伝統と普遍性 ―「時間的普遍性」を手がかりに ―
2011/6/6 亀山研 個人発表
発表者:菊地明暢
発表者:菊地明暢
内山節がいうところの「時間的普遍性」という概念がある。この「時間的普遍性」とはどのようなもので、他の類似の概念とどの部分が共通していて、どのように違うのかを比較し、その意義を検討したい。さらに、「時間的普遍性」を考えるとき、「伝統」というものをどのように捉え、位置づけるべきなのかを考えたい。
一 「場所的普遍性」と「時間的普遍性」
1 「場所的普遍性」
内山節(1989)によれば、普遍性には「場所的普遍性」と「時間的普遍性」の二つの意味があるという。
「場所的普遍性」とは、“場所を超えて普遍的なもの”、“ある時点で、全地球的、全世界的に通用するもの”という意味での普遍性である。普段私たちが普遍性という言葉を使う場合、この「場所的普遍性」の意味で使っている。
「場所的普遍性」とは、“場所を超えて普遍的なもの”、“ある時点で、全地球的、全世界的に通用するもの”という意味での普遍性である。普段私たちが普遍性という言葉を使う場合、この「場所的普遍性」の意味で使っている。
近代の資本主義経済における産業構造は、この「場所的普遍性」の論理を体現しているという。たとえば工場の設備は、目的が同じであれば、世界中のどの地域に建設されたものであっても自然環境に関係なく同じものが作られる。自然を手段とみなす近代主義によって、むしろ自然環境の影響を極力排除することが望ましいとされる。
2 「時間的普遍性」
それに対して、“時間を超えて普遍的なもの”、“いつの時代でも通用するもの”という意味での普遍性を「時間的普遍性」とよぶ。近代においては、時間的には変化し発達していくことが正常である(いわゆる“発達史観”)という感覚が生まれ、この「時間的普遍性」は「場所的普遍性」に比べて重視されなくなってくるという。
近代以降生まれたもので唯一「時間的普遍性」を持つと考えられるのが自然科学であるが、自然科学においても新しい理論によって古い理論が更新されたりする場合も多い。そのため、[自然科学が発見した「真理」は、時間的普遍性をもっているとも言えるし、そのすべてがもっていたわけではない]とも言え、[むしろ「自然科学も発展している」というほうが、いまの私たちの感覚にはあう]。
また、労働には「時間普遍性」をもった労働とそうでない労働があるという。「時間普遍性」をもった労働というのは、一言で言えば、商品や貨幣の論理に縛られず使用価値を生み出すことのできる労働であり、自然と人間が交通の主体となる労働である。このような「自然と人間の関係」が「時間的普遍性」をもっている。
あるいは、宗教は「時間的普遍性」が中心にあって生まれている、という。内山が日本の自然信仰について言及している場面でその真意が汲めるだろう。(内山,2010)
日本にはもともと自然(ジネン)という考え方があったが、日本の自然信仰が仏教から権現思想を取り込んだとき、このジネンに[永遠の真理をみ]て、すべて自然(シゼン)はその権現だという思想に至ったという。さまざまな姿かたちをとって人々の前に現れる神仏も、その本体はすべてジネンであるという。
日本にはもともと自然(ジネン)という考え方があったが、日本の自然信仰が仏教から権現思想を取り込んだとき、このジネンに[永遠の真理をみ]て、すべて自然(シゼン)はその権現だという思想に至ったという。さまざまな姿かたちをとって人々の前に現れる神仏も、その本体はすべてジネンであるという。
3 「時間的普遍性」=「真理」?
以上のことから、内山のいう「時間的普遍性」をもつものとは詰まるところ、時代が変わっても変わることのない「真理」をもつものという意味なのではないか、と私は考える。内山は「普遍性」と「不変性」を一部区別していないようにみえるが、「時間的普遍性」が「真理」を示すと考えれば不自然ではない。「真理」は「普遍的」であり「不変的」であるから。
このように書くと途端に胡散臭くなるが、私自身そのような「真理」を求めることにあまり意味があるとは思えない。しかしなお、「時間的普遍性」という概念からは得るものがあるのではないかとも思う。内山の言う「真理」についてはひとまず置いておき、もう少し「時間的普遍性」について私なりに検討したい。
二 時間的普遍性と持続可能性
1 持続可能性Sustainabilityとの共通点
持続可能性とは、人間生活が将来にわたって持続できることを目標として、自然の保護・保全その他の人間活動を行おうという理念である。多くはSustainable Development(SD:持続可能な開発・発展)との関連で用いられる。SD概念は開発と自然保護を両立させるねらいを持ち、先進国と発展途上国、環境保護団体等の立場を調整するものとして注目されている。
持続可能性と時間的普遍性は、ふたつの点で共通している。第一に、どちらの概念も現在からみて“将来”を問題にしていることである。持続可能性概念は、(主に自然保護の場面において)“将来”を見据えて“現在”の状況を考えて対応を判断する。また時間的普遍性も、通時代的な普遍性を“現在の立場から”考え、“将来にわたって”普遍的なものを考える概念であるといえるだろう。これらはどちらも長期的な視野を持って現在のあり方を考えるための概念である。
第二に、二つの概念は共に全地球的・全世界的な“時間”について全世界的な視野をもって論じられ、ローカルで地域的な“時間”については(ほとんど)考慮していない点において共通している。それは言い換えれば、どちらもE.レルフ(1999)の言う「没場所性」を持っている、ということかもしれない。この点に関しては後述する。
第二に、二つの概念は共に全地球的・全世界的な“時間”について全世界的な視野をもって論じられ、ローカルで地域的な“時間”については(ほとんど)考慮していない点において共通している。それは言い換えれば、どちらもE.レルフ(1999)の言う「没場所性」を持っている、ということかもしれない。この点に関しては後述する。
2 持続可能性との比較から見える「時間的普遍性」概念の特徴
では持続可能性にはない時間的普遍性に特異な視点とは何であろうか。それはおそらく二点あり、ひとつは“発展史観への疑問提起”であり、次に“歴史性”の視点ではないかと思う。
前者は特にSD概念において顕著に見られるが、これは産業の発展はもとより、人間自身も常に“発展・向上”する(べき)ものとして前提されている。だが、社会も人間も、はたして常に“発展”しつづけることが正常なことだと言えるのだろうか。そもそも社会や人間にとって“発展”とは何を指すのか。これに対して、時間的普遍性という概念においては“発展”に特別価値を見出していない。
また後者について、これは偏見かもしれないが、持続可能性あるいはSDが語られるとき、多くは持続可能な土地利用や再生可能エネルギーについて論じられるが、そこに“歴史性”への配慮はあまり感じられない。
時間的普遍性が“いつの時代でも通用するもの”を考えるときには、過去から繋がってきた“歴史性”を持つものとしての“現在”、そこから連なる“未来”を想定しているように思う。この点に時間的普遍性の特徴があるのではないか。
そして、“歴史性”はおそらく「場所性」と密接に関連している。
前者は特にSD概念において顕著に見られるが、これは産業の発展はもとより、人間自身も常に“発展・向上”する(べき)ものとして前提されている。だが、社会も人間も、はたして常に“発展”しつづけることが正常なことだと言えるのだろうか。そもそも社会や人間にとって“発展”とは何を指すのか。これに対して、時間的普遍性という概念においては“発展”に特別価値を見出していない。
また後者について、これは偏見かもしれないが、持続可能性あるいはSDが語られるとき、多くは持続可能な土地利用や再生可能エネルギーについて論じられるが、そこに“歴史性”への配慮はあまり感じられない。
時間的普遍性が“いつの時代でも通用するもの”を考えるときには、過去から繋がってきた“歴史性”を持つものとしての“現在”、そこから連なる“未来”を想定しているように思う。この点に時間的普遍性の特徴があるのではないか。
そして、“歴史性”はおそらく「場所性」と密接に関連している。
三 「時間的普遍性」概念における「場所性」の欠如
1 「場所place」と「没場所性placelessness」
現象学において「場所place」は、抽象的・客観的なものとして科学的に記述される「空間space」と区別される。E.レルフ(1999)によれば、「場所」とは「生きられた空間(実存空間)」であるという。「場所」は[直接に経験された現象]で、[意味やリアルな物体や進行しつつある活動で満たされ]、個人的・社会的に共有された[アイデンティティの重要な源泉]、[人間存在の根源]である。「場所性」に溢れた空間としてはまず自分の「住まいHome」が挙げられる。「住まい」は、自分がそこで起こる様々なことを経験し、そこにある色々なものたちの意味を知っている、自分の「場所」・安心できる安全な拠点としての「場所」である。
それに対して、意味のある「場所」をなくした環境、あるいは「場所」の持つ意義を認めない潜在的姿勢のことを「没場所性placelessness」とよぶ。「没場所性」は、多国籍企業や場所にかかわることをしない政府の計画担当者がするように、場所が、[互換性があり相互に置換可能な位置1ocationとして扱われる]ときに顕著に現れる。あるいは、家が単に「住むための機械」と見做される場合や、観光の目的が、ガイドブックにある場所を周ってスタンプを集め写真をとることとされ、その場所に固有の意味や人々の生活を経験することが忘れられる場合などがそうである。
2 「場所的普遍性」と「没場所性」
内山が「場所性」をどの程度意識していたかは定かでないが、彼がはじめに「場所的普遍性」という語を定義する際、それを「空間的」というか「場所的」というか迷った、という。私としては、その意味からして「空間的」といったほうが分かりやすくそのニュアンスも伝わりやすかったのではないかと思う。しかし、内山が最終的に「場所的」を選んだ理由は特に述べられておらず、その真意は不明である。
それは兎も角として、内山の批判する「場所的普遍性」の論理とはすなわち「没場所性」なのではないかと思う。内山が「場所的普遍性」をもつ例としてあげる工場の設備の均質性とはまさに、場所を互換性があり相互に置換可能な位置として扱った結果である。
ならばそれに代わって回復すべき原理として挙げられる「時間的普遍性」においては「場所」の重要性が説かれて然るべきと思うのだが、内山はそのことを明確には全く述べていない。
ならばそれに代わって回復すべき原理として挙げられる「時間的普遍性」においては「場所」の重要性が説かれて然るべきと思うのだが、内山はそのことを明確には全く述べていない。
3 「場所性」をふまえた時間的普遍性
はじめに「時間的普遍性」とは何かを考えたとき、内山が念頭においているのはおそらく「真理」のようなものなのではないか、と述べた。「場所的普遍性」と対置して「時間的普遍性」をいうとき、前者の「没場所性」に対して後者では「場所」を中心に据えるのが自然だと思うが、内山はそのことをはっきり述べていない。そして自然科学の「真理」や宗教の「真理」が「時間的普遍性」をもつ、と述べるときには、そこには逆に「没場所性」が現れてきている、と思う。この意味で、内山の言う「時間的普遍性」は矛盾を抱えているのではないだろうか。
私自身は、時間的普遍性の内実として「真理」のようなものを想定するべきではなく、ある場所における、現在の人間間の共通了解としての概念であるべきではないかと思う。“ある場所である物事が時間的普遍性をもつ”とは以下のような意味であるべきだ。つまり、その物事がその場所での歴史的過程をふまえて現在において承認されており、将来にわたっても意義をもつことであると了解されている、ということである。
例えばある地域における伝統的な農業生産のあり方が時間的普遍性をもつ、というとき、その農業が歴史的に地域の風土や環境との関係の中で調整されてきたものであり、現在その地域で暮らす人々がそのあり方に意義を見出し、かつ将来にわたって続いていくことが望ましいと考えられている、ということが想定される。
例えばある地域における伝統的な農業生産のあり方が時間的普遍性をもつ、というとき、その農業が歴史的に地域の風土や環境との関係の中で調整されてきたものであり、現在その地域で暮らす人々がそのあり方に意義を見出し、かつ将来にわたって続いていくことが望ましいと考えられている、ということが想定される。
四 「伝統」と時間的普遍性
このとき、いわゆる「伝統」、あるいは「伝統的」であることとはどういうことかを考えると、時間的普遍性の意義がより明確にされるように思う。なぜなら前述のように、時間的普遍性概念の特徴として“歴史性”の視点があると考えられ、それはつまり「伝統」をどうみるか、ということでもあるからだ。
1 「伝統」とは何か
では「伝統」とは何か。まず、“日本の伝統”とは何かを考えてみる。差当り思い浮かぶのは、能や歌舞伎、寄席、雅楽、茶道、禅といったところだろうか。ほかにも稲作や、棚田などの土地の利用方法や、あるいは所謂“和”の精神や“わび・さび”なども「思想的伝統」といえる。これらは一般的に日本の「伝統」として広く認められていると思う。
だがこれら様々な「伝統」は一律に“日本の伝統”とされながら、その実それぞれに違った歴史的背景がある。例えば歌舞伎や寄席は江戸時代に主に町人の間で広まった娯楽であり、雅楽は天皇家の儀礼における神聖な音楽、茶道や禅は主に武士によって盛んに担われてきた。このように、それぞれは現在の日本国民全体にとって決して関わりの深いものとは言えないにも関わらず、それが“日本の伝統”として違和感なく受け入れられている、という事実にはどのような理由があるのだろう。
私は、ある事象が「伝統的」であるといわれるためには二つの了解が必要だと考える。それは一つに、“その事象が過去の一定の長い期間続いてきて、今も続いている”という了解である。そして次に、“その事象がその場所において他の場所には無い固有の意味を持つ”という了解である。この両方を満たすものが「伝統」であると言われるように思う。
例えば「マクドナルド」はある程度長い歴史を持つが、日本中、いや全世界中どこでも同じ店舗が展開され、ある場所での固有の意味を持たない。このことから「マクドナルド」は“日本の伝統”にはなりえない。あるいは禅が“日本の伝統”であるのは、それが長い歴史を持ち、かつ他の文化圏においては見られない日本に特異な思想体系だと認められているからである。
2 “伝統を守る”ことの意義
ここでひとつ確認しておきたいのは、以上の伝統の意味、“了解”という考え方からは、ただちに“伝統を守らなければいけない”という結論には至らないということである。一般的に伝統は何の迷いもなく守るべきものだとされる傾向があるように思われる。しかし先の二つの了解はあくまで了解(事実の認識)であり、それが良いとか悪いとかいっことは言っていない。よって“良い伝統”もあれば“悪しき伝統”もありうるのである。
では、伝統を守る動機、あるいは守るべき伝統とは一体何であろうか。それは、その伝統が、時間的普遍性を持っているということではないかと思う。つまり、現在なんらかの伝統がある地域で暮らす人々(伝統に関わっている人々)が、その伝統に現在における意義を見出し、かつ将来にわたって続いていくことが望ましいと考える場合に、「伝統」は守られるべきものとなる、といえるのではないか。
ある伝統を守るということは、その伝統をもつ「場所」に配慮することであり、将来の世代のためであり、なにより現在の人々にとってその伝統が意義をもつからであると考える。
ある伝統を守るということは、その伝統をもつ「場所」に配慮することであり、将来の世代のためであり、なにより現在の人々にとってその伝統が意義をもつからであると考える。
五 まとめ
内山の「時間的普遍性」という概念は、私にとって、“発展史観”への疑問の提起と、“歴史性”への視点を持ちうるという点で興味深いものだった。だが内山のいう「時間的普遍性」においては、「場所」への配慮が抜け落ちていたため、結果的に自身の批判する「場所的普遍性」の論理と同じ「没場所性」を孕むという矛盾に陥った。そこで私は、時間的普遍性を考えるならば「場所」への配慮は不可欠であることから、「場所性」を踏まえた時間的普遍性の概念の必要性を述べた。
そして一見何の疑問も持たず“守るべきもの”であるとされる伝統の意義を考え、守るべき伝統とは時間的普遍性を持つ伝統であるとした。
時間的普遍性の意義とは、守るべき伝統を見定めること、といえるのではないだろうか。
そして一見何の疑問も持たず“守るべきもの”であるとされる伝統の意義を考え、守るべき伝統とは時間的普遍性を持つ伝統であるとした。
時間的普遍性の意義とは、守るべき伝統を見定めること、といえるのではないだろうか。
○感想・論点
ある授業で紹介されてから気になっていた、内山の「時間的普遍性」という概念について、自分なりに色々と考えてみました。皆さんの忌憚ないご意見を頂ければ嬉しいです。
論点:
①本文では詳しく言うことのできなかった、発展史観の意義と問題点と、その克服のための思想について
②時間的普遍性について
③伝統の意義について
①本文では詳しく言うことのできなかった、発展史観の意義と問題点と、その克服のための思想について
②時間的普遍性について
③伝統の意義について
○参考文献
同『共同体の基礎理論 自然と人間の基層から』(農文協・シリーズ 地域の再生2 ,2010)
尾関周二・亀山純生・武田一博 編著『環境思想キーワード』(青木書店,2005)