域」に「根差す」ことを考えたとき、その根底には当たり前であるが、現在の社会は本当に「根差し」ているのかという思いがあった。(「根差す」ことがどういうことであるかとは別に)ただ、人はどのような形であれ根差すことなしには生きてはいけない。どこかに自分の芯となる何かであったり、周りの環境に対して自分の「居場所」というものが必要である。
近代生み出された科学技術によって、人々は従来では不可能であったことを多く可能にしてきた。その科学技術は現代においてもなくてはならないものである。しかしそれは同時に本来ならば自分の「居場所」を規定していたはずのある程度の力も無力化してしまったように思える。ちょうどそれは自由を手に入れたはずが、結局自由をもてあましてしまい、何をしたらよいか・どうするべきか、といったような困惑に陥ってしまうような状態に似ている。自由によって抑圧されかねない中で、どのように「居場所」を見つければよいのか。それが、「地域」に「根差す」ことを思いつくに至った経緯であると思う。
2 何故郊外なのか
今回春休みあたりから取り組んでいる、郊外論を題材に発表する。ここで述べる郊外は、大都市圏や地方都市圏を問わず都市部と農村地帯の間に広がる、いわゆるニュータウンとして一戸建ての家々が建ち並ぶ現代風(もしくはポストモダン?)街並みや、少し前ならば高度経済成長時に多く建てられた集合住宅(=団地)を想定する。
郊外に対する私の印象は、それまで存在していた町の形を新しく変え、更にそこに住む人たちも多く変わるというものである。つまり、簡単に言うと地域全体として根付いていない場所である。そのためこのような所はそもそも根を張った場所であるのか、根を張ることはできるのか、どのように張っていくのか、と多くの疑問が浮かんだ。そのことから、これらの疑問を解消していくことに、ヒントがあるのではと考えた。一方でしかし終わりがあれば始まりがあるように、何らかの状態で根を下ろしていけるともある種確信していた。
3 郊外の現状の見方
三浦(2004)は郊外化していくことを「地域固有の歴史、伝統、価値観、生活様式を持ったコミュニティが崩壊し、代わって、ちょうどファストフードのように全国一律の均質な生活環境が拡大した」(p4)とし、それを「ファスト風土」化とした。またこのような郊外の特徴は、①故郷喪失(生まれ育ちの異なる人々が移り住む)、②共同性の欠如(地域としての共同性の育みにくさ)、③均質性(住民は年齢・所得・家族構成などで類似)、でありそれにより地域固有の文化の喪失、犯罪の増加、若者の意欲の低下などの問題が生じているとしている。このような問題点の指摘は私のもつ印象とほぼ一致している。
若林(2007)も郊外は「もともとあった近郊社会の地域生活とも、自分たちのいなかや故郷とも切り離された人びとが、ライフスタイルと生活と文化を、市場で購入した商品によって作り上げてゆく」(p175)ところとしている。またそうした中にも「現在に向けて積み重ねられ、生きられた厚み」があるとしており、それを紐解いた内容になっている。以下主に若林を参考に考えた。
4 「根差す」3要素(仮に“内部要因”“外部要因”“その外側”)
●外部要因←その「地域」に固有の歴史性や風土
「根差す」先の場所には、その場所で固有に育まれた環境がある。それを外部要因としている。ここでは自然や風土ということも考えながらも、若林が述べる「一見均質に見える郊外という場所は、空間的にも時間的にも孕んでいる非均質性、その多面性と重層性をもっている」(p96)ということも含めている。
郊外は郊外なりの自然・風土との関わり合いがあるし、それぞれの郊外の歴史としての積み重ねがある。それが地層のように歴史を積み重ねる。これは人々が移り変わっていくとしてもこの歴史性は残る。このような積み重ねを外部要因と考えたが、今はまだ明確にはいえない。
●内部要因←新しいものを創造していくこと(他者との交わり)
郊外では、戦後からの半世紀に過ぎない“薄っぺらな”歴史も「固有の条件として不可避的に織り込まれながら、その土地とそこに生きる人の生の連なりの積み重ねによってそこに固有の歴史的な厚みのようなものもまた生み出されるはず」(若林、p36)とある。この厚みのようなものの創出は、他者とのかかわりの折り重なりから始まるものである。そしてそれが、共同体としての意識やコミュニティの形成に寄与していくのである。しかし一方で郊外は、いわばたまたまそこに住むことを選んだだけの人々の集まりであり、「帰属した共同性も、共通の記憶や思いもなかなか形成しづらい」(若林、p218)。
よって現代における「根差し」というのは、移ろいやすいものであるのではないかといえる。それは、農山村をはじめとした過疎化や単身世帯の増加という現象を通してもわかる。こういった中でどのように他者とのかかわりを築いていけるのか。そんな社会を生きなければいけない状態になっていることは確かである。
イメージとしての祭り。私の近所の夏祭りは、小学校低学年の頃は規模が小さいながらも非常に盛り上がっていたように思う。少なくともそう感じた。しかし、年々衰退していってしまった。その祭り自体25年くらい続いているらしい。つまりここで言いたいのは、その中で祭りの隆盛と衰退があったわけである。しかし祭り自体は私の記憶の中には深く根付いているように思う。
●その外側←社会的な背景
先に示した2つの要因が働くにあたって、社会的な背景は無視できない。例えば、郊外化については、戦後民家の8,9割ほどが借家であり、高度経済成長時には家を持つこともしくは郊外の団地に住むこと(団地族)が一つのステータスとされていた。また安定成長後もニュータウンなど広くきれいに整備された住まいに人々は憧れた。そういった影響を人々に与えられる風潮の働きは大きい。ここでは、そのような生活を消費できることに価値を見出しているような価値観の転換が見て取れるように思う。
これまで挙げた3つの要素が深くかかわっていることが現段階で分かったことであるが、これら3つがどのように連関し合っているかということについては理解から程遠い。今の文献を読みなおしていくことで掘り返していきたい。
5 「根差す」を受けて「地域」とは
私は始め、地域があっての何かという捕らえ方をしていた。「根差す」といった場合、地域のどこに根差すのか、地域には何があるのかといったように。しかしこれは、全くの逆であると今は考える。人々がいるからこそ「地域」が出来るのではないか。つまり「地域」は地域ではない。
地域とはあくまで一般的には、土地の一区切りからなる場所と言える。しかし「根差す」ための地域とは人々からなるため、そこには多種多様な「地域」のあり方があるのではないか。人々は関わりあいを通して「コミュニティ」を作り、そこに自分たちの存在(=居場所?)を確認しあう。そしてそれが「地域」を形成していく。よって、そのような人々の動きや交わりによって「地域」が規定されていくということができ、またそこには前述した外部要因としての地域の固有性やその外側としての社会や経済といった影響も鑑みなければならない。
6 まとめ
現時点での私の考える射程は、人々が移り変わっていく中でどのように根差せるのかということである。「根差す」ためには他者との交わりが必要であり、つまりそれは「コミュニティ」のあり方であろう。(地元学においてもここを課題としていた。)その意味づけをこれからの課題としたい。
しかし、ここで宮台真司の指摘によって混乱してしまった。彼によると「ニュータウンの計画やまちづくりをめぐる議論や政策がたいていは地域と結びついたコミュニティの形成を志向してきたことを批判して、そうした思考には『人々は一般にローカリティを求めるはず』という単純な想定があるが、それは『大きな勘違い』であり、実際には多くの人はコンビニやファミレスなどの『匂いのない場所』を背景に『名前を欠いた存在』になりたいのだ」。(若林、p198)
私が冒頭に「居場所」が必要と述べたように、必要と感じていることの前提が崩れてしまった。このようなことは改めて言われてみると、同感できることもある気がする。ここから考え直さなければならない。
7 感想
これまで受けてきた地シスの授業を復習しているようだった。6であげた宮台の述べたことは没個性や個人の主体性というような個人の問題へ還元されていくというように感じた。
これをまとめる中で、今までになくいろんな考えが頭をよぎったけれど全く整理されていないので、たくさん質問頂けると幸いです。
主な参考文献
若林幹夫「郊外の社会学―現代を生きる形」ちくま新書2007
三浦展「ファスト風土化する日本 郊外化とその病理」洋泉社新書2004
三浦展「脱ファスト風土宣言」洋泉社新書2006