注意:以降の記述には本編に登場していない設定が書かれている場合があります。
発端
すでに世間にデジカメが普及していた2006年(平成18年)春、当時フィルムカメラだけで活動していた大垣第二高校写真部が勧誘のポスターやチラシに「今年からデジカメもやります」と記載し、それを信じたデジカメ志望の1年生が多数入部した。しかし当時の部長はデジカメ導入に反対で、ポスターやチラシにデジカメについて書いたのは顧問と副部長が勝手にやったことだとして、1年生入部の日(二高では「部発会」という)にデジカメはやらないと宣言した。この時点で、1年生は大半がデジカメ派、2年生と3年生はフィルム派とデジカメ派が拮抗しているという状況だった。
激化する対立と生徒会の介入
内部対立の深刻化
なんとか平成18年度の写真部が発足したものの、その足並みは当初からバラバラだった。部長率いるフィルム派は、部活で使えるデジカメが無いことを理由にフィルムカメラでの活動を強制し、副部長率いるデジカメ派はこれに反発して部活に来なくなった。実際に活動する部員が2・3年生の半分だけとなった写真部はさびれ始めた。
やがて夏休みが近づくと、幽霊部員状態だったデジカメ派は手持ちのデジカメを持ち寄り、独自に活動を始めた。これにフィルム派は激しく反発し、二高祭(文化祭・体育大会の総称)では学校から「写真部員」に支給された撮影許可の腕章が、部長の独断によってデジカメ派に行き渡らないという事件も起こった。最終的に腕章は部顧問の指示でデジカメ派にも行き渡ったものの、この年の二高祭では撮影場所を巡ってフィルム派とデジカメ派で揉める場面が何度も見られ、写真部の分裂は校内の誰もが認めるところとなった。
生徒会の介入
事態を重く見た生徒会は、平成18年度後期体制が発足した直後、生徒会長が写真部への介入を執行部に提案した。その内容は、デジカメ派に同好会を立ち上げさせ、写真部から独立した活動をさせようというものであった。執行部は会長の提案に同意し、職員会議にこの案(生徒会内で「分割案」と呼ばれた)を発議。執行部全員で出席して内部対立の深刻さを説き、事態を打開するにはこれしかないと訴えた。その結果、職員会議は賛成多数で分割案を可決。同好会の設立が認められ、この年の12月、正式に「デジカメ同好会」が発足。デジカメ派はそこに移って活動を開始した。元々1年生は大半がデジカメ派であり、3年生も引退済みであったため、本家の写真部にはほぼ2年生しかいない状況となった。なおこの際、
情報屋を構成していた写真部メンバーもデジカメ同好会に移動したため、情報屋は写真部の内部組織からデジカメ同好会の内部組織に変わった。
その後
写真部とデジカメ同好会の合流
こうして独立したデジカメ同好会と、あくまで今まで通りフィルムでやっていく写真部の共存体制が始まったが、これも長くは続かなかった。次の平成19年度の1年生が部活に入る際、なんと写真部に入部する人間がいなかったのである。職員会議はこれを受け、翌年の状況次第で写真部とデジカメ同好会を合流させることを密かに決定(生徒たちには知らされなかった)。そして平成20年度、再び新1年生が写真部に入部しなかったため、職員会議で合流を正式決定。両派の3年生を説得し、後輩たちには各自好きな方をやらせるということで決着。デジカメ同好会の生徒が移籍して再び1つの「写真部」が発足した。
記念誌の記述と「お騒がせな写真部」
2009年に発行された二高40周年誌では、ウォーターボーイズ同好会については触れられているものの、同じ同好会組織であった「デジカメ同好会」については一切触れられていない。ただ「写真部」という部活が途切れることなく歴史を刻んでいるように書かれている。しかし実際の歴史を振り返ってみると、写真部は2003年から学校にとっては厄介な情報屋を抱えており、そして2006年にこの分裂沙汰を起こした。このように、近年の写真部グループはかなりのお騒がせ集団と言えるため、学校としてはこのようなゴタゴタなど無かったことにしてしまいたいという意向なのであろうと思われる。
関連項目
最終更新:2013年08月30日 18:45